カテゴリ: 天声人語

不世出の奇人、水木しげるが死んだ。

当然の如く、今朝の天声人語もそのことを取り上げている。水木の創作世界の背景には悲惨な戦争体験があったということを書いており、まぁそんなもんだろうなと思う。悪くはない。

ただ、最後にこんなことを書いている。

享年93。砂かけ婆に手を引かれて、戦友のもとへ向かっているか。

ここに激しい違和感を感じた。というのは、「砂かけ婆」みたいな妖怪は、「戦友」たちがいる冥界(なのかどうかは知らんが)とは全然関係ないところにいるンではないか。端的にいえば、妖怪と霊魂は基本的に「所属先」が違っているのではないか。何で「砂かけ婆」に手を引かれて逝かなければならんのか。

いや、オレは水木をちゃんと読んでいないので、ひょっとしたら水木独特の世界観では妖怪と霊界の間には交渉があるのかもしらんが、一般的にはやっぱりそこはキチンと説明が欲しいところであり、コラムを都合よくまとめるためにこういう何となく丸め込むような締めをもってきてはいかんだろう。

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東京五輪のエンブレムを作ったデザイナーが、「よそのデザインをパクったんじゃねえか」と騒がれている問題について、昨日8月19日の天声人語が触れている。が、今回も例によって奇妙な議論をしている。

まず、歌人としても有名だった今は亡き寺山修司について、若き日の寺山にはしばしば盗作疑惑がささやかれ、「模倣小僧」と呼ばれることすらあった、という話をする。

で、実例を挙げている。「向日葵の 下に饒舌高きかな 人を訪わずば自己なき男」という寺山の歌があるのだが、これは中村草田男の「ひとを訪はずば 自己なき男 月見草」のパクリではないか、そういう話があったという。

ただ、ここで天声人語子は寺山の非難に走るかと思えば、そうではない。「でも寺山の作品って愛されているよね」という話をする。こんな具合だ。

批判を浴びて歌人寺山は消えてもおかしくなかったが、そうはならず、歌は今も愛誦されている。この種の騒ぎの収まり方には実に微妙なものがある。

で、最後のシメはこんな風だ。
ついでながら、子規の名高い〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉は、親友の漱石が先に作っていた〈鐘つけば銀杏ちるなり建長寺〉を発展させて詠まれたという。触発し、触発される。人が行う創作行為には当然そうした面がある。

つまり通読しますと、「人間の創作には先人の業績を真似たり、パクったりして創造するという側面がある。よって、今回のデザイナーのパクリ疑惑もそんなに騒ぎなさんな」という事を言っているように読める。

しかし、う~ん、それでいいのか、とオレは思う。

みなさんよくご存じのように、日本の和歌の伝統においては「本歌取り」というものがある。名高い古歌を一部パクリ(というと下品なので「流用して」というべきかもしらんが)、自作の作品世界に奥行きを与えるという手法である。念のためウィキペディアをみたら、こんな実例が挙げてあった。


三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも かくさふべしや(額田王)
    ↓
三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ(紀貫之)


実際には本歌取りにもいろいろ「ルール」みたいなものがあるらしく、寺山修司の「パクリ」がその辺どうなのかは素人なのでよくわからん。ただ、少なくともここからわかるのは、「これはオレのオリジナルな表現だから。マネして使ってもらったら許さん」というような、権利意識に目覚めた現代人特有の発想は、もともと日本の詩歌の世界にはなかった(もしくは乏しかった)のではないか、ということである。そして、我々もどこかに「先人を作品をリスペクトしてなぞる、ってのはアリかもしれんなあ」という風に考えているところがあるんではないか。

ただ、しかし、おそらくそれは「日本の詩歌」という文脈だから許されていることだと思う。我々の血肉と化した日本語という領域にあっては、先人の作り出した表現もまた広い意味での「公共財」なので、ある種の「フェアユース」を許す。寺山が「許された」というのも、そういう文脈があってのことだと思うのである。

