2013年06月

考えてみるとオレも若い頃は左翼かぶれであった。何かっつーと「それは単なるイデオロギーに過ぎない」とかなんとか、わかったようなクチをきいていたものであるが、この左翼流の「単なる××に過ぎない」という言い回し、実はなかなか使い勝手が良い。「アンタが後生大事に抱えているモノってゆーのは、よくよくみればインチキじゃんガラクタじゃん虚偽意識じゃん」といって相手の拠り所を奪ってしまおうという、「いきなりテキの本丸急襲」みたいな論法である。

で、そのバリエーションでしばしば左翼がもちだす議論に「明治以前の天皇にはそれほど権威があったワケじゃなくて、天皇を万世一系のスメラミコトとかいってあがめ奉る近代の天皇制なんてものは結局明治以降の作りものなんだよネ」というのがある。

皇室の祭祀なんかも長年途絶えてたのを明治になって復活させたものが多い、みたいな話もどっかで聞いたおぼえがある(村上重良氏の言だったような気がするが定かではない)。つまり、皇紀は2600年だか何だか知らんけれども、「日本民族はその間ずっと天皇を仰ぎ奉ってきた」と言い募るのは完全なフィクションなんだから「なにをそんなに有り難がってんだヨ」というツッコミである。

そりゃまぁ確かにそうなのだろう。

そもそも江戸時代には『国』といえば『××藩』というイメージしかなかったというし、そこに近代的な国民国家=ニッポンという概念を立ち上げるためには何かしら象徴的なモノというか、依り代が必要であった。そこで「あぁそういや倉庫の奥に『天皇』ってものがあったなぁ」ってんで倉庫の奥から引っ張り出してきたお神輿が天皇だった、と。そういうことではないか。

ただ、最近ちょっと考えていることがある。「それって実はみんな思っているほど長い歴史があるわけじゃなくて、実は最近でっちあげたモノなんだよね」といって崇敬者をシラケさせようというこの論法は本当に有効なのか。

たとえば「お墓」とか「埋葬」のことを考えてみる。

遺骨を海にまく散骨とか木の下に埋める樹木葬とか最近はいろいろあるようだが、何となく「でも日本人はやっぱり火葬してお墓に骨ツボ納めるのがデフォルトじゃネ?」という風にワレワレは考えがちである。ところが実際は、明治時代になっても日本では土葬がメジャーだったらしい。つまり棺桶を埋めてその上に何か目印の石か何かを置いてオシマイ、というヤツである。時代をさかのぼれば、なんかその辺の草っぱらにゴロンと投げてオワリということもあったそうな。

いまのジョーシキからすれば、「投げ捨てる」のは勿論、「棺桶埋めて墓標たててオワリ」みたいなのはなんとも気持ちの落ち着かないふるまいではないだろうか(そもそも土葬自体実質禁じられてるということもあるが)。たかだかこの150年間の間にすっかりワレワレの常識はラディカルに変わっちまったのである。

いま・ここに生きている人間に「あぁ、こりゃ実にしっくりくるねェ」と感じさせるような制度というのは確かにあるワケだが、その説得力が別に「実際に長年続いてきたから」ではなく、そりゃ歴史的にみればそんなに古いワケではないけれどもまるで2000年続いてきたかと誤解させるぐらいの説得力を感じさせるから、というトコから滲み出してる場合もけっこーあるんではないか、という話だ。

となると、最近の作り物だから軽視していい、とは軽々に言えない。とゆーか、お墓にしても天皇制にしても、おそらくそのスキームがガラッと変わったときにはそれなりの社会的文化的な変動があった筈で、そういう変換点にあって、時代にマッチした説得力のあるシステムを作り出すというのはすげぇ発明ともいえるワケであり、むしろ褒めるべきこと、文化の勝利といえるのではないか?

