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いま乗っているクルマはゴルフ6である。

その前はレガシィワゴン3代目に乗っていて、買い替えにあたってはスバルも検討した。が、当時のインプレッサはいささか質感的にプアであり、かといって代替わりした当代のレガシィワゴンはでっぷりと肥大化していかにも鈍重であった。やむなくソコソコの質感を感じさせるコンパクトめのクルマとして、「一生に一度は外車に乗ってみるか」的なノリもあってゴルフに走ったという次第である。

とはいうものの、アイサイトをはじめとする独自の技術で売る富士重工にはヤッパどっか惹かれるものがある。いつだったか株を買ってしまい、ひそかに応援をしているところであった。と、そんなところへ株主を対象とした工場見学会のお知らせというのがあり、応募したところ、うまいこと当選した。で、この3月20日に群馬の太田市まで行ってきた。

社内でも滅多に見られないという衝突実験をみせてもらい(発売前のXVを一台オシャカにしていただき、まるで客人を迎えるにあたってヒツジを一頭バラすという遊牧民の如き気前の良さであるワイと思った)、弁当をいただき、製造ラインの見学をして無事終了。とりわけ、華麗な舞を見せるが如き溶接ロボットの動きには、こういう工場に来たことがなかったこともあり、なんか感動を誘うものがあった(なお、見学中は企業秘密の問題もあるようで写真撮影は禁止である。よって、気の利いた写真は撮れなかったという次第)。

最後は役員さんとの質疑応答なんかもあったけれども、「スバルのデザインださいんですけど」「納期おそすぎなんですけど」みたいな容赦の無いツッコミにも冷静に対応する偉い方たちのたたずまいは、なかなかにステキであった。

あと、いろいろ興味深い質問も出ておったが、「ダウンサイジングターボの計画あるみたいだけど?」みたいな問いは「いまちょっとここでは話せません・・・」みたいにかわすし、「トランプ政権になったけど大丈夫?」という声には「場合によっては米国工場での生産を増やす手もあるし、ともかくどんな環境になっても頑張りまス」的なリアクション。流石にソツがありません(笑)。

で、一瞬オレも発言しようかなーと思ったけれども、あまりにくだらない話であり、かつちょっとシャイなのでやめてしまった「お願い」というのがあって、今更こんなブログに書いても何の意味もないことではあるのだけれど、せっかくなのでチラ裏的にココにメモしておくことにした。

というのは、次のクルマを買う時には、新しくなってずいぶん評判の良くなったインプレッサあたりを有力候補にしたいなーと思っているのだが、ここで問題になるのが「試乗」というヤツである。

いちおうディーラーに行くと試乗はさせてくれる。が、結局、そのあたりを10分か20分ぐらい回ってくるのが関の山で、セールスマンも同乗してるとなると、ちょっと乱暴な「試験」みたいなこともやりにくい。好き勝手に半日ぐらいブラブラ走ってきたいものであるが、なかなかそうはいかない。

で、「だったらレンタカーでも借りて、しばらく走り回ってみりゃあいいんじゃねーか」と考える。これなら変な気兼ねもしなくていい。我ながらいいアイデアだと思うのだが、しかし、いろいろ調べてみると、車種指定でクルマを貸してくれるレンタカー屋ってのは、意外にないようなのだった。

ニッポンレンタカーのサイトなんかみると車種指定の予約フォーマットなんかも一部用意されとるんだが、オレの地元の店で予約を入れようとすると「その車種は申し訳ありませんが扱ってません」とかいって拒否されてしまう。なかなかうまくいかないのである。

ならば、こういう客のために、ディーラーさんが一種のレンタカー事業をやってくれればいいと思うのだが、どうか。12時間1万円とか適当な価格をつけてクルマを試乗させるというのはダメか。それだったら仮に気に入らなくても後腐れなしというわけで精神衛生上もよろしい。業界的にはいろいろと問題があるのかもしれんが、検討してくれないかなあ、特にスバル。







 
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そろそろ定年が見えてきたこともあり、死ぬ前にやっておくべきことをちゃんと考え始めないといけないのである。ま、どうせ大したことはできないのだが、本ブログのメインコンテンツである趣味のUFO(笑)関係でいうとひとつ懸案があるので、半ばチラ裏的ブログであるココに、忘れないように書いておく。

