先ほどツイッターのほうにも書いたのだが、オレは定期的に「ジャック・ヴァレ」を検索して何か情報がないか巡回することにしており、その結果、本日は刮目すべきサイトをふたつも発見した。

ひとつはSF評論家にしてUFO研究家でもあり、なおかつ「ヴァレを日本で最もよく知る男」でもある礒部剛喜さんが書評サイト「シミルボン」で連載している「UFO現象学への招待」の新しいエッセイで、今回登場したのはなんとヴァレの主著『見えない大学』である! 礒部さんがこれまでこのシミルボンで紹介されてこられたのはいずれも英語本で、英語力不如意の身としては全然読んだことがないものばっかりだったワケだが(その中にヴァレの刊行日記があったりするけど通読はしておらんのだ)、この『見えない大学』はオレも努力して何とか通読したヤツで、それだけにとても嬉しい(当ブログで取り上げたこともあるのだッと、ちょっと威張るw)。中身も素晴らしい! ぜひ皆さんも礒部さんが傾ける蘊蓄を楽しんでいただきたい。

もうひとつはフリーライター&書評家の朝宮運河さんのブログで、こちらでは小生も参加させていただいた超常・UFO同人誌「UFO手帖」創刊号の紹介をしておられる。こちらもやはりヴァレ愛(?)を感じさせる内容であり、「UFO手帖」の出来を褒めて頂いておる。小生が翻訳した私家版『マゴニアへのパスポート』の増刷をご所望のようでもあり、いつか何とかしたいなあと思わんでもないのだが、さて、その辺はどうなることやら。

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今晩は酒が入って若干高揚しておるので滅多に書かないブログに連投してしまうわけだが、小生がかねてから待望しておる奇現象研究家、チャールズ・フォートの「呪われしものの書」の邦訳を同様に熱望している方のブログを見つけたので、いささか嬉しくなり、ツイッターにも書いたのだけれども備忘録的にこちらにも記しておく次第。

無断リンクで悪りぃがこちらのサイトである。奇しくも小生が挑戦し挫折した冒頭部の翻訳に、こちらの方も挑んでおられて、苦心惨憺されておられる感じに共感してしまう。

小生は過去に受験英語に取り組んだ程度の経験しかない英語の素人であるが、そういう人間からすると、何か教科書的な文法ではワカラン省略やら飛躍やらがあって実に難しい。

この本についてはあの手だれのUFO研究家・南山宏さんが翻訳に取り組んでおられると仄聞するが、いまなお刊行に至らぬというのは、やはりこの詩的な文章に手こずられておられるのではないか、と勝手に想像する。が、しかし、もうこうなると南山さんに期待するしかないのである。

(いやホントは、英語のすげえ堪能なUFOないし超常現象ファンというのは相当数いるハズなので、いまここで幻の名著を完訳して自費出版でも何でもいいから世に送り出してくれたら後世に不世出の偉人として名前が残りますゼと声を大にして言いたいのだが、いかんせんこの人跡未踏のブログで言ってもそれは詮方無いことであろう・・・orz)

ともあれ、「我々はなにものかの所有物なのではないか」というあの名セリフ(改めてググって調べると原文は「I think we're property」というらしいですな)、ぜひ日本語で読んでみたいものである。死んでしまう前に。








 
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三島由紀夫の「美しい星」が映画になるのだという。

UFO冬の時代にどういう風の吹きまわしかとは思うが、まあちょっと楽しみではある。たまにのぞく本屋で文庫本が平積みになってたりするのも、なんとなく、嬉しい。

ちなみに、この作品に関して、三島が新聞に書いている文章をみつけたので、以下、最初のほうだけ引用してみる(ちなみに1964年である)。


 この小説を書く前、数年間、私は「空飛ぶ円盤」に熱中していた。北村小松氏と二人で、自宅の屋上で、夏の夜中、円盤観測を試みたことも一再にとどまらない。しかし、どんなに努力しても、円盤は現われない。少なくとも私の目には現われない。そこで私は、翻然悟るところがあり「空飛ぶ円盤」とは、一個の芸術上の観念にちがいないと信じるようになったのである。

