カテゴリ: 身辺雑記

この前、福島市の「UFOふるさと館」に行った帰り、福島第一原発のすぐ西側をタテに通過する国道6号線をクルマで走ってみた。

ご承知のように、この一帯は帰宅困難区域となっているが、車外に出ないという条件付きで(バイクを除けば)一般車両も通行が可能である。東日本大震災と原発事故があった時は関東の「安全地帯」にいて(むろん原発の動向次第では関東も住めなくなっていたという話はある)何もできなかったオレだが、ずっとどこかで、やっぱりこの原発周辺のことは気になっていた。

どんな風になっているのか、野次馬っぽくて大変申し訳ないけれども、この機会に、通りすがりでもいいから行ってみようと思ったのだった。

北側から入ると、帰宅困難区域となる双葉町の入り口のところに、警備員みたいな人が立っていた。そこから先はもう全く人の気配とかないし、ロードサイドの店舗の入り口部分なんかも入れないように道路側に柵が設置してある。ゴーストタウン、といってしまうとナンだが、ああ、こんなことになっちまったんだなぁと寂しいきもちになる。

とりわけ大熊町と富岡町の境の辺だったのだが、けっこう家が道路沿いに立ち並んでる住宅街があって、でもやはり道路側には柵があって、もうそこには誰も住んでいないのだった。見たところはどうということもなさそうなのに。商店やガソリンスタンドも並んでて、ここにも暮らしがあったのに。グーグルマップとかでも、たしかにそういう風景は見られるんだが、やっぱりこれは現実なのだった。なんかため息が出た。

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富岡町に入り、磐越道に抜けられるところで右折して国道を離れたンだが、実はあとで聞くと、この曲がり角からそう遠くない富岡の夜ノ森というところに桜の名所があって、この日、地元の人たちが戻ってきて(特別に入るのが許されて)観桜会みたいのが行われていたんだそうだ・・・


なお、このドライブにはDoseRAE2という放射線測定器を持っていった。ダッシュボードの上にこの測定器を置き、フロントガラスの風景と一緒にビデオで撮影する、という試みをしてみたのである。主なポイントのデータはグーグルマップに落としてみたので、ここにリンクを貼っておこう。

ただし、この測定器は、正確なデータを取るには定期的に必要だという「校正」というのをずっとやっていないし、そもそも一定時間、同じ場所において動作が安定しないとちゃんとした数値は出ないという話である。あと、ここにはマイクロシーベルトという単位が出てくるが、この測定器はいわゆる空間線量を測る機械ではないらしいので、そこんとこも注意が必要である。あくまで参考値としてみてほしい。



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福島市飯野町にある「UFOふれあい館」に行ってきた。


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ウィキペディアなどを見ると開館は1992年11月。福島市と合併する前の飯野町が、いわゆる「町おこし」で作った施設のようだ。飯野町は福島市中心部から南東の山間部にあって、施設自体は「千貫森」と称される小高い山の中腹に建つ。当地では古来しばしば怪光が目撃されていたということから、こういう施設を作ったらしい(もっとも裏付けとなる史料がホントにあるのかどうかは知らん)。

ついでにいうと、千貫森にはその形状から「元来ピラミッドであった」という説もあるらしく(酒井勝軍あたりが淵源であろうと思われるが、面倒なので確認はしておらん。興味のある方は各自調べたし)、あと館内の3Dバーチャルシアター(後述)をぼんやり見ていたところ、一帯には由来の定かならぬ巨石が多くあり、それらがいわゆる「レイ・ライン」的に線上に配置されているという話も出てきた。つまり、雑誌「ムー」的な「謎とロマン」の括りでいえばネタもそこそこあるんで、なんとなく「よし、飯野はこれからUFO推しでいきましょう!」という事になったのではないか。