趣味で翻訳したジャック・ヴァレの『マゴニアへのパスポート』を、いわゆる「翻訳権の10年留保」によって印刷・頒布した件は当ブログでも過去に記してきたところである。

が、同様にして、全然邦訳がされないのに業を煮やして勝手に翻訳したヴァレのテキストというのはまだまだ手元にあって、具体的にいえばそれは『見えない大学 The Invisible College』『ディメンションズ Dimensions』『コンフロンテーションズ Confrontations』『欺瞞の使者 Messengers of Deception』といったあたりである(ついでに言っとくと、英文をスラスラ読んでその場で理解する能力がないので、やむなくこれらの本も杉田玄白よろしく手探りで訳読してきたのであって、翻訳テキストというのはその副産物である)。

ただそれらはいずれも原著が1970年以後に刊行されたものなので「翻訳権の10年留保」の対象にならず、つまり、勝手に翻訳・公開することはできない。ヴァレが死んで50年だったか経過したら著作権も消失して勝手に本にすることができるようになるわけだが、当然その頃にはオレも死んでいるのだった。

しかし、である。よくよく考えてみれば、私的に翻訳したテキストをノートに書き出したりプリントしたりしている限りでは原著作権者の権利を侵害していることにはなるはずもない。ということは、こういうヴァレのテキストなども、1冊だけ印刷業者さんに刷ってもらって自分の手元に置いておく限りでは何のお咎めもないだろう。

というワケで、こういうテキストを「世界に一冊だけの本」として印刷してもらう。「何の意味があるのか」と言われたら、たぶん何の意味もない。一人で眺めて、読み返して、ニヤニヤして自己満足するだけのことであろう。ただ、よくよく考えると、人間が生きている意味なんてものも、実はあるのかないのかよくわからんし、結局人生は自己満足できりゃあいいのだと考えれば、そういう無駄なプロジェクト(笑)を楽しむというのもアリではないか。

手元にあるテキストはかなり粗っぽいものなので、本の体裁にするんだったらちゃんと翻訳を見直したりしないとならずそれなりの手間にはなるけれども、その辺も含めて老後の楽しみとするテはあるぞと考える今日このごろ。

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ヴァレの本。ちなみにうしろに見える『リヴェレーションズ Revelations』という本はいちおう『人はなぜエイリアン神話を求めるのか』というクソダっサい書名で邦訳されてるので、翻訳で省かれた部分だけしか訳してはいない。なので「世界に1冊だけの本」プロジェクトの対象外となる)







先ほどツイッターのほうにも書いたのだが、オレは定期的に「ジャック・ヴァレ」を検索して何か情報がないか巡回することにしており、その結果、本日は刮目すべきサイトをふたつも発見した。

ひとつはSF評論家にしてUFO研究家でもあり、なおかつ「ヴァレを日本で最もよく知る男」でもある礒部剛喜さんが書評サイト「シミルボン」で連載している「UFO現象学への招待」の新しいエッセイで、今回登場したのはなんとヴァレの主著『見えない大学』である! 礒部さんがこれまでこのシミルボンで紹介されてこられたのはいずれも英語本で、英語力不如意の身としては全然読んだことがないものばっかりだったワケだが(その中にヴァレの刊行日記があったりするけど通読はしておらんのだ)、この『見えない大学』はオレも努力して何とか通読したヤツで、それだけにとても嬉しい(当ブログで取り上げたこともあるのだッと、ちょっと威張るw)。中身も素晴らしい! ぜひ皆さんも礒部さんが傾ける蘊蓄を楽しんでいただきたい。

もうひとつはフリーライター&書評家の朝宮運河さんのブログで、こちらでは小生も参加させていただいた超常・UFO同人誌「UFO手帖」創刊号の紹介をしておられる。こちらもやはりヴァレ愛(?)を感じさせる内容であり、「UFO手帖」の出来を褒めて頂いておる。小生が翻訳した私家版『マゴニアへのパスポート』の増刷をご所望のようでもあり、いつか何とかしたいなあと思わんでもないのだが、さて、その辺はどうなることやら。

