2012年07月

ロンドンオリンピックである。こういうご時世であるからして、「日本頑張れ~」とかいうシュプレヒコールは、まぁアリかなとは思う。

思うんだが、しかし根っからのヒネクレ者なので、何度でも言いたくなるのである。そう、スポーツ=健全=さわやか、みたいな図式は全部ウソなので、決して国民のみなさん「爽やかな感動」なんかに酔いしれないでいただきたい、と。

きのうあたりだったか、朝日新聞にいいことが書いてあった。つまり、女子の運動選手は生理の前後はどうも調子が宜しくないので、なんかそのあたり人為的なコントロールがどうしても必要になってくる、みたいな話とか、あるいは女子選手の場合、体脂肪率を一ケタ台に絞り込まねばならないことがあるけれども、こういうのは基本的に体によくないので十分注意してほしい、みたいな話である。

こういう話からして明らかなのであるが、そう、ハッキリ言ってしまうと、、超一流の運動選手の身体というのは「不健康」なのである。考えてもみてほしい。どう考えても人間の体というのは100メートルを9秒台で走るような体をしていないのである。なのに無理矢理そういう体を作ってしまう。あるいは、いくらなんだって2時間も3時間も走り続けるような動物ではないのに、無理矢理に走りきってしまう。ある意味、オリンピック選手なんていうのは人体を「改造」してきたサイボーグなのである。そして、そういう改造行為は明らかに体に悪いのである。彼らの体はボロボロなんである。

まぁこれをスポーツといえるかどうかはわからんが、相撲などを考えてみると、こういう戦いでべらぼうに強い男というのは決して長生きできない。あるいはこれもスポーツといえるかどうかは知らんが、プロレスラーなどというのは総じて短命である。特定のルールに特化して「勝てる」ようにチューンアップした人間というのは、どっか不自然な生き方を強いられるがゆえに、どこかでひずみを生み、結果、不健康になってしまうのである。

(ここでちょっと思い出したのだが、ホッケーなんていうのは実に体に悪そうだ。あんな前屈みになって走り回らにゃならんというのは、素人目にみても腰がどうにかなってしまいそうである)

というわけで、オリンピックなどというのは、「健康」みたいな一般的な価値は投げ捨てて、とにかく勝つためにできることなら何でもやってやろうという、怖ろしい「鬼」たちが戦う場なのである。これはもう、爽やかとかそういうレベルの話ではなく、ある種の価値にすべてを捧げてしまうという、ほとんど宗教の世界なのである。キチ×イの世界なのである。・・・であるんだが、世の中は「宗教?こわ~い」とかいいながら、こういう連中は「素晴らしい」とかいって褒めそやすのである。いささか滑稽。

だから、オレとしては安易に感情移入するなよ、と言いたい。連中の戦いというのは、ある種の、怖いものみたさの見世物以上のものではない。わかっているか、NHKよ。オリンピックのテーマソングとかいって、「いきものがかり」の、実に甘ったるい「風が吹いている」などを流している場合ではないのである。オリンピックというのはあくまでも「怖い見世物」として見るのが正しいのである。

・・・と、いま柔道女子57キロ級準決勝、松本の鬼の形相をテレビでみながら記す。決勝進出。午後10時28分。相手のフランス娘は美形ではあったが(笑)。


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ロンドン五輪開幕まであとすこし。日本時間の本日未明には、ひとあし早く女子サッカーの、いわゆる「なでしこジャパン」の初戦が行われカナダを撃破したとの由。たいへんけっこうなのだが、しかし何かこのところのメディアの「なでしこ」の持ち上げぶり、騒ぎっぷりときたら、ちょっと異常すぎないだろうか? そこまで騒ぐか、みたいな。

ええ、確かに震災後のワールドカップで、オレたちがほんとガックリきてるところで、誰も期待してないのに(笑)優勝なんかしちまってコノヤロー泣かせてくれるじゃねーか、という場面は確かにありましたよ、ハイ。だから今度の五輪でも「優勝いけるぞー」とかいってはしゃぎたくなる気持ちもわからんではないが、どうにもこの「なでしこフィーバー」には違和感がある。

