2015年08月

京都の老人ホームで医師をしている中村仁一さんという方が書いた『大往生したけりゃ医療とかかわるな』 (幻冬舎新書) という本があって、で、確かこの本の中に書いてあったのだが、「ガンで死ぬ」というのは、どうも一般的には「おぞましいもの」として敬遠されているけれども、実は年寄りの死に方としてはそんなに悪くないんじゃないか、という議論がある。

よく末期ガンは痛いし苦しいなどと言われる。確かに無理やり抗癌剤を投与したり放射線療法とかやってガンと「闘う」ということになると、これは生きてる正常な細胞をハカイしたりする副作用もあるので結構修羅場になったりするようなのだが、もうあんまり「闘病」しないでなすがままに任せとくと、意外とこれはラクで、死ぬ時も意外にスーッと死んでいける、というのである。

で、ガンというのは、ある程度、先が読める。あと××年したらたぶん死ぬんじゃないか、という見通しが立つというのである。これは宣告を受ける身になってみるとかなりキツイような気がしないでもないのだが、よくよく考えると、ここにはある程度「死ぬ準備」をしてから逝けるという利点がある。それと、最近よく聞く「ボケて暴れるので無理やり沈静剤うたれた上にベッドに縛られて一日過ごすジジイ」みたいな老後を考えると、むしろ意識が清明なウチに「あぁ桜が綺麗だなぁ、来年は見られないかもしれないなぁ」とか詠嘆しながら死んでいけるガンのほうが、まだマシじゃねーかなあと思ったりする。

いや、だが、しかし。たとえば80歳とかになってボケが進行してしまった段階でオレがどう思うかというのは、これはまた別問題なのだな。たぶん、とゆーか十中八九、オレは「いや、しかしまだもうちょっと生きたいので、何でもいいから生かしてくれ」というのだろう。この辺が人間の難しいところである。ま、ともかく、日頃から死に方のシミュレーションをしておくに如くは無し。












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東京五輪のエンブレムを作ったデザイナーが、「よそのデザインをパクったんじゃねえか」と騒がれている問題について、昨日8月19日の天声人語が触れている。が、今回も例によって奇妙な議論をしている。

まず、歌人としても有名だった今は亡き寺山修司について、若き日の寺山にはしばしば盗作疑惑がささやかれ、「模倣小僧」と呼ばれることすらあった、という話をする。

で、実例を挙げている。「向日葵の 下に饒舌高きかな 人を訪わずば自己なき男」という寺山の歌があるのだが、これは中村草田男の「ひとを訪はずば 自己なき男 月見草」のパクリではないか、そういう話があったという。

ただ、ここで天声人語子は寺山の非難に走るかと思えば、そうではない。「でも寺山の作品って愛されているよね」という話をする。こんな具合だ。

批判を浴びて歌人寺山は消えてもおかしくなかったが、そうはならず、歌は今も愛誦されている。この種の騒ぎの収まり方には実に微妙なものがある。

で、最後のシメはこんな風だ。
ついでながら、子規の名高い〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉は、親友の漱石が先に作っていた〈鐘つけば銀杏ちるなり建長寺〉を発展させて詠まれたという。触発し、触発される。人が行う創作行為には当然そうした面がある。

つまり通読しますと、「人間の創作には先人の業績を真似たり、パクったりして創造するという側面がある。よって、今回のデザイナーのパクリ疑惑もそんなに騒ぎなさんな」という事を言っているように読める。

しかし、う~ん、それでいいのか、とオレは思う。

みなさんよくご存じのように、日本の和歌の伝統においては「本歌取り」というものがある。名高い古歌を一部パクリ(というと下品なので「流用して」というべきかもしらんが)、自作の作品世界に奥行きを与えるという手法である。念のためウィキペディアをみたら、こんな実例が挙げてあった。


三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも かくさふべしや(額田王)
    ↓
三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ(紀貫之)


実際には本歌取りにもいろいろ「ルール」みたいなものがあるらしく、寺山修司の「パクリ」がその辺どうなのかは素人なのでよくわからん。ただ、少なくともここからわかるのは、「これはオレのオリジナルな表現だから。マネして使ってもらったら許さん」というような、権利意識に目覚めた現代人特有の発想は、もともと日本の詩歌の世界にはなかった(もしくは乏しかった)のではないか、ということである。そして、我々もどこかに「先人を作品をリスペクトしてなぞる、ってのはアリかもしれんなあ」という風に考えているところがあるんではないか。

ただ、しかし、おそらくそれは「日本の詩歌」という文脈だから許されていることだと思う。我々の血肉と化した日本語という領域にあっては、先人の作り出した表現もまた広い意味での「公共財」なので、ある種の「フェアユース」を許す。寺山が「許された」というのも、そういう文脈があってのことだと思うのである。

しかるに、今回のデザイン盗用疑惑はどうか。

こういう世界になると、詩歌なんかと違って、やっぱり勝手にパクったりするのはまずいだろう、というのが大方の日本人の感覚なのではないか。天声人語は「およそ創作であれば、ある程度のパクリは許されるべきではないか」というような主張をしているようだが、これは、その創作作品のジャンルであるとかその歴史的文脈を無視して簡単に言い切ることのできない問題であると思う。

