2011年05月

というわけで、共産党都議団が都内全域で空中放射線量を測ってまわった、というニュースにはひじょうに考えさせられた。「東京都民は大丈夫かというと実は結構微妙である」という話である。たまたま俺の家が比較的汚染の酷いほうに入ってるから、個人的メモも兼ねてしばし考えてみることにした。まぁこんなブログを読む人もいないだろうが、福島の方などからすれば「なに甘いこと言ってやがる!」という話ではあるのだが。

じつのところ、これまで新聞には毎日各地の放射線量測定結果なんかが書いてあって、新宿は毎日0.06マイクロシーベルト毎時ぐらいということになってるから、「あぁ東京は平時とほとんど変わらんのか、大丈夫だね」という気分になっていた。だが、共産党の数字はちょいと違う。高い。

とくに俺の住んでる東京湾岸部あたりでは0.181マイクロシーベルト毎時みたいな数字が出てる。お上の出してる新宿の数字のなんと3倍! 年間累計でいうと、24*365*0.181=1.585ミリシーベルト。よく出てくる例の「1ミリシーベルト」ラインを大きく超しているのである。

なんでそんなに違うのだ、という話になるわけだが、まぁこれは別に東京都が情報を秘匿してるわけではなくて、まぁ理屈でわかるところではある。

ひとつには測定地点が「ホットスポット」なのか否か、という問題だろう。放射性物質がたまたま多く降下してきた地域はより強く汚染される、という例の話だ。程度の差はあれ、そのへんの濃淡というのはどうしても出てくるのであろう。で、今回たまたま「山の手」は軽く、「下町」は重く、という結果になった、と。カミサマは非情であった。

もうひとつは新宿のが地上十数メートルで測ってるのに対して、共産党は地上1メートルで測ったから、であろう。とうぜん、地面に降りつもった放射性物質の影響で、地面に寄ったほうが高い数字が出る。そして、明らかに地上1メートルのほうが「害があるのかないのか」の目安として重要なわけだが、「原発安全神話」があったせいなのかどうか、そういう観測体制はこれまで全く整っていなかった。で、共産党が今回乗り出した、というのがこれまでの流れなのだろう。とりあえずGJ。

で、以下は個人的な感想。

共産党調査によると、上にもかいたけれども、どうやら都内も東北ないし東方向にむかうほど汚染がひどいという傾向がみてとれるわけで、その中では俺の住んでいる地域はかなり数値が高い。気持ちは良くない。ただし、ただちに問題(苦笑)なのかどうか、というところがなかなか微妙なのである。

たとえば、日本地質学会のHPをみてみる(ちなみにここのデータも地上1メートルで計算してるらしく、共産党のと比較するのに都合がよい)。これをみると俺の家のあたりの自然放射線量=バックグラウンド量は0.036~0.054μG/h(計算上マイクロシーベルト毎時と同じ数字になるという)で、年間換算だと0.315~0.473ミリシーベルト。共産党のデータは年間1.585ミリシーベルだったから、ざっと計算すると年間1.1~1.3ミリシーベルトぐらい余計に被曝してしまうことになる。

【 注:ただし日本地質学会のHPでは、ここで示す自然放射線の数値には「宇宙線による放射線量(おおむね年間0.33 ミリシーベルト)は含めていない」という意味のことが書いてある。仮に共産党のデータが宇宙線込みの数字だったとすると、両者を比較するには日本地質学会のデータに0.33ミリシーベルト/年を加算しないといけない。その場合だと、俺が家で余計に被曝する放射線量は年間で0.8~1.0ミリシーベルトぐらい。数字的にはやや緩くなりますな。文系なので(笑)この辺はどう考えればいいのか、正直よくわからないのだが】