いや、ここまでいくと何か近代天皇制バンザイに限りなく近づいてしまうので元左翼シンパからするとナンなんだが、考えてみると、こういう議論の射程は相当に深いような気がしないでもないぞ。

たとえば「生物としての人類」というものは何百万年もの歴史をひきずっているわけだが、だからといって「生物学的な本能に逆らうのはイケマセン」ということになれば、「オスが無理矢理セックスしたがるのは本能なので仕方ない」という橋下徹みたいな下品な結論になってしまう。そうではなくて、「いや、生物種としては確かにそういう側面もあるんですが、そこはうまくコントロールして文明を築いているのが我々人間なのです」といってのけてこそ人間は威張れるのではないか。

・・・とまぁ、何だか酔った勢いのチラ裏的メモになっちまった。後日機会があればまた。


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「朝日新聞主催の夏の高校野球は欺瞞にみちているので何とかせねばなるまい」という話は、このブログでも毎年のように書いているところである。

具体的にいうと

★すでに夏の甲子園はセミプロ的高校球児がプロのスカウト向けに技量をアピールする場になっている。一方で、地方の私立高校は「全国に名前を売る」ためにそういうガキどもを集めて強いチームを作ろうとしているから、ここに強力なるタッグが成立する

★そういう連中にしてみれば「強けりゃそれでいい」。もはや「教育の一環としての高校野球」などというものは絵空事

★もうひとつ、外人部隊が田舎の高校に乗り込んで××県代表とか名乗ってるわけだから「郷土の代表」なんてものは嘘っぱち。いってみればカンボジア語もしゃべれない猫ひろしがカンボジア代表でござい、と大見得を切っているような猿芝居である

★つまるところ、「清く正しい高校野球」などというのはもはや大嘘である。夏の甲子園はいっそのこと「プロ野球候補選手セレクション大会」とでも改名して、超高校級のスーパー球児のプレイを堪能する大会に宗旨替えすべきである


みたいな主張である。

非常にイイ提言だと自分では思っているので(笑)、朝日新聞が「ぜひご意見を拝聴したい」と言ってくるかと思えば、そんなことは全然なく、残念だなあと常日頃思っているわけなのだが、けさの朝日新聞をみて、ちょっと驚いた。

「耕論」という欄に、ノンフィクション作家の軍司貞則さんが登場し、「やっぱり今の高校野球はおかしい」という意見を述べているではないか!

ちょっと引用してみよう。

 夏の大会に参加する約4千校のざっと9割は、人間形成など教育目的で野球をするアマチュアです。これらの学校や選手はさほど問題を起こさないが、甲子園出場の確率も低い。残り1割はというと、プロ的な世界にいると言えます。野球を職業にしたい、あるいは進学や就職の手段と考える選手、それを支持する大人たち。野球部の活躍を生徒獲得に利用したい学校経営者、勝利を請け負う監督。周辺には、有望な選手と高校をつなぐブローカー、プロ野球のスカウトらがいる。



 「プロ」の世界を動かすのは教育ではなく、勝利至上主義。勝たなければ学校の宣伝にならず、監督は職を失う。選手も能力がなければ切り捨てられる。生活がかかった真剣勝負です。監督は見込みある選手の指導に集中する一方で、才能を見限られた側の一部がうっぷんをぶつけたり、不祥事をメディアに通報したりする事態もあります。暴行や飲酒事件が発生するケースも後を絶ちません。



 世間は建前上、「プロ」の学校にも教育の原理を貫くよう求めます。だが本音では、教育目的の野球ではなく、「プロ」同士の死にものぐるいの戦いを見たいと望む人も少なくない。


というわけで、軍司さんは最終的には「いっそ甲子園大会を一度やめてはどうか」みたいなことを言っておられる。この結論はオレとはちょっと違うんだが、基本的な現状認識についてはほぼオレと一致しているぞ。つまり、「清く正しい高校野球」と「セミプロ化した高校の跋扈」というのは根本的に両立しえない、と言っているわけだな。

ただ、ひとつ言っておくと、この「耕論」という欄は、3人出てきてそれぞれに意見を述べるというページなのである。なんだかなぁ、いろいろ批判されてンで、まぁアリバイ的にキツイことをいう人間を一人いれておいて、で、何となくガス抜きをして、しかし実際は何にもしない、もちろん「甲子園大会を一度やめる」なんてことはハナから考えてもいない。なんかそういうアリバイ作り的な戦略がミエミエなんだよなー。

