カテゴリ: UFO

宗教学者のジェフリー・クリパルが、その著書『Authors of the Impossible』で一章を割き、UFO研究家のジャック・ヴァレ論を展開していることは当ブログでも再三書いてきたところである。おおむね読み終わったのでボチボチ内容紹介でもしていこうかと思ってはいるのだが、しかし、ちょっと逡巡しちゃったりしてなかなか進まぬのである。

どういうことかというと、例えば、クリパルはヴァレを評するのに再三「gnostic」という言葉を使っているのだが、これがなかなか厄介だったりする。

この「グノスティック」というのは、一つにはキリスト教の異端の一つとしての「グノーシス派」を形容する言葉であったりするわけだが、一方ではもうちょっと広義の、グノーシス派的な思想・世界観を総称して「グノスティック」という言い方をすることもあるらしい。

さらにいえば、辞書なんかみると、さらにもうひとつ広い意味ということになるんだろうか、「霊的な知恵」とか「霊知」みたいな言葉が当てられていたりもする。この辺になってくると、必ずしも「グノーシス派の思想」とは言い難い「一般的な言葉」みたいなところまで降りてきてしまってるんではないか。知らんけど。

そもそもグノーシス派なんてものはよくわからんのである。というか、もともとキリスト教のオーソドクスさえわかっておらん。再三出てくる「Gnostic」というのはその場面場面でどういう含意で使われているのか、なんて考え出すと、もう迷路状態なのである。

ただまぁ、あんまりその辺にこだわらないでもいいのかもしらん、とも思ってはおるのだ。

クリパルがこの本でどんなことを言っているのかを思い切り簡単に言ってしまうと、そもそもヴァレは科学者なんだけれども、同時に神秘的なモノへの感受性・関心というのも併せ持っている人物であって、つまりそういう微妙な境界線上に位置しているというところに彼の真骨頂がある、というようなことを言っている。

UFOというのはレーダーと同時に目視されたり、あるいは着陸痕を残すなど、物理的現象としての側面があるわけだが、同時にいかにも奇っ怪で悪夢としか思えないような話も付き物である(アブダクションなどを想起されたい)。つまり物質世界のものなのか心霊的な存在なのかよくわからんようなところがある。そういうジャンルであるからこそ、彼のそういう立ち位置というのはスゲエ有効になってくるんじゃねえか、みたいなことをクリパルは言っているワケなのだ。

ただ、そういうサイキック方面への感受性が敏感だといっても、四角四面の教義でがんじがらめのカトリックなんかとはちょいと違う、彼の場合はもう少しプリミティブな霊的感性というかスピリティアリティへの志向があって、その辺を言葉で言い表すなら「グノスティック」がピッタリということになっているのです、ぐらいの理解でも悪かぁないとは思う。「グノスティック=霊知の」みたいなレベルの解釈で通していっても辻褄が合わんことはない。

そういえば、オレのモットーは「英語の本は8割方理解できればヨシとする」というものであった。いろいろ言い訳を書いた今回のエントリーであったが、余裕ができたらクリパルのヴァレ論についてはゼヒ書評(?)を書き残しておきたいものだと思っておる。









UFO研究者であるジャック・ヴァレの本を読んでいて知った人物の一人に、スペイン出身のサルバドール・フレイクセド(注*)という人物がいる。

以前のエントリーでも触れたけれども、彼は元イエズス会士である。その後、カトリックの体制批判などをしたためにバチカンを離れざるを得なくなり、独自の宗教研究に取り組んでいたところでUFOと超常現象のかかわりみたいなところに気づいてしまう。そのあたりの問題意識で通じているということもあってヴァレとの交友も生まれたようなのであるが、ともあれ、そんな路線で長年UFO研究に取り組んできたというユニークな人物である。生まれは1923年というから、もう90歳過ぎの大長老である。

ということでこの人にはちょっと興味を抱いているのだが、むろん日本語の本などは一切ない。ネットでググってみても日本語だと自分の書いたものしかヒットしない(笑)。スペイン語など当然読めない。しょうがないので英語の本でも読もうかと考えたのだが、どうやらずっとスペイン語で書いている人らしく、英訳されたのは1冊しかないようだ。
これである↓

