カテゴリ: NEWS

新聞の事件記事でたまに見るのが、この「意味不明のことを話しており」というフレーズである。

当然、何かしでかした犯人が捕まって警察の取り調べを受けているときに、この「意味不明のことを話しており」状態になるのである。

もちろん、これは昔であれば「キチガイ」のひと言で済んだわけだが、今の人権感覚の進んだ社会(笑)ではそういう事はいえない。その辺をニュートラルに言うなら「精神病者」ということになるんだが、これは「精神科医にかかってそういうふうに診断された」という客観的事実を押さえないと使えない言葉なのだ。だから犯人が捕まったばっかり、という状況では、まず「精神病者」などと言うことはできない。

だから「意味不明のことを話しており」になってしまうんだが、オレなんかからすると、こういう言い方はすこぶるギマン的である。

確かに「キチガイ」と正面切って言うよりはマイルドである。あるけれども、このバアイ、「意味がある・ない」というのはマワリの人間が勝手に判断して言っているのであって、その犯人の立場からすると、おそらく何か意味のあることを言ってるつもりなんである。

となると、「意味不明」とか切って捨てるのは、「コイツとは意志疎通できねーな」といってコミュニケーションを拒絶してる点で「キチガイ」といって排除するのと五十歩百歩である。とゆーか、「キチガイ」と切って捨てた時の「こっち側の独善性」みたいなのを糊塗してる、という点ではむしろあくどいような気さえする。

ことほどさように、最近の言葉狩り→とりあえず言い換え、みたいな流れはギマン的である。マイルドな言い換えで自分(たち)の特権性をなかったことにする。何だか気持ちの悪い時代である。


追記
たまたま、いまテレビのニュースでも言っていたんだが、「心肺停止」って言葉もなんかそういう責任転嫁っつーか、「状況を自分で背負いたくない」的文脈では通底しているよなぁ。「医師が診断しなければ死んだかどうかわからんので、いま目の前に転がってるのは心肺停止のヒトである」、というのはどう考えてもバカの寝言であるわけで。

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このたびの朝日新聞誤報問題で、改めて福島第一原発の事故当時の吉田昌郎所長という人物にスポットが当たっている。

人間としてもかなり魅力のある親分肌の人物で、例の事故の際、上から「原発への海水注入止めろ」みたいなよくわからん指示がきたときに、これを無視して注水し続けたことなんかもあって、一般的には「日本を破滅から救った人」みたいなことになっている。

オレも確かにそういう人なんだろうと思う。修羅場で部下がちゃんとついてくるような、ああいう人物があそこにいなかったら、果たして日本はどうなってしまったか、と思うことは多々ある。

ただ、ああいう人物にしても神様ではない。人間である以上、過ちから逃れることはできない。メディア的には、彼は神様扱いされているんだが、そこのところはちゃんと冷静な視点を失わないようにしないといけない、と思う。

たとえば、地震の3年前にあたる2008年2月、東電の土木調査グループは、福島第一原発で想定される津波が7.7メートル以上になる可能性を社内会議で報告し、次いで3月には、さらにそれを上回る15.7メートルの津波が起こる可能性アリとの試算を出したのだという(ちなみにこれは東日本大震災の時の津波とほぼ同じ高さである)。

さて、その頃吉田氏はどうしてたかというと、2007年4月に東電に新設された原子力設備管理部の部長というのをやってきた。つまり原発の設備管理を仕切るお役目であり、福島にデカイ津波が襲来する可能性があるとなれば、それ相応の対応を取らねばならないお立場である。ところが吉田氏、この15.7メートルの津波の可能性が指摘された際に、ま、もちろん上に報告していろいろ検討はしたようなんだが結果的には津波対策を講じなかった。そういう責任者である。

ま、このあたりのことはチラチラ報道されてきたけれども、そういう流れを踏まえて考えてみると、津波で原発がめちゃめちゃになった時、おそらく吉田所長の心中には「あ、やっべ、大津波来る可能性アリってデータ来てたじゃねーかよ、あれ、結果的に何にも手を打たなかったからこんなことになっちまったじゃねーか、あぁオレってばバカバカ、何してたんだよ~、こりゃ死ぬの覚悟で終息させねーとッ!」みたいなものが去来したんではなかろうか。あの獅子奮迅の働きというのは、せめてもの罪滅ぼし、ってことだったのかもしれないのだ。