しかるに、今回のデザイン盗用疑惑はどうか。

こういう世界になると、詩歌なんかと違って、やっぱり勝手にパクったりするのはまずいだろう、というのが大方の日本人の感覚なのではないか。天声人語は「およそ創作であれば、ある程度のパクリは許されるべきではないか」というような主張をしているようだが、これは、その創作作品のジャンルであるとかその歴史的文脈を無視して簡単に言い切ることのできない問題であると思う。

かくの如く、今回の天声人語も「文化の何たるか」ということについて深く考えることをしないものだから、極めて乱暴粗雑な議論をしてしまった。残念なことである。







このブログは、基本的に円盤関係の話などをベースにしつつ、ときおり朝日新聞の天声人語をくさして遊ぶ、というようなスタンスで細々とやってきたわけだが、そういう視点からすると、けさの天声人語は注目に値するものだった。なぜって、天声人語でUFOの話をしていたから。

そう、きょうは「UFOの日」。いうまでもなく、近代UFO伝説の起源となった1947年のケネス・アーノルドによる円盤目撃を記念した日である。ソコに引っかけてUFOにまつわるお話をひとつ書いてみました、というワケなんだが、しかし一読して、「コイツはどうしようもねえなあ」と思った。

あらかじめ全体のストーリーを説明しておこう。

天声人語子は、6月24日がUFOの日であると聞いて、詩人・入沢康夫の「未確認飛行物体」という詩を思い出した、という。で、この詩の冒頭部分をユーモラスな一節だとかいって紹介しておる。こんな書き出しである。

「未確認飛行物体」という愉快な一作が詩人の入沢康夫さんにある。〈薬罐だつて/空を飛ばないとはかぎらない〉と奇想天外に始まる。水のいっぱい入ったやかんが、夜ごと台所をぬけ出し、町や畑の上を〈心もち身をかしげて/一生けんめいに飛んで行く〉と続いていく▼きょうが「UFO(未確認飛行物体)の日」と聞いて、ユーモラスな一節が胸に浮かんだ。
 
ここで、ひとしきりUFOの日の説明をしたあと、話はチト別の方向に向かう。そういえば電波望遠鏡で宇宙からの電波を拾い、知的生命体を探すCETIって試みもあるようだ、もし地球外の生命体が存在するということになれば「人類を少しばかり謙虚にするだろうか」「母なる地球への感謝は深まるだろうか」。そんなことを天声人語子は言うのである。

で、最後は、また入沢の詩に話が戻っていく。シメはこんな文章だ。

冒頭で夜空を飛んでいったやかんは、〈砂漠のまん中に一輪咲いた淋しい花/大好きなその白い花に/水をみんなやつて戻つて来る〉と結ばれる。UFOの日の絵空事とは言わず、そんな優しさが地上に広まるといい。

さて、しかし一読してオレには、この天声人語がいったい何をいいたいのか、全然わかんなかった。かろうじて「地球外の知的生命体がみつかれば人類は少しは謙虚になるんではないか」という主張は読み取ることができた。

しかし、最後の「UFOの日の絵空事とは言わず、そんな優しさが地上に広まるといい。」というのが全く意味不明。さんざんアタマを捻って考えた結果、「UFOは絵空事なんだが、あんまりその辺は突き詰めないでいいから、宇宙のロマンみたいなものは大切にして温かく見守っていこうね」ということを言いたいのかしらと思った。が、しかし、それだと前段の「地球外の知的生命体がみつかれば」という話とうまくつながらない。

ということで、これはもう半ば想像するしかないのだが、結局この書き手の思考回路はこんな風に作動したのではないか、これなら非常に苦しいけれども何となく思考の跡がたどれるから、というストーリーを考えついた。


UFOなんてものは嘘っぱちである
 ↓
そんなものどうでもいい戯言なんで、「宇宙人」に興味があるならCETIで地道に宇宙からの電波を調べたほうがよっぽどいいよね
 ↓
だが、UFOというのも入沢康夫のポエムの源泉にもなったことだし、ま、いろいろ想像して楽しんでいる分には許してやるゼ


オレからみれば、これはかなりアクロバチックな論理である。読解至難なのも仕方ない。

いろいろ言いたいことがあるが、まず第一に「UFO≒宇宙人の話だ」というのが大前提になっているというのが気に入らん。そりゃ、国民の大多数はUFO≒矢追特番≒宇宙人、みたいな図式に毒されているので、そういう図式にはなから乗っかってしまうというのは、ま、商業新聞としては仕方がないのかもしれぬ。

しかし、このブログの愛読者(しかし本当にいるのかそんな人間はw)なら先刻ご承知のように、いまどきボルト&ナットの「宇宙人の乗り物としてのUFO」なんてものを信じ込んでいるようでは全然ダメであって、ある種の怪異譚の文脈でとらえねばUFOの本質はわからんだろうとオレは思う。ま、そんな事まで理解しろとはいわんが、ともかく「UFO→宇宙人の乗り物→ファンタジー→癒やし」みたいな、いかにも頭の悪い連想に自らを委ねてしまっている点でこのコラムは「ゲス」である。

第二に、このコラムでは、入沢康夫の詩を「UFOをテーマにした作品であるに違いない」と決めつけているようで、確かにタイトルこそ「未確認飛行物体」だが、詩というのはそんなに単純な解釈で「わかってしまう」ものであってはならないだろう。今回ネットで読んで知ったこの「未確認飛行物体」という詩であるが、オレからすると別にUFOなんてものとは別段関係のない心的世界を描いたもののように思えるし、少なくとも「UFO≒宇宙船」というような貧困なイメージとは全然違うところに立脚しているのは明らかだ。この辺からも、天声人語子の知的レベルというものがどうしようもなく浅いことが見えてしまうのである。せっかくだから、以下にこの詩の全文を改めて転載しておくか。



「未確認飛行物体」  入沢康夫

薬缶だって、
空を飛ばないとはかぎらない。
 
水のいっぱい入った薬缶が
夜ごと、こっそり台所をぬけ出し、
町の上を、
畑の上を、また、つぎの町の上を
心もち身をかしげて、
一生けんめいに飛んで行く。
 
天の河の下、渡りの雁の列の下、
人工衛星の弧の下を、
息せき切って、飛んで、飛んで、
(でももちろん、そんなに早かないんだ)
そのあげく、
砂漠のまん中に一輪咲いた淋しい花、
大好きなその白い花に、
水をみんなやって戻って来る。


というわけで、何もわかってないのに、うすボンヤリとした連想だけを頼りにこういうコラムを書いてはいけない、というのが今回の天声人語から得られる教訓である。





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ここんとこ朝日新聞の天声人語もあまり本腰入れて読んでおらず、問題点を剔抉して差し上げる機会もトンとなくなってしまったのであるが、けさの朝日新聞に「まなあさ まなぶ@朝日新聞」なるパブ記事広告が出ていたので、せっかくだからアリバイ的にまたツッコミを入れておくことにしよう。

これは例によって、「天声人語の書き写しを実践をするととても良いことがアル」ということを自画自賛で宣伝しているページなのだが、つらつら読んでみるに、「こういうのに教育的効果はあるんだろーか」とついつい思ってしまうのである。

たとえばココに、平塚農業高校初声分校(神奈川県三浦市)なる学校の実践報告がある。ここのセンセイは、ご苦労なことに書き写す生徒の姿をビデオに映し、「読む」→「ノートに向かう」という一つのサイクルで生徒さんは平均何文字を記憶するのか、とゆーデータを取ったんだそうだ。で、センセイ、1年実践を続けたら一度で記憶できる文字数は1.7倍に増えた、とかいって喜んでおる。