 Visionaries, Mystics, and Contactees Paperback – April 1, 1992
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日本語にすると『幻視者・神秘家・コンタクティー』といったところか。

英語力不如意ではあるが、彼のことをもうすこし知るにはやむを得ない、これを読むしかない。というワケで先にこの本を買い求めた。今後、読書メモがわりにブログに随時記事を落としていこうという算段である。関心のある方は以後定期的にチェックされるがよかろう(そんな輩はいるのかw)。

で、まだ前書きしか読んでない(笑)のだが、前書きを書いているのはやはりUFO研究家で先に亡くなったジョン・A・キールである。冒頭、こんな事を言っている(以下、意訳が過ぎるかもしれぬがご容赦あれ)。

何の考えもなくただ部屋に入りこんできた人物――彼をそんな風に考えたとしたら大間違いだ。エネルギーに満ち溢れ、様々なアイデアをほとばしらせる彼は、その場で自らの考えを炸裂させる。そこには変化をもたらそうという強い思いがある。ほとんどの人間であれば落ち着いた隠居生活を考えるような年齢でありながら、友人たちからサルバドール・フレイチャドと呼ばれているこの神父は、世界じゅうを駆け回り、講演を重ね、新たなる素材を集め、執筆をし、そして新たなる地平を切り拓き続けている。

すっげえバイタリティのある人、ということらしい。で、キールは、UFO現象というのは「人間の側にいかなるものとして立ち現れたか」というのが重要なポイントであり、つまりは客観的な科学的分析の対象というよりは主観的な或る種の宗教体験と重なるところがあるんで、宗教を熟知したこの元イエズス会士の言うことには一目置かざるを得ない、というような主張をしておる。

で、実に興味深いのだが、キールは次のような事も言っている。

この神父はUFOの世界にあって余人をもって代え難い人物である。彼は思想家である。ほとんどのUFO本はポルノグラフィーの如きものである。それは、読者の手を取り、非常に低次元な低劣な情動のレベルへと連れこむことで読む者を興奮させようとする。

総じてみれば、UFO本を読む人間というのは、「陰謀論だとか政府による抑圧といったお話を読んだ末にカッとなって怒りがこみあげる」といった刺激的体験をすることを求めているのだ。結果として、このテーマを取り扱う際には知能指数など不要だということになる。ただ「疑う」姿勢を捨て去ること、ナイーブな騙されやすささえあれば良いのだ。

かくて、映画の中のジェームズ・ボンドのおよそありえないおふざけシーンの如く、墜落した円盤の話が盲目的に受け入れられてしまう。神父はこの種のポルノを提供しているわけではない。彼はあなた方の考えるための器官=頭脳がちゃんと働くよう、頭を揺り動かしてくれるのだ。

うーむ、キールの啖呵はなかなか格好いいぜ。フレイクセドは「ポルノじゃない」んだぞ。が、しかし、これを読むと、フレイクセドはこの本で聖書の話とかマジで展開しやがるんではないかというイヤな予感がする。何せキリスト教に縁のない東洋人にとってみれば聖書は鬼門である。筒井康隆の「バブリング創世記」で茶化されたみたいに(とりわけ旧約)聖書の記述はやたらと冗長でフツーの日本人の神経では読み通せるものではない。

そういや、こないだの大統領就任式で、トランプは旧約聖書詩編133から「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」というくだりを引用したらしいが、確か主要新聞では朝日だけが「これは引用である」ということをちゃんと書いたのに対し、他の新聞はこれが聖書の言葉だとわかんなかったようである(たしか池上彰がどっかに書いていた)。当然オレも全然わからん。つまり、それほど日本人にとって聖書の世界は縁遠いのである。

ということで、前途多難ではあるけれども、これからヒマがあればこの本を読んで、読書メモ的なエントリーを書いていきたいと思う所存。171頁の薄い本ではあるが、何年かかることやら(笑)。

注*:なお、この人の名前の読み方はいぜんとしてナゾである。
キールはこの前書きで、「pronounced fray-cha-do」と読み方を明示しており、つまり「フレイチャド」だと言っておるんだが、Youtubeとかでわからんながらもスペイン語の番組などを聴いていると「フレイクセド」と発音されているようにも思える。よくわからんので、とりあえずフレイクセドとしておくけども。











