2013年11月

けさの天声人語は、最近の若者はクルマに関心がなくなったようだ、オレたちの頃とは様変わりだ、というような話を書いている。しかし、だからどうしたという話に展開していくわけでもなく、何を言いたいのかは結局わからない。コラムとしては明かな失敗作である。いや、今回はそんなことを言いたいワケではないのだった。以下本題。

天声人語子は、田中康夫の『何となく、クリスタル』をマクラに1980年頃の世の中を回想してこんなことを書いている。

愛車自慢をしあう学生が少なくない時代だった。親に新車を買ってもらう者あり、必死にアルバイトをして中古を買う者あり。持たざる者は小さくなっていた

この辺にツッコミを入れたいのである。

実はオレなんかも1980年代に大学生生活を送った世代だから、その頃の世間の空気はある程度わかっている。だが、少なくともオレの身のまわりには「愛車自慢をしあう学生」なんてものは一人もいなかった(まぁオレにはそもそも友人なんてものはいなかったという話はあるけれどもw)。いやもちろん、六畳一間の木賃アパートで年がら年中くすぶっているオレのような貧乏学生とは全然違う世界に住んで、クルマで女とドライブして遊んでるような男だって実際いたことはいただろうよ。そのことは認めよう。

ただし。

「持たざる者は小さくなっていた」なんて事は絶対なかった。少なくともオレに関しては100%なかった。「キャンパスライフをエンジョイ」みたいなものはインチキだと思っていたオレは、銭湯だって週2回でいいと思っていたし身なりも汚なかったけれども、チャラチャラ遊んでるような連中とはオレは違うのだと無理やり自分に言い聞かせて、読めもしない原書をパラパラめくっては「知的プロレタリアートここにアリ」とか気取って、ま、今から考えると幼いけれども自分なりに一生懸命突っ張っていたのである。

まぁそれはともかく、オレが自信をもっていえるのは、大部分の学生はそんな世界を横目に「ちくしょうオレはオレで頑張るしかねーんだよ」と懸命に胸を張って生きていた、ということである。

しかるに、クルマを持たざる者は「小さくなっていた」などと平気で書いてしまう新聞記者というのは何なのだ。確かに天声人語の最後には「かつて持たざる者として(その時代を)過ごした」とか書いてあって、「自分もクルマなんてもってない庶民の側にいたのでヨロシク」みたいな嫌らしいエクスキューズをつけてはいるのだが、そんなことで誤魔化そうとしても駄目である。

1980年代の貧乏な学生は、クルマをもってる金持ちのボンボンに気おされ平伏して「オレは駄目だ~」みたいにしょげていた、なんてゆーのは完全な歴史の偽造である。馬鹿野郎、そういう金持ち連中の仲間に入りたくて入りたくて、揉み手しながら隙あらばお仲間に加えてもらおうと思ってたのはオマエだっつーの。そりゃ今や功成り名を遂げて天下の朝日の名コラムニストかなんかのつもりかもしれんがな、この文章ひとつみてもオマエの品性は下劣なのは丸わかりだっつーの。一緒にするんじゃねーよ!

・・・ちと興奮してしまった。が、なんか貧乏で空回りばっかりしてたけど、それなりに一生懸命だったオレの青春時代が冒涜されたような気がしたので、書かずにはいられなかった。


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東京モーターショーで、レガシィツーリングワゴンの後継として来年スバルが売り出す「レヴォーグ」が公開されたとの由。

じつは以前も書いたように、オレは昨年クルマを買い換えたのだが、最終的にちょっと気になっていたレガシィツーリングワゴンはやめたのだった。

伝統の四駆とか最近のアイサイトとか、どっか「メカで勝負」みたいなところのあるスバルにはとても好感をもっているんだが、オレは運転が下手だということもある。全長4775mmで横幅1780mmみたいなところまで肥大化してしまったレガシィツーリングワゴンは如何なものか、というのが結論であった(内装がショボイのも一因ではあったが。あと
実際にオレが買ったのはゴルフ6なんだが、実はこっちの横幅は1790㎜でレガシィよりも大きい。「理屈にあわねーじゃねーか」という人がいるかもしれんが、ゴルフ6はドアノブ部分が微妙に10数㎜外につきだしている構造で、実質的には1780mm弱。レガシィより若干マシである。あと全長とか最小回転半径は比較にならんぐらい小さい)