こないだのフランスとの親善試合で完膚無きまでに負けて、「いやそりゃきっちりマークされたら連中にはかなわんだろ、優勝は、ま、厳しいんじゃネ」というオレなりの冷徹な分析(笑)が背景にはあるわけだが、ただ、オレの違和感の理由はそれだけではない。

まぁ別にオレが何を考えていようが、他人様には何の価値もない話ではあるんだが、まぁどうせ日記的チラ裏的ブログだし、ヒトサマが盛り上がってるところに水をさすのが好きな人間なので好き勝手なことを書かせてもらおうか。



よくよく考えるとだな、こういうスポーツ観戦の魅力の根っこには、まずはプリミティブな「人類最強は誰か!」みたいな興味関心があるんだと思う。もちろんオリンピックとかになると例の「ナショナリズム萌え」みたいな要素もあるんだが、しかしニッポンジンに全く縁がなくたって、たとえば「陸上100メートル決勝にさてボルトはどんな顔して出てくんのかなー」とかさ、サッカーのヨーロッパ選手権決勝でスペインのゲージュツ的プレイに「すげーな」って息を呑んだり、という場面は確かにあるわけで。

「ともかく一番強いヤツ、一番速いヤツ、一番スゲーヤツって誰よ」。これがキモである。

で、そういう観点からいうと、これはフェミニズムの方々の神経を逆なでする意見であるとは思うがどうせこんなブログなど誰も見てないので言ってしまうのだが、「女子」の競技で一番になっても決して「世界一」にはなれないのである。そう、、同じルールでやったら、女子が男子に勝てる競技というのは存在しないから(あるかもしれないがいまは思いつかんので、そういうことにしておく)。

「なでしこ」への違和感というのは、たぶんその辺にあって、つまり本当の「サッカー世界一」というのは、まぁクラブカップなのかW杯のほうになるのかわからんが、いずれにせよ男のチームであることに違いはないわけで、「なでしこ」が世界一になったからといっても、それはしょせん人類ナンバーワンということではなく「この範囲内では一番だかんね」という話に過ぎないのである。

日本のメディアの騒ぎぶりをみてると、「男のチームが優勝するのがサイコーなんだけど、そりゃ無理だし、まぁそういう意味じゃ女子チームでも応援しとっか」的な、ある種の諦念とナショナリズムがないまぜになった何となくの哀しさが漂ってしまうのである。ありていにいえば、自己満足のための「代用品」としての「なでしこジャパン」。

やっぱり単純明快に「人類最速」「人類最強」という惹句に直結しない勝利というのは、どっか迫力を欠くのである。そこをナショナリズムの追い風もコミにして、むりやりに盛り上がるというのは如何なものか?

(余談ながら、オレは新体操とかフィギュアスケートとかいう、よくわからん「採点」が絡む競技をスポーツと認めていないのだが、そこにもまた「誰が見たって単純明快に世界最高」とはいえないうさんくささを感じてしまうからである。ま、そんなどこの馬の骨かわからんヤツに認めてもらわなくたって結構、と競技関係者なら言うだろうけどねw)

ま、あんまり無理矢理に「なでしこ」を消費するのはやめようや、応援するのは勝手だけど「皇国の興廃この一戦にあり」みたいなムードはヘンでしょ、そりゃ彼女たちが命がけでプレーしてるだろうことはわかるけどサ。というのが結論である。

付記

あ、いそいで付け加えておくけれど、「女子はどんな時だって世界一にはなれない」というのは、さまざまな競技が「男性優位」のルール体系でできあがっているから、という理屈もありうるだろう。たとえばの話だが、究極的な耐久力なら女性>男性という説もあるようなので、200キロマラソンみたいな競技があったら、ひょっとしたら女性のほうが強いかもしれない。あるいは前後半90分じゃなくて前後半8時間のサッカー、とか(笑)。オレがここまで言ってきたことは「現実にあるスポーツを前提とするかぎり」なので、その辺は誤解なきように。


