カテゴリ: UFO

青森CM記事

(1989年11月9日 読売新聞青森県版)


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今回は、日本語でググッてみると、なんと私が書いたものしかヒットしないという伝説の超マイナーUFO研究家、サルバドール・フレイクセドについての情報である。

この方はスペインのガリシア生まれということなのだが、ずっとナゾなのが「この人の名前はどう発音するのか」という問題だ。

スペイン語で「Salvador Freixedo」。そもそもスペイン語は基本的にはローマ字読みで素直に発音すればいいと聞いておるので、ならば「サルバドール・フレイクセド」でいいハズなのだが、「フレイシェド」「フレイキセド」「フレイチャド」等々、いろんな説が出てきてしまった。

*そのあたりは小生のツイッター、たとえばココとかココとかココとかココあたり参照のこと。

で、今回、新たに外国語の発音サイトを見つけたので、試してみた(ちなみにサインインするのにFacebookのアカなどを求められたので面倒なサイトである)。

「スペイン式発音」「メキシコ式発音」とあるのだが、「スペイン式発音」だと、どうも「フレイセド」に聞こえる。

? ということは、また新説の登場ではないか!

ちなみに「メキシコ式発音」のほうだと、これは「フレイクセド」。う~ん、ナゾは深まるばかりである。

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ジャック・ヴァレの「Passport to Magonia」(1969)については、当ブログでもしばしば触れてきたところであるが、いつまでたっても翻訳本が出ないので私家版を作ってみた。

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もちろん、この種の外国の本を日本語にして出版しようという場合は「翻訳権」というものがあるので、原則として著作者に勝手に翻訳などしてはいけないのである。ところが日本の場合、1970年末まで効力を有していた旧著作権法では、「海外の著作物の翻訳が、原著刊行から10年の間に出なかったときには、日本ではその作品の翻訳権は消失する」という規定があった。これがすなわち翻訳権10年留保」というもので、つまり外国の本が出版されてから10年間、誰も日本で翻訳出版しなかったら著者に何の断りもなくフリーに翻訳・出版していいですよ、という決まりなのだった。

話すと長くなるけれども、これはもともと「西洋に追いつき追い越せ」の時代、「我々もこれからいろいろあなた方の国の学問を勉強しないといけないので、極力シバリのないかたちで翻訳をさせて下さいナ」という、いわば後進国の立場からの要求を海外諸国に呑んでもらって、それでできた制度であるらしい。

まあそれでも流石にいつまでも後進国ヅラしているのもナンだという話になったのだろう、1971年の著作権法改正で、この
翻訳権10年留保」の規定は無くなった。無くなったんだが、この改正法には、「改正法施行前に発行された著作物についてはこの規定は有効だ」という附則がついている。要するに、「もう今後は10年留保なんてことは認めないけれども、法改正の時点から過去にさかのぼって規制を広げるというのもヘンだし、ともかく1970年までに外国で出た本は10年留保で出してもいいことにするよ」という事になったわけだ。

いささか長くなったが、そのような話を以前聞いたことがあった。一方で、この「Passport to Magonia」の初版は1969年にシカゴで刊行されたという。であれば、誰も出さんのであるから、無許可でいいのならオレが出せばいいのではないか。そう考えた。

とはいえ、何か法律関係のことでイマイチ不安でもあり、今回、このあたりの問題についての第一人者であるらしい宮田昇さんの『翻訳出版の実務 [第四版] 』(日本エディタースクール出版部)という本を買ってよんだり、 電話相談をしてくれる「公益社団法人著作権情報センター」で話を聞いてみたりした。結果、少なくともこの1969年に刊行された初版のコンテンツ自体は「10年留保」の対象になっておるということだったので、同人誌的出版物として若干印刷をし、同好の士に今回実費で頒布したという次第である。

まあ、最近は世界的に「著作権者の権利を守りましょう」というトレンドが強まっているようで、そういう文脈からいうと「翻訳権の10年留保なんてものは著作権者の権利をふみにじっておる。時代錯誤ダ」といった批判もありうるのだろう。しかし、よくよく考えてみれば、「元の本が出てから何十年たっても誰も見向きもせず、誰にも知られずに忘れ去られていく」みたいな作品があったとして、それを勝手に翻訳して広めようという試みは果たして著作権者の権利を侵害しているといえるンだろうか? ほっといたら誰も知らないで朽ちていく作品であるならば「損害」など与えようもなく、勝手に翻訳して広めることには、むしろ人類共通の文化を後世に広め伝えるという、重要な意義が認められるんではないだろうか?

もちろん最近の世界はもう、そういう「文化振興」なんてことより「カネと権利」といったものばっかりに価値を置くようになってしまったから、「10年留保」みたいなのは過去の遺物として消え去っていくしかないのかもしれない(ちなみにTTP絡みで著作権法がまた改正されるようなので、この10年留保というのもひょっとしたら一切ダメということになるのかもしれない。よく知らんけど)。

どうも前途は厳しいようだけれど、それでもなおこの「10年留保」がしばらくは生き続けていくのであれば、みなさんにもこういう同人誌的出版物にぜひ挑戦していただきたい。けっこう面白いと思うぞ。で、たとえばチャールズ・フォートの『呪われしものの書』なんか出してくれたら買っちゃうゾ

追記】
なお、こういうかたちで「1970年以前に原著刊行の未翻訳本」は本にすることができるわけだが、実はその内容をネットにアップすることはどうもグレー領域のようであって、先の宮田氏の本でもかなり黒っぽいという話になっている(同様に「電子書籍」というかたちで頒布したりするのも駄目らしい)。
何だか釈然としない話であるが、それが現実である。

