2013年04月

ちと古い話ではあるが、3月6日の「天声人語」がえらく評判が悪いらしい。こんなのだ。

▼行きつくところと言うべきか、兵庫県小野市が議会に条例案を提出した。(生活保護の)受給者がパチンコなどで浪費しているのを見つけた市民に通報を義務づけるのだという。耳を疑ったがエープリルフールにはまだ間がある▼筆者と違う意見もあろう。だが、そもそも誰が受給者なのか一般市民には分からない。効果は疑わしいうえ、小野市だけでなく全国で色眼鏡が濃くなりかねない▼生活保護の切り下げについて、受給する女性が声欄に寄せていた。「受給者は楽しみを持ってはいけないのでしょうか。貧しい気持ちを持ったまま、暗く生きていかねばならないのでしょうか」。身に染む声ほど小さく震える。
 ※なお、文中の丸カッコは引用者による


日ごろ天声人語を批判しているオレだが、しかし、今回に限っては「いやこれは悪くない」と敢えて弁護してやろう。

いや、オレも生活保護うけてるのにパチンコに行くというのは、ちと問題ありだと思う。いやむしろ、そういうことをする人間は忌憚なくいえば「クズ」に近い。でもそういう人を責めてはいけない、とオレは思う。

親鸞ではないが、人間なんていうのはどうしたって聖人君子のようには生きていけない存在なのだ。生活保護うけてカツカツの生活をしていても、「そうだパチンコで一発フィーバー当てりゃあ今晩は寿司のひとつも食えるんじゃねーか、よーし勝負だ!」とかいって、ついついパチンコ屋にでかけてしまう。で、もちろんパチンコですっからかんになって家に帰ってきて、「あぁオレってバカだなあ」と自己嫌悪に陥る。人間というのはそもそもそういう弱いところをもつ存在なのだ。

そういう「わかっちゃいるけどやめられない」(by植木等)人間を、水に落ちた犬のように叩いても仕方あるまい。オレはそう思うのである。

さて、天声人語というのは、ふだん、こういう人間の愚かさを徹底的に糾弾するスタンスをとっている。たとえばの話だが、「原発ナシで生きていけりゃ一番いいけど原発受け入れりゃあ地元にカネも落ちるしなあ」みたいなこといってるド田舎の住民にたいして、「いやアンタのそういう発想は間違ってる(キッパリ)」とかいって説教をする立場である。

だからこそオレは、「いやそういう風に高みにたって説教ばっかりしたって、世の中何にもかわんねーよ、オタクらは安全地帯で偉そうなこと言ってりゃいいんだろうけどヨ」というスタンスで天声人語批判をしているのだった。

だが今回の天声人語は、あきらかにそういう人間の弱いところ、クズ的生き方をやむを得ないものとして認めている。オレとしては、「お、オマエラこれまで大衆を啓蒙してやる、的なゴーマンなところが鼻持ちならなかったが、そうかそうか、クズ的生き方を容認してくれたのか、よしよし」という話であって、つまり天声人語は日頃の貴族主義をこの回に限っては捨て去ったのである。たいへん結構ではないか。

というわけで、世間の大勢には反するだろうが、オレ的には「こういう記事ならたいへんよろしいので今後もこの線で頑張ってほしい」とエールを送っておく。





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なんでこう鬱々として楽しまないのだオレは、という風に考えていたのだが、ひとつわかったことがある。

「歌」が足りないのだ。嬉しいにつけ悲しいにつけ、人は歌を唄うものなのだ。

唇に歌をもて。
それを忘れたら人間の心は痩せ衰えていくのだった。
そういえば全然カラオケにいってないぞオレは。

よし。とりあえずYoutubeを開いて、レ・ミゼラブルの Do You Hear the People Sing? を流しながら歌ってみる。

爽快だ。

そういうことだったのだ。




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また村上春樹がさんざっぱらティーザー広告で引っ張ったあげくに小説を出したというのだが、それも午前0時から販売しますよなどというバカな本屋まで出現したものだからバカが夜中に行列つくるありさまで、もうほとんどWindosXPとかiPhone発売の世界である。

