UFO研究者であるジャック・ヴァレの本を読んでいて知った人物の一人に、スペイン出身のサルバドール・フレイクセド(注*)という人物がいる。

以前のエントリーでも触れたけれども、彼は元イエズス会士である。その後、カトリックの体制批判などをしたためにバチカンを離れざるを得なくなり、独自の宗教研究に取り組んでいたところでUFOと超常現象のかかわりみたいなところに気づいてしまう。そのあたりの問題意識で通じているということもあってヴァレとの交友も生まれたようなのであるが、ともあれ、そんな路線で長年UFO研究に取り組んできたというユニークな人物である。生まれは1923年というから、もう90歳過ぎの大長老である。

ということでこの人にはちょっと興味を抱いているのだが、むろん日本語の本などは一切ない。ネットでググってみても日本語だと自分の書いたものしかヒットしない(笑)。スペイン語など当然読めない。しょうがないので英語の本でも読もうかと考えたのだが、どうやらずっとスペイン語で書いている人らしく、英訳されたのは1冊しかないようだ。
これである↓

 Visionaries, Mystics, and Contactees Paperback – April 1, 1992
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日本語にすると『幻視者・神秘家・コンタクティー』といったところか。

英語力不如意ではあるが、彼のことをもうすこし知るにはやむを得ない、これを読むしかない。というワケで先にこの本を買い求めた。今後、読書メモがわりにブログに随時記事を落としていこうという算段である。関心のある方は以後定期的にチェックされるがよかろう(そんな輩はいるのかw)。

で、まだ前書きしか読んでない(笑)のだが、前書きを書いているのはやはりUFO研究家で先に亡くなったジョン・A・キールである。冒頭、こんな事を言っている(以下、意訳が過ぎるかもしれぬがご容赦あれ)。

何の考えもなくただ部屋に入りこんできた人物――彼をそんな風に考えたとしたら大間違いだ。エネルギーに満ち溢れ、様々なアイデアをほとばしらせる彼は、その場で自らの考えを炸裂させる。そこには変化をもたらそうという強い思いがある。ほとんどの人間であれば落ち着いた隠居生活を考えるような年齢でありながら、友人たちからサルバドール・フレイチャドと呼ばれているこの神父は、世界じゅうを駆け回り、講演を重ね、新たなる素材を集め、執筆をし、そして新たなる地平を切り拓き続けている。

すっげえバイタリティのある人、ということらしい。で、キールは、UFO現象というのは「人間の側にいかなるものとして立ち現れたか」というのが重要なポイントであり、つまりは客観的な科学的分析の対象というよりは主観的な或る種の宗教体験と重なるところがあるんで、宗教を熟知したこの元イエズス会士の言うことには一目置かざるを得ない、というような主張をしておる。

で、実に興味深いのだが、キールは次のような事も言っている。

この神父はUFOの世界にあって余人をもって代え難い人物である。彼は思想家である。ほとんどのUFO本はポルノグラフィーの如きものである。それは、読者の手を取り、非常に低次元な低劣な情動のレベルへと連れこむことで読む者を興奮させようとする。

総じてみれば、UFO本を読む人間というのは、「陰謀論だとか政府による抑圧といったお話を読んだ末にカッとなって怒りがこみあげる」といった刺激的体験をすることを求めているのだ。結果として、このテーマを取り扱う際には知能指数など不要だということになる。ただ「疑う」姿勢を捨て去ること、ナイーブな騙されやすささえあれば良いのだ。

かくて、映画の中のジェームズ・ボンドのおよそありえないおふざけシーンの如く、墜落した円盤の話が盲目的に受け入れられてしまう。神父はこの種のポルノを提供しているわけではない。彼はあなた方の考えるための器官=頭脳がちゃんと働くよう、頭を揺り動かしてくれるのだ。

うーむ、キールの啖呵はなかなか格好いいぜ。フレイクセドは「ポルノじゃない」んだぞ。が、しかし、これを読むと、フレイクセドはこの本で聖書の話とかマジで展開しやがるんではないかというイヤな予感がする。何せキリスト教に縁のない東洋人にとってみれば聖書は鬼門である。筒井康隆の「バブリング創世記」で茶化されたみたいに(とりわけ旧約)聖書の記述はやたらと冗長でフツーの日本人の神経では読み通せるものではない。

