カテゴリ: あとらんだむ

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PCのフォルダを整理していたらこんな一枚が出てきた。

2020年4月下旬の夕刻。水曜日。場所は東京駅地下街。要するにコロナ禍で全然人がいない。こんな時間帯なのに。ちょっと衝撃を覚えてスマホで撮った。

あのパンデミックというのはことほど左様に前代未聞のことだった。



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ここんとこ、大相撲(笑)・アメフト・バスケ・体操、あるいはもっとあったかもしれないが、スポーツの世界でいろんな不祥事が花盛りである。

オレはこういうのは大変結構なことだと思う。なんとなれば、「スポーツは健全である」みたいな「誤解」が、こういう不祥事続発によって解かれていくと思うから。

スポーツは心身に悪い。

これはオレの年来のテーゼであるが、それが事実によって立証されつつあるといってもよい。参考までに、この問題について当ブログに以前書いたエントリー「だからスポーツマン=健全というのはウソだから」へのリンクを貼っておこう。



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気が滅入ったときはやはり啄木である。こんなのもなかなか良い


盛岡の中学校の
露台バルコン
欄干てすり最一度もいちど我をらしめ

帰らざる日、というヤツか。

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こないだ某所で知り合いが話してたのだが、オカルトとかスピリチュアル的なものというとかつては若い世代が興味関心を抱くというパターンがあったのだが、どうも最近は全然様子が違うらしい。

いや、正確にいうとそれはもうちょっと具体的な話で、雑誌「ムー」の読者は今やジジイ、ババアが中心ではないかとか、そういう話だったのだが。

で、よくよく考えると、そんな印象は確かに前々からあった。まぁ1980年代の桐山靖雄の勃興から90年代のオウムあたりにかけては、この手のトレンドはまだ若者が担い手だった感じがあったのだが、新世紀に入るともうダメである。

これはオレのスキなUFOなんかにも通じるところがあるんだが、担い手は明らかに中年~初老の世代である(もひとつ、印象論でいってしまうととりわけ女性、つまりはオバサンが頑張ってる感じがある。安倍昭恵とかW)。

これは何なのか。

仮にそのボリュームゾーンを1960年代生まれあたりとすると(つまりオレの世代なんだが)、小学生で1970年代前半のオカルト文化の洗礼を受けた連中が「雀百まで」ってヤツで踊り続けてる、みたいなイメージがある。

もちろんその前の世代にも「ヒッピー文化からニューエイジ」みたいな回路があっただろうし、そこそこオカルト-スピ系カルチャーはアリだったような気がする。

となると、これは単に「子供の頃の刷り込み体験の有無」みたいなところに帰着するような気がしないでもない。テレビなんかでも、オウム以降の「アヤシイ番組はダメ」の流れでこの手の系譜が途絶えてしまった、という理解である。

ただ、勝手な印象論でいうと、これは最近の若者のいわゆる「保守化」ともどっかでつながってるような気がする。どういうことかというと、以前の若者っていうのはどこか夢見がちだったり、「いま・ここにはない真実」を希求して「汚い現実にツバする」みたいな、どっか反社会的なエレメントをもってたような気がするのだが、最近の若い奴らには、そういうのは無いみたいである。

となると、これは単なる「オカルトカルチャーの途絶」で済まない、なんか、より大きな流れの一環のような気がしないでもない。

なぜか。連中は本当にもう「スピとかオカルトは要らん」と言ってるのか。わからん。わからんけども、オレのスキなUFOカルチャーが死に絶えてしまうのもちょっと悲しい。何とかしたいような気もする。どうしようか。








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テレビのCMで、「あ、ブルーハーツの『情熱の薔薇』使ってンなあ」と思った途端、気分的に「CDでも買ってみるか」という懐メロモードに突入。ベスト盤的なものをアマゾンで買った。



