カテゴリ: あとらんだむ

ここんとこ、大相撲(笑)・アメフト・バスケ・体操、あるいはもっとあったかもしれないが、スポーツの世界でいろんな不祥事が花盛りである。

オレはこういうのは大変結構なことだと思う。なんとなれば、「スポーツは健全である」みたいな「誤解」が、こういう不祥事続発によって解かれていくと思うから。

スポーツは心身に悪い。

これはオレの年来のテーゼであるが、それが事実によって立証されつつあるといってもよい。参考までに、この問題について当ブログに以前書いたエントリー「だからスポーツマン=健全というのはウソだから」へのリンクを貼っておこう。



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気が滅入ったときはやはり啄木である。こんなのもなかなか良い


盛岡の中学校の
露台バルコン
欄干てすり最一度もいちど我をらしめ

帰らざる日、というヤツか。

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こないだ某所で知り合いが話してたのだが、オカルトとかスピリチュアル的なものというとかつては若い世代が興味関心を抱くというパターンがあったのだが、どうも最近は全然様子が違うらしい。

いや、正確にいうとそれはもうちょっと具体的な話で、雑誌「ムー」の読者は今やジジイ、ババアが中心ではないかとか、そういう話だったのだが。

で、よくよく考えると、そんな印象は確かに前々からあった。まぁ1980年代の桐山靖雄の勃興から90年代のオウムあたりにかけては、この手のトレンドはまだ若者が担い手だった感じがあったのだが、新世紀に入るともうダメである。

これはオレのスキなUFOなんかにも通じるところがあるんだが、担い手は明らかに中年~初老の世代である(もひとつ、印象論でいってしまうととりわけ女性、つまりはオバサンが頑張ってる感じがある。安倍昭恵とかW)。

これは何なのか。

仮にそのボリュームゾーンを1960年代生まれあたりとすると(つまりオレの世代なんだが)、小学生で1970年代前半のオカルト文化の洗礼を受けた連中が「雀百まで」ってヤツで踊り続けてる、みたいなイメージがある。

もちろんその前の世代にも「ヒッピー文化からニューエイジ」みたいな回路があっただろうし、そこそこオカルト-スピ系カルチャーはアリだったような気がする。

となると、これは単に「子供の頃の刷り込み体験の有無」みたいなところに帰着するような気がしないでもない。テレビなんかでも、オウム以降の「アヤシイ番組はダメ」の流れでこの手の系譜が途絶えてしまった、という理解である。

ただ、勝手な印象論でいうと、これは最近の若者のいわゆる「保守化」ともどっかでつながってるような気がする。どういうことかというと、以前の若者っていうのはどこか夢見がちだったり、「いま・ここにはない真実」を希求して「汚い現実にツバする」みたいな、どっか反社会的なエレメントをもってたような気がするのだが、最近の若い奴らには、そういうのは無いみたいである。

となると、これは単なる「オカルトカルチャーの途絶」で済まない、なんか、より大きな流れの一環のような気がしないでもない。

なぜか。連中は本当にもう「スピとかオカルトは要らん」と言ってるのか。わからん。わからんけども、オレのスキなUFOカルチャーが死に絶えてしまうのもちょっと悲しい。何とかしたいような気もする。どうしようか。








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テレビのCMで、「あ、ブルーハーツの『情熱の薔薇』使ってンなあ」と思った途端、気分的に「CDでも買ってみるか」という懐メロモードに突入。ベスト盤的なものをアマゾンで買った。



これがそのエネオスのCM。今回のリオで五輪4連覇を逸した吉田沙保里を起用しており、何だかシンミリしてしまう




別に熱心なファンでもなく、何となく、聴くともなく聴いていたバンドであるが、こういうロックスピリットみたいなのは、ジジイになった今になってみるとなかなか眩しい。

閑話休題。ボーカルの甲本ヒロトがブルーハーツを辞めたのちに立ち上げたハイローズ時代に発表した『日曜日よりの使者』という曲がある。高校野球の応援とか、いろいろなシーンで使われて結構メジャーな曲である。