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あんまり放置しているのも何なので、むかし「mixiレビュー」に書いた感想文を転載しておこう。よいお年を。



著書自身も語っているように、この本が俎上に上げているのは決して「UFOの正体とは何か」といった問題ではありません。UFOという現象の「語られ方」が時代とともにどのように変わってきたかを論じ、いわばUFOを鏡としてワレワレのモノの考え方、時代思潮がどう変わってきたのかを考えようという本です。まぁ言ってみればUFO現象をサカナにした社会・文明評論といったものなのですが、しかしなかなかユニークな本ではあります。

非常に強引に要約してみましょう。ケネス・アーノルド事件から1970年代はじめにかけてのUFOシーンというのは、「進んだテクノロジー」をもつ「宇宙人」が宇宙船に乗ってやってきているのではないか的な発想を総じて持っていた、と。「科学の進歩」が素直に信じられていた時代であり、「進んだ宇宙人」と「遅れた地球文明」の対比で奴等をイメージしていたというんですな。つまり進歩を信じられた近代主義の時代特有の「円盤」観であった、というのですな。もうひとついうと、古くはこの近代主義にみられる「何か確固としたよりどころがある」とゆー世界観を支えたのは「宗教」だったりしたわけだけど、それがこの時代には「科学」になっていたからこそ、高度に発達した文明の象徴としての円盤にみなナットクしたという話ですね。

それが73年ぐらい頃から、思想界におけるポストモダンの進行と相まって、ワレワレの周りでも「何か確固とした準拠枠みたいなもの」が崩れ始めた。大文字の「真実」なんてものはない、というわけで、そこから出てきたのがUFOシーンにおける陰謀説であったりする。アブダクションケースやらキャトルミューティレーションやら何か恐ろしげな企みに関係するものとしてUFO問題が語られるようになる。

著者は95年ぐらいからさらに事態は進展している、というのですが、そこから先に書いてあることは実はよくわかりませんでした。またじっくり再読してみたいのですが、とりあえずの印象でいえば、もはやこのポストモダン的な状況は変わることはなく、もはやUFOシーンにかかわる大きなテーゼなど成り立ちようもない、断片的な情報が浮遊するばかりの状況が続くのであろうというような事を言ってるように思われます。

著者はJ・G・バラードあたりを専門とする文学研究者のようですが、ともあれ変わり種のUFO本として(しかもメジャーな出版社から新書で出た、ということも含めて)一読に足る本とはいえそうです。



【2016/12/30時点の追記】
なお、アマゾンのレビューをザッと見てみたんだが、けっこう辛い点がついている。「方法論的に極めて粗雑かつナイーヴで、恣意的な素材に基づいて尤もらしい与太話を飛ばしている」みたいな評もあって、つまり「これは学者の書く評論じゃないだろう」という批判なのだろう。学術的じゃない、というか。
ただどうなんだろう、これは学術論文ではなくて、エッセイ寄りの評論みたいなもんじゃないのかな。「ナッツ&ボルトの宇宙船って流行らなくなったよねー、これって何か時代とリンクしてる感じあるよねー」という本なので、別に「検証」を期待しちゃったりするのは違うと思う。



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去る11月23日、「文学フリマ東京」に参加したUFO同人誌界の雄「Spファイル友の会」のご厚意でブースに私家版『マゴニアへのパスポート』を置かせて頂けることになり、慌てて作った第2版を持ち込みました。

実費相当とはいいながら価格的にはちと高いこともあり、どうかと思っていたのですが、意外なことに今回持ち込んだ分はおかげさまで完売ということに相成りました。「友の会」の今回の新刊であるところの「UFO手帖」創刊号ともどもお買上げ頂いた方には深く御礼を申し上げます。

*ちなみに「UFO手帖」創刊号ではジャック・ヴァレ特集をしている関係もあり、小生も寄稿をしております。とても良い本なので未入手のUFOファンの皆様におかれましては通販が始まったら是非ご購入されんことをオススメいたします。