ちなみにこの津波対策の不作為にかんして、住民グループは、東電の勝俣恒久元会長はじめ旧経営陣を業務上過失致死傷罪などで告訴・告発したんだが、これは結果不起訴となった。なったんだが、この7月に検察審査会が「起訴相当」の議決を行った。そこで問われた不作為のプロセスにこの吉田所長も関わっていたということなのである。

何かこの辺を「ヒーローとしての吉田所長」みたいな文脈で処理してしまうと、見るべきものも見えてこなくなってしまうおそれがある。情緒的な報道はほどほどにしてくれよ、と思う所以である。




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川越達也のナポリタンバーガー、ロッテリアが9月下旬までの期間限定で。」というNEWSを見かけた。

なるほどなるほど、やっぱそう来たかと思ったわけであるが、そのあたりのことは以前書いたこのエントリー「川越シェフ騒動に思ふ」というのを参照願いたい。こっそり大衆の反応を確かめて、うまくいくようならあとは一瀉千里ってことかね
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夏の甲子園で一回戦を突破した東海大四・西嶋投手の「超スローボール」が話題になっている。プロ候補をズラリと並べた九州国際大付をこの「魔球」で翻弄したという、ま、プロ志向のセミプロ球児が大嫌いなオレにとっちゃ痛快な話である。

ところが、どっかの元アナウンサーが「ダメとは言わないが、少なくとも投球術とは呼びたくない。意地でも。こういうことやっていると、世の中をなめた少年になって行きそうな気がする」などとツイートしたらしく、「そりゃないだろうゼ」という批判の集中砲火を浴びておるらしい。

ま、批判されるのが当然である。超スローボールはイカンと思うのは勝手だが、曲がりなりにもスポーツ報道などやってきたという人物なので、そんな人間がこの程度のことしかいえないのかと思うとガックリくるぞ。

これまでもう何十回と書いてきたことだが、高校野球について「これは教育の一環なので、みんなで清く正しく美しくプレイしましょうネ」みたいな幻想をいまだに抱いている人がいて、しかし実情はといえば甲子園大会なんかは基本的にプロ入り志望の欲望をギラギラさせたセミプロ球児のセレクション大会となっている。「清く正しく美しく」なんてものは全くのフィクションである。

まぁこの元アナウンサーがそういう幻想を夢見ている人物かどうかは知らんが、少なくとも超スローボールで打ち気をそらすようなことをしていると「世の中をなめる」人間になってしまうと言っているから、つまりここでは「君はフツーの速さの球を投げたほうが良くないかネ」と説教しているのである。つまり何だかしらんが「オレのイメージした正しい高校野球に反しているので嘆かわしい」と言っているワケで、勝手な思い入れで高校野球をみていることには変わりない。

ネットでもさんざん書かれておるが、じゃあ「変化球でかわす」のも嘆かわしいのか。「隠し球」はしちゃいかんのか。「盗塁」なんて搦め手で攻めるのは卑怯ではないのか。じゃあ150キロを超すような剛球を投げる投手は「高校生らしくない」ので批判すべきなのか(この最後のはネットで読んだコメントであるが、呵々大笑したゼ)。

いや、もともと野球というのは、策略に満ちたスポーツなのだ。アメフなんかもそうだろうが、アメリカ発祥のスポーツというのは、基本的に知恵をしぼって作戦たてて攻略を図るという性格をもっているのである。その点に限っていえば、野球というのは単純に「強いヤツが勝つ」可能性の高いレスリングとかと違って、「弱者にやさしい」スポーツなのである。

であるからこそ、「セミプロ軍団を地方の公立高校が撃破する」などという椿事も、まぁ今となってはあんまりなくなってしまったけれど、可能性としては常に起こる可能性をひめている。弱者が、ルールの範囲内で無い知恵しぼって強者に一泡吹かせる。たいへん結構なことではないか。

今回の東海大四・西嶋投手が、ここでいう「弱者」であったことに間違いはない。彼は身長170センチもないちびっ子投手。相手はプロの注目も集めている連中で、185センチとかいう大男がズラリとそろっておる。しかも敵の監督はダルビッシュを育てた名伯楽ときておるぞ。勝った東海大四だって、ま、北海道じゃ名が知れた野球名門校かもしらんが、その格においては横綱と幕下ぐらいの差があろう。

元アナウンサーの言うとおり、西嶋投手がフツーの球をフツーに投げておったら、敵にとっては打ちごろの半速球になることは目に見えておる。そこで創意工夫をこらし、敵を焦らして五分の勝負にもちこむ。何が悪いのか?

