カテゴリ: 読書感想文

ジュリア・ショウ『脳はなぜ都合よく記憶するのか』読了。



 

「記憶とは何ぞや」という問題にはずっと関心があった。当ブログのメインテーマと関連づけていえば、それは実はUFOの問題なんかとも密接にかかわっている。とりわけUFOに絡むアブダクション事件、つまりエイリアンによる誘拐事件というのは、「悪夢に悩まされるようになった人が退行催眠を受けたところ、エイリアンに掠われた記憶を思い出す」といったパターンで明るみにでるケースが多い(その嚆矢といわれる1961年のヒル夫妻事件からしてこのパターンだ)。

しかしこの手の話では、「そうやって思い出した記憶は本当にあったことなんだろうか?」というツッコミが必ず入る。確かに催眠術をかけられた人は暗示にとてもかかり易くなるという。施術者のさりげない言葉で話を「作ってしまう」危険は広く指摘されているところである。

というわけで「記憶ってヤツはけっこう怪しいんじゃねーの?」という認識はUFOファンが常に心しておかねばならぬ常識である。だからオレもたまにそういった虚偽記憶の研究をしている認知心理学者のエリザベス・ロフタスあたりの本を読んできたりしたのだった。そんな流れで読んだのが今回のこの本である。

著者のジュリア・ショウはイギリスの記憶研究者だそうだ。本のカバーの著者近影ってヤツをみるとかなりの美人であるが、本の中身の方もとても良かった。けっこう文才がある人のようで、素人にも平易に読める。脳科学から認知心理学まで、ここ数年の間に出た研究論文なんかもいろいろ紹介しているから、たぶん本作には最新の研究成果がコンパクトに詰まっているのだろう。ちなみに原著『THE MEMORY ILLUSION』は昨年2016年の刊である。

さて。ひと言でいってしまうと、「記憶ってのは全然安定したものじゃなくて、簡単に改変されちゃう、実にあやふやなものなんだよ」というのがこの本の主張である。脳内における記憶のシステムというのは何だかよくわかってないところが多いようだが、どうもこの本を読むと、記憶というのは「客観的なデータ」みたいなものが脳味噌の中に収まってるんじゃなくて、脳内のいろんなニューロンを連合させてそのつど「創造」されるものと考えた方がいいらしい。そのつど作るンであれば、いろいろ歪んだりぶれたりするのも当然である。

であるからこそ著者は「あなたの小さい頃、こんなことがありましたね?」というニセの記憶を植えつける実験なんかもやっておるわけで(ロフタスなんかもやってたようだが)、しかしそれはこういう研究者にとってみればいとも簡単なことなのだった。

で、紹介されるエピソードがいちいち興味深い。

例えば、自分で体験した出来事を文章に書きだしてみると、その後の記憶はこの「書いた文章」に引っ張られてしまい、かえって不正確なものになっちまったりする、という話がある。「経験した記憶」を「記述した記憶」が押しのけてしまうという理屈で、「言語隠蔽効果」と言うそうだ。狂牛病の時に「悪玉」として有名になったプリオンなんてのも、実は長期記憶のために重要な役割を果たしてるンだって。初耳であった。

あるいは、SNSばっかりやってると、人の体験を自分のものと混同しちまうような事もあるらしい。記憶は「伝染」したり、あるいは「汚染」されたりするンである。「サブリミナル学習」なんかも全然効果ナシ。例の退行催眠にも触れているけど、これも大ウソと断言する。実に小気味良い。

あと、「フェルスエーカーズ事件」というのが紹介されていて、これは子供たちの証言で託児所の職員が逮捕された「幼児虐待」事件なんだが、どうやら子供たちは「ニセ記憶」を植えつけられていたらしく、以前読んだローレンス・ライト『悪魔を思い出す娘たち』を思い出した。そこから引き出される「証言頼りの犯罪捜査ってえのはホント危ねえんだよ」という主張も実に正当である。

こういう最新科学の成果を教えてくれる啓蒙的な本というのは実に大事であると改めて痛感した次第である。

最後に一つ気になったことを。本書では
「過誤記憶」という言葉が使われていて、これは FALSE MEMORY の訳語であると思うのだが、これまで多くの本は「虚偽記憶」という訳を用いてきた筈である。ウィキペディアをみたら、「虚偽」っつーと何か「嘘つき」みたいなイメージが連想されるので宜しくない、ということで新しい訳語が登場したということらしい。解るけれども、なんかひと言説明欲しかった。

あ、そうだもう一つあって、この本は「原注は講談社のホームページから落としてください」みたいな事が書いてあって、本の中にはその原注が無い。 せいぜい10ページかそこら、何とか入れられなかったのか、こういう本作りでいいのかと小一時間説教をしたい気分である。が、意外と最近はこういう本作りが許されちゃったりするのであろうか?
 