そういや、こないだの大統領就任式で、トランプは旧約聖書詩編133から「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」というくだりを引用したらしいが、確か主要新聞では朝日だけが「これは引用である」ということをちゃんと書いたのに対し、他の新聞はこれが聖書の言葉だとわかんなかったようである(たしか池上彰がどっかに書いていた)。当然オレも全然わからん。つまり、それほど日本人にとって聖書の世界は縁遠いのである。

ということで、前途多難ではあるけれども、これからヒマがあればこの本を読んで、読書メモ的なエントリーを書いていきたいと思う所存。171頁の薄い本ではあるが、何年かかることやら(笑)。

注*:なお、この人の名前の読み方はいぜんとしてナゾである。
キールはこの前書きで、「pronounced fray-cha-do」と読み方を明示しており、つまり「フレイチャド」だと言っておるんだが、Youtubeとかでわからんながらもスペイン語の番組などを聴いていると「フレイクセド」と発音されているようにも思える。よくわからんので、とりあえずフレイクセドとしておくけども。











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念頭の抱負代わりに中野重治の詩を掲げておこうか。
「わたしは嘆かずにはいられない」という作品だ。

  わたしは嘆かずにはいられない 

 しかしわたしは嘆かずにはいられない
 人がわたしを指してヒネクレモノといおうとも
 そしてそうではないと弁解したくならずにはいられない
 人が貴公子でありせめてもの慰めであるとするもの
 それが長袖にばけたサーベルである事実をわたしは人びとに隠せない
 わたしはただ訊ねる 彼の商売は何なのかと
 また鎌足以来一千年 彼の一家は何をして飯を食つてきたのかと
 ここに国があり 司法があり
 それが拷問をもつて人民に臨んでいるならば
 わたしは思惟の必然と学問上の仮定とに立つていう
 もしも人民が司法を逮捕して
 彼の耳もとで拷問のゴの字を鳴らすならば
 彼は涎をたらしてあることないこと申しLげるにちがわぬと
 みずから愛するものは愛をいつわるものを憎む
 うそつきを憎むのは正直であるものではないか
 しかし犬のしつぽのような人びとがあつてわたしをヒネクレという
 わたしは嘆いていう あれらはしつぽであると
 そしてわたしはいう ごみ箱のかげから往来へ出てこいと
 しかし彼らはいう おれは独立に振るのだと
 そしてそれらすべてがわたしを嘆かせる

 わたしは嘆きたくはない わたしは告発のために生まれたのでもない
 しかし行く手がすべて嘆きの種であるかぎり
 わたしは嘆かずにはいられない 告発せずにもいられない
 よしやヒネクレモノとなるまでも
 しかしわたしはいう わたしは決してヒネクレではないと
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あんまり放置しているのも何なので、むかし「mixiレビュー」に書いた感想文を転載しておこう。よいお年を。



著書自身も語っているように、この本が俎上に上げているのは決して「UFOの正体とは何か」といった問題ではありません。UFOという現象の「語られ方」が時代とともにどのように変わってきたかを論じ、いわばUFOを鏡としてワレワレのモノの考え方、時代思潮がどう変わってきたのかを考えようという本です。まぁ言ってみればUFO現象をサカナにした社会・文明評論といったものなのですが、しかしなかなかユニークな本ではあります。

非常に強引に要約してみましょう。ケネス・アーノルド事件から1970年代はじめにかけてのUFOシーンというのは、「進んだテクノロジー」をもつ「宇宙人」が宇宙船に乗ってやってきているのではないか的な発想を総じて持っていた、と。「科学の進歩」が素直に信じられていた時代であり、「進んだ宇宙人」と「遅れた地球文明」の対比で奴等をイメージしていたというんですな。つまり進歩を信じられた近代主義の時代特有の「円盤」観であった、というのですな。もうひとついうと、古くはこの近代主義にみられる「何か確固としたよりどころがある」とゆー世界観を支えたのは「宗教」だったりしたわけだけど、それがこの時代には「科学」になっていたからこそ、高度に発達した文明の象徴としての円盤にみなナットクしたという話ですね。