これがそのエネオスのCM。今回のリオで五輪4連覇を逸した吉田沙保里を起用しており、何だかシンミリしてしまう




別に熱心なファンでもなく、何となく、聴くともなく聴いていたバンドであるが、こういうロックスピリットみたいなのは、ジジイになった今になってみるとなかなか眩しい。

閑話休題。ボーカルの甲本ヒロトがブルーハーツを辞めたのちに立ち上げたハイローズ時代に発表した『日曜日よりの使者』という曲がある。高校野球の応援とか、いろいろなシーンで使われて結構メジャーな曲である。


      

もちろん今回買ったベスト版は「ブルーハーツ」のなので入っていないのであるが、ふと、「そういやあの曲、ヨソで何か似たようなメロディ聴いた覚えあるんだよなぁ。アレってどういうことなんだっけ?」という疑問が兆した。で、ググッてみたところ、結局やっぱり元歌みたいなのがあったようだ。『Will The Circle Be Unbroken ?』。カントリーである。



   
で、これ聴いたら、「あ、この曲ってなぎら健壱もカバーしてたよなー確か」と連想が広がる。 『永遠の絆』というタイトルであった。



 
「そんなこと最初から気づけよ」って話なんだが、いや、アレンジ次第で意外とその辺は印象が違ってしまうものなのでね(笑)。とまれ、なぎら健壱と甲本ヒロトはこんなところでつながっていた、と。

*ちなみに、ネット上には『日曜日よりの使者』は『アメイジング・グレース』に似とるという説もあったが、これは気分的にはちょっと容認しがたいような気がしておる



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タイムマシンで未来からやってきたという触れ込みの例のジョン・タイター以来、「未来人が語る近未来の歴史」というジャンルがオカルト業界で確立しつつあるようだ。そういう人間がネットにいろいろ近未来のことを書き記していくというのが典型的パターンで、で、「当たった」だの「外れた」とかいって騒ぐのは、こういうのを全然信じていないオレからしてもなかなか楽しいことである。

とりわけこの手の話でよくできていると思うのは、「エヴェレットの多世界解釈」とか何とかいうよくわからん話を援用して、「多元宇宙は無数にあるので、未来人が行ったり来たりするうちに宇宙は分岐してしまい、結果的に未来人の語った通りの未来が来ないこともある」みたいな言い訳がちゃんとできる仕組みになっているところである。だから、全部当たらなくて当然よ、と開き直れるのである。賢いのである。

閑話休題。これは2011年の段階ですでに日本にも出回ってたらしく「4年遅れかよ!」とツッコミを入れられる方もいるだろうが、最近オレがようやく知ったこの手のストーリーに、2060年から来た軍人だとかと称する人間が、2010年11月から翌年2月にかけて韓国のネットに書き込みを残していった、という話がある。

オリジナルのサイトがどこにあるかも知らんし、仮に分かっても韓国語などわからんから、あくまで日本語のサイト(このNAVERまとめとか)を見るしかなく、もちろんタイムスタンプの捏造などの可能性があったとしてもその辺にツッコミをいれる術もないので、あくまで「お話」として消費する立場から言わせてもらうのだが、これ、けっこう面白かった。


「2013年の時点で北朝鮮の金正日は死亡している」というのはアタリだが、ま、健康悪そうだったのは確かであるし、「2013年に李会昌が韓国の大統領になる」とか「2012年に大恐慌が来る」とかいうのはいきなり外れ。2015年に第3次世界大戦だかが起きて中国でバタバタ人が死んで(しかし中国とどこが戦うのだ?)、そのあおりで北朝鮮が崩壊して2017年に統一韓国ができて朴槿恵が大統領になる、というのは、うーむ、今年はあと10か月しかないので、これはどう考えてもキビシイのではないか。