【追記Ⅱ】
その後、誤植などについて購入頂いた方からのご指摘をいただいたので「正誤表」へのリンクを貼っておきます。このlivedoorの無料ブログだとファイルをFTPでアップできないみたいなので外部のサイトになってしまいますが、ご容赦あれ。なお、誤訳・誤植についてはご指摘を頂ければ反映させていく所存です。

【追記Ⅲ】
「マゴニアへのパスポートとやらを買いたい」というご連絡をたまに頂きますが、コメント欄にメールアドレスをご記入のうえ書き込んで頂ければお返事いたします。あるいはツイッターのアカウント(@macht0412)でも連絡はつきます。ただし残部はほとんどありません。当面「増刷」の予定もないので無くなってしまった場合はご容赦ください。

【追記Ⅳ】
といっていたら、遂に在庫がなくなりました(2016年10月3日現在)。今後増刷するようなことがあれば当ブログでも告知したいと思います。

ジャック・ヴァレの「勝手連的エヴァンジェリスト」を自認しているオレなので、念のため書いておく。

ヴァレが年の離れた弟子(?)のクリス・オーベックなる人物と一緒に作った『Wonders in the Sky』という本がある。これは現代以前にもUFO的なものはずっと空に目撃されてきたのだというテーゼの下、古今東西のUFO的物体についての記録を集成した本であって、まぁオレなどもKindleの電子版ではあるけれども、いちおう買った本である(ちゃんと読んでないけどw)。





で、このたび、ヴァレとそのお仲間で、この本の豪華装丁本みたいなのをクラウドファンディングのINDIEGOGOを使って出版しようという話が持ち上がったらしく、こんなサイトで宣伝をしておる。

200ドルを払い込むと、豪華装丁本に何かチマチマしたおまけをつけて一冊呉れる、というハナシである。

当面の締め切りまで現時点で8日あるらしいが、まだまだ目標額には達していないので、けっこう紆余曲折あるかもしれないが、とりあえずヴァレファンを自認する方は――いや、そんな人は日本全国に数人しかいないかもしれないので、ヴァレの影響が色濃く残るUFO本の名著『何かが空を飛んでいる』(稲生平太郎著)のファンの方でもいいから、ぜひ200ドルをドブに投げ込む気持ちで投資してやってほしいと切に願う。いや、まぁ確かにこの世知辛い世の中、「そんなもんに200ドル≒2万5000円も出せるかよ」という気持ちもわからんではないけれども・・・


ともかく、こんな場末のブログに書いても効果は皆無だろうが、いちおう勝手連的エバンジェリストとしての責務ということで告知の一席(笑)。

以下では本書の最後に置かれた「結論 Conclusion」に触れて、本書の紹介を締めくくってみたい。

ここでヴァレはまず、決定的な証拠などないのにもかかわらず、「UFOとは地球外生命体の乗り物である」というテーゼが社会に広まりつつある状況に触れる。この点に関し、彼は英国の研究者、ゴードン・クレイトンが語ったという言葉を引いている。

人々は、神話というのは虚偽=ウソだと信じ込んでいますが、それは間違いです。神話はそんなものじゃない。神話は「真実よりももっと真実なもの」なのですよ。

つまり、この種のストーリーは「神話」であり、それは合理的に考えれば虚偽として退けられるのが当然なのかもしれないが、時として人間は、それを「真実よりももっと真実なもの」として受け取ってしまう、というのだ。そしてヴァレは、このような考え方を肯定する。

「地球外生命体」への関心の高まりは、近年の電波天文学や生物学の進歩と関連づけて考えることができるかもしれない。しかし、そのようなムーブメントを推し進めているのは究極的には人間の神話的思考である、と彼は言う。しかも(ここが彼独特のロジックになるわけだが)その神話というのは、コントロール・システムが強いる「学習」の産物として生み出されているのかもしれない。そのような文脈で、彼は実に興味深い指摘をしている。

こうした学習が不可逆的なかたちで達成された時、UFO現象は永遠に消え去ってしまうのかもしれない。あるいは、それは人類の段階にふさわしい、何か適当なすがた・かたちを身にまとうことになるかもしれない。市街地に天使が舞い降りる――そのようなことも考えられないではないのだ。

その「学習」プロセスが終わったとき、いわゆる「UFO」は姿を消すかもしれない――何気ない一節であるが、古典的なスタイルのUFO神話が姿を消しつつある今、こうした指摘には改めて深くかみ締めるべきものがあるような気がしてならない。

さて、結語の末尾。ヴァレはここで、いささかペシミスティックな述懐をしてみせる。

 私は長い間、超常現象を考えることは「この世界にかかわる理論を拡張・発展させていく上での絶好の機会である」として、科学界もその重要性を徐々に理解していくだろうと考えていた。そこには、未来の世界における「人間の尊厳」に新たな定義を与える上で、唯一といってもいい好機があると考えていたのだ。

が、今の考えは違う。

いま危機に瀕しているのは、単に我々の自由意思といったものだけではない。それはある意味での人間性なのである。そして、我々が、サイキック面において人間に生じつつある一大転機の真の意味を理解し、そのカギを得るために視線を向けるべきは、もはや科学ではない。その答えは、ワシントンに収められた秘密のファイルの中にもないだろう。解決はその謎がずっと置かれていたところに横たわっている――そう、我々自身の中にだ。我々が望むのであれば、そこにはいつでも自分の好きなときに行くことができるのだ。