世の中で騒いでいる「1ミリシーベルト」の何が問題だったかというと、ICRPが「一般公衆が1年間にさらされてよい人工放射線の限度=1ミリシーベルト」といってたからである。つまりは単に1ミリ浴びたからマズイというんじゃなくて(実際、さきの日本地質学会のHPみても、岐阜県あたりは自然放射線で年間1.1ミリぐらい浴びてる計算になる)、「自然界にあるバックグラウンド分にプラスして、余計に1ミリ浴びるとよろしくないよ」という話であったわけで、いままさに俺ンところはそういう事態になっているのである。

ただし、である。これは以前調べたのだが、自然に被曝する放射線量は世界平均2.4ミリシーベルト。これに対して日本平均はたしか1.4ミリシーベルト。日本では空気中の放射線量が相対的に少ないからこういうことになっているらしいのだが、であれば、いま俺ンとこで年間1ミリシーベルト被曝量が増えても、単に世界標準(笑)に到達しただけではないのか? たしか原発事故直後にローマの放射線量は0.25マイクロシーベルト毎時である、みたいな話が広まったことがあった。これも地上何メートルで測ったのか、とかよくわからんデータではあるんだけれども、まぁ常識的な観測データだったとすれば俺ンとこよりまだまだローマ高いじゃねーか、ということになる。ま、自然と人工の違いはあっても、同じ人間が同じ放射線量を浴びたんなら、健康面でそんなに違いがでてくるわけないでしょ?と思うのである。ならばまだまだ大丈夫なのではないか?

もっとも油断はできんのである。ICRPがあえて「人工放射線は年間1ミリまでネ」という言い方をしていることには、実は深い意味があるのかもしれんのである。たとえば、放射能の影響というのは、人種とかによって違ってくる、ということをICRPの言い回しは示唆しているのではないか? つまり、「放射線が高い地域でずっと暮らしてきた人々=ヨーロッパ人は放射線に対する耐性が強い」「弱い地域で暮らしてきた人々=日本人は耐性が弱い」という話だったらどうなるか? 結局、自然放射線を浴びる分には想定内だからそれぞれ差があってもいいんだけど、これにプラスして浴びる人工の放射線のほうはキッチリ管理しないとダメだかんね、ということを言いたいのではなかろうか? ならば「日本人はヨーロッパ人に対して、まだ年間1ミリののりしろがあるから、余裕あるよね」とは言えなくなってしまうのである。


そういえば、「ブラジル・ガラパリの人たちは年間10ミリシーベルトを浴びてるけど別にガンになる確率が増えてるわけではない」という話があるにもかかわらず、「じゃ日本人だって年間10ミリぐらいなら大丈夫」という風に議論が転がっていかないのがずっと不思議だったのだが、そのあたりも、ひょっとして「代々ガラパリに住んできた一族は放射線に強い体質を獲得している」という命題を導入したらまったく不思議でも何でもなくなるのではないか?

もっともこの想定が正しいとするならば、放射能に対して「虚弱」な日本人がヨーロッパとか放射線量の高いところに行って暮らすようになるとガン化の危険が増加するはず、といったハナシにもなってくるのである。ほんとうにそんなことがあるのか? 日焼けにたいする耐性とかだったら色素の有無とかであって当たり前だけど、DNAへの影響みたいなミクロレベルで人種差なんてあるのかよ、と激しく疑問を感じる俺もいるんだが、一方で薬の効き目みたいなレベルではかなり人種差がある、みたいな話も聞いたことがある。やはり文系出身の限界がこの辺に露呈してしまって、よくわからなくなってしまうのである(笑)。

閑話休題。今回は空気中の放射線量の話だったわけだが、「放射線には食物などを通じた体内被曝などもあるので、ひょっとしたら全被曝量は体外空気中からの被曝量の3倍ぐらいをみとけばいいのではないか」みたいな、根拠はハッキリしないけれども何となく目安にはなるので便利な想定をする人もいる。その場合、年間被曝量は数ミリシーベルトになってしまうかもしれぬ。悪いほうのシナリオということでいえば、東京でフツーに暮らす俺たちもそれぐらいのことは想定しておかねばならないということはとりあえず言えるのだろう。

