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昔から会社員としての「処世のあり方」ということについてはいろいろと考えてきた。基本的にサラリーマンというのは一生懸命がんばり、かつ「自分がいかにデキルか」といったことをアピールすることにより、出世して地位も給料も上がって部下にもいろいろ命令できて万々歳──といったことを考えているものと思われるのだが、オレはちょっと違うかった。

そんなムキになって他人蹴落として偉くなったってなんか寝覚めわりィし、ま、そこそこ好きな仕事だったらできる範囲でソコソコ頑張ってりゃいいんじゃネ、という考え方である。

で、本なんか読んでると、そういう堕落した人間にとって好ましく感じられる主張と出会うこともあって、たとえば生物学者の長谷川英祐先生あたりが唱えている「働きアリの7割はいつも休んでいる」というヤツなんかはまさにそれである(何か大昔にブログのネタにした話のような気もするが、とりあえず気にしないで先に進む)。

むかし読んだだけなので詳細は忘れたが、要するに、アリの社会──といっていいのかは知らんが──というのは、意外なことにいつも一生懸命仕事をしているのはごく一部で、多くのアリたちは普段サボっているのだという。だがしかし、実はそこには大きな意味がある。そういうことをこの長谷川先生はおっしゃるのだった。

どういうことかというと、もしアリの巣を突如大災害が襲って「ギャーこりゃ巣が崩壊すッぞ、何とか修復しないとこりゃ全滅だぞー!」みたいな修羅場が発生したとする。

そんな時、ふだんから全員がフルパワーで働きまくってたらどうなるか。みなさんかなり疲弊していて余力がないので、緊急事態に対応できる体力も余裕もない。結果、アリ社会は全滅する。

ところが普段ぐーたらしてる連中がいたらどうか。

「あ、おまいら休養十分で元気あるじゃん! このピンチ何とかしてくれよ!」ということで、連中、「そっかー、じゃあ仕方ねえなー」とかいってにわかに働き出す。で、アリの社会は何とか生き延びる。

そういう意味で、この「働かない7割」ってのは実はおおいに意味がある。この先生はそういう話をしているのだった(以上の要約はオレの記憶の中にあるもので正確かどうかは知らん。違ったらゴメン)。

当然、「あんまりガシガシ働きたくねーなー」と思っているオレのような人間からすれば心地よい議論である。この説というのは無条件で人間についても当てはまるハズなのだ。というか、当てはまるかどうかはワカランが当てはまっていてほしい。であればこそ、まぁオレのような人間を会社の片隅に飼っておくというのはとっても重要なことなのだという主張もでき、何となく心も休まるというものである。

だがしかし。

何か近年の日本経済衰退の影響であろうか、最近の会社組織というのはそういう「ナンチャッテ社員」に対してはちょっと好ましくない空気が漂ってきているような気がしてならない。例えば「成果主義」の広まりというのもそうだろうし、オレの会社なんかだと最近ナニかっつーと「気合が入ってないからダメなんだ」的な物言いをする「精神論」もニワカに燃え盛ってきてるような気がする。

そういう流れになってくると、それまで見過ごされてたこういう「働かない7割」というのは俄然「迫害」の対象となってくる。「ちゃんと働けや!なにしとんじゃワレー」的なアレ。

いや、そりゃ確かにさきほどのアリの話でいうところのスゲー緊急事態が来て、「遊んでた皆さん、いまこそあんたらの出番ですヨ!」ということになったのであれば、そりゃまあ出番なのでフル回転せにゃならんのかもしらん。

だが、エライさんたちは自分たちの無能が危機を招いたクセにいぜん上の方から下々の面々に命令しているばっかりでその地位をどかない。シモジモのものを締め上げるんじゃなくて、「自分たちは失敗しましたスミマセンあとはお願いします」といってお願いしてくるのがスジである。なに逆に威張ってんだ、「違うだろー!」と一昔前の流行語を叫びたくなってくるところである。

で、唐突であるが、ここでオレは先の戦争直後の日本のことを連想したりする。

ご承知のように、戦後日本にやってきたGHQは、日本の軍国主義に協力した各企業のエライさんたちを会社から追放した。結果、上のポストが空いたので、戦後は若い連中が一気に昇進して企業内で高い地位を得ることがままあったらしい。その辺は「三等重役」といった小説にも書かれている。

で、これまたご承知のように、こうして再出発した新生日本の経済というのはその後、驚異の経済成長を遂げる。ま、実際は朝鮮戦争の特需で儲けるというような時代的な追い風もあったんで、若手のバッテキがイコール企業の活性化につながったというような単純な議論にはならないのだろうが、ともかくそれはそれとして、オレ的史観からすれば古手の支配者層が追い出されたことによって企業内には新風が吹き込まれ、なにがしかのメリットが生まれたのであろう、ということになる。

となると、最近の日本経済の低迷というのも、実はしぶとく出世競争を勝ち抜いたような連中が地位にしがみついて時代遅れになってからもその場所を空けないからだ、という仮説もアリだろう。オマイラが退陣したってあとは何とかなるんだからよーアリの社会と一緒で、などと口走りたくなる。

実は、今回こんな話を書こうと思ったのにはワケがある。きのうの某Y新聞朝刊に「経団連の会長が最近仕事にメールを使いだした、これは歴代会長で初めてのことだスゴイスゴイ」みたいな記事が載り、おそらく書き手は褒めてるつもりだったんだろうが、ツイッターとかの住民に「エッ、いままで使ってなかったのかよ!」とかいって逆に呆れられてしまう──という一件があった。

ま、こういう財界の天上人のようなエライ方々だと、PCなどいじらんでも口頭で手下たちに「オマイラちゃんとやっとけや!」で済むからいーじゃんという弁護もできようが、ともかく彼らが実に浮世離れした世界にいるのは確かで、そんなんで大丈夫かという気はする。

結論。ムリして地位にしがみつかないでいいよ。あとには代わりに頑張る連中がまだまだたくさんいるから。ま、オレはそういう場所には出たくないけどね(笑)。今回はそういうことを言いたかった。

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ここんとこ、大相撲(笑)・アメフト・バスケ・体操、あるいはもっとあったかもしれないが、スポーツの世界でいろんな不祥事が花盛りである。

オレはこういうのは大変結構なことだと思う。なんとなれば、「スポーツは健全である」みたいな「誤解」が、こういう不祥事続発によって解かれていくと思うから。

スポーツは心身に悪い。

これはオレの年来のテーゼであるが、それが事実によって立証されつつあるといってもよい。参考までに、この問題について当ブログに以前書いたエントリー「だからスポーツマン=健全というのはウソだから」へのリンクを貼っておこう。



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あんまりブログを放置しているのもナンなので、今回はジャック・ヴァレの『コンフロンテーションズ』に出てくる小話を紹介。


アルプス越えの列車の中でのこと。そのコンパートメントには4人が乗っている。

大佐である軍人、若い兵士、綺麗な女性、背の低い老婦人である。

列車はトンネルに入り、この登場人物たちは数分間、完全な暗闇の世界に入り込む。

そこで突然、好奇心をかきたてるドラマが幕を開ける。情熱的なキスの音がし、続いてバシッと強くものを叩く音。

列車はトンネルを抜け、4人は黙ったまま互いの顔を見合っている。

小柄な老婦人は考える。「よくやったわ! この兵隊さん、大胆にもあの子にキスをしたんだわ。でも彼女、彼にしっぺ返しをした。こういう骨のある女の子がまだいるかと思うとホッとするわ」

可愛い女の子は首をひねる。「この若い兵隊さん、格好いいんだけど、なぜあのおばあさんにキスしたのかしら? 私にキスすることだってできたのに」

大佐は怒りで頭をカッカさせる。「酷い話だ。この男があの女の子にキスをしたっていうのに、なんで俺が叩かれなきゃならんのだ?」

若い兵士はひとりほくそ笑む。彼だけが真実を知っているのだ。「こいつは痛快だ。自分で自分の手の甲にキスをして、大佐を叩く。で、俺には何にもおとがめなしというわけだ!」



なんでUFO本にそんな小話が出てきたのかというと、このストーリーから得られる教訓はUFO事件の探求にも大いに関係があるから、なのだった。つまり「見かけを信じ込んではいけない」。



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まずはこれをお読み頂きたい。読売新聞の7月6日朝刊である。

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60歳の女性が会社からカネをガメて男に貢いだという、ま、ありがちなニュースなのだが、読んでてオレ、なんか激しく動揺してしまった。特に以下の箇所――。


被告は東京でモデルをしながら有名大学に通う女子大生の「宮崎華奈」と偽り、09年頃にソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)で知り合った当時大学生の20歳代男性とメールのやりとりなどをしていた。


これを読んで思い出したのだが、オレが大学生の頃に(もう30年以上前になってしまったが)「女子大生ブーム」というものがあった。フジテレビが伝説の深夜番組「オールナイト・フジ」などというのを放送していた時期で、つまりそれはちょっと尻の軽そうな(だがそこそこ可愛い)女子大生が大挙出演し、司会のとんねるずなどとちょっときわどい会話などしてテレビの前のもてない男(つまりオレであるw)の妄想をかきたてる、といった具合の素人参加型バラエティ番組であった(どうでもいいことだが、オレは明治大学農学部、松山香織さんがお気に入りであった。その後、民放のアナウンサーをされていたようだが、いまもお元気ですか松山さんw)

ま、そういう次第で当時の「女子大生」というのは、なんか、とても輝かしい響きを帯びた言葉であった。

そのような予備知識をもってこの記事を読んでみる。この被告は60歳だということで、オレなんかからすると少し上の世代なのだが、ま、とりあえず若い頃にこの「女子大生ブーム」を見聞きしていたことは疑いない。

そこでオレの妄想は広がるのである。

たぶんこの被告は、そうやってチヤホヤされる「華やかな女子大生」というものに憧れ、しかし、実際にそのような女子大生にはついぞなれなかった女性なのではないか。自分には決して訪れなかった輝かしいキャンパスライフ。「なんでなの? 私もあんな風にチヤホヤされたいのに。何で私の青春って、こんなつまンないわけ?」。そんな日々を、若き日の彼女は送っていたのではあるまいか?

時移ってSNS時代。

リアルな自分とは違う、「ネット上の人格」というものを装い、それらしくふるまうことのできる世界を知った時、彼女はふと、あの若き日の見果てぬ夢を思い出してしまったのではないか。そして自分に言い聞かせたのではないか。わたしは美しい女子大生。モデルもしてる。お金もたくさんもっている。それがわたし。本当のわたし。ネットの世界の中では、わたしはそういう存在になれるのよ――。

ここでオレなどはふと思い出してしまうのだが、当時、田中康夫の書いた『なんとなく、クリスタル』という小説があって、その主人公が、まさにこの「モデルもしている美しい女子大生」というヤツであった。実に象徴的なのだが、当時はそういう時代であった。

記事の最後にあるように、彼女は「心の居場所がどこにもなく、話を聞いてもらえるだけで癒やされた」。たぶんそれは、60歳女性がこれまで果たせなかった人生の夢や希望を、「その場」ではあたかもリアルなもののようにして実感できたということを意味しているのだろう。

全然美しくも格好良くもない、ブザマな青春を送ってきたオレなどからすると、「わかる」といいたいところが多分にある。「身勝手で自己中心的」と裁判官は言っており、それはその通りである。だが、オレから言わせれば、実にこれは哀しい、人間が人間であるが故の哀しい犯罪であった。



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三島由紀夫の原作を映画化した「美しい星」は、円盤愛好家にとってはなかなか興味深い作品で、オレもこのあいだ興味深く鑑賞してきたところである。

ただ、上映館もここのところけっこう絞り込まれてきているようで、一般の方々にはやや取っつきにくい映画だったのかなぁと思わんでもない。

ちなみに、まもなくやってくる6月24日は「空飛ぶ円盤の日」で、今年の6月24日は、まさにその「空飛ぶ円盤の日」誕生のきっかけとなったケネス・アーノルドの円盤目撃からちょうど70年になるのだが、そういう節目にもかかわらず、こういう映画が出来たからといって円盤ブームが盛り上がる風はさらになく、いささか淋しいものがある。

閑話休題。たまたまめくっていた「新潮45」6月号に――たぶん「美しい星」が新潮社から出版されているからということもあるのだろう――この映画にまつわる記事が載っていた。

具体的にいうと、監督へのインタビュー、それから偽史研究で知られる原田実さんの書いた「三島由紀夫と宇宙友好協会」という原稿だったのだが、これがたいへん面白かった。

結論としては、三島がこの作品に出てくる「自分が宇宙人だと思っている人たち」のモデルにしたのは、悪名高き(?)UFO研究団体CBA(宇宙友好協会)に心酔した人々ではなかったのか、という話になっていて、確かに作中の「宇宙友朋会」はCBAをもじってるという説が有力であるようだし、三島、あれでけっこうCBAに関心あったのかもしれねえなぁなるほどなぁと思わせるものがあった。

と同時に、そのような結論を導く前提として、日本のUFO研究団体の興亡史みたいなことがやや詳しく書いてある。とりわけCBAについては、オレなんかも何となく小耳に挟んだお話を断片的に聞いている感じで、いまひとつどういう流れでこういう団体が勃興(かつ没落)したのかはよくわかっていないのであるが、その辺りをコンパクトにまとめておられる。「ああ、そういう流れだったのネ」という感じである。

願わくば、こういう諸団体の興亡史みたいな話をキッチリまとめた本など読んでみたいというのがオレの年来の希望であって、関係者もだいぶ物故されているのであろうから難しいところはあるのだろうが、ま、原田さんも含めてその辺にお詳しい人にはひとつチャレンジをしてもらいたいなあという思いを新たにしたところである。

*注記その1
ただ、ある方から聞いた話によると、その「日本UFO研究団体興亡史」(仮)においてストーリー的には一番「面白い」パートになるであろうCBAについて言うと、その刊行物は古本の世界では法外な値段がついているらしく、資料あつめがとても大変であるらしい。ハードルは結構高いのかもしれない。ま、そういうの持ってるコレクターとかが書いてくれりゃいいんだけど、面倒なのか商業的に引き合わないからなのか知らんが、なかなかちゃんとしたものを書いてくれる人がいないのは残念である。

*注記その2
あと、これは全然関係のない話であるが、原田実さんのお名前を見るたびに、なんか「源田実」と混同してしまうクセがあり、なんとなく、つい「ゲンダさん」と呼びたくなってしまうのであった。これはどうすればいいのであろうか?

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CBAは、たとえばこんなのを印刷しておったようだ(写真はネットで拾ったもの)。ちなみに英文の冊子みたいなのも作っておったようで、あれやこれやでジャック・ヴァレとCBAの間にもどうやらやりとりがあったらしい




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このたびの天皇陛下の「お気持ち」ビデオメッセージに関して、「陛下が仰りたいのは、たぶんこういうことなのではないか」と考えてみた。些か不敬であるかもしれないが、以下、陛下になりかわって一人称で書いてみる。


「天皇制」ってオレ、最初よくわかんなかったんだ。

日本国憲法には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」って書いてある。けれども、そもそも象徴ってのがわからん。人間なのに「象徴」とか言われても、じゃあオレ、どういう立ち居振る舞いすりゃいいんだよ、って。

もちろん憲法には「天皇は国事行為をしておればよい」ってなことが書いてあって、つまり国会に出ていって開会を宣したり書類にハンコ捺したりする仕事をやんなさい、っていうんだけど、だからってそういう形式的なことを淡々とやってりゃいいんだろうか、って気がした。

で、思ったんだ。「日本国民統合の象徴」っていうくらいだから、国民全体のことを思って、とにかく国民を応援したり励まして回ったらどうなんだろう、そういうのが「象徴」なんじゃないか、って。

もちろん国民の前に出ていくってことはいろいろやってた。毎年恒例の国体の開会式とか植樹祭とかね。でも何かネ、そういう段取り通りのスケジュールに沿って仕事こなしてくだけじゃダメなんじゃないかと思った。

一番いいのはやっぱり「本当に困ってる人」とか「辛い思いをしてる人」のところに行って「頑張ってください」って声をかけて、とりあえず元気になってもらうことじゃないのか。で、決めた。大災害とかあったら、オレ、現地に駆けつけてみんなを励まして回るんだ、って。

そうそう、こないだの戦争で亡くなった戦没者の方たちもネ、いちおう「天皇陛下のために」っていって死んでいったわけだから(ま、その頃の天皇はオレのオヤジだったんだけどね)、亡くなった方たちにだって真心を示さないといけない。で、激戦の戦地にもできるだけ行って、戦没者の皆さんを慰霊してあげようって思ったんだ。

で、長年自分なりにそういう信念でやってきて、実際、手応えもでてきたんだよね。そりゃそうだと思うんだ。国民だって「象徴」なんて言われてもよくわかんないと思う。でも、オレが考えてやってることを見て、「あぁ天皇ってそういう存在なんだ」ってイメージが湧いてる部分、確かにあると思うからネ。

ただ、オレなりにそうやって作ってきた天皇のありようって、実際にはけっこう大変だったりするんだ。忙しいんですよ。

もともと憲法で「やれ」って書いてある国事行為の仕事もあるし、ま、あと皇室の私的行事ってことになってるけど宮中祭祀ってのがあって、これは代々やってきたことだっていうからおろそかにできない。

これに加えて、オレが考えてやってきたような行事までこなすとなるとね、流石に80歳過ぎてくるとキツイんです。

オレのやってきたことはいちおう国民的に認められているようだし、今更「ああいうの、やめます」ってことにもいかんでしょう? だったらオレもだんだん体が動かなくなってきたし、数年中に譲位をして、息子がまだ50代のうちに天皇を継いでもらったほうがよかないか。それが今回の発言の趣旨だったワケです。

もちろん、今の法律じゃそういう譲位はできないことになってる。一方で「天皇は政治的な発言をしてはならない」って憲法に書いてあるから、「仕組みを代えてほしいんです」とは言えない。言えないんで、今回はちょっと奥歯にものがはさまったような物言いをせざるを得なかった。

でもね、とにもかくにも何だかワケのわからん「象徴天皇」ってものに、とりあえず命を吹き込んできたという自負がオレにはある。なんとかその方向でやっていきたいんで、そこは以心伝心ってヤツで分かってほしいんだ・・・


たぶん、「そうやって新しい仕事をはじめて自分のクビを締めてしまったのはあなたでしょう、いまさら大変だから譲位したいとか言っても筋違いです、そもそも憲法上の天皇はただ生きていて頂ければそれで良いという概念の上に成り立っておるので、そんな新しい象徴天皇のお仕事などなさらなくても結構だったんですよ」などと冷たく言い放つことも理屈の上では可能である。可能なのだが、人情としてはそうもいくまい(小生なども先の東日本大震災の時とか、「なんとこの天皇という方は私心の無い方なのだろう」と驚嘆したぐらいでアル)。

で、国民はどうするのか? いま、そういう状況である。


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左翼「稲田朋美が防衛相になりましたな。しかし、なんで自民党の女性議員にはこうも右翼が多いのか。稲田のほかにも、高市早苗総務相とか、神武天皇は実在したと信じているらしい<セクシー・ナイト>三原じゅん子なんてのもいる」

老人「いや待て待て、本当に<自民党の女性代議士には右翼が多い>のか? 確かに何となくタカ派、右翼が多いような印象は強いが、単にハト派の女性議員が目立たんだけ、ということもありうる。ちゃんとハト派、タカ派の定義をした上で、どっちが何人いるのか調べてみんと、ハッキリしたことはわからんじゃろう」

左翼「にしても、新内閣に入閣した女性議員3人のうち2人はゴリゴリの右翼だというのは、なんか象徴的ではないですか。あとの一人、丸川珠代に思想なんてものがあるのかどうかは寡聞にして知らんですがネ。思うに、右翼でないと自民党内で女性議員はのし上がっていけないのではないか」

老人「うむ。まあ、安倍首相がああいう国家主義的な思想の持ち主であるから、今の状況では抜擢されるチャンスが増えている、ぐらいのことは言えるかもしれんの」

左翼「自民党というのは、何やかやいって古臭いミソジニーに染まっている連中がまだまだ多い組織ですからな。女性議員はどうしたって<ナメられる>。そこでどうするか。右翼スピリットを身にまとって武闘派路線を打ち出せば、古臭い男たちも一目置かざるを得ないでしょう。ある意味、右翼志向は理にかなっておるわけです」

老人「はて、ワシの目には、彼女たちは心の底から国粋主義に心酔しているようにみえるが?」

左翼「そうであればなお怖い。出世するための手段のはずが、いつの間にか目的になってしまったのではありますまいか。これこそ軒を貸して母屋を取られるというヤツでしょう。国粋主義にまるごと自己同一化してしまえば、出世目当てで右翼に走った自己欺瞞も意識しないで済む。万々歳だ」

老人「その手の俗流フロイト主義みたいな考え方は如何なものか。<アンタは意識していないが、実のところは深層心理のプロセスに操られているに過ぎない、愚ナリ欺瞞ナリ>と断罪する手法は確かにひところ流行ったけれども、しょせんは批判のための批判。本家本元のフロイトが、いまでは疑似科学扱いされておるのだし」

左翼「いちいち小うるさいことですな。まあ良い、彼女たちの<正体>を的確にとらえることは、この国の将来のためにどうしても必要だ。油断しておると、われわれはとんでもないところに連れていかれますぞ」

老人(この男、右翼や国粋主義は男の専売特許だとでも思っておるのか。古い、古すぎる。こんなことだから日本の左翼はどんどん縮んでいくのだ…)  ――終わり――




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舛添さんが辞任に追い込まれたので、また東京都知事選をやるらしい。

都職員の方々とかご苦労さんであるけれども、こういう茶番をみせられた後となると、どうしても思い出してしまうのは2007年の都知事選に出た伝説の候補者、外山恒一である。これまた伝説の政権放送で、彼はこう吠えていた。

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所詮選挙なんか、多数派のお祭りに過ぎない

多数決で決めれば、多数派が勝つに決まってるじゃないか


この外山恒一という人は、いまも「ファシスト」と称して政治関係の運動をしているようだけれども、オレ的にはこの人は本質的に「アーティスト」だと思っている。世の中の常識とされているものを疑う。別の見方をすればこの世界は全く別のものとして見えてくる。そういったことをパフォーマンスを通じて表現するというのは、紛れも無く「アート」である。

彼の「政治思想」をちゃんとフォローしているワケではないけれども、先の政見放送をきいてみると、社会改革の道筋など全く示さず、「多数派」が当たり前のように考えているものはインチキだ、という意味のことを繰り返し言っている。「何が問題で、それに対して何をなすべきか」といった具体的なことは、もう綺麗サッパリ、見事に何も語っていない。それもまた、これがパフォーマンスであり、アートであることの紛れもない証左である。

もちろんこういう人に「政治」などという営みを任せることはできない。できないけれども、「人気投票」のようにして選ばれた知事がこのようにして放逐されていくのを見た今、「多数派」のおごりを諌め、「この世界を懐疑せよ」といった風にいわば荒野に立って咆哮する人という人はどうしたって必要なのである。この国の民主主義のためにも。

というわけで、この伝説の政見放送は、実は全都民必見のアート作品なのである。

 

*なお、文字起こししたサイトもあった。読んでみるとまた独特の味わいがある





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死んだままのブログだと思われるのもシャクなので、たまに、どうでもいいこと。

安倍晋三というひとがわからないのである。

こないだの戦後70年談話というのは、もう発表前の段階で四方八方からいろいろ言われていて、つまり「日本は(戦前も含めて)全然悪くないんでちゃんと世界に向けてアピールしてくれ」という<お仲間>からの激励もあれば、「ここでアンタの持論をぶったら日本は世界の孤児になるんで気持ちはわかるが頭下げといてくれ」という所謂「現実主義者」のブレーンとかテクノクラートの方々からの懇願もあるし、もちろん(安倍晋三に聞く耳はないが)「戦争で迷惑かけた人たちにちゃんと謝っておかんといかんぞ」という人々の声もある。

で、結局この70年談話では、「未来永劫・子々孫々まで誤り続ける気はさらさらありませんから」ということを言って<お仲間>の顔を立てている。日露戦争は西欧列強の植民地化の動きに対抗してやむにやまれず立ち上がったもので、日本の戦いは植民地下のアジア人民にも勇気を与えた、などと司馬遼太郎 にかぶれた史観を一席ぶっている箇所もある。たぶん、「大東亜戦争はアジア人民解放の戦いだった」などという一部の右翼が言っている主張は流石に苦しいけれども、帝政ロシアを悪玉に仕立てるのであればあんまり批判も来ないので、こういう言い方をしているのではないか。けっきょくのところあの人は、「戦前の日本は悪くない」と思っているのだろう。

しかし、同時にその手の議論ばっかりだとハラの底が丸見えになってしまうので、「反省」もしてるし「謝罪」もしてます、という事も同時に言っている。もちろん「これまでの日本政権はさんざん謝ってきたではないか。そこんとこは変えません(キッパリ」といって、自分自身に謝る気があるのかないのか明言しない言い方をしているのがなかなかコスイのではあるけれども、いちおう頭を下げるかたちをとって体外的な配慮もみせてはいる。まぁ、各方面にそれなりにナットクしてもらおうという苦心の作であったことはわかる。

ただ、こういう談話をみていてつくづく感じてしまうのは、もっともっと原理的な部分での疑問なのである。こういうロジックの人が、なぜいま、戦前の世界を仕切っていたアメリカと同盟関係を結んで仲良くしよう、と言ってるのかがわからない。


最近では威光もかげってきたとはいえ、いまだ世界の強国であるアメリカと手を組んでりゃ安心だ、というのは国際政治のリアリズムからいえば、安倍晋三の立場もわからんではない。だが、戦後の世界史を考えてみりゃあ、第三世界にさんざっぱら介入して、「反共だったら援助すっからね」とかいって腐敗政権支えてきたのもアメリカだ。「日露戦争がアジア人民に勇気を与えた」とか言ってんなら、そういう「米帝」の策動は批判して「アジア人民の自主独立」を応援するのがスジであって、そういうアメリカのゴーマンな体質は戦前も戦後も変わっとりゃせんのではないか。

*もっとも、アメリカには「もうオレたちヨソのことには関わりあいたくないから」という「モンロー主義」の伝統も一部にあって、それこそ第二次大戦の時なんかもチャーチルの「参戦して助けてよ」という要請になかなか応じなかった。最近も、勢い込んでイラクぶっつぶした迄はいいが、そのあとグチャグチャの泥沼作っちまった反省から「中東に深入りするのはこりごりだ」的なトレンドもあるらしいので、ま、その辺は相対的な問題ではあるんだけどね。



閑話休題。もちろん「靖国の英霊」をたたえる心情というのは、「親米」とは両立しないと思う。実際、安倍は靖国に参拝するたびにアメリカの偉い人たちから怒られてしまい、ここんとこ全然行けなくなってしまった。

いや、そもそも戦後日本の右翼というのは、「反共」から思考を組み立てているので、反共の大親分であるアメリカとべったりで生きていくというのが別に不思議ではなかったのだろうというのはわかる。わかるけれども、この歴史的に生まれた「親米右翼」というのが理屈からいえば何とも不可解な存在であることは結構むかしから指摘されてきたわけである。

ところがこの安倍晋三というひとは、その辺の「矛盾」には全然無頓着なようなのだ。なぜなのか。それとも、ハラん中では「今んとこはアメリカの手下で甘んじるしかねーが、今にみていろ、何かあったら一泡吹かせてやるからな」とかスゲーこと考えてんのか。アンタ石原莞爾かよ、みたいな(笑)。

ともあれ、少なくともそのあたりの「わけのわからなさ」を解消すべく、自らの思想を明瞭に言語化して説明してほしい。そういうことのできる人なのか、って? うむ、オレもそこんところが疑問なのである。一国の首相があまりに頭が悪く、そうした応答責任さえも果たせないような人物であった、というようなことは御免被りたいンだが・・・。


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春節(旧暦の正月)とやらで休みになった中国人が日本にも大挙やってきていろいろ買い物しまくってる、というニュースをここんとこ続けざまに見せられた。

まぁ日本も消費不足でモノが売れなくて困ってるというので、こういうお客さんが来るのはとても良いことなのだろう。ま、ここんとこやることなすことダメダメの日本からすると、むかしは貧乏してた隣人が突然金回りよくなって贅沢しだしたみたいなもンで、なかなか心中穏やかならぬものがある(笑)。もっとも、外国にいってブランド品とか買いまくるというのは四半世紀前のバブル時代の日本人も盛んにやってたことでもあり、「あぁ、当時の日本人も世界からはこんな風にみえてたんだろうなぁ」と微苦笑してしまうのであった。

閑話休題。

オレは経済というものがからっきしワカランのだが、このようなトレンド――つまり、ごく一部とはいえこんなに金払いのいい中国人が大発生しているというのをみると、「あんたらそんなに浮かれていて大丈夫なのかい?」みたいなことをついつい考えてしまうのだった。

たとえば羽振りの良かった頃の日本であれば、「国民が勤勉でキチッとした仕事ができる」といったあたりが製造業の強みだと言われていて、実際に手堅い商品が世界にウケていたのである。最近はあまり元気ないようだが、たとえばイタリアあたりだと「腐っても鯛で美的センスは流石だ」とかナントカいって、ファッションとかのジャンルではなお気を吐いているようでアル。つまり、ある国が経済的に伸張するのはそれなりの理由があって、つまりその国民に独特の「才覚」が開花したときに万事うまくまわっていくのではないか、みたいなイメージがある。

さて、そういう目でみると、中国経済の「売り」というのは何なのか。

昔から華僑みたいな存在はいて、中国人は商売人としてはなかなか才覚があるようなことはいわれてんだが、それだけではないだろう。メディアとかでよく見聞きするのは、「安い給料でソコソコの仕事をしてくれる人間がウジャウジャいるんで世界中から資本が入っていって工場をいっぱいたてて、フル操業で世界中に輸出をしてボロもうけ」みたいな仕組みである。で、貧乏だった中国の人たちもがこうやって稼げるようになると、何しろ大市場であるから国内の消費もガンガンあがって景気はドンドンよくなる、という理屈であるらしい。

というワケで、なるほどそりゃうまくいくだろうなあ、とオレなんかも思ってたんだが、しかし、最近は労働者の給料もだいぶアップしてしまったようで、日本企業も「工場たてるならベトナムへ」みたいなトレンドもあるらしい。社会の高齢化も日本以上のスピードで進んでるっつーし、大丈夫なのかと思うぞ。

つまり、「安い労働力がある」というところからすべてが好循環しているンだとしたら、その前提が崩れたときにどうなっちまうのか、中国経済の繁栄っていうのは砂上の楼閣じゃねーのか、という気が素人ながらするのである。

で、話はもとに戻る。何か「中華民族にはこういう得意技がある」みたいなものがあれば、こういう悲観的シナリオとは違うような話にもなってくるんだが、じゃあそういう得意技みたいなのはあるのか。日本人の「勤勉」みたいなもの。

そこがよくわからん。安価な労働力を生かして、パソコンのパーツみたいに特定の規格に沿ったものを機械的に組み立てる、みたいな仕事だったらいくらでもできるだろうが、こういう仕事はもっと安い給料で働いてくれる人たちが出現したらなくなるのである。「先進国が開発した液晶パネルとかの技術をすばやくコピーして安く売る」みたいなイメージもあるが、いったん追いついちゃったらコピー作戦では済まなくなるので、自分で独創的なものを作らなきゃいかん。そこまで行ってるのか中国は。

わからん。中国共産党の偉い人たちはそのへん展望があるんだろうか。政治的には緊張関係にあるとはいえ、中国経済が高転びに転んだら、日本経済も大変なことになるらしい。さて、20年後とかにはどうなってるのか。





















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