2012年03月

出版会社だとかが談合して「出版デジタル機構」なる会社を作ったとのこと。電子書籍を作るのは難しいので、カネも貸してやるし手取り足取り教えてやるから各社足並み揃えてサッサと電子化進めましょうねという話らしい。

しかし一般の消費者からすると、「なんかいつまでたっても同じようなこといってて、全然電子図書の時代になってねーじゃん。今度のはどうなんだよッ」というのが実感である。

けっきょく、オレがいいたいのは米アマゾンみたいなサービスを日本でやってくれりゃ文句はねえ、ってことなのだ。Kindleも買ったことだし、これまでに何冊か英語の電子図書を購入しているんだが、一回買えばKindleではもちろん、PCでもiPhoneでも専用のアプリで読むことができる。仮にKindleが壊れたって「あ、いーっすよ全然」みたいなノリで、もいちど別の端末にダウンロードすればいいんだし、つまり読書端末の機種依存みたいな問題もなくて、その辺でいろいろ心配する必要もない。しかもペーパーより安かったりするし。

もちろん日本の場合は、権利関係がこれまでいーかげんだったんで「利権」をめぐる調整が必要だとか、あるいは縦書き・ルビの絡みで統一規格をどうするかといったあたりでなかなかコンセンサスが得られなかったとか、まあいろいろ大人の事情があることはわかるんだが、しかし、こういうスピード命の時代に何年もグダグダグダグダやってるから「日本の出版社には無理」とかいわれるのである。

オレなんかも「もうこうなると日本の業界は外圧でしか動かんから、いっそ剛腕アマゾンに日本市場を支配していただいたほうが良いのではないか」と思ったりするのである。「出版デジタル機構」というのはユーザー目線でちゃんとオーターナティブを提示してくれるのか?

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けっこう話題になっているらしい與那覇潤『中国化する日本』を今更ながら読んでみた。

著者は30代の日本近代史の先生。確かに面白かったぞ。何かちょっとおちゃらけた口調で結構マジな話をするという点では、かのパオロ・マッツァリーノを彷彿とさせて愉快であった。ではオレ流に内容を要約してみよう。なお、正確ではないかもしれないのであらかじめそこんとこよろしく。



★最近の世の中は「グローバリズム」が大はやりなんだが、簡単にいってしまうとコイツは「もう世界はひとつなんだからヒト、モノ、カネの流れを自由にしましょう、経済の問題は市場にまかせましょう、各国の政府はイロイロ干渉しないで黙ってみててくださいネ」という一大ムーブメントなのである

★で、日本人はこれまでそういう「開かれた社会」みたいなのは苦手で、寄らば大樹の陰というわけで「お上」とか「会社」にすがって生きてきたんだが、もう政府も会社も全然役に立たなくなっちまったし、どうやらこの「グローバリズム」に徒手空拳で向かっていかねばならねーが、そういう流儀には慣れてねーし、お先真っ暗でアル

★一方、中国が低賃金や人口のスケールメリット等々のメリットを生かしてGNPで日本を超してしまったのは周知の通り。日本人はなんかガックリ来てるんだが、実はこういうグローバリズムの時代というのは、中国の国柄にぴったりマッチしてるという事実もあるのだった。とゆーか、そもそも経済的自由主義+皇帝専制みたいなシステムを世界ではじめて作り出したのは、なんと10世紀ぐらいの宋だった! となると昨今のグローバリズムの本家本元は中国なのであるッ!! 毛沢東の共産中国による大躍進みたいなのは元来中国人のエートスにそぐわない試みであって、一時の気の迷いであった(笑)

★とゆーわけで、つまりわが日本はグローバリズムに適応していかないとイカンのだが、これすなわち「中国化」といっても過言ではない。日本は中国化していかねば生き残れぬ宿命なのでア~ル。覚悟してネ(笑)



重ねていっておくと、以上はオレ的要約なのでかなり怪しいが、ともかく「日本の中国化? 何だッて!」という読者層の過剰反応をピンポイントで狙った表題はショーバイ的にとても上手である。さすが文芸春秋。

で、非常にスッキリとこの世界がわかったような気になってソーカイなんだが、ただ、よくよく考えるとイロイロと疑問もでてくるのだった。

たとえば、「ある中間集団でまとまって相互扶助の圏域を作る」みたいな従来の日本のスタイルは、著者が「江戸的」と称していて、もはや滅びるしかないもののように語っているんだが、しかし程度の差こそあれ、こういうコミュニタリアン的な発想ッつーのは全世界に共通してあるものじゃないのか? 別にマルバツの話じゃないんだから、総じて旗色悪いような気はするがコミュニタリアニズムの有効性だってまだまだあるんではないか?そーゆーのもうダメだから、で一蹴しちゃっていいのかな?