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これが Julia Shaw。美形でアル。


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あんまり放置しているのも何なので、むかし「mixiレビュー」に書いた感想文を転載しておこう。よいお年を。



著書自身も語っているように、この本が俎上に上げているのは決して「UFOの正体とは何か」といった問題ではありません。UFOという現象の「語られ方」が時代とともにどのように変わってきたかを論じ、いわばUFOを鏡としてワレワレのモノの考え方、時代思潮がどう変わってきたのかを考えようという本です。まぁ言ってみればUFO現象をサカナにした社会・文明評論といったものなのですが、しかしなかなかユニークな本ではあります。

非常に強引に要約してみましょう。ケネス・アーノルド事件から1970年代はじめにかけてのUFOシーンというのは、「進んだテクノロジー」をもつ「宇宙人」が宇宙船に乗ってやってきているのではないか的な発想を総じて持っていた、と。「科学の進歩」が素直に信じられていた時代であり、「進んだ宇宙人」と「遅れた地球文明」の対比で奴等をイメージしていたというんですな。つまり進歩を信じられた近代主義の時代特有の「円盤」観であった、というのですな。もうひとついうと、古くはこの近代主義にみられる「何か確固としたよりどころがある」とゆー世界観を支えたのは「宗教」だったりしたわけだけど、それがこの時代には「科学」になっていたからこそ、高度に発達した文明の象徴としての円盤にみなナットクしたという話ですね。

それが73年ぐらい頃から、思想界におけるポストモダンの進行と相まって、ワレワレの周りでも「何か確固とした準拠枠みたいなもの」が崩れ始めた。大文字の「真実」なんてものはない、というわけで、そこから出てきたのがUFOシーンにおける陰謀説であったりする。アブダクションケースやらキャトルミューティレーションやら何か恐ろしげな企みに関係するものとしてUFO問題が語られるようになる。

著者は95年ぐらいからさらに事態は進展している、というのですが、そこから先に書いてあることは実はよくわかりませんでした。またじっくり再読してみたいのですが、とりあえずの印象でいえば、もはやこのポストモダン的な状況は変わることはなく、もはやUFOシーンにかかわる大きなテーゼなど成り立ちようもない、断片的な情報が浮遊するばかりの状況が続くのであろうというような事を言ってるように思われます。

著者はJ・G・バラードあたりを専門とする文学研究者のようですが、ともあれ変わり種のUFO本として(しかもメジャーな出版社から新書で出た、ということも含めて)一読に足る本とはいえそうです。



【2016/12/30時点の追記】
なお、アマゾンのレビューをザッと見てみたんだが、けっこう辛い点がついている。「方法論的に極めて粗雑かつナイーヴで、恣意的な素材に基づいて尤もらしい与太話を飛ばしている」みたいな評もあって、つまり「これは学者の書く評論じゃないだろう」という批判なのだろう。学術的じゃない、というか。
ただどうなんだろう、これは学術論文ではなくて、エッセイ寄りの評論みたいなもんじゃないのかな。「ナッツ&ボルトの宇宙船って流行らなくなったよねー、これって何か時代とリンクしてる感じあるよねー」という本なので、別に「検証」を期待しちゃったりするのは違うと思う。



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以下、ツイッターで書いたものの(ほぼ)再掲。
高橋昌一郎「反オカルト論」読了。

ハイズビル事件の立役者で、近代スピリチュアリズムの「創始者」ともされるマーガレット・フォックスが、婚約までした冒険家・医師のエリシャ・ケインから「降霊詐欺は辞めろ」と再三手紙を受け取っていたこと、そのやりとりを彼が早世した後「ケイン博士の愛の人生 The Love-Life of Dr. Kane」なる本で公開していたこと等々、知らん話が色々出てきて勉強になる。

彼女が1888年、新聞でトリックを告白したというのはよく聞く話だが、同年、ルーベン・ダベンポートがスピリチュアリズムを徹底批判する「デス・ブロウ・トゥ・スピリチュアリズム The Death-Blow to Spiritualism」なる本を出した際、全面協力していたという話も出てくる。これも知らなんだ。

