カテゴリ: 朝日新聞を嗤ふ

さて、またまた夏の甲子園の季節がやってくる。

各地の地方予選もほぼ終わりつつあるが、最近大きなニュースとして報じられたのが岩手県・大船渡高の超高校級エース、佐々木朗希投手をめぐる一件である。

皆さんよくご存じとは思うが、要するにこの高校の監督、岩手県大会決勝戦でこの佐々木投手をマウンドに上げなかった。決勝まで勝ち上がってくるのにかなり消耗しているし、ここで投げさせるといよいよ故障してしまうンではないか――そんな思いがあったとされる。で、大船渡高校は負けてしまった。

「なんだよ、甲子園まであと一勝っていう試合なんだから投げさせてやりゃあよかったのに!」。どうやらそんな声が澎湃と湧き上がっているらしいのである。

という前置きを経て、さて、今朝の朝日新聞「天声人語」である。ネットでは全文が見られなくなってしまったので、ここでは末尾の部分を貼りつけておくにとどめる。が、朝日新聞に高校野球を論じさせるといつだってトンチンカンになってしまうのはいつのものことで、今回もバカなことを書いている。


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この部分を読んで頂ければ分かるように、「投げさせた方が良かった」とも「これで良かった」ともハッキリ言わない。

「投げさせろ」と言ったら、「ケガもクソも関係ねーからとにかく頑張れ」とゆー古くさいスポ根主義を擁護することになってしまうので「進歩派」を気取る朝日新聞としてはそうは言いにくいところである。

かといって、「投げなくて良かった」といえば、たかが子供の野球を天下の一大事のようにあおり立てて商売の道具にしてきた朝日新聞のこれまでを自己否定してしまうことになるので、そうも書けない。

つまり天声人語子は、この件について別に言いたいことなどないのだろう。世間で大騒ぎになってるので主催者側としても何かひと言書いておこうかなーと考えたはいいが、自分のアタマで突き詰めて考えたことがないので、なんとなく曖昧なことを語って行数をかせいでいたらいつのまにか終わってしまった、というアレである。

であるから、最後に「夢をおいかけることと、途中で燃え尽きないこと。バランスが大切で、かつ難しいのは、どのスポーツも変わらない」とか言っておるが、これも適当にひねり出した文句で、現実は全然違うだろう。高校野球が今や一大ビジネスになっちまったからこそ「投げる・投げない」が大問題になってしまったワケで、有り体にいえば今回の一件が「難しい」のは、「この佐々木投手はプロ野球に入って大活躍することが期待されており、となると、いま故障でもされたら水の泡である」というオトナ世界の事情が一枚噛んでいるからなのである。

そこらで部活をやってる平凡な高校生だったら別になにも「難しくない」。
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今回は朝日新聞読書面について。

朝日の読書面はそこそこ面白いと思っている。もっとも、一つ問題があるのは書評委員の人選で、朝日のメンバーの中には過去にライバル紙の読売新聞で書評委員をやっていた人がけっこういる。つまり他紙で評判の良かった人を「引き抜いてきて使う」パターンが定着してきている(ちゃんと調べてないが、体感的には約20人中だいたい3、4人はそういう人がいる感じだ。ちなみに逆に「朝日から読売へ」という人はほとんどいない。たぶん)。

よく考えると、朝日新聞はいつも「読売巨人軍はFAでヨソの一流選手を引き抜いて来ることばっかり考えてる! いいのかそれで!」という批判をしているので、自分ンとこの読書面で全く同じようなことをやってるのはなんとも解せない。担当の記者さんは自分の眼力を信じて、オリジナリティのある人選をしていただきたいものである。

閑話休題。今回は別にそんなことを言いたいわけではなかった。けさの読書面を読んでたら、とても難解な書評が出ていたので驚いたのである。

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著作権法上の問題があるのでここでは批評に最小限必要な部分のみ示しているが、これはグレアム・ハーマン『非唯物論』という本の書評である。