そもそもUFO研究に着手した頃のヴァレは、統計分析なども駆使した「科学的」アプローチを採っていた。おそらく彼は、知られざる世界に対して科学が勝利する日を夢見ていたのだろう。しかし、やがて事態はそれほど単純なものではないことがわかる。それ故、彼はやがて『マゴニアへのパスポート』にみるような民俗学的アプローチにも踏み込んでいく。

しかもそこには、人間の精神世界を侵犯するような何やら不気味なコントロール・システムのようなものまで見えてくる。これをもってただちに「科学の敗北」と単純に総括することはできないにしても、少なくともUFO現象はオーソドクスな科学では太刀打ちできない領域であるのは明白だ。となれば、現象を解明するカギは、実は人間の精神の内側にあるのではないか――この末尾でヴァレはそのようなことを語っているのであろう。それは、かつて科学の未来を信じていた彼が、或る種の「断念」の末に到達した境地であるに違いない。

確かに、本書で提示された彼のコントロール・システム説はあまりに思弁的に過ぎ、仮説としての有効性に乏しい。しかしそれは「ET仮説では到底説明しきれないこの現象を何とかして整合性のある枠組みの中に捉えたい」という彼の知的誠実さが、試行錯誤の末に生み出したものであるように思う。そのような果敢な挑戦がひとつのかたちを取ったのがこの『見えない大学』であるとすれば、本書がヴァレの主著の一つとされるのも当然ではないか。

本書の記述がのちに『ディメンションズ』に再録されたことの意味を改めて考えたい。ここまで駆け足で紹介してきた本書ではあるが、そこにはヴァレの思想の根幹にかかわるものがある。その「冒険」の軌跡を、我々としては繰り返し辿り直していく必要があると思うのである。(終わり)

KIK

さて、いよいよ第9章「コントロール・システム」である。

私はここで「人間の意識に働きかけるコントロール・システムというものが存在する」という仮説を提案する。それは自然界に在るものなのか、それとも人間のうちに在るものなのか。それは遺伝という考え方で説明がつくものなのか、社会心理学の言葉で説明できるものなのか、あるいは通常のありきたりな現象として説明がつくものなのか。ことによると、それは本来的に、何らかの超人間的な意志の力を背後にもつ人為的なものなのか――そのあたりのことは、私にも決しかねる。ただそのシステムは、おそらく、我々がいまだ発見していない法則によって完璧に制御されているものなのだろう。

冒頭でヴァレはこのように宣言する。改めて確認しておくと、コントロール・システムとは、エアコンにおけるサーモスタットになぞらえることのできる仕組みである。部屋が暖まりすぎればクーラーが作動し、冷えすぎればヒーターが入る。なぜそのような概念を導入しなければならないのかについて、ヴァレはこんなことを言っている。

そこ(UFO現象には)にはバカげた要素もあれば合理的要素もそれと同じほどあり、人間に対して融和的なものとみえるものもあれば敵対的なものもあった。私がどのようなアプローチをとろうとも、それらのうちで説明することができたのは全体の半分にも満たなかった。

つまり、「エアコンというシステムは部屋を冷やそうとしている」という命題は一見正しくみえるときもあるが、常に正しいとはいえない。それは「それは部屋を暖めようとしている」という命題についてもいえることだ。ある命題に固執したとき、我々はUFOの本質というものを見失ってしまうのであって、ここで必要なのは両者を止揚するようなものの見方である。ここでヴァレが言おうとしているのは、おそらくそのようなことではないか。

次いでヴァレは、そのコントロール・システムはどのように機能しているのかというポイントに踏み込んでいく。そこで彼は、心理学でいう「強化 Reinforcement」という概念を持ち出す。実験動物に「特定のレバーを押したときにのみエサを与える」といった条件付け学習を施すと、やがて動物はレバーを押す行動を自発的に行うようになる。そのようにして「刺激―反応」の結びつきが強まっていくことを「強化」という。

ただし、

もしその訓練があまりに起伏に乏しくて一本調子であったなら、その実験動物の学習は止まってしまったり、さもなくば初期の状態に戻ってしまうこともある。強化を進める上で一番良いプログラムというのは、時々「予想もつかぬこと」が起きるようなもの、である。そうすれば、その歩みはゆっくりではあってもずっと持続し、適応は最大レベルにまで達する。しかもそれは不可逆的なのである。

ここでヴァレは、UFOの「目撃ウェーブ」について読者の注意を促す。そのデータをグラフにプロットすると、カーブは激しく上下動する。そう、この不規則な変動というのは、先に述べたような「強化を進める上で一番良いプログラム」となっているのではないか――つまり、「人間に最大限の影響を及ぼす」という視点からいうと、このUFO現象というコントロール・システムはとてもよくできている。その議論を一歩進め、ヴァレはこんなことを言う。

もしその現象が、我々が学習曲線を身を以て体験していくことを強いているのだとしたら、我々は間違いなくミスリードされているのだ。そう、スキナーが設計した「ラットが右のレバーを押し下げた時だけエサが出る機械」が、ラットにとっては実にミスリーディングなしろものであるように! しかし、もしラットがその正しいレバーを押し下げなかったら、そのラットはとてつもない空腹にさいなまれることになる。人間は知識と力とを渇望する存在である。もしUFOの背後に知性が存在しているのであれば、その知性はこの事実を当然計算に入れているはずだ。そのときには選択の余地などないということをついつい忘れてしまうという点では、我々人間もまた同じなのだ。かくて我々は、最終的にはUFOを「研究せざるを得なくなってしまう」のである。