もちろん、俺のように(今でこそ禁煙しているけど)数十年タバコ吸ってきた人間は、放射線でいえば数百ミリシーベルトを浴びてきたようなもので今さら大勢に影響がないのは分かりきったことなのだが、やはりこんなレベルでも子供にはどうなんだろうなぁと考えてしまうところがある。とにかく共産党さんでも何でもいいから、その辺の影響を抑え込むための英知を是非に発揮していただきたい。

そして、もひとつ。よくよく調べればわかるのかもしれないけれども、ここで書いたような「人種によって同じ放射線量を浴びても影響は違うのか」「ガラパリの皆さんにかんする知見は日本人にとってあんまり意味ナイのか」「人口の放射線と自然放射線を区別する意味はあるのか」(以上はみな同じことを別の方向から言っているにすぎないのだが)といった疑問は、研究者の方なり科学ジャーナリストの方なりに明解な解説をしていただきたい。そのへんのことも寡聞にして聞いたおぼえがないのである。何度も書くけれども、この辺、とても重要なことだと思うのだが。


【6/3追記】

などとグダグダ書いてきたわけだが、ここにきてだんだんわかってきました。自然放射線と人工放射線のちがい。このページなんか、とてもわかりやすかった。いやぁ、ちょっと探せばすぐあるじゃないですか。さいごのほうが、ちょっと怪しげな方向にいってるけどね。ともあれ自らの不明を恥じいる次第(笑)。

つまり自然界でわれわれが出くわして内部被曝してしまう放射性物質は多くの場合カリウムとかラドンなのだが、こいつらは体内にほとんど蓄積されない、と。一方の人工のほうの核種には甲状腺に集まりやすいヨウ素、骨に集まりやすいストロンチウムとかがあるんで、いったん体内にとりこまれると一極集中ということもあって影響が大である、と。

なるほど、そういう意味では単純に比較はできないんですなぁ。

理屈からいえば、大気中とか、とにかく体の外部から浴びる限りでは自然だろうが人工だろうが放射線の効果に差はない(ということでいいのかな?)。ところがいったん体内に入るとなると人工のは微量でも強力である、と。そうすると「人工放射線でプラス1ミリシーベルト」という言い方にはやっぱりそれなりの根拠があるようですなー。

ん? でもそうすると、今回の共産党調査じゃないですが、そのあたりの地上で計測した空中放射線量から「年間累計1~2ミリの被曝」とかいう数字が出た場合でも、それが「体外からの被曝」である限り自然放射線とおなじ性格のもの、と見ていいわけですよね。ガラパリの自然放射線10ミリ=体外からの被曝がさほど恐るるにたらないということであれば、その年間累計1~2ミリという数字自体はさほど怖くないんじゃないの?

むしろここには出てきていない数字――大気中とかから回り回ってわれわれの体に入ってくる人工の放射性物質がいかほどあるのか、というのが問題ということになりはせんか。 

う~ん、街角の放射線値がちょっと高いというとき注意すべきなのは、直接被曝することというより、「その辺の空気中に浮いてる放射性物質を吸い込んで体内被曝すること」という理解でいいのかな? やっぱり浮いてんのかな、そういうの? 俺のようなジジイはともかく、子供のことを考えるとあんまり余裕かましてもいられねーみたい。まだまだ勉強しないといかんなぁ。
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原発については、何万年・何十万年単位で管理が必要になってくる高レベル放射性廃棄物をどうすんのよ、という議論があるわけだが、「とりあえず原発必要→じゃあしょうがないから子孫の代にツケ回しとくか。おあとヨロシク」といったあたりが、積極的に抑制を訴えてこなかった多くの国民のホンネといえるのではないか。

