カテゴリ:UFO > ジャック・ヴァレの世界

第6章「羽根のある円盤」には、ヴァレの前著『マゴニアへのパスポート』を連想させるところがある。つまり、「天から訪れた存在」にまつわる観念というのは別に現代にのみ存在するわけではなく、その種のイメージは古代から連綿として伝えられてきたことではなかったか、ということを改めてヴァレは語っているのである。

まずここで紹介されるのは、古代のフェニキアで用いられたという円筒印章である。そこには「翼のついた円盤」が再三描かれている。その円盤からは神々とおぼしき者たちが顔をのぞかせていたりするし、動物が運び込まれているように見えるシーンもある。加えてそこには、背丈が普通の人間の三分の二ほどしかない、「サソリ男」と称される謎の生きものの姿も見てとれる。ヴァレはこう述べている。

古代における概念と現代における現象の間の類似性について、一連のシンボルを見ただけで完璧な仮説を打ち立てる、などということは不可能だ。何故なら、それらは多様な解釈を許すものであるからだ。にもかかわらず、そのような要素を根気強く探究し続けることには価値があるし、有翼の円盤というものは徹底的に考察されるべきなのである。

さらにヴァレは、このフェニキアの円筒紋章にまつわる一つのエピソードを紹介する。ロンドンでの講演会で、この「サソリ男」のことを話したヴァレのもとに、その講演を聴いたという女性から手紙が届く。1968年夏、友人の家で週末を過ごすべく、日中その家に向けて車を走らせていた彼女は、空飛ぶ円盤を目撃する。その直後から彼女の周囲に不思議な出来事が相次いで起きたのだという。以下は彼女の述懐。

そのあと、バーフォードとストラットフォードの間を走っている途中で、何やら衝撃的な――そして私がいまだかつて考えたこともなかったような洞察、「リアリティの本質」と言うしかないようなものについての洞察が閃いたのでした。それはこの輝いている円盤と何やら関係があるようで、それは私の心をとても深いところから揺り動かし、そしてよく「人格の変化」などと言われるものを私にもたらしたのでした。

そうした洞察がどんなものだったか、説明してみようなどとは思いません。だって、それこそは世界中のほとんどすべての宗教がこれまで説明しようとして、結局はかなわずにきたものなのですから。(その日の午後、私は神の存在など証しようがないという不可知論者=アグノスティックから、[神秘思想の」グノーシス主義者=グノスティックに転じたのです。

さらに、友人の家に着いたその日の夜。窓の外に彼女は不思議な生きものを見る。

それは生きものというべきなのか、動物なのか、人間なのか――いや私の見たものが何であれ、ともかく私の目に映ったものを西洋人である私がどう解釈したか(あるいは想像したか)といえば、それは疑いなく悪霊、ないしは悪魔なのでした。「サソリ男」と同様に、あるいは牧神のパン同様といってもいいのですが、それは犬、あるいはヤギのような脚をしていました。それは柔らかでフワフワした毛で覆われ、黒く輝いていました。それは間違いなく人間のかたちをしており、また私には邪悪な存在であるように見えました。


両者を同じ「サソリ男」として括ることが妥当かどうか、という気はするのだが、ともかく古代と現代とを貫くようにして或る種のイメージが観想されたということに、ヴァレは一つの意味を見いだしているようだ。

本章の最後で、ヴァレはもう一つの「時代を超えた普遍的イメージ」について語っている。それは「天空からさす光」というモチーフである。

空の一点から、あるいは奇妙な雲の中から人間に向けて発せられる不思議な「一条の光」というのは、あらゆる宗教の伝統の中にみてとることのできる主要なモチーフである。このビームはふつう、「祝福」のしるしで、神から発せられた教えを運ぶものとされる。

ここで紹介されているのは、米国の超能力研究家として名高いロバート・モンローの体験である。以下は1960年9月9日の夜に起きた出来事についての、モンロー自身の回想である。

突然、私はとても強烈な光線に覆われ、体を釘付けにされたように感じた。その光線は方角でいえば北、水平線から高度30度のところから来ているようだった。私は完全に力を失ったばかりか自らの意志も喪失してしまい、まるでとても強烈な力の真ん前にあって、それとただ一人で向き合っているかのような感じだった。

それは私が理解できないようなかたちの知性を有しており、それは(光線とともに、ということなのだろうか?)真っすぐ私の頭に侵入し、私のこころの中のあらゆる記憶を探っているようであった。この侵入に対しては無力で何をすることもできなかったために、私は非常に恐ろしい思いをした。

次いで9月16日の夜。

先に体験したのと同様の、人格なきものによる査察、同じ力、同じ角度から。ただしこのたびは、次に述べるような印象を明確なものとして抱いた。すなわち、私はこの知性体と忠誠心に基づく絆でいや応なく結びつけられている――いや、これまでずっと結びつけられてきたということ。そして私にはこの地上でなすべき仕事があるということ…。

次いで9月30日。

彼らは空高く昇っていってしまったようだった。私はその背後に、去らないで、という懇願の声をかけたのではあったが。そのとき、私は確信したのだ。彼らのメンタリティと知性は私の理解など遥かに超え出たものだ、と。それは人格的なものをもたない冷たい知性であり、われわれ人間がとても大事にしている「愛」とか「共感」とかいった感情は全く欠いているのだけれど、しかしひょっとしたら、それこそが、われわれが神と呼ぶ「全能なるもの」であるのかもしれない。思うに、過去の人類が体験してきたこのような「訪問」こそが、われわれのあらゆる宗教的信仰の基盤にあるのではないか。われわれが今日有している知識をもってすれば1000年前の人々に勝る「答え」を用意できる――などと考えるのは必ずしも正しくないのではないか。

1958年3月夜、アルジェリア・ボウアママの基地で、歩哨に立っていたフランス外人部隊の兵士が体験した出来事も、ヴァレは同根のものと見ているようだ。彼は、上空に出現した巨大な物体から光線を浴びせられたのだが、「その薄いグリーン色、エメラルド色はとてつもなく奇麗で、心を落ち着かせ、魅惑的な色合いをしていて、彼はそれまでそんなものを見たことはなかった」。そして、「その物体が去って男が正気を取り戻してみると、それまで感じていた幸福感、恍惚感は一転して悲しみに取って代わってしまった」。

最後をヴァレはこう締めくくる。

フェニキアの魔よけ、現代における「搭乗者」との接近遭遇、古代において天から降った光、UFOから対象に向けて浴びせられる光。こうしたものはすべて、物理的なものでありながら心霊めいた効果をももたらすテクノロジーの存在を示唆しているようにみえる。そのテクノロジーは我々の集合意識の深みに打撃を与え、我々を混乱させ、我々を鋳型にはめ込もうとしているのだ――たぶん、古代の終わりにあっては人類の文明を混乱させ、鋳型にはめ込んだのと同じようなやり口で。

(続く)

第5章「コンフロンテーション」でヴァレは、UFO研究の方法論にかかわる一つの提案をしている。UFO体験がいかなるものかによって、その情報の流通する領域というのは限定されてしまうという面がある。なるほど、あまりに奇っ怪な現象を体験したため、狂人扱いされることを恐れた目撃者は証言を拒む、といったことは容易に想像されるところである。

ここでヴァレは、アレン・ハイネックがその著書『UFO体験』(邦訳『第三種接近遭遇』ハルキ文庫)で提示した「奇妙度 Strangeness(奇妙さの程度)」という概念を援用し、「奇妙度」に応じて「その報告がなされる可能性」ならびに「その情報が誰に伝えられるのか」がどのようなパターンをかたちづくるかを整理している。ちなみに「その報告がなされる可能性」については、便宜的に「10人のうち何人が報告を上げるか」というかたちで表している。ここでは、本章に掲載されている表を若干言葉を補った上で転載してみよう。

