2014年12月

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今回はこの同人誌「空飛ぶ円盤最後の夜に」の読書感想文を書いてみたいが、その前に、まずは長々とした前振りを書かねばならない。


知る人ぞ知る円盤本の名著に『何かが空を飛んでいる』(略称「何空」)というのがある。

著者の稲生平太郎というのは英文学者の横山茂雄氏のペンネームなんだが、もともと1992年に刊行されたこの本は、ある意味で日本のUFOシーンにデカすぎる一石を投じた本なのだった。

もともと日本で「円盤」というと、「宇宙人の乗りもの?」みたいな視点で矢追さんとかメディアとかもいろいろ取り上げてきたわけで、もちろんそれは米国の初期ユーフォロジーの大立者、ドナルド・キーホーあたりが言い出して以来、とりわけ米国ではデフォルトともいってもいい問題意識であったため、その辺の事情もコミで円盤ネタを「輸入」してきた日本でも「円盤≒宇宙人」とゆーコンセンサスができてしまった、ということなのだろう。

ところがこの『何空』のスタンスは、違った。

そもそも円盤類似現象というのは大昔からあったもので、いわゆる妖精なんてゆーのは虚心坦懐にみれば「宇宙人」と五十歩百歩だったじゃないですか、そういや誘拐=アブダクションなんてのは妖精のお家芸ですゼ、円盤現象というのはことほど左様に人間存在と骨絡みになった怪奇現象なんですヨ、「宇宙人」なんて、あなた、そんなお手軽な説明じゃ割り切れんのですよ、みたいな事を説いたのだった。

ちなみに、この手の「奇現象としてのUFO」みたいなアプローチは米国のジョン・キールなんかも取り入れていたし、ヨーロッパでは「ニューウェーブ」などと呼ばれて一定の支持を集めていたらしい。ま、オレがそのあたりの事情を知ることになるのは、遥か後のことだったが。

さて、この本が刊行された1992年というのは、オレも円盤系と切れていた時代だったこともあり、この本のことはずっと知らんかった。それが2000年頃だったか、確かニフティサーブかどっかで耳にして、こいつは面白そうだと思って買おうとしたんだが、もう無かった。絶版になっておったのである。いわば幻の名著。くそッ、てなワケで、「復刊ドットコム」にリクエストを出したりしたんだが、無いものはしょうがない。で、図書館で借りて読んだ。結果はいうまでもない、あぁなるほどこいつは目からウロコだ、マスト・バイのUFO本だ、とオレは大いに感激したのだった。

ま、そのような本でもあり、復刊を望む声が朝野に満ちた結果ということなのだろう、昨年暮れに『定本 何かが空を飛んでいる』という名前で、ようやく復刊が成った。オレにとっても10数年越しの願望が叶ったのだった。


・・・とゆー、とてもとても長い前振りを受けて、ここからが本題になる。

世の中にはいろいろな人がいて、やっぱりこういう怪現象としてのUFOが大好きだということで「Spファイル」という同人誌を立ち上げた奇特な方々がいたのだった。たまたまその活動を知ったオレは感激し、その創刊時から購読をさせていただいておったわけだが、こういう方々だけに、やはり『何かが空を飛んでいる』には皆さんリスペクトをもっている。

となると、昨年の『定本 何かが空を飛んでいる』刊行は一大事件である。こいつは何とかせねばならん、ファンブックを作りましょうかという話になって、で、今回の「空飛ぶ円盤最後の夜に」が誕生した。そういう話なのである(と聞いている)。

というわけで読ませて頂いたのだが、うむ、実に良かった。

まず何と言っても感心してしまうのが、著者・稲生平太郎へのインタビュー「<他界>に魅せられて」である。もともと英文学の専門家である稲生氏、加えて小説も書けば、映画評論もし、かつてはこんな円盤本も書いていたわけであるから、一見「どういう人なんだ?」ということにもなってしまうんだが、このインタビューを読むと、その辺が全然ヘンじゃないことがわかる。