それが73年ぐらい頃から、思想界におけるポストモダンの進行と相まって、ワレワレの周りでも「何か確固とした準拠枠みたいなもの」が崩れ始めた。大文字の「真実」なんてものはない、というわけで、そこから出てきたのがUFOシーンにおける陰謀説であったりする。アブダクションケースやらキャトルミューティレーションやら何か恐ろしげな企みに関係するものとしてUFO問題が語られるようになる。

著者は95年ぐらいからさらに事態は進展している、というのですが、そこから先に書いてあることは実はよくわかりませんでした。またじっくり再読してみたいのですが、とりあえずの印象でいえば、もはやこのポストモダン的な状況は変わることはなく、もはやUFOシーンにかかわる大きなテーゼなど成り立ちようもない、断片的な情報が浮遊するばかりの状況が続くのであろうというような事を言ってるように思われます。

著者はJ・G・バラードあたりを専門とする文学研究者のようですが、ともあれ変わり種のUFO本として(しかもメジャーな出版社から新書で出た、ということも含めて)一読に足る本とはいえそうです。



【2016/12/30時点の追記】
なお、アマゾンのレビューをザッと見てみたんだが、けっこう辛い点がついている。「方法論的に極めて粗雑かつナイーヴで、恣意的な素材に基づいて尤もらしい与太話を飛ばしている」みたいな評もあって、つまり「これは学者の書く評論じゃないだろう」という批判なのだろう。学術的じゃない、というか。
ただどうなんだろう、これは学術論文ではなくて、エッセイ寄りの評論みたいなもんじゃないのかな。「ナッツ&ボルトの宇宙船って流行らなくなったよねー、これって何か時代とリンクしてる感じあるよねー」という本なので、別に「検証」を期待しちゃったりするのは違うと思う。



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去る11月23日、「文学フリマ東京」に参加したUFO同人誌界の雄「Spファイル友の会」のご厚意でブースに私家版『マゴニアへのパスポート』を置かせて頂けることになり、慌てて作った第2版を持ち込みました。

実費相当とはいいながら価格的にはちと高いこともあり、どうかと思っていたのですが、意外なことに今回持ち込んだ分はおかげさまで完売ということに相成りました。「友の会」の今回の新刊であるところの「UFO手帖」創刊号ともどもお買上げ頂いた方には深く御礼を申し上げます。

*ちなみに「UFO手帖」創刊号ではジャック・ヴァレ特集をしている関係もあり、小生も寄稿をしております。とても良い本なので未入手のUFOファンの皆様におかれましては通販が始まったら是非ご購入されんことをオススメいたします。

さて、この『マゴニアへのパスポート』第2版ですが、追加で若干部刷ってみました。こちらのほうにメールフォームを置いておきますので、購入ご希望の方はご覧ください。仕様はA5判・398ページ。初版に散見された誤植を訂正した上で末尾に訳者あとがきをつけ、表紙の装丁を若干変えました。

売り切れの場合はご容赦ください。

【追記】
ただいま12月5日午後10時ですが、おかげさまで完売いたしました。購入頂いた方々には大変ありがとうございました。

以下、ツイッターで書いたものの(ほぼ)再掲。
高橋昌一郎「反オカルト論」読了。

ハイズビル事件の立役者で、近代スピリチュアリズムの「創始者」ともされるマーガレット・フォックスが、婚約までした冒険家・医師のエリシャ・ケインから「降霊詐欺は辞めろ」と再三手紙を受け取っていたこと、そのやりとりを彼が早世した後「ケイン博士の愛の人生 The Love-Life of Dr. Kane」なる本で公開していたこと等々、知らん話が色々出てきて勉強になる。

彼女が1888年、新聞でトリックを告白したというのはよく聞く話だが、同年、ルーベン・ダベンポートがスピリチュアリズムを徹底批判する「デス・ブロウ・トゥ・スピリチュアリズム The Death-Blow to Spiritualism」なる本を出した際、全面協力していたという話も出てくる。これも知らなんだ。