というわけで、奇策けっこう、「卑怯」も大いにけっこう。外野が偉そうに「高校野球の理想」を語るなど笑止千万。ここはレリビー。








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で、このたびのセクハラヤジ問題である。

都議会で少子化問題について質問に立った「美人都議」に対して、議場で「お前が結婚しろ」とヤジを飛ばした自民党議員がようやく「自首」、いまフクロになっている、というのが現状である。

まぁポリティカルコレクトネスっつー点からいえば、セクハラヤジにはまったく弁護の余地がないのである。話をごく単純化していうなら「産む産まないは女の自由!勝手にさせろや」というのは、いまや一点非の打ち所のない完璧な正義なので、これに対して揶揄するようなことを言うのは野蛮人。それでオワリ。

まぁしかし、こういう状況に感慨を抱いてしまうようなところもあって、つまり「種の保存」(自己の遺伝子の保存、が正しいという説もあるが)なんて本能的なものは捨ててしまい、オレたちは「とにかく個々人の自由な生き方・尊厳を守るのが何より大事」とゆー文明を築き上げてしまったのだなぁ、というハナシだ。

どういうことかというと、もちろん政府が「ウン十年後の経済が回らなくなるので子供産んでネ」などと猫なで声で擦り寄ってくるというのは実に気持ちが悪く、オレが女だったら「死んでも産んでやるかい!」と反撥するだろうが、それはそれとして、基本的に「子供をもつ」というのは、どうしてもいくばくか自分の自由というものを犠牲にしないと立ちいかないところがある。もちろん、保育所を充実させればあんまり自由とか侵害しないで済むから、その線で手を打とうや、というのが今のポリティカルコレクトネスになってんだが、やはり原理的にいえば子供は個人の自由を奪う。「種の保存」なんてしらネーよ、子供なんて無理してまで産まねーよ、というのが今の文明のデフォになっている。

だから「環境さえ整えば、産みたくても産めない人が産んでくれるから子供は増える。だから保育所を整えましょうネ」みたいな、今んとこ「正しい」とされてる議論をオレは疑う。そりゃ短期的にはそういうコトになるかもしらんが、それにしてもいまの合計特殊出生率1.4が2ぐらいまで跳ね上がるなんてことはもう絶対ありえんわけだし、人間はキホン「個人を束縛するものはイヤ」という方向に文明の舵を切ってしまっているので、最終的には「いや、やっぱ子供いらんワ」という方向にズルズルと流れていくしかないのである。

だから、今回のセクハラ都議はマジ少子化問題を憂えてあんなことを言ってしまった、という(まぁほとんどありえない)仮定をしてみても、あんな風に嫌がらせめいたことをいうのは意味のないことであった。ほっとけばいいのである。保育所とか作ってほんの少し効果が出れば「良かった良かった」とかいってそれで満足してればいいのである。そういう道をワレワレは選んだのだから。以て瞑すべし、とゆーやつである。


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今年もプロ野球開幕である。

いまのところのセリーグは、巨大戦力を擁する巨人の一人勝ち的状況のようであるが、野球をチラチラみていると何か釈然としない思いが胸中に浮かび上がってくるのである。つまり、いわゆる「ジャンパイヤ問題」である。

ずっと昔、巨人の王は「選球眼が良い打者」ということになっていて、だから王が自信満々で見逃した球はどんなにど真ん中でもボールに判定される、という伝説があった。これを俗に「王ボール」という。

まぁその真偽はともかく、ここで言いたいのは、「やっぱプロ野球の審判は巨人びいきだよなー」という体感的事実は、昔からそうやってファンの間で語り継がれていた、ということである。で、後年、この問題にかんして巨人びいきのアンパイヤ=ジャンパイヤ、なる造語が生まれたという次第。で、時は移れど、どうもこの傾向は今も続いているんではないか。

唐突ではあるが、オレとしては、最近話題の「STAP細胞問題」と「ジャンパイヤ問題」が頭の中でだぶってくるのである。

そりゃ、巨人は戦力的には他を圧倒している。たぶん強いんだろう。しかし仮に連中が、「それはそれとして、俺たちのチームは絶対負けるワケにはいかないので、保険として審判を抱き込んでおくことにスッカ」と考えらどうなるか? そうするともう何も怖いものはナイ。圧倒的な強さで優勝することになります。

