カテゴリ: 身辺雑記

近年、喫煙者への風当たりには相当キツいものがある。

オレも一時期禁煙していたのではあるが仕事上のストレスなどもあって今ではすっかり悪習(笑)が復活してしまい、そんなこともあってか、「喫煙=絶対悪」という最近の喫煙者狩りには行き過ぎたところがあるのではないかと考えている。

むろん、非喫煙者への配慮というのは、流石にこういうご時世なので絶対必要ではある。さはさりながら、喫煙者自体が自らの寿命が縮むのも納得の上でタバコを吸うのであれば、それは放っておいてあげるべきではないか、というのがオレの持論である。

こういうことをいうといろいろ反論されるのであるが、その論法の一つとして「いや、喫煙者は医療費をたんと使ってしまうので社会に対しても害悪を及ぼしておる。一つもいいことはないので止めなさい!」というのがある。いやだがしかし、少なくともこの論点についてはオレには何だか釈然としないものがあるのだった。

なんとなれば、そもそも喫煙者は早死にする。生涯を通してみれば、喫煙者の医療費総額というのはダラダラと生き続ける非喫煙者よりも少なくて済んだりするンではないか。

こういう年来のギモンに対してなかなかストレートに答えてくれる人はいなかったのであるが、日経新聞5月25日の「経済論壇」のコーナーで、慶応の土居丈朗先生が或る論考に触れていて、それがまさにこの「喫煙者は金食い虫か」問題を論じているようなのだった。

それは「週刊エコノミスト」5月14日号掲載の康永秀生・東京大学教授による「予防医療で医療費は削減できない」という論考なのだが、ネットでも全文は読めないので、とりあえず土居先生の要約を以下に引用させていただく(適宜改行を入れた。そのうち見えなくなるとは思うが念のためリンクを貼っておく)。


健康寿命を延ばすために予防医療は推進すべきだが、それによって「国民医療費を削減できる」という主張は誤りだと断じるのは、東京大学教授の康永秀生氏(週刊エコノミスト5月14日号)である。

予防医療で疾患の発生や重症化が抑制されるものの、長期で見れば医療費がむしろ増える可能性もあるという。先行研究によると、喫煙者のグループと非喫煙者のグループを比べると40~60歳代で喫煙グループの方が非喫煙グループより医療費が少し高くなる。しかし、70歳を超えると非喫煙グループの方が医療費が高くなり、生涯の医療費は、喫煙グループの方が寿命が短いため、非喫煙グループの方が高くなる。

予防医療は病気にかかるタイミング、つまり医療費がかかるタイミングを先送りしているのであり、医療費をなくすわけではない。


要するに、喫煙者は早く死んじまうので、累計でいくとタバコ吸わないで長生きする人よりも医療費はかからないというのである。

なんだ、オレの直感は正しかったンじゃンという話である。

それと、おそらくこれは論理の流れとして当然想定されることであるが、喫煙者は早死にするので政府にしてみると「年金」の支払いも少なくて済むことになる。医療費も節約できるし、年金の払いも節約できる。言うまでもなく、喫煙者は当然タバコを買う際に高額の納税もしている。となると、喫煙者は国家のために多大なる貢献をしている大功労者ということになるのではないか!

なんで国家に対する大功労者がこんなに叩かれなくてはならないのか。ホント「石が流れて木の葉が沈む」というのはこのことである。

もちろん誰だって死ぬ時には「あぁタバコなんか吸って寿命縮めるンじゃなかったよー」とかいって後悔したりもするだろうが、ナニ、考えようによっては惚けて無残な末路をさらすより正気を保ったままタバコ吸いすぎでガンで死んでく方がシアワセという考え方もないではなかろう。その辺はなかなか正解の出ないところだろうが、とりあえず「タバコ=悪」で思考停止するのは余りに一方的ではないか。