ところが日本に関しては「2011年頃に大地震で津波が起きて、それに伴って放射能漏れの被害が出る」と書いているらしい。ここで「なるほど、2011年3月以降に捏造されたネタだったのね」と言ってしまうのは冷血極まりない態度なので、しばし信じたフリをしておつきあいすると、一方では「2013年が終わる前、日本の政治体制は既存のシステムから完全に変更」とか言っているらしい。自民党が総選挙で大勝して第2次安倍政権が成立したのが2012年末であるから、その後の安倍の「暴走」ぶりをみれば強引に「当たった」と言い張ることもできないではない。「やるじゃん!」みたいな事を考えてしまったりして、この辺は何か妙なリアリズム(笑)。

何かこういうチグハグな未来予想みたいなものをどういう人間がどういう判断のもとに書いたのか、というのは想像してみると何だか面白い。今回のも、「ニコラ・テスラは実は未来人だった」みたいな小ネタを差し挟んでいていて工夫がしのばれた。というわけで虚構と現実のはざまに遊ぶ未来人文芸というのは、これからもイチオシの注目ジャンルである。

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好きな詩人というと、ダダイストとして有名な高橋新吉も捨てがたい。
有名な作品が「るす」でアル。
何か禅問答風でいいではないか。



るす 高橋新吉

留守と言へ
ここには誰も居らぬと言へ
五億年経つたら帰つて来る


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たまには記事をアップしたほうが良かろうと思って、まぁどうでもいいことを書くわけなのだが、ポエム(笑)は基本的に体質に合わないオレなのだが例外的にとっても好きな詩人がいて、つまりそれは山之口貘である。

あの、今は亡きフォーク・シンガーの高田渡がその詩に好んで曲をつけて歌っていたことからもわかるように、栄達とか名利とかいったものから背を向けて、とゆーか、ホントは名利が欲しいような気もないではないんだが、にもかかわらずそもそも向こうからそんなものが来る気配もないような人間のペーソスを表現させたら、もう天才的な詩人であった。妙に難解なことを言って偉ぶろうというところがないのも素晴らしい。

それとあと一つ言っておきたいのは、「やまのくち・ばく」とパソコンで打つと、「山之口」と出てくることがあるが、正しくは「山之口」である。「貘」も「獏」も意味的には、あの夢を食うという空想上の動物「バク」なので違いがないが、ここンところは注意が必要である。ちなみにタレントの大和田獏は「獏」のほうである。どうでもいいけど。



山之口貘 妹へ送る手紙

なんという妹なんだろう
――兄さんはきっと成功なさると信じています。とか
――兄さんはいま東京のどこにいるのでしょう。とか
ひとづてによこしたその音信のなかに
妹の眼をかんじながら
僕もまた、六、七年振りに手紙を書こうとはするのです
この兄さんは
成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思うのです
そんなことは書けないのです
東京にいて兄さんは犬のようにものほしげな顔をしています
そんなことも書かないのです
兄さんは、住所不定なのです
とはますます書けないのです
如実的な一切を書けなくなって
といつめられているかのように身動きも出来なくなってしまい
満身の力をこめてやっとのおもいで書いたのです
ミンナゲンキカ と、書いたのです。
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以下はこの夏、ネットでもちょっと話題になった話なのだが、備忘録的に書いておこう。

最近「スポーツ選手を鍛えるのに暴力はダメだろう」という風潮が広まってきているんだが、「そんなことないだろう」というのがオレの持論である。スポーツの世界の最先端をいく連中は多くの場合、もう半分人間を超えた猛獣みたいな連中であって、力づくでムチをいれて鍛えないとトップを疾走できないのではないか、「スポーツ選手に手を挙げるな」みたいな甘ったるいヒューマニズムを超えたところで連中は死ぬか生きるかの切磋琢磨をしてんではないかと思うのである。

言い換えてみれば、基本的に一流のスポーツ選手というのはリクツの通らない「反理性」の世界に生きている。もちろんプロ野球選手のなかにも「体罰反対!」とかいっている桑田真澄みたいな知性派がいるわけだが、彼の場合はプロ選手としては恵まれない体格をカバーするために頭脳方面が異常に発達してしまった特異な選手だとオレは思っている。あるいは400メートルハードラーの為末氏なんかもその系統か。