それはともかく、東京から高速を飛ばして3時間半。ようやく到着したのであるが、この千貫森の頂上には展望デッキ的なものが建っておるというので、まずはふれあい館のあたりから「UFO道」を経て上まで登ってみた。十数分かかるが、小生も初老ゆえ、けっこう疲れる。道中には怪しげな宇宙人の石像が多数立っておった。これもちゃんと確認したことではないが、帰路、車で近隣にある飯舘村の辺を通ったところ石材屋がけっこう目立っていたので、UFO作戦は地場産業とのタッグマッチ的な意図もあったのではなかろうかと勝手に想像する。原発事故後はたぶん石材屋さんも商売あがったりになっていることと思うが、何とか再起して頂きたいものである。

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展望デッキには、特に何があるわけでもない。この日は曇っていたので、眺望もいまひとつ。錆びついた観光地用の望遠鏡2機がなんだか侘びしかった(覗いたら壊れてはいなかった)。
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ただ、ちと気になったのが、展望デッキの脇にあったコンクリート製のお社である。中をあんまり覗き込んだりするのもはばかられるので何だか正体はよくわからんかったが、御札みたいなものが収められておるようだった。

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また、このお社のワキには椅子代わりのつもりなのか、金属の球体が置いてあった。ちょっとシュールな光景であるが、オレはこういうのは好きである(なおブログ主の特定を防ぐためwに球体の映り込み部分を若干修正しておる)。

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山腹のちょっとワキに行ったところには別に「清水の舞台」的な展望台もあった。

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下山後、ふれあい館の近くにあった小手神社というお宮の前を通ったら、神社の由来等々を記した立て看板があって、字はだいぶかすれていたけれども「千貫森の頂上には麓山神社が祀られている」的なことが書いてあった。

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1979年の日付の入った看板だったから「UFOで町おこし」作戦が始動する前の記述ということになろう。想像するに、UFOで町おこしということで「展望デッキを作ろうや」ということになり、「ま、地域振興のためなんで、この際、お社もちょっとワキに移っていただきましょうか。もちろん新しい祠を別に作ることにして」ということでこの小さなコンクリートの祠が誕生したのではないか。ホントのところはよくわからんが、その辺の地域住民のやりとりなんかについていろいろと想像をたくましくしてしまうのも、こういう施設の魅力の一つといえよう。

 *なお、千貫森というのは天文年間の領主の知行が「千貫」だったことにちなんでいるのだそうだ


UFOふれあい館は大人入館料400円ナリ。入り口左手には取材で来たらしき芸能人の色紙と雑誌「ムー」のバックナンバー。正面を向くと今はなきUFO研究家・荒井欣一氏からの寄贈になるという書籍類が壁一面に収容されている。大陸書房コーナー、矢追純一コーナーなど何でもアリ。全然知らんような本も多数。GPAニュースレターを十数冊たばねたようなファイルまであった。荒井氏の没後、その資料3000点の寄贈を受けたという話なので、こういう図書の点数も都合数千ということになるのであろう。

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本当はいろいろと手にとってパラパラしてみたいところである。確かに「読書希望の方は職員まで」みたいな貼り紙もしてあった。ただ、別に独立した図書室があるわけではない。いわば廊下的なところにあるロッカーの棚に並べてあるようなものなので、棚の上の方とかは手も全然届かん。うーん、ちょっとこれじゃじっくり読む気にもならんなぁ、この蔵書の無造作な展示の仕方は如何なものかと思う。

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ただ、そんな棚の中に、UFOによる町おこしを描いた篠田節子の小説『ロズウェルなんか知らないがさりげなく並んでいるのをみて、微苦笑しつつハッと思う。

そうなんだよ、何やかやいっても根っこは「町おこし」なのであって、マニアっぽいな人が来て、ここで何時間も本を読んでいきたいなどと言い出すことは役場の人たちもあんまり想定してないんだよ多分。個人的にはこの蔵書が「死んでる」感じがするにしても、あんまりその辺で責めるのも酷かもしらんなあ、と反省(あと、山本弘氏の『UFOはもう来ない』なんかもあって、いろんなのを極力集めようとしてんだろうなあとちょっと感心する)。

閑話休題。左手に曲がって館内ルートの最初に出てくるのは「ミステリーゾーン」。青っぽいライトと電飾で暗い通路を彩り、異世界へのかけはしにしようという意図だろう。何か安キャバレー的なチープさが見え隠れするのもこの際ヨシとしたい。