「奇妙度」の
カテゴリー
実 例 報告がされる可能性(推定値) 通常「誰」に報告するか?
1 ホタルのように点滅する光 10人中1人 対象を選ばず誰でも
2 燃えるような物体の落下 10人中3人 警察
3 未知の乗り物 10人中4人
4 飛行していた物体の着陸 10人中2人 地域の「UFO研究家」
5 搭乗者 10人中1人 近親者
6 人間に対するビームの照射 ほとんどナシ 報告せず
7 リアリティ・ギャップ(ミッシングタイムの存在) ほとんどナシ *無意識下の体験は意識に上らない


ここで、「報告が上がってくる可能性」を縦軸、「奇妙度」を横軸にとったグラフを作ってみると「カテゴリー3」をピークにした山型ができる。報告の最終的な「宛先」として想定されるのは、奇妙度1~3であれば「科学者」ということになりそうだが、奇妙度2~5の辺だと「新聞」、奇妙度5以上ともなると特別な研究者に限定されてしまう。となると、「科学者」「一般市民」「軍部」といったそれぞれのカテゴリーごとに「入力」されるデータは異なってくるわけで、必然的にそれぞれのUFO像というのはバイアスがかかったものになっている、とヴァレは言う。彼はこれを「山型仮説」と称し、研究者はその辺に十分自覚的でなければならない、と言う。

科学者が手にすることのできるデータは、もっぱらある種のタイプのデータだけ(つまりそれはバイアスのかかったデータである)ということなのだ。同様にして、軍部も、アマチュアのグループも、現象の全体像をそれぞれ違った角度から受けとめている。そこで、より多くを知るためには、自分自身の見方が投影されたスタンスを変えるしかないのであって、実際、それこそがこれまで私のやってきたことなのだ。

さて、本章の後段では、ヴァレのもとに寄せられた2通の手紙をふまえての議論が展開される。一通目は、奇現象研究家として知られるジェローム・クラークからのものなのだが、彼は、「人間とUFOとの遭遇はUFOの側がコントロールした条件の下で起こる」というヴァレの仮説を退け、その種の遭遇譚は「目撃者に起因」しているという説――おそらくは、何らかの機制によって人間の内部から発したものがUFOとして出現するのだという「超心理投影説」を主張している(余談ながら、これはクラーク初期の仮説であって、「これでは物理的な痕跡などは説明できないではないか」と考えたクラークはのちにこれを撤回したようである)。ヴァレは、UFO現象を人間の内面の中で完結したものだとは考えないので、このジェロームの問題提起は一蹴してしまう。

問題は二通目である。これはサイキック現象に関心をもっているペンシルベニアの精神科医からのもので、その人物は、ヴァレが再三論及してきた「エイリアンがナンセンスな言葉を発するのは何故か」という論点について、こんなことを書いてきたというのである。

人間が不条理なもの・矛盾したものに混乱させられてしまい、その意味を何とか理解しようと模索している時、彼はきわめて容易に外からの影響――つまりは外部からの思考の侵入であるとか、サイキック的なヒーリング効果といったものの影響を受けやすくなってしまうのです。そのようにして伝達された思考というものは、それがどのようなものであろうとも、当然の如く彼自身の思考になってしまうのであり、それに抵抗することはできません・・・。

つまり、或る種の混乱状況に陥った人間は、そうした状況の中に「何とかして秩序を見出したい」という欲求にかられるものであって、そこにつけこむ者がいたとすれば容易に統制下に置かれてしまう。つまり「ナンセンスなことを語る者たち」というのは、自らの意のままに人間を動かすための前段階として敢えて意味不明のふるまいに出ているのではないか、という議論であり、この精神科医の言葉には頷けるところがあると考えたのか、ヴァレはこんなことを言っている。

UFOの「搭乗員」といわれる者たちも、これと同様の「迷路を抜け出す道」を目撃者に示そうとしたのではないか? そしてこの場合も、壮大なスケールで大きな変化を作り出そうという狙いから「混乱技法」が巧妙に用いられているのではないか?

そのような問いに答えを出すことができたとき、われわれは、ある種のUFOとの遭遇譚と秘密に包まれた社会への通過儀礼の間がなぜこれほどまで似ているのか(その点は秘教的集団の信仰について調査経験のあるような人間であれば誰であれ認めざるを得ないところだろう)、理解するためのヒントを得ることができるのかもしれない。

多くの目撃者たちが報告しているが、一連の新奇なシンボルを用いて「こころを開いていく」ことは、まさしく種々雑多なオカルトもまた伝統的に成し遂げようとしてきたことなのである。
ここで提示されたUFO体験といわゆる通過儀礼との類似性というのは、刮目すべき着眼であると思う。畳み掛けるようにして、ヴァレは、1969年5月、休暇中に釣りをしていてアブダクションされたブラジル人兵士、ホセ・アントニオのケースを紹介している(例によって詳細は省かせていただく)のだが、彼の体験は次に示すような典型的なイニシエーションのパターンに実によく似ている、という。

1 志願者は、特殊な衣装に身を包んだグループのメンバーにより周囲を取り囲まれる

2 彼は目隠しをされる

3 彼は腕を取られ、通るのが難しく険しい道のりを歩かされる

4 彼は特殊な意匠の部屋に通される。そこには窓もなく、彼はその部屋のごく一部しか見ることができない

5 彼は「マスター」の面前に引き出される

6 彼は試験を課され、質問にこたえるよう求められる

7 彼はさまざまなシンボルを見せられる。そこには彼に「死」を思い起こさせるようにとの意図がある

8 彼が試練を乗り越えて生き延びることは不可能だと思わせるほどの厳しい状況がしつらえられる

9 彼に儀式のための食物が与えられる

10 目隠しが再びなされ、彼は導かれて外に出る
荒唐無稽な事例、奇妙度の高い事例というのはすなわち、敢えて人間を混乱の極に追い込み、そこから新たな世界への参入を強いるための一つの必然として仕組まれたものではないのか――ヴァレが本章で示唆しているこのようなアイデアは、実に熟考に値するものだと思う。(続く)

4章「OEMIIのはたらき」で俎上に載せられるのは、いわゆる「ウンモ事件」である(なお、章のタイトルになっているOEMIIというのは、ウンモの言語でいうところの「人」という意味らしい)。

これはオレの勝手な印象なのだが、この章からも、通奏低音のようにして本書を貫いている一つのテーマを読み取ることができるような気がする。オレとしてはこんな風に言ってみたい――確かに不可解な「何か」が起きている。ただし、そこには同時に何とも疑わしく、詐術めいた要素もあまたある。それこそがUFO現象なのだ、と。

・・・少し先走ってしまったようだが、さて、このウンモ事件もUFOマニアの間ではよく知られている。1965年頃から、「ウンモ星人のユミット」と名乗る者がスペインに住む人々を中心に次々と何千通にも及ぶ手紙を送りつけてきて(あるいは電話ということもあったようだが)、彼らの文明や進歩したテクノロジーなどに関する様々な「事実」を伝えてきた――という事件なのだが、ここで一つ注目しなければならないポイントがある。「署名」という意味なのか、その手紙には「Ж」とか「王」だとかいった文字に似たマークがもれなく記されていたのだが、一方ではそのマークのついたUFOが実際に目撃されるという出来事も実際に起きていたのである。

