というわけでここンとこ続けてきたブログ連投もいよいよ力尽きまして、途絶してすまいまスた。
この間それほどカウンターも回らなンだし、これからは再びTwitterを主戦場に虚空に向けての独り言を続けたいと思います、ハイ(笑)
ゼネストや若者の反乱があった1968年5月のパリで執筆され、その翌年シカゴで刊行された『マゴニアへのパスポート』は、空飛ぶ円盤を信じる人たちと、彼らに懐疑的な立場をとって対立していた「合理主義者」たちとを糾合するという意図せざる効果をもたらした。両者はすぐさま一致団結し、即座にこの本を疑わしいシロモノだとして断ずる勢力を形作ったのである。彼らは、そのソースは不確かであるし、著者である私の論証もいいかげんなものだ、と言い募った。そこで紹介した目撃事例自体あまりに突拍子のないものだったせいか、UFO研究者の中には、ここで引用した事例は私が捏造したものではないかといって非難してくる人さえいた。
科学的研究への指向性をもつUFO研究者(その中には、少数ながら空軍やその他の機関で、名前こそ出せないものの枢要な地位にいた者もいた)にとってみると、空飛ぶ円盤の最初の目撃と原爆の誕生とが同時期にあったことは、UFOが地球外に起源をもっている可能性を補強するものだと思われた。科学はすでに、生命はこの宇宙のどこかに確実に存在していることを知っている。であれば、惑星間の宇宙旅行を成し遂げている或る文明が、地球での核爆発を探知し、その結果として警戒態勢を取り、地球を監視下に置くことを決めたのではないか? 「地球外生命体によるコンタクト」というイデオロギーは、1947年の「目撃ウエーブ」に続いて、1950年と52年にも、詳細な記録の残された一連の目撃事例が多数発生した(しかもその範囲は全世界に拡大していた)ことで、さらに力を増したようであった。
が、そうした現象を歴史的視点から解明しようという緻密な探究が行われるようになってみると、物事はそれほど簡単な話では済まなくなった。確かに現代における「空飛ぶ円盤」という呼称はアメリカの報道機関によって発明されたものなのだろうが、歴史をさかのぼれば、米国でも過去に同様のものは目撃されてきた。他とまじわらず、世の主流とは離れたところで研究に取り組んだニューヨークのチャールズ・フォートが発掘したところによれば、天文学者たちが奇妙なものを目撃して記録した事例は19世紀にまでさかのぼる。さらに、天体が不思議を示した話というのは、中世の記録者、さらにはローマ時代の歴史家の記録の中にも見て取れる。懐疑論者たちの色眼鏡やビリーバーたちの熱狂といったものに毒されず、虚心坦懐に事実をみることに徹する――それこそがなされるべきことだった。
1969年に最初に刊行された際、本書の評判はよくなかった。そのハードカバー版は5000部も売れなかったのではないか。「地球外からの訪問」という現下流行の仮説(その定式化にあたっては、私自身がそれ以前の2冊の本で手を貸していたのだ)があまりに確固たるものになっていたために、現代の目撃と私が発掘してきた歴史的な素材とを関係づけようという試みは、反逆行為として憤激を買ってしまったのである。「ヴァレは我を失っておかしくなってしまった!」。ある名高いUFO界の人物はこう言った。特に過去一世紀にわたる未解明の着陸事例を900例以上まとめた補遺のパートは、異端扱いされた。
『マゴニアへのパスポート』は、米国で無視され排斥された一方、ヨーロッパでは温かく迎えられた――ヨーロッパの読者というのは、或る文化のかたちを定位しようという際には、その歴史であるとか、フォークロアの重要性に大いに敬意を払うの人たちなのである。本書はすぐに英国で注目を集め、フランス語、スペイン語に訳され、ソ連では「地下出版物」に批評が掲載されたりもした。チャールズ・フォートをはじめとする、秘められた歴史の研究に取り組んだパイオニアを信奉する人たちは、私が記した事どもについてチェックをし、自らの発見をも付け加えてさらに議論を進めた。やがてペーパーバック版が刊行されたのだが、その頃までには読者の反応は好意的なものとなり、かつて批判を加えてきた者たちですらその立場を改めるようになったのだ。
歴史家によって記録された古代のストーリーと、UFOレポートという「現代のフォークロア」には関連がある――という本書の考え方に触発された研究者の間からは、目撃体験の本質とそのインパクトに関わる知をさらに深めていこうという、新たなる世代が登場してきた。もし空中に起こる現象は人類史を通じてずっと続いてきたことであって、しかもそこには現代のUFO搭乗員さながらに光る存在、空中に浮かぶ幽体めいたものと人間とのやりとりが伴っていたというなら、そこにはさらに大きな疑問が浮かんでくる。我々の文化・我々の信仰・我々の宗教に対して、こうしたイメージはどんな衝撃を及ぼすのか? それらは、我々がこの宇宙を理解する上で、どんな影響を及ぼし、刺激を与えてきたのか?