 そう信じたときは、この主題は小説化されるべきものとして、私の目前にあった。小説の中で円盤を出現させるほかはなく、しかもそれは小説の末尾の末尾に、人間の絶望の果ての果てにあらわれなければならなかった。

 だから、これは、宇宙人と自分を信じた人間の物語りであって、人間の形をした宇宙人の物語りではないのである。



ふむ。言い回しはまどろっこしいけれども、つまり三島は、円盤というのはボルト&ナットの宇宙船なんかじゃあない、人間の何かのっぴきならない願いとか希求とかいうものと深く関連して現れるものである、と言うておるのだな。それゆえにこの小説は「人間の物語り」であって「宇宙人の物語り」ではありえない、のである。

よろしい。まさにそういうことだとオレも思っている。さすが三島、慧眼である。

がしかし、よく考えたら、オレはこの小説の内容をあらかた忘れているのだった。たしか宇宙人を自称するニイチャンに若い娘が騙され、その家族もまた騙され、なんか悲劇的な、哀しい目に遭う話だったような記憶だけがおぼろげにあるばかりだ。

ま、映画の前にもう一度読めということなのだろう。わかりましたとも。読んでおきましょう。






 
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宗教学者のジェフリー・クリパルが、その著書『Authors of the Impossible』で一章を割き、UFO研究家のジャック・ヴァレ論を展開していることは当ブログでも再三書いてきたところである。おおむね読み終わったのでボチボチ内容紹介でもしていこうかと思ってはいるのだが、しかし、ちょっと逡巡しちゃったりしてなかなか進まぬのである。

どういうことかというと、例えば、クリパルはヴァレを評するのに再三「gnostic」という言葉を使っているのだが、これがなかなか厄介だったりする。

この「グノスティック」というのは、一つにはキリスト教の異端の一つとしての「グノーシス派」を形容する言葉であったりするわけだが、一方ではもうちょっと広義の、グノーシス派的な思想・世界観を総称して「グノスティック」という言い方をすることもあるらしい。

さらにいえば、辞書なんかみると、さらにもうひとつ広い意味ということになるんだろうか、「霊的な知恵」とか「霊知」みたいな言葉が当てられていたりもする。この辺になってくると、必ずしも「グノーシス派の思想」とは言い難い「一般的な言葉」みたいなところまで降りてきてしまってるんではないか。知らんけど。

そもそもグノーシス派なんてものはよくわからんのである。というか、もともとキリスト教のオーソドクスさえわかっておらん。再三出てくる「Gnostic」というのはその場面場面でどういう含意で使われているのか、なんて考え出すと、もう迷路状態なのである。

ただまぁ、あんまりその辺にこだわらないでもいいのかもしらん、とも思ってはおるのだ。

クリパルがこの本でどんなことを言っているのかを思い切り簡単に言ってしまうと、そもそもヴァレは科学者なんだけれども、同時に神秘的なモノへの感受性・関心というのも併せ持っている人物であって、つまりそういう微妙な境界線上に位置しているというところに彼の真骨頂がある、というようなことを言っている。

UFOというのはレーダーと同時に目視されたり、あるいは着陸痕を残すなど、物理的現象としての側面があるわけだが、同時にいかにも奇っ怪で悪夢としか思えないような話も付き物である(アブダクションなどを想起されたい)。つまり物質世界のものなのか心霊的な存在なのかよくわからんようなところがある。そういうジャンルであるからこそ、彼のそういう立ち位置というのはスゲエ有効になってくるんじゃねえか、みたいなことをクリパルは言っているワケなのだ。

ただ、そういうサイキック方面への感受性が敏感だといっても、四角四面の教義でがんじがらめのカトリックなんかとはちょいと違う、彼の場合はもう少しプリミティブな霊的感性というかスピリティアリティへの志向があって、その辺を言葉で言い表すなら「グノスティック」がピッタリということになっているのです、ぐらいの理解でも悪かぁないとは思う。「グノスティック=霊知の」みたいなレベルの解釈で通していっても辻褄が合わんことはない。

そういえば、オレのモットーは「英語の本は8割方理解できればヨシとする」というものであった。いろいろ言い訳を書いた今回のエントリーであったが、余裕ができたらクリパルのヴァレ論についてはゼヒ書評(?)を書き残しておきたいものだと思っておる。