STAP問題が出てくるなど「反オカルト論」というより「反科学論」ではないかと思わんこともないが、ササッと読めて面白い。なお、大川隆法によれば麻生太郎は「真田正幸」の生まれ変わりである(133p)というくだりがあるが、これは「昌幸」であろう。増刷時には修正されんことを。
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反オカルト論 (光文社新書)
高橋 昌一郎
光文社
2016-09-15



高橋昌一郎『反オカルト論』 (光文社新書)を読んでいたら、東大の進学ガイドブックに学生さんが書いた理学部数学科へのおさそい(?)のメッセージが引用されていた。以前どっかで読んだこともあるような気がしたが、ともかく次のような文章である。


東京大学理学部数学科

数学科に進学することは人生の多くのものを諦めるということである。言わずと知れた東大数学科の院試の難しさ、就職率の悪さ、学生間の関係の希薄さは言うまでもないが、加えて人間的な余裕をも諦めなければならない。数学の抽象度は日ごとに増し、数学科生は日夜数学のことを考えながら生きていくことを強いられる。某教授に言わせれば、『数学を考えようと思って考えているうちは二流である。無意識の夢の中でも考えられるようになって初めて一流である』だそう。そのような生活の果てにあるのは疲れ切った頭脳と荒廃した精神のみである。


一見とても自虐的なことが書いてあるのだが、しかし、本来の学問というのは「ありとあらゆる苦難を舐めてもなおその先を見極めたい」というやむにやまれぬ情熱に駆りたてられてやるものなのだということを暗に説いており、そういう人こそ数学の道に来て頂きたい、と言っているのである。なるほどこれは核心を衝いておるワイと思った。

そして、この言葉はおそらく、数学の研究者についてのみ当てはまるものではない。この文章の「数学」というところを他の学問に入れ替えても、その文意は十分に通じるのである(とりわけ「すぐには役立たない学問」を代入するとしっくりくる。哲学とか)。以下、○○に各自お好きな学問の名前を当てはめてお読み頂きたい。


○○科に進学することは人生の多くのものを諦めるということである。言わずと知れた東大○○科の院試の難しさ、就職率の悪さ、学生間の関係の希薄さは言うまでもないが、加えて人間的な余裕をも諦めなければならない。○○の抽象度は日ごとに増し、○○科生は日夜○○のことを考えながら生きていくことを強いられる。某教授に言わせれば、『○○を考えようと思って考えているうちは二流である。無意識の夢の中でも考えられるようになって初めて一流である』だそう。そのような生活の果てにあるのは疲れ切った頭脳と荒廃した精神のみである。


オレなども遠い昔、大学生だった時分には一瞬研究者を目指そうかと考えたことはあった。だが、やはり世俗的な欲望みたいなものを全部振り捨てて学問の道に進むような気迫や情熱は欠いていた。だからごくふつうの会社員になった。

そんなオレなどがいまさら外野からいろいろ言っても全く説得力はないのだが、最近とみに文教予算が削られて研究者の生活もかなり厳しいことになっていると聞けば、さすがに我慢にも限界はあるだろうとエールのひとつも送りたくなってくるのだった。

学者の皆さん、いろいろ大変だろうが
初心を忘れず頑張ってください!


「オカルト」がテーマのこの本の本筋からいうと若干わき道のほうの話なのだが、ちょっと琴線に触れるところがあったので書いてみた。


【追記】
なお、この『反オカルト論』 はまだ読み始めたばかりであるが、教授と助手の対談スタイルで書いてあって、幅広い人たちを対象とした啓蒙的な狙いの本のやうである(もともと週刊誌に連載していたものがベースらしい)。

とはいいながら、最初のほうに出てくる霊媒師、ミナ・"マージャリー"・クランドンのおはなしなどは、かなりスレているオレなどにとっても非常に勉強になった。

20世紀のはじめ、彼女は金持ちのお医者さんであるダンナと一緒にボストンでハイソな人々を招いた降霊会を開いておったわけだが、本書によれば、彼女はそこにノーパン&ネグリジェ的な格好で現れるのが恒例であり、そこではダンナが「身体検査」と称して賓客にヨメの体を触らせる、みたいな趣向があったようなのである。つまりこの降霊会、本来は、ヒマをもてあまして生活に刺激を求めていた有閑階級を対象に、特殊な嗜好(笑)をもつ夫妻が提供していた「おさわりバー」的な催しであったということらしい。

彼女は陰部に「エクトプラズム」のネタを仕込んでいた、みたいな話は、たしかステイシー・ホーン『超常現象を科学にした男』にも書いてあったけれど、この本を読むとヘンタイ」というかなんというか、もう困った人たちだと思う。