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ここを抜けると広々とした展示ゾーンになる。UFO模型、解説パネル、写真パネルなどがある。パネルには例のマジェスティック12だとかガルフ・ブリーズ事件など、今日ではもはやHOAXと言わざるを得ない件を取り上げており、うーむ、どうしたものかなあと思うが、ま、よくよく考えると、そもそも展示全体がオレ視点からいうと疑問のある「UFO=宇宙船」という大前提で組み立てられておるし、いまさら好事家がツッコミを入れるとかそういう対象として考えるのは根本的に違うのではないか、と思い直す。

「20世紀末にみんなが観念したUFOというのはこういうものだったのですよ」という、そういう歴史観の動態保存(?)をしておる施設ということであれば大変結構ではないのかしらん、みたいな。

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ちなみに、荒井氏の収蔵資料なのであろう、米国の資料とか、あの有名な北海道の藤原青年の描いた宇宙人のイラストのコピーと思しきものなどもあった。

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このほか、展示ゾーンにはビデオの再生コーナーがあって、何やらUFO番組みたいなのを流しっぱなしにしていた。あと、忘れてはならないのが「宇宙人エリア」で、いずれもこの世界では「スタァ」的なアイコンとなっておるフラットウッズ・モンスターと、ホプキンスビル事件、ヨハニス事件のエイリアンが立っておる。何故かヨハニス事件のエイリアンだけ3体いた。何故か。

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最後に、先に触れた「3Dバーチャルシアター」が幕で囲った中にあって、ここで立体メガネをつけてビデオを鑑賞。千貫森がUFOの聖地であるという理由をもっともらしく説明してくれる。長さは8分ぐらいだったかな。

で、一階は以上で一巡するかたちとなるのだが、ご希望の方は二階に上ると風呂と休憩室があり、休むことができる。せっかくなので風呂に入ってきたが、千貫森に登って汗をかいていたこともあり、熱い湯が気持ちよかった。なお、言い忘れたけれども、この日は他の入館者とはまったく遭遇せず、大広間の休憩室でしばしゴロゴロして休んだ。写真は撮り忘れたけれども、畳のヘリには円盤の図柄が入っており、こういう日本人ならではの細かい気配りは大好きである。

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というわけで、何だか田舎の公民館をホーフツとさせるようなシチュエーションにありながら、そこで強引にUFOをネタにするというこの施設、上にも書いたように、かつて我々がどっぷり浸かっていた「UFOの世界」ってこういうものだったよネということをビジュアライズしてくれているという点で実に得難いものがある。なんだかとても貴重である、ここは。オレとしては末永くこの施設が続いていくことを願わざるを得ない。みなさん、機会があれば是非行ってみてください。

【追記】
UFOふれあい館と道路一本隔てた向かいに「UFO物産館」というのがあって、ここでラーメンを食べたが、けっこう旨い。隠れたラーメンの名店として知られているらしい。小さな土産物コーナーも併設されており、ここでTシャツを買った。「NO UFO, NO LIFE」。たいへん結構である。

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 *ただし、ラーメンにはチトうるさいオレからいわせると、このチャーシューは、なんというかなぁ、「立ち食いそば屋で出すラーメンに載ってるチャーシュー」的なパサパサッとした食感であった。そういう日もあるのだろうか?


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いま乗っているクルマはゴルフ6である。

その前はレガシィワゴン3代目に乗っていて、買い替えにあたってはスバルも検討した。が、当時のインプレッサはいささか質感的にプアであり、かといって代替わりした当代のレガシィワゴンはでっぷりと肥大化していかにも鈍重であった。やむなくソコソコの質感を感じさせるコンパクトめのクルマとして、「一生に一度は外車に乗ってみるか」的なノリもあってゴルフに走ったという次第である。

とはいうものの、アイサイトをはじめとする独自の技術で売る富士重工にはヤッパどっか惹かれるものがある。いつだったか株を買ってしまい、ひそかに応援をしているところであった。と、そんなところへ株主を対象とした工場見学会のお知らせというのがあり、応募したところ、うまいこと当選した。で、この3月20日に群馬の太田市まで行ってきた。