しかし、そうやってズルをして得た優勝というのは価値があるのか? いや、たぶん実力だけでやっても優勝できたんだろうが、ズルをした時点で本来その優勝は「認められません」というのが真っ当な考え方であろう。ズルが発覚したら優勝はナシである。

そう、小保方さんの論文がイイカゲンだったというのは、この「ジャンパイヤの採用」に相当するのである。仮にジャンパイアがいなくても優勝=STAP細胞ハッケン、ということになったかもしれぬ。でも、ズルしたからもうアンタはここから出ていってください、そういう話になる。もはやSTAP細胞があろうがなかろうがそれは変わらない。そういう状況なのである(が、この辺のリクツが天声人語子には全然わからないらしい。その辺は前回のエントリーで書いたとおり)。

「インチキしても勝ちにいくというのはやっぱダメだなんだよなあ」という意味で、プロ野球関係者なども今回のSTAP問題をわがこととして考えていただきたい。が、そんなことを考えているのはオレだけであって、まぁ当事者たちはそんなことは露ほども考えていないであろう(笑)。











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NHKをつけっぱなしにしてんだが、開会式も終わって、いまちょうど開幕試合が始まるところである。

で、高校野球の季節が来るたびに性懲りもなくイロイロ書いているンだが、言いたいことはいつだって変わらない。

端的にいいますと、今大会の見どころは

「プロのスカウトの目にとまるためには甲子園に出ないとイカンので、なりふり構わずチャンスの多い東北あたりに野球留学してでも甲子園を目指すセミプロ球児」



「プロ野球に行くほどの技量は全然ないんだが、たまたま勝ち上がって出場できることになった公立アマ球児」


の対決でアル。

具体的にいうと、21世紀枠だか何だかに選ばれて奇跡的に出場を果たすことになった都立の進学校、小山台高校が、本日の第3試合に登場して、大阪の強豪・履正社に挑むワケであるが、その負けっぷりに注目したいのでアル。今大会の唯一最大の見どころはココである。

まぁオレの持論からすると、セミプロ軍団に公立が一泡吹かせる、というのが理想の展開なのだが、いやしかし、セミプロ軍団だって、「公立の進学校の奴らにオメオメ負けたら、いったいオレ等の存在価値はどうなンだYO。こちとらお遊びじゃねーんだ、ゼッテー負けねーンだYO」という、それはそれで命懸けの覚悟で向かってくるのでアル。万一負けたりしたら、その屈辱は末代まで語り継がれてしまうので死にものぐるいなのでアル(いや正確にいうと、力の半分も出せば完勝なので適当にやってくるンだが、審判のキワドイ判定とか不確定要素もあるので、万一微妙な展開になってきたら必死モードに入る、ということだろうがネ)

で、たぶん小山台はボロ負けするんだが、それでもいくらかは食らいつくことができるか、あるいはセミプロ軍団の前に完膚無きまでに叩きのめされるか。そのあたりに注目して、生暖かく試合経過を見守りたいものである。

*なお、以下は余談であるが、オレの出た高校はいちおう地方の公立進学校であって、だからこそこういう判官贔屓をしているのである。で、今みたいな高校セミプロ球児育成プログラムが確立していない時代の話ではあるが、この高校からは、何と巨人軍とかで内野手として活躍した選手が出ておる。

土屋正孝

という人物で、「眠狂四郎」のニックネームで親しまれたという伝説がある。どうだ参ったか。まぁ可能性はドンドン低くなっていくが、そういう奇跡みたいなものが今の時代にもあっていいと思うのだ。なお、土屋正孝先輩のことは沢木耕太郎の『敗れざる者たち』にも書いてあるから、ぜひ読んでおくように。

敗れざる者たち (文春文庫)
沢木 耕太郎
文藝春秋
1979-09-25



【追記】
と、いったん書いてみたところで、オレは履正社という高校のコトを全然知らんことに気づいたので、念のためにググってみた。ヤッパリ野球の上手な選手をイッパイ集めているよーであるが、ただ同時に進学コースみたいなものもあるらしく、まぁそこそこの進学実績は残しているらしい。

確か常総学院とかも、子どもを通わせていた知人がいたのでチラっと聞いたことがあるんだが、野球部に活躍してもらって名前を売って、それから進学コースみたいなのも作って進学実績も残して、みたいな二正面作戦を採っているようである。「野球バカ」とか言われるのがシャクなので、こういう作戦をとる学校も増えているのかもしらん。よくわからんけど。