で、こういうストーリーの背景にはこのマージャリーさんがとても魅力的な女性だったという事実があるらしいのだが、ネットで写真を検索してみるかぎり、「なんで?そうなの?」という感想を抱いてしまったりする(今の基準からすると明らかなセクハラだろうが、真実探求のためなので許せ)。

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これが
ミナ・"マージャリー"・クランドンさん (1888–1941)




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塚田穂高著『宗教と政治の転轍点  保守合同と政教一致の宗教社会学』(花伝社)を読んだ。

今とても売れている菅野完『日本会議の研究』で、一部宗教団体のサポートを受けて日本の保守政治家に影響を与えているとされる「日本会議」への注目が高まっている折も折、そのあたりも含めてリアルな政治に戦後日本の宗教教団がどう関わってきたのかを気鋭の宗教社会学者が網羅的に描き出した研究書だというので、先日「東京ブックフェア」で二割引きで売っていたこともあってついつい買ってしまい、遅まきながら手に取ったという次第である(高かったけどw)。

オレ流に乱暴にまとめてしまうと、天皇制に親和性をもつ、つまり伝統的な保守・右翼イデオロギーに近いナショナリズムや世界観を有する教団であれば別に自前の政党を立ち上げるまでもなく自民党の右派政治家などと連携する「政治関与」を試みることが多いのだが、それとは異なる独自の教義・世界観を有する教団であれば政治団体を作って独自に「政治進出」を図ろうとする傾向がある。本書は、おおむねそのようなパターンが戦後日本の宗教―政治関係に見てとれることを論証しているのだった。

当然、話題の「日本会議」を下支えしてきた諸教団は「政治関与」系になるわけで、そういう文脈で「解脱会」や手かざしで知られる「真光」系教団などの取り組みが論じられている。

一方の「政治進出」系としては言うまでもなく「創価学会」が取り上げられているワケだが、そのほか「オウム真理教」「幸福の科学」はもちろん、「浄霊医術普及会=世界浄霊会」「アイスター=和豊帯の会=女性党」などというマイナーな組織も登場してくる。著者も本書のいろんな箇所で自慢(笑)しておるが、こういう大きな見取り図みたいなものを作った学術的な仕事というのはなかったようで、たいへんためになった。

以下はどうでもいいけれど読書中に感じたもろもろ(と若干の注文)。

一、書名にも入っている「保守合同」という言葉であるが、コレってふつうは1955年の自由党と日本民主党の合同のことを言う。その辺にポイントがあるのかなと思って読んでおったのだが、ところがいつまでたっても1955年の「保守合同」の話が出てこない。「なんで?」と首を捻っていたのだが、つまり著者は最終的に「日本会議」に結集する伝統・保守系宗教勢力の合従連衡のことを「保守合同」と言ってるみたいなのだった。これはワーディング的にちょっとどうかという気がしました(笑)

一、「オウム真理教」や「幸福の科学」はともかく、「浄霊医術普及会=世界浄霊会」「アイスター=和豊帯の会=女性党」などというのはその存在すら全く認識していなかったのでとても勉強になった(アイスターという会社が売っている「アイレディース化粧品」というのは聞いたことがあったし、何か看板なんかもそこいらじゅうで見た記憶があるが、ここが半分宗教絡みだというのは全然知らなんだ)。ホントのことをいえば、宗教―政治にかかわる戦後日本の状況には全く影響力を及ぼすこともなく散っていったこうした団体の話はあんまり一般化しても仕方ねーんじゃないかという気もしないことはないンだが、虚心坦懐に「泡沫政治団体盛衰記」として読むとスゲー面白い

一、さらにいえば、供託金なんかゼッタイ返ってこないのにあえて選挙に出る泡沫のヒトビトというのは、別に宗教団体じゃなくても常人に理解不能な信念に殉ずるという意味で或る意味の宗教性に富んでいるともいえるので(笑)もうこうなったら宗教とは関係ないところから出てきた有象無象の泡沫候補・団体をガッチリ調べてその「宗教性」を総まとめするような仕事も面白いんではないかと無茶振りしたい気分である

一、著者も書いているけれども、最初は日蓮思想を掲げて「国立戒壇建てるぞ-」などと言っていた、つまりは一般人にはやや敷居の高い特殊な政治的主張を説いていた創価学会も今じゃそんな言い分は引っ込め、公明党自体が政権与党の「現実主義」にドップリ、である。むろん、先の安保法制とかに対してはかつての反体制時代よろしく「お先棒かつぐな!」と声を上げた創価学会員も一部にいたようであるが、とにかく創価学会=公明党は「変質」してしまったようだ。「昔の価値観・世界観はどこいっちまったの?」「どこでどう変わったの?」という大いなる疑問は、今後著者に是非解明していただきたいものである

