2011年11月

image-20111129211923.png
年来の胃酸過多体質で、とりわけ深酒した翌朝とかは空腹にもかかわらず吐き気がこみ上げて胃液か何かを嘔吐することたびたび、というワケで、このあいだ特効薬としてのガスター10でも買おうと調べてみたのだが、ふむ、なんと一錠150円とか、そんな金を払わんと買えないということを知ったのだった。

医者にいって処方してもらえばそんなイクスペンシブでもないようなんだが、いったいどうなっておるんだということで、ちなみにいろいろとググってみると、なんと、個人輸入扱いでアメリカとかに注文すれば、ガスター10クラスのいわゆるファモチジン錠は一錠15円とかで買えるらしいということがわかった。なんと十倍だぞ!

とゆーか、そもそも国内の店舗からは通販では買えない。たしか数年前だったか、「副作用のある薬なので」みたいな理屈で、薬剤師のいるところでの対面販売じゃないとガスターは買えないみたいな通達だか何かが出たという記憶がある。そのあおりでこんなことになってるのだった。

あのな~(怒)と思う。

時代の流れというものを見るに、この国は長期的には「自分のことは自分でなんとかしろ」的ベクトルに加速度的に進んでいるらしく、まぁいわゆるアメリカ流の自己責任重視の世界に突入しつつある、ということはオレなんかでもわかる。それこそ、「平伏してついてくりゃ一生面倒みてやるゼ」といっていた企業社会も、いまじゃ「あ、あんた明日から来なくていいから」的なことも辞さないビジネスライクなメンタリティに染まってしまった。

くそー、しょうがねえ、そっちがそうくるんなら、まぁオレも無い知恵しぼって「自己責任」とやらの世界で何とか生き延びてやるゼ、くそっハードボイルドだなー、ほんとはそんなんじゃなくてマッタリいきたいのによぉ(泣)もう(←いまココ)という状況になりつつあるわけだが、しかし、なんだこの「薬価10倍」というのは! この部分だけ思いっきりパターナリズム全開で「いやー副作用出るとまずいからネ、シバリかけてそんな簡単に入手できないようにしとくネ」って、オイオイ、こっちに選択を与えねーで「自由な世界」が聞いて笑わせるじゃねーか!

ことほど左様に、この国の政治というのは場当たり主義なのである。しょうがないので、ネット経由で個人輸入扱いのファモチジン錠を取り寄せる。ファモチジン20mgの錠剤(=ガスター10の2錠相当)×25のパックをふたつ。注文一週間ほどで届いた。これで20ドルちょっと。

なんかもうオレたちは自分で知恵しぼってサバイバルせにゃなかなか厳しい時代に突入しつつあるらしい。と思う今日このごろ。





このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

来日していたブータン国王夫妻が帰国の途についた。この間、けっこうテレビとかでもその動向が報道されていて、オレなどもそのたたずまいにはとても好ましいものを感じていたのだった。

が、ちょっと気になるのは、ブータンで提唱されているという「国民総幸福量」というものについて、「ブータンとかに比べると物質的には豊かなオレたち日本人だが、やっぱりこういう発想には学ばないといかんよなー」といった反響があった(とされている)ことである。

ちょっとまってくれ。

つまり、GDPではかれない「幸福さ」みたいなものも生活のクオリティをはかる指標にしないといけないものだねというアイデアは、そりゃしごく真っ当な考え方ではあるんだが、しかし、よくよく考えると「幸福」みたいな漠然としたものをはかるモノサシなんてあるのだろうか、という疑問が浮かぶのである。

よくわからんので例によってウィキペディア先生に聞いてみるのだが、たとえば「心理的幸福」をはかるためには「正の感情」(寛容・満足・慈愛)と「負の感情」(怒り・不満・嫉妬)について、それぞれを心に抱いた頻度を調べたりするんだという。

うーむ、原発問題なんかもそうなんだが、「怒るべきときに怒る」というのは正義だと思うのだ。だがしかし、そういうときでも黙って笑っているのが「幸福」なんだろうか? あるいは、ひと昔前の精神医学では、暴れる精神病患者にロボトミー手術をほどこして、終始ボンヤリと穏やかな人間を作り出したりしてたようだが、あれなんかも当人の幸福のため、ということになるんだろうか?