      

もちろん今回買ったベスト版は「ブルーハーツ」のなので入っていないのであるが、ふと、「そういやあの曲、ヨソで何か似たようなメロディ聴いた覚えあるんだよなぁ。アレってどういうことなんだっけ?」という疑問が兆した。で、ググッてみたところ、結局やっぱり元歌みたいなのがあったようだ。『Will The Circle Be Unbroken ?』。カントリーである。



   
で、これ聴いたら、「あ、この曲ってなぎら健壱もカバーしてたよなー確か」と連想が広がる。 『永遠の絆』というタイトルであった。



 
「そんなこと最初から気づけよ」って話なんだが、いや、アレンジ次第で意外とその辺は印象が違ってしまうものなのでね(笑)。とまれ、なぎら健壱と甲本ヒロトはこんなところでつながっていた、と。

*ちなみに、ネット上には『日曜日よりの使者』は『アメイジング・グレース』に似とるという説もあったが、これは気分的にはちょっと容認しがたいような気がしておる



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タイムマシンで未来からやってきたという触れ込みの例のジョン・タイター以来、「未来人が語る近未来の歴史」というジャンルがオカルト業界で確立しつつあるようだ。そういう人間がネットにいろいろ近未来のことを書き記していくというのが典型的パターンで、で、「当たった」だの「外れた」とかいって騒ぐのは、こういうのを全然信じていないオレからしてもなかなか楽しいことである。

とりわけこの手の話でよくできていると思うのは、「エヴェレットの多世界解釈」とか何とかいうよくわからん話を援用して、「多元宇宙は無数にあるので、未来人が行ったり来たりするうちに宇宙は分岐してしまい、結果的に未来人の語った通りの未来が来ないこともある」みたいな言い訳がちゃんとできる仕組みになっているところである。だから、全部当たらなくて当然よ、と開き直れるのである。賢いのである。

閑話休題。これは2011年の段階ですでに日本にも出回ってたらしく「4年遅れかよ!」とツッコミを入れられる方もいるだろうが、最近オレがようやく知ったこの手のストーリーに、2060年から来た軍人だとかと称する人間が、2010年11月から翌年2月にかけて韓国のネットに書き込みを残していった、という話がある。

オリジナルのサイトがどこにあるかも知らんし、仮に分かっても韓国語などわからんから、あくまで日本語のサイト(このNAVERまとめとか)を見るしかなく、もちろんタイムスタンプの捏造などの可能性があったとしてもその辺にツッコミをいれる術もないので、あくまで「お話」として消費する立場から言わせてもらうのだが、これ、けっこう面白かった。


「2013年の時点で北朝鮮の金正日は死亡している」というのはアタリだが、ま、健康悪そうだったのは確かであるし、「2013年に李会昌が韓国の大統領になる」とか「2012年に大恐慌が来る」とかいうのはいきなり外れ。2015年に第3次世界大戦だかが起きて中国でバタバタ人が死んで(しかし中国とどこが戦うのだ?)、そのあおりで北朝鮮が崩壊して2017年に統一韓国ができて朴槿恵が大統領になる、というのは、うーむ、今年はあと10か月しかないので、これはどう考えてもキビシイのではないか。

ところが日本に関しては「2011年頃に大地震で津波が起きて、それに伴って放射能漏れの被害が出る」と書いているらしい。ここで「なるほど、2011年3月以降に捏造されたネタだったのね」と言ってしまうのは冷血極まりない態度なので、しばし信じたフリをしておつきあいすると、一方では「2013年が終わる前、日本の政治体制は既存のシステムから完全に変更」とか言っているらしい。自民党が総選挙で大勝して第2次安倍政権が成立したのが2012年末であるから、その後の安倍の「暴走」ぶりをみれば強引に「当たった」と言い張ることもできないではない。「やるじゃん!」みたいな事を考えてしまったりして、この辺は何か妙なリアリズム(笑)。