それから、著者のアタマの中では、市場に対する政府の介入の実例としてはたとえばケインズ的な公共投資があるようで、「もうこういうのは効果ないから。もう市場に任せるしかないから」みたいなニュアンスの記述がされているけれども、本当に現代においてケインズは基本ネガティブに捉えられているのだろうか? 著者は再三「最新の研究によると」みたいな大仰な物言いで読者を驚かすんだが、はたして「最新の研究で」ケインジアンやコミュニタリアンはもうダメって引導を渡されてたんだろうか? うーむ、流石にそれはないような気がするが。

もうひとつ。何やかやいって「民主主義的な価値」というのは人類の獲得した相当普遍的なものだと思う。そーすっと「資本主義はハッテンしてても、そういう政治的成熟がない国はやっぱりまだまだ危ういんじゃないの? そういう繁栄は長続きしますかネ? 政治的自由のない繁栄はけっきょく片翼飛行であって、さいごはポシャルんじゃね?」という感じもあって、だからこそ「中国は実は進んでいる、だって? そんなわきゃネーだろ」とわれわれは思ってしまうのであるが、著者は「いや、歴史的に自由主義の先頭を切ったのは中国だから、進んでいるんです」といっているので、民主的な価値などというものは進歩のメルクマールではありえない、ということなのだろう(ま、「歴史の進歩」みたいな考え方が今時古いといわれればそうだろうけど)。

さらに著者はチリのピノチェト政権の例をひいて、「いや、専制+経済的自由主義でもけっこううまくいっちゃうンすよね」的なことを言ってたりする。そうでしょうか?

いや百歩譲って、「たとえ中国の体制が専制+自由経済だろうとチベット人民を虐殺しようと、世界経済の牽引車になってくれりゃあオレたち文句いうことないじゃん」的なリアリズムの立場がアリだとしてもだね、仮に真っ当な漢民族(笑)の中から「もう貧富の差は酷いし、思ったことも言えねーし、こんな社会は許せん、クソー」といって暴動でもおっぱじめる連中でも出てきたら、もう世界経済の牽引車も糞もなくなっちまうような気がするのだがどうでしょう? いや、トリクル・ダウン効果が出てきて今ビンボーな中国人にもカネが回ってくるからサ、言論の自由なんてものがなくても満足しちまって暴動なんか起こさねーんだよ、とでもおっしゃいますか?(いや、確かに中国人ならそれでけっこう満足しちまうかもなーと思うオレもいるけどもw)

まぁそういった意味でいうと、「最新の研究」を敷衍していくとホントにここまで言えるのかどーか、研究者の方のご意見もうかがいたいのだが、こういうポップな感じの本にコメントするとコケンにかかわる、みたいな事情もあるんだろうか、その辺あんまり見かけた記憶がないのはチト残念ではある。

と、いろいろ疑問を呈したりしたんだが、まぁしかし日本人もとりあえずこの「グローバリズム」とやらに適応していかんとジリ貧になってしまうということは確かなのだし、問題提起としては面白い。ご当人が「定説です」と強調するにもかかわらず、学術的にはちょっと怪しげな感じがするとこがスリリングでまたタマランから、それこそマッツァリーノの線を突き進んで、やがてはテレビのコメンテーターでもやると人気が出るのではないか、と余計な感想。






中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史

  • 作者: 與那覇 潤
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2011/11/19
  • メディア: 単行本