社内でも滅多に見られないという衝突実験をみせてもらい(発売前のXVを一台オシャカにしていただき、まるで客人を迎えるにあたってヒツジを一頭バラすという遊牧民の如き気前の良さであるワイと思った)、弁当をいただき、製造ラインの見学をして無事終了。とりわけ、華麗な舞を見せるが如き溶接ロボットの動きには、こういう工場に来たことがなかったこともあり、なんか感動を誘うものがあった(なお、見学中は企業秘密の問題もあるようで写真撮影は禁止である。よって、気の利いた写真は撮れなかったという次第)。

最後は役員さんとの質疑応答なんかもあったけれども、「スバルのデザインださいんですけど」「納期おそすぎなんですけど」みたいな容赦の無いツッコミにも冷静に対応する偉い方たちのたたずまいは、なかなかにステキであった。

あと、いろいろ興味深い質問も出ておったが、「ダウンサイジングターボの計画あるみたいだけど?」みたいな問いは「いまちょっとここでは話せません・・・」みたいにかわすし、「トランプ政権になったけど大丈夫?」という声には「場合によっては米国工場での生産を増やす手もあるし、ともかくどんな環境になっても頑張りまス」的なリアクション。流石にソツがありません(笑)。

で、一瞬オレも発言しようかなーと思ったけれども、あまりにくだらない話であり、かつちょっとシャイなのでやめてしまった「お願い」というのがあって、今更こんなブログに書いても何の意味もないことではあるのだけれど、せっかくなのでチラ裏的にココにメモしておくことにした。

というのは、次のクルマを買う時には、新しくなってずいぶん評判の良くなったインプレッサあたりを有力候補にしたいなーと思っているのだが、ここで問題になるのが「試乗」というヤツである。

いちおうディーラーに行くと試乗はさせてくれる。が、結局、そのあたりを10分か20分ぐらい回ってくるのが関の山で、セールスマンも同乗してるとなると、ちょっと乱暴な「試験」みたいなこともやりにくい。好き勝手に半日ぐらいブラブラ走ってきたいものであるが、なかなかそうはいかない。

で、「だったらレンタカーでも借りて、しばらく走り回ってみりゃあいいんじゃねーか」と考える。これなら変な気兼ねもしなくていい。我ながらいいアイデアだと思うのだが、しかし、いろいろ調べてみると、車種指定でクルマを貸してくれるレンタカー屋ってのは、意外にないようなのだった。

ニッポンレンタカーのサイトなんかみると車種指定の予約フォーマットなんかも一部用意されとるんだが、オレの地元の店で予約を入れようとすると「その車種は申し訳ありませんが扱ってません」とかいって拒否されてしまう。なかなかうまくいかないのである。

ならば、こういう客のために、ディーラーさんが一種のレンタカー事業をやってくれればいいと思うのだが、どうか。12時間1万円とか適当な価格をつけてクルマを試乗させるというのはダメか。それだったら仮に気に入らなくても後腐れなしというわけで精神衛生上もよろしい。業界的にはいろいろと問題があるのかもしれんが、検討してくれないかなあ、特にスバル。







 
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本日夕、安倍首相は国会閉幕にあたっての記者会見をし、消費増税延期の決断等を含めて縷縷説明をしておった。それはそれで良いのだが、聴いていて思うのは、安倍首相、なんというか「軽い」。軽すぎる。

先のG7においても、「今時の世界経済状況はリーマン・ショック前夜に相似たり。よって消費増税延期はやむなしとするも、コレ飽くまでも外的要因によるものにてアベノミクスの失敗を示すにあらず」というような我田引水的発言を弄し、世界からの失笑を買っておったようだが、この人物の言葉、熟考を経て出てきたようなところがまるでない。

少なくとも世界経済の動向に比して、日本経済が格段に見劣りするのは事実であり、アベノミクスとやらが消費税増税に耐えうる状況を作り得なかったのは事実ではないか。この点については反省して頭を下げるのがスジというものだが、そういう姿勢は皆無である。上滑りに自画自賛の言葉を垂れ流す。