最初の段落を読むと読者は、「なるほどなるほど、これは社会学・哲学系の本であって<オブジェクト指向存在論>と<アフターネットワーク理論>について書いてあるのだな。で、建築方面でもそのへん話題になっているワケね」と考える。もっともほとんどの読者はオブジェクトなんたらとかアフターなんとかと言われても何がなんだかわからない。しょうがないので、「おそらく次にその説明が来るのだろうネ」と思って読み進む。

が、しかし。読者はそこでさらに混乱を強いられる。


「建築をエコロジーのなかの一つのアクターとして捉える」

「建築という対象に内在する活力」


「???」

たぶん読者の8割ぐらいはここで読むのをやめてしまうだろう。で、オレが言いたいのは、一般市民を対象とする新聞でこういう書評を出してはならないということである。

念のため言っておくが、これはこの書評を書いた評者を責めているわけではない。書き手は建築家の方のようだが、こういう難解(っぽい)な本を平易に説明する才能というのは本業の才能とはまた別のものであって、スラスラ読める書評を書けなかったからといって非難される筋合いはない。

だからここで問われるべきは、この書評を受け取った担当記者、そして最終的にその書評原稿を通してしまった編集長(というのかな?)の姿勢なのである。

一読してよくわからない。二読三読して、ようやくナニをいいたいのかおぼろげにわかってくる。そういう文章というものは勿論あってもよいけれども、大衆向けの新聞でそういうものを載せるのは(一般論ではあるが)よろしくない。少なくとも読書面ではダメだとオレは考える。

たぶん受け手の担当記者も最初、「え、なんだこれ難しいなー」と思ったに違いない。そしてたぶん「もうちょっと平易に書いてくれませんかネ?」みたいに書評者にお願いしたハズだ。で、以下は全くの推測になるのだが、おそらくそんなやりとりを二度三度して、だが最後はもう面倒くさくなったのだろう、「ハイこれでいいです」と言ってしまった。で、編集長さんも「ま、いっかー」ぐらいのノリでスルーしてしまった・・・。これを善意で解釈すると(笑)「朝日の読者はインテリが多いから、社会学の動向ぐらい知ってるよなー。ま、知らんほうがバカだから、これで十分だろうよ」ぐらいの判断があったのかもしれぬが、それはそれで大問題である。

とまれ、新聞の存在意義が問われている昨今、こういう安直な姿勢は自らのクビを締めることになるのではないか。最初に書いたようにオレは朝日の読書面はまずまず面白いものを作ってきたと思っているから、今回のようなユルい紙面に対してはひとこと諌言申し上げたかったという次第。






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久しぶりに「天声人語」について。

統一地方選が終わったタイミングということもあってか、けさの「天声人語」は「地方議会で議員のなり手がいない」という話だった。

選挙にでるには会社を辞めなければならんのでリスクが多い。仮に当選してもたいした報酬が出るわけでもない。となると「プロとして責任を重くし、報酬も上げる」か、「アマチュアだと割り切り、兼業をおおいに認めて、報酬も日当程度にする」かの二択である。政治学者の待鳥聡史氏の議論をふまえてそういうことを言っている。

まあ、これは理詰めでいけばそういうことになるのだろう。ただ、最後まで読むとなんだか「また朝日が説教をしているなぁ」感が色濃くにじみ出てしまうのだった。こんな感じ。


何事も締め切りが大事だ。わが議会はどうするかの議論をすぐに始め、次の選挙までに必要な改革をする。それくらいのスピード感がほしい。4年後の統一地方選でまた頭を抱えないために。


なにか問題があったら「早急に対応しなければならない」というのは正論である。正論であるけれども、そういう正論に沿ってすぐに話が進まないのにはそれなりの事情というものがあるのだ。

今回の問題でも、たとえばこのご時世に「地方議員の報酬を上げる」などといったらアホな大衆が「オレらがこんなに貧乏しておるのに! そんなことは許さん!」といっていきり立つのは目に見えておる。