で、これが「勉強しやすくなる基盤となるのは間違いない」と断定しているんだが、はて、そういうものか。

筆写をするのに慣れて、効率が上がる。これは単にそういう事実が示されたのに過ぎないのではないだろーか。別に「論理的思考が鍛えられた」とかそーゆー話ではサラサラなく、オレには「事務作業を効率的に行う能力が磨かれただけ」のように見える。

いや、もちろん、かつてミシェル・フーコーが言っていたように、学校だとか監獄だとかいうのは、自分を律する規範を内面化して黙々と動く自動機械のような人間を養成する場である、という見方にたつのであれば、こーゆー単純作業特化マシーンみたいな人間を育てるのに「天声人語の筆写」っつーのは有効かもしらん。

だが、時代はそういう「近代」から脱しつつあるので、単に単純作業特化マシーンみたいな人間では、これからのポストモダンの時代はなかなか生き抜いていけないのではないかと思うのだが、どうか。

いや、少なくとも、かつて深代惇郎が書いていた当時の天声人語であれば、そんな単純作業の中にも日本語のリズムだとか息づかいだとかが身体的に刻み込まれて、何か日本人としての心棒みたいなものが形成されることもあり得たかもしらん。だが、悲しいかな、今の天声人語の筆者にはそんな能力はない。

であるならば、天声人語みたいなものを筆写するんじゃなくて、「般若心経」でも「論語」でも「老子」でもいいから古典を書けばいーんじゃねーか、というのがいつもながらのオレの結論である。いくら商売で儲けたいからって、こういうインチキなPRを打ってはいけない。って何度言わせんだよ朝日新聞さんよ(笑)。










今朝の「天声人語」を読んで、何かまた奇妙な感覚に襲われた。久々にちょっとツッコミを入れてみたい。

今回の「天声人語」の内容を簡単に紹介すると、昨年発生した「佐世保市の高1女子の同級生殺害事件」「名古屋大1年女子の老女殺し」という二件の殺人事件を俎上にあげている。ともに少女による犯行であり、しかも「人を殺してみたかった」という動機が共通している、であるからして

同じ悲劇を繰り返さないためには、彼女らを特異な事件を起こした存在として遠ざけてしまってはなるまい

とゆーわけで、ここから何か教訓を得なければいけないのではないか、といった感じで偉そうに説教を垂れている。

ただ、何か、ところどころ奥歯にモノのはさまったような書きぶりなのである。どういうことかというと、この天声人語、「いや、でもしかし、別にこれは最近になってこういう犯罪が増えてきた、みたいなトレンドがあるわけじゃないからね」みたいなエクスキューズをところどころに差し挟んでいるのである。たとえば、こういう感じだな↓

一つの特異な事例が、全体の傾向を代表しているわけではない

むろん、これをもって直ちに現代の少女がおかしくなっていると嘆くのは短絡だ。統計によれば少年犯罪は減り続けている。個別の事件と全体の傾向は 分ける必要がある

うむ、これは確かにその通りで、人口当たりの少年犯罪の件数などは、年寄りが「イイ時代だったよなあ」などと懐古しがちな昭和30年代などよりずいぶん減っているというし、少年犯罪の残虐さ・非道さというのはむしろ戦前のほうが凄かったんじゃねーかと思わせる『戦前の少年犯罪』(管賀江留郎著)みたいな本もある。マスコミもひところは「現代の治安はますます悪化している」みたいな、データに基づかない印象操作大作戦を展開していたんだが、さすがにソレは違うだろうということで、このように「別に少年犯罪はワルくなってるわけじゃない」と明言していること自体はたいへんヨロシイ。

ヨロシイんだが、しかし、とここで首をひねってしまうのである。

最近たまたま相次いだ少女による殺人事件が「全体の傾向を代表しているわけではない」し、「直ちに現代の少女がおかしくなっていると嘆くのは短絡だ」。そこまでわかってんなら、何でこんなコラムを書くのか。