だから、というわけではないのだが、こういう時はついつい「憂国」というマジック・ワードについふらふらと(by加川良)引き寄せられてしまう(こうみえて実はナショナリストなのでご容赦あれ)。

ついては、以下に「昭和維新の歌」の歌詞を貼り付けておく。こういう歌詞に陶酔してしまう自分が怖いけれども、いま聴いてみると、なんかコレ、胸を打つものがあるのも事実なのである。


汨羅の淵に波騒ぎ
巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我れ立てば
義憤に燃えて血潮湧く

権門上に傲れども
国を憂ふる誠なし
財閥富を誇れども
社稷を思ふ心なし

ああ人栄え国亡ぶ
盲たる民世に踊る
治乱興亡夢に似て
世は一局の碁なりけり

昭和維新の春の空
正義に結ぶ丈夫が
胸裡百万兵足りて
散るや万朶の桜花


 

P.S.

などと書いたそばからナンだが、こういう「憂国」にあんまり高揚してしまうのもナンなので、解毒剤的にもう一曲貼り付けておきましょう。

 









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小生が敬愛しているルキウスさんのブログに

 『この人が嫌い』リスト 

というエントリーが上がっていた。読んで思わず膝を叩く。
どうしたって気に食わないヤツというのはいるもので、ルキウスさんは

 茂木健一郎
 姜尚中
 乙武洋匡

といった面々の名前をあげており、そういう自分の直感を大事にしたいという話をしている。

なるほど、と思う。

もちろんこういう感覚には個人差があるので
じゃあオレがそんなリストを作るとしたらどういうことになるだろうかと考えてみたら
それはそれでなかなか面白かったりする。
とりあえず頭に浮かんだのは

 泉ピン子
 和田アキ子
 小倉智昭

といった芸能界の片隅に巣食っている連中であって
要するに「押しの強さ」「コネ」で実力不相応な地位を築いている輩である。
この辺、もうちょっと精査したらいろいろ頭に浮かんでくるかもしれない。
よ~く考えておこう。

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ここんとこお国の偉い人から「どうか結婚して子供をたくさん産んで国家財政が破綻しないように税金払ってください」という発言が相次いでいる。実際、たとえば生涯未婚率の2010年時点のデータなどみてみると、50歳の男は20.14%、女は10.61%が未婚ということらしく、もはや生涯独身というのは決して珍しいことではなくなっていることがわかる。

しかし、ここで思うのだが、昔はそういう独り身の人間というのは周囲から有形無形のプレッシャーが加えられ、「しょうがないから結婚する」という方向にどうしたって行かざるを得なかったのである。社会的に半人前という烙印を押されたくなかったら結婚する。そうしないと社会生活を送る上で、とてもマズイ事態が生じていたのである。

そういう意味でいうと、最近は、別に結婚しなくてもそこまでの「差別」は受けない。そもそも社会的な「圧」みたいなものが何やかやいって減ってきている。「少子化というモンダイ」の根っこにはそういう状況があるのだろう。

これをオレ流の言い方でいうと、ここで生じているのは「文化の崩壊」という問題である。

どういうことかというと、そもそも「文化」というのは、複数の人間の間で共有されている習慣とか観念とかの束みたいなものであって、であるからこそ文化が文化として成立している限り、その観念はそれなりのリスペクトを得ることができる。

当然、「いい年になったら結婚するものだ」「爺さん・婆さんに孫の顔みせるのも親孝行のうち」みたいな観念もある種の「文化」であった。それが今日においては「いや、それは個人の勝手じゃネ」ということになってしまって、共同幻想=文化的な地位を喪失してしまった。つまり、「そういう個人のモンダイは全部個人の勝手にしていいから」という近代主義的人間観というものがいよいよ浸透してきた結果、これまでの了解事項=文化は無効になってしまった、ということなのだな、たぶん。

ま、それはそれでしょうがないことなのだろう。「文化」とか偉そうに言ったって、多くの場合、ソイツは共同体の中の誰かさん――おそらくは為政者――の利益に適うようなかたちでセットアップされているということは十分考えられることで、ま、ここんとこ「みんな結婚して子供産んでね」とゆー主張を大声で叫んでるのは政府の偉い人ばっかり、という事実からしてもその辺のことはなんとなくワカル。「そんなのオレは認めねえよ」ということになっても当然である。