兼業OKにして議員になるハードルを下げようというアイデアも実際には難しい。いまだに多くの企業は労働者に対してテッテ的な滅私奉公を要求する。で、その割に終身雇用は保障しないし、内部留保はため込んでも給料は上げないという図々しい企業が増えているのがなんとも気に入らんのであるが、ともかくそういう企業が「兼業」などを軽々に認めるワケはないのだ(とゆーか、そんな柔軟な発想のできる企業が多かったら今の日本はこんな惨状に陥らなかったような気もする)。

そのへんをすっとばして、「何事も締め切りが大事だ」「スピード感がほしい」とか一般論をぶって何事かを言ったかのような気になってしまう。これが「天声人語」の悪いところなのだ。

それがうまくいかん背景というものがある。たぶんそれはこの国が抱え込んだ長年の宿痾のようなものと骨がらみなのであって、とりあえずそこに一太刀浴びせるぐらいのことをしてほしい。それでないと「名物コラム」の名が泣くというものである。

と同時にオレなどは、「隗より始めよ」というヤツで、朝日新聞サンも長期低落傾向にある新聞業界の立て直しに「スピード感」を発揮してほしいと思う。なぜ売れないのか。どうすれば新聞を守れるのか。そのあたりを考えた上で果敢に対策を実行する。「何事も締め切りが大事」なのだから。

せっかくなので、ここで一つ提案をして差し上げよう。まず急ぐべきは夕刊の廃止。ネット時代にあって夕刊の存在意義というのは急速に薄れており、こんなものにリソースを割いている余裕はない。じっさい、産経新聞は夕刊廃止にいちはやく踏み切っておる。

当然、販売店が「やめてくれ」といって泣きついてくるだろう。だが、正論に沿って大ナタを振るうべきだと自分で言っているのだから仕方あるまい。


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朝日新聞の連載企画「アロハで猟師してみました」が終わってしまったようだ。

例によってネット上ではカネを払わんと全文が読めないけれども、最終回の記事にいちおうリンクを貼っておこう。

で、オレもかねてから期待していたように、書き手の近藤康太郎記者は「ヒトは他の生物を殺めるという原罪を背負って生きていくしかないのダ!」というテーゼを強調して去っていったのでソコは大変結構である。あるけれども、この最終回はちょっとリクツが勝った感じで強引にまとめに入った感じもある。

推測するに上のほうのヒトから「ちょっと過激すぎるんじゃネ(怒」とか言われて――あるいは他のマスコミの記者を支局に招き入れて楽しく遊んでいるシーンとかあったのでそっちがマズかったのかもしらんが――とにかく終了したテイにせねばならず、そこでいわゆる「俺たちの戦いはこれからだ!」的なシメを強制された感もないではない。

それはちょっと深読みしすぎかもしらんが、なんかお上品な朝日新聞にアナーキーなテイストの記事が載ったのはなかなか痛快ではあった。二の矢、三の矢を待つ。



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えーと、いつも愛読している朝日新聞の「アロハで猟師してみました」4回目がけさの朝刊に載っていた。例によって朝日のサイトではカネを払わんと全部読めない仕掛けになっているが、念のためリンクを貼っておこう。

閑話休題。前回狩猟でとらえた鹿を殺す話を書いたアロハ記者に対してオレは「こういう話はお茶の間の偽善者たちにはウケが悪く、おそらくは新聞社にもカワイソーとかいって抗議が殺到するのだが、そんなことで自粛しようとか毛頭考えず、平気で商業新聞のタブーに挑んだアロハ記者えらいぞ」といった意味のことを書いた

で、けさの新聞を読むと、「読者どん引き。遠くで、引き潮の音が聞こえる」などと書いているので、ヤッパリ馬鹿な読者から抗議がけっこうきたのだろう。にもかかわらず、今回の記事でも「そういうアホどもは読まないでどっかいっちまえシッシッ」ということを言っている。いや、正確にいうともう少しお上品で、次のような表現なのだが。