STAP問題が出てくるなど「反オカルト論」というより「反科学論」ではないかと思わんこともないが、ササッと読めて面白い。なお、大川隆法によれば麻生太郎は「真田正幸」の生まれ変わりである(133p)というくだりがあるが、これは「昌幸」であろう。増刷時には修正されんことを。
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反オカルト論 (光文社新書)
高橋 昌一郎
光文社
2016-09-15



高橋昌一郎『反オカルト論』 (光文社新書)を読んでいたら、東大の進学ガイドブックに学生さんが書いた理学部数学科へのおさそい(?)のメッセージが引用されていた。以前どっかで読んだこともあるような気がしたが、ともかく次のような文章である。


東京大学理学部数学科

数学科に進学することは人生の多くのものを諦めるということである。言わずと知れた東大数学科の院試の難しさ、就職率の悪さ、学生間の関係の希薄さは言うまでもないが、加えて人間的な余裕をも諦めなければならない。数学の抽象度は日ごとに増し、数学科生は日夜数学のことを考えながら生きていくことを強いられる。某教授に言わせれば、『数学を考えようと思って考えているうちは二流である。無意識の夢の中でも考えられるようになって初めて一流である』だそう。そのような生活の果てにあるのは疲れ切った頭脳と荒廃した精神のみである。


一見とても自虐的なことが書いてあるのだが、しかし、本来の学問というのは「ありとあらゆる苦難を舐めてもなおその先を見極めたい」というやむにやまれぬ情熱に駆りたてられてやるものなのだということを暗に説いており、そういう人こそ数学の道に来て頂きたい、と言っているのである。なるほどこれは核心を衝いておるワイと思った。

そして、この言葉はおそらく、数学の研究者についてのみ当てはまるものではない。この文章の「数学」というところを他の学問に入れ替えても、その文意は十分に通じるのである(とりわけ「すぐには役立たない学問」を代入するとしっくりくる。哲学とか)。以下、○○に各自お好きな学問の名前を当てはめてお読み頂きたい。


○○科に進学することは人生の多くのものを諦めるということである。言わずと知れた東大○○科の院試の難しさ、就職率の悪さ、学生間の関係の希薄さは言うまでもないが、加えて人間的な余裕をも諦めなければならない。○○の抽象度は日ごとに増し、○○科生は日夜○○のことを考えながら生きていくことを強いられる。某教授に言わせれば、『○○を考えようと思って考えているうちは二流である。無意識の夢の中でも考えられるようになって初めて一流である』だそう。そのような生活の果てにあるのは疲れ切った頭脳と荒廃した精神のみである。


オレなども遠い昔、大学生だった時分には一瞬研究者を目指そうかと考えたことはあった。だが、やはり世俗的な欲望みたいなものを全部振り捨てて学問の道に進むような気迫や情熱は欠いていた。だからごくふつうの会社員になった。

そんなオレなどがいまさら外野からいろいろ言っても全く説得力はないのだが、最近とみに文教予算が削られて研究者の生活もかなり厳しいことになっていると聞けば、さすがに我慢にも限界はあるだろうとエールのひとつも送りたくなってくるのだった。

学者の皆さん、いろいろ大変だろうが
初心を忘れず頑張ってください!


「オカルト」がテーマのこの本の本筋からいうと若干わき道のほうの話なのだが、ちょっと琴線に触れるところがあったので書いてみた。


【追記】
なお、この『反オカルト論』 はまだ読み始めたばかりであるが、教授と助手の対談スタイルで書いてあって、幅広い人たちを対象とした啓蒙的な狙いの本のやうである(もともと週刊誌に連載していたものがベースらしい)。

とはいいながら、最初のほうに出てくる霊媒師、ミナ・"マージャリー"・クランドンのおはなしなどは、かなりスレているオレなどにとっても非常に勉強になった。

20世紀のはじめ、彼女は金持ちのお医者さんであるダンナと一緒にボストンでハイソな人々を招いた降霊会を開いておったわけだが、本書によれば、彼女はそこにノーパン&ネグリジェ的な格好で現れるのが恒例であり、そこではダンナが「身体検査」と称して賓客にヨメの体を触らせる、みたいな趣向があったようなのである。つまりこの降霊会、本来は、ヒマをもてあまして生活に刺激を求めていた有閑階級を対象に、特殊な嗜好(笑)をもつ夫妻が提供していた「おさわりバー」的な催しであったということらしい。