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今晩は酒が入って若干高揚しておるので滅多に書かないブログに連投してしまうわけだが、小生がかねてから待望しておる奇現象研究家、チャールズ・フォートの「呪われしものの書」の邦訳を同様に熱望している方のブログを見つけたので、いささか嬉しくなり、ツイッターにも書いたのだけれども備忘録的にこちらにも記しておく次第。

無断リンクで悪りぃがこちらのサイトである。奇しくも小生が挑戦し挫折した冒頭部の翻訳に、こちらの方も挑んでおられて、苦心惨憺されておられる感じに共感してしまう。

小生は過去に受験英語に取り組んだ程度の経験しかない英語の素人であるが、そういう人間からすると、何か教科書的な文法ではワカラン省略やら飛躍やらがあって実に難しい。

この本についてはあの手だれのUFO研究家・南山宏さんが翻訳に取り組んでおられると仄聞するが、いまなお刊行に至らぬというのは、やはりこの詩的な文章に手こずられておられるのではないか、と勝手に想像する。が、しかし、もうこうなると南山さんに期待するしかないのである。

(いやホントは、英語のすげえ堪能なUFOないし超常現象ファンというのは相当数いるハズなので、いまここで幻の名著を完訳して自費出版でも何でもいいから世に送り出してくれたら後世に不世出の偉人として名前が残りますゼと声を大にして言いたいのだが、いかんせんこの人跡未踏のブログで言ってもそれは詮方無いことであろう・・・orz)

ともあれ、「我々はなにものかの所有物なのではないか」というあの名セリフ(改めてググって調べると原文は「I think we're property」というらしいですな)、ぜひ日本語で読んでみたいものである。死んでしまう前に。








 
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三島由紀夫の「美しい星」が映画になるのだという。

UFO冬の時代にどういう風の吹きまわしかとは思うが、まあちょっと楽しみではある。たまにのぞく本屋で文庫本が平積みになってたりするのも、なんとなく、嬉しい。

ちなみに、この作品に関して、三島が新聞に書いている文章をみつけたので、以下、最初のほうだけ引用してみる(ちなみに1964年である)。


 この小説を書く前、数年間、私は「空飛ぶ円盤」に熱中していた。北村小松氏と二人で、自宅の屋上で、夏の夜中、円盤観測を試みたことも一再にとどまらない。しかし、どんなに努力しても、円盤は現われない。少なくとも私の目には現われない。そこで私は、翻然悟るところがあり「空飛ぶ円盤」とは、一個の芸術上の観念にちがいないと信じるようになったのである。

 そう信じたときは、この主題は小説化されるべきものとして、私の目前にあった。小説の中で円盤を出現させるほかはなく、しかもそれは小説の末尾の末尾に、人間の絶望の果ての果てにあらわれなければならなかった。

 だから、これは、宇宙人と自分を信じた人間の物語りであって、人間の形をした宇宙人の物語りではないのである。



ふむ。言い回しはまどろっこしいけれども、つまり三島は、円盤というのはボルト&ナットの宇宙船なんかじゃあない、人間の何かのっぴきならない願いとか希求とかいうものと深く関連して現れるものである、と言うておるのだな。それゆえにこの小説は「人間の物語り」であって「宇宙人の物語り」ではありえない、のである。

よろしい。まさにそういうことだとオレも思っている。さすが三島、慧眼である。

がしかし、よく考えたら、オレはこの小説の内容をあらかた忘れているのだった。たしか宇宙人を自称するニイチャンに若い娘が騙され、その家族もまた騙され、なんか悲劇的な、哀しい目に遭う話だったような記憶だけがおぼろげにあるばかりだ。

ま、映画の前にもう一度読めということなのだろう。わかりましたとも。読んでおきましょう。






 
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宗教学者のジェフリー・クリパルが、その著書『Authors of the Impossible』で一章を割き、UFO研究家のジャック・ヴァレ論を展開していることは当ブログでも再三書いてきたところである。おおむね読み終わったのでボチボチ内容紹介でもしていこうかと思ってはいるのだが、しかし、ちょっと逡巡しちゃったりしてなかなか進まぬのである。