UFO研究者であるジャック・ヴァレの本を読んでいて知った人物の一人に、スペイン出身のサルバドール・フレイクセド(注*)という人物がいる。

以前のエントリーでも触れたけれども、彼は元イエズス会士である。その後、カトリックの体制批判などをしたためにバチカンを離れざるを得なくなり、独自の宗教研究に取り組んでいたところでUFOと超常現象のかかわりみたいなところに気づいてしまう。そのあたりの問題意識で通じているということもあってヴァレとの交友も生まれたようなのであるが、ともあれ、そんな路線で長年UFO研究に取り組んできたというユニークな人物である。生まれは1923年というから、もう90歳過ぎの大長老である。

ということでこの人にはちょっと興味を抱いているのだが、むろん日本語の本などは一切ない。ネットでググってみても日本語だと自分の書いたものしかヒットしない(笑)。スペイン語など当然読めない。しょうがないので英語の本でも読もうかと考えたのだが、どうやらずっとスペイン語で書いている人らしく、英訳されたのは1冊しかないようだ。
これである↓

 Visionaries, Mystics, and Contactees Paperback – April 1, 1992
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日本語にすると『幻視者・神秘家・コンタクティー』といったところか。

英語力不如意ではあるが、彼のことをもうすこし知るにはやむを得ない、これを読むしかない。というワケで先にこの本を買い求めた。今後、読書メモがわりにブログに随時記事を落としていこうという算段である。関心のある方は以後定期的にチェックされるがよかろう(そんな輩はいるのかw)。

で、まだ前書きしか読んでない(笑)のだが、前書きを書いているのはやはりUFO研究家で先に亡くなったジョン・A・キールである。冒頭、こんな事を言っている(以下、意訳が過ぎるかもしれぬがご容赦あれ)。

何の考えもなくただ部屋に入りこんできた人物――彼をそんな風に考えたとしたら大間違いだ。エネルギーに満ち溢れ、様々なアイデアをほとばしらせる彼は、その場で自らの考えを炸裂させる。そこには変化をもたらそうという強い思いがある。ほとんどの人間であれば落ち着いた隠居生活を考えるような年齢でありながら、友人たちからサルバドール・フレイチャドと呼ばれているこの神父は、世界じゅうを駆け回り、講演を重ね、新たなる素材を集め、執筆をし、そして新たなる地平を切り拓き続けている。

すっげえバイタリティのある人、ということらしい。で、キールは、UFO現象というのは「人間の側にいかなるものとして立ち現れたか」というのが重要なポイントであり、つまりは客観的な科学的分析の対象というよりは主観的な或る種の宗教体験と重なるところがあるんで、宗教を熟知したこの元イエズス会士の言うことには一目置かざるを得ない、というような主張をしておる。

で、実に興味深いのだが、キールは次のような事も言っている。

この神父はUFOの世界にあって余人をもって代え難い人物である。彼は思想家である。ほとんどのUFO本はポルノグラフィーの如きものである。それは、読者の手を取り、非常に低次元な低劣な情動のレベルへと連れこむことで読む者を興奮させようとする。

総じてみれば、UFO本を読む人間というのは、「陰謀論だとか政府による抑圧といったお話を読んだ末にカッとなって怒りがこみあげる」といった刺激的体験をすることを求めているのだ。結果として、このテーマを取り扱う際には知能指数など不要だということになる。ただ「疑う」姿勢を捨て去ること、ナイーブな騙されやすささえあれば良いのだ。

かくて、映画の中のジェームズ・ボンドのおよそありえないおふざけシーンの如く、墜落した円盤の話が盲目的に受け入れられてしまう。神父はこの種のポルノを提供しているわけではない。彼はあなた方の考えるための器官=頭脳がちゃんと働くよう、頭を揺り動かしてくれるのだ。

うーむ、キールの啖呵はなかなか格好いいぜ。フレイクセドは「ポルノじゃない」んだぞ。が、しかし、これを読むと、フレイクセドはこの本で聖書の話とかマジで展開しやがるんではないかというイヤな予感がする。何せキリスト教に縁のない東洋人にとってみれば聖書は鬼門である。筒井康隆の「バブリング創世記」で茶化されたみたいに(とりわけ旧約)聖書の記述はやたらと冗長でフツーの日本人の神経では読み通せるものではない。