彼女は陰部に「エクトプラズム」のネタを仕込んでいた、みたいな話は、たしかステイシー・ホーン『超常現象を科学にした男』にも書いてあったけれど、この本を読むとヘンタイ」というかなんというか、もう困った人たちだと思う。

で、こういうストーリーの背景にはこのマージャリーさんがとても魅力的な女性だったという事実があるらしいのだが、ネットで写真を検索してみるかぎり、「なんで?そうなの?」という感想を抱いてしまったりする(今の基準からすると明らかなセクハラだろうが、真実探求のためなので許せ)。

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これが
ミナ・"マージャリー"・クランドンさん (1888–1941)




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塚田穂高著『宗教と政治の転轍点  保守合同と政教一致の宗教社会学』(花伝社)を読んだ。

今とても売れている菅野完『日本会議の研究』で、一部宗教団体のサポートを受けて日本の保守政治家に影響を与えているとされる「日本会議」への注目が高まっている折も折、そのあたりも含めてリアルな政治に戦後日本の宗教教団がどう関わってきたのかを気鋭の宗教社会学者が網羅的に描き出した研究書だというので、先日「東京ブックフェア」で二割引きで売っていたこともあってついつい買ってしまい、遅まきながら手に取ったという次第である(高かったけどw)。

オレ流に乱暴にまとめてしまうと、天皇制に親和性をもつ、つまり伝統的な保守・右翼イデオロギーに近いナショナリズムや世界観を有する教団であれば別に自前の政党を立ち上げるまでもなく自民党の右派政治家などと連携する「政治関与」を試みることが多いのだが、それとは異なる独自の教義・世界観を有する教団であれば政治団体を作って独自に「政治進出」を図ろうとする傾向がある。本書は、おおむねそのようなパターンが戦後日本の宗教―政治関係に見てとれることを論証しているのだった。

当然、話題の「日本会議」を下支えしてきた諸教団は「政治関与」系になるわけで、そういう文脈で「解脱会」や手かざしで知られる「真光」系教団などの取り組みが論じられている。

一方の「政治進出」系としては言うまでもなく「創価学会」が取り上げられているワケだが、そのほか「オウム真理教」「幸福の科学」はもちろん、「浄霊医術普及会=世界浄霊会」「アイスター=和豊帯の会=女性党」などというマイナーな組織も登場してくる。著者も本書のいろんな箇所で自慢(笑)しておるが、こういう大きな見取り図みたいなものを作った学術的な仕事というのはなかったようで、たいへんためになった。

以下はどうでもいいけれど読書中に感じたもろもろ(と若干の注文)。

一、書名にも入っている「保守合同」という言葉であるが、コレってふつうは1955年の自由党と日本民主党の合同のことを言う。その辺にポイントがあるのかなと思って読んでおったのだが、ところがいつまでたっても1955年の「保守合同」の話が出てこない。「なんで?」と首を捻っていたのだが、つまり著者は最終的に「日本会議」に結集する伝統・保守系宗教勢力の合従連衡のことを「保守合同」と言ってるみたいなのだった。これはワーディング的にちょっとどうかという気がしました(笑)

一、「オウム真理教」や「幸福の科学」はともかく、「浄霊医術普及会=世界浄霊会」「アイスター=和豊帯の会=女性党」などというのはその存在すら全く認識していなかったのでとても勉強になった(アイスターという会社が売っている「アイレディース化粧品」というのは聞いたことがあったし、何か看板なんかもそこいらじゅうで見た記憶があるが、ここが半分宗教絡みだというのは全然知らなんだ)。ホントのことをいえば、宗教―政治にかかわる戦後日本の状況には全く影響力を及ぼすこともなく散っていったこうした団体の話はあんまり一般化しても仕方ねーんじゃないかという気もしないことはないンだが、虚心坦懐に「泡沫政治団体盛衰記」として読むとスゲー面白い