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というわけで、以下、フツーの人には意味不明の話。

私淑しているジャック・ヴァレが共著として出した「Wonders in the Sky」という本をKIndleでパラ見しているのだが、これは19世紀以前であったろうか、世界各地で目撃されたUFOのはなしを様々な文献を渉猟してまとめた本であって、中には日本の話も出てくるが、その話のほとんどが1960年代に刊行されていたらしい日本の雑誌「Brothers」を典拠として挙げておる。

はて、そんな雑誌あったのか? というわけで、いろいろとググってみたところ、丹羽公三という方の「Kz.UFO現象調査会」なるサイトにたどりついた。

小生浅学のため存じ上げなかったのだが、このサイトでは内外のさまざまな関連書籍・史料が幅広く紹介されており、ふむこの方、在野のベテラン研究家であろうかとさらにググってみると、この丹羽氏、並木伸一郎氏が会長をしている日本宇宙現象研究会(JSPS)のエライ方のようで、やはり同会に関わっておられたということなのだろう、早世された志水一夫氏を偲ぶ会の会合に、並木氏などとともに参加された際の記事などもネット上でみつけることができる。

なるほどこういう業界はオレのような半可通の知らないところでちゃんと存在しているのだなという感慨を抱いたものである―――いやいや、すっかり話がわき道にそれてしまったようだ。閑話休題。

で、この「Kz.UFO現象調査会」のホームページから、「UFO最新情報保存庫」→「新規UFO関連資料掲載」→「平成18年6月 新規掲載」と入っていったところに、この「BROTHERS」の表紙写真が掲載されていたのだった。2冊あって、ともに1964年刊。ひとつはVol.3 No.1、もうひとつはVol.2 No.Ⅰ-4と読める。
で、そこにはCBA(Cosmic Brotherhood Association)の文字。

そう、どうやらこれ、1950年代半ばから約10年間、国内で盛んに活動を繰り広げたUFO研究団体CBA=宇宙友好協会が出していた英文誌であったようなのだ。じっさい、このサイトには「CBA率いる松村代表のあいさつ」と題した記事の写真も掲載されていて、つまりこの団体を仕切った(とされる)松村雄亮氏の肝いりで発刊された雑誌であるらしいこともわかる。先のサイトの写真をみると表紙はカラーだ。凄げぇ力入ってる。

なるほど、これで話が見えてきた。

実はヴァレの名著「Passport to Magonia」にも、日本の過去のUFO目撃譚についてコメントするかたちで、この松村雄亮氏は登場している。ちなみに同書の初版刊行は1969年。となると、こんな推測が成り立つだろう。1960年代、松村氏は世界に開かれたUFO研究を志し、英文雑誌による情報発信を試みる。今も昔も、日本人というのはこの手の試みが苦手であるから、海外の研究者たちにこの雑誌が注目されたであろうことは想像に難くない。気鋭の研究者、ジャック・ヴァレもその一人。この雑誌がきっかけになり、ヴァレは松村氏と連絡をとりあうようになる――。

もっとも、結局のところUFO=宇宙船説をとるCBAと、そのような考え方に懐疑的なヴァレは本質的なところで相容れるはずはなく、この「交流」もしょせんうわべだけのものであったと言うことはできるし、例の「Wonders in the Sky」に引用される「Brothers」も基本的にオリジナルソースを明示していないようなので、「しょせん怪しげな雑誌だったんじゃないの?」というツッコミもあり得るだろう。さらにいえばこのCBA、ある種の終末論を唱えていたことが暴露され、今日ではある種のカルトのようにみなされることも多いし。

だがしかし。1960年代という時点で、この手の情報発信にチャレンジし、それなりの反響を得たのだったとすれば、こいつはソコソコ評価すべきことなのではないか? それに、当時のCBAはそれなりにキチンと海外のUFO情報を紹介するマジメな取り組みにも取り組んでいたのではなかったか? あるいは、これは評価されるべきことかどうかは微妙だが、縄文の遮光器土偶をエインシェント・アストロノーツと関連づける議論を始めた「功績」(笑)は、たしかCBAにあるんじゃなかったか?

