太古の昔から、子供というのは事あるごとに「大人ってフケツだ!」と叫ぶことに相場が決まっていて、まぁ確かに自分が子供の頃を考えても、そういう傾向はあった。

子供というのは、なんというか、偽善的なにおいを嗅ぎつけると、「偉そうなこといってやがるけど、裏に回ってみりゃあ随分と汚えマネしてやがるじゃねえか」ということで批判を開始してしまうのであって、卑近な例でいうと、日テレの24時間テレビとか見てて「チャリティーだとか言ってるけどこのタレント、ちゃんとギャラもらってるっていうじゃねーか、結局売名行為だろが」とついつい怒ってしまうという、例のアレである。

あるいはもうちょっと高尚なレベルになると、オレなんかも昔よんだ本で、ポール・ジョンソンの『インテレクチュアルズ』というのがあるんだが、ここにはルソーとかサルトルとかいう偉い人たちが実生活では如何にゲスであったかということが綿綿と綴られており、うろ覚えではあるが、弱者の連帯を説いたハズのマルクスが家政婦に手を出したとかなんとか、ともかくそういう筆誅のつるべ撃ちで、読んだ当時まだ若かったオレは「なんだマルクスとかいったって結局ダメ人間じゃねーか」といって憤慨したものである。




日本の有名人にもそういうひとはいる。たとえば、人間愛に満ちた戯曲や小説を書いていた井上ひさしという作家がいて、「憲法を守れ!」みたいな発言もする進歩的文化人としても有名だったのだが、まぁ故人なので何の遠慮もなく書いてしまうけれども、あの人の奥さんに対する暴力、つまりいわゆるドメスティック・バイオレンスが度を越したものであったのは有名だ。ほとんど人相が変わってしまうぐらい暴力をふるった、みたいな話も聞く。

で、子供の倫理観からいうと、こういう人はウラオモテがあるということで、まずダメ出しを食らう。「偽善者だ!」「裏切られた!」で、ハイ終わり。


が、年を取るにつれて、「そういうケッペキ症みたいなのは本当に良いことなのであろうか?」みたいなことを考えるようになってきたのだな、不思議なことに。オレとしては、最近とみにそういう人間を「赦したい」(というと偉そうだが)気分になってきているのだ。

そりゃ、ずっと聖人君子でいられりゃ番いいんだけれど、同じ人間の中には「天使」の部分もありゃ「悪魔」の部分もある。どうしようもなくドス黒い、歪んだ欲望みたいなものがはからずも出てきちまうというのは人間のサガであって、そういうネガティブな面を目にしたからといって、そういう人間を全否定しちゃまずいんじゃねーか、と思う。否、むしろそうした「負性」を背負い込みながら生きていった人間のほうがよっぽど共感できたりする(たとえば以前のエントリーにも書いたけど実生活では「ワルイ奴」だった啄木とかね)。

なんだか理想を追い切れずに日々堕落していくオレ自分をかばうためのロジックという気がしないではない。いや、実際にそうなのかもしれないけれども、ただ、年をとってオレなりに見えてきた人間の実相というのはそういうものである。そうやって、親鸞の悪人正機説(善人尚もて往生をとぐ、いわんや悪人をや、というアレだな)に「これって真実だよなあ」としみじみ感じ入ったりする。

hanayamakaoru

で、「いや、モノの見えている人間はその辺はちゃんとわかってるンだよ」とオレは自己弁護を始めるわけだが、ここでふと思い出すのが、赤塚不二夫の「天才バカボン」に出てきたキャラ、花山カオル先生である。ロマンス小説の大家として純真な少年少女に愛されている小説家なのだが、実はゴミ溜めのような環境に埋もれていなければ美しい文章を書けない。その小説世界を愛するバカボンのママが訪ねていって、あまりの家の汚さに絶句してしまうが、善意でお掃除をしてあげたら、うんこがどーしたこーした、みたいな極端に下品な文章しか書けなくなってしまう。そういう話であった。

一見くだらない話のようにみえて、やはり赤塚は天才であって、ここには人間の「真・善・美」というものの儚さと脆さが如実に描かれているのだな。ハスの花は泥沼に咲くからこそ美しい。そんな言葉も思い浮かぶ。

もちろん、だからといって「開き直って偽悪趣味全開」というのも逆に気持ちが悪い。要は中庸ということになるわけだけれども、嫌煙主義の行き過ぎなんかをみるにつけても、なんか世の中はますますこの手の薄っぺらな世界に堕ちつつあるようだ。ちょっと残念。