ただ、ある意味くだらねえ保守性をはらんではいるとはいえ、人間が生きていく上でのある種の「拠りどころ」みたいなものを与えてきたのもまた「文化」だと思う。いまさら柳田国男の「先祖の話」みたいなことを言い出しても仕方ないのだろうが、「祖先も子孫もオレには関係ねえよ、オレは一人で生きて一人で勝手に死んでいくんだよ」というクールな人間観を抱いて生きて(あるいは死んで)いけるほど人間って強いのかYOと思うところもオレなんかにはある。

オレか? うむ、やっぱ弱い人間なので結婚して二児を得て、まぁ死んだらたまには線香ぐらいあげてもらえるんじゃないか、ということで、どうにかこうにか毎日やっているんだが、さて。




























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今回は英文のスパムメールが来た。
笑わせてくれるスパムメールというと、「主人がオオアリクイに殺されて1年が過ぎました」という伝説的な「作品」があって、そんなのに比べると全然ダメなんだが、まぁいろいろ突っ込みどころがあるという意味ではそこそこ楽しませてくれた。

とりあえず以下に全文。タイトルは「hello」。


Hello!
How are you? My name is Katashi and you?
I am from Tokyo. It was really interesting for me to read you profile. I want to keep company with you. I read your profile and I like that you wrote about yourself. As for me I am a sushi chef and I am interested in reading.
I hope that you will write to me on my email or hotmail ID, do you have such one?
Please write back!

Warm regards Katashi.

あらかじめ言っておくと、オレは受験英語はそこそこ勉強したが、その後、別に英語がわからなくてもなんとかなる職業に就いたこともあり、とりわけ「英文の手紙」みたいな実用レベルの英語は全然わからんままここまで来た。したがって、以下では英語の堪能な人からみるとトンチンカンなことを書くかもしらんが、まぁその辺は許せ。


How are you?

よくわからんのだが、初対面の人に対していきなり「よぉ、調子どうだい?」と尋ねてきておるコイツ。ネイティブスピーカーだとこういう表現をする人間がいるのかもしらんが、少なくとも礼節を知る日本人としては「阿呆かこいつは」と断ぜざるを得ない。

My name is Katashi and you?

で、いちおう名前を名乗っている。「カタシ」だという。「オードリー」の春日が、食レポで「うまし!」とか言ってる場面を連想してしまうぞ。あとで出てくるがコイツは東京から来たとか言っており、つまり日本人だと思われるので、どんな字なのか考えてみるのだが、いずれ無理がある。一番無難なとこは「堅」だろうが、最近はキラキラネームとかいって、むりやり読ませる馬鹿名前が横行しているので「難」でいいかもしれぬ(笑)。

ま、いずれにせよ「カタシ」というのは日本人の名前としては常識ハズレの珍妙なものといってよく、いかにも外人がアタマの中ででっちあげた日本語っぽい名前。素直に「タカシ」にすれば良かったのに。

I am from Tokyo.

これも変。「オレ、東京から来てんだよね」という意味であるから、こいつはいま東京以外にいるハズである。しかし、オレはこいつがどこにいるのか知らない。そういう相手にいきなり「東京から来たんだよね」は無いだろう。馬鹿かコイツは。

As for me I am a sushi chef and I am interested in reading.

