カテゴリ: 朝日新聞を嗤ふ

えーと、いつも愛読している朝日新聞の「アロハで猟師してみました」4回目がけさの朝刊に載っていた。例によって朝日のサイトではカネを払わんと全部読めない仕掛けになっているが、念のためリンクを貼っておこう。

閑話休題。前回狩猟でとらえた鹿を殺す話を書いたアロハ記者に対してオレは「こういう話はお茶の間の偽善者たちにはウケが悪く、おそらくは新聞社にもカワイソーとかいって抗議が殺到するのだが、そんなことで自粛しようとか毛頭考えず、平気で商業新聞のタブーに挑んだアロハ記者えらいぞ」といった意味のことを書いた

で、けさの新聞を読むと、「読者どん引き。遠くで、引き潮の音が聞こえる」などと書いているので、ヤッパリ馬鹿な読者から抗議がけっこうきたのだろう。にもかかわらず、今回の記事でも「そういうアホどもは読まないでどっかいっちまえシッシッ」ということを言っている。いや、正確にいうともう少しお上品で、次のような表現なのだが。

「そっちサイドはちょっと・・・・・・」という優しき読者様は、この辺で下の<ひととき>に移ってくださいとお願いしておく。また会いましょう。


というわけで、全くハンセーなどせず鹿を解体するシーンなどを描いている今回の記事は大変よろしい。



で、もうひとつ感心したところがある。さらに先のほうまで読んでいくと、こんなことを書いているのである。


スーパーでパック詰めされた食肉は、完全に漂白された命だ。都合の悪いところを不可視可して、わたしたちは安穏・便利な生活を送っている。その点、原発と似ている。


これもなかなか朝日新聞では吐けないセリフなのだ。なぜかというと、朝日新聞的視点からすると原発というのは絶対悪である。だがこのアロハ記者の語り口はそういう一刀両断の姿勢とはかなり違う。

東日本大震災のあと実質的に原発ゼロでどうにかこうにかやってきた時期もあったけれど、それまで都会の住民は実際にはどっか遠いところで操業している原発の電気をつかって安楽な生活をしてきた。「これって動物を誰かさんに殺してもらって自分は平気で肉くってる構造と似てるんじゃネ?」と言っているわけで、つまりここでは「動物を殺すこと≒原発」という図式が成り立っている。つまり「そうはいっても原発うごかさんとダメなんじゃないの?」という主張と読めないこともない。いや、そこまでは言ってないにしても、一方的に「悪」を仕立て上げる(朝日新聞的)思考からは一歩引いている。

いいねえ。この調子でガンガン攻めていっていただきたい。




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朝日新聞ではこのところ、日曜日の社会面に「窓」というタイトルをつけたコラムを載せている。いや、コラムというのはちょっと正確ではなくて、なんというか、「街で見聞きしたイイ話」を紹介するコーナーみたいなものである。

「窓」というと、1980年代、「黒田軍団」と呼ばれた読売新聞大阪社会部のメンメンが、読者と新聞とが交流する欄として設けた「窓」という欄をどうしたって連想する。なんかパクりっぽいような気がするが、まあしかし、黒田軍団はその活動が東京本社のエライ人たちに睨まれ、結局解体させられてしまったので、ライバル社としての朝日新聞が嫌がらせ的に「窓」という欄を作るのはアリだと思う。

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閑話休題。今朝の「窓」――具体的にいうと

返事は「なんちゃじゃあない」とびきり親切な集落

という見出しのついた記事なのだが、これを読んで「朝日新聞、ダメだなあ」と思った。

どういう話かというと、高知県のド田舎の村に引っ越した都会人の話である。最初はなんかちょっとよそよそしい。それでも徐々に距離は縮まっていって、ナニも言わずに農作業手伝ってくれるまでになった。一言でいうと、「田舎の人情、いいなあ」という話である。

*例によってこの記事、朝日新聞のサイトに行っても全部読ませてくれないのであるが、一応リンク先を貼っておくとココである*

で、何がダメなのか。やや遠回りにはなるが、説明してみたい。

オレ自身田舎の出身で、こういう土地の空気はそれなりにわかるので、たまにみかけるこういう田舎賛歌みたいな記事にはとても違和感を感じる。まず、大原則として押さえておかねばならないのは「田舎の社会はとても閉鎖的である」ということだ。