と思ってはいるんだが、しかし、ここでたまたまツイッターか何かで知った人物のブログを読んで驚いたことを白状せねばなるまい。千葉ロッテマリーンズの神吉拓光なる選手がブログに書いている「茜雲」なるエントリーである。内容はといえば、例の1985年の日航機墜落事故について書いたものなのだが、彼はたまたま大学時代に興味をもってこの事故を調べ始めたらしく、そうしたプロセスの中で感じたことどもをこのエントリーでつづっているのである。

詳細はここでは触れぬ。が、ともかくそれは全然「野獣派のアスリートの咆吼」などではなく、人間に対するやさしさ、愛情に満ちた、きわめて高度の知性を感じさせる表現であったのだ。神戸選手は身長191センチ・体重98キロという大男らしく。オレの説によると、こういうスポーツ選手は天賦の才にめぐまれた「筋肉バカ」であるはずなのだが、全然違うではないか。

いま思うことは、こういう心優しき人間に超一流選手になってもらい、オレの仮説を完膚無きまでに否定していただけたらオレはむしろ嬉しいぞ、ということである。

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内館牧子著『カネを積まれても使いたくない日本語』というタイトルの本が出ているようだ。読んだわけではないのでナンだが、おそらくは日本語の誤用を厳しく糾弾する本で、たぶん編集者あたりが「センセイ、やっぱ書名もインパクトないと駄目なんで『カネを積まれても…』みたいなのにしましょうヤ」と押し切ってこんなタイトルをつけてしまったものだろう。

事情はワカル。が、やっぱり下品な書名ではある。

「日本語をどう使うか」なんていうのはカネをもらえるからとかナンとかいう話とはそもそも関係がない。ある用法が、その人の言語感覚に照らして「オカシイ」とか「奇妙」とか「醜い」とかそういう理由があれば避けるし、そうでなければ使う。それだけの話。

しかるにこういう下品なタイトルをつけてしまうと、「おぉそうかそうか内館サンという人はひょっとしたら基本的にカネで動くタイプの人なので、こういう発想をしてしまうんだろうネ」と邪推されるのではないか。でもたぶん内館サンはそんな人ではないだろう。版元は朝日新聞出版のようだが、やっぱり三流出版社のようなアコギなマネをしてはいけなかったのである。

いや、しかしちょっと待てよ。

さっき、たまたま月刊誌の『潮』を開いていたんだが、この雑誌の座談会とか寄稿にはよく公明党の話がでてきて、一流の学者とか評論家のセンセイが「自民党の暴走をおしとどめるためにも、連立与党の公明党の役割は重要である」みたいなことを言うくだりが必ず出てくる。それもほぼ毎号、お約束のように。

皆さんご承知のように、この雑誌は創価学会系の潮出版社が出している。巷間伝えられるところでは原稿料とか対談謝礼とか、かなりお高いという。つまりナンだ、この雑誌に登場するエライ先生方は、ある意味、言葉遣いみたいなレベルとはまたちょっと違うけれども、「カネを積まれて」勧進元のキタイする「日本語」を語ってくれていると言えないこともないんではないか。

もちろん「自民党の暴走をおしとどめるためにも、連立与党の公明党の役割は重要である」というのは基本的に正論であるから、識者の皆さんも別にカネを積まれて節を曲げて思ってもいないことを語ってるワケではないンだろうが、ま、少なくともそういうところに阿吽の呼吸というものがあるのは確かだ。

で、話はもとに戻るんだが、ひょっとしたら『カネを積まれても使いたくない日本語』という本も、正しい言葉遣いみたいな話だけではなくて、その辺の言論・出版界の機微にまでツッコミを入れているのであろうか? それであればここでいろいろ書いたコトも全部的外れになってしまうので謝らねばならないのだが。さて、どうなのでしょう?