本章ではまず、そのような目撃事件のひとつが紹介される。1967年6月1日、マドリードで「例のマーク」のついたUFOが着陸したとされる事件である。ここではその詳細は省かせて頂くが、ヴァレは、この事件に関連した興味深いエピソードを伝えている。この事件後、中が空洞になった金属製の円柱が複数落ちているのが一帯で発見された。これを入手した研究者がこじあけてみると、中には「例のマーク」が刻まれたプラスチック片が入っていた。分析調査の結果は、何とも謎めいたものだった。そのプラスチックを当時製造していたのは唯一米国のデュポン社だけ。しかもそれは一般には出回るはずのない「軍事用途」の製品だったというのだ。

一方、事件から数日後、現場周辺の商店主たちのもとに謎の手紙が送られてきたという話もある。「この円柱をもっている人がいたら科学研究のため一個1万8000ペセタで買い取りたいので、周囲に触れ回ってくれ」という趣旨の手紙だった。ただし、調べても送り主に該当する人物の実在は確認できなかった――。

何ともミステリアスなこんな導入部に続き、ヴァレは、ウンモ事件のキーマンの一人であるフェルナンド・セスマ・マンザーノにスポットを当てる。

彼はマドリード在住で、1954年にUFO研究団体「宇宙の友協会」を設立して活動を続けてきた人物であった。1965年1月、そうやって宇宙人とのコンタクトを夢見てきた彼の身辺に一大事が起こる。外国語なまりのスペイン語で話す男から電話がきて、「地球外からの指令に従って近々ある品物をそちらに送るつもりだ」と言ってきたのである。以来、タイプライターで打たれた大量の文書がセスマをはじめとする研究者たちのもとに届くようになる。彼らは自らを地球上で空飛ぶ円盤を飛ばしている惑星ウンモの住人である、と称していた。

さらにヴァレは、ウンモ星人の手になるものとされる手紙を幾つか引用している。少なくともその手紙を読む限り、ということになるのだが、ここで少々気になった点がある。興味深いことに、彼らは「自分たちの主張は容易に受け入れられないだろう」といった醒めた認識をもっているようなのだ。いささか長くなるけれども、手紙の一部を以下に引いてみよう。


このメッセージが、浮世離れした形而上学的なものと受け取られることは我々にもわかっている。そうした性格をもつ文書が、通常どのような者によって書かれるかといえば、およそ次のような者たちである――イカサマ師。常軌を逸した観念にとらわれた狂人。あるいは、以下は「可能性がある」というレベルでの話だが、ジャーナリストや広告マン、政治的な目的をもったエージェント、そして自らのグループの利益になる情報を流布させようという異教・宗教にかかわる団体、といったものである。

我々がこの文書を――それは我らを助けてくれている者たちの一人によってタイプされたものであるが――あなた方に送っているのは、もっともっと多種多様な証拠を示すこともなく、こうしたパラグラフを幾つか読んだだけでともかく我々の言うことを信じてもらおう、などと目論んでいるからではない。

我々がいまあなた方に対して行っているような、節度を守ったコンタクトの試みが大きな変化を引き起こすことはないだろう。それ故に、我々としては、そうしたの試みが懐疑的なまなざしでみられるのはごく自然なことだろう、と予期しているところである。

以下は、これとはまた別の手紙。

これは厳しく忠告したいことであるわけだが、あなた方が自らの宗教や科学、そして政治経済について抱いている観念を我々のそれへと切り替えるようなことは、我々としてはこれっぽっちも望んでいない。そのような忠告をする理由は、あなた方自身も理解できるだろうと思う。

まず第一に、我々があなた方に与えた情報というのは、純然たる「記述」でしかない。我々は、「なぜそうなのか」という根拠であるとか、理論的なバックグラウンド、それらを支える証拠といったものを欠いたまま、そうした情報をあなた方に贈った。

が、もしあなた方が我々の思想・概念・語ったことを額面通りに受け取り、しかも地球における「先生方」がその知識を頭の中で作り上げた「星座」の如きものに仕立ててみたところで、そのようなものを取り入れようという試みはうまくいくはずがない。もしあなた方がそのようなやり方で行動を起こしたとしたら、それまでの社会に具わっていた日常的なリズムや、あるいは地球の未来を担うであろう文化といったものは完膚なきまでに変貌させられてしまうことだろう。

それは、これまで当然のものとしてあったテクノロジーの働きを改変してしまい、今ある地球社会のバランスを毀損してしまうことにもなる。あなた方の社会構造に「革命」を起こそうというのなら、それは然るべき社会的ネットワークが指し示す合図に従って整然となされねばならぬだろう。我々の分有している宇宙倫理は、どんな結果を呼ぶか予測のつかない特別な環境に於いて、他に介入するようなことは禁止しているのだ。


しかし、こうした引用を読む限り、「ではなぜこのようなコンタクトを試みているのか」がよくわからない。ヴァレ自身も、例のプラスチック片が「軍事用」だったことに触れ、いったんは情報機関の「演習」のために軍当局がこの事件を仕組んだ可能性に論及している。ただヴァレは、そのような「陰謀論」めいた説を退けるようにして、こんなことを言う。


私は、やはり未解決でマークのついたUFOの出てくる、もう一つの有名な事件のことを考えていた。1964年、ニューメキシコ州のソコロで、警官のロニー・ザモラは、砂漠の中に卵形の物体を発見した。その近くにはかなり背の低い2人の人物もいた。この乗り物の一方の側に、彼は奇妙な赤いサインがあるのを見た。それは垂直の矢印と、その下に平行に走る横線とから成っていた。このサインについては、いまだかつて十分な説明がなされたことがなかった。

ある日の午後、スタンフォードの友人を訪ねて会話をしている時に、民俗学と神話学の話を持ち出してみたことがあった。ソコロのシンボルについて私が説明をしてみせたところ、彼はいたく興味を引かれたようだった。彼は、そういえば何か似たものをみた覚えがある、と言った。膨大な書籍をさんざん探しまくったあげく、彼は中世のアラビア語の文献のコピーをみせてくれたのだが、そこには主な惑星のシンボルの一覧表が載っていた――見間違えるまでもなく、そこにはザモラの見たマークがあった。それはアラブにおける金星のサインだったのだ!

或る種の宗教性を帯びたシンボリズムが登場していること自体、ここには何かよくわからない深遠な意味があるのではないか、ということかもしれない。かくてヴァレは、こうした事件が「人間の信仰を操作する」意図で何ものかによって引き起こされている可能性を示唆して本章を締めくくる。

事実として言えるのは、人間の信仰というのは、物理的な手段・象徴的な手段のいずれによっても操作されうる、ということだ。そして、それが悪戯めいたお遊びなのか、心理・社会的なテストなのか、悪意のある陰謀なのかは定かでないとしても、この信仰の操作というのは明らかにウンモの目標の一つでもある。

先に見たウンモ文書は「人間の宗教に介入するつもりはない」と明言していたけれども、それを額面通り受け取ることはできない、ということか。信仰の操作。これは、やがてヴァレの議論の一つのキーワードともなっていく。(続く)





第3章「文書館のメモ」のテーマは、簡単にいうと、人間と、宇宙にいる「至高の存在」とのあいだの「チャネリング」をめぐる問題である。

冒頭部では、まずユリ・ゲラーが登場する。米国の超心理学者で、一時期ゲラーの能力についての研究に取り組んでいたアンドリア・プハリッチの著書『ユリ』(邦訳:アンドリヤ・H・プハ-リック『超能力者ユリ・ゲラー』1974年、二見書房。井上篤夫訳)の記述などを引用しつつ、ヴァレは彼と「UFO」との関係を論じていく。

