昨日の天声人語は、また胸が悪くなるような独特の臭みがある最低の出来であった。まずはお読みいただこう(そのうちリンクが切れるだろうが、いちおうのお約束。ネット版はコチラ)。

 「ばからしい」と書きかけて「空しい」にしたことがある。書き写しを思ってのことだ。流し読みならまだしも、「ばか」と書いてもらうのは心苦しい。多くの方に筆写していただくお陰で、生来がさつな言葉遣いがいくらかマシになった気がする▼毎度の手前みそながら、昨年春に売り出された「天声人語書き写しノート」が累計100万冊に達したという。うれしい前に恐れ多い。人様に写させるレベルかと、自問の日々である▼北九州市立高校では、現代社会などの勉強に使っているそうだ。新聞を読む習慣がなく、小欄とは初対面の生徒さんも多い。慣れないコラム文の書き写しは苦痛だろうが、今春の卒業生は銘々3冊を「完写」してくれた▼集中力がついた、縦書きの字がきれいになった、社会への関心が高まったと、うれしい感想も届いた。「毎日よく続きますね」という問いは、皆さんにそのままお返ししよう。書くのも写すのも、一つ仕上げたら一つ腕が上がる▼よくある質問に「黒い逆三角形は何?」がある。段落を示す記号である。誰が決めたか逆三角が小欄の習いだが、ただの印だからたまにはルール違反を許してもらおう。ご愛読、ご愛写への深謝を込めて♥冒頭の空白を含め603字。短いとはいえ、写される文の大先輩、般若心経の倍はある。写経なみの御利益は請け負えないが、末永く続けていただけば某かの貢献、例えるなら小さなハートマークほどの「お返し」はできるかと思う。ご精進ください。

 

「天声人語書き写しノート」の宣伝である。書き写しを毎日するといろいろな効用がある、といいたいらしい。「人様に写させるレベルかと、自問の日々」といちおうは書いている。が、どうやらこれはホンネではないらしく、そのあとはもっぱら自画自賛。「書くのも写すのも、一つ仕上げたら一つ腕が上がる」「末永く続けていただけば某かの貢献、例えるなら小さなハートマークほどの「お返し」はできる」と自分で言っている。やんぬるかな(笑)。

で、どんな効用があるのかというと、これまた恥ずかしげもなく自分で書いているぞ(微苦笑)。

「集中力がついた」
「縦書きの字がきれいになった」
「社会への関心が高まった」

まぁ確かにこんな臭みのある文章を筆写するなどというのはおのれを空しうして集中しないとバカバカしくてやってられないから、「集中力がつく」というのには一理あるのかもしれぬ。内容はともかく、ひたすら文字を書き続ければ字がキレイになる可能性も否定はしない。

ただなぁ、「社会への関心が高まった」というのは如何なものか。これは何度も書いていることであるが、悪しき貴族主義に毒された「インテリ」が下衆な大衆に向かってご高説をのたまうというのが天声人語の基本的スタンスであって、そのバイアスまみれのご高説に「なるほど現代の社会はこういうことになってるのか」と感心している奴がいたとしたら、端的にいってバカである。

ああそれなのにそれなのに。「写経なみの御利益は請け負えないが」とか再びこざかしいエクスキューズをマクラに振っているとはいえ、言うに事欠いて「般若心経」を引き合いに出すとはどういうことか! この罰当たりめが! こんな駄文を般若心経と同じ土俵で比べる神経はもはや常軌を逸しているぞ。

このコラム、確か2人で交代で書いてる筈なので同一人物かどうかはしらんが、以前「クリスマス=どんちゃん騒ぎするお祭り」みたいな低レベルなことを書いていたこともあったし、宗教への根本的な無理解が目に余る。ある意味で写経をバカにしきっている。いや個人的にそういう意見をもつのはいいが、新聞が天下の公器であるのなら書きようもあるではないか? 誰も注意しないのだろうか?


まぁしかし「善意」で考えてみようか。こんな駄文をいくら書き写したってバカはバカのままなのである。いわば「イワシの頭も信心から」。「それでもやりたければおやんなさい宗教とおんなじだから」というワケで、あえて天声人語をお経と並べているのではないか? 「おい、おまえ天声人語書いてくれよ」とか偉い人に命令されて「えー? あんなもの書かないといかんのかー」と思いつつ、そうは言えないので、メタレベルでこのコラムのアホらしさを指摘している高級なレトリックとも読めるので、もうそうだったら、ふむ、このコラム子、ここにきてホントに「腕を上げた」のかもしれんぞ(笑)。