2019年03月

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*敢えて食い終わった後の丼なのだが、ここで「大当り」というのが出ると、お土産ラーメン二食分をプレゼントしてくれるのだった。で、くじ運の悪いオレにしては珍しくコレが当たったので記念写真。

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これは秋田県横手市のいわゆる「十文字中華そば」である。この写真だと良くわからないが、かん水を使っていないせいか細めの麺はかなり白っぽい。それでいてクシャクシャっと縮れているあたり、むかし岩手県宮古市の「中華そば多良福」で食べたラーメンにどこか似ていた


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世界的ユーフォロジストであるジャック・ヴァレの著作『マゴニアへのパスポート』の私家版翻訳本はこれまでも断続的に販売をしてきましたが、カバーナシにして質感を落とした分、若干値段を下げた「新装版」を印刷しました。

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1冊1700円(送料込み・前払い)。A5判・392ページ。こちらに申し込みページを置いておきますので通販ご希望のかたはメールフォームにご記入のうえ、お申し込みください。

【2019/07/26記】
その後、予定数が全部売れてしまいました。現在は通販しておりませんので悪しからす。ただし来月11日の夏コミには若干出しますので、ご興味のある方はそちらで是非。

【2019/08/12記】
で、夏コミで予定数完売になりました。ありがとうございました。





*以前印刷したものについて書評家の馬場秀和さんが書いた書評があるので、そこにも飛べるようにしておきますね

【補記】
なお或る方からご指摘頂いたのだが、リオン大司教アゴバルドが記録した「マゴニア」伝説のくだりで(私家版18頁)「corn」を「トウモロコシなどの産物」と訳しているのは明らかな誤訳です。ここは「穀物類」が正しいです。ごめんなさい(トウモロコシは9世紀には旧大陸にまだ到来しておりませんでした・・・)




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えーと、いつも愛読している朝日新聞の「アロハで猟師してみました」4回目がけさの朝刊に載っていた。例によって朝日のサイトではカネを払わんと全部読めない仕掛けになっているが、念のためリンクを貼っておこう。

閑話休題。前回狩猟でとらえた鹿を殺す話を書いたアロハ記者に対してオレは「こういう話はお茶の間の偽善者たちにはウケが悪く、おそらくは新聞社にもカワイソーとかいって抗議が殺到するのだが、そんなことで自粛しようとか毛頭考えず、平気で商業新聞のタブーに挑んだアロハ記者えらいぞ」といった意味のことを書いた

で、けさの新聞を読むと、「読者どん引き。遠くで、引き潮の音が聞こえる」などと書いているので、ヤッパリ馬鹿な読者から抗議がけっこうきたのだろう。にもかかわらず、今回の記事でも「そういうアホどもは読まないでどっかいっちまえシッシッ」ということを言っている。いや、正確にいうともう少しお上品で、次のような表現なのだが。

「そっちサイドはちょっと・・・・・・」という優しき読者様は、この辺で下の<ひととき>に移ってくださいとお願いしておく。また会いましょう。


というわけで、全くハンセーなどせず鹿を解体するシーンなどを描いている今回の記事は大変よろしい。



で、もうひとつ感心したところがある。さらに先のほうまで読んでいくと、こんなことを書いているのである。


スーパーでパック詰めされた食肉は、完全に漂白された命だ。都合の悪いところを不可視可して、わたしたちは安穏・便利な生活を送っている。その点、原発と似ている。


これもなかなか朝日新聞では吐けないセリフなのだ。なぜかというと、朝日新聞的視点からすると原発というのは絶対悪である。だがこのアロハ記者の語り口はそういう一刀両断の姿勢とはかなり違う。

東日本大震災のあと実質的に原発ゼロでどうにかこうにかやってきた時期もあったけれど、それまで都会の住民は実際にはどっか遠いところで操業している原発の電気をつかって安楽な生活をしてきた。「これって動物を誰かさんに殺してもらって自分は平気で肉くってる構造と似てるんじゃネ?」と言っているわけで、つまりここでは「動物を殺すこと≒原発」という図式が成り立っている。つまり「そうはいっても原発うごかさんとダメなんじゃないの?」という主張と読めないこともない。いや、そこまでは言ってないにしても、一方的に「悪」を仕立て上げる(朝日新聞的)思考からは一歩引いている。

いいねえ。この調子でガンガン攻めていっていただきたい。




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朝日新聞ではこのところ、日曜日の社会面に「窓」というタイトルをつけたコラムを載せている。いや、コラムというのはちょっと正確ではなくて、なんというか、「街で見聞きしたイイ話」を紹介するコーナーみたいなものである。