どういうことかというと、例えば、クリパルはヴァレを評するのに再三「gnostic」という言葉を使っているのだが、これがなかなか厄介だったりする。

この「グノスティック」というのは、一つにはキリスト教の異端の一つとしての「グノーシス派」を形容する言葉であったりするわけだが、一方ではもうちょっと広義の、グノーシス派的な思想・世界観を総称して「グノスティック」という言い方をすることもあるらしい。

さらにいえば、辞書なんかみると、さらにもうひとつ広い意味ということになるんだろうか、「霊的な知恵」とか「霊知」みたいな言葉が当てられていたりもする。この辺になってくると、必ずしも「グノーシス派の思想」とは言い難い「一般的な言葉」みたいなところまで降りてきてしまってるんではないか。知らんけど。

そもそもグノーシス派なんてものはよくわからんのである。というか、もともとキリスト教のオーソドクスさえわかっておらん。再三出てくる「Gnostic」というのはその場面場面でどういう含意で使われているのか、なんて考え出すと、もう迷路状態なのである。

ただまぁ、あんまりその辺にこだわらないでもいいのかもしらん、とも思ってはおるのだ。

クリパルがこの本でどんなことを言っているのかを思い切り簡単に言ってしまうと、そもそもヴァレは科学者なんだけれども、同時に神秘的なモノへの感受性・関心というのも併せ持っている人物であって、つまりそういう微妙な境界線上に位置しているというところに彼の真骨頂がある、というようなことを言っている。

UFOというのはレーダーと同時に目視されたり、あるいは着陸痕を残すなど、物理的現象としての側面があるわけだが、同時にいかにも奇っ怪で悪夢としか思えないような話も付き物である(アブダクションなどを想起されたい)。つまり物質世界のものなのか心霊的な存在なのかよくわからんようなところがある。そういうジャンルであるからこそ、彼のそういう立ち位置というのはスゲエ有効になってくるんじゃねえか、みたいなことをクリパルは言っているワケなのだ。

ただ、そういうサイキック方面への感受性が敏感だといっても、四角四面の教義でがんじがらめのカトリックなんかとはちょいと違う、彼の場合はもう少しプリミティブな霊的感性というかスピリティアリティへの志向があって、その辺を言葉で言い表すなら「グノスティック」がピッタリということになっているのです、ぐらいの理解でも悪かぁないとは思う。「グノスティック=霊知の」みたいなレベルの解釈で通していっても辻褄が合わんことはない。

そういえば、オレのモットーは「英語の本は8割方理解できればヨシとする」というものであった。いろいろ言い訳を書いた今回のエントリーであったが、余裕ができたらクリパルのヴァレ論についてはゼヒ書評(?)を書き残しておきたいものだと思っておる。









UFO研究者であるジャック・ヴァレの本を読んでいて知った人物の一人に、スペイン出身のサルバドール・フレイクセド(注*)という人物がいる。

以前のエントリーでも触れたけれども、彼は元イエズス会士である。その後、カトリックの体制批判などをしたためにバチカンを離れざるを得なくなり、独自の宗教研究に取り組んでいたところでUFOと超常現象のかかわりみたいなところに気づいてしまう。そのあたりの問題意識で通じているということもあってヴァレとの交友も生まれたようなのであるが、ともあれ、そんな路線で長年UFO研究に取り組んできたというユニークな人物である。生まれは1923年というから、もう90歳過ぎの大長老である。

ということでこの人にはちょっと興味を抱いているのだが、むろん日本語の本などは一切ない。ネットでググってみても日本語だと自分の書いたものしかヒットしない(笑)。スペイン語など当然読めない。しょうがないので英語の本でも読もうかと考えたのだが、どうやらずっとスペイン語で書いている人らしく、英訳されたのは1冊しかないようだ。
これである↓

 Visionaries, Mystics, and Contactees Paperback – April 1, 1992
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日本語にすると『幻視者・神秘家・コンタクティー』といったところか。

英語力不如意ではあるが、彼のことをもうすこし知るにはやむを得ない、これを読むしかない。というワケで先にこの本を買い求めた。今後、読書メモがわりにブログに随時記事を落としていこうという算段である。関心のある方は以後定期的にチェックされるがよかろう(そんな輩はいるのかw)。

で、まだ前書きしか読んでない(笑)のだが、前書きを書いているのはやはりUFO研究家で先に亡くなったジョン・A・キールである。冒頭、こんな事を言っている(以下、意訳が過ぎるかもしれぬがご容赦あれ)。