オレなんかも、たまにそこいらでヨボヨボのジジイがウマそうにタバコを吸ってたりするのを見ると、「なんかいい光景だよなあ」と思ったりする。それぐらい許せよ。


【追記】
その後、朝日新聞にもこの康永秀生教授へのインタビュー記事が出た。例によってカネを払わないと読めないのだけれどもいちおうリンクを貼っておこう。
喫煙者は早く死んじまうので、生涯を通じての医療費はむしろ安上がり(などという品のない言葉は使ってないがw)になるようだ。やはり喫煙者はお国のために我が身を捨て、犠牲を払っている愛国者であったようだ。











mixiチェック

「デジタル遺品」などという言葉があるらしい。遺品というからにはそれなりの金銭的価値があるもののことなのかなぁと思うが、むかし書いたまますっかり忘れていたブログの記事なんていうのも考えようによっては「遺品」といえなくもなかろう。

などということを考えたのは何故かといえば、10年ほど前まで書いていたもののずっと忘れて放置していたブログを最近「発見」したのだった。具体的にいえば「ブックマークフォルダの奥の方にあったものをクリックした」というだけの話なのだが、こうやって再会したブログの記事の内容、けっこう忘れていた。

当時はかなりオンラインゲームにのめり込んでいたようで、そのあたりの話が多い。「いい年をして何やってたんだよオマエ」とでも言いたくなる感じ。だが当人が忘れていても、そのテキストはネット上に生き続けていた。で、たぶんオレが死んでも、こういうテキストだけはそのまま(おそらく誰も見に来ることもなく)なんとなくずっと存在し続けるのである(利用していた無償ブログサービスが終わらない限りは)。

読む者にとっては、その書き手が生きているか死んでいるかはわからない。というか、フツーは生きているものという前提で読むのだろう。そんなテキストがおそらくは無数にある。そして何かの拍子にそんなものと意図せずして出くわしたりする。なんだか不思議な世界に我々は生きている。






mixiチェック

もう何度も書いているような気がするのだが、会田綱雄の「アンリの扉」という詩があって、これがなんていうかスゲー好きである。

なんか「人の輪に入っていけないオレ」の気持ちを代弁してくれているようで、何だかとても嬉しい。部分的にちょっと引用していいだろうか(文化庁はいけないと言うのだろうが、ここはちょっとだけ見逃していただきたいw)。


(ああ
 今日もまた
 ノックさえしなかつた
 なんということだろう
 あれほどかたく
 ちかつたのに
 扉のなかからもれてくる
  やさしいきぬずれや
  ささやき
  かすかなわらい
  それがなぜきまつて
  おのれの火を
  ふきけすのか)


ま、そういう詩である。


mixiチェック

中野重治に「わたしは嘆かずにはいられない」という詩があって、もちろんそれは戦前の時代における左翼の立場からの体制批判であるわけだが、なんだかエライ人にみんながひれ伏しているような昨今の状況――それはまさに国家の最上層部からオレの仕事場の周囲5メートル圏にいたるまで場所を選ばないワケであるが――をみていると、これは別に昔の話じゃあないだろうが、という気もする。

これについてはなんか前も書いたような気がしないでもないが、以下、さわりの部分を貼っておく。自分の主張を支える文脈で「引用」するのであれば著作権法上も問題はないと聞くので(嗤)。

わたしは嘆きたくはない わたしは告発のために生まれたのでもない
しかし行く手がすべて嘆きの種であるかぎり
わたしは嘆かずにはいられない 告発せずにもいられない
よしやヒネクレモノとなるまでも
しかしわたしはいう わたしは決してヒネクレではないと


mixiチェック

オレは白光真宏会ではないが、この主張には同意する。
名称未設定

mixiチェック

何だか最近フレディー・マーキュリーの伝記映画みたいなのが公開されたらしく、ずいぶん評判も良いので観に行かねばならないのだが、そんなこともあってクイーンのベスト盤を再生などしながらネットサーフィンをしていたところ、たぶん自分の中の「昭和回顧脳」みたいなものが刺激されたらしく、そういえば子供の頃にヘンなLPレコードをもってたことを思い出した。

「燃える男のバラード 長嶋茂雄その栄光のドキュメント」
  というのである。

42176

ちょっとググってみたところ、1971年の制作のようで、しかし別に長嶋茂雄が歌をうたっているわけではなく、名試合の実況だとか長嶋のモノローグとか仲代達矢のナレーションとかで彼の野球人生を振り返るという、ま、一種のラジオドキュメンタリー的なシロモノなのであった。

長嶋の引退が1974年であるから制作はそのちょっと前で、おそらく野球選手人生も終盤に入った長嶋をたたえようという狙いで作られたものと推察されるわけだが、しかしよくよく考えるとオレは当時から阪神ファンであって、なぜ宿敵巨人の長嶋を讃えるLPを買ったのか不思議でならないのだった。

ただまあ、オレも子供心に敵として迎えたときの長嶋の怖さというものは知っていて、なんとなくそのヘンにリスペクトがあったから魔が差してこんなものを買ってしまったのかもしれない。

彼の怖さということでいえば、その頃、オレはよくラジオで阪神戦を聴いていたのだが、当時阪神にはアンダースローのエース格で上田二郎という人がいて(なんか定期的に名前の漢字を変えることで有名な人で、いまはたぶん「次朗」だと思う)その日の彼は、なんと宿敵巨人相手を9回までノーヒットで抑えていたのだった。

で、ついに9回2死。そこで打席に迎えたのが長嶋。敵の大将格でもあり、こりゃ何がなんでも抑えて屈辱を味あわせてやるゼとオレは願ったのだったが、なんとここで長嶋がセコく内野の間を抜くヒットを放つ……ま、実際に敵ながらアッパレ、ではあったのだ。

ちなみにその試合があったのは1973年7月1日。もう45年も前のことである。レコードのほうはまだ実家のどこかに眠ってるのか、あるいは捨てられてしまったか。その辺は定かではない。








mixiチェック

平昌パラリンピックで成田緑夢が金メダルを取ったそうだ。たいへん結構なことであるが、今回はそのことではなく、彼の名前、つまり「緑夢と書いてグリムと呼ばせる」問題についてひと言いっておきたい。

言うまでもなく、「緑→英訳してグリーン→ちょっと端折ってグリ

そういう思考経路をたどって、こういう名前になったのだろう。キラキラネームに典型的なパターンである。

で、これはよく知られていることだが、戸籍法では名前に使える文字については規制をしているけれども、「読み方」については何の規定もない。当然、戸籍には「よみがな」が記載されない。つまり「これはこう読みます」と当人が強硬に主張すれば何人も否定できないのである。

ちなみにパスポートだと名前をローマ字書きする欄があるので、強引につけたよみがなを「Gurimu」とかいって書き込んじまえば、「これでお上もこの読み方を公認してくれたゼ!」と豪語することが可能である。

(あ、ここまで書いてきて恐ろしいことに気付いたが、ひょっとしたらパスポート申請の時にアルファベット表記「Grimm」として出したら、そのまま通ったりするのか? となると、たとえば「一石」みたいな名前つけて「私は Einstein です」なんてのもアリか?)

閑話休題。つまり原理的には、辞書とかでまったくオーソライズされない「オレ流の読み方」を勝手に作り出して、それで押し通すことが可能である。つまり、いわゆる「キラキラネーム」は法的には何の問題もなく、どんどんやっていいのである。「ちゃんと読んでもらえない」とか「ヤンキーの子供だと思われる」といったあたりが気にさえならなければ。

まあしかし、これはよく考えるとアナーキーな事態である。

「古き良き日本を守れ」などといっている右翼の皆さんは、こういうのをなんとかしようとは思わないのか。「他の誰も読めない名前をつける」とゆーのは、つまり周りの人々とのコミュニケーションをあらかじめ拒絶してかかる行為といえなくもない。右翼の皆さんのお好きな「日本国民の紐帯」「共同体のつながり」といった視点からすると、非国民の極みではないのか。戸籍法を改正して「読み方」を届けさせ、あんまりヘンなものは受け付けないとか何とかすればいいのではないか。