じっさい、今でも日本国民の総意としては「原発即刻とめるべし」という話にはなっていないようであるし。

なんか強引に文化論に落とし込むのは無理があるとは思うのだが、このへん、どっか「身内なら許してくれる」みたいな日本人独特の甘えがあるような気がしてならないなー。あと、「いや、なんかほっとけばいつのまにか収まるものなんです、何事も」といった、いわば「水に流す」風土とか関係あるんじゃないかなー。などと妄想はひろがる。

ま、しかし、年金問題とかとレベルが違って、これはそれこそ万年単位の子孫へのツケまわしだし、放射能とかは(水で洗うとすこしマシではあろうがw)水でそうそう流せるものじゃないし。子孫がそうそう「甘え」を許してくれるかどうか。

年寄りが次の世代に「お前らはな~」と説教するのはよくあるパターンだったが、これからは「ジジイたちのせいで散々なことになっちまったぞ!!」と上の世代が罵倒されるのがデフォルト、という時代がやってくるのかな。


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けさの朝日新聞のオピニオン欄、水俣学の原田正純氏インタビューは良かった。

「(放射性物質の安全基準について)根拠を示せないからといって政府が口をつぐんだらだめ。『現時点では十分な科学的根拠はありません。でも今後こういう危険が考えられるので、政治的な判断で実施します』ということを、ていねいにていねいに説明することです。もちろん住民の不安をあおったらいけないけれど、放射線の影響には未知の部分があることもしっかり押さえておかないといけない」

このあたり全面的に同意する。「根拠がない」ということに政府もわれわれ国民も耐えていかねばならない。楽観も悲観もせず。
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きのう本屋に子供といったら、「これほしい」とかいって本棚をゆびさす。その先には「地震のサバイバル」 (かがくるBOOK―科学漫画サバイバルシリーズ) 。子供向けの地震解説マンガ。朝日新聞出版刊であった。

「おぉ、地震大国の小国民としては感心、感心」。というわけで、買ってやった。

が、帰ってきてチラチラみてみると、ん? 韓国人の書いたマンガではないか。韓国人の家族が日本の島にキャンプにきたところ(対馬かw)、ぐうぜん大地震・津波に遭遇するというストーリー。ギャグをまじえて子供にも読みやすいゾという線を狙っていて、画力もなかなか。地震って怖いんだぞ的なアピールはそこそこ達成している。子供も黙って読んでいた。

ただ、かんじんの科学解説の部分がこころもとない。地震の前兆として動物の挙動やら地震雲の話なんかは書いているけれども、それだけじゃあな~。プレート地震のことはいろいろ書いてたが、活断層についての説明はほとんどなかったし。うしろのほうに、漫画家と原作者?が日本に取材旅行に来た、みたいなこともかいてあったが、やっぱり地震に詳しくない韓国人にこういう企画投げちゃダメなんじゃないか? 

で、妻も横からのぞいて言うことには、「朝日新聞の本でしょ? 韓国に外注して安く上げてんじゃない? それってどーよ?」。 うーん、たしかに新聞屋がこれから生き残るには信用第一。やぼったいとか、ダサイとかいわれてもいいので、地道にポイントを押さえる本を作らんといかんだろう。

まぁ経緯はよくわからんけれども、大震災直後の日本人としては、もうちょっと魂の入った本作ってほしかったなーという思いがある(ちなみに刊行は2008年だった)。


地震のサバイバル (かがくるBOOK―科学漫画サバイバルシリーズ)

地震のサバイバル (かがくるBOOK―科学漫画サバイバルシリーズ)

  • 作者: 洪在徹
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2008/08/07
  • メディア: 単行本




【追記】
念のためググってみると、この本、韓国の教育書専門出版社が出してヒットしたシリーズもののひとつ、らしい。中国や台湾、タイなどでも翻訳版が売れているという話で、たまたま日本では朝日が権利を買い取ったということかな。まぁしかし韓国人が書いた地震本をそのまま日本で出しちまえ、ってのは如何なものか。いちど編集しなおしてほしいわな。
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本日は麺武虎龍神田店で昼飯を食してきた。

