こないだツイッターみてて、なるほどと思ったつぶやきがあったんだが、つまりアメリカでまた銃乱射事件とかあって、「どうしてアイツらは銃規制せんのかバッカじゃなかろか」とわれわれはつい考えてしまうンだが、一方で連中からみると「原発であんなに酷い目にあった人がいっぱい出たのに、いまだに原発必要とか言ってる日本人はバッカじゃなかろか」というワケで、米有力メディアあたりはそのへんしっかりツッコミを入れているゾ、という指摘なのだった。

これなどはたぶん反原発サイドの人が「日本人ってヘンじゃね?」という文脈で書いていたのだろうと推測するところであり、オレなども反原発サイドの人なので「それはそうだよねー」と思うのだったが、しかしここで言いたいのはそのこととは微妙に違う。

アメリカの銃規制がぜんぜん進まないというのは、はたからみれば奇妙に思えるわけだが、しかし、連中からすれば「自分の命は自分で守る。それでいいのだ」というロジックは実に魅力的であり、地元では正当性をもっている考え方なのだ(とオレは聞いている)。だから、いくら悲劇的な事件があったって「でも原理原則からいえば自分で銃をもつ権利っつーのは侵しちゃならんのじゃないか」という結論になって、チャールトン・ヘストンはアポ無し取材にきたムーアを追い払ってしまうのだった。

つまり、「銃をもつ」ということが、アメリカ人の精神風土っつーか文化っつーか、そういう生き方のキホンに根ざしているからこそ、日本人からみたら「バッカじゃなかろか」というふるまいを彼らは続けているのだった。

翻って考えてみると、原発が爆発して流浪している人がいくら出てきたって、でもやっぱり原発必要だよねーという人が少なからずいて、いや少ないのかもしれないけれども少なくとも今の日本にとっては「経済何とかしろー」という声の方が大きくて選挙でも原発問題は決定的争点になどならない、つまりその程度の問題としてしか考えられていないという事態は、それ相応のロジックに支えられているのだった。

つまり、なんだ、「おれたちの才覚じゃこんな田舎で食ってくことはできんが、原発がありゃあとりあえず働き口はあるしなー」とか、「とりあえず廃棄物問題とか万一の時の補償問題とか無視すりゃあ、原発は安上がりだし利権もいっぱいあるし、立ち回り次第ではオイシイしなー」とか、そういう言い分は、この国ではそれなりの正当性というか説得力を持っている、という話なのだ。

ある意味、消極的ではあれ、原発を選びとるロジックは強固なものとしてあって、だからこそアメリカのメディアあたりが「へんじゃね?」とかいっても、オレたちは「そうはいうけどなー」と口ごもったりしてしまうのである。

他者を理解するのは難しい。ましてや「あんたおかしい!」と言うことができるか。コイツは、実はなかなか厄介な問題なのである。