さて、この『マゴニアへのパスポート』第2版ですが、追加で若干部刷ってみました。こちらのほうにメールフォームを置いておきますので、購入ご希望の方はご覧ください。仕様はA5判・398ページ。初版に散見された誤植を訂正した上で末尾に訳者あとがきをつけ、表紙の装丁を若干変えました。

売り切れの場合はご容赦ください。

【追記】
ただいま12月5日午後10時ですが、おかげさまで完売いたしました。購入頂いた方々には大変ありがとうございました。

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以前「読みたいUFO本」というエントリーを書いたが、最近、このうち『パプア島の円盤騒動』をネット古書店で購入した。まだ読んでないが、入手できてちょっと嬉しい(笑)。

ちなみにこの他にも(別にそんなに珍しい本じゃないけど)興味深いのが何冊か出ていたので、併せて購入する。エメ・ミシェルが1954年に出した最初のUFO本『Lueurs sur les soucoupes volantes』の邦訳書『空飛ぶ円盤は実在する』や、平野レミさんの父君としても知られる仏文学者・平野威馬雄の本、等々。

で、これはツイッターの方でも書いたことなのだが、今回買った本にはどれも「愛知日進UFO研究会」「代表者 渡辺綱吉」というスタンプが押してある。

愛知方面のUFO愛好家の蔵書であったことがわかるのだが、ネットで検索しても「愛知日進UFO研究会」なる組織のことはヒットしない。「渡辺綱吉」さんの方をググると、同姓同名の法学者の方が愛知学院大にいたらしく、愛知つながりということもある、ひょっとしたらこの方が趣味のUFO研究をなさっていたのかもしれない。

ともあれ、「愛知日進UFO研究会」も現存しているとは思われぬし、本の古びたたたずまいからしても、代表者の方は亡くなられてしまい、それがために関連のUFO本が今回まとまって古本屋に出てきた、ということではないかと想像する。

買った本には、いずれも丁寧にパラフィン紙がかけられており(撮影するときには外した)、背表紙には蔵書番号が書き込まれたシールが貼ってある。持ち主の方にとっては自慢のUFO蔵書だったんだろうなあと思いつつ、代表を務めたUFO研究会は今はもう誰からも忘れられ、集めた図書類もこうやって四散していかざるを得ない。

やはりUFOは「冬の時代」なのだ。なんとも淋しいものである。









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今回は、日本語でググッてみると、なんと私が書いたものしかヒットしないという伝説の超マイナーUFO研究家、サルバドール・フレイクセドについての情報である。

この方はスペインのガリシア生まれということなのだが、ずっとナゾなのが「この人の名前はどう発音するのか」という問題だ。

スペイン語で「Salvador Freixedo」。そもそもスペイン語は基本的にはローマ字読みで素直に発音すればいいと聞いておるので、ならば「サルバドール・フレイクセド」でいいハズなのだが、「フレイシェド」「フレイキセド」「フレイチャド」等々、いろんな説が出てきてしまった。

*そのあたりは小生のツイッター、たとえばココとかココとかココとかココあたり参照のこと。

で、今回、新たに外国語の発音サイトを見つけたので、試してみた(ちなみにサインインするのにFacebookのアカなどを求められたので面倒なサイトである)。

「スペイン式発音」「メキシコ式発音」とあるのだが、「スペイン式発音」だと、どうも「フレイセド」に聞こえる。

? ということは、また新説の登場ではないか!

ちなみに「メキシコ式発音」のほうだと、これは「フレイクセド」。う~ん、ナゾは深まるばかりである。

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ジャック・ヴァレの「Passport to Magonia」(1969)については、当ブログでもしばしば触れてきたところであるが、いつまでたっても翻訳本が出ないので私家版を作ってみた。

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もちろん、この種の外国の本を日本語にして出版しようという場合は「翻訳権」というものがあるので、原則として著作者に勝手に翻訳などしてはいけないのである。ところが日本の場合、1970年末まで効力を有していた旧著作権法では、「海外の著作物の翻訳が、原著刊行から10年の間に出なかったときには、日本ではその作品の翻訳権は消失する」という規定があった。これがすなわち翻訳権10年留保」というもので、つまり外国の本が出版されてから10年間、誰も日本で翻訳出版しなかったら著者に何の断りもなくフリーに翻訳・出版していいですよ、という決まりなのだった。