何の考えもなくただ部屋に入りこんできた人物――彼をそんな風に考えたとしたら大間違いだ。エネルギーに満ち溢れ、様々なアイデアをほとばしらせる彼は、その場で自らの考えを炸裂させる。そこには変化をもたらそうという強い思いがある。ほとんどの人間であれば落ち着いた隠居生活を考えるような年齢でありながら、友人たちからサルバドール・フレイチャドと呼ばれているこの神父は、世界じゅうを駆け回り、講演を重ね、新たなる素材を集め、執筆をし、そして新たなる地平を切り拓き続けている。

すっげえバイタリティのある人、ということらしい。で、キールは、UFO現象というのは「人間の側にいかなるものとして立ち現れたか」というのが重要なポイントであり、つまりは客観的な科学的分析の対象というよりは主観的な或る種の宗教体験と重なるところがあるんで、宗教を熟知したこの元イエズス会士の言うことには一目置かざるを得ない、というような主張をしておる。

で、実に興味深いのだが、キールは次のような事も言っている。

この神父はUFOの世界にあって余人をもって代え難い人物である。彼は思想家である。ほとんどのUFO本はポルノグラフィーの如きものである。それは、読者の手を取り、非常に低次元な低劣な情動のレベルへと連れこむことで読む者を興奮させようとする。

総じてみれば、UFO本を読む人間というのは、「陰謀論だとか政府による抑圧といったお話を読んだ末にカッとなって怒りがこみあげる」といった刺激的体験をすることを求めているのだ。結果として、このテーマを取り扱う際には知能指数など不要だということになる。ただ「疑う」姿勢を捨て去ること、ナイーブな騙されやすささえあれば良いのだ。

かくて、映画の中のジェームズ・ボンドのおよそありえないおふざけシーンの如く、墜落した円盤の話が盲目的に受け入れられてしまう。神父はこの種のポルノを提供しているわけではない。彼はあなた方の考えるための器官=頭脳がちゃんと働くよう、頭を揺り動かしてくれるのだ。

うーむ、キールの啖呵はなかなか格好いいぜ。フレイクセドは「ポルノじゃない」んだぞ。が、しかし、これを読むと、フレイクセドはこの本で聖書の話とかマジで展開しやがるんではないかというイヤな予感がする。何せキリスト教に縁のない東洋人にとってみれば聖書は鬼門である。筒井康隆の「バブリング創世記」で茶化されたみたいに(とりわけ旧約)聖書の記述はやたらと冗長でフツーの日本人の神経では読み通せるものではない。

そういや、こないだの大統領就任式で、トランプは旧約聖書詩編133から「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」というくだりを引用したらしいが、確か主要新聞では朝日だけが「これは引用である」ということをちゃんと書いたのに対し、他の新聞はこれが聖書の言葉だとわかんなかったようである(たしか池上彰がどっかに書いていた)。当然オレも全然わからん。つまり、それほど日本人にとって聖書の世界は縁遠いのである。

ということで、前途多難ではあるけれども、これからヒマがあればこの本を読んで、読書メモ的なエントリーを書いていきたいと思う所存。171頁の薄い本ではあるが、何年かかることやら(笑)。

注*:なお、この人の名前の読み方はいぜんとしてナゾである。
キールはこの前書きで、「pronounced fray-cha-do」と読み方を明示しており、つまり「フレイチャド」だと言っておるんだが、Youtubeとかでわからんながらもスペイン語の番組などを聴いていると「フレイクセド」と発音されているようにも思える。よくわからんので、とりあえずフレイクセドとしておくけども。











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念頭の抱負代わりに中野重治の詩を掲げておこうか。
「わたしは嘆かずにはいられない」という作品だ。