では、この場合、コントロールされているのは何なのか。これは本書でもすでに論及のあったところだが、彼は重ねて次のように主張する。

サーモスタットは温度をコントロールする。ジャイロスコープはロケットがどちらの方向に飛んでいくのかをコントロールする。では超常現象がコントロールしているのは何かという話だ。そこでコントロールされ、条件づけられているのは人間の信仰である。

私が言いたいのは、人間が通常頼っている政治的思考や知的思考が何の力ももたない「社会的リアリティ」の領域があり、そのレベルで支配力を振るっているのは「神話」である、ということなのだ。

果たして、そうやって人間の信仰をコントロールしている「主体」のようなものは存在するのか。存在するとしたらその「意図」は何なのか――その辺についてはヴァレは黙して語らない。ここで示されているのは唯一、このシステムの「機能」だけである。ハッキリいえば、ここで我々は宙ぶらりんにされたまま取り残されてしまう。だが、このような「現象学的」な記述の向こう側には、安直な解釈からはこぼれ落ちてしまうUFOの本質が、ボンヤリと見えてくるような気がしないでもない。本章の最後を締めくくるヴァレの言葉は、妖しくも魅惑的な輝きを放っている。

私の胸中には奇妙な衝動が兆している――仮にチーズを得ることができずにしばらく空腹にさいなまれることになるとしても、レバーを押すラットのようなマネはもうやめてしまいたい。「条件づけという迷路」の外に飛び出して、この仕掛けを動かしているのが何なのかを見てみたい。そこで私が見るものとは何なのだろう。ひょっとしたら、その存在についてじっくりと考えようものなら頭が変になってしまうほどの、恐ろしい、超人間的な怪物なのか? あるいは厳粛な空気を漂わせる賢者の集団なのか? さもなくば、気がおかしくなるほどに単純な時計仕掛けだけがポツンとあるのだろうか?

コントロール・システムの背後に何が在るのかはわからない。そこはただ想像するほかない世界。隔靴掻痒ではある。だが、しかし、これこそがUFO研究に全力を挙げて取り組んできたヴァレが、ようやくのことで到達した結論なのである。(続く)

第8章「ゲラーさん、あなたは何者なのか」には、再びユリ・ゲラーが登場する。

ゲラーの「超能力」に対するヴァレの基本的スタンスというのは、彼が何らかの不思議な能力をもっている可能性は疑えない、というものであるらしい。本章でヴァレは、個人的にゲラーと昼食をともにした際の「テレパシー実験」などで、その能力を間近に目にした体験を驚きとともに記している。

そのようなヴァレにとって、次に問われるべきは「その能力はどこから来ているのか?」という問題である。何故ならば、既にみてきたように、ゲラーは自らの能力が「宇宙存在」から授けられたことを示唆するような発言をしてきたからだ(本章でも、1972年12月、ヴァレとの昼食の席で、ゲラーが「自らはかつてエイリアンとコンタクトしたことがある」と明かした事実が記されている)。

もちろん、ゲラーが「お金や名誉、喜びといったものを恥も外聞もなく追い求めている人物」であることはヴァレも重々承知しており、宇宙知性なるものが存在したとしても、よりによってそのような人物が「選ばれた」というのはいかなることか、という疑念もないではないようだ。しかし、「UFO現象とサイキック」という命題を考える上で「ゲラー現象」は無視できない、とヴァレは考える。

多くのUFO事件にはサイキック現象が起きたことを示唆するような要素があることにはずっと気づいていた。同時に私は、サイキック研究史に関わる文献の中にも、UFOの出現ないしはその干渉があったことを示唆する数多くの観察記録を見いだしてきた。私にとってこうしたつながりを看過するのは不可能なことであった。

ヴァレは本章の後段で、「UFOとサイキック現象」を考える上でヒントとなるであろう読者からの手紙を紹介し、この問題にさらなる光を当てる。例えば或る天文学者は、人類学者のカルロス・カスタネダの著作を引用しつつ、我々が自明視しているこの世界のリアリティというのは文化的に作り出されたものであって、これとは違う「もう一つのリアリティ」といったものがありうるのではないか、といった視点を提示している。以下は、いささか長いけれども、その引用。

私は、「様々な現象の中にあって、合理的なものだけが唯一まともに扱うに足るものである」といった考え方は文化的に作り出されたものだと思っています。我々は文化や環境によってかなりの程度まで「型にはめられている」のですが、多くの人はそのことが十分わかっていないのではないでしょうか。

「サイエンス」誌は、昨年、このあたりに関する論文を2編掲載しました。その最初の実験では、子ネコの目が開いた最初の数日間、注意深くコントロールされた或る図像パターンだけがその目に入るような実験環境が設えられました。すると、その後の実験で、この子ネコが他と視覚的に識別できたのは、唯一これと同一のパターンだけだった、というのです。大脳視覚野は最初に入力されたパターンに反応するかたちで発達したのですね。

二番目の実験では、直線で構成される巨大な景観(都市やハイウエイといったものです)に慣れ親しんでこなかった原住民は、うまく遠近感にのっとったかたちでその絵を描くことができない、ということが示されました。

そういうわけで、我々の文化や教育、トレーニングといったものは、世界をある一定のパターンに沿って見るように――つまり、明らかにそれにあてはまらない側面をもつリアリティは無視したり退けたりするように我々を導いているのです。