そういう姑息な手をつかいなさんなよ、とオレとしては言いたい。せっかくスルドイご指摘を頂いたんだから、本当に一回、夏の甲子園をやめてみたら如何か。そうでもせんと、日本の高校野球は立ち腐れるばかりであろう。

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テレビとかで有名な川越シェフが、ブログが炎上して謝罪に追い込まれたらしい。チマタの芸能ニュースなどによると、雑誌のインタビューにこたえて「問題発言」をやらかしたのがきっかけ、とのこと。「日刊サイゾー」のサイトにその記事がまだ載っているから引用しておく。

――では、「食べログ」のような評価サイトのことをどう思われますか?

川越 くだらないです(即答)。僕は興味もないし、何をわかって書いてるの? と思いますね。人を年収で判断してはいけないと思いますが、年収300万円、400万円の人が高級店に行って批判を書き込むこともあると思うんです。

  (中略)

僕の店も「水だけで800円も取られた」と非難されることがある。でも、当たり前だよ! いい水出してるんだもん。1000円や1500円取るお店だってありますよ。そういうお店に行ったことがないから「800円取られた」という感覚になるんですよ。


とまぁ、こういうわけで、オレが平たく言い換えると「貧乏人の舌じゃオレの料理なんかわかるわけねーんだYO。食べログでオレの店に渋い点つけやがってコノ野郎。水が800円もする~とかいって驚く貧乏人にはオレの店に来て欲しくねえんだよッ!」という発言なのであった。

すると、全国の低所得者が「何をいってやがるッ!」と猛反発。最終的に川越シェフ、6月23日に自分のブログで「この度は全国の皆様に不快感、そしてご迷惑をお掛けしてしまい、心より反省いたしております」という、いったい何をどう反省しているのかよくわからない発言をして、いちおう幕引きとなりました、という次第。

で、いろいろ思うことがあるので記しておこう。

まず、川越シェフは謝らなくていい、ような気がする。なぜかというと、彼の「そんな貧乏人ども相手にしてねーよ」というセリフはホンネだと思うから。彼の店というのがどういう料理店かは全然知らんが、たぶん高級料理店なのであろう、そういう店は金持ちとかスノッブ、貴族的なお暮らしをしているやんごとなき方々を相手に商売をしている筈。水で800円とっても誰も文句は言わんのだろう。「ウマイかどうか」なんてのは極めて主観的な判断であって客観的にどうなのかなんてことはよくわからんけれども、ともかく顧客の金持ちの皆さんは「ウマイウマイ、こういうものを食べなれない貧乏人の舌では到底理解不能でしょうが、やっぱり10万円ぐらいかけないとマトモな食事は食えないですなあ。ハハハ(想像w)」とかいって鼓腹撃壌、喜んで帰っていくのだろう。貧乏人の出る幕はない。

で、貧乏人の皆さんないしは食いものにそんなカネはかけられない人々(含むオレw)の立場にたてば、そんなスノビズムにお付き合いする必要はない。「水800円? 馬鹿じゃネ? よっぽど金が余ってて使い途に困ってんじゃNE」とかいって、そんな店は徹底的に無視すればイイのである。お互い住む世界が違うのだ。川越シェフの世界に潜入していって、「オマイラおかしい」と抗議するなんて愚の骨頂なのである。結局、お互いバカにしあっているのだから、今西錦司のいうように「棲み分け」をして両者が遭遇しなければ、無用の争いも起きなくて平和なのである。たぶん、「食べログ」とか、そういう両者の境界を無化させてしまうツールが発生したことが今回のような悲劇を生んだのであろう(笑)。

ただなぁ、それでも川越シェフが「謝っちまおうかなー」と思った理由というのもワカルような気がするのだナ。

チト話はでかくなるが、現代社会において、金儲けの基本は「市場」をゲットすることだ。世界じゅうの企業が中国政府のゴキゲンをとっている(一目置いている、といってもいいが)のも、あそこには13億人もの人間がいて、つまり巨大な市場が見込まれるから。まぁ、今ンとこ大多数の中国人は貧乏人であるが、それでも仮に13億人が1ドルの製品を買ってくれれば13億ドル、みたいなハナシで、先進諸国ではみんな「もう買いたいものがないよー」とかいってるところで、実にもう、ヨダレが出るような可能性に満ちているのが中国市場なのデアル。