都会者が移住してきた。すると連中はまず「警戒」する。おかしなヤツじゃないのか。村の平穏を乱したりしないか。遠巻きに様子を見る。ずっと観察する。そんなにキケンじゃなさそうだ、となると、やや距離を縮めてくる。村の行事への参加を「許す」。野菜のお裾分けもしてあげよう。そうやって徐々に徐々に仲間として認めていく。「身内」になればもう分け隔てはない。そこまでいけば、もう「村人」である。

だがしかし、オレなんかからすると、こうやって村人が遠くから都会者をずーっと「観察」しているプロセスからして、なんだか気持ち悪い。人を勝手に品定めする。それからおもむろに受け入れるか否かを、これまた勝手に判断する。だから受け入れられればいいが、否認されたらそこでの暮らしは相当に難しいものになる。

田舎に引っ越した都会人が「ゴミ捨て場は町内会が管理している。よって町内会費を払わない新参者には使わせない」みたいな嫌がらせをうけるという話もよく聞くようになった。いや、これはまだそれなりの理屈が通るからいいのだが、田舎の人間の論理はかなり奇妙なもので、たとえばわかりやすいのは共産党員(笑)とかだと「あいつはアカだ。仲間には入れられん!」とかいって拒否されたりするのである。「このムラとしては、農道通してもらったから自民党の××先生の応援しないといかんなー」という世界である。

さて、ここで改めて朝日の記事を読んでみる。まぁ、この人の場合は受け入れてもらってヨカッタね、という話である。だがしかし、よく考えると朝日新聞というのは常日頃、保守的で閉鎖的で自民党の金城湯池だったりする田舎の「後進性」みたいなのを批判してきたのではなかったか。「個人の確立」みたいな近代主義的価値観に立って「個のない田舎の封建性」を叩いてきたのではないか。

そして、そういう「後進性」みたいな部分と、この記事が称揚するような「濃密な地域の絆」みたいなものは実は表裏一体なのである。それが今頃になって「田舎、いいな~」みたいな寝ぼけたことを書いている。田舎の風土を否定してきたこれまでの記事は何だったのか。朝日新聞は田舎に屈したのか。あるいは何も考えていないからこんなのを書けるのか。

田舎の論理に負けたなら「はい負けました」と書けばよい。何も考えずにこんな記事を書いてしまったのなら、ちょっと恥ずかしい。


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長らく天声人語を批評していなかったが、別に朝日新聞を取るのを止めたワケではなく、なんかこう、加齢ととともにそういうヒト様に説教する気力みたいなものが失せてきたというのが本当のところである。

ではあるんだが、今朝の天声人語はちょっと酷かったので、久々に触れてみたくなった。

今回のは、NHKの朝ドラ「まんぷく」にまつわる話である。

ご承知のようにこれは日清食品の創業者である安藤百福の家族が「モデル」ということになっている。近年の朝ドラでは「実在の人物がモデル」であるという触れ込みで番組を作ることがままあるわけだが、こういう風に宣伝されると視聴者もなんだか興味を引かれてついつい観てしまう。そういう線を狙っているNHKもあざといのだが、まぁ今回はそういう話をしたいワケではない。

問題なのは、「××氏がモデル」と言われたときに「ああ、じゃあこれって実話なのね!」とマジで勘違いしてしまうヒトが出てきてしまうことである。

いくら「事実は小説より奇なり」とかいっても、やっぱり現実はそうそうドラマチックには動いていかないのである。そこは創作というものが入ってこないと、どうしたって売り物にはならない(もちろんノンフィクションというジャンルもあって、それにはまた独特の魅力というものがあるのだが、それはまた別の話である)。

そういう事情もわからずにドラマと現実を取り違える人が出てくる。言ってみればこれは広義のメディアリテラシーの欠如を示すもので、天下の朝日新聞なんかからすれば実に憂うべきことであるに違いない。

ところが、である。今朝の天声人語を読むと、この筆者自身がまさにこの「ドラマと現実を取り違える」愚にズッポリ陥っているのだった。

ちなみに、以前は朝日のサイトで当日の天声人語は全部読めた気がするが、いまはアタマだけしか読めず、あとはカネを払わねばならない。つまりサイトからちゃちゃっとコピペすることはできない(念のためいっておくと批評行為のためそうやって著作物を一部引用すること自体は著作権法でも認められております)。手打ちするのも面倒くさいのでいろいろ引用しないけれども、ともかく天声人語子はこう書いている。

