反オカルト論 (光文社新書)
高橋 昌一郎
光文社
2016-09-15



高橋昌一郎『反オカルト論』 (光文社新書)を読んでいたら、東大の進学ガイドブックに学生さんが書いた理学部数学科へのおさそい(?)のメッセージが引用されていた。以前どっかで読んだこともあるような気がしたが、ともかく次のような文章である。


東京大学理学部数学科

数学科に進学することは人生の多くのものを諦めるということである。言わずと知れた東大数学科の院試の難しさ、就職率の悪さ、学生間の関係の希薄さは言うまでもないが、加えて人間的な余裕をも諦めなければならない。数学の抽象度は日ごとに増し、数学科生は日夜数学のことを考えながら生きていくことを強いられる。某教授に言わせれば、『数学を考えようと思って考えているうちは二流である。無意識の夢の中でも考えられるようになって初めて一流である』だそう。そのような生活の果てにあるのは疲れ切った頭脳と荒廃した精神のみである。


一見とても自虐的なことが書いてあるのだが、しかし、本来の学問というのは「ありとあらゆる苦難を舐めてもなおその先を見極めたい」というやむにやまれぬ情熱に駆りたてられてやるものなのだということを暗に説いており、そういう人こそ数学の道に来て頂きたい、と言っているのである。なるほどこれは核心を衝いておるワイと思った。

そして、この言葉はおそらく、数学の研究者についてのみ当てはまるものではない。この文章の「数学」というところを他の学問に入れ替えても、その文意は十分に通じるのである(とりわけ「すぐには役立たない学問」を代入するとしっくりくる。哲学とか)。以下、○○に各自お好きな学問の名前を当てはめてお読み頂きたい。


○○科に進学することは人生の多くのものを諦めるということである。言わずと知れた東大○○科の院試の難しさ、就職率の悪さ、学生間の関係の希薄さは言うまでもないが、加えて人間的な余裕をも諦めなければならない。○○の抽象度は日ごとに増し、○○科生は日夜○○のことを考えながら生きていくことを強いられる。某教授に言わせれば、『○○を考えようと思って考えているうちは二流である。無意識の夢の中でも考えられるようになって初めて一流である』だそう。そのような生活の果てにあるのは疲れ切った頭脳と荒廃した精神のみである。


オレなども遠い昔、大学生だった時分には一瞬研究者を目指そうかと考えたことはあった。だが、やはり世俗的な欲望みたいなものを全部振り捨てて学問の道に進むような気迫や情熱は欠いていた。だからごくふつうの会社員になった。

そんなオレなどがいまさら外野からいろいろ言っても全く説得力はないのだが、最近とみに文教予算が削られて研究者の生活もかなり厳しいことになっていると聞けば、さすがに我慢にも限界はあるだろうとエールのひとつも送りたくなってくるのだった。

学者の皆さん、いろいろ大変だろうが
初心を忘れず頑張ってください!


「オカルト」がテーマのこの本の本筋からいうと若干わき道のほうの話なのだが、ちょっと琴線に触れるところがあったので書いてみた。


【追記】
なお、この『反オカルト論』 はまだ読み始めたばかりであるが、教授と助手の対談スタイルで書いてあって、幅広い人たちを対象とした啓蒙的な狙いの本のやうである(もともと週刊誌に連載していたものがベースらしい)。

とはいいながら、最初のほうに出てくる霊媒師、ミナ・"マージャリー"・クランドンのおはなしなどは、かなりスレているオレなどにとっても非常に勉強になった。

20世紀のはじめ、彼女は金持ちのお医者さんであるダンナと一緒にボストンでハイソな人々を招いた降霊会を開いておったわけだが、本書によれば、彼女はそこにノーパン&ネグリジェ的な格好で現れるのが恒例であり、そこではダンナが「身体検査」と称して賓客にヨメの体を触らせる、みたいな趣向があったようなのである。つまりこの降霊会、本来は、ヒマをもてあまして生活に刺激を求めていた有閑階級を対象に、特殊な嗜好(笑)をもつ夫妻が提供していた「おさわりバー」的な催しであったということらしい。

彼女は陰部に「エクトプラズム」のネタを仕込んでいた、みたいな話は、たしかステイシー・ホーン『超常現象を科学にした男』にも書いてあったけれど、この本を読むとヘンタイ」というかなんというか、もう困った人たちだと思う。

で、こういうストーリーの背景にはこのマージャリーさんがとても魅力的な女性だったという事実があるらしいのだが、ネットで写真を検索してみるかぎり、「なんで?そうなの?」という感想を抱いてしまったりする(今の基準からすると明らかなセクハラだろうが、真実探求のためなので許せ)。

mina_crandon
これが
ミナ・"マージャリー"・クランドンさん (1888–1941)