この「BROTHERS」が1960年代の世界のUFOシーンに与えた影響というのはどのようなものだったのか? 資料も散逸しつつあるとは思うのだが、才ある方にそのあたりをじっくり調べていただけたら、などと思うのである。いや、とゆーか、そもそもCBA興亡史みたいな、その全貌を明らかにする本があればいいのだ。読みたいぞオレは。そういう本があれば。まぁ大宅壮一賞が取れるハナシとは到底思えないけれども。


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ひたすら読むエコノミクス/伊藤 秀史 著
ひたすら読むエコノミクス


クルーグマン ミクロ経済学/P.クルーグマン 著
クルーグマン ミクロ経済学


思うところあり、五十ヅラさげて経済学でもひとつ勉強してみるか、と思い立ち、とりあえずのリストアップ。


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ノートPCに引き続いて、デスクトップにもSSDを入れてしまった。物欲に負けて通販で買ってしまったのはプレクスターから出たばっかりのPX-256M5S。256G。約18,000円。システムを入れていた日立の500GのHDDと換装。今回もEaseUS Todo Backupで簡単にクローン化。

で、どれだけ速くなったのかというチラ裏メモ。

まず従来のSATA2で接続した場合。

PX-256M5S_1.JPG

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ふむ、確かに古いHDDと比べるとかなりの高速化。

がしかし。わが愛機のマザーボードP7P55D-EにはナンチャッテSATA3.0端子がついていて、通常は帯域が250MB/sなんだが、BIOS的に細工をして、これを倍の500MB/sに引き上げる「IOレベルアップ」という機能があるので試してみる。

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少~しだけ速くなった。まぁしかし、新しいLGA1155のボードであれば、400だ500だって数字が出てもおかしくないわけだが、コイツはMAX250がせいぜいである。時代遅れのLGA1156の限界である。

なんというのかなー、出来の悪い子どもなんだが、家庭教師つけて一生懸命勉強させました、それでナンとかそこそこの成績は取れるようになりました、でも高いカネ払った割にはチト物足りない、あぁやっぱり馬鹿な子に下駄履かせたって限界というものはあるよねー、みたいな心境(笑)。

でも、それなりに起動とか速くなったし、仮にしばらくしてボードをLGA1155に替えても恥ずかしくないパーツではあるよね、的に自分を慰める。


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毎年この時期になると、夏の高校野球というやつが始まる。

当ブログでも再三書いているが、野球留学みたいな作戦を弄してなりふりかまわずに勝ちに行く各地の私立高校のふるまいには苦々しさを感じているところであり、オレとしてはけっして朝日新聞がはやしたてるような「清く正しい青春」の世界がグラウンド上で繰り広げられているとは思っていない。

ではあるンだが、わが郷里の長野県大会の動向についつい目がいってしまうのは、哀しい性。で、きのうの話、甲子園でもおなじみの(もっとも出場回数ばかり多いがすぐに負けて帰ってくることでも有名w)古豪・松商学園が、公立の進学校・諏訪清陵に負けているではないか! 

松商といえば、日本プロ野球初の三冠王、中島治康の母校でもある。そういう体面もあるんだろう、やっぱり毎年数人は大阪あたりから野球留学の助っ人を連れてくる学校、という印象がある。それゆえに県内の公立高校など、もう逆立ちしても歯が立たないというのが常識であった。そういう強敵を公立校が倒した。

こないだ、通信制を逆手にとって野球ばっかりやってる生徒を擁した「地球環境」とかいう学校が長野代表で甲子園に出てきて、オレとしては「かつての教育県もここまで堕ちたか」とガックリしたものであるが、そうなのだ、やればやれるじゃないか公立だって。

まぁこういう学校は、トーナメントの長丁場を乗りきるためにいろいろと下準備をしている私立強豪とかと違って、それこそ一戦一戦、必死で勝ち上がっていくしかないので、おそらく最後まで勝ち残るというのは難しいのだとは思うが、それはそれ。こういうジャイアント・キリングこそ高校野球の醍醐味だワイと(試合を見たわけではないがw)オレは内心快哉を叫んだのであった。