・・・などと毒づいているのはオレがこの男を嫌っているからで、たとえば外国の催しとかに呼ばれるとホイホイ出かけていって講演なぞするのだが、国内では公の場に全然出てくることもなく、だからこんど公開インタビューを日本でやるらしいのだが、それがあんまり珍しいことだからニュースになってしまうほどである。

小説を買って読んでくれ、そこに全部書いてある、それ以上のことは言わんから、というつもりなのだろうが、では何で外国だと聴衆の前で講演したりするのか全然説明がつかんし、ハワイあたりの大学で講義なんかもしてるというではないか。オレとしてはこれは「バカな日本人どもは黙って本買ってりゃいいんだよッ!」というメッセージであり、でも何故か毛唐には好かれたいという歪んだ植民地根性のあらわれではないのかと疑っている。なんだ偉そうなこといってもその程度かヨ、というワケでこの男は嫌いである。

というか、よくよく考えると、オレも昔「ノルウェイの森」か何か買って読んだことはあって、つまり基本的にこの男の本は読んではいないのだけれども、たまさかそういう機会にこの男の小説世界に嫌悪をもよおしたという事実がないわけではないのである。(追記:あ、そうだ、そういやこないだ読んだ『1Q84』もこの男の本であったな。これはオレ流ユーフォロア的視点からすると失敗作である、というのは前に書いたw)

で、この男の小説じたい好きになれないのはいったい何故なのだろうと思うのだが、たとえばたまに読む西村賢太の哀れを誘う世界が実に心に染みいってきて、「あぁこれは良いなぁ」とシミジミしてしまうオレの感性からすると、「やれやれ」とかいって女の子とこじゃれた会話を楽しんだ末に××しちゃったり○○しちゃったり、スパゲティを茹でながらビールを呑んだりバーボンか何かをあおったりとゆー、一見苦悩なんかしちゃってんだけど結局ソイツは勝者の余裕じゃネ?みたいな彼の世界に根源的な憎悪を抱いてきたからではないかと思い至るのだった。

そういえば、と思い出すわけだが、遠い昔、オレにも田舎から東京に出てきて木賃アパートで生活していた青春時代というものがあった。根がクライし人見知りなので、友人なんかできないのだった。ましてや彼女なんて。14型か何かのブラウン管の赤い小型テレビと、食費をケチって生協の本屋で割引で買ってくる本だけが寂しいオレの相手をしてくれるのだった。で、たまに早稲田あたりの名画座に行って夢中で映画を観たりしたンだが、あれなんかも孤独を癒してくれたのだなぁ今おもうと。ソフィー・マルソー。クリスティ・マクニコル。心の恋人であった。

もひとつ、たまに人と話をすることもないではないのだが、それは何かというと、隣室に住んでいる土方のオッサンが「ちょっと呑まない学生さん?」とかいって来るので、まぁ断るのも悪いので行って酒盛りをするのだった。

ま、それはそれでいいんだが、このオッサンはどうも分裂病を患っているようであった。「実はオレ、むかし佐藤栄作の娘とイイ仲だったんだけどなあ、仲を裂かれて今じゃこんなありさまよ」。酔うとそんな妄想を繰り返し繰り返しオレに語って聞かせるのだった。酒は焼酎か安い日本酒をそそいだコップ酒。つまみはサバ缶。みたいな。なんだよあのオッサン!とか内心毒づきながら、実はそれが「癒し」になっていたんじゃねーかと思われるフシもあるのが哀しい(笑)。

いやいや、つい誰もききたくないツマラン昔話をしてしまったが、つまりはそういうことである。気取るんじゃねーよ村上春樹。才能があるのかなんか知らんが、偉そうに格好つけて肩で風切ってるヤカラはどうにも許せねえ、ただそう言いたかっただけなのである。嫉妬というやつなのだろうな。わかってはいるさ。