いや、そういうひねくれたモノの見方はよくないという向きもあろうが、そもそもそういう指標みたいなモノの考え方と「幸福さ」というものはうまくマッチングしないのではないかと思うのである。

幸福かそうでないかは、やっぱり感覚的なものというか、もはや言語化不能な直感的なものでつかむしかないのではあるまいか。ブータン国王夫妻には悪いが、「国民総幸福量」というのはあんまりアテにできない考え方であって、ただしかし、そういうことを言い出した人たちがいるというのは貴い、そう、とても貴いことである、とだけ肝に銘じておればいいのではないか、そうオレは思うのである。




このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

映画評論家の佐藤忠夫が、たしかむかし講談社現代新書に書いていたことなんだが、「なるほどなー」と感心したことがある。あまり正確じゃないかもしれないが、オレの頭の中ではどういう風に記憶されているかというと、佐藤忠夫曰く「映画は自惚れ鏡である」。

まぁ何やかやいって、映画の世界というのは作り手が「俺たちの本当の姿って、こういうものだよね」というストーリーを作ってみせて、観る側も「そうそう、その通りなんだよネ」といってポンと膝を叩く。そういう共犯関係から成立するものじゃないですか、といった議論だ。

で、確か「二十四の瞳」を例に挙げていた。戦争前の日本の片田舎で、若い女先生を中心にとても心温まる教育がなされていたんだが、この子供たちはやがて戦争に取られていってしまいました、あぁなんということでしょう泣くのは結局庶民なんです、というトーンの映画なんだが、佐藤は確か意地悪く言っていた。「いやしかし、ここで描かれているいたいけな子供たちだって、狂気の戦場に行ったら実は極悪非道のレイプとかとんでもねーことしたんじゃねーのかよ、そんな綺麗事で済むはずねえだろ」って。

まぁ例外もあるかもしれないが、とりあえず一般大衆に「ウケル」映画ってーのはそういうものなんだろうなーと、当時まだ若かったオレは思った。オレたちって、まぁいろいろあるけどキホン胸張って生きていていいよね、自分たちのこと肯定していいよネ、という気持ちにさせてくれるのが映画の本道である、という話だ。

まぁエンターテインメントとしての映画ということでいえば、それでいいんだろう。確かに陰々滅々たる現実を突きつけられて「さぁどうだッ!」みたいに詰め寄られてばっかりじゃ生きていけねーから。少しばかりファンタジーがないと人生乗り切っていけねーから。それは中年になってほんとしみじみ思う(笑)。


いやね、なんで今頃こんなことを何故書いているかというと、昨今のTPP問題など鑑みるに、どうも俺たちはここんとこフィクションの世界ばかりじゃなくて、現実の世界でも「かくあれかし」あるいは「かくありたい」みたいな願望充足的な倒錯的な思考に躍らされてるんじゃねーのかな、とフト思ったのだった。

確かにニッポン、元気がない。長いこと創意工夫を発揮して安価で質の良い工業製品――クルマとかね――を世界に供給して、一目置かれていた日本人であるけれども、もはや価格競争では勝てないし、かといって「ちょっと財布は痛いけどコレ欲しいよね」的な、かつてのウオークマンみたいな消費財もなかなか作り出せない。もう下り坂だよねーとみんな思ってる。

でも、ここいらで起死回生のヒット打ちたいよね、どうすりゃいいのかなぁ、そうだ自由貿易ッつーのがあるぞ、関税撤廃の世界が広がりゃひょっとしてオレたちの作ったものだってまだまだ魅力あるんじゃネ――なんか追い込まれて、そんな幻想にすがって、あ、そーだTPPだ、なんて言い出してるだけに過ぎないような気がして仕方ないんである。論証ヌキで言ってしまうが、オレとしてはそんなのは幻想に過ぎないと思う。

たぶん、そんな威勢の良い話はもう無いのだ。だが、何かあるように考えてしまう願望を膨らませてしまう。中国とか韓国とかじゃないんだ、もうそういう近代主義はこの国では通らないと思う。