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というわけで、きょう仕事を終えて駅から歩いて帰ってくる途中、立ちションベンをしている男を目撃したのだった。

う、そういやぁ立ちションしてるのを見るの久々だわい、と思う。

そうなのだ、最近立ちションをする男というのはほとんど絶滅危惧種なのである、少なくともオレの身の回りでは。こいつは意外な発見であって、そういえばこのまえテレビで見た映画「転校生」は1980年代の邦画の傑作としてオレの心に深く刻まれている名画なのであるが、その最後のほうで尾美としのりが気持ちよさそうに立ちションをするシーンがあった。あの映画を知ってる人であれば頷いていただけると思うけれども、あれは確かにストーリー上、必要なシーンではあった。が、同時にあれは当時のジョーシキからすれば別段違和感のあるシーンではなかった。

つまり何を言いたいかというとだな、何やかやいって、ああいう品のないふるまいをする人間というのは、この日本ではどんどん減っているのではないか、ということなのだ。

たとえば、ワケもなく駅員に暴力をふるう人間とかがしばしば報道されて「最近のニッポンは怖い」みたいな印象操作がなされたりもする昨今なのであるが、いやよく考えてみると「イキナリ暴力をふるう粗暴なヒト」というのは本当は昔のほうが多かったのではないか。殺人事件とか昭和30年代なんかと比べると激減したっていうのは有名な話でもあるし。

これは、例の映画「三丁目の夕日」をみては「むかしは良かったよねー」と遠い目をする連中への違和感とも重なってくるわけだが、やっぱり何やかやいって、日本人は豊かになったのであり、そしてそのプロセスのなかで「衣食足りて礼節を知る」ようになったのである。それはそれでちゃんと評価しないといけないことではないのか。

これとちょっと関連した話をもうひとつ。昼間、銀座の界隈を歩いていると、よく中国人観光客がデカイ声で話をしながらぶらついておる。若干失礼なことを言わせていただくと、オレのイメージの中では、中国人というのは街を歩いていても、のべつまくなしに「ガラガラペッ」とタンを吐き散らす人たちだ、というイメージがある(あと行列は絶対守らない、とかね)。

しかるに、最近銀座で見かける中国人観光客は、まぁ行列を守るかどうかは知らんが、どうやら街路にタンをペッと吐き出したりしてはいないのである。もちろん日本に観光にくるような連中はかなり裕福な層だということもあるンだろうが、まぁタンは吐きそうもない。たぶん。

何やかやいって、小ガネを貯めた中国の皆さんも「やっぱタン吐いちゃいけないよねー」と思うようになったに違いない。やっぱ「衣食足りて礼節を知る」なんである。

というわけで、話をもとに戻しますけれども、ナニカっつーと「昔は良かったー」という人たちがいるけれど、決してそういうのは真に受けてはいけないのである。ノスタルジーはノスタルジーでいいけれども、まぁ今の自分たちにもっと自信もったほうがいいんじゃねーの、とオレは常に思っているのである。立ちションが減った日本。どうだ、素晴らしいではないか。

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【追記その1】 ↑まぁ、たしかにこういう風景と立ちションベンはすごくマッチするような気はしますナ

【追記その2】 もっとも、路上喫煙とか立ちションとかを、居丈高になって「絶滅せよ!」とか叫ぶような連中もまた願い下げではある。ああいうのは自分が「やめた!」と決めてやめるものであって、強制してやめさせるというのはやはり宜しくない。


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エリア51 世界でもっとも有名な秘密基地の真実 (ヒストリカル・スタディーズ)

エリア51 世界でもっとも有名な秘密基地の真実 (ヒストリカル・スタディーズ)

  • 作者: アニー・ジェイコブセン
  • 出版社/メーカー: 太田出版
  • 発売日: 2012/04/05
  • メディア: 単行本



米国でも話題になったという触れ込みのノンフィクション、アニー・ジェイコブセン著「エリア51」(太田出版)をようやく読了。ネヴァダ州の軍管理地域・エリア51というのは米軍の秘密兵器開発基地であるとか、宇宙人が匿われている基地であるとか、まぁいろんな憶測の飛びかう謎めいた場所であるわけだが、気鋭のライターがその歴史と内実を綿密な取材で解き明かした書物、とでもいえば良かろうか。