話すと長くなるけれども、これはもともと「西洋に追いつき追い越せ」の時代、「我々もこれからいろいろあなた方の国の学問を勉強しないといけないので、極力シバリのないかたちで翻訳をさせて下さいナ」という、いわば後進国の立場からの要求を海外諸国に呑んでもらって、それでできた制度であるらしい。

まあそれでも流石にいつまでも後進国ヅラしているのもナンだという話になったのだろう、1971年の著作権法改正で、この
翻訳権10年留保」の規定は無くなった。無くなったんだが、この改正法には、「改正法施行前に発行された著作物についてはこの規定は有効だ」という附則がついている。要するに、「もう今後は10年留保なんてことは認めないけれども、法改正の時点から過去にさかのぼって規制を広げるというのもヘンだし、ともかく1970年までに外国で出た本は10年留保で出してもいいことにするよ」という事になったわけだ。

いささか長くなったが、そのような話を以前聞いたことがあった。一方で、この「Passport to Magonia」の初版は1969年にシカゴで刊行されたという。であれば、誰も出さんのであるから、無許可でいいのならオレが出せばいいのではないか。そう考えた。

とはいえ、何か法律関係のことでイマイチ不安でもあり、今回、このあたりの問題についての第一人者であるらしい宮田昇さんの『翻訳出版の実務 [第四版] 』(日本エディタースクール出版部)という本を買ってよんだり、 電話相談をしてくれる「公益社団法人著作権情報センター」で話を聞いてみたりした。結果、少なくともこの1969年に刊行された初版のコンテンツ自体は「10年留保」の対象になっておるということだったので、同人誌的出版物として若干印刷をし、同好の士に今回実費で頒布したという次第である。

まあ、最近は世界的に「著作権者の権利を守りましょう」というトレンドが強まっているようで、そういう文脈からいうと「翻訳権の10年留保なんてものは著作権者の権利をふみにじっておる。時代錯誤ダ」といった批判もありうるのだろう。しかし、よくよく考えてみれば、「元の本が出てから何十年たっても誰も見向きもせず、誰にも知られずに忘れ去られていく」みたいな作品があったとして、それを勝手に翻訳して広めようという試みは果たして著作権者の権利を侵害しているといえるンだろうか? ほっといたら誰も知らないで朽ちていく作品であるならば「損害」など与えようもなく、勝手に翻訳して広めることには、むしろ人類共通の文化を後世に広め伝えるという、重要な意義が認められるんではないだろうか?

もちろん最近の世界はもう、そういう「文化振興」なんてことより「カネと権利」といったものばっかりに価値を置くようになってしまったから、「10年留保」みたいなのは過去の遺物として消え去っていくしかないのかもしれない(ちなみにTTP絡みで著作権法がまた改正されるようなので、この10年留保というのもひょっとしたら一切ダメということになるのかもしれない。よく知らんけど)。

どうも前途は厳しいようだけれど、それでもなおこの「10年留保」がしばらくは生き続けていくのであれば、みなさんにもこういう同人誌的出版物にぜひ挑戦していただきたい。けっこう面白いと思うぞ。で、たとえばチャールズ・フォートの『呪われしものの書』なんか出してくれたら買っちゃうゾ

追記】
なお、こういうかたちで「1970年以前に原著刊行の未翻訳本」は本にすることができるわけだが、実はその内容をネットにアップすることはどうもグレー領域のようであって、先の宮田氏の本でもかなり黒っぽいという話になっている(同様に「電子書籍」というかたちで頒布したりするのも駄目らしい)。
何だか釈然としない話であるが、それが現実である。

【追記Ⅱ】
その後、誤植などについて購入頂いた方からのご指摘をいただいたので「正誤表」へのリンクを貼っておきます。このlivedoorの無料ブログだとファイルをFTPでアップできないみたいなので外部のサイトになってしまいますが、ご容赦あれ。なお、誤訳・誤植についてはご指摘を頂ければ反映させていく所存です。

【追記Ⅲ】
「マゴニアへのパスポートとやらを買いたい」というご連絡をたまに頂きますが、コメント欄にメールアドレスをご記入のうえ書き込んで頂ければお返事いたします。あるいはツイッターのアカウント(@macht0412)でも連絡はつきます。ただし残部はほとんどありません。当面「増刷」の予定もないので無くなってしまった場合はご容赦ください。