一、あと、そもそもそういう「特殊な主張」に基づいて「政治進出」を試みた他の教団が揃って死屍累々という中でなぜ唯一創価学会のみが「成功」したのか。オレなんかであれば「ま、それが戦後復興期という時代だったんだよ。時代さ、時代!」的な床屋談議で納得してもいいんだが、研究者としてはそうもいくまいから、ここいらも何か説明をしてもらえればと思う

一、「日本会議」に関係している大和教団の保積秀胤教主が2014年に新日本宗教団体連合会(新宗連)の理事長になったという話が出てくる(79p)。あれっと思ったンだが、立正佼成会を中心とした所謂「新宗教」の諸教団が作るこの新宗連というのは平和運動なんかにも取り組んでいるし、おおむねウルトラ国家主義みたいなものには反対している穏健な団体であるという印象があった。そこで若干ググってみたところ、確かに新宗連は今年8月8日付けで「靖国神社公式参拝」に反対する意見書を出したりもしている。何で「日本会議」の人がそういう団体の親玉に収まってるのか? ここは小生も勉強不足でよくわかんなかった。どういうことなのか、ヒマがあったらおいおい調べてみたいものだ(おわり)

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ここんとこ、むかし撮った写真をアップしては、何となく「このブログはまだ死んではいない」感を醸し出すことにしていたのだが、たまには何か書いたほうがよいかもなぁ、ということで今回。

さて、そもそも「心とはなんだろう」というのは永遠の謎である。で、たまにその手の脳科学本などを手に取ったりするのだが、加齢のせいか、何だか片っ端から読んだ記憶が霧消してしまう。それでもナマイキに向学心(笑)は如何ほどかあるようで、今回はこの本を手にとってみた。

今回記憶に残ったのは、「人間が何か決断するとき、オレはイマ決断しましたよ、ということを自分で意識するまさにそのタイミングに先立って、脳内現象的には既に(無意識的に)決断が済んでしまっている」という脳科学の知見である。

こういう話は、まぁ以前にも聞いたことがあるけれども、何だかいろいろと考えさせられる。

脳内のプロセスでは既に結論が出てしまっている。けれどもその時点で、いまだ意識はその結論を知らない。「意識」は蚊帳の外。「無意識」的に決まったことを、あたかもいまここで自分が決断したかのように思い込んでいる。

うむ、何だかこの辺に「意識」の本質にかかわるものがあるような気がしてならない。

我々の考える意識――というか、その「考える主体としての自我意識」というものは、決断の主体という役割を(むりやりに)演じさせられている、ということではないか。ホントの意味では主体性はないんだが、やはりここで「主体的に決めた」という主体がないと何かマズイことになるので、そういう幻想がどうしても浮上してきてしまう。というか「捏造」されてしまうのではないか。

この、「何かマズイことになる」というところがキモのような気がするのだが、きょうは既にけっこう酔っ払ってしまっているということもあり、そっから先は曖昧になってしまう。

岸田秀は「人間は本能が壊れてしまった動物なのでダイレクトに環境と渡り合えず、結果、幻想を媒介にして環境と向き合うしかすべがなくなった存在である」というような事を言っていたのだが、何かその辺とも関係があるような気もする。よくわからないけど。たぶん。

で、日進月歩の進歩をみせているという脳科学は、オレの生きているウチに、このあたりについてもうちょっとクリアカットにわかるような知見を差し出してくれるのかどうか。そこんとこは、けっこう期待しちゃってたりもする。













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ミチオ・カクという人物は「ひも理論」とやらを唱えている理論物理学者である。

「ひも理論」というと「折り畳まれている次元というものがあるのだよ」みたいな議論だったと思うのが、その辺は生粋の文系のオレとしては正直よくわからん。ただ同時に彼は、最先端の科学技術をわかりやすく解説するという啓蒙的な仕事もしており、この本なんかもそういう一冊である。

今回はとりわけ「脳」や「こころ」に関して「現在の科学技術がこのまま発展していくとどういうことができるようになるんだろうか」みたいなことを論じている。そういうのは典型的文系のオレにとっても非常に重要なポイントであるので、買って読んでみたという次第。

感想としては、ま、陳腐だけれども、「いやホント知らん間に科学は進歩しているんだなぁ」ということに尽きる。

たとえば、最近ではMRIなんかで脳の活動状況がほぼリアルタイムで「見える」ようになりつつあり、その分解能とかをブラッシュアップさせていけば、やがては「人間の思考や認識」といったものと、「ニューロンのふるまい」(端的にいえば脳内の電気現象ですね)の関係を解明できるんではないか、というハナシになってるらしい。