カネを積まれても使いたくない日本語 (朝日新書)

カネを積まれても使いたくない日本語 (朝日新書)

  • 作者: 内館牧子
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2013/07/12
  • メディア: 新書



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アイ・ジョージという、とても歌唱力のある歌手がいた。いや、まだ亡くなったという話はきかないから存命であるのかもしれない。

で、ふと思い出したのだが、この人が「民族の根っこには伝統的なリズムがある」というようなことを言っていて、「おぉなるほど」と思った記憶がある。「徹子の部屋」か何かで聞いたような気がするが、よく憶えてはいない。

オレが記憶している限りでいうと(いまとなっては本当かどうかアヤシイものだが)、たとえば日本人というのは二本足の鳥のようなもので、つまり二拍子のリズムが骨の髄までしみついている、と彼はいうのだった。言ってみれば「イチニ、イチニ」「よいしょ、よいしょ」という、いわば鍬か何かをふるって農作業をしている時のリズムがどこか基本的なものとして身体にビルトインされている、という話である。

これに対して西洋人は四拍子だったか、三拍子だったか、ともかく二拍子ではないリズムを基本に生きているという話だったような気がするのだが、もともと音楽の素養のないオレなので、その辺はよく憶えていない。ともかく民族のベースになる拍子が日本人の場合は二拍子である、というのがキモなのである。

武智鉄二のナンバ歩きにまつわる議論ともどっかで重なるような気がするのだが、ナチュラル・バイブレーションっつーか、我々の身体を根源的なところで縛っているリズムがある、っつー感覚は、けっこうするどいのではないか。と同時に、なんかちょっとアヤシイ雰囲気を漂わせていたアイ・ジョージはどこにいってしまったのだろう、という思いが心中にきざしたりもする。

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オレは、まぁ若干破戒に傾斜しているとはいえ一応仏教徒だという自覚はあって、「一切皆空」とかいわれると「まぁそうだよなー」と思うような人間であるんだが、たまに何となくパラパラと聖書(新約デス)をめくったりするようなことも、ま、ないではないのだった。

もっとも、その読みは基本的に懐疑的である。「いくらなんでも刑死したオッサンが墓場から甦るわけないジャン。だいたい甦ったあとの事績がいろいろ書いてないのが不自然だよなー。この甦ったと称する男が本当にイエスと同一人物だと言い張るんだったらサ、いろいろ問い詰めてリアルなトコ証言してもらわにゃ納得いかんよなー。自らを捨てて人間の罪を背負ってくださった、みたいなとこまで言うからにゃあ、もっと検証せにゃいかんでしょ。それが全然ないじゃん」みたいな、つまり異教徒丸出しのボートクすれすれの読み方しかできないのである。

いや、しかし、よくわからん文句が並んでいる聖書のなかで、ときおりキラリと光るフレーズを発見することもある。たとえば次のようなところ。


イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、 弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、 驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような 奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの 兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことが おできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、 イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。(マルコ6:1-6:6)



イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。(マタイ13:53-13:54)



つまり、イエスが故郷に戻ってきたところ、その辺のオヤジが「おや、アイツ、大工のヨセフんとこのガキじゃね? なに気取ってんだヨ」的なツッコミを入れたというのである。するってーと、流石のイエスもたじたじである。「いやあ、預言者っつってもネ、故郷とか家族のいるとこじゃフツーの人になっちまうんだよねー(ポリポリ」とかいって、実際に「奇跡」も起こせなかった、という話なのである。

このあたり、実に真理をついているッ! つまり、なんか教団を立ち上げることに成功したカリスマであってもね、「あのさー、偉そうなこといってっけどさー、アイツ角のたばこ屋のせがれの定坊でしょ? オレ、アイツのおしめ替えたことあるんだよねー(笑)」的な、もう絶対的に彼の弱いところを握った人間に対しては、もうカリスマは通用しないのである。いくら天下のイエスであっても、はなから「角の大工ンチの小せがれ」だという風に見る人間に対しては全く無力なのでアル。

