カテゴリ: 朝日新聞を嗤ふ

めったに更新しないのが悪いということもあるのだが、当サイトは基本的に全然人の寄ってこない人外魔境ブログである。ではあるんだが、たまさか数十人もの人々(笑)が訪ねてくる日というものがあって、たとえばここ数日がそんな感じである。

これはどういうことかというと、どうも朝日新聞の不定期人気連載コラム「アロハで田植えしてみました」シリーズがまた再開されたことと関係があるようだ。というのも、以前このコラムについて何度か感想文を書いちゃったりしたものだから、検索をかけた結果、何となくここまで迷い込んでくる人がいるらしいのである。

ただなぁ、オレ的には今回始まったシリーズはどうなのかと思うぞ。

この企画、最初は「会社に忠誠心なんてねーからオレ。仮に辞めなきゃならんハメになっても、田んぼ一枚ありゃ筆一本、ライターとして好きなこと書いて、どうにかこうにか食っていけるんじゃネ? つーことでオレ、田んぼ作ってみるわ」というノリで、長崎の田舎で朝日新聞の一流記者が田んぼ作りに挑戦するという初期設定であった。

ま、天下の朝日の名物記者が仮に退職したとしても長崎の田舎の田んぼを守りながらライター稼業を続けるかといえばそんな可能性は毫もなく、しょせん冗談企画だといってしまえばそれまでなのだが、何というか、「会社なんてオレ、もうどうでもいいから」的な、この朝日の名物記者の一種吹っ切れた、アナーキーな(ふりをしたw)たたずまいがオレとしてはとても気に入ったのだった。

が、今回のシリーズの入り方をみますと(詳しいことは新聞を読んでもらいたいけれども)一言でいえば、この名物記者が「水田作りは教育にもいいですよネ」的なノリで近くの小学校を巻き込み、自分の田んぼで子供たちに田植えの実習をさせる、というような話になっていた。

まぁ当人は「うまいこと働かせてやったワイ。ラクできてよかったのう」的な偽悪的なスタンスを装って書いてはいるんだが、結局これって、客観的にみれば「都会からやってきたおじさんと地域の子供たちとの心のふれあい」的な「良い話」ではないか。全然アナーキーじゃないじゃん。

気に入らん!

というわけで、今後はぜひ初心に立ち戻り、地域の人々との心あたたまる交流路線は捨て、もうちょっとこう、なんというか、世の中に毒を撒き散らすような悪どい方向に歩んでいってもらいたいと切に願うのである。



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東京五輪のエンブレムを作ったデザイナーが、「よそのデザインをパクったんじゃねえか」と騒がれている問題について、昨日8月19日の天声人語が触れている。が、今回も例によって奇妙な議論をしている。

まず、歌人としても有名だった今は亡き寺山修司について、若き日の寺山にはしばしば盗作疑惑がささやかれ、「模倣小僧」と呼ばれることすらあった、という話をする。

で、実例を挙げている。「向日葵の 下に饒舌高きかな 人を訪わずば自己なき男」という寺山の歌があるのだが、これは中村草田男の「ひとを訪はずば 自己なき男 月見草」のパクリではないか、そういう話があったという。

ただ、ここで天声人語子は寺山の非難に走るかと思えば、そうではない。「でも寺山の作品って愛されているよね」という話をする。こんな具合だ。

批判を浴びて歌人寺山は消えてもおかしくなかったが、そうはならず、歌は今も愛誦されている。この種の騒ぎの収まり方には実に微妙なものがある。

で、最後のシメはこんな風だ。
ついでながら、子規の名高い〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉は、親友の漱石が先に作っていた〈鐘つけば銀杏ちるなり建長寺〉を発展させて詠まれたという。触発し、触発される。人が行う創作行為には当然そうした面がある。

つまり通読しますと、「人間の創作には先人の業績を真似たり、パクったりして創造するという側面がある。よって、今回のデザイナーのパクリ疑惑もそんなに騒ぎなさんな」という事を言っているように読める。

しかし、う~ん、それでいいのか、とオレは思う。

みなさんよくご存じのように、日本の和歌の伝統においては「本歌取り」というものがある。名高い古歌を一部パクリ(というと下品なので「流用して」というべきかもしらんが)、自作の作品世界に奥行きを与えるという手法である。念のためウィキペディアをみたら、こんな実例が挙げてあった。


三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも かくさふべしや(額田王)
    ↓
三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ(紀貫之)


実際には本歌取りにもいろいろ「ルール」みたいなものがあるらしく、寺山修司の「パクリ」がその辺どうなのかは素人なのでよくわからん。ただ、少なくともここからわかるのは、「これはオレのオリジナルな表現だから。マネして使ってもらったら許さん」というような、権利意識に目覚めた現代人特有の発想は、もともと日本の詩歌の世界にはなかった(もしくは乏しかった)のではないか、ということである。そして、我々もどこかに「先人を作品をリスペクトしてなぞる、ってのはアリかもしれんなあ」という風に考えているところがあるんではないか。

ただ、しかし、おそらくそれは「日本の詩歌」という文脈だから許されていることだと思う。我々の血肉と化した日本語という領域にあっては、先人の作り出した表現もまた広い意味での「公共財」なので、ある種の「フェアユース」を許す。寺山が「許された」というのも、そういう文脈があってのことだと思うのである。

しかるに、今回のデザイン盗用疑惑はどうか。

こういう世界になると、詩歌なんかと違って、やっぱり勝手にパクったりするのはまずいだろう、というのが大方の日本人の感覚なのではないか。天声人語は「およそ創作であれば、ある程度のパクリは許されるべきではないか」というような主張をしているようだが、これは、その創作作品のジャンルであるとかその歴史的文脈を無視して簡単に言い切ることのできない問題であると思う。

かくの如く、今回の天声人語も「文化の何たるか」ということについて深く考えることをしないものだから、極めて乱暴粗雑な議論をしてしまった。残念なことである。







以前楽しみに読んでいた朝日新聞の連載「アロハで田植えしてみました」の続編を今朝の紙面でハッケン。

もともとのは「都会育ちの朝日新聞の一流記者が九州の田舎で田んぼ作りに挑戦してみました」という企画であったンだが、今度は「機械を使わないで田んぼをやってみましょう」というコンセプトであるらしい。

まったくもう、なんとゆーか全く必然性のないシチュエーションを設定して記者が右往左往するところを楽しんでいただきましょうという下心がミエミエであり、もはやこれは上島竜平的なリアクション芸の世界である。ま、オレも嫌いではないけど(笑)。

ともあれ、これでしばらく朝日新聞をめくる楽しみができたぞ。前に連載やってた時にもこのブログに書いたが、朝日新聞とゆーのは基本的に近代合理主義的な世界観(啓蒙的世界観といってもよい)に染まっているので、今回の記事が「何でそんなことをしなければならないのか全然意味不明の愚行」に記者が意味を見出していくようなストーリーになっていけば紙面にデッカイ風穴があく、ということにもなろう。今後に期待(筆者が体を壊して突然終了という可能性もあるので、そういうスリル含みのところも含めて)。
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ここんとこ朝日新聞の天声人語もあまり本腰入れて読んでおらず、問題点を剔抉して差し上げる機会もトンとなくなってしまったのであるが、けさの朝日新聞に「まなあさ まなぶ@朝日新聞」なるパブ記事広告が出ていたので、せっかくだからアリバイ的にまたツッコミを入れておくことにしよう。

これは例によって、「天声人語の書き写しを実践をするととても良いことがアル」ということを自画自賛で宣伝しているページなのだが、つらつら読んでみるに、「こういうのに教育的効果はあるんだろーか」とついつい思ってしまうのである。

たとえばココに、平塚農業高校初声分校(神奈川県三浦市)なる学校の実践報告がある。ここのセンセイは、ご苦労なことに書き写す生徒の姿をビデオに映し、「読む」→「ノートに向かう」という一つのサイクルで生徒さんは平均何文字を記憶するのか、とゆーデータを取ったんだそうだ。で、センセイ、1年実践を続けたら一度で記憶できる文字数は1.7倍に増えた、とかいって喜んでおる。