【追記Ⅳ】
といっていたら、遂に在庫がなくなりました(2016年10月3日現在)。今後増刷するようなことがあれば当ブログでも告知したいと思います。

ジャック・ヴァレの「勝手連的エヴァンジェリスト」を自認しているオレなので、念のため書いておく。

ヴァレが年の離れた弟子(?)のクリス・オーベックなる人物と一緒に作った『Wonders in the Sky』という本がある。これは現代以前にもUFO的なものはずっと空に目撃されてきたのだというテーゼの下、古今東西のUFO的物体についての記録を集成した本であって、まぁオレなどもKindleの電子版ではあるけれども、いちおう買った本である(ちゃんと読んでないけどw)。





で、このたび、ヴァレとそのお仲間で、この本の豪華装丁本みたいなのをクラウドファンディングのINDIEGOGOを使って出版しようという話が持ち上がったらしく、こんなサイトで宣伝をしておる。

200ドルを払い込むと、豪華装丁本に何かチマチマしたおまけをつけて一冊呉れる、というハナシである。

当面の締め切りまで現時点で8日あるらしいが、まだまだ目標額には達していないので、けっこう紆余曲折あるかもしれないが、とりあえずヴァレファンを自認する方は――いや、そんな人は日本全国に数人しかいないかもしれないので、ヴァレの影響が色濃く残るUFO本の名著『何かが空を飛んでいる』(稲生平太郎著)のファンの方でもいいから、ぜひ200ドルをドブに投げ込む気持ちで投資してやってほしいと切に願う。いや、まぁ確かにこの世知辛い世の中、「そんなもんに200ドル≒2万5000円も出せるかよ」という気持ちもわからんではないけれども・・・


ともかく、こんな場末のブログに書いても効果は皆無だろうが、いちおう勝手連的エバンジェリストとしての責務ということで告知の一席(笑)。

以下では本書の最後に置かれた「結論 Conclusion」に触れて、本書の紹介を締めくくってみたい。

ここでヴァレはまず、決定的な証拠などないのにもかかわらず、「UFOとは地球外生命体の乗り物である」というテーゼが社会に広まりつつある状況に触れる。この点に関し、彼は英国の研究者、ゴードン・クレイトンが語ったという言葉を引いている。

人々は、神話というのは虚偽=ウソだと信じ込んでいますが、それは間違いです。神話はそんなものじゃない。神話は「真実よりももっと真実なもの」なのですよ。

つまり、この種のストーリーは「神話」であり、それは合理的に考えれば虚偽として退けられるのが当然なのかもしれないが、時として人間は、それを「真実よりももっと真実なもの」として受け取ってしまう、というのだ。そしてヴァレは、このような考え方を肯定する。

「地球外生命体」への関心の高まりは、近年の電波天文学や生物学の進歩と関連づけて考えることができるかもしれない。しかし、そのようなムーブメントを推し進めているのは究極的には人間の神話的思考である、と彼は言う。しかも(ここが彼独特のロジックになるわけだが)その神話というのは、コントロール・システムが強いる「学習」の産物として生み出されているのかもしれない。そのような文脈で、彼は実に興味深い指摘をしている。

こうした学習が不可逆的なかたちで達成された時、UFO現象は永遠に消え去ってしまうのかもしれない。あるいは、それは人類の段階にふさわしい、何か適当なすがた・かたちを身にまとうことになるかもしれない。市街地に天使が舞い降りる――そのようなことも考えられないではないのだ。

その「学習」プロセスが終わったとき、いわゆる「UFO」は姿を消すかもしれない――何気ない一節であるが、古典的なスタイルのUFO神話が姿を消しつつある今、こうした指摘には改めて深くかみ締めるべきものがあるような気がしてならない。

さて、結語の末尾。ヴァレはここで、いささかペシミスティックな述懐をしてみせる。

 私は長い間、超常現象を考えることは「この世界にかかわる理論を拡張・発展させていく上での絶好の機会である」として、科学界もその重要性を徐々に理解していくだろうと考えていた。そこには、未来の世界における「人間の尊厳」に新たな定義を与える上で、唯一といってもいい好機があると考えていたのだ。