【追記】

なおその後、なんとなくウィキペディアで「村上春樹」の項を眺めていたら、小谷野敦の弁として次のようなことが書いてあった。孫引きさせていただく。

巷間あたかも春樹作品の主題であるかのように言われている『喪失』だの『孤独』だの、そんなことはどうでもいいのだ。(…)美人ばかり、あるいは主人公の好みの女ばかり出てきて、しかもそれが簡単に主人公と『寝て』くれて、かつ二十代の間に『何人かの女の子と寝た』なぞと言うやつに、どうして感情移入できるか。
  *原典は「『ノルウェイの森』を徹底批判する−極私的村上春樹論」『反=文藝評論』(新曜社)とある

若いころもてなかったことで有名(?)な小谷野敦ならではの主張(笑)であるが、そう、オレの言いたかったのはたぶんこういうことなのである。



【追記の追記】

なお、その後、ドリーさんと名乗る方が『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について書かれたアマゾン・レビュー「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」が大評判になっていると知り、読んでみたのだったが、実に共感できる内容であった。(2013/05/06記)


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高浜虚子の有名な句である。

が、オレのこの句にたいする解釈はいささか品のないものである。

正月元旦。アサいちでクソをした。実に、太い見事な棒状のものである。

去年喰ったものが、ことしクソになって出る。

まさに年越しをぶっとい棒状のものが貫いた。あぁ愉快愉快。そういう句として読んでみたいものである。



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昨年末に買ったゴルフ6、サンデードライバーなのであんまり距離乗ってないのだが、それはともかく、日本車との違いというのを意識させられることは時折ある。

たとえば施錠システム。リモコンキー1回押しで施錠すると「デッドロック状態」というのになって、室内からはドアが開けられなくなるのである。

なぜそんな風になっているのかというと、ガラスをたたき割って車上荒らしをしようという泥棒がいた場合でも、ドアは開かないので侵入するためには割ったガラス窓から入っていくしかない。そんなことまでして車上荒らしするなよ、という話である。

もちろん車内に誰か乗っている状態でうっかり外からリモコンロックしてしまうと、中の人が脱出できなくなってタイヘンという事態も考えられるので、なかなか微妙な機能ではある。ちなみにリモコンキー2回押しだとデッドロックにはならない。


さて、この「デッドロック状態」になると、駐車中の右ドアの根本のあたりに赤いランプがピコピコ点滅しはじめ、つまり「いまデッドロック中ですよ」と点滅でアピールする仕組みになっているのだった。で、ふと思ったのだが、このランプはほっとくとずっと点きっぱなしである。バッテリーはあがらないのか? 

ググってみたら「Volkswagen 美浜」というディーラーのサイトにFAQがあって答えが書いてあった。消費電力が小さいので平気、みたいなことが書いてある。LEDなんだろう。

wagen.JPG


まぁことほど左様に、国産車ワールドどっぷりだった人間にとっては発見することの多いゴルフである。ウインカー/ワイパーの位置からはじまって、リアフォグランプの位置とか、今回のロックシステムにいたるまで、いちいち驚いてしまうのである。惜しむらくは、その辺の「違和」についてちゃーんと説明し尽くすような説明書マニュアルを出してくれてればいいのだが、そういう日本人目線の説明書はないし、いちいちネットで調べたりしないといけないのである。

顧客を甘やかさない、というか、その辺の突き放しぶりというのはやっぱ「外国メーカー」だな、と思ったり。


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たとえば「家」とはなんだろう?

家なのかそうでないのか何ともハッキリしないものがあるとしよう。さて、それが一体どちらなのか、判断の基準を明示してどちらかであると判断を下すのは不可能なことだ。

もし人が住んでいる納屋があったとしたら、それは家=ハウスである。だが、もし「何ものかが住んでいるのが家だ」というのなら、どんな構造をしていようと関係はないのだから、鳥の巣でさえ家になってしまう。「人間が住んでいるかどうか」というのも照らすべき基準とはいえない。なぜなら、われわれは犬の住むところでさえ「ドッグ・ハウス」というのだから。建築材で出来ているのが家、ということもできない。なぜならわれわれは [氷でできた] エスキモーの家を「スノー・ハウス」というのだから――貝はヤドカリのための家であり、さかのぼっていえば、それはもともとその住み家を作り出した貝じしんの家でもあった。ワシントンのホワイトハウスと浜辺の貝のように一見してあまりに違うもの同士であっても、家であるという点においては連続性をもっているもののようにみえる。