反日暴動の真っ最中に、中国のAudi販売店は反日横断幕を掲げて「オレらは中国の皆さんの味方です」などと姑息なアピールをしてしまっタのだが、アレなんかも欲に目が眩んでついついやってしまったことなのであろう(もっとも、あとになって「アレは現地従業員が勝手にやったことです」とかAudiも言い訳したらしいけれども)。

やや脱線した。何をいいたいかというと、金儲け的には「不特定多数に薄利多売でガンガン売りつける」ほうが、「高い商品をひとつひとつ売っていく」のよりオイシイ、という話である。川越シェフだってそうなのだ。テレビとかでさんざん顔を売った今、高級レストランで地道に稼いでいくよりも、「川越シェフプロデュースの店」とかいってチェーン店を全国展開して、安い素材で作った安い料理を一般大衆にガンガン食わせたほうが効率は良い。あるいは「川越シェフプロデュースのパスタソース」とかいって、大手食品メーカーにガンガン売らせれば大儲け。

とまぁ、実際に川越シェフがそういう事業展開を進めているのかどうかは全然知らんが、「この知名度を生かして金儲けでもしようか」って時には、どうしてもそういう路線をとらざるを得ない。でも、そのときにターゲットにしないといけないのは・・・おっと困った、川越シェフが大嫌いな「貧乏人」じゃあないですか。さあどうしましょう? 貧乏人バカにしちゃったけど、ここで謝っておかないと「何だあの川越ってヤツ? 貧乏人をコケにしやがってよぉ。何様のつもりだYO」という印象が固まってしまっては先はない。「じゃ、不本意だけど、いちおう謝っとくか」というのが現在の状況なのではないか。

以上すべてはオレの邪推であるけれども、川越シェフがブログに書いた謝罪のコトバというのが、どうにも心に響いてこないのでそういう風に考えざるを得ない。となると、老婆心ながら川越シェフにひと言いってあげたくなるのだな。――もう貧乏人の世界とは縁を切って、バカな大衆が喜んでみているテレビに出演するのもやめて、舌の肥えた超一流のセレブの方に囲まれた世界にお戻りになったら如何ですか、って。

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何か世に対して拗ねたような人たちには、無条件で親近感を抱いてしまうのである。

そういう意味で最近注目しているのは、以前もチラッと触れたが、例の村上春樹の新作に対してAmazonレビューで毒づいてみせたことでネット界隈で注目(笑)を集めた「ドリーさん」。ホームグラウンドとおぼしき「埋没地蔵の館」というサイトをたまに巡回している。

いいではないか。

直近のエントリーでは、南直哉(坊さんである)の人生論に文句をつけている。自分探しなんてやめなさい、いまここにある「縁」を掘り下げていくことに幸せはあるのだ的な正論にたいして、「それができりゃあ苦労はねーんだよ、夢でもみなきゃ生きていけねーんだよ」(オレ的意訳)と青春の怒りをぶつけている。再び言う。いいではないか。

或いは「ぼっち」の悲哀を切々と語るエントリー。特に学校での「ぼっち」。わかる。実によくわかるぞ。

ただ、得てしてこういうサイトというのは、「しょせん蟷螂の斧か」という無力感にさいなまれたあげく、いつのまにか更新が滞って消え去ってしまう、ということになりがちなのである。頑張れ若者!世に出る迄オレは応援しているぞ(別に何ものでもないオレなんかに応援されてもメリットは全然ないのだが、まぁしかしちょっとだけ人生の先輩ヅラをさせていただければ、ということでw)。


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アイ・ジョージという、とても歌唱力のある歌手がいた。いや、まだ亡くなったという話はきかないから存命であるのかもしれない。

