今朝の天声人語はまた何とも痛々しい内容であった。

遺伝学における「優性」「劣性」という言葉が、このたび「顕性」「潜性」に言い換えられることになった――という話がフリである。

それから「翻訳の難しさ」という方向にもっていくのはやや苦しいが、まあそれはそれとして、「ソサエティー」という言葉についての話になる。この言葉については、かつては「人間交際」「仲間連中」といった翻訳語が提唱されたこともあったが、最終的にはピッタリはまる「社会」という翻譯語が定着するにいたった、というような事を言っている。

で、最後はこんなふうに締める。


最近はどうも翻訳の努力が足りないようだ。コミットメントやガバナンスなど、そのまま持ち込まれる例が目につく。意味をあいまいにし、ごまかすために使われるのでなければいいが。


うーん、結局「むかしの人はちゃんと外国語を咀嚼して翻訳語を作ったんだが、いまの人間はそういう努力を惜しんでカナ書きにして誤魔化しておる。嘆かわしい」という主張であるわけだが、だがしかし、こういう議論が成り立つ前提には「あらゆる言語・言葉は翻訳可能である」という考え方があるワケで、オレはそれは違うと思う。

端的にいって「ソサエティ」と「社会」は似て非なるものだと思う。日本における「社会」というのは相互監視・足の引っ張り合いといったシステムをビルトインしたもので、西洋由来の「society」とは相当違うのではないか。

「コミットメントやガバナンス」といった言葉だって、日本語にした途端、別種のものに変じてしまうのは必定。なんというか、結局、「西洋由来の民主主義・合理主義といったものは普遍的なものであって、それをこの日本に導入するのはいともたやすいことでアル」みたいな、つまり朝日新聞伝統の近代啓蒙主義のいやらしさが漂ってくる、悪しき天声人語の実例であった。