そういう「レガシィでかすぎる」という声はスバルにも届いていたらしいのだが、かといって巨大化したレガシィはアメリカでよく売れてドル箱になっている。デカイクルマが好きな彼の国の事情からいえばこれからも巨大化を進めていかないといけない。

そこでスバルのエライ人は考えたのだった――ま、確かに国内には肥大化してしまったレガシィを悲しんでいるスバリストの皆さんもけっこういるようだし、ここらでひと肌脱いで、今のレガシィよりちっちゃい国内仕様のツーリングワゴンを新開発してあげようじゃないの――という流れで今回の「レヴォーグ」が完成したのだった(とオレは聞いている)。

そういう流れを聞いていたオレはけっこう感心してしまって、「おお、スバルもいいところあるじゃないの。万一次にクルマ買い換えるようなことがあればスバルに戻ってもいいよなぁ」などと思っていたのだが、今回のレヴォーグ発表を聞いて耳を疑った。

横幅1780mm。

今のレガシィと変わらんのだった。もちろんレヴォーグは全長4690mmというから現行のレガシィツーリングワゴンから確かに縮めてはいるんだが、たかだか10cmではないか。それで「小さくなった」とかいわれてもナンだし、そもそも国内での使い勝手に一番関係しているのは横幅なのではないか。それでいて「やりましタッ! 国内の皆様向けに頑張って作りましたッ」とかエライ人は豪語しているのだった。

どうしてそういうことになるのだろうか。「ちょっと天井低くして、全長も10センチ弱つづめれば古手のスバリストも『おぉ小さくなった!』って大満足だよネ」とか考えたのであろうか?

ネットなどをみていても「何でよ?」という声が多いような気がするんだが。いろんな事情はあるのだろうが、民草の声というのはなかなかエライ人には届かないものである。けっこううまくまとめてきたクルマのようだけに、なおさら残念である。

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夜の経済学

夜の経済学

  • 作者: 飯田 泰之
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2013/09/26
  • メディア: 単行本


飯田泰之・荻上チキ『夜の経済学』読了。各章それぞれに違った問題を取り上げているんだが、そういうこともあっていろいろな読み方のできる本である。

まず導入は「日本にフーゾク嬢は何人いるか?」「フーゾク産業の市場規模は?」みたいなハナシ。なんつーか下世話ではあるが実に興味深いデータを各種調査・統計やらフェルミ推定とやらを駆使して割り出してみました、みたいなパートで、ちなみに日本全国でフーゾク嬢は30万人ぐらいいるらしいぞ。

ま、そういうハナシを楽しんでいるだけでもいいんだが、これも実はつかみであって、そういうネタを通して数字・統計によってたつ経済学的思考(より広くいえばデータにもとづいた思考法ということにもなるのだが)の基礎を学ぶ本、ということもいえるのだった。じっさい下半身ネタばっかりじゃなくて、荻上チキ氏のパートでは流言・デマの社会心理学みたいなハナシもでてくるし。

そこでチト思ったのだが、この本、そういやこないだ読んだ 堀井憲一郎『ホリイのずんずん調査 かつて誰も調べなかった100の謎』という本とも、どっか通底しているものがあるぞ。こっちは確か「週刊文春」の連載をまとめたものである。堀井氏はべつにアカデミズムの人ではなくて、統計学を知ってるともおもえんが、「郵便ポストの集配は時間通りにちゃんとくるか」みたいな、どーでもよい調査を延々とまとめたものであって、これもやはりそれなりに「データ主義」の本。やっぱり説得力があった。


ホリイのずんずん調査 かつて誰も調べなかった100の謎

ホリイのずんずん調査 かつて誰も調べなかった100の謎

  • 作者: 堀井 憲一郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2013/08/06
  • メディア: 単行本