 
NHK連続テレビ小説「まんぷく」で、1950年代に即席ラーメンが発明された実話を扱っている。


そう、何のためらいもなく「実話」としている。で、以下は安藤百福が仕事用に立てた小屋の中で即席ラーメンを実際に「発明」したという前提でいろいろ話を転がしていくのだが、さて、そうそう簡単にこの「発明」というのを事実認定しちゃっていいのか。

ネットとかでも実はあの油揚げ即席メンなるものは前々から安藤百福の故郷の台湾に存在していたもので、チキンラーメンを新たに「発明」されたものというのは如何なものか、といった話をいろいろ見かける(たとえばこの記事→「NHK『まんぷく』チキンラーメンは本当に「発明」なのか」)。

確かに安藤百福は自伝とかで自分の発明物語を再々語っておる。けれども、一流メディアの朝日新聞であるからには、そういう主張に対して「異論」があることは十分知っていなければおかしい。加えていえば、先に書いたように今回の「まんぷく」はしょせんドラマである。そもそも安藤百福は台湾出身のかなりのやり手の人物だったようだが、テレビに出てくる人物はそういう設定にはなっていない。これは「このドラマは基本フィクションですから」というあからさまなメッセージでもあるのだが、にもかかわらず虚構と現実を取り違えてしまうというのは、この天声人語子、ひょっとして「主人公が死んでもリセットして何度でも生き返ることのできるゲーム」のやり過ぎなのではなかろうか。

結論。記事を書く時にはもうちょっと慎重に事実関係を調べること。「ドラマと現実は違う」とわきまえること。
















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さて、オレが朝日新聞で楽しみにしている数少ない連載企画「アロハで猟師してみました」の新しい記事が今朝の新聞に載っておった。連載とはいいながら、忘れた頃にポツポツと載るので油断できないのであるが。

この企画については過去に何度も触れてきたので、時間とヒマのある方はここあたりを見ていってもらえばいいと思うのだが、要するにコレ、硬直したビューロクラシーの如きテッペキの組織を誇る朝日新聞にもなんか無頼漢みたいな記者がいて、田舎に赴任したのを機に懲戒解雇されても食い扶持を稼げるように農業やら狩猟やってみっカーみたいなノリでいろいろチャレンジしてみるというふざけた企画なのだった。

ちなみに朝日新聞のサイトを見に行ったら過去記事なんかへのリンクもあるんだが、例によって数行だけ読ませて「あとはカネを払え」というシステムになっているのでした。新聞取ってないけど読みたいなーと思ったそこのアナタ、残念でしたね。

それはともかく、けさの記事はなかなか良かった。

今回の猟師シリーズが始まるにあたって、オレはこう書いた。


ちなみに今回の設定は「コメばっかり作っててもオカズがないので今度は狩猟でもやってみっか」というものである。

いいじゃないか。

人間は他の生物のいのちを奪うことで生きている。それはもっといえば「人間の性、本来悪なり」みたいなところにもつながっており、これまで人間賛歌のヒューマニズムを高らかに謳ってきた朝日新聞が、こういう企画でそーゆー人間の一面を掘り下げていくのだとすれば、これはこれで面白い。

今後に注目だな。


で、けさの記事は、まさしくアロハ記者がワナにかかった鹿を手にかけて殺す、というシーンを描いていた。実に期待通りの展開である。やってくれるじゃないか。

というのも、こういう「動物を殺す」シーンを詳細に書くのは、実のところ新聞的にはなかなかハードルが高いのだ。なぜならば、そういうことを書くとアホな読者がたくさんいて必ず「残酷だ」だとか「かわいそう」とかいって電話で抗議をしてくる。

「テメー何いってやがんだ、テメーは豚肉食わねーのか鶏肉食わねーのか」と言って反論すればいいんだが、なんせ「一見正論めいた感情論」に新聞は弱いので、そういう大衆の「意向」を忖度してしまいwリアルな屠殺シーンなどはついつい避けてしまうのだった。

ある意味、そういう世間を作ってしまったのは安手なヒューマニズムをふりまいてきた朝日新聞の責任かもしれず(いやこの場合は動物カワイソーなのでアニマリズムかw)、そういう意味でこういう記事を朝日新聞が載せたのは責任をとる意味でも大変素晴らしいことであった。そう、他の命を頂いて我々人間は生きている。そういうことを今回の記事はちゃんと直視しておった。先に「ふざけた企画」と書いたが、今回の記事はふざけたようでいてホントはそんなにふざけていない。

とまれ、アロハ記者にはこの調子でガンガン飛ばしていってほしいものである。



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さて、こういう辺境ブログはだいたい一日に10人ぐらい訪ねてきてくれれば御の字である。