今日もなお、この問題の研究者で、UFO現象が1947年以前に報告されていたという考えを否定する人はいる。ある著名な作家は、古い事例が約200年前までさかのぼることは認めつつ、「それ以前にはなかった」と言い張った。何故なら「長い期間エイリアンがやってきていた」ということになると、アブダクションされて空を飛ぶ乗り物にのった人たちが語るような、「宇宙からの侵略は差し迫っている」という近年流行りの信仰を台無しにしてしまうから、というのだった。あるアブダクション説の主導者は、「明らかに出所の怪しげな」フォークロアを真面目に取り上げている者(つまり私のような人間ということだ)に悪罵を投げつけさえした。本書にはレファレンスを付している。だから読者諸兄は、我々の示したソースが説得力をもっているかどうか判断を下し、こうした批判に対してはご自分で意見を固めていっていただけば、と思っている。
本書に掲載した諸事件についての補遺は、従って、よくよく再吟味をする必要があろう。この間に現れた新たなる問いというのは実に幅広い領域にわたっており、だから私としては、読者諸兄にはインターネットに当たり、最新の「歴史的発見」を日々フォローされることをお勧めしたい。だがしかし、我々は少なくとも最初にあった問いには答えを出すことができた――実にUFO現象というものは、我々が文書でさかのぼって確認できた限りでは、ずっと我々とともにあったし、その現れは現代におけるそれととてもよく似たものだった。我々と「それ」とのかかわりの中で、UFOが一体何を意味しているか。それが我々にどんな影響を及ぼしているのか。それは、いまなお発見される日を待っている。
「ダークサイドミステリー」は、日本のアニメーション文化に多大な影響を受けて制作している番組であり、今回の京都アニメーションで起きた事件は、大変悲しく悔しく無念でなりません。
お亡くなりになられた方々とご家族に心から哀悼の意を表すとともに、負傷なされた方々の一日も早いご回復をお祈り申し上げます。
2019年7月19日
「ダークサイドミステリー」制作スタッフ一同
ウェストヴァージニアについて、インディアンたちは何か知っていたにちがいない。なにしろ彼らはこの土地を避けていたのだから。ヨーロッパ人がガラス玉や火酒や火薬を持ってやってくる以前、インディアン諸部族は北米大陸中に広がって、分割支配していた。(中略)それなのに地図上でただ一か所だけ、"無人地帯"と記された場所があるのだ。それがウェストヴァージニアなのである。(83p)
ウェストバージニア州はアメリカ国内では悪名が高いことで知られており、なかでも貧困ランキングでは毎年ワースト5に入るほどの常連です。また、世帯平均年収においてもアーカンソー州やミシシッピ州など南部の州と同様に全米で最低ランクと言われています。ウェストバージニア州では州民の4人にひとりは肥満体質とされており、全米で最も喫煙者が多い州としても知られています。さらに、他州では通じない独特な英語や単語が日常的に使われており、ウェストバージニア州の人たちはアメリカ国内で無教養な白人に対する侮辱的な言葉である「Hillbilly」と言われることもあります。ウェストバージニア州はバージニア州から独立した背景があり、アメリカでは東部のカントリーサイドと揶揄されることがあります。貧困で不健康な白人が多いイメージから侮辱的な見方をされてしまいがちですが、自然に溢れ人々の優しさが残る古き良きアメリカの姿が残っていることが特徴です。(サイト「公務員総研」より)
一九六六年三月、ある美人の主婦(本人の匿名希望により、ここではケリー夫人としておく)がポイントプレザントの学校付近に車を停めて子供たちを待っていると、信じられないような代物が低空に浮かんでいるのが目に入った。きらきら輝く金属的な円盤形物体で、校庭の真上に停まっている。縁の部分にドアみたいな割れ目が開いていて、その外に人が立っていた。戸口に立っているのではなく、その物体の外の空中に立っているのだ! 体に密着して銀色のコスチュームをまとい、これまた銀色の非常に長い髪を垂らしている。(66p)