で、これが「勉強しやすくなる基盤となるのは間違いない」と断定しているんだが、はて、そういうものか。

筆写をするのに慣れて、効率が上がる。これは単にそういう事実が示されたのに過ぎないのではないだろーか。別に「論理的思考が鍛えられた」とかそーゆー話ではサラサラなく、オレには「事務作業を効率的に行う能力が磨かれただけ」のように見える。

いや、もちろん、かつてミシェル・フーコーが言っていたように、学校だとか監獄だとかいうのは、自分を律する規範を内面化して黙々と動く自動機械のような人間を養成する場である、という見方にたつのであれば、こーゆー単純作業特化マシーンみたいな人間を育てるのに「天声人語の筆写」っつーのは有効かもしらん。

だが、時代はそういう「近代」から脱しつつあるので、単に単純作業特化マシーンみたいな人間では、これからのポストモダンの時代はなかなか生き抜いていけないのではないかと思うのだが、どうか。

いや、少なくとも、かつて深代惇郎が書いていた当時の天声人語であれば、そんな単純作業の中にも日本語のリズムだとか息づかいだとかが身体的に刻み込まれて、何か日本人としての心棒みたいなものが形成されることもあり得たかもしらん。だが、悲しいかな、今の天声人語の筆者にはそんな能力はない。

であるならば、天声人語みたいなものを筆写するんじゃなくて、「般若心経」でも「論語」でも「老子」でもいいから古典を書けばいーんじゃねーか、というのがいつもながらのオレの結論である。いくら商売で儲けたいからって、こういうインチキなPRを打ってはいけない。って何度言わせんだよ朝日新聞さんよ(笑)。










「朝日新聞を嗤ふ」なんてカテゴリーに書くのはナンだが、たまには朝日新聞を褒めて差し上げよう。

いま夕刊で連載している「春風の中小企業をたどって」という連載がとても良い。

出てくるのは、元非行少年を雇って更正の後押しをしているガソリンスタンドの経営者とか、障害者をやとって餃子やさんを経営しているオバサンとか、いわゆる「中小企業」で頑張ってる人たちである。

そもそも大企業というのはそういうことはしない。「元非行少年を雇う」なんてコトはしない。何かあったら企業のノレンに傷がつく。あえて火中の栗は拾わない。君子危うきに近寄らず。事なかれ主義である。

でも、中小企業なら「できる」。経営者の信念と心意気があればできる。そういうのがホントの企業経営者の志ってもんじゃないのか。書き手はそういうことを言っている。

日頃、朝日新聞は「貴族主義」でシモジモの人間のことがわかっていない、とオレは書いてきた。でも、少なくともこの書き手はちょっと違うようである。何でなんだろう、と思って読んでいたんだが、このあいだ、連載の中にこんなことが書いてあった。

私は10年ほど前、心療内科に通っていた。苦悩を医師に話すと「仕事を変えなさい」。1年間こらえ、人事異動で治った。私の心が弱いのか、ひとの心がもろいのか。

ふむ、そういうキャリアの記者だったのか、なるほどなるほどと得心がいった。少なくとも「天下の朝日新聞でござい」と肩で風切って順風満帆で生きてきた人ではないのだろう、この人は。だから大企業の非情・不条理・理不尽というものは十分に経験なさってきたのだろう。だからこそ言えるのだな、「真実というものはホントは中小企業にあるんじゃねーのか」みたいなことを。

いや実はオレだって、偉そうなことをブログで書いてはいるが、いわゆる「大企業」に勤めていて、会社にいけば理不尽な上司の物言いに「ヘイヘイ仰るとおりでございます」とかいって平身低頭しているクズに過ぎぬ。「なんだかなー。でもサラリーマンだからなー」と言い訳にもならぬことを自分に言い聞かせて日々やりすごしている卑怯者。

今回のこの連載は、だからそんなオレの琴線にグッときてしまったのだな。腐っても鯛というヤツ。たま~にこういう記事を載せてくるのが、朝日のある意味コワイところである。