読者からの手紙が記している様々な事例――例えば、UFO体験ののちに「体外離脱」が起きるようになったり、「UFOからのテレパシー」を受けるようになったり、さらには「予知夢」を見るようになったケースだ――にひとあたり触れたのち、ヴァレは、或る科学者から寄せられた手紙の一節を紹介している。そこでは、物質には「実体を有するものとしての物質」「エネルギーとしての物質」「情報としての物質」の三つの側面があり、超常現象においては、このうち後ろの2つ、つまり「エネルギーとしての物質」「情報として物質」がその姿を現しているのではないか、といった議論が展開されている。

この文脈でいえば、UFO=地球外生命仮説は「実体を有するものとしての物質」と対応するわけだが、もちろんヴァレは、そのような「物理的存在」の枠組みにUFOを閉じこめてしまうことに反対する。ならば、サイキック現象をも包含するような現象としてUFOを規定した場合、その核にあるのは何なのか――ここにいたって、ヴァレはいよいよ「伝家の宝刀」としての「コントロール・システム」論を打ち出すことになる。

今や我々は、これらすべてを考慮に入れた一般的な「見取り図」を作らばならないところに来ている。我々はこの現象の普遍的な特質とは何かを問わねばならないのだ。私としてはここで、我々の取るべき立場を提案したい。我々が相手にしなければならないのは、対象の内から自然と発生してくるもの――精神科医やあるいは通常のスピリチュアル現象の研究者であれば「それは自動書記だ」の一言で簡単に説明しさってしまうようなもの――ではない。我々がいま対面しているのは「コントロール・システム」なのだ。

次なる最終章では、この難解極まりない仮説がいよいよ正面切って論じられる。(続き)


第7章「奇蹟の形態学」で、ヴァレはいよいよUFOと宗教的な奇蹟との連関について論じ始める。まずは「ファティマ」である。

周知のように、「ファティマの奇蹟」というのは、1917年、ポルトガルの寒村に聖母マリアが再三顕現した出来事をさす。厳密にいえば聖母の姿を目にすることができたのは小さな子ども3人だけだったのだが、聖母が最後に現れた10月13日には、太陽が太陽が回転しながら乱舞し、光をまき散らすという現象が起き、これを7万人に及ぶ人々が目撃したとも伝えられている。ヴァレはこの出来事の顛末を詳細に記したのち、こんな風に述べている。

UFO現象の多くは物理的なデータで示すことのできる詳細な報告のかたちで示されている。従って、当然この現象のベースにはテクノロジー的なものがある。しかし、我々としては、それが目撃者の中に生み出す情動が本質的に宗教的なもので、ファティマのような純正の「奇蹟」にかんしてまとめられた事実が多くのUFO事件で観察されたパターンに非常によくマッチしているという事実を無視することはできないのだ。
聖母マリアは、実際に黄金のローブに身を包んで現れ、輝くばかりの笑顔を子どもたちに向けたのかもしれないが、「彼女」が用いたテクノロジーは、それとは違う言葉・いでたちとともに他の神々や女神たちが用いたテクノロジーと区別することはできないし、UFO現象を取り巻くテクノロジーとも区別できないのである。

カトリックの信者にしてみればずいぶんと涜神的な言葉のような気もするが、「深い感動をもたらす光体の出現」といった現象面を怜悧に見据えたとき、ヴァレとしてはやはりUFO現象とこうした奇蹟のパラレルな性格を見逃すことはできなかったのだろう。ヴァレは、同様な文脈で1858年にフランス・ルルドで起きた聖母マリアの出現譚にも触れている。

そのルルドの奇蹟に関していえば、マリア出現に先立って現れた「洞窟の方から流れてきた金色の雲」といったものへの論及もあるけれど、ヴァレの議論の中で我々にとってとりわけ印象的なのは、彼が聖母と少女ベルナデッタとの会話にUFO現象につきものの「馬鹿馬鹿しさ」を見てとっている点である。

15日間にわたって彼女(注:聖母)はベルナデッタの前に現れ続けたが、2人がどんな話をしたかといえば、その淑女はもっぱら「礼拝所を建てなさい」「そこまで行列を作って歩いてきなさい」といったようなことばかりだった。時にその会話は、我々が見てきたような「UFOの搭乗者」との間のやりとりにも似たバカバカしさに満ちたものとなった。ある時など、その淑女はベルナデッタに「泉にいって体を洗ってきなさい」と言ったのだが、そんな泉はどこにもなかった。別の時には、彼女はぶっきらぼうな調子でこんなことを言ったという。「向こうに生えている草のところまでいって、草を食べなさい!」

そして、これまたUFOと関わりのある「病気やケガの治癒」という現象である。ルルドへの巡礼が信じられない治癒効果をもたらすという話は人口に膾炙しているところだが、本章では、開放骨折のため8年間ずっと歩けなかったピエール・デ・ルダーという人物が、1875年、ベルギーのオースタッケルにあるルルド聖堂に赴いた途端、突然立って歩き始めたという事例が紹介されている(この事例では、その「前後」のちゃんとした医療記録が残されており、医学的には説明のつかない現象であることが確認されているという)。

ルルドやファティマと並び称されている、メキシコ・グアダルーペでの聖母出現譚にも抜かりなく触れたのち、ヴァレはモルモン教の創唱者であるところのジョセフ・スミスの体験について論じている。そもそもの始まりは、やはり光とともに天使が現れる体験だったという。以下は、1823年9月21日夜のスミスの体験である。

わたしは室内に光が現れたのに気づいた。その光は次第に明るさを増し、ついにその部屋は真昼の時よりも明るくなった。すると、すぐに一人の方がわたしの寝台の傍らに現われ、空中に立たれた。というのは、その足が床から離れていたからである。