で、もひとつ脱線するんだが、こういう状況には明らかにメディアの責任もある。「かくあれかし」という願望が現実認識のレベルでもついつい滲み出てしまうというのはこの世界でもしばしばあることで、たとえば、何かっつーと「昭和30年代は良かったよねー、人情もあったし」とか言い出すバカが必ずいるんだが、統計資料などを繰ると、今より当時のほうが遥かに人口当たりの殺人事件発生率が高かったりする。やたら不衛生だったあの頃に戻りたいとか思うわけないだろ、何やかやいって今のほうがずっといいに決まってるじゃねーかなどとオレは思う。まぁ「夢だけはあった」とかいうのはたしかに本当だし、そういう意味じゃ「当時に戻って人生やり直しできたら面白れえかもな」とシミジミしちまうのは冴えない中年の繰り言ではあるわけだが(苦笑)。

ちなみに「最近の若者はどうしようもなくて治安も悪くなった」とかいうジジイもいるんだがどうもそういうことはなくて、確か世代別にみると今も昔も「団塊の世代」による犯罪率が突出して高いというデータがあったような気がする(出所を示せないので間違っていたとしたら誤る)。つまり、連中が若かった1970年頃にゃあ若者の犯罪が多くて、最近は60過ぎたこの世代が万引きしたり街中でキレて暴れ出して「暴走老人」とか呼ばれていたりするわけである。

まぁ映画が自惚れ鏡である分には「まぁそれもありだよな」と思うのだが、何かじっくり腰を据えて来し方行く末を考えるべき時にまで「バスに乗り遅れるなー」とかバカなことを言うのはどうなんだろうね、とオレは思うのであった。鏡にはやっぱり本当の自分の姿を映したい。


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

2011年11月11日。

今日は、あとから振り返ると意外と「日本の将来を決めた日」ってことになるかもしれないな。

その1。TPP交渉参加へ

これはもういろんなとこで言われてることだけれども、普天間問題に象徴される日米同盟関係のきしみをチャラにするために、日本の農業その他を人身御供として差し出して、アメリカ様に「へへーごもっとも」と頭を下げるセレモニーじゃないのか、という疑念がぬぐえない。まぁ財界様の歓心を得ることもできるという副産物もあるから、野田首相としてはコレ一択だったんだろうね、ちと哀しい。

その2。巨人軍の清武代表がナベツネ「告発」会見

「コーチ人事に力ずくで介入しやがってコノヤロー」という話なんだが、これまでは大メディアを率いるボスの横暴に対しても「……泣く子と地頭には勝てねーよな」と当事者はハラに怨みを呑み込んでいたワケで、そういう意味ではこの発言は衝撃的である。ま、昨今のマスコミの権威失墜の背景には、メディアが自らの無謬性を強引に言い募ってきたことへの反発もあるだろうから、「そらみろ!」という流れになるのは必定。加えて受け手の側がネットというツールを手にして声を上げることが容易になっている今、これはまさに「蟻の一穴」かもしれない(ま、巨人絡みでいえば過去には「江川問題」とかもあって、これは何とか誤魔化して今に至ったという歴史もあるけれど今回はどうなんだろう)。

で、実はこの2つの問題は絡み合ってもいて、つまり新聞が独禁法適用除外の「聖域」になってたり、あるいは記者クラブのインナーサークルが報道を牛耳ってきた状況がこのTPP交渉のプロセスで激変してしまう可能性もあるわけで、加えてこういう「内部告発」まで出てくるとなると、既存マスメディアの斜陽化はいよいよ不可避かもしれない。

良い悪いというレベルを離れていえば、農業の衰退やら、既に指摘されてる医療やら保険業界やらの市場化という問題に加えて、こういうメディア環境の変化というのも一気に進むのかもしれない。さて、日本の明日はどっちだ?
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

このところ「運命」というものについて考えている。

ひとつには娘に頼まれてPCに録画しておいたTVアニメ「シュタインズ・ゲート」(MXテレビで9月迄やってたヤツ)を通しでみたこと。もうひとつは、たまたま本棚を整理していて目についたフィリップ・K・ディック『高い城の男』を読んだこと。こっちはだいぶ前に買ってたしか数十頁読んだだけで放り出していたんだが、それをたまたま手にとった。