それが昨日あたり15人ぐらいに急増(笑)していた。どうしたんだろうなーと思って調べてみると、以前書いた「アロハで田植えしてみました」関連のエントリーに若干名訪問者があった。

ここで簡単に説明しておくと「アロハで田植えしてみました」というのは、朝日新聞のアウトロー(を気取る)名物記者が田舎の支局長に転出したのを契機に「仮にクビになっても食っていけるように田んぼでコメを作ってみるか!」という、およそ冗談としか思えない設定に従って米作りに挑戦するとゆー企画であった。

*念の為言っておくと、朝日新聞の企業年金というのはスゲーいっぱいもらえるので、こういうベテラン記者が辞めたって相当なカネは毎月入ってくるだろう。だから汗水流して田んぼを作る必要は実際にはない。もっとも懲戒免職とかになったらそーゆー年金がもらえるかどうかは知らん

というわけで、そもそもの設定自体が異常に嘘くさいけれども、これまで「大衆はバカだ」と下々のものどもを見下してきた朝日新聞がその辺の農民にアタマを下げて教えを乞うというストーリーがなかなか痛快であり、オレもこのブログで「いいじゃないか!」と時にその辺の論評をしてきたのだった(この辺とか)。

で、実はこのたびこの企画の新シリーズ「アロハで猟師してみました」というのがまた紙面で始まったので、おそらく検索をかけたヒトがこのブログに(約5人ほどw)迷い込んできたのであろう。確かにオレも新聞のほうでこの企画を目にして「お!また始まったか!」と喜んでいたのである。

ちなみに今回の設定は「コメばっかり作っててもオカズがないので今度は狩猟でもやってみっか」というものである。

いいじゃないか。

人間は他の生物のいのちを奪うことで生きている。それはもっといえば「人間の性、本来悪なり」みたいなところにもつながっており、これまで人間賛歌のヒューマニズムを高らかに謳ってきた朝日新聞が、こういう企画でそーゆー人間の一面を掘り下げていくのだとすれば、これはこれで面白い。

今後に注目だな。





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朝日新聞の名物記者が2014年から不定期連載していた「アロハで田植えしてみました」がいよいよ本当に完結してしまった。

この連載、最初は新聞記事にはあるまじきアナーキーな香りが漂っててスゲー面白かった。オレが前に書いたエントリーから再録すれば、この企画というのは↓

「会社に忠誠心なんてねーからオレ。仮に辞めなきゃならんハメになっても、田んぼ一枚ありゃ筆一本、ライターとして好きなこと書いて、どうにかこうにか食っていけるんじゃネ? つーことでオレ、田んぼ作ってみるわ」というノリで、長崎の田舎で朝日新聞の一流記者が田んぼ作りに挑戦するという初期設定

とゆーことで始まったのだった。

だが、それがなんか回を追うにつれて甘くなってしまった。

確か前回のシリーズは田んぼ作りの師匠が急逝してしまって「涙のお別れ」みたいな話になっておったし、最後は「田舎の小学生たちとの心温まる交流」である。新聞的なエエ話になってしまったのが気に入らん。

以前のエントリーではこんな注文を出しておいた↓


今後はぜひ初心に立ち戻り、地域の人々との心あたたまる交流路線は捨て、もうちょっとこう、なんというか、世の中に毒を撒き散らすような悪どい方向に歩んでいってもらいたいと切に願うのである。


そう、そのように切に願ったンだが、ちょっと残念であつた。

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めったに更新しないのが悪いということもあるのだが、当サイトは基本的に全然人の寄ってこない人外魔境ブログである。ではあるんだが、たまさか数十人もの人々(笑)が訪ねてくる日というものがあって、たとえばここ数日がそんな感じである。

これはどういうことかというと、どうも朝日新聞の不定期人気連載コラム「アロハで田植えしてみました」シリーズがまた再開されたことと関係があるようだ。というのも、以前このコラムについて何度か感想文を書いちゃったりしたものだから、検索をかけた結果、何となくここまで迷い込んでくる人がいるらしいのである。

ただなぁ、オレ的には今回始まったシリーズはどうなのかと思うぞ。

この企画、最初は「会社に忠誠心なんてねーからオレ。仮に辞めなきゃならんハメになっても、田んぼ一枚ありゃ筆一本、ライターとして好きなこと書いて、どうにかこうにか食っていけるんじゃネ? つーことでオレ、田んぼ作ってみるわ」というノリで、長崎の田舎で朝日新聞の一流記者が田んぼ作りに挑戦するという初期設定であった。

