久米晶文『「異端」の伝道者 酒井勝軍』を読了。

面白かったのだが、う~ん、何か複雑な思いが去来する本であった。

オレは半端なオカルトファンなので、酒井勝軍という人物については、これまではきわめて断片的なことしか知らなかった(たぶんそうした情報は「ムー」みたいな商業雑誌で読んだのだろう。よく覚えてないが)。

もともとキリスト者ではあったらしいんだが、戦前の日本で日ユ同祖論(日本人とユダヤ人は祖先を同じくしている、というアレですな)をぶったり、何か「日本にもピラミッドはあった」とかいって全国回ったり、つまりはオカルト界隈でいろいろ話題を提供していたアブナイジジイ、みたいなステレオタイプの印象しかなかったのである。

が、今般、その本格的な評伝が出たというので買った。それが本書。読んでみると、ふむ、ナゾ多きこの人物の半生がなるほどそういうことだったのか、と見えてくる。

山形は上山の産。没落した士族の裔で、苦学して今の東北学院大に進む。米国留学も果たし、帰国後は賛美歌による宣教運動なんかでそこそこ名を売るンだが、やがて著述家としての活動も開始。例の「竹内文書」に出会ったりして、最終的に「超古代、日本は世界の文明の中心地であった!」「モーゼやイエスも日本に来て天皇家の感化を受けて帰っていったのだぞ!」「近々ハルマゲドンがやってくるが、その後の世界を統べるメシアとは、何を隠そう天皇なのだ!」みたいな、とにかく破天荒なことを口走って死んでいった人なのだった。

個人的なことをいうと、むかし仕事の関係で山形市に住んでたから上山には土地勘はあるンだが、戦後有名になった無着成恭の「山びこ学校」の舞台も上山だ。酒井勝軍という男、あの寂しい町から出て這い上がっていったんだなー、と思うといささかの感慨もある。

あるいは、酒井が仙台時代に少女時代の相馬黒光と「デート」した、みたいなエピソードが書いてあるんだが、黒光が嫁入りした相馬愛蔵はオレの故郷・信州安曇野の人であったりする。音楽教育絡みでチラッと出てくる伊沢修二なんかも信州・高遠の産。あぁいろんな因縁があったんだ、と思ったりもする。

というわけで、いろいろ教えていただいて有り難う、という気持ちはあるんだが、さて、著者の酒井勝軍論はどうなのかというと、いささかクビを捻りたくなるところがある。

その言わんとするところはわからんではない。世間からキチガイ呼ばわりされてきたこの男だが、実はそうそう捨てたもんでもないぞ、もっと光を浴びてもいい人物なんだぞ――そういう思いがあったからこそこういう本をお書きになったんだろうが、しかし、その「褒めかた」がいささか苦しい。

たとえば、天皇天皇というから誤解されやすいが彼の思想は決して「復古」などではなくて、近代合理主義の病理がはびこっていた時代に、そこを超えてもうひとつの「オルターナティブ」を立てようとしたものだった、などという。あるいは、キリストの青森渡来とか広島のピラミッドとか、こういうハナシは得てして地元で「町おこし」的に消費されてきたんだが、酒井の場合はそこに常に「思想」があった――つまりその意味を世界の文明史的レベルにつなげて語っていたエライ人なのである、的なこともいう。

だが、よくよく考えてみると、そもそもこの人がキチガイ扱いされたのは、実証的な研究レベルからいうと全く箸にも棒にもかからない、つまりは妄想レベルのことを言っていたからであって、そういう妄想の上に文明論とか思想を語られても困るのである。彼が論拠にした竹内文書だって、オレは全然中味は知らんのだが、本書を読むと、たとえばモーゼやキリストがあっちとこっちを何度も往復したようなことが書いてあるらしい。紀元前の時代にそんな大冒険活劇はムリでしょう。神代文字にいろいろ書いてあった、とかいっても、ハナからそんなものの存在は否定されてるわけでしょう。

むろん著者も竹内文書が偽書であって、あとから都合よく捏造されていったことは認めてる。認めてるんだけれど、「いやでも、これは宗教文書なんだから。宗教的テキストを真偽のモノサシではかってはいかんでしょ。酒井もその論理の根っこには神秘主義的体験があったわけだし。そんな理詰めだけじゃわからんでしょ」みたいなことも言う。

そりゃ宗教なら宗教でハッキリしてくれりゃあいい。じっさい、このブツは竹内巨麿絡みなんで「宗教的テキスト」といえなくもないし。だけど、本書を読んだ限りだと、酒井勝軍も表向きは「証拠の上に史実を構築する」という方法論をとっていたようにみえる。それならそれで実証ベースでやっていただくしかないではないか。それとも、「これは神の声で明らかになった話。信じて頂くしかありません」みたいな論法も併用していたのだろうか?

というか、本書を読んでて思ったんだが、ひょっとしたら「酒井勝軍には思想家として注目すべきところもあったからこういう本を書くのだ」みたいなリクツは「あとづけ」で、この著者、ほんとは酒井が好きで好きでたまらなくて、だからもう居ても立ってもたまらずに評伝を書いてしまったのではないか。それならそれで、ハッキリそういう書き方をすれば良かったと思うのだ。

たとえば最近出版されてノンフィクション賞を総なめにしている、増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という本がある。表紙に主人公の写真をでっかく配した分厚い本、といった点で、この2冊の本は似ている。が、著者のスタンスは微妙に違う。「木村政彦」のほうからは、自分は木村政彦が大好きで、しかしその業績が世の中から忘れられていて、それが悔しくて悔しくて、だから書いたのだ、という思いがヒシヒシと伝わってくるわけで、著者自身もそのことを隠そうとしない。一方の「酒井勝軍」のほうは、そこで自らにリミッターをかけている感がある。もちろんアカデミズムのほうの方らしいから自制も必要だったのだろうが、どうせオカルト系の人物の評伝なのだ(というと語弊があるけれども)、はっきりと「好きだから書いた」と信仰告白すれば良かった。

とまぁいろいろ難癖をつけてきたのだが、ともかくこういう人物の評伝を世に送り出したという、ただその一点で本書は評価に足る。今後、酒井を語る際にはキホンのキとなる本であることは間違いない。

P.S.
最後に付け加えていえば、関係のある人の肖像写真とかもかなり収録している。これは素晴らしい(写真といえば、表紙にも使われている酒井の正装写真なんだが、胸にいっぱい勲章みたいなのがついてるのが気になった。こういう人も勲章をもらったのだろうか? しかし、誰から? ナゾであるw)。あと、参考資料についての注などもついていれば良かったが、学術書ということでもなければそれは無いものねだりか。




「異端」の伝道者 酒井勝軍/久米 晶文 著
「異端」の伝道者 酒井勝軍

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか/増田 俊也 著
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか