カテゴリ: NEWS

三島由紀夫の原作を映画化した「美しい星」は、円盤愛好家にとってはなかなか興味深い作品で、オレもこのあいだ興味深く鑑賞してきたところである。

ただ、上映館もここのところけっこう絞り込まれてきているようで、一般の方々にはやや取っつきにくい映画だったのかなぁと思わんでもない。

ちなみに、まもなくやってくる6月24日は「空飛ぶ円盤の日」で、今年の6月24日は、まさにその「空飛ぶ円盤の日」誕生のきっかけとなったケネス・アーノルドの円盤目撃からちょうど70年になるのだが、そういう節目にもかかわらず、こういう映画が出来たからといって円盤ブームが盛り上がる風はさらになく、いささか淋しいものがある。

閑話休題。たまたまめくっていた「新潮45」6月号に――たぶん「美しい星」が新潮社から出版されているからということもあるのだろう――この映画にまつわる記事が載っていた。

具体的にいうと、監督へのインタビュー、それから偽史研究で知られる原田実さんの書いた「三島由紀夫と宇宙友好協会」という原稿だったのだが、これがたいへん面白かった。

結論としては、三島がこの作品に出てくる「自分が宇宙人だと思っている人たち」のモデルにしたのは、悪名高き(?)UFO研究団体CBA(宇宙友好協会)に心酔した人々ではなかったのか、という話になっていて、確かに作中の「宇宙友朋会」はCBAをもじってるという説が有力であるようだし、三島、あれでけっこうCBAに関心あったのかもしれねえなぁなるほどなぁと思わせるものがあった。

と同時に、そのような結論を導く前提として、日本のUFO研究団体の興亡史みたいなことがやや詳しく書いてある。とりわけCBAについては、オレなんかも何となく小耳に挟んだお話を断片的に聞いている感じで、いまひとつどういう流れでこういう団体が勃興(かつ没落)したのかはよくわかっていないのであるが、その辺りをコンパクトにまとめておられる。「ああ、そういう流れだったのネ」という感じである。

願わくば、こういう諸団体の興亡史みたいな話をキッチリまとめた本など読んでみたいというのがオレの年来の希望であって、関係者もだいぶ物故されているのであろうから難しいところはあるのだろうが、ま、原田さんも含めてその辺にお詳しい人にはひとつチャレンジをしてもらいたいなあという思いを新たにしたところである。

*注記その1
ただ、ある方から聞いた話によると、その「日本UFO研究団体興亡史」(仮)においてストーリー的には一番「面白い」パートになるであろうCBAについて言うと、その刊行物は古本の世界では法外な値段がついているらしく、資料あつめがとても大変であるらしい。ハードルは結構高いのかもしれない。ま、そういうの持ってるコレクターとかが書いてくれりゃいいんだけど、面倒なのか商業的に引き合わないからなのか知らんが、なかなかちゃんとしたものを書いてくれる人がいないのは残念である。

*注記その2
あと、これは全然関係のない話であるが、原田実さんのお名前を見るたびに、なんか「源田実」と混同してしまうクセがあり、なんとなく、つい「ゲンダさん」と呼びたくなってしまうのであった。これはどうすればいいのであろうか?

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CBAは、たとえばこんなのを印刷しておったようだ(写真はネットで拾ったもの)。ちなみに英文の冊子みたいなのも作っておったようで、あれやこれやでジャック・ヴァレとCBAの間にもどうやらやりとりがあったらしい




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このたびの天皇陛下の「お気持ち」ビデオメッセージに関して、「陛下が仰りたいのは、たぶんこういうことなのではないか」と考えてみた。些か不敬であるかもしれないが、以下、陛下になりかわって一人称で書いてみる。


「天皇制」ってオレ、最初よくわかんなかったんだ。

日本国憲法には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」って書いてある。けれども、そもそも象徴ってのがわからん。人間なのに「象徴」とか言われても、じゃあオレ、どういう立ち居振る舞いすりゃいいんだよ、って。

もちろん憲法には「天皇は国事行為をしておればよい」ってなことが書いてあって、つまり国会に出ていって開会を宣したり書類にハンコ捺したりする仕事をやんなさい、っていうんだけど、だからってそういう形式的なことを淡々とやってりゃいいんだろうか、って気がした。

で、思ったんだ。「日本国民統合の象徴」っていうくらいだから、国民全体のことを思って、とにかく国民を応援したり励まして回ったらどうなんだろう、そういうのが「象徴」なんじゃないか、って。

もちろん国民の前に出ていくってことはいろいろやってた。毎年恒例の国体の開会式とか植樹祭とかね。でも何かネ、そういう段取り通りのスケジュールに沿って仕事こなしてくだけじゃダメなんじゃないかと思った。

一番いいのはやっぱり「本当に困ってる人」とか「辛い思いをしてる人」のところに行って「頑張ってください」って声をかけて、とりあえず元気になってもらうことじゃないのか。で、決めた。大災害とかあったら、オレ、現地に駆けつけてみんなを励まして回るんだ、って。

そうそう、こないだの戦争で亡くなった戦没者の方たちもネ、いちおう「天皇陛下のために」っていって死んでいったわけだから(ま、その頃の天皇はオレのオヤジだったんだけどね)、亡くなった方たちにだって真心を示さないといけない。で、激戦の戦地にもできるだけ行って、戦没者の皆さんを慰霊してあげようって思ったんだ。

で、長年自分なりにそういう信念でやってきて、実際、手応えもでてきたんだよね。そりゃそうだと思うんだ。国民だって「象徴」なんて言われてもよくわかんないと思う。でも、オレが考えてやってることを見て、「あぁ天皇ってそういう存在なんだ」ってイメージが湧いてる部分、確かにあると思うからネ。

ただ、オレなりにそうやって作ってきた天皇のありようって、実際にはけっこう大変だったりするんだ。忙しいんですよ。

もともと憲法で「やれ」って書いてある国事行為の仕事もあるし、ま、あと皇室の私的行事ってことになってるけど宮中祭祀ってのがあって、これは代々やってきたことだっていうからおろそかにできない。

これに加えて、オレが考えてやってきたような行事までこなすとなるとね、流石に80歳過ぎてくるとキツイんです。

オレのやってきたことはいちおう国民的に認められているようだし、今更「ああいうの、やめます」ってことにもいかんでしょう? だったらオレもだんだん体が動かなくなってきたし、数年中に譲位をして、息子がまだ50代のうちに天皇を継いでもらったほうがよかないか。それが今回の発言の趣旨だったワケです。

もちろん、今の法律じゃそういう譲位はできないことになってる。一方で「天皇は政治的な発言をしてはならない」って憲法に書いてあるから、「仕組みを代えてほしいんです」とは言えない。言えないんで、今回はちょっと奥歯にものがはさまったような物言いをせざるを得なかった。

でもね、とにもかくにも何だかワケのわからん「象徴天皇」ってものに、とりあえず命を吹き込んできたという自負がオレにはある。なんとかその方向でやっていきたいんで、そこは以心伝心ってヤツで分かってほしいんだ・・・


たぶん、「そうやって新しい仕事をはじめて自分のクビを締めてしまったのはあなたでしょう、いまさら大変だから譲位したいとか言っても筋違いです、そもそも憲法上の天皇はただ生きていて頂ければそれで良いという概念の上に成り立っておるので、そんな新しい象徴天皇のお仕事などなさらなくても結構だったんですよ」などと冷たく言い放つことも理屈の上では可能である。可能なのだが、人情としてはそうもいくまい(小生なども先の東日本大震災の時とか、「なんとこの天皇という方は私心の無い方なのだろう」と驚嘆したぐらいでアル)。

で、国民はどうするのか? いま、そういう状況である。


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左翼「稲田朋美が防衛相になりましたな。しかし、なんで自民党の女性議員にはこうも右翼が多いのか。稲田のほかにも、高市早苗総務相とか、神武天皇は実在したと信じているらしい<セクシー・ナイト>三原じゅん子なんてのもいる」

老人「いや待て待て、本当に<自民党の女性代議士には右翼が多い>のか? 確かに何となくタカ派、右翼が多いような印象は強いが、単にハト派の女性議員が目立たんだけ、ということもありうる。ちゃんとハト派、タカ派の定義をした上で、どっちが何人いるのか調べてみんと、ハッキリしたことはわからんじゃろう」

左翼「にしても、新内閣に入閣した女性議員3人のうち2人はゴリゴリの右翼だというのは、なんか象徴的ではないですか。あとの一人、丸川珠代に思想なんてものがあるのかどうかは寡聞にして知らんですがネ。思うに、右翼でないと自民党内で女性議員はのし上がっていけないのではないか」

老人「うむ。まあ、安倍首相がああいう国家主義的な思想の持ち主であるから、今の状況では抜擢されるチャンスが増えている、ぐらいのことは言えるかもしれんの」

左翼「自民党というのは、何やかやいって古臭いミソジニーに染まっている連中がまだまだ多い組織ですからな。女性議員はどうしたって<ナメられる>。そこでどうするか。右翼スピリットを身にまとって武闘派路線を打ち出せば、古臭い男たちも一目置かざるを得ないでしょう。ある意味、右翼志向は理にかなっておるわけです」

老人「はて、ワシの目には、彼女たちは心の底から国粋主義に心酔しているようにみえるが?」

左翼「そうであればなお怖い。出世するための手段のはずが、いつの間にか目的になってしまったのではありますまいか。これこそ軒を貸して母屋を取られるというヤツでしょう。国粋主義にまるごと自己同一化してしまえば、出世目当てで右翼に走った自己欺瞞も意識しないで済む。万々歳だ」

老人「その手の俗流フロイト主義みたいな考え方は如何なものか。<アンタは意識していないが、実のところは深層心理のプロセスに操られているに過ぎない、愚ナリ欺瞞ナリ>と断罪する手法は確かにひところ流行ったけれども、しょせんは批判のための批判。本家本元のフロイトが、いまでは疑似科学扱いされておるのだし」

左翼「いちいち小うるさいことですな。まあ良い、彼女たちの<正体>を的確にとらえることは、この国の将来のためにどうしても必要だ。油断しておると、われわれはとんでもないところに連れていかれますぞ」

老人(この男、右翼や国粋主義は男の専売特許だとでも思っておるのか。古い、古すぎる。こんなことだから日本の左翼はどんどん縮んでいくのだ…)  ――終わり――




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舛添さんが辞任に追い込まれたので、また東京都知事選をやるらしい。

都職員の方々とかご苦労さんであるけれども、こういう茶番をみせられた後となると、どうしても思い出してしまうのは2007年の都知事選に出た伝説の候補者、外山恒一である。これまた伝説の政権放送で、彼はこう吠えていた。

abc



所詮選挙なんか、多数派のお祭りに過ぎない

多数決で決めれば、多数派が勝つに決まってるじゃないか


この外山恒一という人は、いまも「ファシスト」と称して政治関係の運動をしているようだけれども、オレ的にはこの人は本質的に「アーティスト」だと思っている。世の中の常識とされているものを疑う。別の見方をすればこの世界は全く別のものとして見えてくる。そういったことをパフォーマンスを通じて表現するというのは、紛れも無く「アート」である。

彼の「政治思想」をちゃんとフォローしているワケではないけれども、先の政見放送をきいてみると、社会改革の道筋など全く示さず、「多数派」が当たり前のように考えているものはインチキだ、という意味のことを繰り返し言っている。「何が問題で、それに対して何をなすべきか」といった具体的なことは、もう綺麗サッパリ、見事に何も語っていない。それもまた、これがパフォーマンスであり、アートであることの紛れもない証左である。

もちろんこういう人に「政治」などという営みを任せることはできない。できないけれども、「人気投票」のようにして選ばれた知事がこのようにして放逐されていくのを見た今、「多数派」のおごりを諌め、「この世界を懐疑せよ」といった風にいわば荒野に立って咆哮する人という人はどうしたって必要なのである。この国の民主主義のためにも。

というわけで、この伝説の政見放送は、実は全都民必見のアート作品なのである。

 

*なお、文字起こししたサイトもあった。読んでみるとまた独特の味わいがある





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死んだままのブログだと思われるのもシャクなので、たまに、どうでもいいこと。

安倍晋三というひとがわからないのである。

こないだの戦後70年談話というのは、もう発表前の段階で四方八方からいろいろ言われていて、つまり「日本は(戦前も含めて)全然悪くないんでちゃんと世界に向けてアピールしてくれ」という<お仲間>からの激励もあれば、「ここでアンタの持論をぶったら日本は世界の孤児になるんで気持ちはわかるが頭下げといてくれ」という所謂「現実主義者」のブレーンとかテクノクラートの方々からの懇願もあるし、もちろん(安倍晋三に聞く耳はないが)「戦争で迷惑かけた人たちにちゃんと謝っておかんといかんぞ」という人々の声もある。

で、結局この70年談話では、「未来永劫・子々孫々まで誤り続ける気はさらさらありませんから」ということを言って<お仲間>の顔を立てている。日露戦争は西欧列強の植民地化の動きに対抗してやむにやまれず立ち上がったもので、日本の戦いは植民地下のアジア人民にも勇気を与えた、などと司馬遼太郎 にかぶれた史観を一席ぶっている箇所もある。たぶん、「大東亜戦争はアジア人民解放の戦いだった」などという一部の右翼が言っている主張は流石に苦しいけれども、帝政ロシアを悪玉に仕立てるのであればあんまり批判も来ないので、こういう言い方をしているのではないか。けっきょくのところあの人は、「戦前の日本は悪くない」と思っているのだろう。

しかし、同時にその手の議論ばっかりだとハラの底が丸見えになってしまうので、「反省」もしてるし「謝罪」もしてます、という事も同時に言っている。もちろん「これまでの日本政権はさんざん謝ってきたではないか。そこんとこは変えません(キッパリ」といって、自分自身に謝る気があるのかないのか明言しない言い方をしているのがなかなかコスイのではあるけれども、いちおう頭を下げるかたちをとって体外的な配慮もみせてはいる。まぁ、各方面にそれなりにナットクしてもらおうという苦心の作であったことはわかる。

ただ、こういう談話をみていてつくづく感じてしまうのは、もっともっと原理的な部分での疑問なのである。こういうロジックの人が、なぜいま、戦前の世界を仕切っていたアメリカと同盟関係を結んで仲良くしよう、と言ってるのかがわからない。


最近では威光もかげってきたとはいえ、いまだ世界の強国であるアメリカと手を組んでりゃ安心だ、というのは国際政治のリアリズムからいえば、安倍晋三の立場もわからんではない。だが、戦後の世界史を考えてみりゃあ、第三世界にさんざっぱら介入して、「反共だったら援助すっからね」とかいって腐敗政権支えてきたのもアメリカだ。「日露戦争がアジア人民に勇気を与えた」とか言ってんなら、そういう「米帝」の策動は批判して「アジア人民の自主独立」を応援するのがスジであって、そういうアメリカのゴーマンな体質は戦前も戦後も変わっとりゃせんのではないか。

*もっとも、アメリカには「もうオレたちヨソのことには関わりあいたくないから」という「モンロー主義」の伝統も一部にあって、それこそ第二次大戦の時なんかもチャーチルの「参戦して助けてよ」という要請になかなか応じなかった。最近も、勢い込んでイラクぶっつぶした迄はいいが、そのあとグチャグチャの泥沼作っちまった反省から「中東に深入りするのはこりごりだ」的なトレンドもあるらしいので、ま、その辺は相対的な問題ではあるんだけどね。



閑話休題。もちろん「靖国の英霊」をたたえる心情というのは、「親米」とは両立しないと思う。実際、安倍は靖国に参拝するたびにアメリカの偉い人たちから怒られてしまい、ここんとこ全然行けなくなってしまった。

いや、そもそも戦後日本の右翼というのは、「反共」から思考を組み立てているので、反共の大親分であるアメリカとべったりで生きていくというのが別に不思議ではなかったのだろうというのはわかる。わかるけれども、この歴史的に生まれた「親米右翼」というのが理屈からいえば何とも不可解な存在であることは結構むかしから指摘されてきたわけである。

ところがこの安倍晋三というひとは、その辺の「矛盾」には全然無頓着なようなのだ。なぜなのか。それとも、ハラん中では「今んとこはアメリカの手下で甘んじるしかねーが、今にみていろ、何かあったら一泡吹かせてやるからな」とかスゲーこと考えてんのか。アンタ石原莞爾かよ、みたいな(笑)。

ともあれ、少なくともそのあたりの「わけのわからなさ」を解消すべく、自らの思想を明瞭に言語化して説明してほしい。そういうことのできる人なのか、って? うむ、オレもそこんところが疑問なのである。一国の首相があまりに頭が悪く、そうした応答責任さえも果たせないような人物であった、というようなことは御免被りたいンだが・・・。


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春節(旧暦の正月)とやらで休みになった中国人が日本にも大挙やってきていろいろ買い物しまくってる、というニュースをここんとこ続けざまに見せられた。

まぁ日本も消費不足でモノが売れなくて困ってるというので、こういうお客さんが来るのはとても良いことなのだろう。ま、ここんとこやることなすことダメダメの日本からすると、むかしは貧乏してた隣人が突然金回りよくなって贅沢しだしたみたいなもンで、なかなか心中穏やかならぬものがある(笑)。もっとも、外国にいってブランド品とか買いまくるというのは四半世紀前のバブル時代の日本人も盛んにやってたことでもあり、「あぁ、当時の日本人も世界からはこんな風にみえてたんだろうなぁ」と微苦笑してしまうのであった。

閑話休題。

オレは経済というものがからっきしワカランのだが、このようなトレンド――つまり、ごく一部とはいえこんなに金払いのいい中国人が大発生しているというのをみると、「あんたらそんなに浮かれていて大丈夫なのかい?」みたいなことをついつい考えてしまうのだった。

たとえば羽振りの良かった頃の日本であれば、「国民が勤勉でキチッとした仕事ができる」といったあたりが製造業の強みだと言われていて、実際に手堅い商品が世界にウケていたのである。最近はあまり元気ないようだが、たとえばイタリアあたりだと「腐っても鯛で美的センスは流石だ」とかナントカいって、ファッションとかのジャンルではなお気を吐いているようでアル。つまり、ある国が経済的に伸張するのはそれなりの理由があって、つまりその国民に独特の「才覚」が開花したときに万事うまくまわっていくのではないか、みたいなイメージがある。

さて、そういう目でみると、中国経済の「売り」というのは何なのか。

昔から華僑みたいな存在はいて、中国人は商売人としてはなかなか才覚があるようなことはいわれてんだが、それだけではないだろう。メディアとかでよく見聞きするのは、「安い給料でソコソコの仕事をしてくれる人間がウジャウジャいるんで世界中から資本が入っていって工場をいっぱいたてて、フル操業で世界中に輸出をしてボロもうけ」みたいな仕組みである。で、貧乏だった中国の人たちもがこうやって稼げるようになると、何しろ大市場であるから国内の消費もガンガンあがって景気はドンドンよくなる、という理屈であるらしい。

というワケで、なるほどそりゃうまくいくだろうなあ、とオレなんかも思ってたんだが、しかし、最近は労働者の給料もだいぶアップしてしまったようで、日本企業も「工場たてるならベトナムへ」みたいなトレンドもあるらしい。社会の高齢化も日本以上のスピードで進んでるっつーし、大丈夫なのかと思うぞ。

つまり、「安い労働力がある」というところからすべてが好循環しているンだとしたら、その前提が崩れたときにどうなっちまうのか、中国経済の繁栄っていうのは砂上の楼閣じゃねーのか、という気が素人ながらするのである。

で、話はもとに戻る。何か「中華民族にはこういう得意技がある」みたいなものがあれば、こういう悲観的シナリオとは違うような話にもなってくるんだが、じゃあそういう得意技みたいなのはあるのか。日本人の「勤勉」みたいなもの。

そこがよくわからん。安価な労働力を生かして、パソコンのパーツみたいに特定の規格に沿ったものを機械的に組み立てる、みたいな仕事だったらいくらでもできるだろうが、こういう仕事はもっと安い給料で働いてくれる人たちが出現したらなくなるのである。「先進国が開発した液晶パネルとかの技術をすばやくコピーして安く売る」みたいなイメージもあるが、いったん追いついちゃったらコピー作戦では済まなくなるので、自分で独創的なものを作らなきゃいかん。そこまで行ってるのか中国は。

わからん。中国共産党の偉い人たちはそのへん展望があるんだろうか。政治的には緊張関係にあるとはいえ、中国経済が高転びに転んだら、日本経済も大変なことになるらしい。さて、20年後とかにはどうなってるのか。





















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新聞の事件記事でたまに見るのが、この「意味不明のことを話しており」というフレーズである。

当然、何かしでかした犯人が捕まって警察の取り調べを受けているときに、この「意味不明のことを話しており」状態になるのである。

もちろん、これは昔であれば「キチガイ」のひと言で済んだわけだが、今の人権感覚の進んだ社会(笑)ではそういう事はいえない。その辺をニュートラルに言うなら「精神病者」ということになるんだが、これは「精神科医にかかってそういうふうに診断された」という客観的事実を押さえないと使えない言葉なのだ。だから犯人が捕まったばっかり、という状況では、まず「精神病者」などと言うことはできない。