【追記】

とはいいながら、記事の中で「障害者」を「障がい者」と書いているトコには、いささか鼻白んだ。「言葉狩りをすれば現実が変わる」という、いかにも朝日的世界観がここにはにじんでいる。関係ないけど、お役所とかが「子ども」と書いて「子供」とか書かないのは、「お供」=「劣者」という連想が働くので「供」の字は排除することにしているのだ、という話を聞いたことがある。これが本当だとしたらバカの極北でアル。
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今朝の「天声人語」を読んで、何かまた奇妙な感覚に襲われた。久々にちょっとツッコミを入れてみたい。

今回の「天声人語」の内容を簡単に紹介すると、昨年発生した「佐世保市の高1女子の同級生殺害事件」「名古屋大1年女子の老女殺し」という二件の殺人事件を俎上にあげている。ともに少女による犯行であり、しかも「人を殺してみたかった」という動機が共通している、であるからして

同じ悲劇を繰り返さないためには、彼女らを特異な事件を起こした存在として遠ざけてしまってはなるまい

とゆーわけで、ここから何か教訓を得なければいけないのではないか、といった感じで偉そうに説教を垂れている。

ただ、何か、ところどころ奥歯にモノのはさまったような書きぶりなのである。どういうことかというと、この天声人語、「いや、でもしかし、別にこれは最近になってこういう犯罪が増えてきた、みたいなトレンドがあるわけじゃないからね」みたいなエクスキューズをところどころに差し挟んでいるのである。たとえば、こういう感じだな↓

一つの特異な事例が、全体の傾向を代表しているわけではない

むろん、これをもって直ちに現代の少女がおかしくなっていると嘆くのは短絡だ。統計によれば少年犯罪は減り続けている。個別の事件と全体の傾向は 分ける必要がある

うむ、これは確かにその通りで、人口当たりの少年犯罪の件数などは、年寄りが「イイ時代だったよなあ」などと懐古しがちな昭和30年代などよりずいぶん減っているというし、少年犯罪の残虐さ・非道さというのはむしろ戦前のほうが凄かったんじゃねーかと思わせる『戦前の少年犯罪』(管賀江留郎著)みたいな本もある。マスコミもひところは「現代の治安はますます悪化している」みたいな、データに基づかない印象操作大作戦を展開していたんだが、さすがにソレは違うだろうということで、このように「別に少年犯罪はワルくなってるわけじゃない」と明言していること自体はたいへんヨロシイ。

ヨロシイんだが、しかし、とここで首をひねってしまうのである。

最近たまたま相次いだ少女による殺人事件が「全体の傾向を代表しているわけではない」し、「直ちに現代の少女がおかしくなっていると嘆くのは短絡だ」。そこまでわかってんなら、何でこんなコラムを書くのか。

オレに言わせれば、今回の事例はどうだったかしらんが、たとえば情性を欠如させたサイコパスみたいな存在は、どうしたって一定数この社会に出てきてしまうものである。今回はたまたま「少女」という括りで時間的に近接して二つの事件があったもんだから注目されているわけだが、天声人語子が自ら認めているように、こういう事例を「一般化」して何か言うというのは、そもそもオカシイことなのだ。

であれば、こんなコラムを書く意味はないのである。あえて「教訓」というのなら、「人間の生きている社会には、どうしたってこういう了解不能のことをしでかす人間が出てきてしまう、人間っていうのはかなしいよなー」というような諦念を引き出すのがスジというものではないか(あるいは、そういう人間をスクリーニングして片っ端から捕まえてどっかに収容セヨ、みたいな論理の転がし方もありうるが、産経新聞ならぬ「良識派」の朝日ではムリであろう)。

結局、ここから伝わってくるメッセージは、メタレベルでいうと「何か問題が起きたら何かリアクションをとるべきである、そういう風にオレたちは考えている、さぁどうだ社会派だろう偉いだろう」というものである。よほどネタに困ったのかもしれないが、というわけで今朝のようなコラムは流石にムリなので、天下の公器に載せてはいけない。