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米Wikipedia の「UFO hypotheses」という項目を眺めてたら、ユングの話がでてたので、以下にその部分のみ試訳。
『空飛ぶ円盤―空に見えるものについての現代の神話』を以て、カール・グスタフ・ユングは社会心理的仮説(PSH:Psychosocial hypothesis)の創始者の一人とみなされている。一方、同書の中で「シンクロニシティ」の概念を用いているが故に、彼はUFO現象を超常現象として説明する論者の始祖ともなっている。しかしユングは、時に「UFOとは心理学的な理由で出現するものかもしれぬ」という議論を展開しながらも、レーダーと同時にUFOが現認された一部事例を引用して「知性がコントロールしている物理的な物体としてのUFOが存在する可能性」を語っていた、との記録もある。ユングは地球外起源仮説の可能性についてもあり得べきものとしてまじめに考えていたのである。たとえば、APは「純粋に心理学的な考え方だけですべてを説明することはできない」という、1958年の時点での彼の発言を引用している。曰く、空飛ぶ円盤というのは現に存在するものであって、「知的な存在により操作されていること、人間に似た存在により操縦されていると考えてもよい証拠がある。ハッキリ言えるのは、これが単なるウワサ話ではなく実際に何かが目撃されているということだ。(中略)もしこうした現象が地球外に起源をもっていることが明らかになったら、すなわちそれは惑星を超えた知性の結びつきが今ここに存在することを証すものとなる。(中略)そうした機械を作り上げることができたのであれば、すなわちそれはわれわれを遥かに超越した科学技術があることを証明しているということであり、そのことはもはや否定できぬこととなろう」*

*「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」「スターズ・アンド・ストライプス」などの各紙(1958年7月30日)に拠る

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春の選抜高校野球が始まりました。で、全国的にも高校野球が弱いことで知られるわが郷里の長野県でありますが、今年は地球環境(佐久市)という学校が出場を果たしております。

頑張れ、といいたいところですが、しかし、どうも素直にそうは言えないンだなあ。

この学校、通信制である。にもかかわらず、野球部員は寮生活をしているのだそうな。で、単位はリポート提出でもらえるシステムがあるらしい。ということは、昼間のあいだずっと野球三昧でも問題なし。でもって主力選手は例によって県外から来る「外人部隊」。

はい、おわかりですね? 学校サイドからすれば野球先進地から子供を連れてきて、なりふりかまわず甲子園に出て名前を売って、で、これで学校経営も安泰ダ、学生さんも野球弱小県にくれば甲子園に出られる可能性がずいぶん高くなってバンバンザイ、という例の「青森山田」「光星学院」パターンですね。しかも今回は「通信制」のオマケもついてるので、実質野球だけやってりゃいいという「野球予備校」状態でおKというワケですな。

ま、もちろん長野県でも、昔っから松商学園とか、外人部隊入れてる「強豪」はあったんだが、それでも地元勢が半分ぐらいいたりして可愛げのある「補強」だったンだが、もう、ここまでくると、とにかく「勝ちゃいーんだろ!」的な余裕の無さというか、何というか、言葉がないのである。

まぁ古くは自由民権運動(笑)の拠点とかになったりしたこともあり、長野県というのは「教育県」といわれてきた。少なくともこういうガツガツした下品な学校(語弊があるならば許せ)など存在しえなかったと思うのだが、しかし現実はこういうことになっている。

もちろん、前にこのブログで書いたように「いまさら清く正しい高校野球」なんてありえねーよ、と思ってはいるんだが、わが故郷の「代表」がこんなになっちまうとは若干ショックであったりもするのだった。

こういう搦め手を許していいだ? 「出ると負け」だっていいずら! と、日頃斜に構えているオレも何となく田舎の方言をまじえて主張したくなってくるのである。

P.S.とはいいながら、地球環境がこの土曜日、初戦で当たるのは、モノホンの強豪・履正社(大阪)だそうですから、コテンパンにやられるのは必定でもあり、こういう懊悩をしていられるのもあと2日だけでしょうな(笑)


【3月26日追記】
とかいってるうちに、雨天順延で昨日25日に地球環境―履正社戦があったそうなんですが、スッカリ忘れてました(笑)。テレビ観戦もできませんでしたが、結果、地球環境2対5で負けでした。ま、長野の涼しいとこに野球合宿にきてる大阪の子たちの試合みても別に応援しようとも思いませんからネ、ま、特に何の感慨もありません。

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吉本隆明が死んで、各メディアはけっこうな騒ぎようである。まぁオレなども学生時代、ワケもわからんのに角川文庫の「共同幻想論」など一生懸命読んでいたクチであるから大きなことは言えんが、なにせヘソマガリな性分である、みんな「偉かった~偉かった~」言い出すと、「いや、それほどでもねーだろ」と言いたくなる。

別にそう熱心に彼の仕事をフォローしてきたわけじゃねーし、うろ覚えでイロイロ書くのも如何かという気もするが、まあいいや、ちょっと酔った勢いもあるんで、何となくの印象論にはなっちまうが、吉本に難癖をつけさせていただく。