「そっちサイドはちょっと・・・・・・」という優しき読者様は、この辺で下の<ひととき>に移ってくださいとお願いしておく。また会いましょう。


というわけで、全くハンセーなどせず鹿を解体するシーンなどを描いている今回の記事は大変よろしい。



で、もうひとつ感心したところがある。さらに先のほうまで読んでいくと、こんなことを書いているのである。


スーパーでパック詰めされた食肉は、完全に漂白された命だ。都合の悪いところを不可視可して、わたしたちは安穏・便利な生活を送っている。その点、原発と似ている。


これもなかなか朝日新聞では吐けないセリフなのだ。なぜかというと、朝日新聞的視点からすると原発というのは絶対悪である。だがこのアロハ記者の語り口はそういう一刀両断の姿勢とはかなり違う。

東日本大震災のあと実質的に原発ゼロでどうにかこうにかやってきた時期もあったけれど、それまで都会の住民は実際にはどっか遠いところで操業している原発の電気をつかって安楽な生活をしてきた。「これって動物を誰かさんに殺してもらって自分は平気で肉くってる構造と似てるんじゃネ?」と言っているわけで、つまりここでは「動物を殺すこと≒原発」という図式が成り立っている。つまり「そうはいっても原発うごかさんとダメなんじゃないの?」という主張と読めないこともない。いや、そこまでは言ってないにしても、一方的に「悪」を仕立て上げる(朝日新聞的)思考からは一歩引いている。

いいねえ。この調子でガンガン攻めていっていただきたい。




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朝日新聞ではこのところ、日曜日の社会面に「窓」というタイトルをつけたコラムを載せている。いや、コラムというのはちょっと正確ではなくて、なんというか、「街で見聞きしたイイ話」を紹介するコーナーみたいなものである。

「窓」というと、1980年代、「黒田軍団」と呼ばれた読売新聞大阪社会部のメンメンが、読者と新聞とが交流する欄として設けた「窓」という欄をどうしたって連想する。なんかパクりっぽいような気がするが、まあしかし、黒田軍団はその活動が東京本社のエライ人たちに睨まれ、結局解体させられてしまったので、ライバル社としての朝日新聞が嫌がらせ的に「窓」という欄を作るのはアリだと思う。

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閑話休題。今朝の「窓」――具体的にいうと

返事は「なんちゃじゃあない」とびきり親切な集落

という見出しのついた記事なのだが、これを読んで「朝日新聞、ダメだなあ」と思った。

どういう話かというと、高知県のド田舎の村に引っ越した都会人の話である。最初はなんかちょっとよそよそしい。それでも徐々に距離は縮まっていって、ナニも言わずに農作業手伝ってくれるまでになった。一言でいうと、「田舎の人情、いいなあ」という話である。

*例によってこの記事、朝日新聞のサイトに行っても全部読ませてくれないのであるが、一応リンク先を貼っておくとココである*

で、何がダメなのか。やや遠回りにはなるが、説明してみたい。

オレ自身田舎の出身で、こういう土地の空気はそれなりにわかるので、たまにみかけるこういう田舎賛歌みたいな記事にはとても違和感を感じる。まず、大原則として押さえておかねばならないのは「田舎の社会はとても閉鎖的である」ということだ。

都会者が移住してきた。すると連中はまず「警戒」する。おかしなヤツじゃないのか。村の平穏を乱したりしないか。遠巻きに様子を見る。ずっと観察する。そんなにキケンじゃなさそうだ、となると、やや距離を縮めてくる。村の行事への参加を「許す」。野菜のお裾分けもしてあげよう。そうやって徐々に徐々に仲間として認めていく。「身内」になればもう分け隔てはない。そこまでいけば、もう「村人」である。

だがしかし、オレなんかからすると、こうやって村人が遠くから都会者をずーっと「観察」しているプロセスからして、なんだか気持ち悪い。人を勝手に品定めする。それからおもむろに受け入れるか否かを、これまた勝手に判断する。だから受け入れられればいいが、否認されたらそこでの暮らしは相当に難しいものになる。