オレに言わせれば、今回の事例はどうだったかしらんが、たとえば情性を欠如させたサイコパスみたいな存在は、どうしたって一定数この社会に出てきてしまうものである。今回はたまたま「少女」という括りで時間的に近接して二つの事件があったもんだから注目されているわけだが、天声人語子が自ら認めているように、こういう事例を「一般化」して何か言うというのは、そもそもオカシイことなのだ。

であれば、こんなコラムを書く意味はないのである。あえて「教訓」というのなら、「人間の生きている社会には、どうしたってこういう了解不能のことをしでかす人間が出てきてしまう、人間っていうのはかなしいよなー」というような諦念を引き出すのがスジというものではないか(あるいは、そういう人間をスクリーニングして片っ端から捕まえてどっかに収容セヨ、みたいな論理の転がし方もありうるが、産経新聞ならぬ「良識派」の朝日ではムリであろう)。

結局、ここから伝わってくるメッセージは、メタレベルでいうと「何か問題が起きたら何かリアクションをとるべきである、そういう風にオレたちは考えている、さぁどうだ社会派だろう偉いだろう」というものである。よほどネタに困ったのかもしれないが、というわけで今朝のようなコラムは流石にムリなので、天下の公器に載せてはいけない。

いまや女性の社会参加はポリティカルコレクトネスの観点からいえば、絶対的な正義である。

元来ひねくれ者であるオレなどは、「社会」なんぞに出ていくと狡猾な資本家にいいように搾取されてボロぞうきんのように酷使されるのがオチであるのにおかわいそうに、みたいな気持ちがないではないが、大多数の女性のみなさんは「いやそんなことはない、社会参加は自己実現の道なので何があろうと我が道をゆくッ」と仰っているようなので、ま、それはそれでいいのだろう。

閑話休題。本日の天声人語は、この「女性の社会参加」をドンドンすすめよう、という話を書いている。先に「ポリティカルコレクトネスの観点」と書いたが、こういう一般大衆に読んで貰う大新聞というのはポリティカルコレクトネスに絶対さからえない。だから、本日の天声人語もいろいろ小細工を弄してはいるんだが、結局落としどころがミエミエである。「新しいモノの見方」とか「斬新な発見」みたいなものがない。だからつまらないのだ。

もうひとつ。ツッコミを予想してか、天声人語を執筆しているオヤジ(たち?)は、よく予防線を張る。今回も最後にこんなことを書いている。

かく言う当欄へも時々、男目線へのお叱りが届く。「子育てに奮戦するお母さんたち」と書いたら、育児は女性と決めるなかれと一喝された。「まず隗より始めよ」で女性筆者を。そんな便りを頂戴したこともある。糧としつつの日々の執筆である。

自分でも書いているように、このオヤジは根本的に「女性が考えていること」がわかっていないのだ。わかってないから、ついポロリと本心を垣間見せて、女性の皆さんに怒られるのだ。批判を糧としつつ、なんて書いてるが、この人ももういいトシであろうから、「雀百まで」というヤツで、いまさらその人間観の根幹まで変えられるわけはなく、ならば「後任には女性を起用していただきたいッ!」といって自ら後進に道を譲れば良いのである。そういうことをしないで、何かこういう一見反省してるかの如きポーズをみせて事の本質をウヤムヤにする。こういう小ずるいところが嫌われるのである――オレに(笑)。




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朝日新聞にはひと月に一回であったか、「池上彰の新聞斜め読み」というコラムがあり、ジャーナリストの池上彰がちょっとした辛口新聞批評を書いている。けっこう朝日新聞への注文なども書いており、こういうのを続けているというのは朝日新聞も偉いところがあるなぁと常々思っている。