かくの如く、今回の天声人語も「文化の何たるか」ということについて深く考えることをしないものだから、極めて乱暴粗雑な議論をしてしまった。残念なことである。







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死んだままのブログだと思われるのもシャクなので、たまに、どうでもいいこと。

安倍晋三というひとがわからないのである。

こないだの戦後70年談話というのは、もう発表前の段階で四方八方からいろいろ言われていて、つまり「日本は(戦前も含めて)全然悪くないんでちゃんと世界に向けてアピールしてくれ」という<お仲間>からの激励もあれば、「ここでアンタの持論をぶったら日本は世界の孤児になるんで気持ちはわかるが頭下げといてくれ」という所謂「現実主義者」のブレーンとかテクノクラートの方々からの懇願もあるし、もちろん(安倍晋三に聞く耳はないが)「戦争で迷惑かけた人たちにちゃんと謝っておかんといかんぞ」という人々の声もある。

で、結局この70年談話では、「未来永劫・子々孫々まで誤り続ける気はさらさらありませんから」ということを言って<お仲間>の顔を立てている。日露戦争は西欧列強の植民地化の動きに対抗してやむにやまれず立ち上がったもので、日本の戦いは植民地下のアジア人民にも勇気を与えた、などと司馬遼太郎 にかぶれた史観を一席ぶっている箇所もある。たぶん、「大東亜戦争はアジア人民解放の戦いだった」などという一部の右翼が言っている主張は流石に苦しいけれども、帝政ロシアを悪玉に仕立てるのであればあんまり批判も来ないので、こういう言い方をしているのではないか。けっきょくのところあの人は、「戦前の日本は悪くない」と思っているのだろう。

しかし、同時にその手の議論ばっかりだとハラの底が丸見えになってしまうので、「反省」もしてるし「謝罪」もしてます、という事も同時に言っている。もちろん「これまでの日本政権はさんざん謝ってきたではないか。そこんとこは変えません(キッパリ」といって、自分自身に謝る気があるのかないのか明言しない言い方をしているのがなかなかコスイのではあるけれども、いちおう頭を下げるかたちをとって体外的な配慮もみせてはいる。まぁ、各方面にそれなりにナットクしてもらおうという苦心の作であったことはわかる。

ただ、こういう談話をみていてつくづく感じてしまうのは、もっともっと原理的な部分での疑問なのである。こういうロジックの人が、なぜいま、戦前の世界を仕切っていたアメリカと同盟関係を結んで仲良くしよう、と言ってるのかがわからない。


最近では威光もかげってきたとはいえ、いまだ世界の強国であるアメリカと手を組んでりゃ安心だ、というのは国際政治のリアリズムからいえば、安倍晋三の立場もわからんではない。だが、戦後の世界史を考えてみりゃあ、第三世界にさんざっぱら介入して、「反共だったら援助すっからね」とかいって腐敗政権支えてきたのもアメリカだ。「日露戦争がアジア人民に勇気を与えた」とか言ってんなら、そういう「米帝」の策動は批判して「アジア人民の自主独立」を応援するのがスジであって、そういうアメリカのゴーマンな体質は戦前も戦後も変わっとりゃせんのではないか。

*もっとも、アメリカには「もうオレたちヨソのことには関わりあいたくないから」という「モンロー主義」の伝統も一部にあって、それこそ第二次大戦の時なんかもチャーチルの「参戦して助けてよ」という要請になかなか応じなかった。最近も、勢い込んでイラクぶっつぶした迄はいいが、そのあとグチャグチャの泥沼作っちまった反省から「中東に深入りするのはこりごりだ」的なトレンドもあるらしいので、ま、その辺は相対的な問題ではあるんだけどね。



閑話休題。もちろん「靖国の英霊」をたたえる心情というのは、「親米」とは両立しないと思う。実際、安倍は靖国に参拝するたびにアメリカの偉い人たちから怒られてしまい、ここんとこ全然行けなくなってしまった。

いや、そもそも戦後日本の右翼というのは、「反共」から思考を組み立てているので、反共の大親分であるアメリカとべったりで生きていくというのが別に不思議ではなかったのだろうというのはわかる。わかるけれども、この歴史的に生まれた「親米右翼」というのが理屈からいえば何とも不可解な存在であることは結構むかしから指摘されてきたわけである。

ところがこの安倍晋三というひとは、その辺の「矛盾」には全然無頓着なようなのだ。なぜなのか。それとも、ハラん中では「今んとこはアメリカの手下で甘んじるしかねーが、今にみていろ、何かあったら一泡吹かせてやるからな」とかスゲーこと考えてんのか。アンタ石原莞爾かよ、みたいな(笑)。

ともあれ、少なくともそのあたりの「わけのわからなさ」を解消すべく、自らの思想を明瞭に言語化して説明してほしい。そういうことのできる人なのか、って? うむ、オレもそこんところが疑問なのである。一国の首相があまりに頭が悪く、そうした応答責任さえも果たせないような人物であった、というようなことは御免被りたいンだが・・・。


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