味噌ラーメン(850円+2倍大盛り150円)。写真は借り物(味噌ラーメンのようだ)。
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どうも札幌・純連インスパイア系ということらしい。そう、純連というか「すみれ」というか、札幌のあの店に初めて行ったのは、かれこれ20数年前になるかな。澄川に移転になる前、全国区になる前の話だったな。旨かったな。

ということで、のれん分けなのか単にコピーしてみただけなのか良くわからんが、こういう店も東京に出現する時代になったというわけだ。で、食ってみる。縮れ麺に、表面にうかぶラード、タマネギとひき肉をいためたのぱらぱら、四角く切った小さいチャーシューぱらぱら、隠し味のショウガ(この店は堂々と乗っけてたが)・・・・ふむ、見た目は似ているし、味もそこそこ似た感じに仕上げている。なんか150円でめん2倍サービスだった(いまだけかな?)こともあるし、札幌ラーメンとしてはまず満足。

ただ、なんか大昔に札幌で食ったのとはどっか違うんだな。あの寒い街でフーフーいいながら食ったからこそ格別、ということもあるだろうし。「純連も味おちたよね~」とか言ってみたくなる心理とか、昔のもろもろを美化したくなる記憶のメカニズムとか、ま、いろいろあってのことだろうが。青春の日は帰らず、ということでもある。たぶん。


【追記 2012/5/23】
なおこの店、そのご閉店してしまいました。神田辺りじゃ割高感がぬぐえなかったか?
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本日の昼飯もラーメンで「東京駅 斑鳩」。ラーメンストリートがこの前改装オープンしたわけだが、それで新しく入った店。本店は九段下の有名店。2時頃いったらすんなり入れた。ちなみに、近くの「六厘舎」は本日も大行列だが、それほどの(ry

さて斑鳩。券売機冒頭には「東京駅らー麺980円」という、おそらくフラッグシップ的メニューもあったが、「らー麺750円+大盛100円(例によってw)+たまご100円」にする。

麺はやや細めのストレート系。けっこうコシがある。スープはねっとり。一瞬、魚系の出汁というか魚粉系の旨みを感じるが、豚骨かなんかソッチ系のコクもある。で、何の違和感もなくスルスルと食べた。感想。麺もひと工夫あるし、スープのほうも、最近流行りなのか、複合ダシで手堅い仕上がり。

こういう感じで、「へへ、けっこうオリジナリティあるでしょ、うちのは」的にアピールするのが当今はやりなのだとすれば及第点なのだろう。だがジジイ的には、なんかこれラーメンの王道とはちがうんじゃね?という思いも否めない。




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本日の昼飯は、けっこう著名な「ど・みそ」八丁堀店で、みそオロチョン(950円+大盛り100円。辛さ普通でオーダー)。借り物の写真を貼っておこう。

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感想は、うーん、やや微妙。スープはなかなかだと思う。さほど辛くもなく、スープとひき肉、もやし、ニラとかもしだすハーモニーはなかなかバランスが取れている。ただ、麺、なんだよな~。俺の趣味でいうと、みそラーメンというのは、やっぱり、かんすいたっぷりで真っ黄色の、クシャクシャっとした北海道・西山製麺的なものでないといかん。ここのは浅草開化楼の、中太平打ち縮れ麺というふれこみであるが、西山製麺とくらべるとやっぱり丸太=うどん寄り。こういうプリプリした食感がすきな人もいるだろうが、俺的にはこれはみその麺ではないのである。

あと、やはり俺はいつまでたっても貧乏学生的なB級グルメ志向が抜けないので、「さぁさ、なんにもないけど、たくさんあるからたんとめしあがれ」がもてなしの基本だと思っているところがあり、その点で大盛りのボリューム感を評価対象とするのだが、その点でもいまひとつ。値段もけっこうするしネ。