それはともかく、けさの「斜め読み」は、「都議会のセクハラヤジ 人権への感度問われる」と題して例のセクハラヤジ事件をめぐる報道を俎上にあげている。

まず、「事件」が起きたのは今月18日だったのだが、翌日の朝日新聞が全国版じゃなくて都内版に記事を載せたのをとらえて、こういう重要な問題を全国版で扱わなかったのは問題じゃネ?ということを言っている。フムフム、そりゃそうだと頷いて読んでいたのだが、続いてこんなことを書いている。

こういうときこそ新聞コラムの出番だと思うのです。愚かな野次、問題になっても名乗り出ない卑怯な議員、それを庇う都議会自民党。取り上げ方は、それこそコラム筆者の腕の見せどころです。

はい、全くその通りですな。で、毎日、読売は21日、日経は22日に一面コラムで取り上げた。しかし、肝心の「天声人語」はなかなか書かない。というわけで、池上コラムの後段は怒濤の展開である。

いつになったら取り上げるのだろうとやきもきしていたら、23日、野次を発した都議が名乗り出ました。名乗り出る前に取り上げることはなかったのです。この反応の鈍さは残念です。
   
で、そのあとやっと「天声人語」が書く。

発言の主が名乗り出てから、「天声人語」は24日付朝刊でようやく取り上げました。筆者が過去に目撃した自民党国会議員の地元事務所でのセクハラ行為についての話から書き出しています。筆者のセクハラに対する怒りがほとばしるような筆致が続きます。あまりにストレートな怒りで、コラムならではのひねりに乏しい気がしますが、これは望み過ぎかな。
  
この辺、「遅い上に出来もイマイチじゃねーか」と言っているわけですが、ツッコミはさらに続く。

この文章を読むと思います。これほどまでに重大なことだと考えるなら、なぜすぐに取り上げなかったのですか、と。
   
そして、最後にトドメ。

あまりに愚かな行為は、取り上げる気もなくなることがありますが、人権に関する感度が問われているのですよ。

実によくわかっていらっしゃる。

つまり、天声人語を書いている人間は、別にこんな問題どうでもいいと思っていて、しかし世の中が騒ぎ出したので「うむ、社会の木鐸としてはコレは何か書かねばなるまいッ」と突然閃いてしまい、で、本音ではどーでもいいと思いつつも、そこは流石にアタマのいい朝日新聞の記者であるから、もっともらしく「憤っている(フリをした)作文」を書いて、「ハイ一丁上がり!他紙よりちょっと遅れたが、義理は果たしたゼ」とかうそぶいているのではないか、そういうのではイカン、と池上氏は言っているワケである。

しかしそういう経緯をアカラサマに書くのは下品であるから、池上氏は婉曲に、しかしホントのことがわかるように皮肉をまじえてお上手にお書きになっているのだった。

というわけで、オレなんかがこんなところでいくら天声人語を批判してもノレンに腕押し、何の社会的影響もないわけだが、天下の池上彰にこんな指摘を受けたら、さすがの天声人語子も反省せざるを得ないのではないか。この機会に「その通りでございますジャーナリスト失格でした」とかいって筆を折ったらいいんじゃねーか。ま、そんなことするような良心があったら、とっくにやめてるか。


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辺境ブログとはいえあんまり放置しておくのも何だから、というワケで、今回は「天声人語」ネタ。

けさの「天声人語」もまた首を捻らざるを得ない出来であった。

今回のコラム、この天声人語子が駆け出しの頃にサツ回りをしていて、殺人事件の取り調べ室の近くまで忍び込んだという武勇伝(?)から始まる。すると、取り調べ室から「ひ、と、ご、ろ、しー」という刑事の罵声が聞こえる。犯人を「落とす」ために、高圧的な取り調べをしているんだろーなーと思った、という。で、こんなことを書いている。

犯人を自供に追い込むことを俗に「落とす」という。あの調べが落としの 腕前としてどうだったのか知らないが、適正なやり方とは思えない。密室のことを記事にする術を当時は知らず、苦い思いが残った