なぜ彼はこんなにも注目されてきたのか。まぁ伏線としては、彼の「下町の船大工の息子である」という出自があるンだろう。で、そんな男が戦後、既成の左翼・知識人への異議申し立てをしたことで一躍注目を浴びるわけである。共産党だろうが丸山真男だろうが容赦なく、「オマエラな、えらそうなこといってるけど全然大衆がわかってねーじゃねーか」というのである。「転向論」とかで、そういう議論をした。

確かに新左翼とかが出てくる迄は、サヨクっつーとまずは共産党であって、連中はずっと「オレたちは前衛だ」とか何とか偉そうなこと抜かして、いわば「大衆よ、あとに続け」みたいなゴーマンなことを口走っていたのである。丸山真男あたりの進歩的知識人だって五十歩百歩。大学紛争のときに研究室を荒らされて、なんて「野蛮な連中だ~」みたいな貴族趣味丸出しの発言をして失笑をかったという話は有名だ。

オマエラは大衆=イコールバカとか思ってるかもしんねーけどよ、オレたちにはオレたちの現実ってものがあって、そいつも知らねーで革命だと? ちゃんちゃらおかしーぜ――そんな風に彼はインテリ左翼に向かって啖呵を切ったのである(繰り返すがこれはオレの吉本理解である)。

インテリ左翼は、そもそも「めぐまれない一般大衆のために、オレ頑張っちゃうぞ」みたいな気持ちで活動していたのである。それを、当の大衆の側から「ゴーマンかますんじゃねー!」と反撃されたわけだから、もう青菜に塩なのである。それも「インテリの抽象的言語」を縦横に駆使しての議論であって、つまり自分たちの土俵の上で、自分たちのルールに従ってなお道場破りされたようなものであるから、この時点でインテリ側はもう圧倒されっぱなしだったのである。

で、よく考えてみると、吉本はこのあとも、ず~っとこの論理で戦ってきたのである。「あのさー、大衆の側からいわせてもらうけどさー、それちょっとおかしくネ?」である。で、上に述べたように言論界の主軸を担ってきた左派系インテリは、こういう出方をされると弱いのである。ごめんなさい、なのである。結果、吉本→無敵の論客みたいなイメージができてしまったのだろう。

というわけで、つまりインテリ左派からすりゃ「こいつは一級の思想家だ」とか何とか、VIP扱いされるわけで、まぁここ数十年は進歩派も凋落してきたからナンだが、かつては「思想界」とか「論壇」とかいう世界を牛耳ってたのは左翼だったからね、そういう一目置かれた栄光の過去があったからこそ、今ンなっても「あの人はすごかった!」とかいって、こんな大騒ぎするんじゃねーか。ま、過去の遺産ってやつで。

でもさー、そうやって「大衆の側に信を置く」吉本さんの主張が何か生み出したんだろうかね、と思うわけである。「コム・デ・ギャルソン論争」というのがあって、つまり吉本がコム・デ・ギャルソンの服きて何か広告出てチャラチャラしてたら、埴谷雄高に批判された、みたいな話なんだが、吉本は「いや、こういうチャラチャラした服を一般大衆が着られるようになったというのはとても良いことなんだ、高度消費社会の中で大衆はいまや主人公の地位を得ることになったんだよ」(何度もスマンが、これもオレ的吉本理解に過ぎないので念のため)みたいなことを言ったのである。

つまりナンだ、「資本主義に踊らされてけしからん」みたいな反応は、埴谷オマエ古すぎるよ、現にこうやって大衆がチャラチャラできる世の中が来たのは良いことなんだ、といってるのである。まー、そこに一面の真理がないこともないとは思うんだが、オレがここで言いたいのは、そんな大衆べったりでいいのかよ、ということなのだった。なんか「大衆」っつーだけで大甘の態度をとるのは如何なものか。それで、いま思うと、そうやって甘やかしてきた大衆が今なにやってるかっつーと、「郵便局をつぶせば良くなる」とか「公務員を鍛え直せば社会は良くなる」だとか、何かもう戦前から全然変わんねー幼稚なことやってて、日本じたいワケわかんなくなっちまったじゃねーかということなのである。