言ってみりゃ、聖書はここで宗教の幻想性というものをはからずも露呈させてしまっているのである。信じ込ませりゃ相当なことはできる。でも、しょっぱなでツカミそこなったら全然ダメ。

そしてこういう聖書のワキの甘さが、オレはとてもスキである。もちろんちゃんと勉強した聖書学者のセンセーは、この辺も違う解釈をされるんであろーが、ナニ、読み方は勝手である。そして、そういう読み方ができるから聖書いいよネという人間の出現をも肯定しているからむしろ聖書はエライということもできるのだね。
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また村上春樹がさんざっぱらティーザー広告で引っ張ったあげくに小説を出したというのだが、それも午前0時から販売しますよなどというバカな本屋まで出現したものだからバカが夜中に行列つくるありさまで、もうほとんどWindosXPとかiPhone発売の世界である。

・・・などと毒づいているのはオレがこの男を嫌っているからで、たとえば外国の催しとかに呼ばれるとホイホイ出かけていって講演なぞするのだが、国内では公の場に全然出てくることもなく、だからこんど公開インタビューを日本でやるらしいのだが、それがあんまり珍しいことだからニュースになってしまうほどである。

小説を買って読んでくれ、そこに全部書いてある、それ以上のことは言わんから、というつもりなのだろうが、では何で外国だと聴衆の前で講演したりするのか全然説明がつかんし、ハワイあたりの大学で講義なんかもしてるというではないか。オレとしてはこれは「バカな日本人どもは黙って本買ってりゃいいんだよッ!」というメッセージであり、でも何故か毛唐には好かれたいという歪んだ植民地根性のあらわれではないのかと疑っている。なんだ偉そうなこといってもその程度かヨ、というワケでこの男は嫌いである。

というか、よくよく考えると、オレも昔「ノルウェイの森」か何か買って読んだことはあって、つまり基本的にこの男の本は読んではいないのだけれども、たまさかそういう機会にこの男の小説世界に嫌悪をもよおしたという事実がないわけではないのである。(追記:あ、そうだ、そういやこないだ読んだ『1Q84』もこの男の本であったな。これはオレ流ユーフォロア的視点からすると失敗作である、というのは前に書いたw)

で、この男の小説じたい好きになれないのはいったい何故なのだろうと思うのだが、たとえばたまに読む西村賢太の哀れを誘う世界が実に心に染みいってきて、「あぁこれは良いなぁ」とシミジミしてしまうオレの感性からすると、「やれやれ」とかいって女の子とこじゃれた会話を楽しんだ末に××しちゃったり○○しちゃったり、スパゲティを茹でながらビールを呑んだりバーボンか何かをあおったりとゆー、一見苦悩なんかしちゃってんだけど結局ソイツは勝者の余裕じゃネ?みたいな彼の世界に根源的な憎悪を抱いてきたからではないかと思い至るのだった。

そういえば、と思い出すわけだが、遠い昔、オレにも田舎から東京に出てきて木賃アパートで生活していた青春時代というものがあった。根がクライし人見知りなので、友人なんかできないのだった。ましてや彼女なんて。14型か何かのブラウン管の赤い小型テレビと、食費をケチって生協の本屋で割引で買ってくる本だけが寂しいオレの相手をしてくれるのだった。で、たまに早稲田あたりの名画座に行って夢中で映画を観たりしたンだが、あれなんかも孤独を癒してくれたのだなぁ今おもうと。ソフィー・マルソー。クリスティ・マクニコル。心の恋人であった。

もひとつ、たまに人と話をすることもないではないのだが、それは何かというと、隣室に住んでいる土方のオッサンが「ちょっと呑まない学生さん?」とかいって来るので、まぁ断るのも悪いので行って酒盛りをするのだった。

