2018年02月

在野の奇譚収集家がコツコツと集めた怪奇現象の「おはなし」を事典形式の本にした『日本現代怪異事典』をようやく読み終えた。


もともとコミケか何かに出して評判になり、それがきっかけで刊行された本らしいが、500ページもあって読み応え十分。というか、もう年も取って記憶力が減衰しているので、読んでるうちに最初の方の話を忘れていってしまうという体たらくである。

まあそれはそれとして、大変な労作であり、著者の健闘をたたえたい。

以下は読んでいて思ったことのメモ。

■校閲の甘さが惜しまれる
 これはツイッターのほうにも書いたが、校閲の確かさは事典の生命線である。かなりのミスが散見されたのは惜しまれる。

■松谷みよ子は偉い
 こういう本なので、先人の業績からの引用がキモになる。そういう目で見ると松谷みよ子の『現代民話考』が再三引用されており、長年こういう奇譚を集めてきた松谷さん偉かったなあと改めて思う。あと、渡辺節子/岩倉千春『夢で田中にふりむくな―ひとりでは読めない怖い話』という本もたびたび文中に出てきて、何だか非常に面白そうなのだが、こちらは絶版で入手困難であるようだ。残念である。

■「怪異」ということば
 これまたツイッターで書いた話であるけれども、タイトルにもなっている「怪異」というのは、フツー「奇怪な現象」ぐらいの意味で使われると思うのだが、この本の中では幽霊狐狸妖怪のたぐい、つまり何らかの人格的な存在をもあわせたあれやこれやをも総称して「怪異」と言っている。
 日本語としては、やっぱ何か奇異な感じがする。じゃあ、それにかわるワーディングがありうるかというとなかなか難しいのではあるが。

■地元の怪異
 オレはいま東京の郊外に住んでいるのだが、通勤に利用している某東京メトロの路線にかかわる「怪異」が一つ紹介されていた。いわゆる「異界駅」の話である。まったく歴史的な陰影のないところを突っ切って走る鉄道でもあり、この手の奇怪な話にはまったくそぐわない土地柄なのだが、人間の想像力というのはそういう空虚な土地にも何かを読み込むことができるだとすれば、それはそれで大したものじゃないか、と思ったりした。

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こないだ某所で知り合いが話してたのだが、オカルトとかスピリチュアル的なものというとかつては若い世代が興味関心を抱くというパターンがあったのだが、どうも最近は全然様子が違うらしい。

いや、正確にいうとそれはもうちょっと具体的な話で、雑誌「ムー」の読者は今やジジイ、ババアが中心ではないかとか、そういう話だったのだが。

で、よくよく考えると、そんな印象は確かに前々からあった。まぁ1980年代の桐山靖雄の勃興から90年代のオウムあたりにかけては、この手のトレンドはまだ若者が担い手だった感じがあったのだが、新世紀に入るともうダメである。

これはオレのスキなUFOなんかにも通じるところがあるんだが、担い手は明らかに中年~初老の世代である(もひとつ、印象論でいってしまうととりわけ女性、つまりはオバサンが頑張ってる感じがある。安倍昭恵とかW)。

これは何なのか。

仮にそのボリュームゾーンを1960年代生まれあたりとすると(つまりオレの世代なんだが)、小学生で1970年代前半のオカルト文化の洗礼を受けた連中が「雀百まで」ってヤツで踊り続けてる、みたいなイメージがある。

もちろんその前の世代にも「ヒッピー文化からニューエイジ」みたいな回路があっただろうし、そこそこオカルト-スピ系カルチャーはアリだったような気がする。

となると、これは単に「子供の頃の刷り込み体験の有無」みたいなところに帰着するような気がしないでもない。テレビなんかでも、オウム以降の「アヤシイ番組はダメ」の流れでこの手の系譜が途絶えてしまった、という理解である。

ただ、勝手な印象論でいうと、これは最近の若者のいわゆる「保守化」ともどっかでつながってるような気がする。どういうことかというと、以前の若者っていうのはどこか夢見がちだったり、「いま・ここにはない真実」を希求して「汚い現実にツバする」みたいな、どっか反社会的なエレメントをもってたような気がするのだが、最近の若い奴らには、そういうのは無いみたいである。

となると、これは単なる「オカルトカルチャーの途絶」で済まない、なんか、より大きな流れの一環のような気がしないでもない。

なぜか。連中は本当にもう「スピとかオカルトは要らん」と言ってるのか。わからん。わからんけども、オレのスキなUFOカルチャーが死に絶えてしまうのもちょっと悲しい。何とかしたいような気もする。どうしようか。








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