これは1971年、プハリッチがゲラーに催眠術をかけた時のことなのだが、ゲラーは3歳の時にUFOと遭遇した体験を語り出す。加えて同じセッションの中で、とつぜん空中から「声」が聞こえてくるという怪現象も起こる。その声は「宇宙的知性」からのもので(ちなみにその存在は「スペクトラ」と名乗ったようであるが、これは彼らの宇宙船の名前でもあるらしい)、自分は3歳のユリを見出して彼に「プログラム」を施した者である、などと語ったのだという。要するに、ゲラーの「超能力」は彼らによって授けられたものだ、ということなのであろう。

この後もプハリッチとゲラーのもとには、机に置いておいたテープレコーダーに自動的にスペクトラの声が録音される、といったかたちでメッセージが再三寄せられてきた(ちなみにそうしたテープはいつの間にか「消滅」してしまうのが常で、従ってその音声は現存していないのだという!)。一言でいってしまうと、このスペクトラは、自分たちの有する叡智を人間に伝えるべく、何百万光年もの彼方からはるばる地球までやってきている、というのである。

続いて語られるのは、1959年に起きた「AFFA事件」である。これは当ブログでも以前紹介したストーリーなので詳細は省くけれども、要するに、海軍の軍人が自らチャネリングを試みていた最中、その宇宙人に「姿を見せてくれ」といったら本当に円盤が現れ、複数の軍人がそれを目撃した――という触れ込みの事件である(ちなみに、この「AFFA」というのは、チャネリングの相手方の天王星人の名前である)。

高次の超知性体のようなものが地球外にいて、そこから何やらとても有り難い啓示がもたらされる――といった話は確かにある。その際、何やら理解を超えた超常的な現象が起きることもあるのかもしれない。過去の歴史の中にも同種のものはあったということなのだろう、ヴァレはここで、1581年、英国のオカルティスト、ジョン・ディーのもとに光り輝く存在が現れ(それは「天使ウリエル」を名乗ったという)、「ありとあらゆる未来の秘密を明かしてくれる」水晶を渡してくれた、などという話も紹介している。しかしながら、そこで語られる「啓示」が本当に「有り難い」ものであったためしはないし、彼らが「人間より高位の存在」だという証拠などない、そうヴァレは言うのである。


私の考えによれば、ゲラーやその他の「物言わぬコンタクティーたち」が、我々が通常用いている言葉によっては十分に説明のつかないような現象を引き起こしている可能性がある、というのは真実だと思う。

また、科学者であれ科学者以外であれ、情報やパワーの源泉たる「高次の存在」に触れ得た人々を納得させるような方法がみつからないうちは、こうした現象を解明したということにはならない、というのも否定できぬところである。

しかし、ここには危険が潜んでいる。というのは、歴史的にみれば、その種のメッセージが、その時点でまだ知られていなかったもの、あるいは人間がその知性により把握していなかったものを開示した、などということは一度として無かったからである。


UFOと関連して語られる「超知性体」も、真実や叡智を語っているわけではないようだ。我々を訪れるものたちの存在をとりあえず認めるとしても、彼らの言葉は全く信用するに値しない。本章でヴァレが説いているのはそのようなことなのだろう。かくて論点は、再びUFO現象の不条理とバカバカしさというものに帰着していくのである。(続く)




第2章「三重の隠蔽」では、これまでとはやや違った角度からの議論が展開されている。そもそもUFOをめぐる研究調査が遅々として進まないのは何故か。それは、この問題に対して或る種の「隠蔽」がなされているからではないか。そんな視点から、ヴァレはここで3つのレベルの「隠蔽」を指摘する。

第1の隠蔽とは何か。それは「権威ある立場にいる人々がUFO事件の報告が上がってくるのを妨げ」「目撃者たちに目撃談を語るのをはばからせているような圧力」のことである。要するに、当局は「我々にはすべてわかっている、UFOというのは誤認の産物だ」と主張することで人々の口を封じ、問題を隠そうとしているというのである。

そのような文脈で、ヴァレは1966年にミシガン州で起きた「沼地ガス事件」を取り上げている。要するにミシガン州でUFOの目撃が相次いだ事件なのだが、「プロジェクト・ブルーブック」から現地に派遣された科学顧問のアレン・ハイネックが、コメントをしつこく求めるメディアに対してとりあえず「目撃者の中には沼地のガスを見誤った者もいるかもしれない」といったステートメントを発したところ、大衆・メディアが「事実を隠蔽するのか!」といって騒ぎ出した、というストーリーである。のちに「正体不明のUFO現象というのは確かに存在する」というスタンスを取ったハイネックが矢面に立ったという意味では非常に皮肉な事件だったのだが、そもそも最初から「プロジェクト・ブルーブック」はやる気がなかった、ということをここでヴァレは書いている。

一方、この事件なんかも後押しするかたちとなって、1966年、大衆の突き上げを食った米空軍は「コンドン委員会」なる科学調査組織を立ち上げる。ところが委員長のエドワード・コンドンからして、やはり全然やる気がない。最終的に出された「コンドン報告」は「過去21年間のUFO研究から科学的知識は全く得られなかった。これ以上UFOの研究を続けても、おそらく科学の進歩に貢献することはないだろう」という煮え切らない結論を出して解散したのであるが、ヴァレは、結局のところ、こうした事態も「第1の隠蔽」が生み出したものだったというような事を言っている。

では「第2の隠蔽」は何かというと、ヴァレは「目撃者が証言を語り出した時点における〈説明〉の捏造」だという。ここではその実例として、1973年12月2日にフランス・カルトゥレの海岸で起きたUFOの目撃事件を挙げている。詳細は省くけれども、目撃者がせっかく名乗り出たのにも関わらず、警察はその証言を無視して、トンチンカンな説明をした揚げ句に「謎は解明された」といって事件を終結させてしまう、そのようなケースである。

そして「第3の隠蔽」である。これは「この現象自体に組み込まれている〈人々に沈黙を強いる〉メカニズム」であるという。ちょっとわかりにくいのだが、UFO現象にはあまりにも馬鹿馬鹿しく不条理な側面があって、結果的に目撃者をしてその体験を語ることを躊躇させてしまうような部分が最初からビルト・インされている、ということを言いたいらしい。

ちなみにこの文脈で紹介されているのは、1967年12月3日、ネブラスカ州アシュランドでハーブ・シルマーという警官がアブダクトされた事件であるとか、1954年に「ガーディアン」と名乗る宇宙人からのチャネリングで「大災害近し!」という荒唐無稽な予言を受け取ったものの、もちろん予言は成就せず、ハシゴを外されたセクトの話――「キーチ夫人」という仮名で登場する女性が率いたこの団体の消長は、社会心理学の名著『予言がはずれるとき』に詳細に記録されている――である。

さて、これはヴァレ自身がハッキリ言っていることではないが、第1、第2の隠蔽を意図しているのがいわゆる「政府当局」であるのに対して、第3の隠蔽を仕組んでいる「主体」が仮に存在するのだとすれば、それは「UFO現象を引き起こしているもの」ということになるのではないか。このあたりの議論は、本書で彼が何度も繰り返すUFO現象の「不条理性 absurdity」という問題とも深く関連してくる。なぜUFOは、わざわざ目撃者を混乱させ、陥れるが如きことをするのか。これもまた本書における一つの大きなテーマなのである――あらかじめ言っておくと、ちゃんとした答えは得られぬまま終わるのだけれど。(続く)