いやもちろん、名字については「小鳥遊」(たかなし)というキラキラ類似事例があったりする(小鳥が遊ぶ→天敵がいない→鷹がいない→たかなしパターン)。なので、「名前だってキラキラでいいじゃねーか」という有力な反論もあるとは思うけれども、まぁそこは「もう既得権益になっちまった部分はスルー。ただし今後はダメ」ということでどうでしょう。

もっとも、オレももともとアナーキーなものは嫌いじゃないので、いっそのこと、キラキラ方面を加速させ、「知らない同士で初めて会ったら名前の読み方を当てっこする風習」でも広めたら面白いかもしれない。いわば国民総大喜利状態。ずいぶんこの国も楽しくなるのではないか。

仮に「緑夢」だったら
「あ、わかった。グリムでしょ?」
「残念!緑はドイツ語読みでいきます。だからグリュムです」とか。
いや、それじゃ全然落ちてねえだろ、という(笑)



mixiチェック

こないだイボ痔の手術を受けてきて闘病日記のページを立ち上げたのであるが、実はその後、回復が思わしくない。

とゆーか、手術から2ヶ月の時点で、いつのまにか切れ痔になっていて、しかもかなり悪化しているという謎の宣告を主治医から下されてしまった。

いまだかつてそんな症例があったとは一度も聞いたことがない(まあ素人なんで聞いたことがないのは当然だが)。

なんか鬱々とした日々を送っているわけだが、そのへんのイライラを発散する意味もこめ、前回もリンクを張ったけれども引き続き「内痔核を斬るッ!――または内痔核(いわゆるイボ痔)の闘病日記」という日記を書いておる。大団円に至ればいいのだが、今ンとこお先真っ暗である。

いちおうずっと書いていく予定なのでヨロピク。


mixiチェック

どうでもいいことであるが、先般、痔の手術をして入院してきた。この種の「痔の闘病ブログ」みたいなのはググってみると山ほどもあり、「屋上屋を架す」感もあるけれども、これまで入院なんてものはしたことがなかったこともあり、個人的にはけっこう新鮮な体験だったのでウェブページを作ってみた。

イボ痔でお悩みのご同輩の参考になればいいなあ、ということでリンクを貼っておこう。
mixiチェック

そもそも詩とか歌といったものには全然理解のない無粋なオレであるワケだが、強いていうと「見放された人々」系の作品は何故か好きである。石川啄木とか山之口貘といったあたりだね。

啄木といえばこのへんか。
AS20170907001461_commL
一度でも我に頭を下げさせし
   人みな死ねと いのりてしこと






山之口貘でいえば、ま、これかなぁ
この兄さんは
成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思うのですcontent_1297152868
そんなことは書けないのです
東京にいて兄さんは犬のようにものほしげな顔しています
そんなことも書かないのです
兄さんは、住所不定なのです
とはますます書けないのです
(「妹へおくる手紙」より=部分=)


で、数日前の日経新聞の文化欄で、虫武一俊という歌人の存在を知ったのだが、これがまさにそっち方面の人であった。記事にはこういう歌が載っていた。

images
三十歳職歴なしと告げたとき 面接官のはるかな吐息
(『羽虫群』より)





ええなあ。いたたまれなさ、切なさが胸に突き刺さってくるぞ。才能がキラッキラ輝いておるぞ。36歳のひと。

で、ついでというとナンだが、関連でいろいろググっておったら、この歌集、オレは平成の戯作者と勝手に命名しているのだが、詩の方面にも造詣のふかい一流ブロガー・馬場秀和さんがブログでいちはやく紹介されておった。さすがである。




mixiチェック

↑このページのトップヘ