つまり、タイトルにも出てくる「他界」というのがキーワードである。

この世の中というのは、何かのっぺらぼうで淡々としていて、誰かさんの言葉を使えば「終わりなき日常」が続く世界に過ぎず、何かつまんねーな、と思うことはオレなども再々あるわけだが、いやいや、どうやらこの世界、時と場合によっちゃワケのわかんない裂け目も発生するし、破綻もするよ、条理を超えた意味不明なもの、魑魅魍魎が跋扈する時だってあるんだし、みたいなことを稲生氏は考えているらしく、だからこそ、そういう「他界」に開かれている窓として幻想文学を読んだり書いたり、奇っ怪な映画が現実感覚を崩壊させる瞬間の快感を語ったり、奇現象としての円盤を語ったりしてきたのであろう。

まぁ抽象的なことを書いてしまったけれども、その辺の「他界」への希求といったものを、インタビュアー3氏は実に巧妙に語り手から引き出している。殊勲甲、である。

あと、常連寄稿者の論考も読ませる。

オレが「平成の戯作者」と勝手に命名している馬場秀和氏の「現代詩と円盤」は、円盤系のモチーフが出てくる現代詩を紹介している。さっきの「異界」の話じゃないが、詩的イマジネーションは、確かにそうした世界に我々を導いてくれるものかもしれない。詩的言語は因果律や物理法則とか一切超越してるしな。

ものぐさ太郎α氏は、UFO前史としての19世紀末の謎の飛行船騒動の総まとめを書いておられるが、ご専門だけに流石にお詳しい。「何空」は円盤現象の超歴史性ということを言っているわけで、その精神を踏まえて19世紀末の米国という時点にスポットを当てれば、こういうレポートができてくる、ということになる。

あと編集長のペンパル募集氏のジョン・キール論。先にも述べたが、『何空』はかなりの程度、キールの問題意識と重なり合うところから出てきた本なので、これは重要なポイントである。「この世界は決してあなたが思ってるような平板なものじゃないんだよ、ヘヘヘ」みたいな感じで、終生あやしげな奇現象の話を(あえていうが)書き飛ばしてきたライターの、その思想と立ち位置がよく見えてくる。

新田五郎氏の円盤マンガレビュー、原田実氏の「超常幻書目録」は、いずれもオレがよく知らない世界なのでいろいろ書けないけれども、それぞれにご専門のフィールドから円盤世界に切り込んでおって勉強になる。

まだまだコンテンツはあるんだが、感想はこの辺でいったん打ち切らせていただこう。ただ、一つ残念だったのは、「何空」の一つの源流であったUFO研究家、ジャック・ヴァレの仕事について、もうちょっと読みたかったナということである。改めて書いておくと、ヴァレは『マゴニアへのパスポート』(1969)などで妖精譚とUFO報告の類似性を指摘し、いわゆる「ニューウエーブ」の旗手と呼ばれた人物であって、稲生インタビューにも「影響を受けた人物」として出てくる。確かこのファンブックではヴァレ論も予定している、という話を聞いたんだが、いろいろと事情があったのかしらん。ま、今後Spファイルで掲載して頂ければ、と切に願っております。

というわけで、こういうものが同人誌で出てくるというのは、なかなか、日本も捨てたものではない。この中にも書かれているけれども、円盤文化自体は滅び行くプロセスにあるようで、やや寂しいような気もするのだが、そういう意味では同人諸兄には円盤現象の看取り役(?)としてさらなるご健闘をされることを期待したい(おわり)









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金正恩をおちょくった映画「ザ・インタビュー」を公開しようとしたソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントが、テロ予告にひるんで上映中止に追い込まれた件であるが、一転、米国で上映館を絞っての公開が決まったらしい。まずは「テロには屈しないッ!」というアメリカの矜持が示されたようで、まぁアメリカは別に好きではないけれども、こういうところは連中さすがにスジが通っている、と思わんでもない。

閑話休題。今回は別にこの映画の公開の是非を論じたいわけではない。

たまたま新聞各紙でこの一件についていろいろ報じているのを読んでいて気づいたことがあった。フツーの新聞はフツーに「ザ・インタビュー」と書いているンだが、朝日新聞を見ると「The Interview(ジ・インタビュー)」という表記である。


問題は、この「・インタビュー」である。もちろん母音の前の「THE」は「ジ」と発音する、とゆーのは40年ほど前に田舎の中学校で教わったので知っているが、こういう書き言葉で「ジ」とか言われると、何となく違和感がある。現地人がリエゾンでこう読む仕掛けになってるからといって、もはや英語は国際語だとかいう話になってンだから、そんなローカル・ルールにおつきあいする必要があるんだろーか、と思う。