大衆を錦の御旗にして人にケンカ売るのは上手だったけど、じゃあその大衆とやらに何か建設的な提言でもしていただけましたかね、ってな話だ。

ちょいと脱線するが、一方で彼はある種の思想書みたいなものを書く仕事もしてて、つまり先にいった「共同幻想論」とか「心的現象論序説」みたいなもののことを言ってるわけだが、確かに「共同幻想論」というのは面白かった。面白かったんだが、しかし結局あれが何を言っていたかというと、たとえば「政府」といった社会組織は「在る」ことが疑うべくもなく、堅牢なる実在物とみなされているわけだが、よくよく考えるとああいうものは究極的にはコトバに由来する空中楼閣みたいなものであって、つまりは幻想である、よってお前さんたちも、あんまり怖がるこたぁない、幻想なんだからどうにだってできんだよ、的なアジテーションだったのである(しつこいがオレ的解釈であるw)。

でもさー、金持ちとかが「人生にはお金で買えないものがある」とか言ってるわきで、大衆=貧乏人が「カネカネカネカネカネ」とか言ってる光景ってのはオレたちもよく見てるわけで、つまり、カネっていう、これまた幻想の最たるものに縛られるのはむしろ大衆だろうよ。そういうアジはなかなか届かないんだよ。言論人としてはリッパなのかもしれないが、届かないコトバなんだよ。だいたい難しすぎるし(笑)。

そもそも「大衆ってのはさー」とか言って、あたかも大衆代表みたいな顔で出ていっても、かしこまるのはサヨクだけで、右翼は平気の平左なのである。「それで?」って。「大衆がいろいろ考えてるのはわかった、わかった。もういいから引っ込んでて。あとはオレたち支配階級がうまいことやってやるから」。のれんに腕押しである。

結果、右派の権力側の人たちには全然OKの安全な人で終わったのである。そういう仕事って壮大なガス抜きだったんじゃネ、トリックスター的役回りしてきた人をそんなに持ち上げてどうすんのヨという気持ちはどうしても拭えない。でもまあ、確かにユニークで希有な人だったんだろう。そこは認めるよ。合掌。


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朝日新聞の「巨人契約金問題」報道をめぐって、朝日―読売のバトルが始まっておる。

まぁそれこそ高橋由伸とかは、「意中の球団はヤクルトだったが、オヤジがこさえた借金返済のため多額の裏金を積んでくれた巨人に乗り換えた」とかいうウワサがこれまでも公然と語られていて、しかし当人が「ハイそうでした」などと言うわけないので、「ま、巨人ならやりそうだよなー」といった印象を皆さん感じていたとは思うのだが、その辺の確証を朝日が得たということなのであろう。

個人的には「あ、やっぱりそーなのね」でいいような気がする。古くは別所毅彦引き抜きから始まってこのたびの杉内・村田にいたるまで、「カネで引き抜く」は巨人のお家芸なのであって、ま、今回もそうなのだが、巨人=読売の「カネで補強するのも企業努力だ、カネのないヤツがひがむんじゃねーオラオラオラ」という論法はつねに一貫している。

要するに「そーゆーヤツ」なんである。メディアも抱えてるから声も大きい。相対的に人気球団であるという事情もある。今回の契約金騒動もそうだが、よその球団も「まあウラに回りゃあオレたちだって真っ白ってワケじゃねーし、巨人のやることならしょうがねーよな」と思っているのである。

だからいまさら道義上どうこう言ってもしょうがないのである。とにかく「そーゆーヤツ」なんだから。ま、オレ的にはそういうカネにあかせた補強というのは好かんが、みてなさい、巨人=読売はぜったい頭下げないから。で、世論も「ま、いーんじゃネ」で終わるのだ多分。大衆も別所以来(我ながらしつこいなw)何度も何度もおんなじようなことやってきた巨人を赦し続けてきたのだから。くやしいけど。

そういう意味でいうと、読売サイドも紙面を使ってさかんに「反論」をしているようだが、これはかえって大人げないのではないか。「世の中こーなってんのよヘヘヘヘ」といって、陰で笑ってりゃいいんじゃねーのか。

読売サイドはどうやら「情報流出」の根源は例の清武元代表と断定したらしく、けさなども「球界の契約情報暴露…清武氏の著書に怒り噴出」などという記事をデカデカと掲載してる。が、オレなんかにしてみると、この記事で「お、そうかそうか、今月16日に清武英利が球団批判の本を出してるのか!」とわざわざ教えてもらったに等しく、その本「巨魁」(ワック出版)という本をついつい買ってしまいたくなるのだった。これは逆効果ではないのか?