一、さらにいえば、供託金なんかゼッタイ返ってこないのにあえて選挙に出る泡沫のヒトビトというのは、別に宗教団体じゃなくても常人に理解不能な信念に殉ずるという意味で或る意味の宗教性に富んでいるともいえるので(笑)もうこうなったら宗教とは関係ないところから出てきた有象無象の泡沫候補・団体をガッチリ調べてその「宗教性」を総まとめするような仕事も面白いんではないかと無茶振りしたい気分である

一、著者も書いているけれども、最初は日蓮思想を掲げて「国立戒壇建てるぞ-」などと言っていた、つまりは一般人にはやや敷居の高い特殊な政治的主張を説いていた創価学会も今じゃそんな言い分は引っ込め、公明党自体が政権与党の「現実主義」にドップリ、である。むろん、先の安保法制とかに対してはかつての反体制時代よろしく「お先棒かつぐな!」と声を上げた創価学会員も一部にいたようであるが、とにかく創価学会=公明党は「変質」してしまったようだ。「昔の価値観・世界観はどこいっちまったの?」「どこでどう変わったの?」という大いなる疑問は、今後著者に是非解明していただきたいものである

一、あと、そもそもそういう「特殊な主張」に基づいて「政治進出」を試みた他の教団が揃って死屍累々という中でなぜ唯一創価学会のみが「成功」したのか。オレなんかであれば「ま、それが戦後復興期という時代だったんだよ。時代さ、時代!」的な床屋談議で納得してもいいんだが、研究者としてはそうもいくまいから、ここいらも何か説明をしてもらえればと思う

一、「日本会議」に関係している大和教団の保積秀胤教主が2014年に新日本宗教団体連合会(新宗連)の理事長になったという話が出てくる(79p)。あれっと思ったンだが、立正佼成会を中心とした所謂「新宗教」の諸教団が作るこの新宗連というのは平和運動なんかにも取り組んでいるし、おおむねウルトラ国家主義みたいなものには反対している穏健な団体であるという印象があった。そこで若干ググってみたところ、確かに新宗連は今年8月8日付けで「靖国神社公式参拝」に反対する意見書を出したりもしている。何で「日本会議」の人がそういう団体の親玉に収まってるのか? ここは小生も勉強不足でよくわかんなかった。どういうことなのか、ヒマがあったらおいおい調べてみたいものだ(おわり)

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以前「読みたいUFO本」というエントリーを書いたが、最近、このうち『パプア島の円盤騒動』をネット古書店で購入した。まだ読んでないが、入手できてちょっと嬉しい(笑)。

ちなみにこの他にも(別にそんなに珍しい本じゃないけど)興味深いのが何冊か出ていたので、併せて購入する。エメ・ミシェルが1954年に出した最初のUFO本『Lueurs sur les soucoupes volantes』の邦訳書『空飛ぶ円盤は実在する』や、平野レミさんの父君としても知られる仏文学者・平野威馬雄の本、等々。

で、これはツイッターの方でも書いたことなのだが、今回買った本にはどれも「愛知日進UFO研究会」「代表者 渡辺綱吉」というスタンプが押してある。

愛知方面のUFO愛好家の蔵書であったことがわかるのだが、ネットで検索しても「愛知日進UFO研究会」なる組織のことはヒットしない。「渡辺綱吉」さんの方をググると、同姓同名の法学者の方が愛知学院大にいたらしく、愛知つながりということもある、ひょっとしたらこの方が趣味のUFO研究をなさっていたのかもしれない。

ともあれ、「愛知日進UFO研究会」も現存しているとは思われぬし、本の古びたたたずまいからしても、代表者の方は亡くなられてしまい、それがために関連のUFO本が今回まとまって古本屋に出てきた、ということではないかと想像する。

買った本には、いずれも丁寧にパラフィン紙がかけられており(撮影するときには外した)、背表紙には蔵書番号が書き込まれたシールが貼ってある。持ち主の方にとっては自慢のUFO蔵書だったんだろうなあと思いつつ、代表を務めたUFO研究会は今はもう誰からも忘れられ、集めた図書類もこうやって四散していかざるを得ない。

やはりUFOは「冬の時代」なのだ。なんとも淋しいものである。









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