が、今の考えは違う。

いま危機に瀕しているのは、単に我々の自由意思といったものだけではない。それはある意味での人間性なのである。そして、我々が、サイキック面において人間に生じつつある一大転機の真の意味を理解し、そのカギを得るために視線を向けるべきは、もはや科学ではない。その答えは、ワシントンに収められた秘密のファイルの中にもないだろう。解決はその謎がずっと置かれていたところに横たわっている――そう、我々自身の中にだ。我々が望むのであれば、そこにはいつでも自分の好きなときに行くことができるのだ。

そもそもUFO研究に着手した頃のヴァレは、統計分析なども駆使した「科学的」アプローチを採っていた。おそらく彼は、知られざる世界に対して科学が勝利する日を夢見ていたのだろう。しかし、やがて事態はそれほど単純なものではないことがわかる。それ故、彼はやがて『マゴニアへのパスポート』にみるような民俗学的アプローチにも踏み込んでいく。

しかもそこには、人間の精神世界を侵犯するような何やら不気味なコントロール・システムのようなものまで見えてくる。これをもってただちに「科学の敗北」と単純に総括することはできないにしても、少なくともUFO現象はオーソドクスな科学では太刀打ちできない領域であるのは明白だ。となれば、現象を解明するカギは、実は人間の精神の内側にあるのではないか――この末尾でヴァレはそのようなことを語っているのであろう。それは、かつて科学の未来を信じていた彼が、或る種の「断念」の末に到達した境地であるに違いない。

確かに、本書で提示された彼のコントロール・システム説はあまりに思弁的に過ぎ、仮説としての有効性に乏しい。しかしそれは「ET仮説では到底説明しきれないこの現象を何とかして整合性のある枠組みの中に捉えたい」という彼の知的誠実さが、試行錯誤の末に生み出したものであるように思う。そのような果敢な挑戦がひとつのかたちを取ったのがこの『見えない大学』であるとすれば、本書がヴァレの主著の一つとされるのも当然ではないか。

本書の記述がのちに『ディメンションズ』に再録されたことの意味を改めて考えたい。ここまで駆け足で紹介してきた本書ではあるが、そこにはヴァレの思想の根幹にかかわるものがある。その「冒険」の軌跡を、我々としては繰り返し辿り直していく必要があると思うのである。(終わり)

KIK

さて、いよいよ第9章「コントロール・システム」である。

私はここで「人間の意識に働きかけるコントロール・システムというものが存在する」という仮説を提案する。それは自然界に在るものなのか、それとも人間のうちに在るものなのか。それは遺伝という考え方で説明がつくものなのか、社会心理学の言葉で説明できるものなのか、あるいは通常のありきたりな現象として説明がつくものなのか。ことによると、それは本来的に、何らかの超人間的な意志の力を背後にもつ人為的なものなのか――そのあたりのことは、私にも決しかねる。ただそのシステムは、おそらく、我々がいまだ発見していない法則によって完璧に制御されているものなのだろう。

冒頭でヴァレはこのように宣言する。改めて確認しておくと、コントロール・システムとは、エアコンにおけるサーモスタットになぞらえることのできる仕組みである。部屋が暖まりすぎればクーラーが作動し、冷えすぎればヒーターが入る。なぜそのような概念を導入しなければならないのかについて、ヴァレはこんなことを言っている。

そこ(UFO現象には)にはバカげた要素もあれば合理的要素もそれと同じほどあり、人間に対して融和的なものとみえるものもあれば敵対的なものもあった。私がどのようなアプローチをとろうとも、それらのうちで説明することができたのは全体の半分にも満たなかった。

つまり、「エアコンというシステムは部屋を冷やそうとしている」という命題は一見正しくみえるときもあるが、常に正しいとはいえない。それは「それは部屋を暖めようとしている」という命題についてもいえることだ。ある命題に固執したとき、我々はUFOの本質というものを見失ってしまうのであって、ここで必要なのは両者を止揚するようなものの見方である。ここでヴァレが言おうとしているのは、おそらくそのようなことではないか。