というわけで、もう一回ぐらい、ここの人気メニューだという「特みそこってりらーめん」なる一品を食べてみて、それでこれからも通うかどうか決めることにしよう。
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Chromebookが来月発売(ただし日本はまだ)だそうだ。ちょっとそそられる。ハードが安いとかいろいろあるようだが、やはりクラウド環境での利用に特化したというところが斬新ではある。ま、ネット環境バッチリという前提であれば面白そうだ

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政府には、原子力政策を推進してきた責任がある。賠償総額が一定以上膨らんだ場合には、国がきちんと負担する仕組みを導入すべきであろう。


以上、けさの某新聞社説より。なんかなー、原発推進派だったメディアがそういうこと書くのは自家撞着ではないのかなぁ? 「じゃあ、おたくも責任とってね」という話になるから。

それと「国がきちんと負担する仕組みを」と言ってるけれども、これは結局国民が負担しろということだよな。意訳すると「国民の大多数も原発肯定の政権を選択してたんだろ? お前らも払えよ」という話で、そういう論理は、まぁ身も蓋もないけれども成り立つとは思う。思うけれども、これも原発推進派だったメディアから言われるとなんかムカつく。
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銀座はいいソバ店がない、と聞く。

というか、俺にいわせれば東京のソバ屋というのは、総じてダメである。名店という名をほしいままにする某「KYそば」とか、いわゆる食通の褒める店はたしかにあるのだが、俺のソバ観からするとああいうのはもう失格。

なんかザルの上に箸で2回ぐらいたぐるとなくなってしまうソバがのっていて、厳選素材貴重品デアルカラ心シテ食イナサイ的な偉そうな構えで出てくるのがまず気に入らない。しかもそんなものでけっこうな銭をとる。

ソバなんて、しょせん痩せ地でも育つ主食の代用品ではなかったのか。なんかどこで勘違いしちまったのか、「ヌキで一杯飲んで締めにザルをちょいとすすって帰るか」みたいな通人好みの食い物になっちまったから、江戸のソバはダメなんである。そもそもあんな二口ぐらい食っても、ウマイかどうかなんてよくわからんのではないか。もうそこで問題外なのである。客をなめとんのか、とさえ思うときがある。

というのも、まぁ俺の出自にかかわるところがあるのだろう、俺は信州の生まれで、つまりはソバどころの産、近年では都会人向けの気取ったソバ屋もけっこうあるやに聞くが、もりもりガツガツ食うのがソバである的な、古き良き田舎ソバの文化がなお命脈を保っておる。そっちが正統なのである、と俺は強く主張したいのである。

もちろんそういう田舎ソバの系譜というのは各地にあるはずで、たとえば俺がかつて2年ほど暮らした山形もまさにそういう伝統を墨守する地域であった(大石田の七兵衛そば、であったか、1000円払えば食べ放題ということで、何か古民家の広間みたいなところに客を並べて、ゴツイ手打ちそばを供するという驚異的な店さえあった。今もあるのだろうか?)

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で、本題に戻るのだが、その手のソバ屋が銀座にあった。「山形田」という店で、山形の板ソバ系の黒々としたそばを食わせてくれる。どうやら山形の青年会議所かなんかが、山形ソバを知ってもらおうという趣旨で開いた店らしい。本日昼飯を食いに初めて行ってみたのだが、入り口に券売機(笑)というのも、このクソ気取った江戸ソバ文化に反旗を翻しているようで痛快ナリ。蔵王冷やし地鶏そば(730円)。よそ様の撮った写真を転載しておくが、これは並盛り。冷たいソバは大盛りにしても値段が変わらないのも良し。

まぁ旨さでいえば本場で食うそば、というわけにはいかんだろうが、今後愛用したいと思う。好ましい店であった。


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小生がいま住んでいるのは東京東部なのだが、周知のように首都圏では30年以内に70%以上の確率でM7以上の直下型地震が起きると言われている。

