というわけで、前回はジェローム・クラークの『The UFO Encyclopedia』に拠って、この「スワン/CIAコンタクト事件」の前史ともいうべきものをご紹介したのだが、今回はいよいよ「問題の1959年に何が起こったか」という話である。出典は、この事典の「SWAN/CIA CONTACT STORY」の項目ということになる。

 【真相その2


1959年の或る日のこと。海軍情報局(Office of Naval Intelligence;略称ONI)から連絡将校としてワシントンにあるCIAの写真情報センター(Photographic Intelligence Center;略称PIC)に出向していた海軍中佐のジュリアス・ラーセンは、スワン夫人に関するファイルを見つけて、こいつはいまどうなっているのか、フォローアップしてやろうと思い立つ。


つまり、ヴァレが仮名で「カーティス中佐」と呼んでいた人物の正体は、このジュリアス・ラーセンであったワケだ。ちなみに、彼もまたスピリチュアリズムにとても関心があり(!)、熱しやすいタイプの人物であったとクラークは書いている。前回のノウルズ提督もそうだったが、またまたこの手の話が大好きな軍人が登場してしまったワケである。しかし、そんな過去の書類ひっくり返して「調べてやろう」と言い出すとは、ホントこの人達はよほどヒマだったのだろうか。


1959年7月5日、ラーセン中佐は海軍のパイロット一人を伴ってノウルズ氏のところを訪問し、連れだってスワン夫人のところに話を聞きにいく。ここですっかり舞い上がってしまった中佐は、自ら自動書記を試みた。そこで出てきた相手方は、自らはAFFAであると名乗ったらしいのだが、スワン夫人、なかなかキビシイ人で、こんなことを言い放ったという。「これは私のところにくるAFFAじゃないわネ」。彼女はのちにこんな証言もしているらしい。「彼は何でも鵜呑みにしちゃったわ。ちょっと暴走しちゃったのネ」


チャネリングの「師匠」にあたるスワン夫人から、ちょっとあなたのは違うんじゃないの的なツッコミを受けたという話であるが、つまりこの大佐はかなり暗示にかかりやすいタイプであったということを言いたいのだろう。なお、他の資料では彼がスワン夫人を訪問したのは6月下旬などと書いているところが多いようだが、ここでは7月5日となっている。その次の日が、問題の7月6日。


翌日ワシントンに戻ったラーセンは、センターの長であるアーサー・ルンダールのもとに出向いた。彼もまたUFOや奇現象には興味をもっていることを知っていたのである。ルンダールは、海軍から出向中の副官、ロバート・ニーシャム少佐ともどもその話に耳を傾けた。ニーシャムもまたユタ・フィルムに対する海軍の分析にかかわっていた人物であり、いかほどかUFOについては知っていた。


この辺を読むと、いくらなんでもUFOとかスピリチュアリズムとかが好きな人がこんなにたくさん居て大丈夫なのか、と思う。もちろん前回も書いたように、軍人だって別に合理主義者ばっかりであるワケはないんだが、それにしても、という感じである。まあしかし、ここはクラークの言うことを信じるしかないので黙って先に進む。なお、ユタ・フィルムというのはUFO史上では有名な物件なので、興味のあるかたは勝手に調べてください(笑)。


その際、ルンダールとニーシャムは、ラーセンに宇宙人との交信をするよう促した。ラーセンは軽いトランス状態になり、声を出して質問を発した。彼が頭の中に答えを「聞いた」とき、彼はそれを書き付けた。この時あらわれた相手方は、前日同様、再びAFFAと名乗った。

さて、ニーシャムがAFFAに対して、姿をみせるか、それでなければ乗り物をみせてくれといったとき、ラーセンは突然筆を動かすのをやめて声を出した。「窓のところに行って」。ルンダールには何も変なものは見えなかった。が、ニーシャムは、フワフワしている雲の向こうに宇宙船がいると言い張った。何年ものち、ルンダールはUFO研究家のトッド・ゼッケルにこう語った。「私は宇宙船なりUFOなりといったものは一回も見ていないし、私の記憶している限り、ニーシャムも同じだったはずだ」