だから「意味不明のことを話しており」になってしまうんだが、オレなんかからすると、こういう言い方はすこぶるギマン的である。

確かに「キチガイ」と正面切って言うよりはマイルドである。あるけれども、このバアイ、「意味がある・ない」というのはマワリの人間が勝手に判断して言っているのであって、その犯人の立場からすると、おそらく何か意味のあることを言ってるつもりなんである。

となると、「意味不明」とか切って捨てるのは、「コイツとは意志疎通できねーな」といってコミュニケーションを拒絶してる点で「キチガイ」といって排除するのと五十歩百歩である。とゆーか、「キチガイ」と切って捨てた時の「こっち側の独善性」みたいなのを糊塗してる、という点ではむしろあくどいような気さえする。

ことほどさように、最近の言葉狩り→とりあえず言い換え、みたいな流れはギマン的である。マイルドな言い換えで自分(たち)の特権性をなかったことにする。何だか気持ちの悪い時代である。


追記
たまたま、いまテレビのニュースでも言っていたんだが、「心肺停止」って言葉もなんかそういう責任転嫁っつーか、「状況を自分で背負いたくない」的文脈では通底しているよなぁ。「医師が診断しなければ死んだかどうかわからんので、いま目の前に転がってるのは心肺停止のヒトである」、というのはどう考えてもバカの寝言であるわけで。

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このたびの朝日新聞誤報問題で、改めて福島第一原発の事故当時の吉田昌郎所長という人物にスポットが当たっている。

人間としてもかなり魅力のある親分肌の人物で、例の事故の際、上から「原発への海水注入止めろ」みたいなよくわからん指示がきたときに、これを無視して注水し続けたことなんかもあって、一般的には「日本を破滅から救った人」みたいなことになっている。

オレも確かにそういう人なんだろうと思う。修羅場で部下がちゃんとついてくるような、ああいう人物があそこにいなかったら、果たして日本はどうなってしまったか、と思うことは多々ある。

ただ、ああいう人物にしても神様ではない。人間である以上、過ちから逃れることはできない。メディア的には、彼は神様扱いされているんだが、そこのところはちゃんと冷静な視点を失わないようにしないといけない、と思う。

たとえば、地震の3年前にあたる2008年2月、東電の土木調査グループは、福島第一原発で想定される津波が7.7メートル以上になる可能性を社内会議で報告し、次いで3月には、さらにそれを上回る15.7メートルの津波が起こる可能性アリとの試算を出したのだという(ちなみにこれは東日本大震災の時の津波とほぼ同じ高さである)。

さて、その頃吉田氏はどうしてたかというと、2007年4月に東電に新設された原子力設備管理部の部長というのをやってきた。つまり原発の設備管理を仕切るお役目であり、福島にデカイ津波が襲来する可能性があるとなれば、それ相応の対応を取らねばならないお立場である。ところが吉田氏、この15.7メートルの津波の可能性が指摘された際に、ま、もちろん上に報告していろいろ検討はしたようなんだが結果的には津波対策を講じなかった。そういう責任者である。

ま、このあたりのことはチラチラ報道されてきたけれども、そういう流れを踏まえて考えてみると、津波で原発がめちゃめちゃになった時、おそらく吉田所長の心中には「あ、やっべ、大津波来る可能性アリってデータ来てたじゃねーかよ、あれ、結果的に何にも手を打たなかったからこんなことになっちまったじゃねーか、あぁオレってばバカバカ、何してたんだよ~、こりゃ死ぬの覚悟で終息させねーとッ!」みたいなものが去来したんではなかろうか。あの獅子奮迅の働きというのは、せめてもの罪滅ぼし、ってことだったのかもしれないのだ。

ちなみにこの津波対策の不作為にかんして、住民グループは、東電の勝俣恒久元会長はじめ旧経営陣を業務上過失致死傷罪などで告訴・告発したんだが、これは結果不起訴となった。なったんだが、この7月に検察審査会が「起訴相当」の議決を行った。そこで問われた不作為のプロセスにこの吉田所長も関わっていたということなのである。