それでもって、郷里は長野県中部なのだが、ここには直下を糸魚川-静岡構造線断層帯というのが走っていて、地震調査研究推進本部によると、M8クラスの地震が30年内に14%、50年内に20%、100年以内で40%の確率で起きるという。なんか西暦800年頃にこれぐらいの地震があって、1000年周期で次のが予想されるということ。全国の活断層をみても、これほど高確率のところは珍しく、ま、いつ来てもおかしくない危険地帯ってこった。

もう何だかなぁ、東京はいかにも、だけれども、信州の田舎でそれホントかよ、どうすりゃいいのよ、って話だ。

人間の社会には、まぁある程度の期間「父祖の知恵」みたいなものが伝承されていって、「この場所は津波にきをつけろ」とか、そこそこ役に立つ話が伝えられていくという風に思われているわけだが、それも1000年単位ともなると無理で(というか、もはやひとつ所に一族が定住している、って時代でもないわけだが)、「ここ、1000年ごとに地震来るんだよね」とか聞かされても全くリアリティ感じられなくなっちまうのである。

考えてみれば、三十三回忌で弔い上げ、みたいなのがいい例で、故人のことを見知っている人間だって33年たてば全くいなくなっちまう、っていう現実が背景にあるわけでしょ? その時点で、故人は社会的にも完全に死んじまう、って話であって。人間は実に忘れっぽい。

そういうわけで、何か「地震必至!」とかいわれてもピンとこないのであるけれども、幸いにして、というべきか科学の知見というものもあるのだから、粛々として有事に備える、そういう姿勢が大事なのだろうなと思う。


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放射線の影響についての毎日新聞のまとめ記事を読んで,
改めてお勉強。

結局、医学的に人体に影響が出てくるのは(おそらく)累積被曝量1001000ミリシーベルト(まちがえてたw)であって、それ以下はどうかというと、「ある閾値以下は影響なし」もしくは「ゼロ以上であれば相応の影響あり=LNT仮説」という2つの説があってよくわからない、というのがひとつ。

で、こういうことがかいてある。

各国の放射線防護策に影響を与えている国際放射線防護委員会(ICRP)は「リスクを過小評価せずに予防できる」として、LNT仮説を採用して、基準値を設定している。

ICRP主委員会委員の丹羽太貫(おおつら)・京都大名誉教授(放射線生物学)は「低線量被ばくをどこまで防ぐかは、費用や社会的影響を考慮して考えなければならない」と話す。


つまりは、100ミリシーベルト以下はよくわかんけども、とりあえず悪い方の事態を想定して「微量でも影響あり」という仮定でICRPは発言しますよ、という話である。ICRPが出している20ミリシーベルトとか1ミリシーベルトとかいう線引きはそういう文脈の数字であって、ぶっちゃけていえば、「この辺での数字は医学的にはどうこういえません。そりゃ、1ミリとかいう低いラインを基準値にしてもいいんだけどね、あんまり低いライン設定すると強制移転とかいろいろ社会的影響も出ちゃいますから、あとどうするかはメリット・デメリット勘案して政治的に判断してくださいね」という話なのであろう。

つまり、コトは政治的判断の領域になってきているのであって、どの辺にラインを引くかは、いわば「政治的な賭け」になっていると思うのである。「安全かどうか」といえば、おそらく100ミリシーベルト以下は大したことないと推測できるのだが(先の記事でもブラジル・ガラパリでは自然界からの年間被曝量は10ミリシーベルトに及ぶ、という例の話が書いてある)、「安心できるかどうか」はもはや社会的・政治的・心理的な問題なので、勝手に「安心できるから」といわれてもどうしようもないのである。