これと同様に、たとえば電気についても、それが何であるかを言い表すことのできる人間はいない。それは「熱」とか「磁力」とか「生命活動」といったものとハッキリ分離できるようなものではない。そう、哲学者や神学者、生物学者たちは、それぞれに「生命」を定義しようとしてきたが、そうした試みも失敗してきた。なぜならハッキリとしたかたちで定義できるものはそこにはないのだから。実際のところ、およそ生命にまつわる現象というのは、化学や電磁気学、天体の運行といった場にも姿を現わしてしまうものなのだ。

濃紺の海に浮かぶ、真っ白なサンゴの島々を考えてみよう。

一見したところでは、それぞれの島は異なってみえる。見たところ、それぞれには個性があるようであり、ハッキリとした違いがあるようにみえる――しかし、それらはすべて同じ海底から突き出すようにして存在している。海と陸との相違というのもハッキリしない。海が満ちているところに陸地が生じることもあれば、土地が広がっているところに水に満ちた場所が生じることもある。

そういうわけで、もし万物が相互に地続きになっているものであるならば、或るものが「そう見える」からといって、それが見たままのものであるとは限らない。テーブルの脚であっても、もしそれが何かよそから投影されて在るものだとしたら、単なるテーブルの脚以上のものである。もしわれわれが物理的な意味で環境とひとつながりの存在だとしたら、あるいは精神的な意味で、われわれが環境とのかかわりを離れて何事かを表現することなどできないのだとしたら――われわれがふつう言っているような意味での「現実世界」に生きている人間など一人もいない。

さて、われわれがここで言っていることは二通りに捉えることができる。

ひとつは「伝統的な一元論」としてのそれ。そして、もうひとつはこういう意味合いのものだ――固有のアイデンティティをもっているようにみえるあらゆる「事物」は、どこか見えないところにあるものから投影された島々のようなものに過ぎず、詰まるところ自他を区別する確固とした境界線など有してはいない、ということ。

こうした「事物」はどこからか投影されたものに過ぎない。にもかかわらず、それらは「どこかに隠れているもの」――それは個々の事物が固有のアイデンティティを有しているということを決して認めようとしないのだ――から必死で我が身を引き剥がそうと試みる。

そうやってすべての事物が互いにつながりあった関係を頭に浮かべてみる。そこではすべてのものがそれぞれに違いをもっているようではあるが、それらが目指しているのは畢竟ひとつの目標である。つまり「自己を他から引き剥がして確固たる実在を手にいれること」である。それは「実体をもつ自己」「確固たる自分」「他との境界をもつ存在」「揺るぎなき独立」を得ることであり――あるいは、それを人間にまつわる言葉を使って言えば「個性」や「魂」を立ち上げることだ、ということもできよう。

自らをリアルなもの、肯定しうるもの、あるいは絶対的なシステム・支配するもの・組織・自己・魂・実体・個人性をもつものとして立ち上げたい――そのように考えるものはすべて、まずは自らの周囲、自己を形作っているものの周りに輪郭線を引き、次いであらゆる自己ならざる「もの」を排し、放逐し、あるいはそこから遠ざかっていくことによってのみその試みを成就することができる。

もしそのようにできなければ願いが成就することなどありえない。

だが、仮にそのように行動できたとしても、それはあらかじめ失敗が宿命づけられた悲惨な行動たらざるを得ないのだ。それはあたかも海面上に円を描きながら「円の中に立ち騒いでいる波というのは、円の外側にある波とは全然無関係だ」といっている人物(むろん内側と外側の波はつらなっているわけだ)、あるいは「認められたもの/否定されたものは劃然と区別可能なのだ」と真剣に説いている人物のふるまいにも等しい。

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