そういや、こないだの大統領就任式で、トランプは旧約聖書詩編133から「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」というくだりを引用したらしいが、確か主要新聞では朝日だけが「これは引用である」ということをちゃんと書いたのに対し、他の新聞はこれが聖書の言葉だとわかんなかったようである(たしか池上彰がどっかに書いていた)。当然オレも全然わからん。つまり、それほど日本人にとって聖書の世界は縁遠いのである。

ということで、前途多難ではあるけれども、これからヒマがあればこの本を読んで、読書メモ的なエントリーを書いていきたいと思う所存。171頁の薄い本ではあるが、何年かかることやら(笑)。

注*:なお、この人の名前の読み方はいぜんとしてナゾである。
キールはこの前書きで、「pronounced fray-cha-do」と読み方を明示しており、つまり「フレイチャド」だと言っておるんだが、Youtubeとかでわからんながらもスペイン語の番組などを聴いていると「フレイクセド」と発音されているようにも思える。よくわからんので、とりあえずフレイクセドとしておくけども。











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念頭の抱負代わりに中野重治の詩を掲げておこうか。
「わたしは嘆かずにはいられない」という作品だ。

  わたしは嘆かずにはいられない 

 しかしわたしは嘆かずにはいられない
 人がわたしを指してヒネクレモノといおうとも
 そしてそうではないと弁解したくならずにはいられない
 人が貴公子でありせめてもの慰めであるとするもの
 それが長袖にばけたサーベルである事実をわたしは人びとに隠せない
 わたしはただ訊ねる 彼の商売は何なのかと
 また鎌足以来一千年 彼の一家は何をして飯を食つてきたのかと
 ここに国があり 司法があり
 それが拷問をもつて人民に臨んでいるならば
 わたしは思惟の必然と学問上の仮定とに立つていう
 もしも人民が司法を逮捕して
 彼の耳もとで拷問のゴの字を鳴らすならば
 彼は涎をたらしてあることないこと申しLげるにちがわぬと
 みずから愛するものは愛をいつわるものを憎む
 うそつきを憎むのは正直であるものではないか
 しかし犬のしつぽのような人びとがあつてわたしをヒネクレという
 わたしは嘆いていう あれらはしつぽであると
 そしてわたしはいう ごみ箱のかげから往来へ出てこいと
 しかし彼らはいう おれは独立に振るのだと
 そしてそれらすべてがわたしを嘆かせる

 わたしは嘆きたくはない わたしは告発のために生まれたのでもない
 しかし行く手がすべて嘆きの種であるかぎり
 わたしは嘆かずにはいられない 告発せずにもいられない
 よしやヒネクレモノとなるまでも
 しかしわたしはいう わたしは決してヒネクレではないと
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あんまり放置しているのも何なので、むかし「mixiレビュー」に書いた感想文を転載しておこう。よいお年を。



著書自身も語っているように、この本が俎上に上げているのは決して「UFOの正体とは何か」といった問題ではありません。UFOという現象の「語られ方」が時代とともにどのように変わってきたかを論じ、いわばUFOを鏡としてワレワレのモノの考え方、時代思潮がどう変わってきたのかを考えようという本です。まぁ言ってみればUFO現象をサカナにした社会・文明評論といったものなのですが、しかしなかなかユニークな本ではあります。

非常に強引に要約してみましょう。ケネス・アーノルド事件から1970年代はじめにかけてのUFOシーンというのは、「進んだテクノロジー」をもつ「宇宙人」が宇宙船に乗ってやってきているのではないか的な発想を総じて持っていた、と。「科学の進歩」が素直に信じられていた時代であり、「進んだ宇宙人」と「遅れた地球文明」の対比で奴等をイメージしていたというんですな。つまり進歩を信じられた近代主義の時代特有の「円盤」観であった、というのですな。もうひとついうと、古くはこの近代主義にみられる「何か確固としたよりどころがある」とゆー世界観を支えたのは「宗教」だったりしたわけだけど、それがこの時代には「科学」になっていたからこそ、高度に発達した文明の象徴としての円盤にみなナットクしたという話ですね。