まぁここからは勝手なことを言わせてもらうのだが、朝日新聞のみこういう表記を使っている、というのは実に象徴的である。英語を使うにしても、ジャパングリッシュみたいなのは下品で、「現地人の口吻を一から真似るのが正しいのでアル」みたいな説教臭が漂う。あるいは「オレたちはインテリなので、インテリらしい英語を使わせて頂く。母音の前のジは譲れませんナ」みたいな嫌みなものを感じる。

それに「ジ・インタビュー」の前に、わざわざ原語の「The Interview」と入れているのも気に入らん。たぶん、「ジ・インタビュー」だけだと「なんだ、このジというのは?」と思う読者はいかほどか出てくるに違いなく、そこでこの「The Interview」という英語を併記しておけば、「いや、ここに英語が書いてあるでしょ? だったら、何でジなのか、わかるでしょ? わからない? あんたバカァ~?」ということになるワケである。何か姑息である。

例の「誤報問題」で至らず済みませんでしたとアタマを下げた朝日新聞であるが、オレが前々から指摘している「貴族主義」「大衆善導主義」みたいな性格は急に変わるワケもなく、それは図らずもこういうところに顔を出してしまうのではないだろうか。

いや、こういうリエゾンは尊重イタシマスという方針を貫くことにしたンならまだ良い。そのかわり、「アナ雪」の「Let it Go」は「レリゴー」だし、ビートルズの「Let It Be」は正しくは「レリビー」である。ま、これからこのビートルズの名曲は「レット・イット・ビー」ではなくて「Let It Be(レ・リ・ビー)」と書くことにシマシタ、というンなら許さんでもない(笑)。











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Authors of the Impossible: The Paranormal and the Sacred
Jeffrey J. Kripal
University of Chicago Press
2011-09-16




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以前にも触れたんだが、宗教学のほうのジェフリー・クリパルという先生が書いた『Authors of the Impossible』(「あり得ないことを書いた人々」ぐらいの意味だろうか)という本がある。

この中にジャック・ヴァレを論じている章があるというので、Kindleで買ってみたのである。

たまに該当箇所を開けて、読もうとはするんだが、如何せん英語力不如意。遅々として進まない。加えてすんなりアタマに入ってこない。しょうがないので学生みたいに訳読方式(笑)で少~しずつ日本語にしながら読み進めていこうかと思っている。これが現在の状況である。

今んとこ最初のほうを読んだだけだが、著者はヴァレを「グノーシス的である」と言う。ヴァレは正統的な科学とも伝統的な宗教とも違う、いわば第三の異教的スタンスからスピリチュアルな問題に取り組んでいる人物であって、そのような「はざま」に立つ人間であるからこそ、物理的存在でありながら極めて主観的な性格も有している、いわばUFOのヌエ的に強く反応している――というのだな。


ジャック・ヴァレが知るに至ったのは、厳密な意味で「これは主観的なものである」とか「客観的なものである」といった断定的な説明をするのは無効だ、ということなのだ。そうした説明は「ともに真である」ともいえるし、「ともに間違っている」ともいえる。ヴァレが超常現象のことを書く時――そしてこれこそが、私を彼の「あり得ないものを書く」営みに引きつけた理由なのだが――彼は純粋に心的なもの、ないしは主観的に存在するもの(それはそれで非常に興味深く、深遠なるものではあるが)についてのみ考えているわけではない。

彼が考えをめぐらせている対象は、次のようなものなのだ――繰り返しレーダースクリーン上に出現する根源的に不可解な現象。過去何十年にもわたって各国の政府やその軍隊との間に深い関わりあいをもってきた、もしかしたら「潜在的な敵」であるかもしれない勢力。我々の最強のジェット戦闘機からも容易に逃げおおせてしまう、進歩した未来のテクノロジー。そして、我々のフォークロアや宗教、文化を何千年にもわたって裏面から規定してきた、不可解というしかない「神話的なもの」の存在・・・。つまり彼は、神話的でありながら同時に物理的にも存在し、スピリチュアルなものでありながら同時に物体でもある、そのような「何ものか」について考えているのだ。