ニーシャムは、ワシントン国際空港のレーダーに連絡をとったところ、UFOがいるとおぼしき空域が「ブラックアウト」していると聞いた、とも主張した。が、この発言を裏づける他の証言は一切ない。


はい、このあたりが重要なポイントですね。「チャネリング中の会話と連動するかたちで円盤が出現した」というのがこの事件の生命線なのだが、これを読む限り、まぁチャネリング中の中佐の言うことは無視せざるを得ないのでほおっておくとすると、実は「円盤を見た」と言っているのはロバート・ニーシャム少佐ただ一人だったことになる。例のレーダーのブラックアウトという話も、彼一人がそう言っているだけで裏は取れていないようなのだ。


ルンダールはニーシャムに対して、プロジェクト・ブルーブックに連絡をとり、その長であるところのロバート・フレンド少佐に次回ワシントンに来た際にはPIC(写真情報センター)に顔を出すよう言っておくように、と命じた。ところがニーシャムはことのほか熱心で、フレンドにブリーフィングのために即刻来て欲しいと連絡した。フレンドは7月9日にやってきて、この一件について、いわば「ニーシャム・バージョン」の説明を聞いた。この場で行われたチャネリングでは、ラーセンはなんとかスペース・ピープルの言葉を受け取ることはできたのだが、宇宙船で空を飛んでくれという彼の要求ははねつけられた。


「それではUFOの専門家の話も聞いておこうか」的な流れで、フレンドをまじえた会議が7月9日に開かれたのだということがわかる。しかし、この辺を読むと、ニーシャム少佐が完全に暴走してしまい、9日の会議でも、本当にあったかどうかもわからないことを、さも事実であるかのようにまくしたてた、という図式が浮かび上がってくる。

いや、しかし、この会議に出ていた筈のルンダール氏は、自分はそんなものを見てないのだから、部下がそんな話をはじめたら「いやいや、実はそこのところはハッキリしていないのですよ」ぐらいのことを言うハズではないのか。実際に、フレンドも「本当にUFO目撃はあったのだ」というアタマでブルーブックに帰っていったワケなので、この辺はいささか不自然な気がする。ともかく、それからどうなったかというと――


ブルーブックの本拠地であるオハイオ州デイトンのライトパターソン空軍基地に戻ったフレンドは、メモを用意して、それを空軍航空技術情報センター(ATIC)の上官に渡した。この事件にかんして広がっていった伝説によるならば、このメモはのちのち「CIA文書」として知られていくことになる。上官から「連中が処理するだろうから、その件は忘れてよろしい」と言われたフレンドは、その後、この一件にはまったく関与しなかったという。

さて、世に知られていなかったこの一件は、歴史家のデイビッド・ジェイコブスがフレンドにインタビューした1972年になって明るみに出た。フレンドはジェイコブスに彼のノートを見せ、コピーすることも許したのだという。

次いでジェイコブスはこの出来事をドキュメント映画「UFO 現在・過去・未来」のプロデューサー&脚本家、つまりロバート・エメネガーに話し、その結果、エメネガーがフレンドに取材して同名の本を書いたことによって公になったのだという。ちなみに、のちにジェイコブス自身も自著「アメリカにおけるUFO論争」(1975)の中で、この話について論じている。


ここで、「CIAメモ」の話が出てくる。これはちょっと説明が必要な部分だろう。

実はエメネガーは、これまで述べてきた7月6日ならびに9日の出来事を詳細に記したメモを入手していて、それを基にしてこの事件のことを書いたらしい。そのメモの一部は本の中にも引用されている。ところが、ネタ元の秘匿ということなのだろう、エメネガーは「誰からメモを入手したか」については公表しなかった。おそらく推測が推測を呼び、このメモは「CIAが秘密裏に作成したものだ」という話になり、「CIAメモ」と呼ばれるようになってしまったらしい。