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金正恩をおちょくった映画「ザ・インタビュー」を公開しようとしたソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントが、テロ予告にひるんで上映中止に追い込まれた件であるが、一転、米国で上映館を絞っての公開が決まったらしい。まずは「テロには屈しないッ!」というアメリカの矜持が示されたようで、まぁアメリカは別に好きではないけれども、こういうところは連中さすがにスジが通っている、と思わんでもない。

閑話休題。今回は別にこの映画の公開の是非を論じたいわけではない。

たまたま新聞各紙でこの一件についていろいろ報じているのを読んでいて気づいたことがあった。フツーの新聞はフツーに「ザ・インタビュー」と書いているンだが、朝日新聞を見ると「The Interview(ジ・インタビュー)」という表記である。


問題は、この「・インタビュー」である。もちろん母音の前の「THE」は「ジ」と発音する、とゆーのは40年ほど前に田舎の中学校で教わったので知っているが、こういう書き言葉で「ジ」とか言われると、何となく違和感がある。現地人がリエゾンでこう読む仕掛けになってるからといって、もはや英語は国際語だとかいう話になってンだから、そんなローカル・ルールにおつきあいする必要があるんだろーか、と思う。

まぁここからは勝手なことを言わせてもらうのだが、朝日新聞のみこういう表記を使っている、というのは実に象徴的である。英語を使うにしても、ジャパングリッシュみたいなのは下品で、「現地人の口吻を一から真似るのが正しいのでアル」みたいな説教臭が漂う。あるいは「オレたちはインテリなので、インテリらしい英語を使わせて頂く。母音の前のジは譲れませんナ」みたいな嫌みなものを感じる。

それに「ジ・インタビュー」の前に、わざわざ原語の「The Interview」と入れているのも気に入らん。たぶん、「ジ・インタビュー」だけだと「なんだ、このジというのは?」と思う読者はいかほどか出てくるに違いなく、そこでこの「The Interview」という英語を併記しておけば、「いや、ここに英語が書いてあるでしょ? だったら、何でジなのか、わかるでしょ? わからない? あんたバカァ~?」ということになるワケである。何か姑息である。

例の「誤報問題」で至らず済みませんでしたとアタマを下げた朝日新聞であるが、オレが前々から指摘している「貴族主義」「大衆善導主義」みたいな性格は急に変わるワケもなく、それは図らずもこういうところに顔を出してしまうのではないだろうか。

いや、こういうリエゾンは尊重イタシマスという方針を貫くことにしたンならまだ良い。そのかわり、「アナ雪」の「Let it Go」は「レリゴー」だし、ビートルズの「Let It Be」は正しくは「レリビー」である。ま、これからこのビートルズの名曲は「レット・イット・ビー」ではなくて「Let It Be(レ・リ・ビー)」と書くことにシマシタ、というンなら許さんでもない(笑)。











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けさの朝日新聞の紙面をみると、例の「誤報問題」で大反省大会である。
なんか、朝日取るのやめた家に中堅社員を派遣してご機嫌うかがいさせるとか、涙ぐましいぞ。

もとより、朝日新聞(オレの場合はとりわけ天声人語なンだが)のゴーマン体質を批判してきたオレにしてみれば「それみたことか」という気がしないでもないんだが、逆にいうと、こうあからさまに土下座作戦を展開し始めたのをみると、それはそれで気持ち悪いゼというところがある。

けっきょくブル新なんだから、それほど公明正大・清廉潔白とゆーわけにはいかんことなんか先刻承知でアル。前にもちょっと書いたけれども、各新聞が自分に都合のよい事実を拾い上げて、自分に都合のよい記事を書くのはアタリマエのことである。

そこでかなり我田引水の無理のあるロジックを展開しちまったところに発生したのが例の吉田調書の「誤報」であったわけで、朝日の編集は撤退すべきところで突撃してしまって結果「一個大隊全滅」みたいな、いわば戦略ミスというよりは戦術ミスを犯しただけの話なのである。

とゆーわけで、気持ちの悪い土下座作戦もいささか白々しいのでこれは適当に切り上げて、ゴーマン通常運転に早期に復帰されたら如何だろう。そっちのほうがオレ的にもネタができていいし(笑)