ま、天下の朝日の名物記者が仮に退職したとしても長崎の田舎の田んぼを守りながらライター稼業を続けるかといえばそんな可能性は毫もなく、しょせん冗談企画だといってしまえばそれまでなのだが、何というか、「会社なんてオレ、もうどうでもいいから」的な、この朝日の名物記者の一種吹っ切れた、アナーキーな(ふりをしたw)たたずまいがオレとしてはとても気に入ったのだった。

が、今回のシリーズの入り方をみますと(詳しいことは新聞を読んでもらいたいけれども)一言でいえば、この名物記者が「水田作りは教育にもいいですよネ」的なノリで近くの小学校を巻き込み、自分の田んぼで子供たちに田植えの実習をさせる、というような話になっていた。

まぁ当人は「うまいこと働かせてやったワイ。ラクできてよかったのう」的な偽悪的なスタンスを装って書いてはいるんだが、結局これって、客観的にみれば「都会からやってきたおじさんと地域の子供たちとの心のふれあい」的な「良い話」ではないか。全然アナーキーじゃないじゃん。

気に入らん!

というわけで、今後はぜひ初心に立ち戻り、地域の人々との心あたたまる交流路線は捨て、もうちょっとこう、なんというか、世の中に毒を撒き散らすような悪どい方向に歩んでいってもらいたいと切に願うのである。



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東京五輪のエンブレムを作ったデザイナーが、「よそのデザインをパクったんじゃねえか」と騒がれている問題について、昨日8月19日の天声人語が触れている。が、今回も例によって奇妙な議論をしている。

まず、歌人としても有名だった今は亡き寺山修司について、若き日の寺山にはしばしば盗作疑惑がささやかれ、「模倣小僧」と呼ばれることすらあった、という話をする。

で、実例を挙げている。「向日葵の 下に饒舌高きかな 人を訪わずば自己なき男」という寺山の歌があるのだが、これは中村草田男の「ひとを訪はずば 自己なき男 月見草」のパクリではないか、そういう話があったという。

ただ、ここで天声人語子は寺山の非難に走るかと思えば、そうではない。「でも寺山の作品って愛されているよね」という話をする。こんな具合だ。

批判を浴びて歌人寺山は消えてもおかしくなかったが、そうはならず、歌は今も愛誦されている。この種の騒ぎの収まり方には実に微妙なものがある。

で、最後のシメはこんな風だ。
ついでながら、子規の名高い〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉は、親友の漱石が先に作っていた〈鐘つけば銀杏ちるなり建長寺〉を発展させて詠まれたという。触発し、触発される。人が行う創作行為には当然そうした面がある。

つまり通読しますと、「人間の創作には先人の業績を真似たり、パクったりして創造するという側面がある。よって、今回のデザイナーのパクリ疑惑もそんなに騒ぎなさんな」という事を言っているように読める。

しかし、う~ん、それでいいのか、とオレは思う。

みなさんよくご存じのように、日本の和歌の伝統においては「本歌取り」というものがある。名高い古歌を一部パクリ(というと下品なので「流用して」というべきかもしらんが)、自作の作品世界に奥行きを与えるという手法である。念のためウィキペディアをみたら、こんな実例が挙げてあった。


三輪山を しかも隠すか 雲だにも 心あらなも かくさふべしや(額田王)
    ↓
三輪山を しかも隠すか 春霞 人に知られぬ 花や咲くらむ(紀貫之)


実際には本歌取りにもいろいろ「ルール」みたいなものがあるらしく、寺山修司の「パクリ」がその辺どうなのかは素人なのでよくわからん。ただ、少なくともここからわかるのは、「これはオレのオリジナルな表現だから。マネして使ってもらったら許さん」というような、権利意識に目覚めた現代人特有の発想は、もともと日本の詩歌の世界にはなかった(もしくは乏しかった)のではないか、ということである。そして、我々もどこかに「先人を作品をリスペクトしてなぞる、ってのはアリかもしれんなあ」という風に考えているところがあるんではないか。

ただ、しかし、おそらくそれは「日本の詩歌」という文脈だから許されていることだと思う。我々の血肉と化した日本語という領域にあっては、先人の作り出した表現もまた広い意味での「公共財」なので、ある種の「フェアユース」を許す。寺山が「許された」というのも、そういう文脈があってのことだと思うのである。