学校の周辺には異常なほど多くの目撃例やいわゆるフォーティアン現象(論理的・科学的説明のつかぬ全事象をさす。超常現象研究の草分け、チャールズ・フォートの名にちなむ)が集中しているように見え、また目撃者中で最大の割合を占めるのは、七歳から一八歳までの学童や学生だからである。(220p)
天皇「侵略者のない世の中ニなれば武備ハ入らぬが侵略者が人間社会ニある以上軍隊ハ不得已必要だといふ事ハ残念ながら道理がある」田島宮内庁長官「その通りでありまするが憲法の手前そんな事ハいへませぬし最近の戦争で日本が侵略者といはれた計りの事ではあり、それは禁句であります」
アースライト仮説とテクトニクス・ストレス仮説
マイケル・パーシンガーとポール・デヴルーという二人の理論家は、地球物理学に基づいてアノマリー現象を説明しようという仮説をそれぞれ別個に編み出した。テクトニクス・ストレス仮説(略称TST)と呼ばれるパーシンガーの理論は、地殻内の歪み場が電磁電荷を生み出し、それがさらに光体を発生させたり幻覚を見せたりするというもので、その幻覚というのはエイリアンやその宇宙船、あるいは何らかの生物などといったポップカルチャーのイメージに源泉があるのだとする。この仮説の変種ともいうべきものが、デヴルーの「アースライト」概念である。
デブルーのアプローチがパーシンガーのそれと違っているのは、UFOの出現をもたらすモノとして、「圧電効果」ではなく「トリボルミネセンス」(注:鉱物の結晶などが摩擦することで光を生じる現象)をより有力な候補として挙げているところである。パーシンガーが、UFOのように見える光というのは地殻の運動があった場所から何百マイルも離れたところで観察されることがありうるとしているのに対し、デヴルーは一般論としてそのような効果が生じるのは断層線のすぐ近くに限られるとしている。
だが、総じてデヴルーの説というのは(パーシンガーに比較して)より過激な仮説となっている。彼の考えでは、アースライトというのは知性を有しており、目撃者の思考を「読み取る」ことができる可能性すらある。彼はこの仮想上のエネルギーについて「電磁気がよく知られていない形態で現れたもの・・・完全に未知の秩序に依ってたつもの・・・秘匿された力」などと語っており、そのエネルギーを社会に変革をもたらす「ニュー・エイジ」的なビジョンと関連づけている。デヴルーによれば、アースライトの研究には「人類社会の新たな時代をまるごと作り出すようなポテンシャルがある」「それは人類進化の上で重大な意義をもつもの、数多くの問題を前にした我々現代人を悩ませている(社会の)断片化を癒やす助けになってくれるかもしれないもの」だという。
パーシンガーの仮説は科学論文として刊行されたが、批判を浴びた。実証性という面ではその論拠は脆弱だったし、批判者たちは、パーシンガーは或る未解明のもの――すなわちUFOを別の未知のもので説明しようとしている、と言い立てた。彼らは、UFOや「モンスター」の目撃は地層の活動が活発でない場所で起きているとも主張した。クリス・ルトコフスキやグレッグ・ロングといった(パーシンガー説に)懐疑的な論者たちにしてみれば、TST効果やアースライトなどというものは、パーシンガーとデヴルーが示唆している途方もないモノを持ち出さずとも、球電、地震光、ウィルオウィスプ(注:鬼火の意)といった既知の自然現象として考えれば十分ということになる。
デヴルーのUFOを説明しようとする試みについて、ロングはこう記している。「<アースライト>についての様々な報告を注意深く研究してみれば、その光体のかたちは様々なものとして記録されている。そのことをデヴルーは理解していないのではないか。それだけではない。目撃報告によれば、そうした物体の形状は明らかに人工物だし、その動きは知性によってコントロールされたものであり、何らかの目的をもっているのは明らかだ。であれば、こうした物体をテクノロジーの産物である機械以外のものと考えることはできない。こうした事例で、エネルギーの塊だとかボールだとかの出現を示唆するものは全くない」。ルトコフスキはこう言っている。「光が一種の電磁気現象だという仮説を支持する状況証拠や観察結果もあることはあるが、そのようなエネルギーが本当に存在するのかどうかを実証的に判断するためには、さらなる研究が必要である」