田舎に引っ越した都会人が「ゴミ捨て場は町内会が管理している。よって町内会費を払わない新参者には使わせない」みたいな嫌がらせをうけるという話もよく聞くようになった。いや、これはまだそれなりの理屈が通るからいいのだが、田舎の人間の論理はかなり奇妙なもので、たとえばわかりやすいのは共産党員(笑)とかだと「あいつはアカだ。仲間には入れられん!」とかいって拒否されたりするのである。「このムラとしては、農道通してもらったから自民党の××先生の応援しないといかんなー」という世界である。

さて、ここで改めて朝日の記事を読んでみる。まぁ、この人の場合は受け入れてもらってヨカッタね、という話である。だがしかし、よく考えると朝日新聞というのは常日頃、保守的で閉鎖的で自民党の金城湯池だったりする田舎の「後進性」みたいなのを批判してきたのではなかったか。「個人の確立」みたいな近代主義的価値観に立って「個のない田舎の封建性」を叩いてきたのではないか。

そして、そういう「後進性」みたいな部分と、この記事が称揚するような「濃密な地域の絆」みたいなものは実は表裏一体なのである。それが今頃になって「田舎、いいな~」みたいな寝ぼけたことを書いている。田舎の風土を否定してきたこれまでの記事は何だったのか。朝日新聞は田舎に屈したのか。あるいは何も考えていないからこんなのを書けるのか。

田舎の論理に負けたなら「はい負けました」と書けばよい。何も考えずにこんな記事を書いてしまったのなら、ちょっと恥ずかしい。


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長らく天声人語を批評していなかったが、別に朝日新聞を取るのを止めたワケではなく、なんかこう、加齢ととともにそういうヒト様に説教する気力みたいなものが失せてきたというのが本当のところである。

ではあるんだが、今朝の天声人語はちょっと酷かったので、久々に触れてみたくなった。

今回のは、NHKの朝ドラ「まんぷく」にまつわる話である。

ご承知のようにこれは日清食品の創業者である安藤百福の家族が「モデル」ということになっている。近年の朝ドラでは「実在の人物がモデル」であるという触れ込みで番組を作ることがままあるわけだが、こういう風に宣伝されると視聴者もなんだか興味を引かれてついつい観てしまう。そういう線を狙っているNHKもあざといのだが、まぁ今回はそういう話をしたいワケではない。

問題なのは、「××氏がモデル」と言われたときに「ああ、じゃあこれって実話なのね!」とマジで勘違いしてしまうヒトが出てきてしまうことである。

いくら「事実は小説より奇なり」とかいっても、やっぱり現実はそうそうドラマチックには動いていかないのである。そこは創作というものが入ってこないと、どうしたって売り物にはならない(もちろんノンフィクションというジャンルもあって、それにはまた独特の魅力というものがあるのだが、それはまた別の話である)。

そういう事情もわからずにドラマと現実を取り違える人が出てくる。言ってみればこれは広義のメディアリテラシーの欠如を示すもので、天下の朝日新聞なんかからすれば実に憂うべきことであるに違いない。

ところが、である。今朝の天声人語を読むと、この筆者自身がまさにこの「ドラマと現実を取り違える」愚にズッポリ陥っているのだった。

ちなみに、以前は朝日のサイトで当日の天声人語は全部読めた気がするが、いまはアタマだけしか読めず、あとはカネを払わねばならない。つまりサイトからちゃちゃっとコピペすることはできない(念のためいっておくと批評行為のためそうやって著作物を一部引用すること自体は著作権法でも認められております)。手打ちするのも面倒くさいのでいろいろ引用しないけれども、ともかく天声人語子はこう書いている。

 
NHK連続テレビ小説「まんぷく」で、1950年代に即席ラーメンが発明された実話を扱っている。


そう、何のためらいもなく「実話」としている。で、以下は安藤百福が仕事用に立てた小屋の中で即席ラーメンを実際に「発明」したという前提でいろいろ話を転がしていくのだが、さて、そうそう簡単にこの「発明」というのを事実認定しちゃっていいのか。