ま、それはそれでいいんだが、このオッサンはどうも分裂病を患っているようであった。「実はオレ、むかし佐藤栄作の娘とイイ仲だったんだけどなあ、仲を裂かれて今じゃこんなありさまよ」。酔うとそんな妄想を繰り返し繰り返しオレに語って聞かせるのだった。酒は焼酎か安い日本酒をそそいだコップ酒。つまみはサバ缶。みたいな。なんだよあのオッサン!とか内心毒づきながら、実はそれが「癒し」になっていたんじゃねーかと思われるフシもあるのが哀しい(笑)。

いやいや、つい誰もききたくないツマラン昔話をしてしまったが、つまりはそういうことである。気取るんじゃねーよ村上春樹。才能があるのかなんか知らんが、偉そうに格好つけて肩で風切ってるヤカラはどうにも許せねえ、ただそう言いたかっただけなのである。嫉妬というやつなのだろうな。わかってはいるさ。



【追記】

なおその後、なんとなくウィキペディアで「村上春樹」の項を眺めていたら、小谷野敦の弁として次のようなことが書いてあった。孫引きさせていただく。

巷間あたかも春樹作品の主題であるかのように言われている『喪失』だの『孤独』だの、そんなことはどうでもいいのだ。(…)美人ばかり、あるいは主人公の好みの女ばかり出てきて、しかもそれが簡単に主人公と『寝て』くれて、かつ二十代の間に『何人かの女の子と寝た』なぞと言うやつに、どうして感情移入できるか。
  *原典は「『ノルウェイの森』を徹底批判する−極私的村上春樹論」『反=文藝評論』(新曜社)とある

若いころもてなかったことで有名(?)な小谷野敦ならではの主張(笑)であるが、そう、オレの言いたかったのはたぶんこういうことなのである。



【追記の追記】

なお、その後、ドリーさんと名乗る方が『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』について書かれたアマゾン・レビュー「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」が大評判になっていると知り、読んでみたのだったが、実に共感できる内容であった。(2013/05/06記)


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高浜虚子の有名な句である。

が、オレのこの句にたいする解釈はいささか品のないものである。

正月元旦。アサいちでクソをした。実に、太い見事な棒状のものである。

去年喰ったものが、ことしクソになって出る。

まさに年越しをぶっとい棒状のものが貫いた。あぁ愉快愉快。そういう句として読んでみたいものである。



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NHKの大河ドラマというのは何か苦手で全然みてないのだが、「八重の桜」というのをやってることは知ってる。

で、主人公・新島八重を綾瀬はるかが演じているということも。が、何か違和感があるのは、やっぱり写真の残ってる実在した人物を天下の美人俳優が演じるときの嘘臭さなのだった。で、ふと思ったのだが、彼女は山口敏太郎氏に似ているのではないか。いやリアリズムで演じてても誰も見ないだろうという大人の事情はわかるにしても。

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読んだこともない本を引き合いに出すというのもナンだが、プルーストの「失われた時を求めて」におけるマドレーヌの如く、食い物と記憶のあいだには何かしらユルイ連関があるようで、辛いラーメンなど食べていると、山形県を思い出すのだな。

あそこには確かラーメン博物館にも入っていた辛い系の赤湯ラーメンというのがあって、或る意味ではその変種ということになるのかもしれないが「鬼がらし」という店が山形市内などにあるのだった。もう15年も前になるか。よく食べた。けっこう旨かった。

仙台あたりに出店をしてるようだが、東京ではああいうのはなかなかない。通販みたいなのもやってないみたいだし、こういう時代になっても、やはりその場所に足を運んではじめて出会えるものというのはあるわけで、だからこその辛いラーメン=オレにとっての山形。

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唐突ではあるが、沢田研二、菅原文太の「太陽を盗んだ男」(長谷川和彦監督、1979)を見た。

まぁ池上季美子含めて「みんな若いなー」と驚いてみせるのはお約束。で、基本エンタテインメントなので「プルトニウムさえあれば誰だって原爆は作れる」とか登場人物に言わせてるのはちょっと言い過ぎダロみたいなツッコミも可能ではあるんだが、それはそれとして今見てもなかなか考えさせるものがあるゾ。