何かこういうチグハグな未来予想みたいなものをどういう人間がどういう判断のもとに書いたのか、というのは想像してみると何だか面白い。今回のも、「ニコラ・テスラは実は未来人だった」みたいな小ネタを差し挟んでいていて工夫がしのばれた。というわけで虚構と現実のはざまに遊ぶ未来人文芸というのは、これからもイチオシの注目ジャンルである。

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好きな詩人というと、ダダイストとして有名な高橋新吉も捨てがたい。
有名な作品が「るす」でアル。
何か禅問答風でいいではないか。



るす 高橋新吉

留守と言へ
ここには誰も居らぬと言へ
五億年経つたら帰つて来る


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たまには記事をアップしたほうが良かろうと思って、まぁどうでもいいことを書くわけなのだが、ポエム(笑)は基本的に体質に合わないオレなのだが例外的にとっても好きな詩人がいて、つまりそれは山之口貘である。

あの、今は亡きフォーク・シンガーの高田渡がその詩に好んで曲をつけて歌っていたことからもわかるように、栄達とか名利とかいったものから背を向けて、とゆーか、ホントは名利が欲しいような気もないではないんだが、にもかかわらずそもそも向こうからそんなものが来る気配もないような人間のペーソスを表現させたら、もう天才的な詩人であった。妙に難解なことを言って偉ぶろうというところがないのも素晴らしい。

それとあと一つ言っておきたいのは、「やまのくち・ばく」とパソコンで打つと、「山之口」と出てくることがあるが、正しくは「山之口」である。「貘」も「獏」も意味的には、あの夢を食うという空想上の動物「バク」なので違いがないが、ここンところは注意が必要である。ちなみにタレントの大和田獏は「獏」のほうである。どうでもいいけど。



山之口貘 妹へ送る手紙

なんという妹なんだろう
――兄さんはきっと成功なさると信じています。とか
――兄さんはいま東京のどこにいるのでしょう。とか
ひとづてによこしたその音信のなかに
妹の眼をかんじながら
僕もまた、六、七年振りに手紙を書こうとはするのです
この兄さんは
成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思うのです
そんなことは書けないのです
東京にいて兄さんは犬のようにものほしげな顔をしています
そんなことも書かないのです
兄さんは、住所不定なのです
とはますます書けないのです
如実的な一切を書けなくなって
といつめられているかのように身動きも出来なくなってしまい
満身の力をこめてやっとのおもいで書いたのです
ミンナゲンキカ と、書いたのです。
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以下はこの夏、ネットでもちょっと話題になった話なのだが、備忘録的に書いておこう。

最近「スポーツ選手を鍛えるのに暴力はダメだろう」という風潮が広まってきているんだが、「そんなことないだろう」というのがオレの持論である。スポーツの世界の最先端をいく連中は多くの場合、もう半分人間を超えた猛獣みたいな連中であって、力づくでムチをいれて鍛えないとトップを疾走できないのではないか、「スポーツ選手に手を挙げるな」みたいな甘ったるいヒューマニズムを超えたところで連中は死ぬか生きるかの切磋琢磨をしてんではないかと思うのである。

言い換えてみれば、基本的に一流のスポーツ選手というのはリクツの通らない「反理性」の世界に生きている。もちろんプロ野球選手のなかにも「体罰反対!」とかいっている桑田真澄みたいな知性派がいるわけだが、彼の場合はプロ選手としては恵まれない体格をカバーするために頭脳方面が異常に発達してしまった特異な選手だとオレは思っている。あるいは400メートルハードラーの為末氏なんかもその系統か。