ちなみに俺はこれまで「この期に及んで累積1ミリシーベルト厳守、とかいっているのは、ずっと原発頼りの生活をしてきた我々(それは電力の大消費地の都会に住む人間のみならず、カネと仕事で利益誘導されたとはいえ、原発推進派の首長を当選させるなどして原発OKのサインを出してきた建設地の人々をも含む我々、だ)にとってあまりにムシが良すぎるンじゃねーか」と思ってきた。だから、たとえば20ミリシーベルトなんてのは甘受すべきラインだろ!的に考えている。

繰り返すが、そのあたりは「医学的に安全かどうか」はハッキリさせることができないゾーンなのである。あくまで一人一人が「これはしょうがねえだろ」とか「ちょっと何とかしねーとな」とか、自分なりに考えをもって、で、政治的プロセスの中に反映させていくべき問題なのだと思っている。

もっとも、「原発を選ぶ」という決断に関与していない世代=子供たちにも、そういった「応分の負担」を背負わせていいのかという問題は残る。大人に比べて放射線の影響を3倍ほど受けやすい、みたいな話もある。「じゃ、子供たちも20ミリシーベルトでよろしく」といってしまっていいのかどうか。やっぱりそれは後味よくねーなと思う。

改めて言えば、今の日本にあって、ジジイたちはほとんど安全だ。唯一心配すべきなのは子供たち。校庭の表土の入れ替えとか、やはりそのあたりはしっかり手をうってほしいところである。そのへんがもしうまくいかなかったら、子供たちよ、私利に走ったあげく、年金問題でも雇用問題でも原発問題でも、何でもかんでも次世代にツケをまわしまくった俺たち親やじいさん・ばあさんたちをうらんでくれ・・・

【5月12日追記】
今月の、たしか「文芸春秋」だったと思うが、「医療被曝はメリットよりもデメリットが大」という議論をしている医師の近藤誠氏が、「被曝線量による身体的影響には閾値ナシ=LNT仮説は最近実証されつつある」みたいなことを書いていた。うーむ、これ本当なのか。いぜんとしてジジイにとっては大勢に影響のない話なのだが、子供にとってはけっこう重大なところ。学者もメディアも、こういうポイントをしっかり押さえて発言してほしいのだがなあ。一般には「まだ仮説」という言説ばっかりなのだが。

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というわけで、ソニーのPC]用リチウムバッテリー、VGP-BPS2Cが不良品ではないかと思ってサポートに連絡したところ、「不良品ではない」と一蹴されて以来、ソニーへの信頼感は個人的に地に墜ちてはいるのだがその後、ゲーム機としてはやっぱりニンテンドーwiiの子供っぽさは付き合いきれずというところもあり、PS3でボチボチ遊んできたところ、ここにきて例の情報漏洩問題が発覚、「あぁあ~、やっぱソニーっておかしいんじゃね?」的心証が高まりつつあるのであった。カード番号なんか漏れてた日にゃあ大変であって、もちろんそんな最悪の場合にはがっつり補償してもらうことになるわけだが、やっぱりこれは慢心というやつではないのか。ある意味、個人的にはあんまりお付き合いしたくない会社ではあるにせよ、これからセカイに通用する日本企業のモデルとして生きていけるかどうかという地点にはあるのだろうし、ここ正念場じゃないの?といいたい今日このごろ。
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ということで、ロイヤルウェディング報道を新聞でみていると、こんどは「一般家庭」から王室へ、という表現が目についたね。

「民間から」というのよりは違和感少ないけれども、うーん、「一般家庭」ねぇ・・・。一般家庭に対する対語をかんがえてみると、これはかなり危ないけれども「極道の家庭」とか、なんかそんなようなイメージしか湧いてこないわな。というか、いまごろ「一般の家庭」とか言い出すのは「あるべき姿に家庭象をはめこもうという時代錯誤的言説」とかいって、フェミニズムの人たちに怒られるんじゃね?

というわけで、ここでも「一般家庭から」じゃなくて、ハッキリ「貴族以外の平民の家庭から」というのが正しい表記であると思われますが、まぁ誰も賛同しねえだろうな(笑)

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