で、ふと思い出したのだが、この人が「民族の根っこには伝統的なリズムがある」というようなことを言っていて、「おぉなるほど」と思った記憶がある。「徹子の部屋」か何かで聞いたような気がするが、よく憶えてはいない。

オレが記憶している限りでいうと(いまとなっては本当かどうかアヤシイものだが)、たとえば日本人というのは二本足の鳥のようなもので、つまり二拍子のリズムが骨の髄までしみついている、と彼はいうのだった。言ってみれば「イチニ、イチニ」「よいしょ、よいしょ」という、いわば鍬か何かをふるって農作業をしている時のリズムがどこか基本的なものとして身体にビルトインされている、という話である。

これに対して西洋人は四拍子だったか、三拍子だったか、ともかく二拍子ではないリズムを基本に生きているという話だったような気がするのだが、もともと音楽の素養のないオレなので、その辺はよく憶えていない。ともかく民族のベースになる拍子が日本人の場合は二拍子である、というのがキモなのである。

武智鉄二のナンバ歩きにまつわる議論ともどっかで重なるような気がするのだが、ナチュラル・バイブレーションっつーか、我々の身体を根源的なところで縛っているリズムがある、っつー感覚は、けっこうするどいのではないか。と同時に、なんかちょっとアヤシイ雰囲気を漂わせていたアイ・ジョージはどこにいってしまったのだろう、という思いが心中にきざしたりもする。

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Salvador Freixedo

あとヴァレの本には、UFOの超常現象的側面に注目してきた南米の研究者として Salvador Freixedo という人が出てくる。サルバドール・フレイクセドと読めばいいのだろうか? スペイン語で本を書いてるようで、やはり英語に翻訳された本はあんまり無いみたいだ。とりあえずググってみると英語版のウィキペディアに記述があった。だいたい次のようなことが書いてある。

1923年、スペインはガリシアの生まれ。カトリックの信仰篤き家庭で育つ。16歳でイエズス会に入り、1953年には司祭となる。1947年以降、アメリカ大陸の各国を渡り歩く。1950年代からカトリック教会への批判を開始。本の刊行にかんして投獄され(引用者注:名誉毀損か何かだろうか?)、1969年にはイエズス会から追放される。1970年代になると超心理学にかかわる分野――とりわけUFO現象と宗教との関係についての探究に取り組む。


というわけで、なかなか骨のありそうな人物である。没年が書いてないのでご存命かと思うのだが、すると既に齢90歳といったところか。長老だ。たぶん超常現象とUFOのかかわりみたいなところを、つまりはジョン・キール的な問題意識で、しかも宗教を絡めて語っている人であろうと想像される。

しかし「元イエズス会士のUFO研究家」ですぞ。イグナチオ・デ・ロヨラ。フランシスコ・ザビエル。南蛮人。転び伴天連。エクソシスト。聖水。懺悔。魔女狩り・・・なんか、カトリックのことを知らない東洋人としては、連想ゲーム的に妄想が炸裂してしまうではないですかッ? 考えすぎ? この方も日本では全然知られていないようなので、誰かスペイン語のわかる人にちゃんと紹介してほしいものである(と、いつも通り人をアテにする私)。



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Bertrand Meheust

UFO好きとかいいながら、ここ数年、ヴァレの本を読むこと以外にはとりたてて何もしていない。それでも彼の本の中には日本ではなかなか知られていない人物が登場してくるので、余裕があれば調べてみたいような気はしているのだが、そこんトコがなかなか難しい。

たとえば、これはかなり前に当ブログでもチラッと書いたが、フランスの社会学者でベルトラン・メウー(Bertrand Meheust)という人がいる。搭乗者事例と「それ以前」のSF小説との連関などについて本を書いているのだそうだ。畏友magonia00氏によれば、SF作家のイアン・ワトスンはメウーの著作に触発されて『奇蹟の訪問者 Miracle Visitors』を書いたらしい。けっこう重要な人物のような気がしないでもない。

で、いろいろとググったら、UFO研究の親戚筋(笑)ともいえるUMA(未確認生物)を研究しているローレン・コールマンがメウーに関していろいろ書いているページに行き着いた。2人の生年月日は1947年7月12日でまったく同じ。その辺の親近感もあるようで、かつメウーの著作はどうやら英語に翻訳されていないフシがあって英語圏では知名度が低いのだろう、彼の事績をやや詳しく紹介している。以下大意。


