いささか旧聞に属することですが、米国産の牛肉が輸入再開された早々に、狂牛病の危険部位として輸入禁止になっている背骨が混入していた、という「事件」がありました。日本側としては「そういう杜撰な取り組みでは安心ならん!」と怒って、再度輸入はストップしております。

まあルール違反なので、もっぱら非は米国側にあるわけですが、アチラさんは「逆切れ」している節もある。こういうニュースもありましたな↓

米国産牛肉の再禁輸措置を巡る日米両政府の局長級会合が24日、外務省で開かれた。米国産輸入牛肉に、除去が義務づけられている脊柱(せきちゅう)(背骨)が付いていた問題について、米国側は会合後の記者会見で、牛海綿状脳症(BSE)の危険性を「車でスーパーに買い物に行って事故に遭う確率の方がよほど高い。その事実を日本の消費者に伝えたい」(ペン農務次官)と指摘。厳しい日本の輸入基準へ不満をあらわにしたが、背骨混入を見逃した原因について明確な説明はなかった。 (1月25日付けアサヒ・コムより)

「いけずうずうしい」というのが第一印象ですが、実はこれ、よく考えれば相当にテツガク的な問題でもあるわけです。確かに統計学的なことをいえば、日本よりユルイ米国の安全基準のもとで牛肉を食ったとしても、たまたま狂牛病にかかってしまう確率は交通事故に遭うより相当低い、らしい(検証は控えますが)。その意味ではこのベン農務次官なる人物、「正論」を言ってるともいえる。でも、なんか納得できない。何故か。

考えてみると、問題はこういうことではないか。つまり「食い物の安全性」というのは交通事故の確率などとは単純に比較できない、別次元の話ではないか。「食う」というのは生き物にとって、最大の根源的営みであります。よって、食うことはヒトの最大の楽しみであり、喜びであるべきなのですね。ところがこの人間の生きる営みを支える「食うこと」が、逆に致命的な命への打撃を与えるのだとしたらどうか。狂牛病の怖さというのは、「おちおちメシも食ってもいられん」といった風に、本来喜びに満ちた「食」に不安感をもちこみ、僕たちを疑心暗鬼にしてしまうところにあるのではないのか。単純な確率論で「安心せよ」といわれても困るわけです。交通事故に遭うのは我慢できても、牛肉食って病気になるなんて、かわいがってた子どもにイキナリ金属バットで襲いかかられるようなもので(よくわからん比喩だが)、とにかく許せんわけです。

そもそも狂牛病の発生メカニズムじたいもハッキリ解明されているわけではない。ここはひとつ、僕たちは福岡伸一「もう牛を食べても安心か」あたりをじっくり読んで、この問題をじっくり考えるべきなのかもしれません。

p.s. もっとも自ら突っ込んでおくと、生命の危険おかしてフグのキモ食って、「うーん、この舌のシビレが何ともいえん」なんていう食通もいるそうですから(ほんとかw)、こういう議論は一般化できんのかな? いや、それはむしろヒト独特の倒錯した心理で説明したほうがいいような気もする…