「窓」というと、1980年代、「黒田軍団」と呼ばれた読売新聞大阪社会部のメンメンが、読者と新聞とが交流する欄として設けた「窓」という欄をどうしたって連想する。なんかパクりっぽいような気がするが、まあしかし、黒田軍団はその活動が東京本社のエライ人たちに睨まれ、結局解体させられてしまったので、ライバル社としての朝日新聞が嫌がらせ的に「窓」という欄を作るのはアリだと思う。

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閑話休題。今朝の「窓」――具体的にいうと

返事は「なんちゃじゃあない」とびきり親切な集落

という見出しのついた記事なのだが、これを読んで「朝日新聞、ダメだなあ」と思った。

どういう話かというと、高知県のド田舎の村に引っ越した都会人の話である。最初はなんかちょっとよそよそしい。それでも徐々に距離は縮まっていって、ナニも言わずに農作業手伝ってくれるまでになった。一言でいうと、「田舎の人情、いいなあ」という話である。

*例によってこの記事、朝日新聞のサイトに行っても全部読ませてくれないのであるが、一応リンク先を貼っておくとココである*

で、何がダメなのか。やや遠回りにはなるが、説明してみたい。

オレ自身田舎の出身で、こういう土地の空気はそれなりにわかるので、たまにみかけるこういう田舎賛歌みたいな記事にはとても違和感を感じる。まず、大原則として押さえておかねばならないのは「田舎の社会はとても閉鎖的である」ということだ。

都会者が移住してきた。すると連中はまず「警戒」する。おかしなヤツじゃないのか。村の平穏を乱したりしないか。遠巻きに様子を見る。ずっと観察する。そんなにキケンじゃなさそうだ、となると、やや距離を縮めてくる。村の行事への参加を「許す」。野菜のお裾分けもしてあげよう。そうやって徐々に徐々に仲間として認めていく。「身内」になればもう分け隔てはない。そこまでいけば、もう「村人」である。

だがしかし、オレなんかからすると、こうやって村人が遠くから都会者をずーっと「観察」しているプロセスからして、なんだか気持ち悪い。人を勝手に品定めする。それからおもむろに受け入れるか否かを、これまた勝手に判断する。だから受け入れられればいいが、否認されたらそこでの暮らしは相当に難しいものになる。

田舎に引っ越した都会人が「ゴミ捨て場は町内会が管理している。よって町内会費を払わない新参者には使わせない」みたいな嫌がらせをうけるという話もよく聞くようになった。いや、これはまだそれなりの理屈が通るからいいのだが、田舎の人間の論理はかなり奇妙なもので、たとえばわかりやすいのは共産党員(笑)とかだと「あいつはアカだ。仲間には入れられん!」とかいって拒否されたりするのである。「このムラとしては、農道通してもらったから自民党の××先生の応援しないといかんなー」という世界である。

さて、ここで改めて朝日の記事を読んでみる。まぁ、この人の場合は受け入れてもらってヨカッタね、という話である。だがしかし、よく考えると朝日新聞というのは常日頃、保守的で閉鎖的で自民党の金城湯池だったりする田舎の「後進性」みたいなのを批判してきたのではなかったか。「個人の確立」みたいな近代主義的価値観に立って「個のない田舎の封建性」を叩いてきたのではないか。

そして、そういう「後進性」みたいな部分と、この記事が称揚するような「濃密な地域の絆」みたいなものは実は表裏一体なのである。それが今頃になって「田舎、いいな~」みたいな寝ぼけたことを書いている。田舎の風土を否定してきたこれまでの記事は何だったのか。朝日新聞は田舎に屈したのか。あるいは何も考えていないからこんなのを書けるのか。

田舎の論理に負けたなら「はい負けました」と書けばよい。何も考えずにこんな記事を書いてしまったのなら、ちょっと恥ずかしい。


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中野重治に「わたしは嘆かずにはいられない」という詩があって、もちろんそれは戦前の時代における左翼の立場からの体制批判であるわけだが、なんだかエライ人にみんながひれ伏しているような昨今の状況――それはまさに国家の最上層部からオレの仕事場の周囲5メートル圏にいたるまで場所を選ばないワケであるが――をみていると、これは別に昔の話じゃあないだろうが、という気もする。

これについてはなんか前も書いたような気がしないでもないが、以下、さわりの部分を貼っておく。自分の主張を支える文脈で「引用」するのであれば著作権法上も問題はないと聞くので(嗤)。

わたしは嘆きたくはない わたしは告発のために生まれたのでもない
しかし行く手がすべて嘆きの種であるかぎり
わたしは嘆かずにはいられない 告発せずにもいられない
よしやヒネクレモノとなるまでも
しかしわたしはいう わたしは決してヒネクレではないと


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