では彼のことを紹介してみよう。

フランスの資料にあたってみると、ベルトラン・メウーは1947年7月12日生まれ。ママにいろいろ文句をつけたがる小さい頃には、「なんで3週間早く6月24日に産んでくれなかったんだ」としばしば文句を言っていたそうだ(ちなみにメウーと私には貧乏な労働者階級の家に生まれた、という共通点もある)。

フランスで活動する研究者・著述家であるメウーは、ユング派ユーフォロジー、超心理学、社会学、さらには政治学の専門家として知られている。かつてはトロワで哲学の教授をしていたが、現在では退職している(ちなみに私はといえば、かつてはフルタイムで働く研究者として、大学でドキュメンタリー映画や社会学、社会福祉を担当する准教授・助教授を務めていた。退職したのは2003年である)。

メウーが1981年に執筆した修士論文は、ウィリアム・ジェームズにかんするものだった。彼は社会学博士だが、それは1997年に動物磁気にかんする研究でソルボンヌ大から受けたものである(ちなみに私の修士論文は1978年、「職業上の性差別」をテーマにしたものである。博士課程にも進むことはできたのだが、PhD、すなわち博士号をとるために必要な二つの単位を取れずに終わってしまった――ひとつは社会人類学、もうひとつは社会学であった)。

彼は「インターナショナル・サイキック・インスティテュート」の運営委員会の一員である(ちなみに私は「未解明現象探究協会」ならびに「国際未確認動物学協会」の創設メンバーであり、名誉会員かつ永世会員である。もうひとつ、「国際未確認動物学ミュージアム」の創設メンバーにして館長でもある)。

1975年と1978年に、それまで本を出したことのなかった私は、共著として2冊の本を刊行した(相方はジェローム・クラークだ)。そこで扱ったのはユング派ユーフォロジー、未確認動物学、フォーティアン=怪奇現象をめぐる話だった。以来、読者諸兄の多くはご承知であろうが、私は未確認動物学・社会学・伝記・アノマリー現象・社会福祉・人類にまつわる様々なミステリー――といったことどもについて本を書き続けてきたのだった。

一方、1978年にベルトラン・メウーは最初の本を出した。それは「UFO現象が騒がれるようになる前に、それを先取りするようなSF小説が登場する」というナゾをめぐるものだった。その際に彼の相談役をつとめたのはエメ・ミシェルだった(私の場合はアイヴァン・サンダーソン、ベルナール・ユーベルマン、ジョン・キールであった)。メウーの本は、20世紀はじめのパルプマガジンに載った三文小説が、それから何年もあとになってようやく出現する現象のことを書き記している、とは如何なることか検証しようとするものだった。そう、考えてみても欲しいのだが、ケネス・アーノルドが現代における「空飛ぶ円盤」の歴史の幕を切っておとす1947年というのは、その時点ではまだずっと遠い先のことだったのだ。

メウーの本はしばしば懐疑論者によって引用されるわけだが、彼らとしては「UFO現象というのは単に心理学的な説明で事足りる」という主張を後押しする、有力な論拠をそこに見てとっているワケだ。だが、メウーのテーゼというのは実はもっともっと複雑だ。メウーの本を読むと――それはカール・グスタフ・ユングの大いなる影響を受けているワケだが――実は彼はそこで「地球外生命仮説」を弁護していたりする。

1999年、彼の大学における研究テーマ――つまりは霊媒についての研究が2巻本(計1200頁である)として刊行された。その本は超心理学の界隈で新たな論争を巻き起こした――いや、それは心理学の世界においても然り、であった。それは18世紀末からこの方、人間には秘められた潜在的な能力があるのか/ないのか、といった問題を争点化してきた研究史や学説史、あるいは様々な概念の歴史をたどり直すものだった。

(以下略)