ちなみに「シュタインズ・ゲート」のほうは、まぁネタバレになってしまうけれども、10年ほど前にアメリカであった「ジョン・タイター事件」をヒントにした物語である。簡単にいうと、アメリカの巨大掲示板に「2036年からタイムマシーンでやってきた」という人物が4か月ほどのあいだいろんな書き込みを行い、しかも「オイラの世界では2000年問題で大変なことが起こるので、それを未然に防ぐために来たんだよね」とか何とかソレっぽい動機を語ったり、タイムマシンの原理についてソレっぽい話を残していったりしたので、「おいこれひょっとしたらモノホン?」とか一部マニアの間でけっこう話題をよんだ不思議なお話だったのだが、そのあとおそらくはこの話に惹かれた人々がこの話を下敷きにしたゲームを作り、そしてこのたびはゲームからさらに派生するかたちでなかなかに素敵な青春ストーリーのアニメが生まれるに至ったのだった。

もちろん、ご承知のようにこういうタイムトラベルは「原理的にありえない」という議論もある。なんとなれば、たとえば過去にやってきた人間が自分が生まれる前の母親を殺すと自分はそもそも生まれなかったワケで、ここにパラドクスが生じてしまう、そういう矛盾が生じるからタイムトラベルは不可能だ、というのだった。

ところが現実のタイターが言うには「過去にやってきた人間が何かすると、その行為とツジツマがあうよう、その世界はもとの世界と違う世界に変化しちまうんだよね」みたいな説明をしているらしく、これを別の「世界線」への移行みたいな言い方で表現している。ふーん、で、けっきょく親殺しをしたらどういう歴史が生成されるのかネというツッコミはともかく、つまり「宇宙は無数のありうべき別の世界の存在を容認している」という世界観を彼は語っておる。アニメのほうもそれを踏襲していて、つまり「歴史というのは大筋で定まっているもンなんだが、原理的には人間の自由意思によって変えていくことも可能なのサ」と説いているようなのであった。

ちなみにリアルなタイター(というのもヘンだが)が語ったところによれば、彼のもといた世界では2000年過ぎにはアメリカでは内戦とか起こって世界中大変なことになっちまうらしいんだが、実際はそうならなかった。つまり「当たらなかったじゃねーか! そういやアイツ、9.11のことも全然言ってなかったじゃん。やっぱりタイター話は手の込んだイタズラだったな」とか怒ってもいいんだが、「いや、彼の歴史への介入によってわれわれの世界は違ったものになってしまったのだ」とか非常に都合のよい逃げ道(笑)を作ってあるところがタイターのストーリーのよく出来たところである。

ま、本家ジョン・タイターのストーリーが「電車男」的なエンターテインメントだったとしても全然困らんので、アニメに話を戻すが、「人間にはあらかじめ定められた宿命とか運命とかいうものがあって、それにはどうしても抗えない」という世界観が一方にあるとして、いや運命は決して変えられないものじゃない、少なくとも原理的には変えられる筈なのだ、自由意思はあるよ、とこの作品はわれわれを励ましてくれているのだ、なるほどなぁウーンとオレは感じ入ったのだった。

一方の『高い城の男』。これまた皆さんご承知のように一種の「もうひとつの世界」モノである。この作品で描かれるのは、第2次大戦で日独伊の枢軸国側が勝った世界で、アメリカも日独で分割統治されてたりする。で、その世界では、連合国側が戦争に勝ったという「もう一つの世界」を描く小説がベストセラーになっていて、みたいな入れ子状のストーリーが展開していくんだが、重要な小道具として「易」がしょっちゅう出てくるんだな。なんか「日本が勝った世界だから」という設定もあるんだろうが、この世界ではアメリカでも易占が流行ってるらしく、主な登場人物が「どうしたもんか」と思うような時にはしょっちゅう易を立てるのである。

で、これまた周知のように易占の卦というのはかなり抽象的・多義的である。この易の世界でも、大筋でいえば「起きること」は変えられない。変えられないんだが、易はそういう曖昧なものだから「読み替える」ことはできる。作中の人物たちもそうやって与えられた環境になんとかして主体的に立ち向かい、状況を切り開いていこうとする。

