これは当ブログでもチラチラと触れている話なのだが、オレはこのブログとは別のサイトで、ジャック・ヴァレの円盤本を翻訳して掲載するプロジェクトをやっている――というか、やっていた。

もちろんしょせん素人の仕事なので、その翻訳というのは相当にズサンなものである。あるけれども、円盤業界の大立者と言われているにもかかわらず、国内でほとんどヴァレの仕事が知られてないのは如何なものかという「義憤」もコレありで、「大体のところがわかりゃいいじゃねーか」的なノリでいろいろと訳しまくっていたのだった。

しかし、或るときふと気づいた。これは「翻訳権」なるものを侵害しているんではないか? 著作権というのは何やらよくわからんので、とりあえずサクッと調べた。すると、「存命の著作権者の了解を得ずに勝手に翻訳をしてネットに公開をする」というのは法的にはまったく情状酌量の余地のない行為であるということがわかった。

たとえばパスワードをかけて、不特定多数の目に触れないような小細工をしてもダメらしい。ともかくネット上にアップした時点で何をしようがダメなのだという。

うーむ、ヴァレのエヴァンジェリストを気取ってはみたが、やっぱりこれは宜しくないのか、仕方がない。というわけで、その後、サイトの表紙のページだけ残して中身は泣く泣く全部削除した(正確にいえば、「マゴニアへのパスポート Passport to Magonia」にかんする「解題」というのは自分で書いたものなので、未練タラタラでそれだけは残してあるんだけどネw)

それでも、「何とか抜け道がないだろうか」とさらに調べてみたのではある。すると、ひとつだけ希望の光があった。それは著作権法ギョーカイでいう「翻訳権の10年留保」という規定である。

実は、1970年まで適用されていた旧著作権法には「著作権者原著作物発行のときより十年内に其の翻訳物を発行せざるときは其の翻訳権は消滅す」という規定があった。平たく言うと、「原著が出てから10年たっても日本で翻訳出版が出なかった場合、その本の日本における翻訳権は消滅しますよ」という話であって、つまりそういう本は著作権者の了解ナシで勝手に本にしてヨロシイというのだった。これが世に言う「翻訳権の10年留保」。

本を書いた当人にとってみりゃあ「なんとまあ勝手な」ということにもなるんだろうが、いろいろ理由もあって(そこのところはここでは触れない)ともかく日本国内のそういう決め事は国際的にも認められていた。で、新しい著作権法ができたのちも、「1970年12月31日以前の出版物」に限ってはこの「翻訳権の10年留保」は有効だからね、ということになっているんだそうだ。

するとどうなるか。ヴァレの本の中でも「Passport to Magonia」は初期のもので、何と1969年の刊行である。そう、何と「翻訳権の10年留保」の対象作品なのですよ!

「そうかそうか、じゃあ大手を振って翻訳をアップできるじゃねーか!」と一瞬思ったのだ。しかしながら、念には念を入れてネットで調べてみると、どうも雲行きが怪しい。「翻訳権の10年留保」に該当する作品は、確かに自由に「翻訳して出版する」ことができる。でも「ネット上に翻訳をアップする」ことはフリーなのか? 何と、「そういうのは出版とは違うからフリーじゃない。アウトだ」という議論もあるらしい。何だか理屈がよくわからんのだが、どうもそこら辺はグレーゾーンらしい。

ため息が出た。ともかく「ネットにアップする」という行為に対してこの国はイチイチ目くじらを立てるのである。まったくもって、日本という国はそんなことでこれからのネット時代を生き残っていけるのかと悲憤慷慨したくなるゾ。

もちろん「ネットに上げても問題ナシ」とか書いてる人もみかけるし、そういや山形浩生氏なんかも「プロジェクト杉田玄白」とかいって著作権切れの外国の本を翻訳してネットに上げる運動をしていたなと思いだし、こうなりゃヤケクソで再アップしてやろうかと思わんではないけれども、でも、オレは小心者なので何か気持ち悪く、そこンところはとりあえず自重しているのである。

ま、しかし。冷静に考えてみると、そんなテキストをアップしたところで、気にとめていただける円盤フリークの方は、今や全国で数十人(笑)ぐらいではないのだろうか(逆に言うと文句を言ってくるヒトだって多分いないだろうなーという気がする)。要するに誰からも無視される営みというやつであって、寂しいけれども、そのあたりがまた円盤業界の凋落というものなのかなぁとシミジミ感じ入るオレなのであった(完)。

■追記

と、そんなことを書いていて思い出したのだが、そういえば以前、チャールズ・フォートの『呪われしものの書』(仮。原題はThe Book of the Damned)を誰も訳してくれんのはどういうことか、くそう腹立った、じゃあオレがやってやる――的な意気込みでこのブログに冒頭部分を訳して載せたことがあったのだった。これもフォートの英語が全然わからず、「超訳」でごまかしながらしばし挑戦してみたのであるが、最初の数頁でわけわかんなくなって結局投げ出したのだった。

ま、そんなことはともかく、この作品なんかも実は「マゴニアへのパスポート」と立場的には同じであって、つまりフォートは80年ぐらい前に死んでるから流石に著作権は消滅していて、つまり勝手に翻訳して本にしても何の問題もない。ただし、勝手にネットに載せていいかどうかがよくわからんのである。

ただ、ヴァレの場合はまだ存命であり、しかもかなり日本にとって有利な「翻訳権の10年留保」によってムリヤリ権利を剥奪されている感じがあるので、何かヒトの顔色をついうかがってしまう典型的日本人であるオレなんかからすると、「やっぱ勝手にネットに載せちゃ悪いような気がするなー」と、はなから弱腰である。

しかし、80年前に死んじまったオッサンの作品ともなると、「もういくらなんでも、そんな権利権利でガチガチに縛らなくていいだろうよ」ってなもンで、こちらもいささか強気になってしまい、実際にそのインチキ翻訳をいまだにブログから消してはいないのである(笑)。

何が言いたいかというと、何かそういう「常識的感覚」みたいなものと著作権法とゆーものの間には何か甚だしい乖離があるような気がするのである。法律というものは常にそういうものなのかもしれないけれども、いやしかし待てよ、そういえばオレは若い頃から「法律などというものには真実がない」などと偉そうなことを考えていたのだった。だから大学では文学部に進み、こんなうだつのあがらない人間になってしまったのだ・・・・・・などととりとめのないことを書いてみても詮方ないので今日はここまで。