今回は、日本語でググッてみると、なんと私が書いたものしかヒットしないという伝説の超マイナーUFO研究家、サルバドール・フレイクセドについての情報である。

この方はスペインのガリシア生まれということなのだが、ずっとナゾなのが「この人の名前はどう発音するのか」という問題だ。

スペイン語で「Salvador Freixedo」。そもそもスペイン語は基本的にはローマ字読みで素直に発音すればいいと聞いておるので、ならば「サルバドール・フレイクセド」でいいハズなのだが、「フレイシェド」「フレイキセド」「フレイチャド」等々、いろんな説が出てきてしまった。

*そのあたりは小生のツイッター、たとえばココとかココとかココとかココあたり参照のこと。

で、今回、新たに外国語の発音サイトを見つけたので、試してみた(ちなみにサインインするのにFacebookのアカなどを求められたので面倒なサイトである)。

「スペイン式発音」「メキシコ式発音」とあるのだが、「スペイン式発音」だと、どうも「フレイセド」に聞こえる。

? ということは、また新説の登場ではないか!

ちなみに「メキシコ式発音」のほうだと、これは「フレイクセド」。う~ん、ナゾは深まるばかりである。

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舛添さんが辞任に追い込まれたので、また東京都知事選をやるらしい。

都職員の方々とかご苦労さんであるけれども、こういう茶番をみせられた後となると、どうしても思い出してしまうのは2007年の都知事選に出た伝説の候補者、外山恒一である。これまた伝説の政権放送で、彼はこう吠えていた。

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所詮選挙なんか、多数派のお祭りに過ぎない

多数決で決めれば、多数派が勝つに決まってるじゃないか


この外山恒一という人は、いまも「ファシスト」と称して政治関係の運動をしているようだけれども、オレ的にはこの人は本質的に「アーティスト」だと思っている。世の中の常識とされているものを疑う。別の見方をすればこの世界は全く別のものとして見えてくる。そういったことをパフォーマンスを通じて表現するというのは、紛れも無く「アート」である。

彼の「政治思想」をちゃんとフォローしているワケではないけれども、先の政見放送をきいてみると、社会改革の道筋など全く示さず、「多数派」が当たり前のように考えているものはインチキだ、という意味のことを繰り返し言っている。「何が問題で、それに対して何をなすべきか」といった具体的なことは、もう綺麗サッパリ、見事に何も語っていない。それもまた、これがパフォーマンスであり、アートであることの紛れもない証左である。

もちろんこういう人に「政治」などという営みを任せることはできない。できないけれども、「人気投票」のようにして選ばれた知事がこのようにして放逐されていくのを見た今、「多数派」のおごりを諌め、「この世界を懐疑せよ」といった風にいわば荒野に立って咆哮する人という人はどうしたって必要なのである。この国の民主主義のためにも。

というわけで、この伝説の政見放送は、実は全都民必見のアート作品なのである。

 

*なお、文字起こししたサイトもあった。読んでみるとまた独特の味わいがある





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本日夕、安倍首相は国会閉幕にあたっての記者会見をし、消費増税延期の決断等を含めて縷縷説明をしておった。それはそれで良いのだが、聴いていて思うのは、安倍首相、なんというか「軽い」。軽すぎる。

先のG7においても、「今時の世界経済状況はリーマン・ショック前夜に相似たり。よって消費増税延期はやむなしとするも、コレ飽くまでも外的要因によるものにてアベノミクスの失敗を示すにあらず」というような我田引水的発言を弄し、世界からの失笑を買っておったようだが、この人物の言葉、熟考を経て出てきたようなところがまるでない。

少なくとも世界経済の動向に比して、日本経済が格段に見劣りするのは事実であり、アベノミクスとやらが消費税増税に耐えうる状況を作り得なかったのは事実ではないか。この点については反省して頭を下げるのがスジというものだが、そういう姿勢は皆無である。上滑りに自画自賛の言葉を垂れ流す。

だから、というわけではないのだが、こういう時はついつい「憂国」というマジック・ワードについふらふらと(by加川良)引き寄せられてしまう(こうみえて実はナショナリストなのでご容赦あれ)。

ついては、以下に「昭和維新の歌」の歌詞を貼り付けておく。こういう歌詞に陶酔してしまう自分が怖いけれども、いま聴いてみると、なんかコレ、胸を打つものがあるのも事実なのである。


汨羅の淵に波騒ぎ
巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く

権門上に傲れども
国を憂ふる誠なし
財閥富を誇れども
社稷を思ふ心なし

ああ人栄え国亡ぶ
盲たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり

昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫が
胸裡百万兵足りて
散るや万朶の桜花


 

P.S.

などと書いたそばからナンだが、こういう「憂国」にあんまり高揚してしまうのもナンなので、解毒剤的にもう一曲貼り付けておきましょう。

 









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映画「大脱走」で<偽造屋>コリンが作った超精密な写真付き身分証明書
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ここんとこ、むかし撮った写真をアップしては、何となく「このブログはまだ死んではいない」感を醸し出すことにしていたのだが、たまには何か書いたほうがよいかもなぁ、ということで今回。

さて、そもそも「心とはなんだろう」というのは永遠の謎である。で、たまにその手の脳科学本などを手に取ったりするのだが、加齢のせいか、何だか片っ端から読んだ記憶が霧消してしまう。それでもナマイキに向学心(笑)は如何ほどかあるようで、今回はこの本を手にとってみた。

今回記憶に残ったのは、「人間が何か決断するとき、オレはイマ決断しましたよ、ということを自分で意識するまさにそのタイミングに先立って、脳内現象的には既に(無意識的に)決断が済んでしまっている」という脳科学の知見である。

こういう話は、まぁ以前にも聞いたことがあるけれども、何だかいろいろと考えさせられる。

脳内のプロセスでは既に結論が出てしまっている。けれどもその時点で、いまだ意識はその結論を知らない。「意識」は蚊帳の外。「無意識」的に決まったことを、あたかもいまここで自分が決断したかのように思い込んでいる。

うむ、何だかこの辺に「意識」の本質にかかわるものがあるような気がしてならない。

我々の考える意識――というか、その「考える主体としての自我意識」というものは、決断の主体という役割を(むりやりに)演じさせられている、ということではないか。ホントの意味では主体性はないんだが、やはりここで「主体的に決めた」という主体がないと何かマズイことになるので、そういう幻想がどうしても浮上してきてしまう。というか「捏造」されてしまうのではないか。

この、「何かマズイことになる」というところがキモのような気がするのだが、きょうは既にけっこう酔っ払ってしまっているということもあり、そっから先は曖昧になってしまう。

岸田秀は「人間は本能が壊れてしまった動物なのでダイレクトに環境と渡り合えず、結果、幻想を媒介にして環境と向き合うしかすべがなくなった存在である」というような事を言っていたのだが、何かその辺とも関係があるような気もする。よくわからないけど。たぶん。

で、日進月歩の進歩をみせているという脳科学は、オレの生きているウチに、このあたりについてもうちょっとクリアカットにわかるような知見を差し出してくれるのかどうか。そこんとこは、けっこう期待しちゃってたりもする。













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