その方はわたしの名を呼び、自分は神の前から遣わされた使者であること、その名はモロナイであること、神がわたしのなすべき業を準備しておられること、またわたしの名が良くも悪くもすべての国民、部族、国語の民の中で覚えられること、すなわち、良くも悪くもすべての民の中で語られることをわたしに告げられた。

この指示を受けた後、わたしが見ると、室内の光はたちまち、わたしに語っておられたその方の周りに集まり始はじめた。そして、光は集まり続け、その方のすぐ周りを除いてついにその部屋は再び暗くなった。その途端に、わたしが見ると、あたかも一筋の道が天に向ってまっすぐに開いたかのようで、その方は昇って行かれ、ついにその姿がまったく見えなくなった。

だが、如何に崇高な体験に裏づけられていようとも、合理的に考えればモルモン教の教説には奇妙な点があることをヴァレは指摘する。これもやはり「UFOと同様に」ということなのであろう。

ここで注意したいのは、モルモン書が「古代アメリカの聖なる歴史」を説いていることである。それは「インディアンというのは、元前600年にアメリカに移住してきた古代イスラエルの部族の末裔である」と述べているのだが、これは現代の人類学の知見に照らしてみると、マジメに取り上げるのがはばかられるような主張なのである。

かくて我々は、ここでも「確からしさ」と「馬鹿馬鹿しさ」、「事実」と「ファンタジー」がごちゃ混ぜになったものと相対せあるを得ない。ここには「第3の隠蔽」を見てとることができる、というわけだ。そうした主張は、「ビリーバー」を周囲の社会から孤立させようという巧妙な狙いを秘めたもの、ということなのだろうか?

ともあれ、こうした宗教の系譜の延長線上にUFO信仰を考えることは十分可能だ、というのがヴァレの立場である。

現代の科学が相対しているあらゆる現象の中にあって、UFO現象には他から突出している部分がある。つまりこの現象は人々の恐怖を誘い、人間がいかにちっぽけであるかをみせつけ、さらにわれわれはこの宇宙にあって他者とのコンタクトを間近にしているのではないか、という思いをそそる。

われわれがここまで瞥見してきた宗教的現象は、或る一人の人間の奇蹟体験によって始まったわけであるけれども、今日にあっては、「他の世界の者とコンタクトをした」という信仰を個人的に確信しているような人が何千人もいる――そのような信仰は、つまるところ「UFOやその搭乗員と遭遇をした」という個人的体験から導き出されたものであるわけだが。

というわけで、こうした現象とそれが周囲に及ぼす効果といったものは、かつてファティマやルルドといった場所に出現したように今も変わらず存在しているのだ――そう、人間をコントロールする心霊的(スピリチュアル)なシステムとして。

  (続く)


第6章「羽根のある円盤」には、ヴァレの前著『マゴニアへのパスポート』を連想させるところがある。つまり、「天から訪れた存在」にまつわる観念というのは別に現代にのみ存在するわけではなく、その種のイメージは古代から連綿として伝えられてきたことではなかったか、ということを改めてヴァレは語っているのである。

まずここで紹介されるのは、古代のフェニキアで用いられたという円筒印章である。そこには「翼のついた円盤」が再三描かれている。その円盤からは神々とおぼしき者たちが顔をのぞかせていたりするし、動物が運び込まれているように見えるシーンもある。加えてそこには、背丈が普通の人間の三分の二ほどしかない、「サソリ男」と称される謎の生きものの姿も見てとれる。ヴァレはこう述べている。

古代における概念と現代における現象の間の類似性について、一連のシンボルを見ただけで完璧な仮説を打ち立てる、などということは不可能だ。何故なら、それらは多様な解釈を許すものであるからだ。にもかかわらず、そのような要素を根気強く探究し続けることには価値があるし、有翼の円盤というものは徹底的に考察されるべきなのである。

さらにヴァレは、このフェニキアの円筒紋章にまつわる一つのエピソードを紹介する。ロンドンでの講演会で、この「サソリ男」のことを話したヴァレのもとに、その講演を聴いたという女性から手紙が届く。1968年夏、友人の家で週末を過ごすべく、日中その家に向けて車を走らせていた彼女は、空飛ぶ円盤を目撃する。その直後から彼女の周囲に不思議な出来事が相次いで起きたのだという。以下は彼女の述懐。

そのあと、バーフォードとストラットフォードの間を走っている途中で、何やら衝撃的な――そして私がいまだかつて考えたこともなかったような洞察、「リアリティの本質」と言うしかないようなものについての洞察が閃いたのでした。それはこの輝いている円盤と何やら関係があるようで、それは私の心をとても深いところから揺り動かし、そしてよく「人格の変化」などと言われるものを私にもたらしたのでした。

そうした洞察がどんなものだったか、説明してみようなどとは思いません。だって、それこそは世界中のほとんどすべての宗教がこれまで説明しようとして、結局はかなわずにきたものなのですから。(その日の午後、私は神の存在など証しようがないという不可知論者=アグノスティックから、[神秘思想の」グノーシス主義者=グノスティックに転じたのです。

さらに、友人の家に着いたその日の夜。窓の外に彼女は不思議な生きものを見る。

それは生きものというべきなのか、動物なのか、人間なのか――いや私の見たものが何であれ、ともかく私の目に映ったものを西洋人である私がどう解釈したか(あるいは想像したか)といえば、それは疑いなく悪霊、ないしは悪魔なのでした。「サソリ男」と同様に、あるいは牧神のパン同様といってもいいのですが、それは犬、あるいはヤギのような脚をしていました。それは柔らかでフワフワした毛で覆われ、黒く輝いていました。それは間違いなく人間のかたちをしており、また私には邪悪な存在であるように見えました。