そのメカニズムを解明すれば、原理的には「脳内で何か考える→電気信号→他者に伝える→再構成する」というテレパシーみたいな現象も再現できるし、その手のブレイン・マシン・インターフェース(
BMI)次第で全身マヒの人だっていろいろできるようになる。最終的には、脳内の情報=記憶を電気情報としてハードディスクに「記録」できるかも、みたいなとこまでいっちまうらしい。で、逆にいえば「偽の記憶」を頭に送り込んだりすることなんかも十分射程内だ。いや、彼の議論では、「記憶」どころか「全人格」さえも原理的には記録可能だというから恐れ入る。

臨死体験とか幽体離脱みたいなテーマもチラッと出てくるし(その流れでカナダのマイケル・パーシンガーも出てくる)、「2045年問題」のカーツワイルなんかも登場する。いやぁ実に盛りだくさん。カクは「物理法則上否定しえないものは実現可能性がある」というスタンスで、実にアメリカン。楽天的である。

ただ、何かこう、「神の領域」みたいなトコに向けて人間がズンズン進軍しているのを見て、ちょっと寂しくなったりするのは何でなのか。どこまで一般化して言えるかどうかはワカランが、ワレワレ日本人には、何かどっかに「いやそうはおっしゃるけど、人間には見てはならない聖域とかやっちゃならねえタブーの領域はヤッパあるんじゃねーの」「そういう還元論でホントに人間のこころがわかりますかねえ」みたいな、論理以前の感性が残っているような気もするのでアル。

尤も科学というのは、そういうプリミティブな感性なんかはお構いなしの自動的メカニズムである。さて、オレの目の黒いウチにミチオ・カクの「予言」はどこまで実現するんだろうか。興味津々、といえばいえる。

【追記】

いろいろ書いたけれども、ともかく知的好奇心を刺激してくれる一冊であることは間違いナイ。知らんこともいろいろ書いてあって勉強にもなった。たとえば京都にはATR脳情報研究所(ググるとNTT系の3セクらしい)なんて研究機関があって、「夢の画像化」みたいなことまでやっとるらしい。けっこう日本も頑張ってるではないか。にしても、夢研究はそんなところまでいってるのか。フロイトも遠くなりにけり。










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今回はこの同人誌「空飛ぶ円盤最後の夜に」の読書感想文を書いてみたいが、その前に、まずは長々とした前振りを書かねばならない。


知る人ぞ知る円盤本の名著に『何かが空を飛んでいる』(略称「何空」)というのがある。

著者の稲生平太郎というのは英文学者の横山茂雄氏のペンネームなんだが、もともと1992年に刊行されたこの本は、ある意味で日本のUFOシーンにデカすぎる一石を投じた本なのだった。

もともと日本で「円盤」というと、「宇宙人の乗りもの?」みたいな視点で矢追さんとかメディアとかもいろいろ取り上げてきたわけで、もちろんそれは米国の初期ユーフォロジーの大立者、ドナルド・キーホーあたりが言い出して以来、とりわけ米国ではデフォルトともいってもいい問題意識であったため、その辺の事情もコミで円盤ネタを「輸入」してきた日本でも「円盤≒宇宙人」とゆーコンセンサスができてしまった、ということなのだろう。

ところがこの『何空』のスタンスは、違った。

そもそも円盤類似現象というのは大昔からあったもので、いわゆる妖精なんてゆーのは虚心坦懐にみれば「宇宙人」と五十歩百歩だったじゃないですか、そういや誘拐=アブダクションなんてのは妖精のお家芸ですゼ、円盤現象というのはことほど左様に人間存在と骨絡みになった怪奇現象なんですヨ、「宇宙人」なんて、あなた、そんなお手軽な説明じゃ割り切れんのですよ、みたいな事を説いたのだった。

ちなみに、この手の「奇現象としてのUFO」みたいなアプローチは米国のジョン・キールなんかも取り入れていたし、ヨーロッパでは「ニューウェーブ」などと呼ばれて一定の支持を集めていたらしい。ま、オレがそのあたりの事情を知ることになるのは、遥か後のことだったが。