で、最終的には、取り調べの様子をビデオとかに記録する、いわゆる「捜査の可視化」を進めないといけないなーという、ま、ありきたりな結論に着地するんだが、それはそれとして、オレとしては先の文章の「密室のことを記事にする術を当時は知らず、苦い思いが残った」とゆーくだりに疑問を感じた。

本当なのかこれは。

今もたぶんそうなのだろうが、記者のイロハといわれるサツ回りは、警察にどれほど食い込むかが勝負でアル。で、サツ官からさりげなくリークしていただいた情報を他社に先駆けて書くと「特ダネ」といって褒められる。そういう世界では、サツのジョーシキに自分を同一化させねばやっていけない。「でかい声で被疑者をドーカツするような取り調べしちゃいかんよなー」みたいな事をいってたら、サツに食い込むもナニも、「なに理屈こいてんだYO、そんなこと言ってるから抜かれっぱなしなんだYO。ホントできないヤツだなー」とかいって落伍者の烙印を押されてオシマイなのである。

さて、この天声人語子は朝日の看板コラムを書いているぐらいだから、上役の覚えめでたく、順調に出世なさってきたのだろう。となると、「あの調べが落としの 腕前としてどうだったのか知らないが、適正なやり方とは思えない」などと書いているが、まぁこういう体験が実際にあったとして、少なくとも当時の彼は「サツってこういうものなんだよなー」と、したり顔で頷いていたのではないか。

もちろん「密室のことを記事にする術を当時は知らず」とかいって、当時の自分はウブだったんでナニもできませんでしたみたいにカマトトぶって誤魔化しているけれども、「こういう取り調べはおかしい」と思ったら、記事に書けないワケがない。もちろん実際に書いたら支局のデスクか何かから、「こういう記事は通せない」とかいってボツにされただろうが、少なくとも「書く」ことはできる。

ここからは推測になるが、つまり当時の彼は、先に書いたように、そういう高圧的な取り調べは全然問題ないと思っていたのだ。あるいは、良くないことだとは思ったが、そういう「ラディカル」なことを言うと上役に睨まれるから止めておこう、と思ったのだ。

もちろん天声人語子は「そんなことはない」というだろうが、そう言い張るには、この文章はあまりにも不自然過ぎるのである。逆にいえば、そういう疑念を与えるような文章しか書けないという時点でダメである。

とまれ、「自分だけを高みにおいて他者を批判する」という、天声人語特有の典型的語法がココにはみられる。どうだろうか、「昔のオレもサツ官が被疑者をドーカツするのは当然だと思ってました、スイマセン、アレは間違いでした」という風に「正直」に書いたほうがよほど説得力があると思うのだが。

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今朝の天声人語は、話題の小保方STAP問題を取り上げていた。

皆さんとっくにご承知だろうが、「画期的研究できました!」とかいって鳴り物入りで登場した若手女性研究者が、その論文でずいぶん杜撰なことをしていた事実を暴かれ、「じゃあそのSTAP細胞ってのもインチキじゃね?」という疑惑が持ち上がっている、そういうスキャンダルである。

で、昨日の調査報告というのは、この論文というのはちゃんと科学のセカイのお約束にのっとって書かれていたかどーか調べるものだったんだが、何かよそからもってきた「本文には関係ありません」的な写真を載せちゃったりしてて、これはダメですネと烙印を押されてしまった。これが現状ですね。

さて、以下が本日の天声人語。

所属する理化学研究所はきのう、研究に不正行為、それも捏造があったと調査報告を公表した。懲戒委をつくって、処分を検討するそうだ▼ただ、 核心はなお藪の中にある。小保方さんは「このままでは、あたかもSTAP細胞の発見自体が捏造であると誤解されかねず、到底容認でき ません」と反論している▼細胞が本当に存在するのなら話は違ってこよう。重要な謎を残しつつ、理研側に、この騒動を、はた迷惑な独り芝居として葬りたい思 いが透けていないか。