で、「あんたのプロフィール読んだよ」とか、なんか意味不明なことを言ったのちに「オレは鮨職人」だと言い出す。ああ、そうかい結構結構。が、細かいことをいうと、この「 I am interested in reading」というのが解せない。「読むことに興味がある」ってんだが、小説か新聞か旅行ガイドか。自己紹介の体をなしておらんぞ。ゆるい。

I hope that you will write to me on my email

これも単にオレの感覚にのみ頼って言うのだが、この「on my email」というのが気に食わん。「on email」なのか「by email」なのか知らんが、ともかくmy というのはヘンではないか。

あと、「カタシ」という名前と「鮨職人」という職業からして、コイツは男だというキャラ設定になっていると思うのだが、「お付き合いしたいので連絡してね」というスパムメールである以上、これは女に宛てて送られねばなるまい。しかし残念ながらオレは男なのだ(いや、しかし、よく考えると、女性をターゲットとした「お付き合いしてね」メールなどというものは効果があるのだろうか、という根本的なギモンがいまめばえたぞ)

ともあれ、英語として奇妙(あえていえば中華っぽい英語?)であるうえに、内容的にもキャラ設定が甘く、矛盾が露呈しておる。「カタシ」こと Andrewsca47c@ytayoga.com さんよ、人を騙そうとするのであれば、労を惜しまず、もうちょっと頭を使わねばならぬ。



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太古の昔から、子供というのは事あるごとに「大人ってフケツだ!」と叫ぶことに相場が決まっていて、まぁ確かに自分が子供の頃を考えても、そういう傾向はあった。

子供というのは、なんというか、偽善的なにおいを嗅ぎつけると、「偉そうなこといってやがるけど、裏に回ってみりゃあ随分と汚えマネしてやがるじゃねえか」ということで批判を開始してしまうのであって、卑近な例でいうと、日テレの24時間テレビとか見てて「チャリティーだとか言ってるけどこのタレント、ちゃんとギャラもらってるっていうじゃねーか、結局売名行為だろが」とついつい怒ってしまうという、例のアレである。

あるいはもうちょっと高尚なレベルになると、オレなんかも昔よんだ本で、ポール・ジョンソンの『インテレクチュアルズ』というのがあるんだが、ここにはルソーとかサルトルとかいう偉い人たちが実生活では如何にゲスであったかということが綿綿と綴られており、うろ覚えではあるが、弱者の連帯を説いたハズのマルクスが家政婦に手を出したとかなんとか、ともかくそういう筆誅のつるべ撃ちで、読んだ当時まだ若かったオレは「なんだマルクスとかいったって結局ダメ人間じゃねーか」といって憤慨したものである。




日本の有名人にもそういうひとはいる。たとえば、人間愛に満ちた戯曲や小説を書いていた井上ひさしという作家がいて、「憲法を守れ!」みたいな発言もする進歩的文化人としても有名だったのだが、まぁ故人なので何の遠慮もなく書いてしまうけれども、あの人の奥さんに対する暴力、つまりいわゆるドメスティック・バイオレンスが度を越したものであったのは有名だ。ほとんど人相が変わってしまうぐらい暴力をふるった、みたいな話も聞く。

で、子供の倫理観からいうと、こういう人はウラオモテがあるということで、まずダメ出しを食らう。「偽善者だ!」「裏切られた!」で、ハイ終わり。


が、年を取るにつれて、「そういうケッペキ症みたいなのは本当に良いことなのであろうか?」みたいなことを考えるようになってきたのだな、不思議なことに。オレとしては、最近とみにそういう人間を「赦したい」(というと偉そうだが)気分になってきているのだ。

そりゃ、ずっと聖人君子でいられりゃ番いいんだけれど、同じ人間の中には「天使」の部分もありゃ「悪魔」の部分もある。どうしようもなくドス黒い、歪んだ欲望みたいなものがはからずも出てきちまうというのは人間のサガであって、そういうネガティブな面を目にしたからといって、そういう人間を全否定しちゃまずいんじゃねーか、と思う。否、むしろそうした「負性」を背負い込みながら生きていった人間のほうがよっぽど共感できたりする(たとえば以前のエントリーにも書いたけど実生活では「ワルイ奴」だった啄木とかね)。

なんだか理想を追い切れずに日々堕落していくオレ自分をかばうためのロジックという気がしないではない。いや、実際にそうなのかもしれないけれども、ただ、年をとってオレなりに見えてきた人間の実相というのはそういうものである。そうやって、親鸞の悪人正機説(善人尚もて往生をとぐ、いわんや悪人をや、というアレだな)に「これって真実だよなあ」としみじみ感じ入ったりする。