ちなみに作中のドイツは、宇宙にロケットを飛ばしたり地中海を干拓(笑)したりして、「人間の力を見よ!」的なゴーマンさに満ちた国として描かれてるんだが、これに対して日本側=易占の人々は、「運命はあるかもしれないね。でも難しいけどそれを変えることはできるかもしれないね」という、非常に謙虚でかつ叡智に満ちた存在として対比的に描かれてるのだった。面はゆいけど。

つまりね、そもそも「アメリカが負けた世界」というのはその世界に生きる者には当たり前で不可避のようにみえるけれども、人間が運命の要所要所でありうべき「もうひとつの世界」に向けての努力を重ねていったら結果はおのずから変わることもあるんじゃねーのか、というようなメッセージをこの小説から読み取ることも不可能ではないのである。もう一歩先に進めば、「この目の前の腐った世界は決して自明のものじゃねーのさ」ということにもなろうか。

というわけで、偶然とはいいながらなにかシンクロニシティ的に「運命は変えられない」というテーゼを疑う2つの作品と相次いで遭遇した次第。まぁベタな感想を述べておくならば、これって「諦めるなオレ!っつーことなのかナ」などと思ってみたりする。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

今月の文芸春秋が「尾崎豊の遺書」を載せているらしく、一部メディアがニュース仕立てで記事にしたりしている。まぁこの伝説の歌手も生きてれば今40代半ば、中年世代には思い入れのある人も少なくないだろうから、こういうリアクションもありなのだろう。
ozaki.JPG
ただ、オレは彼よりもちょっと年上の世代ということもあるんだろうが、当時から彼の歌の世界には入り込めなかったなぁ。青山学院高等部に入ってからタバコやら酒やらケンカやらの日々を送り、退学してからは社会に反旗を翻すシンガー・ソングライターとして若者に熱狂的に受け入れられて、みたいな尾崎伝説があるわけだが、そのいちいちがシャクに障るのだった。

だいたい「青山学院高等部の不良」って時点でもうダメである。けっして裕福な家庭の出ではなかった、とかいうんだが、ボンボン学校に入っておいて社会に反抗するって何だよ、そもそもそんなとこ入るなよ気どってんじゃねーよ、定時制高校通いながら土方してケンカして、っていうんなら許す、だが青山の時点で失格だとまずは断言したい。

もちろんその後にオウム事件があったように、「なんかこの腐れ切った社会は何とかしないとダメだ」というのは当時の若者であれば、いかほどか共有していた気分だったと思うのではあるが、じゃあそこで「タバコ・酒・ケンカ・クスリ」って何だ。酒場でクダ巻いてるオヤジと五十歩百歩じゃねーかよ、ちょっとビジュアル的にいけてるからって調子ぶっこいてんじゃねーよ、と言いたい。

で、その作品世界も実にセコい。このあたりはさんざん言われてきたことではあるのだが、「盗んだバイクで走り出す」(15の夜)ってのは何だよ! そのバイクは誰のなんだよ! そのバイクはな、貧乏学生が毎月汗水たらしてバイトで稼いで、やっと手に入れたあこがれのカワサキだったりすんだよ! 遊び半分で盗むんじゃねーよ! そんなに世の中気にくわねえんなら国会議事堂にでも殴り込めよ、と思った(笑)。

で、時は流れてしまったようで、どうやら今の若者に話をきくと「尾崎? 何ソレ?」状態であるらしい。尾崎の魂の叫び(笑)というのも、改めて客観的にみればなんか身勝手な子どもの言い分ということがばれてしまったのだろう。今の若者は本当に優しくておとなしいから、「そんな興奮して暴れてどうなるの? 単なる自己満足ジャネ」と見切っているのであろう。

もちろん若い世代の「世界に対する違和感」ってヤツが社会を変えていく原動力になる可能性は否定しない(同時にそれがしばしば残念な結果に終わるのは「全共闘の敗北」とかそれこそ「オウム事件」とかみれば明らかなのだが)。