さて、第1章「サイキックにかかわる要素」で語られているのは、イントロダクションでも論及のあった「UFOとサイキック現象との間には深いつながりがあるのではないか」という議論である。たとえば彼はこんなことを言う。

多くの目撃者は「頭の中にハッキリとしたメッセージを受け取った」という報告をしており、彼らはそれをUFOの搭乗者たちの側にテレパシーの能力があることの証左として受け取ってきたが、この他のサイキック現象としては、目撃者たちが言うところの時空間の歪み、「物理的に存在していた乗り物が突然消えたり出現したりする」といった、いわば物理法則が破綻してしまうような現象もある。イントロダクションで触れたエンジニアのように、近接目撃をした人たちはしばしば「別の時の流れへの旅」とでもいえるような体験を報告している。こうした観察体験が、私がここでUFO現象の「サイキック的な要素」と言っているものの内実なのだ。

 多くの事例にみられるそのサイキック的な側面というのは、そこには目撃者と現象との間を直接取り結ぶ超感覚的コミュニケーションがあり――つまり、通常の物理学の手法では説明不能なかたちで、その現象が目撃者に直接の影響を及ぼしていたことを示唆するのである。

 ヴァレはそのような事例として、或る医師――ここでは「ドクターX」としている――が、南フランスにある自宅で体験した事件を紹介している(フランスの研究者、エメ・ミシェルの報告によるものだ)。

 1968年11月1日の深夜、就寝中の彼は、1歳2か月になる赤ん坊が泣き叫ぶ声で目をさます。窓の外には稲妻のような光がきらめいていたので、窓を開けてみたところ、そこには白い光を下方に放つ円盤が2機、滞空していた。2機はやがて合体し、彼に向けて白いビーム光を発し、それから姿を消した。

 さて、問題はここからである。彼は数日前に負ったケガで脚部に大きな血腫があったのだが、事件後、なぜかそれは消えてしまっていた。加えて、彼にはアルジェリア戦争の時の負傷がもとで「片側不全麻痺」の症状が出ていたのだが、これも完治していた。また、へその周囲には原因不明の赤い三角形のシミが現れた。不思議なことに、同じ三角形のシミは赤ん坊の腹部にも出現したのである。

 それだけではない。

その医師と夫人の性格には変化がみられた。つまるところ、夫妻は人の生き死にについてほとんど神秘主義といってもいいような考え方をするようになり、以前から夫妻を知っていていた人たちを戸惑わせた。そして、ついには彼らの周囲で超常現象のようなものが起きるようになり、それは今もなお続いている。テレパシー的な出来事はしばしば報告されており、また件の医師は、少なくとも一回、自らはコントロールできないかたちの空中浮遊を体験したとも言っている。時計や電気回路にも、一見したところ原因不明の異常が起きるようになった。


さて、ここまで論じてきたところで、ヴァレは若干脱線するかのような話を始める。UFO体験における目撃者と「搭乗者」との間には、しばしば意味不明のトンチンカンな会話がなされることがある、というのである。

 たとえば、「搭乗者」と出会った目撃者が「いま何時か?」と聞かれる。そこで「2時30分だ」と答えると、相手からは「冗談だろ。いまは4時ちょうどだ」という返答が戻ってきた。そんな事例がある(ちなみにこれは1954年10月20日、フランスのラオン・レタージュで起きたものである)。こうした一見馬鹿げたやりとりの背景には、表面的なコミュニケーションを超えた、何か隠されたメタ・メッセージがあるのではないか。ヴァレはそんなことを示唆しているようだ。

私は、いま多くの円盤狂の人々の間に流布している「UFOは他の惑星から来た人々が乗っている乗り物である」といった考え方はナイーブに過ぎると考えている。それは、搭乗員のふるまいやその人間に対する関わり方があまりに多岐にわたっていることを説明するにはあまりに単純すぎるのだ。こうした観念は、目撃をもたらしているテクノロジーの真の姿、もっともっと複雑な本質を隠蔽するための、まさしく目くらましとして機能しているのではないか?

 いささか唐突にこんな論点を持ち出したヴァレの真意を自分なりに推測してみたいのだが、おそらく彼はこんなことを言いたいのではないか――ここでは我々が当然のものとして受けとめている日常的な論理は破綻している。UFO体験は「この世界」のロジックが崩壊したフィールドを生み出してしまう。という意味では、このような「馬鹿げた会話」も「サイキック現象」も、いずれUFO現象の本質に深く根ざしたものであるに違いない……

ともあれヴァレは、ここまでの議論を踏まえ、或る種の作業仮説ということなのだろう、次のような五つの命題を提示する。いずれもUFO問題についてのヴァレの基本スタンスを示すものであるといってよかろう。


1. われわれが未確認飛行物体と呼んでいるものは、じつは「物体」ではないし「飛行」もしていない

2. UFOは過去の歴史を通してずっと目撃され続けてきたものであり、それは、古代にあっては「神々」、中世にあっては「魔法使い」といった風に、一貫してそれぞれの文化の枠組みに応じた説明を受けてきた

 3.UFOの報告事例は、必ずしも「宇宙を旅してきた者たちによる訪問」によるものだとは言い切れない

 4.この現象を理解するためのカギは、それが目撃者のうちに引き起こすサイキック効果(あるいはそれが生じせしめる超能力の覚醒)の中にある。目撃者たちの生活はしばしば大きく変化し、また彼らは自分でも時に取り扱うのが難しいような異常な才能を開花させたりもする

5. UFO現象とそれを知覚した人間との間のコンタクトというのは、つねにUFOの側によってコントロールされた条件のもとに生じる


 本章の最後で、ヴァレは有名な「デルフォス事件」に触れる。1971年11月2日夜、カンザス州デルフォス近郊のジョンソン農場にUFOが着陸したとされる事件で、その場所には「白いリング」が遺されていた。これは或る種の「物証」だということで、その白い物質の分析が行われた。ヴァレによればそれは「ノカルジア菌」であることが判明したというのだが、それはそれとして、このUFOの出現時、目撃者の少年と農場にいた犬は「その場にくぎ付けにされたように」動けなくなり、その少年は「人間のような生きものが窓の外から家をのぞき込んでいる」夢を見るようになったのだという。

つまりヴァレとしては、UFOというのは、何らかの物理的痕跡を遺しつつ、同時に生物の心理・精神状態に深刻かつ不可解な影響を与えるものである、ということを言いたいのであろう。むろんデルフォス事件についていえば、「悪夢というのは奇怪な物体を目撃したことによって当然生じるであろうトラウマに拠るもので、別に不可解ではない」といった見方もできるだろう。だがヴァレは、話はそう単純ではないと説く。サイキック現象を励起したり、魂の根源を何かしら大きく変成させてしまうような巨大な力をUFOは秘めている、というのが彼の基本的なスタンスなのである。(続く)

では、まずは「イントロダクション」を見ていこう。

前口上でも述べたように、ヴァレの問題意識の中では、UFOというのは、単に「宇宙船」という言葉でイメージされるような物質的側面を有するのみならず、人間の精神のありようにダイレクトな影響を及ぼす現象でもある、ということになっている。たとえば、彼はこんな風に語っている。

UFOと呼ばれているものが我々の日常のリアリティの中に姿をみせるとき、それは我々が測定できるような質量や慣性量をもち、或る空間を占有している物理的実体としての側面と、少なくとも体験者の一部が確かに知覚した「別のモードのリアリティに向けて開かれた窓」という側面とを有しているのだと私は考えている。