両者を同じ「サソリ男」として括ることが妥当かどうか、という気はするのだが、ともかく古代と現代とを貫くようにして或る種のイメージが観想されたということに、ヴァレは一つの意味を見いだしているようだ。

本章の最後で、ヴァレはもう一つの「時代を超えた普遍的イメージ」について語っている。それは「天空からさす光」というモチーフである。

空の一点から、あるいは奇妙な雲の中から人間に向けて発せられる不思議な「一条の光」というのは、あらゆる宗教の伝統の中にみてとることのできる主要なモチーフである。このビームはふつう、「祝福」のしるしで、神から発せられた教えを運ぶものとされる。

ここで紹介されているのは、米国の超能力研究家として名高いロバート・モンローの体験である。以下は1960年9月9日の夜に起きた出来事についての、モンロー自身の回想である。

突然、私はとても強烈な光線に覆われ、体を釘付けにされたように感じた。その光線は方角でいえば北、水平線から高度30度のところから来ているようだった。私は完全に力を失ったばかりか自らの意志も喪失してしまい、まるでとても強烈な力の真ん前にあって、それとただ一人で向き合っているかのような感じだった。

それは私が理解できないようなかたちの知性を有しており、それは(光線とともに、ということなのだろうか?)真っすぐ私の頭に侵入し、私のこころの中のあらゆる記憶を探っているようであった。この侵入に対しては無力で何をすることもできなかったために、私は非常に恐ろしい思いをした。

次いで9月16日の夜。

先に体験したのと同様の、人格なきものによる査察、同じ力、同じ角度から。ただしこのたびは、次に述べるような印象を明確なものとして抱いた。すなわち、私はこの知性体と忠誠心に基づく絆でいや応なく結びつけられている――いや、これまでずっと結びつけられてきたということ。そして私にはこの地上でなすべき仕事があるということ…。

次いで9月30日。

彼らは空高く昇っていってしまったようだった。私はその背後に、去らないで、という懇願の声をかけたのではあったが。そのとき、私は確信したのだ。彼らのメンタリティと知性は私の理解など遥かに超え出たものだ、と。それは人格的なものをもたない冷たい知性であり、われわれ人間がとても大事にしている「愛」とか「共感」とかいった感情は全く欠いているのだけれど、しかしひょっとしたら、それこそが、われわれが神と呼ぶ「全能なるもの」であるのかもしれない。思うに、過去の人類が体験してきたこのような「訪問」こそが、われわれのあらゆる宗教的信仰の基盤にあるのではないか。われわれが今日有している知識をもってすれば1000年前の人々に勝る「答え」を用意できる――などと考えるのは必ずしも正しくないのではないか。

1958年3月夜、アルジェリア・ボウアママの基地で、歩哨に立っていたフランス外人部隊の兵士が体験した出来事も、ヴァレは同根のものと見ているようだ。彼は、上空に出現した巨大な物体から光線を浴びせられたのだが、「その薄いグリーン色、エメラルド色はとてつもなく奇麗で、心を落ち着かせ、魅惑的な色合いをしていて、彼はそれまでそんなものを見たことはなかった」。そして、「その物体が去って男が正気を取り戻してみると、それまで感じていた幸福感、恍惚感は一転して悲しみに取って代わってしまった」。

最後をヴァレはこう締めくくる。

フェニキアの魔よけ、現代における「搭乗者」との接近遭遇、古代において天から降った光、UFOから対象に向けて浴びせられる光。こうしたものはすべて、物理的なものでありながら心霊めいた効果をももたらすテクノロジーの存在を示唆しているようにみえる。そのテクノロジーは我々の集合意識の深みに打撃を与え、我々を混乱させ、我々を鋳型にはめ込もうとしているのだ――たぶん、古代の終わりにあっては人類の文明を混乱させ、鋳型にはめ込んだのと同じようなやり口で。

(続く)

第5章「コンフロンテーション」でヴァレは、UFO研究の方法論にかかわる一つの提案をしている。UFO体験がいかなるものかによって、その情報の流通する領域というのは限定されてしまうという面がある。なるほど、あまりに奇っ怪な現象を体験したため、狂人扱いされることを恐れた目撃者は証言を拒む、といったことは容易に想像されるところである。

ここでヴァレは、アレン・ハイネックがその著書『UFO体験』(邦訳『第三種接近遭遇』ハルキ文庫)で提示した「奇妙度 Strangeness(奇妙さの程度)」という概念を援用し、「奇妙度」に応じて「その報告がなされる可能性」ならびに「その情報が誰に伝えられるのか」がどのようなパターンをかたちづくるかを整理している。ちなみに「その報告がなされる可能性」については、便宜的に「10人のうち何人が報告を上げるか」というかたちで表している。ここでは、本章に掲載されている表を若干言葉を補った上で転載してみよう。

「奇妙度」の
カテゴリー
実 例 報告がされる可能性(推定値) 通常「誰」に報告するか?
1 ホタルのように点滅する光 10人中1人 対象を選ばず誰でも
2 燃えるような物体の落下 10人中3人 警察
3 未知の乗り物 10人中4人
4 飛行していた物体の着陸 10人中2人 地域の「UFO研究家」
5 搭乗者 10人中1人 近親者
6 人間に対するビームの照射 ほとんどナシ 報告せず
7 リアリティ・ギャップ(ミッシングタイムの存在) ほとんどナシ *無意識下の体験は意識に上らない