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不定期掲載ながら楽しみにしていた朝日新聞・近藤康太郎編集委員の連載アロハで田植えしてみました」が、終わってしまつた。

いぜん書いたように、都会目線の朝日新聞のインテリ記者が田舎のしがらみだらけの人間関係=前近代的な集落共同体に屈服し、「嗚呼これが本来の人間の暮らしでアッタ、田舎の大衆=愚民という朝日伝統の大衆蔑視路線はマチガッテおりました~」みたいな「改宗」というか「回心」の物語になっていくのを期待しておったわけだが、そういう大転換もないまま終了してしまったのはいささか残念でアッタ。

ま、しかし、行間には「別に朝日新聞がつぶれよーがかまやしねーや」とゆーロック・スピリットが漂っており、つまり、ご当人にはこれからの朝日新聞を背負って立とうなどという気はさらさらなく、「オレって朝日的にはアウトサイダーだかんネ」とゆー立ち位置でもあるようなので、別に社長になりかわって頭を下げる必要もないのだとすればこれはこれで良かったのかもしれんナ(笑)
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根っからのヘソマガリというのか、何かみんなが「そうだそうだ」と言ってることには「いや、違う!」と言いたくなってしまう性分である。

であるから、このたび、朝日新聞が「従軍慰安婦の強制連行とかで誤報したのに謝罪しなかったのは悪うございました」「福島第1原発の政府事故調の吉田調書にかんして誤報をしてしまいました、ごめんなさい」といって頭を下げ、世の中がこぞって「どうなってんだ朝日は!とんでもねーなオマエラ」といって朝日を糾弾している件については、「なんだよ今更そんなこと言ってんのかよバカじゃねーの?」という思いが否めない。

朝日新聞のひとたちは「俺たちは賢いので、大所高所から庶民に教えを垂れて啓蒙してあげよう」という一心でずっと報道をしてきたのである。そういうゴーマンなことをしてはいけないよ、間違ってしまうよというのは、オレがこのブログで何度も何度も口を酸っぱくして言い続けてきたことである。ま、こんなとこで言い続けても何の反響もなかった(そしてこれからも無いw)のは勿論だが、内心では「やっと時代はオレに追いついたかヤレヤレ」と威張っているのである(笑)。


ただ、先にも書いたように、オレはヘソマガリなので、今回はちょっとだけ朝日をかばってあげようと思う。

今回、世間サマは「けっきょくオマエラは自分たちの都合いいように情報かきあつめてニュース作ってたんじゃねーか、けしからん」といって怒っているけれども、今回の朝日はちと度が過ぎたというだけで、実はこれはどこでもやっていることである。

たとえば社会面の記事なんかには、よく最後に「識者のコメント」が出てくるわけだが、たとえば原発問題だと、朝日なら反原発、産経なら原発推進で、それぞれ自分の会社に都合のよいことを言ってる人を連れてきてしゃべってもらう、というのがお約束になっている(もちろん双方から一人ずつ出して両論併記の体裁をとるケースもあるが、それは公正さを装うポーズであるか、あるいはその問題がそのメディアにとっては「どうでもいい」話の場合である)。

メディアがある出来事にかんして「事実だけに基づいて虚心坦懐に判断を下す」などと考えたら大間違いである。どんなメディアにもそれなりの「立場」とゆーか世界観があって、そのフレームワークに沿って世の中を切り取る。で、うまく切り取れたと思ったら、その線で報道する。切り取れなかったら報道しない。ただ今回の朝日は、切れ取れてないのに、なまじ頭が良いので「うまく切り取れた」と勘違いして大失敗したのである。

つまり、自分らはエライとか思ってるからそういうポカをかました、みたいなところがある。繰り返しになるけれども、オレは朝日新聞に対して、そういう「俺たちエライ」感覚というのは間違っているので反省しなさい、といってきたので、つまりオレの言うことをちゃんと聞いておればこういう恥をかかなくて済んだのである。「御意見五両堪忍十両」などというコトバもある。よく噛みしめてくれ朝日新聞。



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