そうした文脈で、彼はUFOにともなう「サイキック効果」だとか「スピリチュアル現象」に注目する。どういうことかといえば、UFOは

その場に突如出現したり、あるいはスピリチュアリストの文献で言うところの「非物質化」という表現を想起させるようにして「消失」したりする。

あるいは、「空飛ぶ円盤との遭遇の結果、「自らの存在」や「未来」に関して何とも突拍子のない信念や思想を広く語り出すにいたった」人々がいる、という。なるほど「宇宙哲学」みたいなものが大好きな所謂コンタクティーならずとも、UFO体験によって「高邁な真理」のようなものを体得したり不思議な能力を身につけたという人たちはけっこういるので、こうしたヴァレの主張は頷ける。

実際、この「イントロダクション」でも、そんな体験をした或る人物の体験談が紹介されている。アブダクションされたそのエンジニアは、何やらコンピュータのようなものが据えてある場所に連れていかれ、そこにとりつけられた「記録テープ」から脳に直接なにかを「注ぎ込まれる」。以後、睡眠時間は2、3時間で済むようになり、いったん覚えたことは忘れなくなった。病気にも一切かからなくなったし、幽体離脱やテレパシーの能力も身についた。おまけに彼は、「UFOを飛ばして外宇宙からやってきた存在は人間の言っている様な意味での宗教はもっていないが、永遠の愛の中に生きている」といった、何やら抹香臭い話までし始める。

そういえば、かの「超能力者」ユリ・ゲラーも(今はどうかしらんが)自らの能力は高次の宇宙存在から授けられた、という意味のことを言っていた。もちろんヴァレは、「UFOは地球外からやってきた」などという話は歯牙にもかけないのであるが、ともかくこのエンジニアだとかゲラーの体験はUFO問題の本質とどっかつながってるのではないか、と考える。話を先取りして言うと、こうしてヴァレは本書の3章・8章でゲラーを論じることになるのだった。

重ねていうと、ともかくUFOには通常の科学では今のところよくわからない現象――つまりスピリチュアルであるとかサイキックだとかに関係する要素がある。さらにいえば、そうした経路を介して、UFO現象は人間の精神面をコントロールしようとしているのではないか。本書の核心である「コントロール・システム」論は、このような流れの中で登場してくるわけである。(続く)








長年読めずに放置してきたUFO研究家、ジャック・ヴァレの著書『見えない大学 The Invisible College』(1975)をこのほどようやく読み終えた。どうせなので、その内容をかみ砕いて当ブログでしばし紹介していこうと思っているのだが、今回はそれに先だっての前口上である。


UFO研究の大御所として知られるヴァレの主著として多くのUFOファンがまず挙げるのは、『マゴニアへのパスポート Passport to Magonia』(1969)であろう。20世紀の神話として語られてきた空飛ぶ円盤――すなわちUFOと、その「搭乗者」というのは別に現代にのみ特有の存在ではなく、過去の妖精譚などにおいても同様な存在は報告されてきた。つまりそれは超時代的な怪異として理解されるべきではないか――というのがその主張のキモであった。



これは、見方によっては「古代から宇宙人は地球を訪れていた」という、いわゆる「古代宇宙飛行士仮説」を支持する説と混同されがちなのだが、ヴァレの真意はそのようなものではない。いわゆる「UFOとその搭乗者」は、「宇宙人」といった物理的存在には還元できない超常現象の文脈で理解されるべきだ、というのが彼の主張であり、「UFO=外宇宙から飛来した宇宙船」という今もなお根強く残るステレオタイプに反旗を翻すものとして『マゴニアへのパスポート』は1970年以降のUFOシーンに衝撃を与えてきたのだった。

さて、そんなヴァレが、『マゴニアへのパスポート』から6年を経てさらなる新境地を切り開いたのが、この『見えない大学』であった。ちなみに同書は最初米国で出版されたのだが、のちに英国では『The Psychic Solution』という書名で刊行されている。確か『The Invisible College』という書名の本が英国では既に出ていたので、やむなく改題したものと記憶している。

さらに余計なことをいうと、『見えない大学』というのは、ヴァレなども参画していた「ひそかにネットワークを作って世間から認知されにくいUFO研究に取り組んできた科学者グループ」の呼称だということで、確かに本書にも、その辺を絡めて「科学界のUFOに対する取り組みは如何なものか?」という問題がサブテーマとして論じられているのだが、何だか書籍のネーミングとしては「外している」感が否めない。小生も「この本は科学論がテーマなのかしらん? そんならいいヤ」と思って長年読まずに放置してきた経緯があり、その点ではミスリーディングな書名である。

閑話休題。では、この『見えない大学』でヴァレはどのようなことを説いているのか。まずはとりあえず大雑把な見取り図のようなものを示しておこう。

本書における最も重要なキーワードは「コントロール・システム」である。これは実に不可解というか、理解しがたい概念なのであるが、彼によれば、UFOというのはエアコンのサーモスタットにも似て、人間の精神世界を或る種の平衡状態に導く「仕掛け」として機能しているのだという。当然「誰が・何のために・どのようにしてそんなシステムを動かしているの?」という疑問が生じる。正直いうと、その辺は小生もいまだによくわからないのだが、ともかく「物理的に存在する宇宙船」などと決めつけることのできない何ものかがUFO現象の核心にある、とヴァレは言うのである。

いや、誤解されそうなのでここで慌てて言っておくのだが、もちろんヴァレも、地上に残るUFOの着陸痕だとかレーダーによる探知といったものは確かに存在しており、つまりUFOには物理的現象としての側面はある、と考えている。そうした側面は確かにあるんだが、しかし同時にそこには非物質的な側面もあり、さらにいえばUFO体験を通じて「オレは宇宙の真理を体得した」的な、いわば宗教的回心に至るような人物も出てきてしまうことを考えあわせれば、UFOというのはスピリチュアルなレベルでも人間に作用する現象であると言うのがヴァレの議論である。禅問答のようではあるけれども、何かここで深遠なことが言われているような気にさせるのがヴァレの真骨頂である(笑)。

このような文脈で、本書では「スピリチュアル」やサイキック現象といったものとUFOとの関連性が説かれており、それ故に「超能力者」ユリ・ゲラーや、通常は宗教的奇蹟の文脈で語られる「ファティマの聖母」や「グアダルーペの聖母」の話、さらにはモルモン教の創始者ジョセフ・スミスの証言なども出てくる。いわば、そのような人類に対する干渉を束ねるものとして「コントロール・システム」なるものが存在している、というのが本書の結論なのだ。

あと、念のため言っておくが、ヴァレには1988年に刊行した『Dimensions』という本があって、こっちは端的にいうと『マゴニアへのパスポート』と『見えない大学』の内容を編集し直して1冊の本に仕立て直したような体裁の本である。「原稿の使い回しではないか」という突っ込みはありうるが、そういう本を改めて出しているということからいえば、ヴァレ自身にとっても、「『マゴニアへのパスポート』『見えない大学』で言っていることは、大事なことなので二回言いました」という思いがあるのかもしれない。実際、このまえコリン・ウィルソン『エイリアンの夜明け』を読んでいたら、彼もこの『見えない大学』という本をとても高く評価していた。

エイリアンの夜明け
コリン ウィルソン
角川春樹事務所
1999-03


というわけで長い前口上になってしまった。次回からは各章の内容をかいつまんで紹介していきたい。(続く)


これは当ブログでもチラチラと触れている話なのだが、オレはこのブログとは別のサイトで、ジャック・ヴァレの円盤本を翻訳して掲載するプロジェクトをやっている――というか、やっていた。