ついでにひとつ言っておくと、読売は「情報流出」は企業秘密の盗難に等しい云々という批判をさかんにしているのだが、じゃあ新聞お得意の「企業合併スクープ!」とかいうのは良いのだろうかというツッコミが当然出てくるワケだし、一方で「朝日は情報の入手先を明かせ」みたいなことまで言い出してるが、これって報道機関としては自らの首をしめる発言ではないのか。

泰然として黙ってりゃいいのに、ペチャクチャ余計なことをしゃべってしまう。これは逆にいえば、「新聞の覇権」に自信をもてなくなってきたことの裏返しなのかもしれないが。


巨魁

巨魁

  • 作者: 清武 英利
  • 出版社/メーカー: ワック
  • 発売日: 2012/03/16
  • メディア: 単行本



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というわけで、本ブログにはこれまでジャック・ヴァレ『Passport to Magonia』の試訳など掲載してきたのですが、この際、当ブログからは一切削除することにいたします。とは言いながら『ディメンションズ』『コンフロンテーションズ』等々のヴァレ作品読解プロジェクトは継続しておりますので、興味をおもちの方々におかれましては、またどこかでお会いすることはできるかな、と。
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原発事故の民間事故調報告書が、けっこう突っ込んだ内容ということもあってか、ひとしきり話題になったんだが、実はアレ、けっこうイイカゲンなのかもしれない。

まぁとりあえず「どういう報道があった」のおさらいの意味で、以下に新聞記事引用。

 菅首相が介入、原発事故の混乱拡大…民間事故調



 東京電力福島第一原発事故に関する独立検証委員会(民間事故調、委員長=北沢宏一・前科学技術振興機構理事長)は27日、菅前首相ら政府首脳による現場への介入が、無用の混乱と危険の拡大を招いた可能性があるとする報告書を公表した。


 報告書によると、同原発が津波で電源を喪失したとの連絡を受けた官邸は昨年3月11日夜、まず電源車四十数台を手配したが、菅前首相は到着状況などを自ら管理し、秘書官が「警察にやらせますから」と述べても、取り合わなかった。


 バッテリーが必要と判明した際も、自ら携帯電話で担当者に連絡し、「必要なバッテリーの大きさは? 縦横何メートル?」と問うた。その場に同席した1人はヒアリングで「首相がそんな細かいことを聞くのは、国としてどうなのかとゾッとした」と証言したという。


 翌12日朝、菅氏は周囲の反対に耳を貸さず、同原発の視察を強行。この際、同原発の吉田昌郎前所長(57)が東電本店とのテレビ会議で、「私が総理の対応をしてどうなるんですか」と難色を示す場面を目撃した原子力安全・保安院職員もいたという。


 報告書は、官邸の対応を「専門知識・経験を欠いた少数の政治家が中心となり、場当たり的な対応を続けた」と総括し、特に菅氏の行動について、「政府トップが現場対応に介入することに伴うリスクについては、重い教訓として共有されるべきだ」と結論付けた。


(2012年2月28日05時02分 読売新聞)



一方で、東電社長が「もう手がつけられんので撤退させて頂きます」――という風にしかとれないことを言い出した時に「そんなこと許さん!」といって菅が激怒した点はこの報告書も評価していたようだが、この記事がその点を完全にネグっているのは、まぁこの新聞のお立場上「そういうこと」なんでしょう(笑)。

で、本論に戻ると、ここで「首相がそんな細かいことを聞くのは、国としてどうなのかとゾッとした」という証言は、とうぜん「菅はダメダメだった」という文脈で受け取られてしまうんだが、その証言をしたという人物が「オレの真意はそういうことじゃない」と言い出したのである。

具体的にいうと、内閣審議官のジャーナリスト・下村健一氏なのだが、ツイッター( @ken1shimomura)でこんなことを言っている。

民間事故調が一昨日公表した、原発事故の検証報告書を巡る報道…ツマミ喰いは各メディアの自由だけど、《正しく認識せねば、正しい再発防止策は導けない》という意味では、この全体イメージの歪み方は本当にマズい。同事故調に全面協力した者の1人として、明日以降、順次ここでコメントしたい。 via web

