人間は「個人―中間団体―国家」みたいな3層構造の中で生きている、というのはよく言われる話である。この中間団体というのは、まぁ平たくいえば「共同体」みたいなもので、地域共同体もあれば会社組織みたいなものもある。

で、日本にあっては、かつてはムラ組織みたいな共同体の中で人は暮らしていたんだが、やがてそんな共同体はバラバラになっていって、同時に擬似共同体としての「企業」に人々はアイデンティティを見出していくようになった。ところが、いまや「企業」も従業員にたいして「もう終身雇用なんてやってらんねーよ。業績が左前になったらクビにさせてもらうからな」と言い出すようになったもんだから、われわれ庶民はじかに「国家」とか「世界」に対峙しなけりゃならなくなった。グローバリズムの時代、きびしいぜ、というのが大きな流れである。

いまさら何でそんな話をしているのかというと、佐々木俊尚氏のツイッターで紹介されていたブログ「デマこいてんじゃねえ!」を読んでいたら、ちょうどその辺の議論がなされていたからである。

もちろん「だから昔は良かった」という話にはなっていない。よく考えりゃ、俺たちは「ムラ」の住民が相互監視しあっていて、つまりは人が車を買ったといってはコソコソ、家を買ったといってはコソコソ、ヨメをもらったといってはコソコソうわさ話をする、という田舎の地縁ガンジガラメワールドがとことんイヤになってきたから、田舎の「共同体」を捨ててきたンである。

で、代わりにたどり着いた「企業」という名の共同体にしたって、「社員の面倒をいっさいがっさいみてくれる」といやぁ格好はいいが、社宅の中で偉いサンの奥さんが威張りちらすとか、「会社の運動会、全員参加だからネ」とか、そういうべたついた関係の負の側面は確かにあったわけで、「もう社畜はこりごりだ!」と叫んでいた俺たちも確かにいたのである。会社の側から「縁切り」されるまえに、心理的には俺たちのほうから縁なんか切ってやりてェと思っていたフシもある。

で、先のブログでも「じゃあこれから俺たちはどんな共同体を作っていけるんだろうか」という問題提起がなされていて、たとえばSNSとかはどうなんだろう、みたいなことを論じているのだが、これ、難しい問題である。

もう昔には帰れない。でも行き場は見えない。でもなー、「もうこんなムラいやだ」「こんな会社たくさんだ」とかいって、俺たちは荒れ地に向かい、ひとり歩き出したんではなかったか。いまさら「この孤独は辛いぜ」はないんじゃねーか、という気がしないでもない。孤独に歩むことを俺たちは選び取ったのではなかったのか。共同体なんかいらねぇ。どこかでそう言ってみたい俺がいる。「そりゃお前さんがまだ、こっそり逃げ道を用意してるからサ」とか言われそうな気もするけれど。