もちろんしょせん素人の仕事なので、その翻訳というのは相当にズサンなものである。あるけれども、円盤業界の大立者と言われているにもかかわらず、国内でほとんどヴァレの仕事が知られてないのは如何なものかという「義憤」もコレありで、「大体のところがわかりゃいいじゃねーか」的なノリでいろいろと訳しまくっていたのだった。

しかし、或るときふと気づいた。これは「翻訳権」なるものを侵害しているんではないか? 著作権というのは何やらよくわからんので、とりあえずサクッと調べた。すると、「存命の著作権者の了解を得ずに勝手に翻訳をしてネットに公開をする」というのは法的にはまったく情状酌量の余地のない行為であるということがわかった。

たとえばパスワードをかけて、不特定多数の目に触れないような小細工をしてもダメらしい。ともかくネット上にアップした時点で何をしようがダメなのだという。

うーむ、ヴァレのエヴァンジェリストを気取ってはみたが、やっぱりこれは宜しくないのか、仕方がない。というわけで、その後、サイトの表紙のページだけ残して中身は泣く泣く全部削除した(正確にいえば、「マゴニアへのパスポート Passport to Magonia」にかんする「解題」というのは自分で書いたものなので、未練タラタラでそれだけは残してあるんだけどネw)

それでも、「何とか抜け道がないだろうか」とさらに調べてみたのではある。すると、ひとつだけ希望の光があった。それは著作権法ギョーカイでいう「翻訳権の10年留保」という規定である。

実は、1970年まで適用されていた旧著作権法には「著作権者原著作物発行のときより十年内に其の翻訳物を発行せざるときは其の翻訳権は消滅す」という規定があった。平たく言うと、「原著が出てから10年たっても日本で翻訳出版が出なかった場合、その本の日本における翻訳権は消滅しますよ」という話であって、つまりそういう本は著作権者の了解ナシで勝手に本にしてヨロシイというのだった。これが世に言う「翻訳権の10年留保」。

本を書いた当人にとってみりゃあ「なんとまあ勝手な」ということにもなるんだろうが、いろいろ理由もあって(そこのところはここでは触れない)ともかく日本国内のそういう決め事は国際的にも認められていた。で、新しい著作権法ができたのちも、「1970年12月31日以前の出版物」に限ってはこの「翻訳権の10年留保」は有効だからね、ということになっているんだそうだ。

するとどうなるか。ヴァレの本の中でも「Passport to Magonia」は初期のもので、何と1969年の刊行である。そう、何と「翻訳権の10年留保」の対象作品なのですよ!

「そうかそうか、じゃあ大手を振って翻訳をアップできるじゃねーか!」と一瞬思ったのだ。しかしながら、念には念を入れてネットで調べてみると、どうも雲行きが怪しい。「翻訳権の10年留保」に該当する作品は、確かに自由に「翻訳して出版する」ことができる。でも「ネット上に翻訳をアップする」ことはフリーなのか? 何と、「そういうのは出版とは違うからフリーじゃない。アウトだ」という議論もあるらしい。何だか理屈がよくわからんのだが、どうもそこら辺はグレーゾーンらしい。

ため息が出た。ともかく「ネットにアップする」という行為に対してこの国はイチイチ目くじらを立てるのである。まったくもって、日本という国はそんなことでこれからのネット時代を生き残っていけるのかと悲憤慷慨したくなるゾ。

もちろん「ネットに上げても問題ナシ」とか書いてる人もみかけるし、そういや山形浩生氏なんかも「プロジェクト杉田玄白」とかいって著作権切れの外国の本を翻訳してネットに上げる運動をしていたなと思いだし、こうなりゃヤケクソで再アップしてやろうかと思わんではないけれども、でも、オレは小心者なので何か気持ち悪く、そこンところはとりあえず自重しているのである。

ま、しかし。冷静に考えてみると、そんなテキストをアップしたところで、気にとめていただける円盤フリークの方は、今や全国で数十人(笑)ぐらいではないのだろうか(逆に言うと文句を言ってくるヒトだって多分いないだろうなーという気がする)。要するに誰からも無視される営みというやつであって、寂しいけれども、そのあたりがまた円盤業界の凋落というものなのかなぁとシミジミ感じ入るオレなのであった(完)。

■追記

と、そんなことを書いていて思い出したのだが、そういえば以前、チャールズ・フォートの『呪われしものの書』(仮。原題はThe Book of the Damned)を誰も訳してくれんのはどういうことか、くそう腹立った、じゃあオレがやってやる――的な意気込みでこのブログに冒頭部分を訳して載せたことがあったのだった。これもフォートの英語が全然わからず、「超訳」でごまかしながらしばし挑戦してみたのであるが、最初の数頁でわけわかんなくなって結局投げ出したのだった。

ま、そんなことはともかく、この作品なんかも実は「マゴニアへのパスポート」と立場的には同じであって、つまりフォートは80年ぐらい前に死んでるから流石に著作権は消滅していて、つまり勝手に翻訳して本にしても何の問題もない。ただし、勝手にネットに載せていいかどうかがよくわからんのである。

ただ、ヴァレの場合はまだ存命であり、しかもかなり日本にとって有利な「翻訳権の10年留保」によってムリヤリ権利を剥奪されている感じがあるので、何かヒトの顔色をついうかがってしまう典型的日本人であるオレなんかからすると、「やっぱ勝手にネットに載せちゃ悪いような気がするなー」と、はなから弱腰である。

しかし、80年前に死んじまったオッサンの作品ともなると、「もういくらなんでも、そんな権利権利でガチガチに縛らなくていいだろうよ」ってなもンで、こちらもいささか強気になってしまい、実際にそのインチキ翻訳をいまだにブログから消してはいないのである(笑)。

何が言いたいかというと、何かそういう「常識的感覚」みたいなものと著作権法とゆーものの間には何か甚だしい乖離があるような気がするのである。法律というものは常にそういうものなのかもしれないけれども、いやしかし待てよ、そういえばオレは若い頃から「法律などというものには真実がない」などと偉そうなことを考えていたのだった。だから大学では文学部に進み、こんなうだつのあがらない人間になってしまったのだ・・・・・・などととりとめのないことを書いてみても詮方ないので今日はここまで。



では引き続き1975年の「ハッピー・キャンプ事件」の顛末を紹介していこう。但し、(上)にも書いたように以下のエピソードはサーニーのレポートでは全く触れられておらず、その記述はもっぱらヴァレの著作『コンフロンテーションズ』に拠る。

【エピソード5】

■1975年11月2日(時間は明記されていないが、この日は日曜日で、かつ「乗り物」から外の風景が見えたという体験者の証言=後述=もあるので日中かと思われる)

スティーブ、スタン、ヘレンをはじめとする一行5人は、一帯の調査に取りかかるべく、ケイド・マウンテンの麓の渓谷を車で走っていた(注:地理的な関係がいま一つわからないが、一行は「着陸現場」に向かう途上だったと推測される。ちなみにケイド・マウンテンというのは近くの山である)。しかし、辺りが深い霧で包まれてしまったため、5人は途中で引き返すことにした。

その時、崖から大きな岩が落ちてきて、車の近くで大きくバウンドした。この辺から彼らの記憶は定かでなくなる。スティーブは、奇妙な生き物が現れたので銃に手を伸ばしたところ、その生き物は「そんなことをする必要はない」と話しかけてきた。ヘレンが「岩だわ、気をつけて!」と生き物に声をかけたところ、「安心しなさい。わたしはケガなんかしない」という返事が返ってきた。

