俺は今回の原発事故にかんして、最初、これまで積極的に原発を止めようとしてこなかったあらゆる人々(それは当然俺を含む)に応分の責任はあると考えていた。確かに原発を推進してきた連中に「欺されていた」という言い方はできるのかもしれない。が、一方には「やはりあの技術は危険である」と必死に説いて回っていた高木仁三郎みたいな人々もいたのだ。彼らの言葉を真剣に受け止めず、「問題はあっても、まぁどうにかこうにか事故は起こさずにやっていくんだろうサ」とたかをくくっていた人間にはやはり責任があるはずだ、と思った。

その報いはやはり受けなければなるまい。たとえば人工放射線の年間被曝量を安全圏といわれている1mSvに抑え込みたい、といった考え方は、今となってはいささか厚かましいと思ってきた。もちろんそのような「選択」に一切かかわってこなかった者たち――たとえば子供たちに罪はない。彼らがそのような被曝を甘んじて受けねばならない筋合いは全くない。政府・自治体は一刻も早く、子供たちの安全を確保しなければならないと思う(もちろんそれが絶対的安全などというものではなく、相対的な安全でしかありえないのはとても悲しいことである)。ただ、心の底には「少なくとも俺のような人間に、東電を悪の権化のように罵る権利があるか」といった、どこか醒めた思いがあったのだった。

しかし。何か違うのではないか、という思いがいつからか心中に兆してきた。きっかけは何だったのだろう? 東電の重役が給与の半分を辞退すると言いだし、それでもなお彼らは年間3000万だかのカネを手にするのだ、という話を聞いたときだったのかもしれない。それはあまりにも分りやすい絵図だったから。ともかく、やがて「やはり原発はなくすわけにはいかない」といった議論が、最初はおずおずと、そして徐々に声高に語られるようになった。政界から、経済界から、メディアから。

8万人とも言われる人々が故郷から引き離され、流浪の生活を強いられている。このたびの原発事故の検証もまだ緒についたばかり。何も終わってはいない。なのに、なぜそう先を急ぐのか。彼らの言いぐさはこうだ。曰く、「日本には原発のような安定した電力源がなんとしても必要だ」「原発が稼働できなければ電力料金は値上げ必至である。そうすれば企業は国外に脱出するしかない」「原発がなくなれば多くの人たちが路頭に迷ってしまうであろう」

こういう言葉を聞いていて、俺は思ったのだった。俺たちは「これまでの自分」を反省すべきだ。が、ともに深く反省してほしい「彼ら」は、実はなんにも反省していなかった! これは怒らねばならないことだ。放射性物質で国土を汚し、数十年、いや今後の展開次第ではあるいは数百年先までのわれわれの暮らしを脅かしてしまったことについて、彼らは「畏れ」など微塵も抱いていない。結局、考えているのは「カネ」のことだけだった! その論理で恫喝すれば大衆はまたあとをゾロゾロついてくる、といまだに考えているのだ!

冗談じゃない。確かに俺みたいにとりたてて何の才能もない人間は、村上春樹みたいに海外の別荘渡り歩いて好きなこといってそれで恙なく食ってけるような才覚は全くないんで、こうやって恫喝されたら返す言葉がない(注:偶然ここに迷い込んだ方は、なぜここで村上春樹が出てくるかわからんと思うのだが、その辺はココを読んでいただければ)。それはそうなんだ。ふだんなら黙りこむしかない。でも、もはやコトは人間の尊厳にかかわることなンだ。

ひょっとして俺たちはビンボーになってしまうのかもしれない。でも彼らの論理は、話の順序が逆じゃないか。食べ物に不安がある。公園のベンチに座って、その辺を転げ回って遊ぶ子供を目で追うような喜びも味わえない。平穏に生きる生活の基盤が壊されつつある。それは決定的にマズイことじゃないのか。そういう不安をとりあえず払拭できる方向に物事を運ぶ。それが始まりであるべきじゃないのか。それより何よりカネ、でいいのか。

とまぁ、そんなことを考えはじめるきっかけを与えてくれたものが、あるといえばあったのだ。たとえばそれは文化人類学者・上田紀行の著書「慈悲の怒り」であり、作家・丸山健二のツイッターであった。(つづく)