次いでヴァレは、そのコントロール・システムはどのように機能しているのかというポイントに踏み込んでいく。そこで彼は、心理学でいう「強化 Reinforcement」という概念を持ち出す。実験動物に「特定のレバーを押したときにのみエサを与える」といった条件付け学習を施すと、やがて動物はレバーを押す行動を自発的に行うようになる。そのようにして「刺激―反応」の結びつきが強まっていくことを「強化」という。

ただし、

もしその訓練があまりに起伏に乏しくて一本調子であったなら、その実験動物の学習は止まってしまったり、さもなくば初期の状態に戻ってしまうこともある。強化を進める上で一番良いプログラムというのは、時々「予想もつかぬこと」が起きるようなもの、である。そうすれば、その歩みはゆっくりではあってもずっと持続し、適応は最大レベルにまで達する。しかもそれは不可逆的なのである。

ここでヴァレは、UFOの「目撃ウェーブ」について読者の注意を促す。そのデータをグラフにプロットすると、カーブは激しく上下動する。そう、この不規則な変動というのは、先に述べたような「強化を進める上で一番良いプログラム」となっているのではないか――つまり、「人間に最大限の影響を及ぼす」という視点からいうと、このUFO現象というコントロール・システムはとてもよくできている。その議論を一歩進め、ヴァレはこんなことを言う。

もしその現象が、我々が学習曲線を身を以て体験していくことを強いているのだとしたら、我々は間違いなくミスリードされているのだ。そう、スキナーが設計した「ラットが右のレバーを押し下げた時だけエサが出る機械」が、ラットにとっては実にミスリーディングなしろものであるように! しかし、もしラットがその正しいレバーを押し下げなかったら、そのラットはとてつもない空腹にさいなまれることになる。人間は知識と力とを渇望する存在である。もしUFOの背後に知性が存在しているのであれば、その知性はこの事実を当然計算に入れているはずだ。そのときには選択の余地などないということをついつい忘れてしまうという点では、我々人間もまた同じなのだ。かくて我々は、最終的にはUFOを「研究せざるを得なくなってしまう」のである。

では、この場合、コントロールされているのは何なのか。これは本書でもすでに論及のあったところだが、彼は重ねて次のように主張する。

サーモスタットは温度をコントロールする。ジャイロスコープはロケットがどちらの方向に飛んでいくのかをコントロールする。では超常現象がコントロールしているのは何かという話だ。そこでコントロールされ、条件づけられているのは人間の信仰である。

私が言いたいのは、人間が通常頼っている政治的思考や知的思考が何の力ももたない「社会的リアリティ」の領域があり、そのレベルで支配力を振るっているのは「神話」である、ということなのだ。

果たして、そうやって人間の信仰をコントロールしている「主体」のようなものは存在するのか。存在するとしたらその「意図」は何なのか――その辺についてはヴァレは黙して語らない。ここで示されているのは唯一、このシステムの「機能」だけである。ハッキリいえば、ここで我々は宙ぶらりんにされたまま取り残されてしまう。だが、このような「現象学的」な記述の向こう側には、安直な解釈からはこぼれ落ちてしまうUFOの本質が、ボンヤリと見えてくるような気がしないでもない。本章の最後を締めくくるヴァレの言葉は、妖しくも魅惑的な輝きを放っている。

私の胸中には奇妙な衝動が兆している――仮にチーズを得ることができずにしばらく空腹にさいなまれることになるとしても、レバーを押すラットのようなマネはもうやめてしまいたい。「条件づけという迷路」の外に飛び出して、この仕掛けを動かしているのが何なのかを見てみたい。そこで私が見るものとは何なのだろう。ひょっとしたら、その存在についてじっくりと考えようものなら頭が変になってしまうほどの、恐ろしい、超人間的な怪物なのか? あるいは厳粛な空気を漂わせる賢者の集団なのか? さもなくば、気がおかしくなるほどに単純な時計仕掛けだけがポツンとあるのだろうか?

コントロール・システムの背後に何が在るのかはわからない。そこはただ想像するほかない世界。隔靴掻痒ではある。だが、しかし、これこそがUFO研究に全力を挙げて取り組んできたヴァレが、ようやくのことで到達した結論なのである。(続く)

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