で、以下はこの本の感想文ということになるわけで、当然ネタバレ的なことも平気で書いてあるので、そのあたりが気になる方は読まないように。念のため折りたたんでおくけれど。

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というわけで大津いじめ事件である。

いじめを受けていた中学生の少年が自殺したのだが、いじめとの関連性はよくわからないといって頬被りを決め込もうとしていた市側が民事訴訟を起こされて、で、学校側はどうもいじめを認識していながら手をこまねいていたのでは、という疑惑が持ち上がっている、そういう話である。

で、ネットワールドではしばしばあることだが、ここにきて、いじめをしていたとされる少年の実名などがウェブ上に広まりつつある。とりわけ、きのう6日朝のフジテレビ「とくダネ!」で自殺少年の遺族の裁判用の準備書面として作成された「同級生たちへのいじめアンケートのまとめ」が映された際、墨塗りが薄かったということなのだろう、おそらく録画画像を精査した連中によって「いじめっ子」の名前が割り出され、ネットに流されたというのがひとつのポイントになったらしい。

で、朝日新聞はきょう7日夕刊(首都圏版)で、このフジテレビの話を記事にした。この番組で少年の実名が広がっている、こいつは憂うべきことだ、というトーンである。

しかし、これは朝日新聞、まずいだろう。

もちろん、この自殺がいじめによって引き起こされたものである可能性は高いのかもしれない。しかし、「いじめっ子」の名前がネットで広まるというのは、少年法の精神からいって明らかにマズイ事態である。

そういう状況にあってストレートに「フジテレビがこんなチョンボをした」と記事にしたらどうなるか? ネットユーザーだって、別にこういう情報があふれかえっている2ちゃんねるに始終目を通している人間ばかりではなかろう。いや、絶対数からいえば、そういう連中はむしろ少数派。「ああそうか、そんな話があるのか、よーし、大津+いじめ+フジテレビで検索かけて調べてみるか」。そういう人間を大量に生み出すことは火を見るよりも明らかだ。結果、何にも知らなかった人間が「いじめっ子」の名前を知るにいたる。

いや、一部週刊誌みたいに「そういう少年法の理念とやらは偽善だから、別に表に出てもいい」というのなら話は別なのだが、天下の朝日新聞は少年法の理念を擁護する立場の新聞である。「フジテレビ、こんなことやっちゃいかんだろ」という一見正義の側に立っているようなポーズをとって報道するのは、一見スジが通っているようにみえて、結果的に生じるのはその少年に対する「人権侵害」の拡大ではないのか? 

そういう二枚舌のいやらしさが朝日の唾棄すべきところなんである。朝日の立場なら、このフジテレビの件は知っていても書いてはいけなかったのだ。少なくとも「人権侵害」を真面目に考えているのなら。けっきょく朝日新聞が喧伝したいのは「人権擁護の朝日新聞」という自己イメージを売り込むことであって、そのために現実に存在する人間が「人権侵害」を受けようとどうしようと構ったこっちゃない、ということなのだ。何という嫌らしさなのだろう。こういうところが体面だけを繕えばよい貴族主義の限界だというのだ。

いつも批判している天声人語とは違うンだが、やっぱり朝日新聞の醜悪さがかいま見えるという点では天声人語に通じるところがあると思ったので、敢えて糾弾しておく。


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昨日の天声人語は、また胸が悪くなるような独特の臭みがある最低の出来であった。まずはお読みいただこう(そのうちリンクが切れるだろうが、いちおうのお約束。ネット版はコチラ)。