しかしなぁ、尾崎に限っていえばもうなんていうか、ホント駄々っ子の癇癪レベルでしかなくて、あとには何にも残らなかったんじゃねーの? あえていえば、尾崎は中年世代の厨2病の記憶の中にのみ生き続けるのであろう。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

で、オリンパスが粉飾決算とかしてたんじゃねーか、金融商品取引法違反じゃねーかと叩かれているわけである・・・うーん、済みません。何かよくわからんとです。私経済ノコト全然ワカリマセン(笑)。

いや、なんとなく理屈はわかる、リクツとしては。公的存在としての企業というのは、その経営実態について公明正大なる情報公開を行い、もって健全なる市場の審判を受けねばならぬ。しかるにオリンパスは何か損失の付け替えなど姑息な手段を用いて実態を誤魔化し世の人々を惑わした、その罪たるや万死に値する、ってね。

ただな~、もともとオレは経済音痴なので言ってしまうのだが、たとえば「殺人が悪い」という命題が大多数の人にあってほとんどアプリオリに首肯されるのに対して、この「市場を謀った罪」というのはアプリオリに「悪いこと」といえるのかどうかいささかギモンである、という話なのだ。

何で悪いのか。リクツはある。だが、本当にそれは悪いことだなーと骨身にしみて感じられるものかどうか。すいません、オレにはそういう実感がないのだった。

そもそもリアル経済というヤツはそういう道義とか倫理とかいうものとあんまり縁がないものと思っている(偏見かもしらんが)。人の裏をかいた者が勝つ。負けたらそいつがバカ。そういう世界じゃないのか。ルール違反ギリギリのところに勝機を見出して儲ける。それが正義じゃないのか。一般社会でいう「倫理」とはちょっと違うところで空中戦が行われている。

そうなのだ、市場市場ってうるさいけど、しかし市場は「正義」なのか。そんな偉そうに胸張って言えるのか。しょせん弱肉強食を正当化するマジックワードじゃないのか、市場ってのは。しかも、その実、その正義たるものが等しく平等に適用されるかというと、かのホリエモンが塀の中に落ちた件ひとつとってみても、ある種のグレーゾーンがあって、なんとなく恣意的に「あ、あんたOUT」みたいにルールが適用されてるフシもあったりする。

いやすいません、いまちょっと酔った勢いで書いてしまいましたが、要は、経済事犯というのはなんか全然オレと関係のないところで発生し、処理されていくものなのだなという実感がある、という話なのだった。なんで悪いの、とよく考えていくと、悪いのかなんか分らなくなってくる。

だって、「これまで皆さんから年金のカネ集めさせていただきましたが、実は結構穴があいておりまして約束通り支払いできそうにありません。支給は70歳からにさせて頂ければ」とか国が言い出しても誰もその責任をとらなくていいわけだが、オリンパスさんの場合はもう言い逃れ一切できず、でしょ。それは「市場」という神が支配する世界ではその神の言うことを聞かんといかんのだけれども、国家に言うことをきかせる超越者はいないので責任不問、というだけの話ではないのか(尤もあんまり放漫経営してるとIMFに怒られるぞ~、みたいなレベルでの懲罰はありうるかw)。

単なる経済音痴の世迷い言ではあるんだが、あんまりみなさんが大騒ぎするので一言いっておきたくなった。ほぅ、そんなに悪いことなんですね、って。妄言多謝。


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

大新聞がこぞってTPP推進の論陣を張っているのは周知の通り。しかし既に一部で言われている通り、TPP加入となれば新聞等の再販制度とか記者クラブ制度とか、平たく言って既存のマスメディアにとって「有利」なシステムが「参入の障壁である!」などとして破壊される可能性は十分ある。

ちなみに今日の朝日新聞を読んでいたら、外務省サイドは、再販制度がTPPのテーマから除外される保証はないと見ている、みたいなことが書いてあった。ふむ。大新聞も「わかっている」ようではある。なんか大新聞の考えていることはワカラン。

まぁある意味、自らの利益に反することでも「正論」であれば是とする、とハッキリ言うのであればこれは賞賛に値する。「マスゴミ」などと揶揄してきた人たちからも「おぉ見直したぞ」という声が澎湃として湧き上がるのではないか。しかしそんな覚悟を決めたようにも見えんしなぁ、彼らは実はバカなのだろうか?

