『慈悲の怒り』という本を書いた上田紀行は、ちょっと風変わりな文化人類学者だ。
この人、若い頃、スリランカにフィールドワークに行って「悪魔払い」の研究をした。田舎のムラの話なんだが、そういうところでは時折「悪魔」に憑かれる人がでてくる。で、どうやら悪魔は孤独な人に憑くらしい。だからそういう時、村人は悪魔払いの儀式をおっぱじめる。みんなで集まってドンチャン騒ぎ。たぶんそれは「お祭り」みたいなノリなんだが、あれこれ騒いでるうちに悪魔は去って、憑かれた人も元気になる。
たぶん、こういうところでは誰もが人間の弱さを知っている。誰もが孤独になって、病んでしまうことはある。でもそういう人間を救い出す作法を彼らは知っているし、実際にそうやって救い出す。人間の社会に本来ビルトインされている筈の、そんな知恵を俺たちも大事にしていこうよ――彼の言いたかったのはたぶんそういうことだったんだろうと思う。
処女作にはその人のすべてが現れるという説があるけれども、確かに彼の『スリランカの悪魔祓い』という本には、彼の基本的な問題意識がよくあらわれているようだ。年間3万人も自殺者が出てしまう国。「人間は取り換えがきく存在だ」と若者たちに思わせてしまう社会。そんなんでいいのかい? みんな悩んでるんじゃないの? ひょっとしたら、これって宗教者の出番じゃないの? 何とかしようよ! 彼はそんな議論をずっと続けてきた。そうそう、この人、「癒やし」というコトバを世の中に広めたことでも知られている。
で、この人が最近よく言っているのは、「人間って怒るべきときには怒らないといけないよね」という話なのだ。この世の中、明らかにおかしいことがある。そういう時には怒らないといかんだろう。というわけで彼は、あのダライ・ラマ14世と対談したときにそんな疑問をぶつけたのだが、さすがダライ・ラマ、「たしかに慈悲にもとづく怒りは大事だよねー」、そういうコトバが返ってきたのだった。
偉い坊さんとかは「そうそう怒りなさんな。そういうのは人間ができてない証拠じゃ」とか説教しそうなイメージがあるんだが、公然と不正がまかり通っているような時は「それはイカン」といって怒れ、というのだった。
そういう流れの上で、彼は今回、『慈悲の怒り』という本を書いた。原発の現場で命がけで働いているような人たちには応援を送るべきだが、しかし人間のいのちをどうも軽視しているとしかみえない東電首脳部とか政府とかに対しては、「こりゃ怒らんとイカン」と説く。しかも特定の「ひと」というんでなく、その「行い」、あるいは俺に言わせれば「構造」をこそ問題にしろ、というのだな。なるほどその通りだ、と思ったのだった。
ちょっと話は脇道にそれるんだが、そういえばこの前、釜ケ崎で活動している本田哲郎という神父が書いた『聖書を発見する』という本を読んだンだが、この人も日雇い人夫とか非常に苦しい生活を送っている人々と日々接しながら生きているわけで、やっぱり明らかにオカシイ不正とかには戦わないとイカンだろ、イエスの教えは本来そういうものなのだ、みたいな主張をしていた。ま、この人、カトリックの偉い人たちからは睨まれているらしいんだが、このときもなるほどぁと思ったナァ。
宗教というと、世間的には「こころの平和を説くもの」「社会を安定させるもの」みたいなイメージが強いんだろうが、宗教社会学の知見を俟つまでもなく、宗教は時に社会を変革していくパワーの源にもなりうるわけで、そう考えると「ケンカ上等」という局面もあって然るべきなのである。特に不正を糺すという大義がある限りは。
閑話休題。そうこうしているうちに、作家の丸山健二のツイッターに出会った。文壇のなれ合いを嫌って信州・安曇野(というか実際は大町のほうらしく、安曇野出身の俺としては安曇野というなよ、という思いはあるんだが)に一人こもり、創作に打ち込んでいる孤高の人。そのつぶやきを読んでみると、いちいち心に響いた。
俺のような小者は渡世の義理やら何やらで、なかなかこうはできない、こうは言えない。しかし、そうやって譲歩に譲歩を重ねた結果が、今日の「フクシマ」を招いたのだとすれば、どうか。これは俺も俺なりに怒りの刃を振るわねばなるまい、それがたとえこんなショボいブログの中でふるう蟷螂の斧でしかないとしても。そんなことを俺はいま考えている。(完)
この人、若い頃、スリランカにフィールドワークに行って「悪魔払い」の研究をした。田舎のムラの話なんだが、そういうところでは時折「悪魔」に憑かれる人がでてくる。で、どうやら悪魔は孤独な人に憑くらしい。だからそういう時、村人は悪魔払いの儀式をおっぱじめる。みんなで集まってドンチャン騒ぎ。たぶんそれは「お祭り」みたいなノリなんだが、あれこれ騒いでるうちに悪魔は去って、憑かれた人も元気になる。