何かこの辺を「ヒーローとしての吉田所長」みたいな文脈で処理してしまうと、見るべきものも見えてこなくなってしまうおそれがある。情緒的な報道はほどほどにしてくれよ、と思う所以である。




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川越達也のナポリタンバーガー、ロッテリアが9月下旬までの期間限定で。」というNEWSを見かけた。

なるほどなるほど、やっぱそう来たかと思ったわけであるが、そのあたりのことは以前書いたこのエントリー「川越シェフ騒動に思ふ」というのを参照願いたい。こっそり大衆の反応を確かめて、うまくいくようならあとは一瀉千里ってことかね
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夏の甲子園で一回戦を突破した東海大四・西嶋投手の「超スローボール」が話題になっている。プロ候補をズラリと並べた九州国際大付をこの「魔球」で翻弄したという、ま、プロ志向のセミプロ球児が大嫌いなオレにとっちゃ痛快な話である。

ところが、どっかの元アナウンサーが「ダメとは言わないが、少なくとも投球術とは呼びたくない。意地でも。こういうことやっていると、世の中をなめた少年になって行きそうな気がする」などとツイートしたらしく、「そりゃないだろうゼ」という批判の集中砲火を浴びておるらしい。

ま、批判されるのが当然である。超スローボールはイカンと思うのは勝手だが、曲がりなりにもスポーツ報道などやってきたという人物なので、そんな人間がこの程度のことしかいえないのかと思うとガックリくるぞ。

これまでもう何十回と書いてきたことだが、高校野球について「これは教育の一環なので、みんなで清く正しく美しくプレイしましょうネ」みたいな幻想をいまだに抱いている人がいて、しかし実情はといえば甲子園大会なんかは基本的にプロ入り志望の欲望をギラギラさせたセミプロ球児のセレクション大会となっている。「清く正しく美しく」なんてものは全くのフィクションである。

まぁこの元アナウンサーがそういう幻想を夢見ている人物かどうかは知らんが、少なくとも超スローボールで打ち気をそらすようなことをしていると「世の中をなめる」人間になってしまうと言っているから、つまりここでは「君はフツーの速さの球を投げたほうが良くないかネ」と説教しているのである。つまり何だかしらんが「オレのイメージした正しい高校野球に反しているので嘆かわしい」と言っているワケで、勝手な思い入れで高校野球をみていることには変わりない。

ネットでもさんざん書かれておるが、じゃあ「変化球でかわす」のも嘆かわしいのか。「隠し球」はしちゃいかんのか。「盗塁」なんて搦め手で攻めるのは卑怯ではないのか。じゃあ150キロを超すような剛球を投げる投手は「高校生らしくない」ので批判すべきなのか(この最後のはネットで読んだコメントであるが、呵々大笑したゼ)。

いや、もともと野球というのは、策略に満ちたスポーツなのだ。アメフなんかもそうだろうが、アメリカ発祥のスポーツというのは、基本的に知恵をしぼって作戦たてて攻略を図るという性格をもっているのである。その点に限っていえば、野球というのは単純に「強いヤツが勝つ」可能性の高いレスリングとかと違って、「弱者にやさしい」スポーツなのである。

であるからこそ、「セミプロ軍団を地方の公立高校が撃破する」などという椿事も、まぁ今となってはあんまりなくなってしまったけれど、可能性としては常に起こる可能性をひめている。弱者が、ルールの範囲内で無い知恵しぼって強者に一泡吹かせる。たいへん結構なことではないか。

今回の東海大四・西嶋投手が、ここでいう「弱者」であったことに間違いはない。彼は身長170センチもないちびっ子投手。相手はプロの注目も集めている連中で、185センチとかいう大男がズラリとそろっておる。しかも敵の監督はダルビッシュを育てた名伯楽ときておるぞ。勝った東海大四だって、ま、北海道じゃ名が知れた野球名門校かもしらんが、その格においては横綱と幕下ぐらいの差があろう。

元アナウンサーの言うとおり、西嶋投手がフツーの球をフツーに投げておったら、敵にとっては打ちごろの半速球になることは目に見えておる。そこで創意工夫をこらし、敵を焦らして五分の勝負にもちこむ。何が悪いのか?

というわけで、奇策けっこう、「卑怯」も大いにけっこう。外野が偉そうに「高校野球の理想」を語るなど笑止千万。ここはレリビー。








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