と思ってはいるんだが、しかし、ここでたまたまツイッターか何かで知った人物のブログを読んで驚いたことを白状せねばなるまい。千葉ロッテマリーンズの神吉拓光なる選手がブログに書いている「茜雲」なるエントリーである。内容はといえば、例の1985年の日航機墜落事故について書いたものなのだが、彼はたまたま大学時代に興味をもってこの事故を調べ始めたらしく、そうしたプロセスの中で感じたことどもをこのエントリーでつづっているのである。

詳細はここでは触れぬ。が、ともかくそれは全然「野獣派のアスリートの咆吼」などではなく、人間に対するやさしさ、愛情に満ちた、きわめて高度の知性を感じさせる表現であったのだ。神戸選手は身長191センチ・体重98キロという大男らしく。オレの説によると、こういうスポーツ選手は天賦の才にめぐまれた「筋肉バカ」であるはずなのだが、全然違うではないか。

いま思うことは、こういう心優しき人間に超一流選手になってもらい、オレの仮説を完膚無きまでに否定していただけたらオレはむしろ嬉しいぞ、ということである。

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内館牧子著『カネを積まれても使いたくない日本語』というタイトルの本が出ているようだ。読んだわけではないのでナンだが、おそらくは日本語の誤用を厳しく糾弾する本で、たぶん編集者あたりが「センセイ、やっぱ書名もインパクトないと駄目なんで『カネを積まれても…』みたいなのにしましょうヤ」と押し切ってこんなタイトルをつけてしまったものだろう。

事情はワカル。が、やっぱり下品な書名ではある。

「日本語をどう使うか」なんていうのはカネをもらえるからとかナンとかいう話とはそもそも関係がない。ある用法が、その人の言語感覚に照らして「オカシイ」とか「奇妙」とか「醜い」とかそういう理由があれば避けるし、そうでなければ使う。それだけの話。

しかるにこういう下品なタイトルをつけてしまうと、「おぉそうかそうか内館サンという人はひょっとしたら基本的にカネで動くタイプの人なので、こういう発想をしてしまうんだろうネ」と邪推されるのではないか。でもたぶん内館サンはそんな人ではないだろう。版元は朝日新聞出版のようだが、やっぱり三流出版社のようなアコギなマネをしてはいけなかったのである。

いや、しかしちょっと待てよ。

さっき、たまたま月刊誌の『潮』を開いていたんだが、この雑誌の座談会とか寄稿にはよく公明党の話がでてきて、一流の学者とか評論家のセンセイが「自民党の暴走をおしとどめるためにも、連立与党の公明党の役割は重要である」みたいなことを言うくだりが必ず出てくる。それもほぼ毎号、お約束のように。

皆さんご承知のように、この雑誌は創価学会系の潮出版社が出している。巷間伝えられるところでは原稿料とか対談謝礼とか、かなりお高いという。つまりナンだ、この雑誌に登場するエライ先生方は、ある意味、言葉遣いみたいなレベルとはまたちょっと違うけれども、「カネを積まれて」勧進元のキタイする「日本語」を語ってくれていると言えないこともないんではないか。

もちろん「自民党の暴走をおしとどめるためにも、連立与党の公明党の役割は重要である」というのは基本的に正論であるから、識者の皆さんも別にカネを積まれて節を曲げて思ってもいないことを語ってるワケではないンだろうが、ま、少なくともそういうところに阿吽の呼吸というものがあるのは確かだ。

で、話はもとに戻るんだが、ひょっとしたら『カネを積まれても使いたくない日本語』という本も、正しい言葉遣いみたいな話だけではなくて、その辺の言論・出版界の機微にまでツッコミを入れているのであろうか? それであればここでいろいろ書いたコトも全部的外れになってしまうので謝らねばならないのだが。さて、どうなのでしょう?



カネを積まれても使いたくない日本語 (朝日新書)

カネを積まれても使いたくない日本語 (朝日新書)

  • 作者: 内館牧子
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞出版
  • 発売日: 2013/07/12
  • メディア: 新書



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