2013年03月

NHKの大河ドラマというのは何か苦手で全然みてないのだが、「八重の桜」というのをやってることは知ってる。

で、主人公・新島八重を綾瀬はるかが演じているということも。が、何か違和感があるのは、やっぱり写真の残ってる実在した人物を天下の美人俳優が演じるときの嘘臭さなのだった。で、ふと思ったのだが、彼女は山口敏太郎氏に似ているのではないか。いやリアリズムで演じてても誰も見ないだろうという大人の事情はわかるにしても。

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天声人語の書き手は福島伸二、冨永格の両氏という話であるのだが、けさの朝日を読んだらこの冨永氏が4月からパリだかに行って別の仕事をするような話が書いてあった。

片割れの福島氏がどうなるのかは書いてなかったので、福島氏がひとりで担当するのか、あるいは新しい書き手が一人加わるのか、はたまた総取っ替えなのか、現時点ではわからんのだが、まぁそのうちアナウンスがあるだろう。

ともあれ4月からの天声人語に注目だ。劣化のはなはだしかったココントコの天声人語はこれから良い方向に変わっていくのだろうか。もしそういうことになったら冨永氏、立つ瀬がないんだけどネ(笑)
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冒頭部の超訳その2です。


従って、私は、「呪われしもの」という言葉を「追放されたもの」という意味で使っている。

だが、追放されたものという言い方には、それがいつの日にか「その場に居残るもの」に転ずる可能性もあるはずだ、という思いを込めている。

こんな風に言ってもよい。今日はここに残されたものであっても、明日どうなるかはわからない。

そして今日放り出されたものが明日になればこの場にある、ということもありうる――もちろん今日放逐されたものが、未来にあってもやはり放り出されている、ということもあるだろうけれど。

われわれとしてはこう言ってみたい。「いまここにない」と「将来においても存在しない」のはざまにも――あるいはわれわれの身の回りにある日常的なものと(いけすかない言い方だが)「実存的なもの」のはざま、といってもいいのだが――大いなる転変はあって、それは天国と地獄の間を往還する運動にもなぞらえることができる。つまり、呪われしものが、そのままずっと呪われしものであり続けるわけはない。救済があるからこそ地獄に堕ちることもある。となれば、われわれの呪われし悲惨なるものが、やがて麗しき天使に化けることもあるのではないか。さらに推論を進めていけば、やがてはそのようなものどもがかつて追い出された場所に帰還することもあるのではないか、そう思われるのだ。


われわれとしてはこう言ってみたい。いかなる者であれ自己を立ち上げようとするときには、何ものかを他者として外部に放り出さねばならぬ――つまり、一般的に或るものが「存在している」という状態は、程度の差こそあれ「内にあるもの」と「締め出されたもの」の間に存在する、それ相応にハッキリした相違点が記述されることによって成りたっている。

しかし、実際にはそれほどハッキリした相違点などない、ということもわれわれは言っておかねばなるまい。万物は、チーズを食い荒らしている虫やネズミのようなものだ。ネズミと虫――この二者ほどかけ離れたものはないようにもみえる。ネズミであればこのエサのところに一週間通うのだろうし、虫なら一か月。が、どちらの場合も外からはチーズのようすが変わっていくのが見えるだけ。結局われわれはみな虫かネズミ。そうしたものが食い荒らしているチーズの外側だけが、時に応じて様々な姿をみせるだけの話である。

あるいはこうも言える。赤色と黄色とはまったく異なる色だとはいえない。それは単に「黄色の有する彩度は赤のそれとは異なっている」というだけの話だ。つまり赤色と黄色は連続していて、だからこそ両者が溶け合う領域にはオレンジ色というものが存在するのである。

それではこの黄色と赤色の議論を踏まえて考えてみよう。すべての現象について、赤の要素を含むものを「真」、黄色の要素を含むものを「偽(ないしは架空のもの、でもよいが)」として科学的分類を試みることになったとしよう。するとその境界領域は「偽」だといえるけれども、同時にどちらとも言い難い恣意的な性格も持っていることになる。なぜならオレンジ色をした物体というのはまさにその変移する領域にあるので、事前に設定されたボーダーラインの両側とつながりをもってしまうからである。