かといって「TPP大いに結構。でも再販問題には手をつけるなよ」みたいな条件闘争を語り出したらまた批判されるぞ。どういう落としどころを考えてるんだろう。

あるいは、これまで「言葉の壁」によって守られてきた日本のメディアは、いかに強欲なアングロサクソンの力をもってしてもねじ伏せるのは不可能、とたかをくくっているのかな? 仮に再販制度が揺らいだりしても、少なくとも日本の新聞に取って代わるようなものが「外国」から現れることはない、とか。確かにそういう面もあるのだ。こういう時代になっても「新聞記者には英語必須」みたいな話には全然なってないし、多くの読者もそんなことは求めていないのだから。

ああそうだ、ひょっとして「裏で米国のベスト・アンド・ブライテストの方々とは話がついてる」とかね。「TPPの後押し、よろしくお願いしますよ。メディアの皆さんの既得権益には手をつけませんから、へへへ」みたいな。あからさまな陰謀論だな(笑)。そこまで堕ちてるとは考えたくないが。

というわけで、これからの大新聞の論調には注目である。たとえば5年後どうなってるのかな。私的備忘録としてのチラ裏。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

「年をとってもなぜか子どもの頃のことはよく覚えているものだ」みたいな話はよく聞くのだが、ここんとこ耄碌が入ってきたせいか、はて、あの頃はどうだったんだろうと思うことがたまにある。たとえば最近ふと思ったんだが、「六甲おろし」といって(正式には「阪神タイガースの歌」というらしいが)今なら誰でも知ってる歌があるんだが、あれはいつごろから市民権を得たんだったか。

というのも、物心ついたときには何故か虎ファンになっていた小生、小学生のころ、阪神球団本部にお手紙を出した記憶があるのだ。で、その内容はというと、こんな感じだったように記憶している――僕は阪神ファンなのですが、「六甲おろし」という球団歌があるとききました。でもどんな歌かわかりません。楽譜などあったら送ってもらえないでしょうか。

この辺はうろ覚えなんでハッキリしないんだが、当時のアニメ「巨人の星」の中では巨人の球団歌「闘魂込めて」がしばしば流されてた、ような気がする。対抗上、「じゃあこっちは六甲おろしだ!」と、どこかで阪神球団歌の存在を聞き知った田舎の少年は思ったんだろうね。

で、この手紙に対して球団本部から返事があった。届いた封筒の中には、たしかに楽譜が入っていたのだった! さっそく家にあるピアノで爪弾いてみたんだが、古関裕而作曲によるあの勇壮なメロディーも、ぽろんぽろんというピアノの旋律にしてみると何やらヘンな調子。「ふーん、こんなかー」と思った記憶がある。あれがたぶん小学校3、4年生のころ。逆算すると1970年前後だ。つまり、その時点であまり知られてなかった「六甲おろし」が、いつの間にか「六甲おろし? あぁ、あれね」という感じで世に出ていくのである。

で、ちょっと調べてみた。Wikipediaの「阪神タイガースの歌」の項にはこうある。

『阪神タイガースの歌』に改題の際(引用者注:1961年)、若山彰の歌唱により再吹き込みされたものが甲子園球場でのタイガース戦で流されるようになり、それで歌詞を覚えた当時朝日放送アナウンサーであった中村鋭一が、自身が司会をつとめたラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で歌ったことにより、1970年代の多くのファンに広められた。1972年(昭和47年)に発売された中村の歌唱によるレコード(テイチクレコード発売)は、40万枚以上のヒットを記録し(以下略)


つまり1960年代には地元・甲子園あたりではみな聞き知っていた「知る人ぞ知る」的な曲だったんだが、それが70年前後になってラジオを介して全国区の曲になっていった、ということらしい。

そうすると、オレが「楽譜ください」とかいって手紙出した当時というのは、「六甲おろし」ブレーク三秒前、みたいな時代だったのか。う~ん、大げさにいうと「オレってそんな時代から生きてきたのか!」だよなー。年もとるはずだ。昭和は遠くなりにけり。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック Share on Tumblr Clip to Evernote

↑このページのトップヘ