さて、この本が刊行された1992年というのは、オレも円盤系と切れていた時代だったこともあり、この本のことはずっと知らんかった。それが2000年頃だったか、確かニフティサーブかどっかで耳にして、こいつは面白そうだと思って買おうとしたんだが、もう無かった。絶版になっておったのである。いわば幻の名著。くそッ、てなワケで、「復刊ドットコム」にリクエストを出したりしたんだが、無いものはしょうがない。で、図書館で借りて読んだ。結果はいうまでもない、あぁなるほどこいつは目からウロコだ、マスト・バイのUFO本だ、とオレは大いに感激したのだった。

ま、そのような本でもあり、復刊を望む声が朝野に満ちた結果ということなのだろう、昨年暮れに『定本 何かが空を飛んでいる』という名前で、ようやく復刊が成った。オレにとっても10数年越しの願望が叶ったのだった。


・・・とゆー、とてもとても長い前振りを受けて、ここからが本題になる。

世の中にはいろいろな人がいて、やっぱりこういう怪現象としてのUFOが大好きだということで「Spファイル」という同人誌を立ち上げた奇特な方々がいたのだった。たまたまその活動を知ったオレは感激し、その創刊時から購読をさせていただいておったわけだが、こういう方々だけに、やはり『何かが空を飛んでいる』には皆さんリスペクトをもっている。

となると、昨年の『定本 何かが空を飛んでいる』刊行は一大事件である。こいつは何とかせねばならん、ファンブックを作りましょうかという話になって、で、今回の「空飛ぶ円盤最後の夜に」が誕生した。そういう話なのである(と聞いている)。

というわけで読ませて頂いたのだが、うむ、実に良かった。

まず何と言っても感心してしまうのが、著者・稲生平太郎へのインタビュー「<他界>に魅せられて」である。もともと英文学の専門家である稲生氏、加えて小説も書けば、映画評論もし、かつてはこんな円盤本も書いていたわけであるから、一見「どういう人なんだ?」ということにもなってしまうんだが、このインタビューを読むと、その辺が全然ヘンじゃないことがわかる。

つまり、タイトルにも出てくる「他界」というのがキーワードである。

この世の中というのは、何かのっぺらぼうで淡々としていて、誰かさんの言葉を使えば「終わりなき日常」が続く世界に過ぎず、何かつまんねーな、と思うことはオレなども再々あるわけだが、いやいや、どうやらこの世界、時と場合によっちゃワケのわかんない裂け目も発生するし、破綻もするよ、条理を超えた意味不明なもの、魑魅魍魎が跋扈する時だってあるんだし、みたいなことを稲生氏は考えているらしく、だからこそ、そういう「他界」に開かれている窓として幻想文学を読んだり書いたり、奇っ怪な映画が現実感覚を崩壊させる瞬間の快感を語ったり、奇現象としての円盤を語ったりしてきたのであろう。

まぁ抽象的なことを書いてしまったけれども、その辺の「他界」への希求といったものを、インタビュアー3氏は実に巧妙に語り手から引き出している。殊勲甲、である。

あと、常連寄稿者の論考も読ませる。

オレが「平成の戯作者」と勝手に命名している馬場秀和氏の「現代詩と円盤」は、円盤系のモチーフが出てくる現代詩を紹介している。さっきの「異界」の話じゃないが、詩的イマジネーションは、確かにそうした世界に我々を導いてくれるものかもしれない。詩的言語は因果律や物理法則とか一切超越してるしな。

ものぐさ太郎α氏は、UFO前史としての19世紀末の謎の飛行船騒動の総まとめを書いておられるが、ご専門だけに流石にお詳しい。「何空」は円盤現象の超歴史性ということを言っているわけで、その精神を踏まえて19世紀末の米国という時点にスポットを当てれば、こういうレポートができてくる、ということになる。

あと編集長のペンパル募集氏のジョン・キール論。先にも述べたが、『何空』はかなりの程度、キールの問題意識と重なり合うところから出てきた本なので、これは重要なポイントである。「この世界は決してあなたが思ってるような平板なものじゃないんだよ、ヘヘヘ」みたいな感じで、終生あやしげな奇現象の話を(あえていうが)書き飛ばしてきたライターの、その思想と立ち位置がよく見えてくる。

新田五郎氏の円盤マンガレビュー、原田実氏の「超常幻書目録」は、いずれもオレがよく知らない世界なのでいろいろ書けないけれども、それぞれにご専門のフィールドから円盤世界に切り込んでおって勉強になる。