読者諸兄がいま戸惑っておられるとしたら、それはむしろ結構なことだ。合理主義に基づく「確からしさ」や宗教的な信仰は、ここでは「敵」である――混乱は幸福を運ぶ天使である。不条理と疑念は、我々をはばたかせる翼である。だからこそ、いまこの状況に在る根源的な不可思議さというものは、改めて論ずるに足るものなのだ。


ふむ、なるほどそういうことかもしれんなぁ。というわけで、本書ではこうした導入部に続いて、ヴァレの生い立ちや歩みが語られていく(ようだ)。全文翻訳とかして書き出すと法的に問題があるようなので、おいおい内容を自分なりにまとめて紹介していくことにしよう。



新聞の事件記事でたまに見るのが、この「意味不明のことを話しており」というフレーズである。

当然、何かしでかした犯人が捕まって警察の取り調べを受けているときに、この「意味不明のことを話しており」状態になるのである。

もちろん、これは昔であれば「キチガイ」のひと言で済んだわけだが、今の人権感覚の進んだ社会(笑)ではそういう事はいえない。その辺をニュートラルに言うなら「精神病者」ということになるんだが、これは「精神科医にかかってそういうふうに診断された」という客観的事実を押さえないと使えない言葉なのだ。だから犯人が捕まったばっかり、という状況では、まず「精神病者」などと言うことはできない。

だから「意味不明のことを話しており」になってしまうんだが、オレなんかからすると、こういう言い方はすこぶるギマン的である。

確かに「キチガイ」と正面切って言うよりはマイルドである。あるけれども、このバアイ、「意味がある・ない」というのはマワリの人間が勝手に判断して言っているのであって、その犯人の立場からすると、おそらく何か意味のあることを言ってるつもりなんである。

となると、「意味不明」とか切って捨てるのは、「コイツとは意志疎通できねーな」といってコミュニケーションを拒絶してる点で「キチガイ」といって排除するのと五十歩百歩である。とゆーか、「キチガイ」と切って捨てた時の「こっち側の独善性」みたいなのを糊塗してる、という点ではむしろあくどいような気さえする。

ことほどさように、最近の言葉狩り→とりあえず言い換え、みたいな流れはギマン的である。マイルドな言い換えで自分(たち)の特権性をなかったことにする。何だか気持ちの悪い時代である。


追記
たまたま、いまテレビのニュースでも言っていたんだが、「心肺停止」って言葉もなんかそういう責任転嫁っつーか、「状況を自分で背負いたくない」的文脈では通底しているよなぁ。「医師が診断しなければ死んだかどうかわからんので、いま目の前に転がってるのは心肺停止のヒトである」、というのはどう考えてもバカの寝言であるわけで。

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朝日新聞の夕刊に「人生の贈りもの」という著名人の半生聞き書きインタビューみたいなコーナーがあって、きたやまおさむが出ていた(今日で終わったけど)。内容には敢えて触れないけど、今日なんかとてもいい話をしていたぞ。

もちろん、きたやまおさむこと北山修は「ザ・フォーク・クルセダーズ」の創設メンバーなんだが、その後、精神科医になって、日本でも有数の精神分析学者になってしまったという素晴らしく魅力的な人である。

で、個人的には1970年代後半にオレが高校生だったころ、彼は「自切俳人(ジキル・ハイド)」という名前でラジオのオールナイト・ニッポンのパーソナリティーをやっていた。これが毎週楽しみだったんだよなあと記事を読みながら思いだした。朝日の記事でもその辺の話出るのかナと思っていたんだが、流石にそれは無かった。ちょっと残念。

丁度その頃の話で覚えていることがある。1977年、太平洋上でネッシーみたいな物体をトロール船が引き揚げて、まぁのちにこれはウバザメの腐ったヤツだとわかったんだが、当時は「ニュー・ネッシー」などと呼ばれて、メディアはだいぶ盛り上がっていた。で、自切俳人は勝手にこれを「ユメカシーラ」と名づけ、海獣LOVEみたいなニュアンスで同名の曲なんか作ったりして遊んでいたのだった。

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あと「風に消えたあいつ」「世界は君のもの」「来てよキャプテン」とか自作のヘンな歌をいっぱい流してて素敵だったなあ。ま、別にそれがどうしたという話ではない。ちょっと懐かしくなっただけの話。