とかく日本人は「今より昭和30年代のほうが良かった」「犯罪の凶悪化が進んでいる」とか、自分の思い入れにもとづく印象論でいろいろ世の中を語ってしまうところがある。ハッキリいうとオレも統計学の概念はイマイチわかってないけれども、そういうワケでこの『夜の経済学』みたいな、間口が広くて啓蒙的な本というのはもっともっと読まれていいと思ったなあ。



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一連の食材偽装問題であるが、食に一家言おもちのルキウス氏@「唇からナイフ もしくは余計なお世話」が核心に触れた発言をしている。

お読みいただくのが一番早いのだが、オレ流に言い換えると、あれは根本的には消費者側のナルシズムの問題だというのである。

「××産の一級素材を食うオレって、違いのわかる男だよなーフフフ」。違いなんてわかっちゃいないのに、そうやって気取るから、店の側だって「どうせエビの違いなんてわかんないくせに気取りたいだけなんでしょ? じゃ、ブラックタイガーでもいいわよね? どうせ満足してお帰りになるのでしょうホホホ」とつけこんでしまうのである。とまあ、そういった構図を指摘しておられる。

ま、そういう風に騙されたとしても、本当のことを知る前には「うまいうまい流石だ」とか言ってたワケであるから、そこで「偽装食材だ!」とかいっていきり立つのは自らのバカを満天下にさらすのに等しい。が、いったん勢いがつくと「そうだそうだ悪いヤツは許せん」とかいって水に落ちたイヌをたたくのが大好きな日本人である。かくてマスコミなども大騒ぎして、恥ずかしげもなく「食材偽装は許せないっ」とか大騒ぎをしてしまうのである。

アホですね。

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定本 何かが空を飛んでいる

定本 何かが空を飛んでいる

  • 作者: 稲生平太郎
  • 出版社/メーカー: 国書刊行会
  • 発売日: 2013/11/25
  • メディア: 単行本



というわけで、待望久しかった稲生平太郎『何かが空を飛んでいる』が今月ようやく復刊される運びと相成った。とゆーか三部構成になってて、一部が「何かが空を飛んでいる」、二部はオカルト関連の論考集なのであろうか「影の水脈」、三部は「他界に魅せられし人々」というラインナップ。

古今東西の幻想文学に造詣の深い著者だけに二部以降はオレなどはよく知らんネタ満載のようであるが、フレデリック・マイアーズなども登場するようであり興味津々。定価3,360円だそうだが、こういう本を買わずして何を買う、というかんじ。


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天声人語子が、けさの新聞で珍しく自己批判をしている。大変けっこうなことである。こういう話である。

わが身の不明を恥じている。以前、電車の中で化粧をする女性がいつごろ出現したのかについて触れた。20年ほど前の本紙に、近ごろ多いとの投書が載っていると報告した。それどころではなかった▼驚いたことに、1935年6月の本紙にあった。電車や人混みで顔をはたき口紅を塗る女性をよく見かけるが、感心しない、人の見ない場所でしなさい、と。実は戦前すでに珍しいことではなく、年長者は眉をひそめていたらしい▼お年寄りや重い荷物を持った人に電車の席を譲ろうとしない青年をとがめる文章もある。眠るふりをしたり、読んだ新聞に再び目を落としたりという描写は今日でも通用しそうである。37年4月の本紙だ

で、読み進めると、じつはコレ、よそ様から指摘を受けて気づいたらしいのだな。以下はその続きであるが、つまり本を読んで気づいた、というハナシである。

▼こうした事例を集めて一冊の本ができた。コピーライターの大倉幸宏(ゆきひろ)さん(41)による『「昔はよかった」と言うけれど』。現代日本のモラルの低下を憂える声に疑問をもった。戦前はこんなではなかったって本当か、と。5年かけて材料を集めた▼古きよき時代を懐かしみ、今時の若い者を嘆く。人の世の歴史はその繰り返しだろう。昔はよかったとは往々、印象論か個人的な感慨にとどまる。過去への幻想や錯覚をもとに「取り戻せ」と唱える危うさを、大倉さんの本は指し示す

なるほと、これまでにも管賀江留郎『戦前の少年犯罪』とか、「むかしは良かった」というジジイの思いこみを吹っ飛ばす好著はあったわけだが、またその手の本が出たのだな。よろしい。ただし、このあとのシメの部分がいかにも天声人語調である。こんな調子である。

