ここんとこお国の偉い人から「どうか結婚して子供をたくさん産んで国家財政が破綻しないように税金払ってください」という発言が相次いでいる。実際、たとえば生涯未婚率の2010年時点のデータなどみてみると、50歳の男は20.14%、女は10.61%が未婚ということらしく、もはや生涯独身というのは決して珍しいことではなくなっていることがわかる。

しかし、ここで思うのだが、昔はそういう独り身の人間というのは周囲から有形無形のプレッシャーが加えられ、「しょうがないから結婚する」という方向にどうしたって行かざるを得なかったのである。社会的に半人前という烙印を押されたくなかったら結婚する。そうしないと社会生活を送る上で、とてもマズイ事態が生じていたのである。

そういう意味でいうと、最近は、別に結婚しなくてもそこまでの「差別」は受けない。そもそも社会的な「圧」みたいなものが何やかやいって減ってきている。「少子化というモンダイ」の根っこにはそういう状況があるのだろう。

これをオレ流の言い方でいうと、ここで生じているのは「文化の崩壊」という問題である。

どういうことかというと、そもそも「文化」というのは、複数の人間の間で共有されている習慣とか観念とかの束みたいなものであって、であるからこそ文化が文化として成立している限り、その観念はそれなりのリスペクトを得ることができる。

当然、「いい年になったら結婚するものだ」「爺さん・婆さんに孫の顔みせるのも親孝行のうち」みたいな観念もある種の「文化」であった。それが今日においては「いや、それは個人の勝手じゃネ」ということになってしまって、共同幻想=文化的な地位を喪失してしまった。つまり、「そういう個人のモンダイは全部個人の勝手にしていいから」という近代主義的人間観というものがいよいよ浸透してきた結果、これまでの了解事項=文化は無効になってしまった、ということなのだな、たぶん。

ま、それはそれでしょうがないことなのだろう。「文化」とか偉そうに言ったって、多くの場合、ソイツは共同体の中の誰かさん――おそらくは為政者――の利益に適うようなかたちでセットアップされているということは十分考えられることで、ま、ここんとこ「みんな結婚して子供産んでね」とゆー主張を大声で叫んでるのは政府の偉い人ばっかり、という事実からしてもその辺のことはなんとなくワカル。「そんなのオレは認めねえよ」ということになっても当然である。

ただ、ある意味くだらねえ保守性をはらんではいるとはいえ、人間が生きていく上でのある種の「拠りどころ」みたいなものを与えてきたのもまた「文化」だと思う。いまさら柳田国男の「先祖の話」みたいなことを言い出しても仕方ないのだろうが、「祖先も子孫もオレには関係ねえよ、オレは一人で生きて一人で勝手に死んでいくんだよ」というクールな人間観を抱いて生きて(あるいは死んで)いけるほど人間って強いのかYOと思うところもオレなんかにはある。

オレか? うむ、やっぱ弱い人間なので結婚して二児を得て、まぁ死んだらたまには線香ぐらいあげてもらえるんじゃないか、ということで、どうにかこうにか毎日やっているんだが、さて。