ここで、「報告が上がってくる可能性」を縦軸、「奇妙度」を横軸にとったグラフを作ってみると「カテゴリー3」をピークにした山型ができる。報告の最終的な「宛先」として想定されるのは、奇妙度1~3であれば「科学者」ということになりそうだが、奇妙度2~5の辺だと「新聞」、奇妙度5以上ともなると特別な研究者に限定されてしまう。となると、「科学者」「一般市民」「軍部」といったそれぞれのカテゴリーごとに「入力」されるデータは異なってくるわけで、必然的にそれぞれのUFO像というのはバイアスがかかったものになっている、とヴァレは言う。彼はこれを「山型仮説」と称し、研究者はその辺に十分自覚的でなければならない、と言う。

科学者が手にすることのできるデータは、もっぱらある種のタイプのデータだけ(つまりそれはバイアスのかかったデータである)ということなのだ。同様にして、軍部も、アマチュアのグループも、現象の全体像をそれぞれ違った角度から受けとめている。そこで、より多くを知るためには、自分自身の見方が投影されたスタンスを変えるしかないのであって、実際、それこそがこれまで私のやってきたことなのだ。

さて、本章の後段では、ヴァレのもとに寄せられた2通の手紙をふまえての議論が展開される。一通目は、奇現象研究家として知られるジェローム・クラークからのものなのだが、彼は、「人間とUFOとの遭遇はUFOの側がコントロールした条件の下で起こる」というヴァレの仮説を退け、その種の遭遇譚は「目撃者に起因」しているという説――おそらくは、何らかの機制によって人間の内部から発したものがUFOとして出現するのだという「超心理投影説」を主張している(余談ながら、これはクラーク初期の仮説であって、「これでは物理的な痕跡などは説明できないではないか」と考えたクラークはのちにこれを撤回したようである)。ヴァレは、UFO現象を人間の内面の中で完結したものだとは考えないので、このジェロームの問題提起は一蹴してしまう。

問題は二通目である。これはサイキック現象に関心をもっているペンシルベニアの精神科医からのもので、その人物は、ヴァレが再三論及してきた「エイリアンがナンセンスな言葉を発するのは何故か」という論点について、こんなことを書いてきたというのである。

人間が不条理なもの・矛盾したものに混乱させられてしまい、その意味を何とか理解しようと模索している時、彼はきわめて容易に外からの影響――つまりは外部からの思考の侵入であるとか、サイキック的なヒーリング効果といったものの影響を受けやすくなってしまうのです。そのようにして伝達された思考というものは、それがどのようなものであろうとも、当然の如く彼自身の思考になってしまうのであり、それに抵抗することはできません・・・。

つまり、或る種の混乱状況に陥った人間は、そうした状況の中に「何とかして秩序を見出したい」という欲求にかられるものであって、そこにつけこむ者がいたとすれば容易に統制下に置かれてしまう。つまり「ナンセンスなことを語る者たち」というのは、自らの意のままに人間を動かすための前段階として敢えて意味不明のふるまいに出ているのではないか、という議論であり、この精神科医の言葉には頷けるところがあると考えたのか、ヴァレはこんなことを言っている。

UFOの「搭乗員」といわれる者たちも、これと同様の「迷路を抜け出す道」を目撃者に示そうとしたのではないか? そしてこの場合も、壮大なスケールで大きな変化を作り出そうという狙いから「混乱技法」が巧妙に用いられているのではないか?

そのような問いに答えを出すことができたとき、われわれは、ある種のUFOとの遭遇譚と秘密に包まれた社会への通過儀礼の間がなぜこれほどまで似ているのか(その点は秘教的集団の信仰について調査経験のあるような人間であれば誰であれ認めざるを得ないところだろう)、理解するためのヒントを得ることができるのかもしれない。

多くの目撃者たちが報告しているが、一連の新奇なシンボルを用いて「こころを開いていく」ことは、まさしく種々雑多なオカルトもまた伝統的に成し遂げようとしてきたことなのである。
ここで提示されたUFO体験といわゆる通過儀礼との類似性というのは、刮目すべき着眼であると思う。畳み掛けるようにして、ヴァレは、1969年5月、休暇中に釣りをしていてアブダクションされたブラジル人兵士、ホセ・アントニオのケースを紹介している(例によって詳細は省かせていただく)のだが、彼の体験は次に示すような典型的なイニシエーションのパターンに実によく似ている、という。

1 志願者は、特殊な衣装に身を包んだグループのメンバーにより周囲を取り囲まれる

2 彼は目隠しをされる

3 彼は腕を取られ、通るのが難しく険しい道のりを歩かされる

4 彼は特殊な意匠の部屋に通される。そこには窓もなく、彼はその部屋のごく一部しか見ることができない

5 彼は「マスター」の面前に引き出される

6 彼は試験を課され、質問にこたえるよう求められる

7 彼はさまざまなシンボルを見せられる。そこには彼に「死」を思い起こさせるようにとの意図がある

8 彼が試練を乗り越えて生き延びることは不可能だと思わせるほどの厳しい状況がしつらえられる

9 彼に儀式のための食物が与えられる

10 目隠しが再びなされ、彼は導かれて外に出る
荒唐無稽な事例、奇妙度の高い事例というのはすなわち、敢えて人間を混乱の極に追い込み、そこから新たな世界への参入を強いるための一つの必然として仕組まれたものではないのか――ヴァレが本章で示唆しているこのようなアイデアは、実に熟考に値するものだと思う。(続く)

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