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けさの朝日新聞の紙面をみると、例の「誤報問題」で大反省大会である。
なんか、朝日取るのやめた家に中堅社員を派遣してご機嫌うかがいさせるとか、涙ぐましいぞ。

もとより、朝日新聞(オレの場合はとりわけ天声人語なンだが)のゴーマン体質を批判してきたオレにしてみれば「それみたことか」という気がしないでもないんだが、逆にいうと、こうあからさまに土下座作戦を展開し始めたのをみると、それはそれで気持ち悪いゼというところがある。

けっきょくブル新なんだから、それほど公明正大・清廉潔白とゆーわけにはいかんことなんか先刻承知でアル。前にもちょっと書いたけれども、各新聞が自分に都合のよい事実を拾い上げて、自分に都合のよい記事を書くのはアタリマエのことである。

そこでかなり我田引水の無理のあるロジックを展開しちまったところに発生したのが例の吉田調書の「誤報」であったわけで、朝日の編集は撤退すべきところで突撃してしまって結果「一個大隊全滅」みたいな、いわば戦略ミスというよりは戦術ミスを犯しただけの話なのである。

とゆーわけで、気持ちの悪い土下座作戦もいささか白々しいのでこれは適当に切り上げて、ゴーマン通常運転に早期に復帰されたら如何だろう。そっちのほうがオレ的にもネタができていいし(笑)


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「UFO体験は臨死体験と同根ではないか」というテーゼで名高いケネス・リング『オメガ・プロジェクト』はずっと家に置いてあって、耄碌が進んできたこともあり、読んだんだか放置してたんだかよくわからなくなってたンだが、このほどちゃんと読んでみた。

以下思いっきりネタバレであるが、結局のところ、人間というのは脳の側頭葉部分が何かクリティカルな状況に陥った時に臨死体験をするのであって、一方で側頭葉が強烈な電磁効果に見舞われた際にはUFO体験をしてしまうのダ、とゆー議論である。

勿論こうした議論のバックグラウンドにはカナダの脳科学者マイケル・パーシンガーの研究があるので、そこんとこ何となく尤もらしい話にはなってはいる。

*ちなみにこのパーシンガーという人はこ
の手の話にしばしば登場してくる人物であるんだが、著書は邦訳されていないようで、そのへんは隔靴掻痒の感がある。あと、「地球上には時にそうした強力な電磁効果が発現する地球光 eatrh light 現象とゆーものが発生するのだ」とゆー主張をしているポール・デブルーという人の議論もパーシンガー説の傍証として引用されていて、確かこの人はヴァレの本にも出てきているのでオレも読みたいのだが、当然ながら(笑)邦訳がない。出版社の中の人は何とかしてほしい。


閑話休題。それはそれとして、この本、最後の方になって、けっこうトバしてしまう。

臨死体験にしろUFO体験にしろ、人間のそういう体験は何か新たなる人類の「進化」を先取りしたものではないのか、みたいなことを言い出すのである。当人は本の中でヤンワリ否定してたが、やっぱこれは所謂ニューエイジの「見果てぬ夢」とゆーやつではないのだろうか。

だいたい彼は「進化」とかゆー言葉を不用意に使ってるンだが、オレの理解している限りでは今の進化論というのは突然変異+自然淘汰みたいなリクツになっている筈で、リングがここで言っている進化は「何か或る方向に向かって生物が自発的に変わっていく」みたいな、つまり現在は完全に否定されているラマルク流の「進化」説であるように思われる。そういうのをいきなり持ち出すから、ナルホド科学者の議論だよなーと思って好意的に読んでいたオレ(笑)もヒザカックン状態になってしまうのである。

ま、淘汰圧だか何だか知らんが、人間の変革を強いる力がソコで働いているというんであれば、ここは「進化」なんていう物言いはしないで、ヴァレ流の「コントロール・システム」だとか、あるいはユング流の元型(アーキタイプ)仮説でお茶を濁しておけばヨイのである(実際に本書ではその辺への言及もあるんだよネ)。

というワケで画竜点睛を欠いた感もあるけれども、パーシンガー理論を拡大援用したこういう議論はなかなか知的刺激に満ちている。その後、このフィールドがどうなってんのかは不勉強なのでよくわからんけど。とりあえずそういうことで。


p.s.
しかし、今アマゾンでみたら値段が4979円もついていたぞ。どーなっとんじゃ











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