沢田演ずる中学校教師が東海村に侵入してプルトニウムを奪取、原爆を手作りして「爆発させたるぞワレ」とかいって政府を脅すんだが、しかし沢田研二、よく考えると何を要求したらいいのかわからないのである。別に要求はないんだけど、なんとなく原爆作っちまって、あとづけで「政府コノヤロー」といって暴走していく、というマヌケなストーリーなのである。その割にアクションシーンとかけっこう派手に展開しちまって「西部警察」状態、みたいな(笑)。

※余談ながら、作中の小ネタとしてナイター中継の話が出てくるわけだが、ここで巨人のピッチャー・加藤、バッターは大洋(笑)の中塚、とか言ってるのが個人的には実にシミジミしたぞ。


まぁしかしオレなんかも学生をやっていた1979年という時代相を考えると、それなりに真面目な問題提起があったような気もするわけだ。今からみれば、まだニッポンも未来に夢を抱けた時代ではあった。じじつバブルはこのあとにやってくるわけだし、明らかに今みたいなドンヅマリ感はない。ただ、それだけに、なんつーのかなー、今にして思えば嵐の前の静けさ、っつーか、まったりとしたヌルイ日常に呑み込まれていくことへの実存的不安、みたいなのは確かにあったような気がするのであるな。

だからこその「オレって何をやりたいんだろうか?」的な沢田研二なのである。退屈な、なんとなくイライラさせられるこの日常をどうしてやろうかみたいな、アンニュイな沢田研二。いけてるぞ。とゆーか、わかるぞ。


まぁ「リアル原爆」ならぬ「原発」の「爆発」が起きてしまった2012年のオレたちからみると、「まぁノンキだよなー」と言わざるを得ないわけだけれども、平和な退屈に厭いてしまって「なんかデッカイ事件でもおこらんかなー」と倒錯したことを考えちまう人間ってのは実に厄介だよなぁ、と改めて思うオレであった。

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ネット上の知り合いというか、まぁ勝手にこっちで畏友と思いこんでいる人がいて、その人がももクロ、ももクロとウルサイので何となく気にはなっていたのである。

とはいいながら、もう五十のジジイ、好奇心が鈍磨しつつある事情もこれアリ、「ふ~ん」と思ったきり放置していたのであったが、ツイッタとかで、最近ももクロの百田夏菜子の「エビ反りジャンプ」の写真を偶然現認してしまい、一瞬、う、と言葉に詰まる。

なんだ、これは。(↓厳密にいうとこの写真を目にしたわけではないンだが)
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改めて調べてみると、このエビぞりジャンプはももクロの至宝(ということに、この際、しておこうw)百田夏菜子嬢のステージ上における、いわば必殺技なのだという。

あぁそうか、これはある意味、コーナーポスト最上段からミル・マスカラスが放つ飛翔ワザであり、あるいはキラー・コワルスキーの必殺ニードロップ、あるいはブルーノ・サンマルチノドン・レオ・ジョナサンの渾身の力を込めたベアハッグであるわけか。(ボケが進んでいるため、間違えてドン・レオ・ジョナサンと書くオレw)


日本のエンターテインメントおそるべし。五十にして、そうつぶやく初夏の一日。



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巨大戦力の威力をみせつけて巨人が好調なのをみるのは実にシャクであるが、ただひとつ、快哉を叫びたい(笑)のは沢村の不調である。本日6月14日の試合でも負け投手となり、通算4勝7敗。負け先行。

以前のエントリーでも書いたのだが、「筋トレでパワーアップして剛球勝負」みたいなことを沢村が言ってるのはどうも違うのではないか、というオレの理論がとりあえずは認められたようである。

ピッチングというのはきわどいバランス感覚の上に成り立つものであって、それはあたかも平均台の上で大技を繰り出すような営みだ。力任せに「エイどうだ」というものでは全然ない。だから余計な筋肉など不要であり、肩はあくまでもなで肩がベスト。さぁどうだ沢村よ、負けを認めなさい(笑)

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