  わたしは嘆かずにはいられない 

 しかしわたしは嘆かずにはいられない
 人がわたしを指してヒネクレモノといおうとも
 そしてそうではないと弁解したくならずにはいられない
 人が貴公子でありせめてもの慰めであるとするもの
 それが長袖にばけたサーベルである事実をわたしは人びとに隠せない
 わたしはただ訊ねる 彼の商売は何なのかと
 また鎌足以来一千年 彼の一家は何をして飯を食つてきたのかと
 ここに国があり 司法があり
 それが拷問をもつて人民に臨んでいるならば
 わたしは思惟の必然と学問上の仮定とに立つていう
 もしも人民が司法を逮捕して
 彼の耳もとで拷問のゴの字を鳴らすならば
 彼は涎をたらしてあることないこと申しLげるにちがわぬと
 みずから愛するものは愛をいつわるものを憎む
 うそつきを憎むのは正直であるものではないか
 しかし犬のしつぽのような人びとがあつてわたしをヒネクレという
 わたしは嘆いていう あれらはしつぽであると
 そしてわたしはいう ごみ箱のかげから往来へ出てこいと
 しかし彼らはいう おれは独立に振るのだと
 そしてそれらすべてがわたしを嘆かせる

 わたしは嘆きたくはない わたしは告発のために生まれたのでもない
 しかし行く手がすべて嘆きの種であるかぎり
 わたしは嘆かずにはいられない 告発せずにもいられない
 よしやヒネクレモノとなるまでも
 しかしわたしはいう わたしは決してヒネクレではないと
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あんまり放置しているのも何なので、むかし「mixiレビュー」に書いた感想文を転載しておこう。よいお年を。



著書自身も語っているように、この本が俎上に上げているのは決して「UFOの正体とは何か」といった問題ではありません。UFOという現象の「語られ方」が時代とともにどのように変わってきたかを論じ、いわばUFOを鏡としてワレワレのモノの考え方、時代思潮がどう変わってきたのかを考えようという本です。まぁ言ってみればUFO現象をサカナにした社会・文明評論といったものなのですが、しかしなかなかユニークな本ではあります。

非常に強引に要約してみましょう。ケネス・アーノルド事件から1970年代はじめにかけてのUFOシーンというのは、「進んだテクノロジー」をもつ「宇宙人」が宇宙船に乗ってやってきているのではないか的な発想を総じて持っていた、と。「科学の進歩」が素直に信じられていた時代であり、「進んだ宇宙人」と「遅れた地球文明」の対比で奴等をイメージしていたというんですな。つまり進歩を信じられた近代主義の時代特有の「円盤」観であった、というのですな。もうひとついうと、古くはこの近代主義にみられる「何か確固としたよりどころがある」とゆー世界観を支えたのは「宗教」だったりしたわけだけど、それがこの時代には「科学」になっていたからこそ、高度に発達した文明の象徴としての円盤にみなナットクしたという話ですね。

それが73年ぐらい頃から、思想界におけるポストモダンの進行と相まって、ワレワレの周りでも「何か確固とした準拠枠みたいなもの」が崩れ始めた。大文字の「真実」なんてものはない、というわけで、そこから出てきたのがUFOシーンにおける陰謀説であったりする。アブダクションケースやらキャトルミューティレーションやら何か恐ろしげな企みに関係するものとしてUFO問題が語られるようになる。

著者は95年ぐらいからさらに事態は進展している、というのですが、そこから先に書いてあることは実はよくわかりませんでした。またじっくり再読してみたいのですが、とりあえずの印象でいえば、もはやこのポストモダン的な状況は変わることはなく、もはやUFOシーンにかかわる大きなテーゼなど成り立ちようもない、断片的な情報が浮遊するばかりの状況が続くのであろうというような事を言ってるように思われます。

著者はJ・G・バラードあたりを専門とする文学研究者のようですが、ともあれ変わり種のUFO本として(しかもメジャーな出版社から新書で出た、ということも含めて)一読に足る本とはいえそうです。



【2016/12/30時点の追記】
なお、アマゾンのレビューをザッと見てみたんだが、けっこう辛い点がついている。「方法論的に極めて粗雑かつナイーヴで、恣意的な素材に基づいて尤もらしい与太話を飛ばしている」みたいな評もあって、つまり「これは学者の書く評論じゃないだろう」という批判なのだろう。学術的じゃない、というか。
ただどうなんだろう、これは学術論文ではなくて、エッセイ寄りの評論みたいなもんじゃないのかな。「ナッツ&ボルトの宇宙船って流行らなくなったよねー、これって何か時代とリンクしてる感じあるよねー」という本なので、別に「検証」を期待しちゃったりするのは違うと思う。



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