別に聞かれてもないのに自分のコトまで書いちゃってコールマンさんお茶目なんだから、という感じである。ちなみにUFOファンの方には釈迦に説法であるが、「1947年6月24日に生まれたかった」というのはもちろんケネス・アーノルドの目撃があったまさにその日のことを言っているのである。

というわけで、どうやらメウーさんは「ユング派ユーフォロジスト」という括りに入るらしいが、アッチではそういう呼称がフツーにあるのだろうか? で、コールマンさんも「別にユング派だからといって全部心理的現象に還元してるわけじゃないヨ」的なことを言ってるのだが、ユング御大の『空飛ぶ円盤』を読んでもET仮説を全否定してるわけではないので、メウーもその辺は含みを残した議論をしてるのかもしれない。よくわからんけど。

もちろんフランス語は手も足もでないので、英語で何かメウーに触れたものはないかと調べてみると、 Jeffrey J. Kripal著『Authors of the Impossible』という本が、ヴァレとかメウーについて論じていることがわかった。とりあえずKindleで買ってみた。しかし、英語力が貧弱なのでいつ読めるかはわからんというのが現状(笑)。



Authors of the Impossible: The Paranormal and the Sacred

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  • 出版社/メーカー: University of Chicago Press
  • 発売日: 2011/09/16
  • メディア: Kindle版



オレは某都内E区に居住しているが、地元には中津川博郷&中津川将照サンという、親子で政治家をやっている人たちがいるのだった。で、ここんとこ、お二人が相次いでニュースに登場なさっている。以下ネットニュースから引用。

「落選なら破産」 維新・中津川氏が立候補辞退へ 


 日本維新の会から参院選比例区の候補として公認されていた中津川博郷前衆院議員(64)が、立候補を辞退する意向を固めた。11日夜、東京都内である自身の政治資金パーティーで表明する。すでに党幹部に辞退を伝えていると言い、朝日新聞の取材に「維新への支持が下がり、落選して供託金が没収されたら破産してしまう。今回は他の候補の支援に回る」と話した。(2013年6月11日18時37分 朝日新聞)


交際女性に暴力、出馬予定の区議公認取り消し 


 東京都の中津川将照・江戸川区議(27)が今年3月、千葉県の市川区検に傷害罪で略式起訴され、市川簡裁から罰金30万円の略式命令を受けていたことが千葉県警などへの取材で分かった。 

 同県警や同簡裁などによると、中津川区議は昨年10月、千葉県市川市内のカラオケ店で交際相手の20歳代女性と口論になり、左肩を殴るなどの暴行を加えて10日の軽傷を負わせたとして、略式命令を受けた。 

 中津川区議は2011年4月の区議選で初当選し、現在1期目。今月行われる都議選に江戸川区選挙区から出馬予定だったが、先月28日、日本維新の会東京都総支部が「一身上の都合」を理由に立候補辞退の申し出があったとして公認を取り消していた。

 中津川区議は5月29日付の自身のブログで「高熱を発症し、体調の思わしくない日が続いていた」と、立候補辞退の理由を説明していた。同区議会事務局は中津川区議と連絡が取れないという。
(2013年6月4日12時01分 読売新聞)



ちなみにこの親のほうの中津川博郷サンは、2009年の総選挙では民主党から出て比例東京ブロックで当選したんだが昨年夏に離党、12月の総選挙では日本維新の会から出馬したけれども落選、という人である。

政治家というのはしょせん有権者の写し絵などともいわれるンだが、「あ~ぁ」という心境であるなあ。

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さて、トルコの反政府デモである。

新聞などを読むと、そこそこ穏健派ではあるんだが、基本的にイスラム政党をバックにしているエルドアン政権に対して「もっと自由をくれよ!」という勢力が反撥し、騒動になっているという図式のようだ。

で、ここでふと思う。確か「国民ひとりあたりのGDPが1万ドルを超えると、国民は民主化とか自由を求めて立ち上がる」というテーゼがあったような気がするぞ。どこで聞きかじったかは忘れたが。

改めてググってみると、 「一人当たりGDPが2000ドルを超えてくると民主化運動が活発になる」 という説は実際にあるらしく、たとえばChief Dream Officerというサイトをみると、チュニジアとかエジプトの民主化運動というのはこの2000ドルの壁を超えたあたりで起きたらしいことがわかる。