ちなみにこのエントリーの「前編」に引用した雑誌「Second Look」の1979年の記事も「CIAメモ」に触れていて、この書き手はルンダールだとしている。だが、このクラークの記述によれば、このメモはCIAならぬ、ブルーブックのフレンドの手で書かれたものである。つまり、7月9日の会合に出たフレンドがその場で語られたことを上官に報告するため作成したメモで、エメネガーから取材を受けた際に「こんな文書もあってネ」とかいってコッソリ渡しちまったんだが、おそらく守秘義務の関係とかで「あれはCIAメモじゃなくてオレが書いたヤツだ」とはあとから言い出せなくなっちまったのではないか。

こうした見方を裏付ける証拠もある。やはりこの事件について書いているヴァレがどこからその情報を得たのかというと、当時「プロジェクト・ブルーブック」の顧問をしていたアレン・ハイネックを通じて入手した文書が基になっているらしい。で、その文書というのは1959年7月、「ブルーブック」の長をしていたロバート・フレンドから見せてもらったオリジナルのメモを、ハイネックが手書きで書き写したものだという(この辺の話、どっかのサイトでチラ見した記憶があるがソース失念)。ネット上にはこのハイネックの手書きメモの画像も転がっていて、いささかよみにくいけれども、ザッとみたところ概ねエメネガーの本に転載されているメモと同一のようだ(つーか、このオリジナルメモをちゃんと読むべきなのだが、筆記体ということもあってよく読めない orz)

この間の経緯はよくわからんのだが、たぶんハイネックかヴァレの周辺から「え? あのメモって別にCIAが作ったものじゃないよ、フレンドが書いたのだよ」みたいな話が広まってしまったのではないか。ともあれ、クラークはこの事件に「ハクをつける」上で貢献してきた「CIAメモ」についても、その虚構性を指摘しているのである。

さてさて、こうみてくると、この奇っ怪な事件も意外に底の浅いものだったような気がしないでもない。


基本は、たまたま海軍関係でスピリチュアリズムや円盤が好きだという人々が、たまたま円盤チャネラーと出会ってしまい、その中に極めて暗示にかかりやすいラーセン中佐とか、あるいは幻視しやすいニーシャム少佐がたまたまいたことで話がもっともらしくなってしまった、という話であって、しかも「CIAが暗躍している」みたいな誤解を招きそうなもっともらしいメモなんかもあったものだから、一見したところの「信憑性」が高まってしまったのではないか。


・・・・ということで一件落着としても良いのだが、しかし。さっきも書いたように、本当にコレが真相であったのなら、責任ある立場のアーサー・ルンダール氏は「別にオレは円盤なんか見てねーし」と言い張っているのだから、7月9日の会議で「円盤が出現したのは事実」という流れになった時点で、ブレーキをかけないとおかしいのである。何かニーシャム少佐一人の暴走で話を済ませるわけにはいかないのである。

加えて、ルンダール氏は少なくとも「別に急がないけど、ブルーブックのフレンドにも来てくれるように声かけといてくれよ」的なことは言っていたようなのだが、そもそも自分自身が懐疑的であるならば、「空軍の人間も呼んでブリーフィングしよう」みたいな発想はなかなか出てこないのではないか。

何か釈然としないものが残る。「円盤はわかったと思ったときが一番危ない」らしいので、こういう不全感というものは大事にすべきであるのかもしれない。「真相編」などと言っておきながらこのザマであるけれども、まあ良しとしてくれ。本当は、この件に触れているというジェイコブスの『アメリカにおけるUFO論争』(邦題『全米UFO論争史』)にも目を通したいところであったが、どっかに隠れているし、また英語は面倒くさいというのもあってスルーした。杜撰きわまりないリサーチではあったが、とまれ、今回は以上で報告を終了する。(完)


追記

その後、『全米UFO論争史』の関連箇所をチェックしてみたが、あんまり詳しいことは書いてなかった。ただ、UFO目撃事件の場には「6人が出席していて、うち3人が目撃した」と書いているのは他の著作と違うところである。あと、会議後、フレンドが「デューク大学の超心理学研究所にこの将校と女性(注:つまりラーセンとスワンだろう)を調査させた方がよいと考えていた」というのも他にはない情報である。