こうやって考えていくと、われわれは次のようなことに気づかざるをえない。

つまり、分類すること、内部と外部のものを分けることには何ら根源的な根拠はなく、そうした考え方は「赤色と黄色は区別できる」というこれまで一般的だった考え方よりもむしろ道理が通っているのだ。

科学が自ら喧伝するところによれば、これまで科学は膨大なデータをその内側に取りこんできた。実際、そうでなかったら、科学というのはいったい何をしているのか、という話にもなるだろう。そして、これもまたその喧伝するところであるけれども、科学はこれまで膨大なデータをその外側に放り出してきたのである。さて、もし赤色が黄色との連続性をもっているとしたら? もし「内側にとどめ置くか」「外側に放り出すか」という基準がハッキリした分岐点をもたず、連続性をもっているのだとしたら? 科学は、最終的に受け入れられたものとそれほど変わらないものを外部に放逐するようなことをしてきたのに違いないのだ。互いにオレンジ色の中に溶け合ってしまう赤色と黄色というのは、あらゆるテスト、あらゆる基準、ある種の説が生み出されてくるプロセスを象徴的に示している――。

あるいはこうも言える。「いかなる問題であれ、すべてのものは分類し区別することができる」という主張は、「万物には判断の基準となるような確たる判別のポイントが存在する」という錯誤の上に成り立つ幻想なのだ――。

また、そのように知的思考を用いてものごとを探究する営みというのは、「事実」「物事の根源」「普遍」「法則」「定式」「三段論法の大前提」といったものを見つけ出すため続けられてきたのだった。その結果、これまでにどんな達成があったかといえば、せいぜいが「ある種の事柄は自明である」と言えるようになったことぐらいである。にもかかわらずわれわれは、何やら「証拠がある」と聞くと何かが証明されたのかという風に考えてしまう。

これが彼らのいう「探究」なのである。それは実際には何らかの達成を成し遂げることなどなかったのだが、にもかかわらず科学は、ある種の達成があったかのようにふるまい、支配者として君臨し、宣命を重ね、そしてその意に沿わないものを退けてきたのだった。(つづく

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ダラダラとネットサーフィン(死語か?)していたら、「森で屁をこく」というところに流れ着いた。

素晴らしい! ちょっと斜に構えたよしなしごとエッセイ。全部読んでないけど。

こういうのを待っていた。ってか、2003年から更新してないじゃん orz

この世界では有名人だったりするのだろうか。たまにこういう発見があるからネットは好きだ。
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今回は「天声人語」ではなく、朝日夕刊の「素粒子」なんだが、きのう3月1日のが噴飯物だったので記録しておこう。

そば、みそ、馬刺し、蜂の子、ざざむし。秘訣は質素。いえそれが一番のぜいたく。男女とも長寿一番の長野県


このたび「長野県人の平均寿命は男女とも都道府県別でナンバーワン」というニュースが流れた。長野県の産であるオレとしては嬉しいニュース。で、それをネタにしてんだが、なんなんでしょうねコレは。

なんか長野県人が長寿なのは質素な食生活をしているから、ということを言いたいらしいんだが、まず「馬刺し」というのは粗食ではない。むしろごちそうである。

それからおそらく粗食の代表格として挙げられている蜂の子、ざざむしというのは、少なくとも今の長野県では広く食されているものではない。とりわけざざむしを食うというのは伝統的には伊那地方の食習慣であり、長野県全般にあてはまるものではまったくない。

いや、そもそも「長野県人の長寿の秘訣が粗食にある」という判断じたい、かなりバイアスがかかっている。むしろ、地域の保健婦さんとかがこまめに健康指導をしたりする保健システムが奏功しているというのが定説ではないか。

おそらく、長野県・田舎・貧乏・粗食・ざざむし・蜂の子、みたいな貧困な連想がアタマに浮かんだので、それをそのまま書いてしまったのだろう。トンチンカン。

この「素粒子」という欄、もとより論理的なことを書けるスペースではなく、頭に浮かぶよしなしごとをただ書き記してみようという欄であるから、いろいろ言っても仕方ないのだが、しかしこれはもうほとんど居酒屋の片隅で、物知り気取りでその実ナニもわかっちゃいないジジイが繰り出す与太話と寸分違わんではないか。

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