パーシンガーは近年、UFOアブダクションの体験を「大脳側頭葉に電磁場が与えた影響が引き金となって生まれた幻覚」として説明しようと試みている。そこでパーシンガーが編み出した実験方法というのは、かぶった人間の大脳側頭葉に電磁波を浴びせることのできる「神のヘルメット」を用いたものである。たしかに多種多様な幻覚が生じた。しかしそれはパーシンガーの主張とは相反するもので、アブダクティーたちが報告したイメージと似たものはほとんど無かった。批判者たちはこう指摘している――被験者たちはアイソレーション・チェンバー(注:外部から隔絶された空間)に入れられたのだが、彼らの体験した幻覚というのは、これまで長いこと行われてきた感覚遮断実験で記録されてきた幻覚と良く似たものであった、と。言い換えれば、その幻覚というのはパーシンガーが考えた「ビジョンを生成する電磁気場」とは全く関係がなかった可能性がある。
いま私は日本の皆さん、日本を見守っている世界の人々に向かって冷厳な事実を告げなければなりません。日本はいま、まっしぐらに破局への道をたどっております。それは同時に全人類の終末にもつながるものでありましょう。この、燃えさかる文明の業火の中で、日本は、そして世界は本当に滅び去っていかなければならないのか。かつて地球上に覇を唱えながら滅亡していった動物たちと同じ運命をたどらなければならないのか。断じてそうあってはなりません。この、人間自らの手によって作り上げたもののために人間自らの命を絶つなどという愚かなことは、あってはならないのです。
我々政治家は長い間、皆さんにこう言い続けてきました。「我々を信頼し支持してくれ。必ずより良い、より豊かな生活をお約束します」と。そして、1億以上の人間がひしめくこの狭隘な日本列島に、驚くべき高度成長社会を築き上げて参りましたが、その上で得たものはいったい何であったか。恐るべき社会生活の破綻と、救いようのない精神の荒廃であります。しかも、我々は今日の欲望のために膨大な地球資源を乱費し、自然を破壊し続けて参りました。しかし、自然を破壊する前に、まず人間が破壊されるという、このあまりにも明白な事実を今日ようやくにして我々は学び取ることができました。その畏れを忘れていた我々政治家の傲慢さと愚かさを、ここに深くお詫びいたします。
しかし、今からでも決して遅くはないと思います。私は、たとい世界の終末が明日訪れようとも、なおかつ一本の苗木をこの大地に植え付けたい。我々に必要なのは勇気であります。今こそ全人類は物質文明の欲望に終止符を打たなければならない。さもなければ欲望が人間生存に終止符を打つであろう。この事実を正しく認識し、全世界の人々と一緒になって同じ窮乏生活に耐えてみせる。その勇気であります。見通しはあまりにも暗く、ほとんど絶望的ですらあります。しかし、この現実の中でこそ、本当に人間を愛し、人間を信じ、本当の意味の人間賛歌の歌声をあげることができるのではないでしょうか。のちの世代の人々をして「彼らは真に勇気ある人間であった」と語り継がれるため、我々は真の勇気をもって、今までの価値観を根底から覆し、人間生存の新しき戦いに出発しようではありませんか。政治だけではない、一人一人の人間の心の問題として、この最も苦難な戦いを全世界の人々とひとつになって戦い抜こうではありませんか。
アイルランドの妖精たちは、透き通った羽根ときらめく魔法の杖を持ち、抜け落ちた歯を枕の下に取っておく子どもたちに優しくお金を置いてくれる可愛い小さな生き物だとまだ思いたがっている人がいたら、この最後の話はそんな感情を払拭してくれるだろう。この話が伝えるメッセージは、直截的で、明確で、詳細には身の毛がよだつ。知ったかぶりをして妖精の持ち物にちょっかいを出す人は、どういう結果になるかを覚悟しなくてはならない。