吉本隆明が死んで、各メディアはけっこうな騒ぎようである。まぁオレなども学生時代、ワケもわからんのに角川文庫の「共同幻想論」など一生懸命読んでいたクチであるから大きなことは言えんが、なにせヘソマガリな性分である、みんな「偉かった~偉かった~」言い出すと、「いや、それほどでもねーだろ」と言いたくなる。

別にそう熱心に彼の仕事をフォローしてきたわけじゃねーし、うろ覚えでイロイロ書くのも如何かという気もするが、まあいいや、ちょっと酔った勢いもあるんで、何となくの印象論にはなっちまうが、吉本に難癖をつけさせていただく。

なぜ彼はこんなにも注目されてきたのか。まぁ伏線としては、彼の「下町の船大工の息子である」という出自があるンだろう。で、そんな男が戦後、既成の左翼・知識人への異議申し立てをしたことで一躍注目を浴びるわけである。共産党だろうが丸山真男だろうが容赦なく、「オマエラな、えらそうなこといってるけど全然大衆がわかってねーじゃねーか」というのである。「転向論」とかで、そういう議論をした。

確かに新左翼とかが出てくる迄は、サヨクっつーとまずは共産党であって、連中はずっと「オレたちは前衛だ」とか何とか偉そうなこと抜かして、いわば「大衆よ、あとに続け」みたいなゴーマンなことを口走っていたのである。丸山真男あたりの進歩的知識人だって五十歩百歩。大学紛争のときに研究室を荒らされて、なんて「野蛮な連中だ~」みたいな貴族趣味丸出しの発言をして失笑をかったという話は有名だ。

オマエラは大衆=イコールバカとか思ってるかもしんねーけどよ、オレたちにはオレたちの現実ってものがあって、そいつも知らねーで革命だと? ちゃんちゃらおかしーぜ――そんな風に彼はインテリ左翼に向かって啖呵を切ったのである(繰り返すがこれはオレの吉本理解である)。

インテリ左翼は、そもそも「めぐまれない一般大衆のために、オレ頑張っちゃうぞ」みたいな気持ちで活動していたのである。それを、当の大衆の側から「ゴーマンかますんじゃねー!」と反撃されたわけだから、もう青菜に塩なのである。それも「インテリの抽象的言語」を縦横に駆使しての議論であって、つまり自分たちの土俵の上で、自分たちのルールに従ってなお道場破りされたようなものであるから、この時点でインテリ側はもう圧倒されっぱなしだったのである。

で、よく考えてみると、吉本はこのあとも、ず~っとこの論理で戦ってきたのである。「あのさー、大衆の側からいわせてもらうけどさー、それちょっとおかしくネ?」である。で、上に述べたように言論界の主軸を担ってきた左派系インテリは、こういう出方をされると弱いのである。ごめんなさい、なのである。結果、吉本→無敵の論客みたいなイメージができてしまったのだろう。

というわけで、つまりインテリ左派からすりゃ「こいつは一級の思想家だ」とか何とか、VIP扱いされるわけで、まぁここ数十年は進歩派も凋落してきたからナンだが、かつては「思想界」とか「論壇」とかいう世界を牛耳ってたのは左翼だったからね、そういう一目置かれた栄光の過去があったからこそ、今ンなっても「あの人はすごかった!」とかいって、こんな大騒ぎするんじゃねーか。ま、過去の遺産ってやつで。

でもさー、そうやって「大衆の側に信を置く」吉本さんの主張が何か生み出したんだろうかね、と思うわけである。「コム・デ・ギャルソン論争」というのがあって、つまり吉本がコム・デ・ギャルソンの服きて何か広告出てチャラチャラしてたら、埴谷雄高に批判された、みたいな話なんだが、吉本は「いや、こういうチャラチャラした服を一般大衆が着られるようになったというのはとても良いことなんだ、高度消費社会の中で大衆はいまや主人公の地位を得ることになったんだよ」(何度もスマンが、これもオレ的吉本理解に過ぎないので念のため)みたいなことを言ったのである。

つまりナンだ、「資本主義に踊らされてけしからん」みたいな反応は、埴谷オマエ古すぎるよ、現にこうやって大衆がチャラチャラできる世の中が来たのは良いことなんだ、といってるのである。まー、そこに一面の真理がないこともないとは思うんだが、オレがここで言いたいのは、そんな大衆べったりでいいのかよ、ということなのだった。なんか「大衆」っつーだけで大甘の態度をとるのは如何なものか。それで、いま思うと、そうやって甘やかしてきた大衆が今なにやってるかっつーと、「郵便局をつぶせば良くなる」とか「公務員を鍛え直せば社会は良くなる」だとか、何かもう戦前から全然変わんねー幼稚なことやってて、日本じたいワケわかんなくなっちまったじゃねーかということなのである。

大衆を錦の御旗にして人にケンカ売るのは上手だったけど、じゃあその大衆とやらに何か建設的な提言でもしていただけましたかね、ってな話だ。

ちょいと脱線するが、一方で彼はある種の思想書みたいなものを書く仕事もしてて、つまり先にいった「共同幻想論」とか「心的現象論序説」みたいなもののことを言ってるわけだが、確かに「共同幻想論」というのは面白かった。面白かったんだが、しかし結局あれが何を言っていたかというと、たとえば「政府」といった社会組織は「在る」ことが疑うべくもなく、堅牢なる実在物とみなされているわけだが、よくよく考えるとああいうものは究極的にはコトバに由来する空中楼閣みたいなものであって、つまりは幻想である、よってお前さんたちも、あんまり怖がるこたぁない、幻想なんだからどうにだってできんだよ、的なアジテーションだったのである(しつこいがオレ的解釈であるw)。

でもさー、金持ちとかが「人生にはお金で買えないものがある」とか言ってるわきで、大衆=貧乏人が「カネカネカネカネカネ」とか言ってる光景ってのはオレたちもよく見てるわけで、つまり、カネっていう、これまた幻想の最たるものに縛られるのはむしろ大衆だろうよ。そういうアジはなかなか届かないんだよ。言論人としてはリッパなのかもしれないが、届かないコトバなんだよ。だいたい難しすぎるし(笑)。

そもそも「大衆ってのはさー」とか言って、あたかも大衆代表みたいな顔で出ていっても、かしこまるのはサヨクだけで、右翼は平気の平左なのである。「それで?」って。「大衆がいろいろ考えてるのはわかった、わかった。もういいから引っ込んでて。あとはオレたち支配階級がうまいことやってやるから」。のれんに腕押しである。

結果、右派の権力側の人たちには全然OKの安全な人で終わったのである。そういう仕事って壮大なガス抜きだったんじゃネ、トリックスター的役回りしてきた人をそんなに持ち上げてどうすんのヨという気持ちはどうしても拭えない。でもまあ、確かにユニークで希有な人だったんだろう。そこは認めるよ。合掌。