▼小中学校の道徳教育を教科に格上げするという。文科省の懇談会が案をまとめた。政権の悲願だ。何をどう教えるか。かつての修身はよかった、戦後教育の罪は大きいという、ありがちな発想に陥ることのないよう願う。

でもね、よくよく考えると、「昔は良かった、今は良くない」っツーのは、「戦後民主主義は良かった、今はどんどん悪い方向に向かっている」ッて朝日新聞がさんざん煽ってきたストーリーとまったく同型ではないのか。もちろん右翼の皆さんが「道徳教育だっ!」とか叫ぶのはアナクロで、「成果」は全然上がらんのは目に見えているから結論としてはまぁそんなに外していないんだが、でも「お前が言うか!」という気はするぞ。

が、であればこそ、今回の「反省」がホンモノであるかどうかを、ワレワレとしてはじっくり見届けていきたいものである。「朝日史観」がホントーだったのかどうか、日々検証を重ねて反省をしていって欲しい、みたいな。


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こないだ驚天動地というか、「日本は法治国家ではなかったのかッ!」と思うすごいニュースがあったので備忘録がわりに記しておこう。

NHKが受信料の契約を結んでいない市民に対して「カネ払え」と民事訴訟を起こし、で、東京高裁は「受信者が拒んでも、NHKが契約を結ぶよう通知してから2週間で契約は成立する」という判断を下し、この市民にテレビ設置から4年分の受信料11万円の支払いを命じたのだそうだ。

オレは法律にはまったく弱いのだが、フツー契約というのは甲乙双方の合意に基づいてのみ成立するものだ、と思って50年ほど生きてきた。で、これまでおよそその判断は間違っていないと思っていたのだが、何とソイツは間違っていたのだった。

つまり、放送法とかいうワケのわからん法律を根拠にすれば、この「契約」というのは一方がもう一方の合意ナシに、「はい契約してね、拒んでもダメだから」と言い募れば自動的に成立することもあるらしいのだ。

で、これは法律のセカイでは別に不思議ではないのだろう、たぶん。天下の東京高裁の裁判長サマが言っているんだし。となると、自由意志に基づいてのみ成立するとオレが思いこんでいた契約というのは、勝手に誰かさんが「ハイ成立!」と宣言すればオレの意志には何ら関係なく成立つものであり、この世界は、じつはカフカの世界と紙一重だったのだ。いや「自由意志なき契約」という概念は、なんか一党独裁の共産主義体制のようでもあるな。実は日本とはそういう国だったのだ。難波孝一裁判長、おしえてくれてどうもありがとう。m(_ _)m

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しかしだな、NHKはこれまで、「NHKは国家のイヌなどではなく不羈独立のジャーナリズムなのだよ。じっさい税金で食ってるわけじゃなくて、受信料を支払っている一人一人の視聴者の皆さんの信託のもとに仕事をしてるわけだしネ」と格好をつけてきた。だから国営放送じゃなくて公共放送なんですよ、とうそぶいてきたわけだナ。ところが今回の判決は「視聴者の意志に関係なく強制的に支払いをさせる権利」」をNHKに付託してしまったのだから、これまでの「視聴者の皆様に支えられたNHK」という説明は完全に破綻した。実質的な「徴税権」をかちとってしまったのだから「皆様のNHK」もクソもない。つまるところ、NHKというのは国家権力の末端に位置して放送業務をしているお役所、ということなのであろう。

であるから、今回の判決を機に、NHKも「我々は実質国営放送局デス」とでも宣言したらどうか。いや、いっそのこと放送法とやらも改めて、受信料ではなくて税金としてカネをとることにして、名実ともに国営放送局にしてしまえばよろしい。そうすればオレみたいに誤解してしまう人もなくなるだろうし。

あぁそうだ、今度NHKの最高決定機関であるところの経営委員会にも、安倍首相となかよしの右翼の方々が大挙就任なさるようだ。一切合切リニューアルなさるにはちょうど良い頃合いだと思うが如何か。

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