まだまだコンテンツはあるんだが、感想はこの辺でいったん打ち切らせていただこう。ただ、一つ残念だったのは、「何空」の一つの源流であったUFO研究家、ジャック・ヴァレの仕事について、もうちょっと読みたかったナということである。改めて書いておくと、ヴァレは『マゴニアへのパスポート』(1969)などで妖精譚とUFO報告の類似性を指摘し、いわゆる「ニューウエーブ」の旗手と呼ばれた人物であって、稲生インタビューにも「影響を受けた人物」として出てくる。確かこのファンブックではヴァレ論も予定している、という話を聞いたんだが、いろいろと事情があったのかしらん。ま、今後Spファイルで掲載して頂ければ、と切に願っております。

というわけで、こういうものが同人誌で出てくるというのは、なかなか、日本も捨てたものではない。この中にも書かれているけれども、円盤文化自体は滅び行くプロセスにあるようで、やや寂しいような気もするのだが、そういう意味では同人諸兄には円盤現象の看取り役(?)としてさらなるご健闘をされることを期待したい(おわり)









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「UFO体験は臨死体験と同根ではないか」というテーゼで名高いケネス・リング『オメガ・プロジェクト』はずっと家に置いてあって、耄碌が進んできたこともあり、読んだんだか放置してたんだかよくわからなくなってたンだが、このほどちゃんと読んでみた。

以下思いっきりネタバレであるが、結局のところ、人間というのは脳の側頭葉部分が何かクリティカルな状況に陥った時に臨死体験をするのであって、一方で側頭葉が強烈な電磁効果に見舞われた際にはUFO体験をしてしまうのダ、とゆー議論である。

勿論こうした議論のバックグラウンドにはカナダの脳科学者マイケル・パーシンガーの研究があるので、そこんとこ何となく尤もらしい話にはなってはいる。

*ちなみにこのパーシンガーという人はこ
の手の話にしばしば登場してくる人物であるんだが、著書は邦訳されていないようで、そのへんは隔靴掻痒の感がある。あと、「地球上には時にそうした強力な電磁効果が発現する地球光 eatrh light 現象とゆーものが発生するのだ」とゆー主張をしているポール・デブルーという人の議論もパーシンガー説の傍証として引用されていて、確かこの人はヴァレの本にも出てきているのでオレも読みたいのだが、当然ながら(笑)邦訳がない。出版社の中の人は何とかしてほしい。


閑話休題。それはそれとして、この本、最後の方になって、けっこうトバしてしまう。

臨死体験にしろUFO体験にしろ、人間のそういう体験は何か新たなる人類の「進化」を先取りしたものではないのか、みたいなことを言い出すのである。当人は本の中でヤンワリ否定してたが、やっぱこれは所謂ニューエイジの「見果てぬ夢」とゆーやつではないのだろうか。

だいたい彼は「進化」とかゆー言葉を不用意に使ってるンだが、オレの理解している限りでは今の進化論というのは突然変異+自然淘汰みたいなリクツになっている筈で、リングがここで言っている進化は「何か或る方向に向かって生物が自発的に変わっていく」みたいな、つまり現在は完全に否定されているラマルク流の「進化」説であるように思われる。そういうのをいきなり持ち出すから、ナルホド科学者の議論だよなーと思って好意的に読んでいたオレ(笑)もヒザカックン状態になってしまうのである。

ま、淘汰圧だか何だか知らんが、人間の変革を強いる力がソコで働いているというんであれば、ここは「進化」なんていう物言いはしないで、ヴァレ流の「コントロール・システム」だとか、あるいはユング流の元型(アーキタイプ)仮説でお茶を濁しておけばヨイのである(実際に本書ではその辺への言及もあるんだよネ)。

というワケで画竜点睛を欠いた感もあるけれども、パーシンガー理論を拡大援用したこういう議論はなかなか知的刺激に満ちている。その後、このフィールドがどうなってんのかは不勉強なのでよくわからんけど。とりあえずそういうことで。


p.s.
しかし、今アマゾンでみたら値段が4979円もついていたぞ。どーなっとんじゃ











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すっかり向学心というものが衰えてしまったオレではあるが、たまに勉強になりそうな本を買ってくる。で、結果的には、だいたい積ん読になる(笑)。

ではあるんだが、またその手の本を買ってきてしまった。

記憶のしくみ 上 (ブルーバックス)
エリック.R・カンデル
講談社
2013-11-21

記憶のしくみ 下 (ブルーバックス)
エリック.R・カンデル
講談社
2013-12-20


カンデルはノーベル賞をとった偉い先生でもあるが、こういう一般向けの本も書いているのは嬉しいことである。新書2冊で3300円超というのはいささか高いような気がするけれども、ユーフォロジー的にも記憶というのは大事な問題だったりするし、ちゃんと勉強しないとネ。

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