ネットとかでも実はあの油揚げ即席メンなるものは前々から安藤百福の故郷の台湾に存在していたもので、チキンラーメンを新たに「発明」されたものというのは如何なものか、といった話をいろいろ見かける(たとえばこの記事→「NHK『まんぷく』チキンラーメンは本当に「発明」なのか」)。

確かに安藤百福は自伝とかで自分の発明物語を再々語っておる。けれども、一流メディアの朝日新聞であるからには、そういう主張に対して「異論」があることは十分知っていなければおかしい。加えていえば、先に書いたように今回の「まんぷく」はしょせんドラマである。そもそも安藤百福は台湾出身のかなりのやり手の人物だったようだが、テレビに出てくる人物はそういう設定にはなっていない。これは「このドラマは基本フィクションですから」というあからさまなメッセージでもあるのだが、にもかかわらず虚構と現実を取り違えてしまうというのは、この天声人語子、ひょっとして「主人公が死んでもリセットして何度でも生き返ることのできるゲーム」のやり過ぎなのではなかろうか。

結論。記事を書く時にはもうちょっと慎重に事実関係を調べること。「ドラマと現実は違う」とわきまえること。
















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さて、オレが朝日新聞で楽しみにしている数少ない連載企画「アロハで猟師してみました」の新しい記事が今朝の新聞に載っておった。連載とはいいながら、忘れた頃にポツポツと載るので油断できないのであるが。

この企画については過去に何度も触れてきたので、時間とヒマのある方はここあたりを見ていってもらえばいいと思うのだが、要するにコレ、硬直したビューロクラシーの如きテッペキの組織を誇る朝日新聞にもなんか無頼漢みたいな記者がいて、田舎に赴任したのを機に懲戒解雇されても食い扶持を稼げるように農業やら狩猟やってみっカーみたいなノリでいろいろチャレンジしてみるというふざけた企画なのだった。

ちなみに朝日新聞のサイトを見に行ったら過去記事なんかへのリンクもあるんだが、例によって数行だけ読ませて「あとはカネを払え」というシステムになっているのでした。新聞取ってないけど読みたいなーと思ったそこのアナタ、残念でしたね。

それはともかく、けさの記事はなかなか良かった。

今回の猟師シリーズが始まるにあたって、オレはこう書いた。


ちなみに今回の設定は「コメばっかり作っててもオカズがないので今度は狩猟でもやってみっか」というものである。

いいじゃないか。

人間は他の生物のいのちを奪うことで生きている。それはもっといえば「人間の性、本来悪なり」みたいなところにもつながっており、これまで人間賛歌のヒューマニズムを高らかに謳ってきた朝日新聞が、こういう企画でそーゆー人間の一面を掘り下げていくのだとすれば、これはこれで面白い。

今後に注目だな。


で、けさの記事は、まさしくアロハ記者がワナにかかった鹿を手にかけて殺す、というシーンを描いていた。実に期待通りの展開である。やってくれるじゃないか。

というのも、こういう「動物を殺す」シーンを詳細に書くのは、実のところ新聞的にはなかなかハードルが高いのだ。なぜならば、そういうことを書くとアホな読者がたくさんいて必ず「残酷だ」だとか「かわいそう」とかいって電話で抗議をしてくる。

「テメー何いってやがんだ、テメーは豚肉食わねーのか鶏肉食わねーのか」と言って反論すればいいんだが、なんせ「一見正論めいた感情論」に新聞は弱いので、そういう大衆の「意向」を忖度してしまいwリアルな屠殺シーンなどはついつい避けてしまうのだった。