【追記の追記】
なお、結果的に小山台は完膚無きまでに叩きのめされてしまいました。9回、ボテボテのゴロが内野安打になって、かろうじてノーヒットノーランを逃れたのが救いといえば救いという哀しい結末でありました・・・



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ソチ五輪の話なのだが、新聞の見出しにいきなり「カーママ」とかあって、一瞬何のことかわかんなかった。

いや、もちろん3秒後にはカーリングママ=カーリングのママさん選手とゆー意味であろうという推測が閃いたのではあったが、しかし何だかなぁという思いが胸中に兆したのだな。

サムラゴウチさんとかオボカタさんの報道をめぐって、「本人がなし遂げたこと」を掘り下げていくよりも、それにまつわるエエ話みたいな、ある種エピソード方面にもっぱら注力して報道していくとゆーのは正しいことなのだろうかという問題が提起されたことは記憶に新しいが、ヤッパこの国ではそういうエピソード万能主義は不滅なのだな。

つまりカーリング選手の「ワザ」というものがあるとして、本当ならその選手がママだろうが婆さんだろうが未亡人だろうが不倫OLだろうが一切関係なく「ワザ」方面から話を説き起こしていくのがスジであるにもかかわらず、しかし実は誰もそんなことを求めてはいない、たぶんそういう話なのであろう。

カーリング選手のワザとか、サムラゴウチ作といわれてきた交響曲のスバラシサとかをじっくり吟味しようともせず、その周辺の撒き餌みたいなもの、わかりやすいお話にばっかり引っかかってしまうというのは、おそらくはワレワレの知性の欠如の反映なのだろう。あるいは痴性の過剰か。

そーいう意味では、このタイミングで見出しに「カーママ」とかつけた新聞が出回ってくるとゆーのは、メディアのサイドからいえば「オマエラしょせんバカなんだからこんなのでおkだよなー」という時宜になかったメッセージであるに違いない。ま、そりゃそうかもしれんけどな。
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というわけで、ソチ五輪男子フィギュアでは見事羽生選手が金メダルをとった。

おめでとう。あんなにクルクル回ったり跳ねたりするというのは、やっぱ並外れた修練のみが可能にする超人のワザでアル。

と褒めたそばからナンだが、でもやっぱアレってスポーツ競技としてはどうなんだろうネと改めて思うのだった。いつも言ってるのだが、採点競技とゆーのは採点基準がけっこー恣意的に決められているので「勝った負けた」についてどーしても釈然しないところが残ってしまう、という例の問題である。

まぁ今回の羽生選手のフリーなんかも、4回転ジャンプですっ転んでいるんだが「いや、採点上は4回転成功デス!」とかナンとかテレビで解説してるので、「ふーん・・・。そういう決まりなんですネ良かったですネ」とオレは内心でイヤミを言うのだった。

・・・いや、今回はそんなことを言いたいのではなかった。問題は、フィギュアの演技のバックに流れる音楽のコトなのである。

たとえば、こういうコトを考えて欲しい。テレビのニュース番組ではふつう、バックに音楽なんか流さない(ワイドショーは違うだろうけど)。何故かというと、「凶悪犯罪の容疑者逮捕!」→「ジャジャーン!!と怖ろしげな音楽」みたいなコンボを発動させると、どうしたって視聴者のほうはニュートラルな気分でニュースをみられなくなる。

「そうかー、コイツが犯人なのかー悪いヤツだなー」と反射的に思ってしまって、「ひょっとしたらその容疑者が無罪なのかもしれない」といった思考はアタマの中からすっ飛んでしまう。BGMっつーのは、どうしたってその場の人間の冷静な判断を狂わせて、情緒的な反応を呼び覚ましてしまうのでアル。だからこそ、公明正大を旨とするニュース番組では、そういうBGM的音楽を流すのは禁じ手なのだな。

で、話はフィギュアに戻る。よくよく考えてみると、ワザの「正確さ」とか「美しさ」(とゆーのもかなり主観的なものには違いないが)を、それでもできるだけ公平・客観的に評価するというタテマエで、こういう競技は成り立ってるのではないか。しかし、ここで音楽という要素が入ってきてしまうと、たとえば「音楽の力」で「実際よりよく見えてしまう」という事態だって十分考えられるではないか。