 「ばからしい」と書きかけて「空しい」にしたことがある。書き写しを思ってのことだ。流し読みならまだしも、「ばか」と書いてもらうのは心苦しい。多くの方に筆写していただくお陰で、生来がさつな言葉遣いがいくらかマシになった気がする▼毎度の手前みそながら、昨年春に売り出された「天声人語書き写しノート」が累計100万冊に達したという。うれしい前に恐れ多い。人様に写させるレベルかと、自問の日々である▼北九州市立高校では、現代社会などの勉強に使っているそうだ。新聞を読む習慣がなく、小欄とは初対面の生徒さんも多い。慣れないコラム文の書き写しは苦痛だろうが、今春の卒業生は銘々3冊を「完写」してくれた▼集中力がついた、縦書きの字がきれいになった、社会への関心が高まったと、うれしい感想も届いた。「毎日よく続きますね」という問いは、皆さんにそのままお返ししよう。書くのも写すのも、一つ仕上げたら一つ腕が上がる▼よくある質問に「黒い逆三角形は何?」がある。段落を示す記号である。誰が決めたか逆三角が小欄の習いだが、ただの印だからたまにはルール違反を許してもらおう。ご愛読、ご愛写への深謝を込めて♥冒頭の空白を含め603字。短いとはいえ、写される文の大先輩、般若心経の倍はある。写経なみの御利益は請け負えないが、末永く続けていただけば某かの貢献、例えるなら小さなハートマークほどの「お返し」はできるかと思う。ご精進ください。

 

「天声人語書き写しノート」の宣伝である。書き写しを毎日するといろいろな効用がある、といいたいらしい。「人様に写させるレベルかと、自問の日々」といちおうは書いている。が、どうやらこれはホンネではないらしく、そのあとはもっぱら自画自賛。「書くのも写すのも、一つ仕上げたら一つ腕が上がる」「末永く続けていただけば某かの貢献、例えるなら小さなハートマークほどの「お返し」はできる」と自分で言っている。やんぬるかな(笑)。

で、どんな効用があるのかというと、これまた恥ずかしげもなく自分で書いているぞ(微苦笑)。

「集中力がついた」
「縦書きの字がきれいになった」
「社会への関心が高まった」

まぁ確かにこんな臭みのある文章を筆写するなどというのはおのれを空しうして集中しないとバカバカしくてやってられないから、「集中力がつく」というのには一理あるのかもしれぬ。内容はともかく、ひたすら文字を書き続ければ字がキレイになる可能性も否定はしない。

ただなぁ、「社会への関心が高まった」というのは如何なものか。これは何度も書いていることであるが、悪しき貴族主義に毒された「インテリ」が下衆な大衆に向かってご高説をのたまうというのが天声人語の基本的スタンスであって、そのバイアスまみれのご高説に「なるほど現代の社会はこういうことになってるのか」と感心している奴がいたとしたら、端的にいってバカである。

ああそれなのにそれなのに。「写経なみの御利益は請け負えないが」とか再びこざかしいエクスキューズをマクラに振っているとはいえ、言うに事欠いて「般若心経」を引き合いに出すとはどういうことか! この罰当たりめが! こんな駄文を般若心経と同じ土俵で比べる神経はもはや常軌を逸しているぞ。

このコラム、確か2人で交代で書いてる筈なので同一人物かどうかはしらんが、以前「クリスマス=どんちゃん騒ぎするお祭り」みたいな低レベルなことを書いていたこともあったし、宗教への根本的な無理解が目に余る。ある意味で写経をバカにしきっている。いや個人的にそういう意見をもつのはいいが、新聞が天下の公器であるのなら書きようもあるではないか? 誰も注意しないのだろうか?


まぁしかし「善意」で考えてみようか。こんな駄文をいくら書き写したってバカはバカのままなのである。いわば「イワシの頭も信心から」。「それでもやりたければおやんなさい宗教とおんなじだから」というワケで、あえて天声人語をお経と並べているのではないか? 「おい、おまえ天声人語書いてくれよ」とか偉い人に命令されて「えー? あんなもの書かないといかんのかー」と思いつつ、そうは言えないので、メタレベルでこのコラムのアホらしさを指摘している高級なレトリックとも読めるので、もうそうだったら、ふむ、このコラム子、ここにきてホントに「腕を上げた」のかもしれんぞ(笑)。




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