たぶん、こういうところでは誰もが人間の弱さを知っている。誰もが孤独になって、病んでしまうことはある。でもそういう人間を救い出す作法を彼らは知っているし、実際にそうやって救い出す。人間の社会に本来ビルトインされている筈の、そんな知恵を俺たちも大事にしていこうよ――彼の言いたかったのはたぶんそういうことだったんだろうと思う。
処女作にはその人のすべてが現れるという説があるけれども、確かに彼の『スリランカの悪魔祓い』という本には、彼の基本的な問題意識がよくあらわれているようだ。年間3万人も自殺者が出てしまう国。「人間は取り換えがきく存在だ」と若者たちに思わせてしまう社会。そんなんでいいのかい? みんな悩んでるんじゃないの? ひょっとしたら、これって宗教者の出番じゃないの? 何とかしようよ! 彼はそんな議論をずっと続けてきた。そうそう、この人、「癒やし」というコトバを世の中に広めたことでも知られている。
で、この人が最近よく言っているのは、「人間って怒るべきときには怒らないといけないよね」という話なのだ。この世の中、明らかにおかしいことがある。そういう時には怒らないといかんだろう。というわけで彼は、あのダライ・ラマ14世と対談したときにそんな疑問をぶつけたのだが、さすがダライ・ラマ、「たしかに慈悲にもとづく怒りは大事だよねー」、そういうコトバが返ってきたのだった。
偉い坊さんとかは「そうそう怒りなさんな。そういうのは人間ができてない証拠じゃ」とか説教しそうなイメージがあるんだが、公然と不正がまかり通っているような時は「それはイカン」といって怒れ、というのだった。
そういう流れの上で、彼は今回、『慈悲の怒り』という本を書いた。原発の現場で命がけで働いているような人たちには応援を送るべきだが、しかし人間のいのちをどうも軽視しているとしかみえない東電首脳部とか政府とかに対しては、「こりゃ怒らんとイカン」と説く。しかも特定の「ひと」というんでなく、その「行い」、あるいは俺に言わせれば「構造」をこそ問題にしろ、というのだな。なるほどその通りだ、と思ったのだった。
ちょっと話は脇道にそれるんだが、そういえばこの前、釜ケ崎で活動している本田哲郎という神父が書いた『聖書を発見する』という本を読んだンだが、この人も日雇い人夫とか非常に苦しい生活を送っている人々と日々接しながら生きているわけで、やっぱり明らかにオカシイ不正とかには戦わないとイカンだろ、イエスの教えは本来そういうものなのだ、みたいな主張をしていた。ま、この人、カトリックの偉い人たちからは睨まれているらしいんだが、このときもなるほどぁと思ったナァ。
宗教というと、世間的には「こころの平和を説くもの」「社会を安定させるもの」みたいなイメージが強いんだろうが、宗教社会学の知見を俟つまでもなく、宗教は時に社会を変革していくパワーの源にもなりうるわけで、そう考えると「ケンカ上等」という局面もあって然るべきなのである。特に不正を糺すという大義がある限りは。
閑話休題。そうこうしているうちに、作家の丸山健二のツイッターに出会った。文壇のなれ合いを嫌って信州・安曇野(というか実際は大町のほうらしく、安曇野出身の俺としては安曇野というなよ、という思いはあるんだが)に一人こもり、創作に打ち込んでいる孤高の人。そのつぶやきを読んでみると、いちいち心に響いた。
金さえ入ってくれば、原発であろうが軍事基地であろうが受け容れてしまうという生き方から派生する悲劇の数々。企業にたかり、国家にたかって生きることを自立した人生よりも優先させてしまうという堕落した精神。そして最も恐ろしいのは、かれらにそれ以外の選択肢がないと思い込ませる洗脳の力。
資本家とその手先である為政者たちは、国民を欺き、利用し、蔑ろにしているばかりか、この程度の知恵しか回らない、この程度の怒りしか覚えない、この程度の根性しかない連中など御しやすいものだと、そう高をくくっている。さもなければ、この期に及んであれほど厚かましく振る舞えるはずがない。
牛や豚や鶏のように、肉にされる運命をおとなしく受け容れる手はない。我々は人間であって、家畜ではない。やられっぱなしで死んでゆくことはない。徒死を迎える前に、せめて自分が人間であったことを知らしめようではないか。神妙な顔の裏であざ笑っている輩に一矢を報いてやろうではないか。
俺のような小者は渡世の義理やら何やらで、なかなかこうはできない、こうは言えない。しかし、そうやって譲歩に譲歩を重ねた結果が、今日の「フクシマ」を招いたのだとすれば、どうか。これは俺も俺なりに怒りの刃を振るわねばなるまい、それがたとえこんなショボいブログの中でふるう蟷螂の斧でしかないとしても。そんなことを俺はいま考えている。(完)
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