うーん、よくわからンのは「細胞が本当に存在するのなら話は違ってこよう」というくだりだ。

いまひとつ文意がワカランが、たぶんこれは「研究の手続きは全然ダメだったんだが、実際にSTAP細胞を作れるんだったら、いまわかってるインチキはまぁ水に流して結果オーライってことになるよね? だから理研はそこんとこもハッキリさせてよ」ということを言ってるのではないか。

だとすれば、これはまたトンチンカンな議論である。

今回の理研の調査はあくまでも「研究のプロセスで何か瑕疵があったかどうか」というものだった。で、その結果はクロ。もちろん科学のセカイのルールからいえば、「じゃあSTAP細胞の研究自体みとめられないよ」ということになる。

もちろん「STAP細胞がリアルに存在するかどうか」というのは、論理的にいえばこれとは全く別の問題である。「論文の正しい書き方は知らなかったが、すげー結果出しちまったヨ」ということはありうる。だが、「細胞が本当に存在するのなら話は違ってこよう」とゆーことにはならない。仮に存在しても「こういうイイカゲンな論文を出した時点で、アンタは研究者失格。どっかいってください」という現時点の結論は不動であろう。たぶん「話は違ってこない」。

たぶん天声人語子はこんなことを考えたのではないか――オレも「世紀の大発見だ!」とかいって騒いじまったクチだが、どうやらその論拠となるべき論文は杜撰であったらしいゾ。恥をかいちまったゾどうしてくれるんだ理研サンよ。いや、待てよ。ここんとこ小保方叩きの方向でやってきたが、「いや実はSTAP細胞はできていた!」って事になったらまたまた風向きが変わっちまうンジャマイカ。うむ、ここは早いトコ理研に最終結論出してもらわにゃオレもコラムが書けないゾ、オイ早く結論だせよオマイラ」

こういう思考回路が働いたとすれば、「細胞が本当に存在するのなら話は違ってこよう」という何かよくわからん一句がココに挿入されている理由も納得できる。結局、この天声人語子は科学というセカイのルールとかいったものには何の関心もなく、「叩けばいいのか擁護すりゃいいのかワカランから早く結論だけ教えろヤ」といった自分の都合だけしか考えていない人物なのだろう。



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NHKの朝ドラ「ごちそうさん」が本日最終回。というわけで今朝の天声人語も便乗ネタ。朝ドラは食いものの話だったが、「自分を作る」ということでは「食」も「活字」も同じなので、ちゃんと活字を読もうネ、という他愛のない話。最後のシメはこんな風である。

朝ドラの終幕は食糧難の戦後だった。人々が活字に飢えた時代でもあった。時は流れて美食も活字もあり余る時代である。当方、日替わり料理を作る思いでコラムを書くが、レシピはどこにもない。さて「ごちそうさん」と言って頂けるかどうか。若い皆さんにも。

うんにゃ、こんなものに「ごちそうさん」とは言えんな。残念ながらオレは全然若くないけど。

根本的にこのヒトは勘違いしているようだが、「およそ活字とゆーものは良きものである」みたいなノーテンキな思想がこの文章には感じられる。

時に活字は害毒のモトになったりもする。ヒトラーの「わが闘争」とかもあったわけだし、教育勅語読んでカンゲキして勇んで戦争に出かけていった人たちなんかもいた(と思う)。そーゆー「読むこと」に内在する危険性みたいなものにこのヒト全く無自覚であるようだ。

今日の天声人語にしたって、およそ自分の書くものは「良き活字」である、という大前提で話をすすめておる。「若い皆さん」だって、「下らん文章読んでバカになるぐらいならスマホいじってるほうがタメになるよネ」と思ってるかもしれず、それはそれで否定できないのである。

さらに、百歩譲って「活字読もう!」という話になったとしても、それが天声人語である必然性はゼンッゼンない。そうさなぁ古典のほうがよいのではないのかなぁアリストテレスの「ニコマコス倫理学」とか。

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