2012.03.02 01:17

【原発・民間事故調報告書/1】400頁以上の大部、日々少しずつ精読中。3章「官邸の対応」、4章「リスクコミュニケーション」、付属資料「最悪シナリオ」の部分を中心に、コメントしていきたい。目的はただ一つ、微力ながらも《本当に有効な再発防止策》に近づく為。立ち会った者の責任。 via web

2012.03.04 00:53

【民間事故調/2】まず、大きく報道された、《電源喪失した原発にバッテリーを緊急搬送した際の総理の行動》の件。必要なバッテリーのサイズや重さまで一国の総理が自ら電話で問うている様子に、「国としてどうなのかとぞっとした」と証言した“同席者”とは、私。但し、意味が違って報じられている。 via web

2012.03.04 00:53

【民間事故調/3】私は、そんな事まで自分でする菅直人に対し「ぞっとした」のではない。そんな事まで一国の総理がやらざるを得ないほど、この事態下に地蔵のように動かない居合わせた技術系トップ達の有様に、「国としてどうなのかとぞっとした」のが真相。総理を取り替えれば済む話、では全く無い。 via web

2012.03.04 00:54


というわけで、菅がこんなことまで言い出さざるを得ないほど、原子力村の面々は茫然自失の体で突っ立っておった、というハナシであったわけだ。

もちろん菅が12日に現地視察に飛んだこととか、やっぱりありゃダメだったよなとオレも思ったりするんだが、そもそも原子力行政の根幹が腐っていたワケで、それを上手くコントロールできなかったからといって菅は「悪者」なのか、という思いが一貫してある。彼の功罪を検証しつつ、でもやっぱり問題の根源は「安全ですから」の一辺倒で有事を想定せず、有事が到来したらしたで思考停止に陥ってしまった原子力ムラそのもののありようにあるんではないか、という視点が大事だとおもうんだが。

メディアもメディアで、そういう本質論を糊塗する方向に議論をもっていくのは明らかなミスリードであり、ちゃんとしていただきたいものだ。




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legacy.jpg

3代目レガシィツーリングワゴンを買ってはや10年。サンデー・ドライバーでほとんど遠乗りもせず、よって走行距離はまだ4万キロ台と完全な道楽品に成り果てているワケではあるが、そろそろヤレも見えてきた感もあり、そろそろおそらくは生涯最後となるマイ・カー選びにでも着手するかとリサーチを開始し始めたところ、いささか驚いておる。いったいどうなってんだ最近の日本車は!!

もともと俺は空間認識能力に問題があるのか(笑)車の運転というヤツがさほど上手くはないのだが、もちろんそれはちょっと脇道に入ると途端に道幅が狭くなったりする日本の劣悪な道路環境というのも相俟っての話であり、いやつまり、何を言いたいかというと「日本という国で使いやすいクルマというのは必然的に横幅を絞り込んだクルマである」ということであって、それを具体的にいうなら「5ナンバー車」、つまり横幅1.7m以下のクルマこそが日本のクルマの王道をいく存在であるべきだ、と俺はこれまで考えていたのだった。つまり、1.7m超のいわゆる「3ナンバー車」はごく一部の好事家向けの特殊なクルマなのだ、という考えである。当然オレの現在の愛車、レガシィツーリングワゴン2.0GTも横幅1.695m、5ナンバー規格に収まっていることは言うまでもない。

ところがだな、「じゃ今のレガシィも当然候補のひとつになるよね~」と改めて調べてみると、現行レガシィの横幅はなんと1.780mm! 軽々と1.7mの壁を越えちまってるではないか! ちなみにレガシィに乗っててステーションワゴンの使い勝手の良さには納得してた事もあり、「そうかレガシィは勝手に肥大化しちまったかー。オレ的には減点だな。じゃ、ほかに当たるか」と考えて引き続き調査を続行したのが、有力候補、軒並み失格であった! たとえばプリウスαの横幅は1.775m、アテンザ・スポーツワゴンは1.795m。もちろんカローラフィルダーとか、いわゆる大衆車派生のステーションワゴンであればなお横幅1.7m以内に収まっているんだが、排気量2.0~2.5リッターあたりのクラスで5ナンバー枠を墨守してるワゴンは皆無の気配。軒並み3ナンバーではないか。選べない。

どうやらオレが知らない間に国内の自動車メーカーは、「あ、ちゃんとしたステーションワゴン買いたいんだったら、基本3ナンバークラスしか作らないからね。どうしても5ナンバー欲しかったら、プラスチック満載の大衆車クラスのステーションワゴンもどきから選んでね」とハラを固めていたのだった(ごめんなさいカローラフィルダーオーナーの皆さん、悪意は決してないがハナシの展開上こういうことになってしまった也)。