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で、「いや、モノの見えている人間はその辺はちゃんとわかってるンだよ」とオレは自己弁護を始めるわけだが、ここでふと思い出すのが、赤塚不二夫の「天才バカボン」に出てきたキャラ、花山カオル先生である。ロマンス小説の大家として純真な少年少女に愛されている小説家なのだが、実はゴミ溜めのような環境に埋もれていなければ美しい文章を書けない。その小説世界を愛するバカボンのママが訪ねていって、あまりの家の汚さに絶句してしまうが、善意でお掃除をしてあげたら、うんこがどーしたこーした、みたいな極端に下品な文章しか書けなくなってしまう。そういう話であった。

一見くだらない話のようにみえて、やはり赤塚は天才であって、ここには人間の「真・善・美」というものの儚さと脆さが如実に描かれているのだな。ハスの花は泥沼に咲くからこそ美しい。そんな言葉も思い浮かぶ。

もちろん、だからといって「開き直って偽悪趣味全開」というのも逆に気持ちが悪い。要は中庸ということになるわけだけれども、嫌煙主義の行き過ぎなんかをみるにつけても、なんか世の中はますますこの手の薄っぺらな世界に堕ちつつあるようだ。ちょっと残念。

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京都の老人ホームで医師をしている中村仁一さんという方が書いた『大往生したけりゃ医療とかかわるな』 (幻冬舎新書) という本があって、で、確かこの本の中に書いてあったのだが、「ガンで死ぬ」というのは、どうも一般的には「おぞましいもの」として敬遠されているけれども、実は年寄りの死に方としてはそんなに悪くないんじゃないか、という議論がある。

よく末期ガンは痛いし苦しいなどと言われる。確かに無理やり抗癌剤を投与したり放射線療法とかやってガンと「闘う」ということになると、これは生きてる正常な細胞をハカイしたりする副作用もあるので結構修羅場になったりするようなのだが、もうあんまり「闘病」しないでなすがままに任せとくと、意外とこれはラクで、死ぬ時も意外にスーッと死んでいける、というのである。

で、ガンというのは、ある程度、先が読める。あと××年したらたぶん死ぬんじゃないか、という見通しが立つというのである。これは宣告を受ける身になってみるとかなりキツイような気がしないでもないのだが、よくよく考えると、ここにはある程度「死ぬ準備」をしてから逝けるという利点がある。それと、最近よく聞く「ボケて暴れるので無理やり沈静剤うたれた上にベッドに縛られて一日過ごすジジイ」みたいな老後を考えると、むしろ意識が清明なウチに「あぁ桜が綺麗だなぁ、来年は見られないかもしれないなぁ」とか詠嘆しながら死んでいけるガンのほうが、まだマシじゃねーかなあと思ったりする。

いや、だが、しかし。たとえば80歳とかになってボケが進行してしまった段階でオレがどう思うかというのは、これはまた別問題なのだな。たぶん、とゆーか十中八九、オレは「いや、しかしまだもうちょっと生きたいので、何でもいいから生かしてくれ」というのだろう。この辺が人間の難しいところである。ま、ともかく、日頃から死に方のシミュレーションをしておくに如くは無し。












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薄幸の歌人というイメージのある石川啄木だが、一方で彼は、借金魔にして、性格のねじくれた青年であったことも広く知られているところである。いや、むしろそういう欠点のあった人間だからこそ啄木は身近に感じられるところがある。たとえば、こんな歌。

一度でも我に頭を下げさせし 人みな死ねと いのりてしこと(『一握の砂』)

まぁ長年宮仕えというヤツをしていると、「なんでオレが頭を下げなきゃならんのだ、悪いのはオレじゃないだろうよ」と思いつつ、しかし屈辱にまみれながら頭を下げなければならない局面というのはしばしばでてくるものだ。

聖人君子のような人間であれば、これも人生でアルとかいって達観して不満を呑み込むのであろう。が、なかなかフツーの人間にはできない。そこで「くそっ、死ねッ」と心のなかで毒づいた経験はないか。

オレにはある。

そういう意味で、やっぱり「死ねッ」とか内心で毒づいたのであろう啄木は、わがこころの友である。
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