日本人の英語ベタは有名であるが、最近はとりわけ国際的なビジネスの場で必要だということなのだろう、経済界あたりを中心にして「聞く・話す」能力を何とかして頂きたいという声が高まっているようだ。

英語の本を読んだり書いたりするのは、まぁかなり難があるにせよ何とかなるとしても、オーラルのほうはからきしダメ。こういう日本人の弱点を強化せよ、という話である。

こうした財界のお願いにはからきし弱い政府・自民党であるから、「聞く・話す・読む・書く」のいわゆる英語4技能を全部ちゃんとできるようにしなさいということで、大学入学共通テストに民間のテストをねじ込もうとした。

したんだが、制度設計がムチャクチャであることがわかってしまい、英語民間テストの導入は先送りになったことは皆さんご承知の通りである。

だがしかし、オレなどは思うのだが、こういう「試験に出るからヒアリングやスピーキングやらないとイカンよなあ」みたいな発想で本当に実力はつくのか。

そりゃ、「一流企業に入るためには英語ちゃんと使えないと絶対ダメ」みたいな話になれば就活生は死に物狂いで勉強してそこそこ英語をモノにするんだろうが、財界のほうも入社試験で精緻な英語力の試験をするなどというのは面倒なのでそんなことはやらない。結局、「学生時代にちゃんと英語おぼえてから入社してネ」という実に安直な発想で英語を仕込む役割を他に丸投げしているのだった。


話が若干横道にそれたが、つまり、ここでオレが言いたいのは、学ぶ者に大したモチベーションがないところでいくら「英語を聞き取ったり喋ったりできるようにお勉強しましょうね」といっても、それはほとんど徒労に終わるということなのである。

じゃあ日本以外はどうなってんのかと考える。日本以外の先進国(日本はいまや先進国ではないという主張もあるがw)では誰もがかなりのレベルで英語を操っている。彼我の違いはどこにあるのか。やはりそこにはモチベーションの有無が関わっているのだろうと思う。つまり、日本以外の先進国の皆さんは、おそらく「英語でコミュニケーションしたい」という強い思いがある。なぜそんなことを考えるか。それはたぶん「世界にむけてゼヒ言いたいことがある」からなのだ。

今や英語は世界の共通語。世界人類にどうしても主張したいことがあれば英語を覚えるしかない。じゃ一生懸命やりましょう――おそらく連中のアタマの中はそういう風にできあがっているのではないか。

たとえば、最近有名になったスウェーデンの16歳の環境活動家、グレタ・トゥンベリさんという人がいる。ニュースでさんざん報道されたので皆さんご存じだろうが、要するに「地球はこのままほっとくと地球温暖化等で破滅する。ジジイどもはもうすぐ死ぬからいいが、そういう世界で生きていかなきゃならんのは我々若者なんだよ! 早く手を打ってくれよ!」という意味のことを言って世界じゅうを飛び回り、国際会議とかで発言し続けている高校生である。

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彼女はこういう話をもう怒髪天を衝くというような調子でまくし立てる。で、それは当然英語である。スウェーデン人であるから、彼女も当然、外国語として英語を学んだのであろう。オレも他人の英語を云々する能力などないけれども、フツーに立派な英語をしゃべっている(ように思う)。彼女などを見ていると、やはりそこには「オレには言いたいことがあるんだよ!」という熱い思いがまず第一にあるように思われる。

義憤でもなんでもいいから「まず言いたい、発信したい」という人と「試験に必要だから英語のスピーキングでもやるかー」という人では、もうハナから勝負はついているのだった。

で、トゥンベリさんについては「ありゃあオトナの入れ知恵。言わされてるんだよ」的な陰口が聞こえてきたりする。まぁ年端もいかぬ高校生があれだけ堂々と自らの主張を繰り広げるンだから、そう思いたがる人もいるかもしらんが、その主張の是非とかは別にして、あの形相でいろいろまくし立てる彼女を見ていると、何としても伝えたいことがあるのは確かではないか。


で、オレの視線はわが国の状況に戻ってくるわけだが、そもそも日本の教育の場で「他人がどう言おうとオレには絶対言いたいことがあるし、それを世界に向けて語りたい」みたいなことを子供が言い出したらどうなるか? おそらく、「なんだこの理屈っぽいガキは」とか言われて教師から目をつけられ、「もうちょっとみんなと仲良くしようよ」とかいって丸め込まれてしまうのである。

自己主張は美徳でもなんでもないという文化環境にあれば、「死んでもこれを訴えたい」なんてものは出てこない。出てこなければ「英語で世界に言いたいことがある」などという発想もありえない。エリカ様ではないが「別に~」などと斜に構えている人間には、英語を学ぼうという強力なモチベーションは絶対出てこないのである。


ということで、結論的には文化決定論みたいになって恐縮だが、こういう「出る杭は打たれる」社会ではどうしたって英語を表現のツールとして使おうというような発想は出てこないし、従って英語はうまくならない。自国の首相がウソばっかりついてるのに「まぁいいじゃん」とかいってスルーするナアナア社会、批判的思考を欠いた社会というもの自体が改まらない限り、この状況は変わるまい。