原発問題などもあり「こいつは辛抱たまらン、俺は外国に逃げ出すぞ」という方もチラホラ現れてきた今日このごろである――というのはウソでそんなヤツはそうそういないのだが、じっさいよく考えると、大富豪ならともかく、一介のサラリーマンである俺などはそうそう海外脱出などできないのだった。

「会社やめてどっか物価の安い途上国に行って貯金取り崩しつつ生活する」というのは、まだ小さいガキがいるので無理である。悠々自適の年金生活にはいっているイマドキの年寄りならともかく、まだそこまでいってない俺などはそのうちカネがなくなって困窮するのは目に見えているのだった。

外国に出てもソコソコ稼げるだけの才覚がないと、日本脱出といっても話にはならん。ということでちょっと考えてみることにした。グローバル時代にあって俺にはそんな商品価値があるのか。



まず困ったことがある。英語である。イマドキどんな国に行くにしても、日常生活はもちろんビジネス面でもコレができんと話にならんだろう。逆にいえば英語がわかれば何とかなる、ような気がしないでもない。しかし、文章読むだけならまぁどうにかこうにかなるかもしれんが、俺は基本的にしゃべれんし、日本人がしゃべる英語以外は聞き取れないのだった(笑)。これは初手から大きなハンデである。

ならば何か特殊技能はあるのか。ふーむ。ない。アマチュア無線技士(電話級)。自動車運転免許。中学時代にとった英検3級(失笑)。なんかダメだね。これじゃ。お話にならんわ。

なんか手に職があるかというと、これもないのだった。スシが握れるとか空手有段者とか禅宗の坊主である、とかだったら、外国人を騙してなんか日銭をかせぐことができるかもしらんが、そういうのもないのだった。そういや、むかし尺八習ってたことがあるんだがアレもすぐに止めちまったなぁ。アレ続けてたらストリートパフォーマーにでもなれたかな。いや、そんなニーズはねえだろうな。

ちなみに俺はメディア関係の仕事をしてるんだが、日本のメディアというのはご承知のように、言語障壁に守られていて「外圧」から保護されてきたのである。しかし「日本語を使ってなんかやる」というのはこの島国から一歩外に出てみれば、ほとんど汎用性のないスキルなのであった。



いや、そもそも日本の会社員は、キホン「特定の会社の中でしか通用しない技能」しかもっていないのだった(少なくとも過去ウン十年の話でいえば)。あるいは「昭和30年代に東京・下町地区でオート三輪のセールスをさせたらピカイチ」みたいな、特定の場所・時間であればスゲー活躍できる人間はけっこういたんだろうが、これから求められるグローバル時代の人材には、おそらく「いつでも」「どこでも」「規定のスペック通りに結果をだせる」みたいな才能が必要なのである。たぶん。

そういや東大の藤本隆宏先生なんかも、製造業には「すり合わせ型」と「組み合わせ型」があって、日本人は「すり合わせ型」が得意なんだ、なんて議論をしていたけど、そのあたり、なんか似たような話のような気もしてくるんだな。

つまり、自動車なんかだとわかりやすいんだが、全体がバランスよく機能するように個々の部品をすり合わせて、調整しあいながらモノを作ってく、そういうのが「すり合わせ型」だ。これに対して、たとえばPCなんかがそうなんだが、一定の規格を満たす部品なら、別に互いに「すり合わせ」なんかしなくてもいい、何をもってきてもいい、そういう思想で作るのが「組み合わせ型」である、と(もちろん、安い部品ばっかりかきあつめてPCを組み立てたりすると「相性問題」といったトラブルも発生するんで、そこは微妙な部分もあるけれども)。

で、こっから先は俺の妄想なンだが、なんか最近、時代そのものが「組み合わせ型」の思想に流れているんじゃないか。つまりは「TOEFL何点以上。MBAもってること。話はそれからだ」みたいな流れになってきてて、人間じたい、そういう一定の「品質保証」があるヤツ、つまりは汎用性が高いヤツじゃないと、ちょっとグローバル社会のなかではどうしようもないよネ、ということになってきてるんではないか。



いやいや、ついつい大きく脱線してしまった。話を元に戻そう。そういうわけで俺にあと残ったのは肉体労働一択か。しかし寄る年波で、俺などはもはやそういう仕事をさせても使い物にならんであろう。

結論。哀しいことにグローバルな労働市場における俺の商品価値は「ゼロ」に近いことがわかった。原発が爆発しようとも、俺はこの国で、この社会で生きていくしかないのだった。そりゃまぁネ、最初からうすうす気づいてたことではあるんだけど。

というわけで、みなさん、今後とも仲良くしてください(と、急に低姿勢になるw)。