ある意味、そういう世間を作ってしまったのは安手なヒューマニズムをふりまいてきた朝日新聞の責任かもしれず(いやこの場合は動物カワイソーなのでアニマリズムかw)、そういう意味でこういう記事を朝日新聞が載せたのは責任をとる意味でも大変素晴らしいことであった。そう、他の命を頂いて我々人間は生きている。そういうことを今回の記事はちゃんと直視しておった。先に「ふざけた企画」と書いたが、今回の記事はふざけたようでいてホントはそんなにふざけていない。

とまれ、アロハ記者にはこの調子でガンガン飛ばしていってほしいものである。



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さて、こういう辺境ブログはだいたい一日に10人ぐらい訪ねてきてくれれば御の字である。

それが昨日あたり15人ぐらいに急増(笑)していた。どうしたんだろうなーと思って調べてみると、以前書いた「アロハで田植えしてみました」関連のエントリーに若干名訪問者があった。

ここで簡単に説明しておくと「アロハで田植えしてみました」というのは、朝日新聞のアウトロー(を気取る)名物記者が田舎の支局長に転出したのを契機に「仮にクビになっても食っていけるように田んぼでコメを作ってみるか!」という、およそ冗談としか思えない設定に従って米作りに挑戦するとゆー企画であった。

*念の為言っておくと、朝日新聞の企業年金というのはスゲーいっぱいもらえるので、こういうベテラン記者が辞めたって相当なカネは毎月入ってくるだろう。だから汗水流して田んぼを作る必要は実際にはない。もっとも懲戒免職とかになったらそーゆー年金がもらえるかどうかは知らん

というわけで、そもそもの設定自体が異常に嘘くさいけれども、これまで「大衆はバカだ」と下々のものどもを見下してきた朝日新聞がその辺の農民にアタマを下げて教えを乞うというストーリーがなかなか痛快であり、オレもこのブログで「いいじゃないか!」と時にその辺の論評をしてきたのだった(この辺とか)。

で、実はこのたびこの企画の新シリーズ「アロハで猟師してみました」というのがまた紙面で始まったので、おそらく検索をかけたヒトがこのブログに(約5人ほどw)迷い込んできたのであろう。確かにオレも新聞のほうでこの企画を目にして「お!また始まったか!」と喜んでいたのである。

ちなみに今回の設定は「コメばっかり作っててもオカズがないので今度は狩猟でもやってみっか」というものである。

いいじゃないか。

人間は他の生物のいのちを奪うことで生きている。それはもっといえば「人間の性、本来悪なり」みたいなところにもつながっており、これまで人間賛歌のヒューマニズムを高らかに謳ってきた朝日新聞が、こういう企画でそーゆー人間の一面を掘り下げていくのだとすれば、これはこれで面白い。

今後に注目だな。





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朝日新聞の名物記者が2014年から不定期連載していた「アロハで田植えしてみました」がいよいよ本当に完結してしまった。

この連載、最初は新聞記事にはあるまじきアナーキーな香りが漂っててスゲー面白かった。オレが前に書いたエントリーから再録すれば、この企画というのは↓

「会社に忠誠心なんてねーからオレ。仮に辞めなきゃならんハメになっても、田んぼ一枚ありゃ筆一本、ライターとして好きなこと書いて、どうにかこうにか食っていけるんじゃネ? つーことでオレ、田んぼ作ってみるわ」というノリで、長崎の田舎で朝日新聞の一流記者が田んぼ作りに挑戦するという初期設定

とゆーことで始まったのだった。

だが、それがなんか回を追うにつれて甘くなってしまった。

確か前回のシリーズは田んぼ作りの師匠が急逝してしまって「涙のお別れ」みたいな話になっておったし、最後は「田舎の小学生たちとの心温まる交流」である。新聞的なエエ話になってしまったのが気に入らん。

以前のエントリーではこんな注文を出しておいた↓


今後はぜひ初心に立ち戻り、地域の人々との心あたたまる交流路線は捨て、もうちょっとこう、なんというか、世の中に毒を撒き散らすような悪どい方向に歩んでいってもらいたいと切に願うのである。


そう、そのように切に願ったンだが、ちょっと残念であつた。

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