BGMにあわせて演技する「スポーツ」とゆーのは、フィギュアのほかに新体操とかシンクロナイズトスイミングとかもあるけれども、そういった意味で、こういうのはオレ視点ではいずれも「擬似スポーツ」である。「音楽の選曲しだいで結果が変わってくる」となると、もう、これはスポーツとゆーより「興行」とか「エンターテインメント」といったものに近いのではないか? それがオレのこの種の採点競技に対する根源的なギモンなのであった。

「イヤイヤそうはおっしゃいますが、それが現代のスポーツとゆーものなのデスヨ、テレビに流した時も絵になりますしネ」とIOC委員がいうのであれば、オレ的には「そこまで言うならもう分かった、じゃあポールダンスとかフレンチカンカンあたりもオリンピック競技に入れなさいヨ」と提案をしたい気分である。まぁ羽生クンには悪いけれども、オレ的にはそっちのほうが観ててずっと楽しめそうだし(笑)。

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左が妖精然とした羽生クン。右は将棋の天才のほうの羽生

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昨年末に靖国神社に参拝した安倍首相であるが、国内的にはともかく、国際政治的には親分のアメリカ様に「こらこら韓国や中国にケンカ売るのはヤメロや」と怒られてしまったようで、なかなか辛い立場である。

安倍首相は「ちゃんと説明すればわかってもらえる」という立場のようであるが、それはなかなか難しい。なんたらクリスティーンとかいうハーフのタレントが「ヒトラーのお墓参りをするに等しい」みたいなことを言って批判したらしいが、おおかた世界のジョーシキというのはヒトラー≒東条英機(≒昭和天皇)みたいな感じになっているので、そういう理解をされても致し方ない。

もちろん、全権を握った独裁者ヒトラーに対して、当時の日本の指導者たちは「どーしよどーしよ」と右往左往しているうちに何となく対米戦争をおっぱじめちまったわけだし、天皇にしても開戦前は「負けるんじゃねコレは。やめといた方がよくネ?」みたいな感じでかなりビビっていたワケで、別に世界制覇の陰謀を練っていたわけではない。

ついでに言っておくと、ドイツの場合、大多数の国民は「ヒトラーいいじゃん!」って喝采の声を上げて、クリスタル・ナハトでユダヤ人泣いてるのを見て見ぬフリしてたにもかかわらず、戦争が終わった途端に「ヒトラーガー」とかいって罪を全部アイツになすりつけてしまうという見事な自己保身戦略を展開しているのであって、ある意味「コスイ」気もする。

むしろ「東条英機はゴーマンな奴だったが、この日本の無責任体制のなかで敢えて責任を問うとすればアイツが槍玉にあがるのは仕方ない、っつーことで死んでいった哀れな奴でもあるし、哀悼の念を捧げるのもヤブサカではない」という見方をする日本の右翼の人たちは純真無垢で愛すべき人たちであるといえなくもない。

とゆーわけで、ここで安倍さんが靖国参拝をアメリカさんはじめ世界の人々に納得していただくには、もうこれは「日本は世界のスタンダードが通用しない、実にナイーブで特殊な国なのだからしょうがないのです」と言い募るしかないのではなかろうか。

たとえば、「針供養」とかを引き合いに出して説得を試みる、とかどうか。

折れた針とかを豆腐やコンニャクにさして、「お世話になりました」とかいって供養するアレである。モノである針でさえ長年使っているうちに単なるモノではなく、ある種の祀るべき人格的なものに転じてしまうというのが日本である。そういえば「付喪神」といってモノが単なるモノ以上のものになるというモノの考え方もこの国にはあるぞ。

いわんや人間をや、である。たとえ侵略戦争おっぱじめようが何しようが、のちのちカミサマになったって全然不思議ではない。なんたって折れた針が供養されちまう国なんだから。

・・・とゆーリクツはなかなかグローバル基準では通らないかもしれんが、ともかくそれぐらいのところから説き起こさないと、国内ではけっこう聞こえてくる「安倍さん頑張って参拝してヨカッタネ」という声は世界には通じないであろう。

いやナニ、こないだの五輪誘致のときだって、「お・も・て・な・し」とかいってから合掌するとゆー、およそインチキ臭いパフォーマンスで「オォ日本人ハスバラシイデスネ」という麗しき誤解を誘ったという前例もある。安倍さんには、こんご外遊される際は、そのたびに「ハ・リ・ク・ヨ・ウ」とかいってコンニャクに針を突き刺すパフォーマンスをしていただきたい。そうすれば事態は少しは改善される。ような気がする。しねーか(笑)。


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