ふーむ、1万ドルでなくて2000ドルだったのか、オレの記憶違いであったかと思うのだが、念のためトルコの一人あたりGDPはどのぐらいかというと、「図録 1人あたりGDPの世界ランキング(2011年)」というページがあって、これでみるとまさに1万ドルを超えたあたり。なるほど、2000ドル説でもいいんだが、1万ドル説でも悪くないじゃん、と思う。

まぁそれはともかく、こういうモノの見方はそれなりに妥当性があると思う。食うや食わずの貧乏暮しであれば、政治的自由もクソもない、とにかく喰わせてくれ、というのが先にたつ。「開発独裁」なんて言葉もあった。独裁でも何でもいいから経済回してくれよ、という時代はたぶんどこにでもあるのだろう。

が、そこそこリッチな暮しができるようになってみれば、何か政府が偉そうに色々干渉してくるのが何とも腹立たしい。「何だお前らは」と抗議の声も上げたくなる。そういう話である。

でもって、イスラム国でありながら、「でも世俗主義も大事にしようや」といってここまでやってきたトルコは実にエライ国であって、だからここで1万ドルの壁を超えながら、さらに民主的価値を大事にする国になっていってくれれば、ある意味で多くの国々の模範たりうるのではないか、という思いもある。

実のところ、個人的にはむかし観た映画『ミッドナイト・エクスプレス』で描かれた、暗く陰鬱なトルコのイメージがながく脳裏を離れなかったことを白状せねばならんのだが、あの映画で描かれたのは1970年代のトルコなのであって、今のトルコではない。山坂あって、それでもここまでやってきたトルコの人たちよ、ここはもうひとがんばりしてくれよ、と思いつつ、トルコ情勢を見守っていきたい。

追記
なお、先の「図録 1人あたりGDPの世界ランキング(2011年)」によれば、中国は5417ドル。北朝鮮は1155ドル。ふむ。そういうことなんだろうね、と勝手に納得するオレ。え、日本はどれぐらいか、って? 当ててみてくださいナ(笑)。折り畳んだ先に回答を書いておきますネ。


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いつも言っているように、何かグチグチと世の中のことにケチをつけまくるとゆー我がブログのコンセプトはほとんどの善良なる(笑)日本国民の皆さんの良識を逆撫でするものらしく、訪れる人はおそらくは天声人語が大嫌いな偏屈な人とか今や絶滅危惧種のUFOマニアさんとか変人ばかりなのだろう、いつも閑古鳥がないている人外魔境ブログなのであった。が、しかし。

こないだ設置したばかりのカウンターが、なぜか今日になってからグルグル回り出し(とはいってもオレ的には、というレベルの話なのだがw)、いったいどうしたことかと調べてみると、なんと、当ブログで再三ネタにしてきた自称作家で地震研究家(笑)の小林朝夫センセイが女子高生への「淫行」で逮捕されたッ、というのである!

毎日新聞あたりは本日の夕刊に載せたりしたようで、おそらく「朝夫who?」ということでググってみた方たちが、このブログに誘導されてきたようなのだな。

で、オレの一連のエントリーを読んでいただけた方はおわかりと思うが、オレ的にはこの方は地震とか原発のことは全然わかってない人だという確信があるし、そういう意味ではこれまであンまり感心しない方法で身過ぎ世過ぎをしてきた人ではないか、と思ってはいたんだが、ただなぁ、(現時点では容疑者であるとはいえ)こういう破廉恥罪でお縄を頂戴する人とは思っていなかったゾ。そこまでやりますかッ、みたいな。

まぁ本当のところは司直の手に任せて解明していただくほかないのだが、なんというか、哀れを感じるなぁこの一件。「世の中ちょろいちょろい」とかいって、勘違いしちまったのかなぁ。ともかくも「震災の孤児養育に役立てるので」とかいって始めた例の課金ブログの実態なども当局にはシッカリ捜査していただきたいものだと個人的には思っている。  ・・・合掌(って何のこっちゃ)。

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