しかるに、今回のデザイン盗用疑惑はどうか。

こういう世界になると、詩歌なんかと違って、やっぱり勝手にパクったりするのはまずいだろう、というのが大方の日本人の感覚なのではないか。天声人語は「およそ創作であれば、ある程度のパクリは許されるべきではないか」というような主張をしているようだが、これは、その創作作品のジャンルであるとかその歴史的文脈を無視して簡単に言い切ることのできない問題であると思う。

かくの如く、今回の天声人語も「文化の何たるか」ということについて深く考えることをしないものだから、極めて乱暴粗雑な議論をしてしまった。残念なことである。







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以前楽しみに読んでいた朝日新聞の連載「アロハで田植えしてみました」の続編を今朝の紙面でハッケン。

もともとのは「都会育ちの朝日新聞の一流記者が九州の田舎で田んぼ作りに挑戦してみました」という企画であったンだが、今度は「機械を使わないで田んぼをやってみましょう」というコンセプトであるらしい。

まったくもう、なんとゆーか全く必然性のないシチュエーションを設定して記者が右往左往するところを楽しんでいただきましょうという下心がミエミエであり、もはやこれは上島竜平的なリアクション芸の世界である。ま、オレも嫌いではないけど(笑)。

ともあれ、これでしばらく朝日新聞をめくる楽しみができたぞ。前に連載やってた時にもこのブログに書いたが、朝日新聞とゆーのは基本的に近代合理主義的な世界観(啓蒙的世界観といってもよい)に染まっているので、今回の記事が「何でそんなことをしなければならないのか全然意味不明の愚行」に記者が意味を見出していくようなストーリーになっていけば紙面にデッカイ風穴があく、ということにもなろう。今後に期待(筆者が体を壊して突然終了という可能性もあるので、そういうスリル含みのところも含めて)。
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ここんとこ朝日新聞の天声人語もあまり本腰入れて読んでおらず、問題点を剔抉して差し上げる機会もトンとなくなってしまったのであるが、けさの朝日新聞に「まなあさ まなぶ@朝日新聞」なるパブ記事広告が出ていたので、せっかくだからアリバイ的にまたツッコミを入れておくことにしよう。

これは例によって、「天声人語の書き写しを実践をするととても良いことがアル」ということを自画自賛で宣伝しているページなのだが、つらつら読んでみるに、「こういうのに教育的効果はあるんだろーか」とついつい思ってしまうのである。

たとえばココに、平塚農業高校初声分校(神奈川県三浦市)なる学校の実践報告がある。ここのセンセイは、ご苦労なことに書き写す生徒の姿をビデオに映し、「読む」→「ノートに向かう」という一つのサイクルで生徒さんは平均何文字を記憶するのか、とゆーデータを取ったんだそうだ。で、センセイ、1年実践を続けたら一度で記憶できる文字数は1.7倍に増えた、とかいって喜んでおる。

で、これが「勉強しやすくなる基盤となるのは間違いない」と断定しているんだが、はて、そういうものか。

筆写をするのに慣れて、効率が上がる。これは単にそういう事実が示されたのに過ぎないのではないだろーか。別に「論理的思考が鍛えられた」とかそーゆー話ではサラサラなく、オレには「事務作業を効率的に行う能力が磨かれただけ」のように見える。

いや、もちろん、かつてミシェル・フーコーが言っていたように、学校だとか監獄だとかいうのは、自分を律する規範を内面化して黙々と動く自動機械のような人間を養成する場である、という見方にたつのであれば、こーゆー単純作業特化マシーンみたいな人間を育てるのに「天声人語の筆写」っつーのは有効かもしらん。

だが、時代はそういう「近代」から脱しつつあるので、単に単純作業特化マシーンみたいな人間では、これからのポストモダンの時代はなかなか生き抜いていけないのではないかと思うのだが、どうか。

いや、少なくとも、かつて深代惇郎が書いていた当時の天声人語であれば、そんな単純作業の中にも日本語のリズムだとか息づかいだとかが身体的に刻み込まれて、何か日本人としての心棒みたいなものが形成されることもあり得たかもしらん。だが、悲しいかな、今の天声人語の筆者にはそんな能力はない。

であるならば、天声人語みたいなものを筆写するんじゃなくて、「般若心経」でも「論語」でも「老子」でもいいから古典を書けばいーんじゃねーか、というのがいつもながらのオレの結論である。いくら商売で儲けたいからって、こういうインチキなPRを打ってはいけない。って何度言わせんだよ朝日新聞さんよ(笑)。










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