日本の道路事情を考えればどうしたって5ナンバーのほうが合理的なのは間違いないのに、どうしてこんなことになっちまったのか? 調べてみると、どうやらこういうことらしい。つまり、ジリ貧の日本ではもうどう考えたってクルマがバカ売れする時代ではない。メーカーとしては外国で売れる車に力を注ぐしか生き残る道はない。一方で、日本車の主要なマーケットである欧米では相対的に道路環境は良好である。少しぐらい横幅がデカくなったって、何の問題もない。というか、むしろ横幅たっぷりのクルマのほうが広くていいゼ、ってのが連中の感覚だ。もはや国内向け・外国向けとか分けてクルマ作るほどメーカーも余裕ない。だったら「外国でうけるクルマをどうやって作るか」が最重要課題。「外国意識して作ったクルマだから、国内で使うにゃチト不便かもしれねーけど、贅沢いわねーでガマンしてくれよな」ぐらいな感じなんだろう。

加えて国内の自動車税も、おそらくはアメリカあたりの「非関税障壁だ!」みたいなクレームが奏功したんだろうが、確か以前は5ナンバーと3ナンバーじゃ税金がだいぶん違ってた記憶があるんだが、今じゃ「3ナンバーか5ナンバーか」ってのは線引きの基準じゃなくなったらしい。国内のユーザーだって、「そうか、横幅の広いクルマでもとりあえず税金は変わンねーのか、取り回しは良くないかもしれねーが、ま、しょうがねーかな」とかいってガマンしちまうのである。

いや、むしろオレたち消費者のほうがもっとバカで、「同じ値段なら5ナンバーより3ナンバーのほうが見栄えが良くていいよねー」とか、実はこういう状況をむしろ喜んでるんじゃねーか。そういや、昔トヨタが「5ナンバーだけど高級車」的なコンセプトで「プログレ」ってセダンを出してて、オレなんかも好感をもっていた。でも、コイツもそれほど人気が出なかったみたいで、いつしか製造中止。

自動車メーカーの皆さんだって、こんな風に思ってるんじゃないか。見てくれだけリッパな3ナンバーばっかりじゃなくて、やっぱり使い勝手の良い5ナンバー車こそがメーンストリームであるべきだし、だから「そこそこ高級な5ナンバー」だってホントは存在すべきなんだけど、でもトヨタさんのプログレは売れなかったしなー、消費者はやっぱバカだからしょうがないよなー、って。まぁオレ的には日本の自動車文化はトンデモないところに来ちまってて、とりあえず「そこそこ高級な5ナンバー」がほとんど壊滅状態になっちまったのはゆゆしきことなのである。

さらに一歩踏み込んでいえば、これは別に自動車に限ったハナシではないのだ。これから「需要」というものが逓減していくであろう日本という国のことを思うと、製造業の皆さんも「まず外国で売れるものを作る。国内の皆さんのことは、まぁ二の次だよね」という苦渋の?選択を強いられることは必至だろう。「日本人の感覚からいえばコレが一番だよねー」っていう商品が、オレたちの手元に届かない。同じようなことはほかでも起こりうるんだろう。次は何なんだろう。溜息がでてくるな。

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ということで、ジャック・ヴァレの3部作をひそかに読み進める私的プロジェクトを継続しているのだが、その中の1冊「Revelations」が、ジャック・ヴァレー著・竹内慧訳『人はなぜエイリアン神話を求めるのか』(1996・徳間書店)として邦訳されていることは、版元が「ショッキングサイエンス 脳内メカニズムの悲劇!? 」という意味不明のサブタイトルをつけて失笑をかってしまった点もコミで有名である。

で、以下は後日に備えての私的メモなのだが、これは全巻を訳したものではなくて尻切れトンボになっている、という指摘がどっかであったのを思いだし、改めて調べてみた。すると原著のしょっぱなの「Acknowledgements」が省略されているのはマァ良いとしても、最後の「Conclusion」が省略されていたことがわかった(そのあとのAppendix、Indexも当然ない)。結論部を省略したのだから、尻切れトンボ感があるのは当然だった。

そんなに長くないので、いつかこのConclusionも読んで、3部作読解プロジェクトを終了したいなあと思う。
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