それが73年ぐらい頃から、思想界におけるポストモダンの進行と相まって、ワレワレの周りでも「何か確固とした準拠枠みたいなもの」が崩れ始めた。大文字の「真実」なんてものはない、というわけで、そこから出てきたのがUFOシーンにおける陰謀説であったりする。アブダクションケースやらキャトルミューティレーションやら何か恐ろしげな企みに関係するものとしてUFO問題が語られるようになる。

著者は95年ぐらいからさらに事態は進展している、というのですが、そこから先に書いてあることは実はよくわかりませんでした。またじっくり再読してみたいのですが、とりあえずの印象でいえば、もはやこのポストモダン的な状況は変わることはなく、もはやUFOシーンにかかわる大きなテーゼなど成り立ちようもない、断片的な情報が浮遊するばかりの状況が続くのであろうというような事を言ってるように思われます。

著者はJ・G・バラードあたりを専門とする文学研究者のようですが、ともあれ変わり種のUFO本として(しかもメジャーな出版社から新書で出た、ということも含めて)一読に足る本とはいえそうです。



【2016/12/30時点の追記】
なお、アマゾンのレビューをザッと見てみたんだが、けっこう辛い点がついている。「方法論的に極めて粗雑かつナイーヴで、恣意的な素材に基づいて尤もらしい与太話を飛ばしている」みたいな評もあって、つまり「これは学者の書く評論じゃないだろう」という批判なのだろう。学術的じゃない、というか。
ただどうなんだろう、これは学術論文ではなくて、エッセイ寄りの評論みたいなもんじゃないのかな。「ナッツ&ボルトの宇宙船って流行らなくなったよねー、これって何か時代とリンクしてる感じあるよねー」という本なので、別に「検証」を期待しちゃったりするのは違うと思う。



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去る11月23日、「文学フリマ東京」に参加したUFO同人誌界の雄「Spファイル友の会」のご厚意でブースに私家版『マゴニアへのパスポート』を置かせて頂けることになり、慌てて作った第2版を持ち込みました。

実費相当とはいいながら価格的にはちと高いこともあり、どうかと思っていたのですが、意外なことに今回持ち込んだ分はおかげさまで完売ということに相成りました。「友の会」の今回の新刊であるところの「UFO手帖」創刊号ともどもお買上げ頂いた方には深く御礼を申し上げます。

*ちなみに「UFO手帖」創刊号ではジャック・ヴァレ特集をしている関係もあり、小生も寄稿をしております。とても良い本なので未入手のUFOファンの皆様におかれましては通販が始まったら是非ご購入されんことをオススメいたします。

さて、この『マゴニアへのパスポート』第2版ですが、追加で若干部刷ってみました。こちらのほうにメールフォームを置いておきますので、購入ご希望の方はご覧ください。仕様はA5判・398ページ。初版に散見された誤植を訂正した上で末尾に訳者あとがきをつけ、表紙の装丁を若干変えました。

売り切れの場合はご容赦ください。

【追記】
ただいま12月5日午後10時ですが、おかげさまで完売いたしました。購入頂いた方々には大変ありがとうございました。

以下、ツイッターで書いたものの(ほぼ)再掲。
高橋昌一郎「反オカルト論」読了。

ハイズビル事件の立役者で、近代スピリチュアリズムの「創始者」ともされるマーガレット・フォックスが、婚約までした冒険家・医師のエリシャ・ケインから「降霊詐欺は辞めろ」と再三手紙を受け取っていたこと、そのやりとりを彼が早世した後「ケイン博士の愛の人生 The Love-Life of Dr. Kane」なる本で公開していたこと等々、知らん話が色々出てきて勉強になる。

彼女が1888年、新聞でトリックを告白したというのはよく聞く話だが、同年、ルーベン・ダベンポートがスピリチュアリズムを徹底批判する「デス・ブロウ・トゥ・スピリチュアリズム The Death-Blow to Spiritualism」なる本を出した際、全面協力していたという話も出てくる。これも知らなんだ。

STAP問題が出てくるなど「反オカルト論」というより「反科学論」ではないかと思わんこともないが、ササッと読めて面白い。なお、大川隆法によれば麻生太郎は「真田正幸」の生まれ変わりである(133p)というくだりがあるが、これは「昌幸」であろう。増刷時には修正されんことを。
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