彼らはそこで「空に浮かんでいる物体を見た」。ヘレンは、自分の体が光に包まれ、それからその物体に吸い上げられたように感じた。その内部でヘレンは「搭乗員」と会話をかわした。その生き物は、何やら透明な物体を示して「これは金から作られたものだ」と言った。ヘレンは「そんな透明なものが金であるわけがない」と答えた。相手は簡潔にこう応じた。「透き通った金というのもある。あなた方の聖書にも書いてあることだ」。

また、彼女が「自分の体験を証明できるようなものが何か欲しい」と言ったところ、相手はいったん許可を与えたものの、しばらくして「何も持っていかないように」と言い出した。彼女は「あなたはうそつきだわ」といって泣き出したことを覚えている。ヘレンによれば、この間、周囲のものは「何もかもがスローモーションのように動いていた」。また、彼女が連れ込まれた乗り物は、外から見るよりも中のほうが遥かに広かった。

注:『コンフロンテーションズ』では、ヘレン以外の「アブダクション」関連の証言はほとんど紹介されていないが、スティーブは「上下に透明な窓のついた乗り物に乗りこんだこと」「その窓を通してチャイナ・ピーク(注・近くの山の名)が見えたこと」を証言しているという。

記憶がハッキリしない状態に置かれた彼らがようやく意識を取り戻したのは、車の中だった。気がつけば、一行の車は山道を下っている最中で、その車中で彼らは、なぜか古い聖歌「罪 重荷を除くは」を声を合わせて歌っていたのだった。


罪 重荷を除くは There Is Power in the Blood of the Lamb

 




以上が11月2日の事件の顛末である。我々が知りたいこと――つまりそのエイリアンの姿かたちについて全く論及がないのはこの種の事例につきものの「健忘」のせいなのかもしれない。その辺はいささか残念だが、その代わりというべきか、ここにはなかなか興味深いくだりがある。「透明な金」をめぐる問答である。では本当に聖書にはそんなことが書いてあるのか。然り、実際に「新約聖書」中の「ヨハネの黙示録」には、こんなくだりがあるのだ。

「都の城壁は碧玉で築かれ、都は透き通ったガラスのような純金であった」(21章18節)

「また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった」(21章21節)

しかし、このエイリアンは何故「聖書」の内容を知っているのか? さらにいえば、記憶が回復した際、彼らが声を揃えてキリスト教の聖歌を歌っていたのはなぜか? そもそもこのエイリアンと人間の奉じる宗教とのあいだには、いかなる関係があるというのか? 全く意味がわからない不条理な話なのだが、個人的な感想を言わせてもらえば、「エイリアンとキリスト教」というその取り合わせには何かしら心をざわつかせるものがある。もっといえば薄気味が悪い。

【追記】
ここで、何でオレが「薄気味が悪い」と思うのか、ひとこと説明しておこう。そもそも円盤業界には「旧約聖書のエゼキエルが見たのは宇宙船だった」的な言説が昔からあって、つまり「キリスト教の神様≒宇宙人」みたいな図式を唱える人たちが一部にいるワケだ。

ということになると、そもそもエイリアンが「オレたちは聖書のことをよく知ってるゾ」ということを誇示したこのエピソードがいったい何を意味しているのかというと、まず頭に浮かぶのは、彼らは「オレたちが人間に宗教を与えてやったんだゾ」というコトを言いたかったのだろう、という解釈である。この解釈にたった場合、帰りの車中でみんなが聖歌を歌っていたというエピソードも、「あぁありがたや、エイリアン≒神様にお会いできて良かった良かった、その喜びをわかちあいましょうネ」という文脈でみなさん神を称える歌を歌っていた、ということになるのであろう。まぁしかし、別にクリスチャンでもない仏教徒としてのオレは、「何いってやがんでェ、オマエラ如きに偉そうな顔されたくねえヤ」と地球人代表(笑)として反撥したくもなるし、何か気色悪い。

あるいは別の解釈というのもあって、エイリアンはこういうセリフを吐くことによって、「オレらは地球人の精神生活は十分にわかってますから。オマエラもう丸裸ですから」というコトを言って脅しにかかったのだろう、という風に捉えることもできる。こちらの説をとった場合も、当然こちらとしては気分が悪い。なにを偉そうに上から目線でモノをいいやがって、という感じである。もっとも、この仮説に立った時には、例の聖歌というのは「悪しきエイリアンに脅されたけど、ワレワレは屈しない、だって神様がついていてくださるから」というニュアンスで、みなさん自らを鼓舞するために歌ったのだろうなぁという風に理解できる。こっちの解釈だと、何か物悲しさの漂う聖歌になるわけだけれども、それはそれでこのシーン、エイリアンの不気味さが際立ってくる。というわけで、いずれにせよこのエピソードにはどっか不穏な雰囲気が漂っているような気がしてならないのである。


いや、いささか脱線してしまったが、話を元にもどそう。「気味が悪い話」ということでいえば、ヴァレはこのほかにも一帯で起きた奇怪な出来事についての証言を幾つか紹介している。

たとえばこんな話である――1976年のはじめの、或る晩のこと。町にただ1軒ある食堂に、一人の男が入ってきた。肌は青白く、その目は「東洋人のよう」だった。真冬だというのに、シャツを着ただけでコートはなし。彼は常に周囲に笑い顔をみせていたが、その顔はしかめっつらをしているように歪んでいた。男はステーキを頼んだが、ナイフとフォークの使い方を知らないようだった。男は、グラスに入っていたジェロ (注・ゼラチンでできた果物風味のデザート)を一口で飲み干そうとした。そして最後の最後。彼は金を払わずに出ていこうとした――これなどは円盤事件につきものの「黒服の男 Men in Black」の典型的ストーリーではないか(そして、石塚英彦ではないけれども、MIBの間では「ゼリーは飲み物である」という文化がかなり一般化しているらしい!)。

奇妙な話はまだまだある。光体の出現と同時に起きたポルターガイスト現象。夜間に飛ぶ巨大な鳥。光体を追うジェット機。あるいは、先に紹介した「中空に吊り上げられた車」のエピソードなどは「空中浮遊」を連想させたりもする。加えて、一帯はいわゆる「サスカッチ」の目撃多発地帯でもある。これは検索してみても何だかよくわからんかったが、ヴァレによればこの辺には「Puduwan」なる超自然的存在についての伝説も伝わっているというのである。

もちろん、一連の事件に「疑念」を差し挟むこともできないではない。先のサーニーのレポートによれば、1975年秋から翌年にかけての目撃集中期には、10数人の「円盤フリーク」とも称すべき人々が町に現れ、連日のように山にのぼっていたという(つまり、一連のエピソードに出てくるような人たちが結構いたということなのだろう)。そして、その中でも最も熱心だったのが、例のヘレン・ホワイト。一連のエピソードの最重要人物ともいうべき人物である。実際この老婦人、真夜中だというのに、呼びに来た若者たちと連れだって山中までUFO探索に出かけていっている。

つまり一連の事件は、UFOにとりわけ強い思い入れを抱いていた人物の身の回りで起きていたわけだ。上に記した「エピソード5」なども、よく読めばもっぱらヘレンの証言から成り立っている。確かに発端は二人の男性の「発見」であった。だが、そういうバックグラウンドを考えてみると、彼女の存在がその後の「共同幻想」の拡大・発展におおいに寄与したという可能性も十分考えられるのではないか(彼女をめぐるポラロイドカメラのエピソードは、そうしてみると実に意味深長である)。

しかし、である。この辺が微妙なところなのだが、「妙なリアリティ」とある種の「胡散臭さ」とが表裏一体になっているのがUFO現象の核心である、という立場を取るのであれば、この妖しさこそが正統的なUFO事件のあかしだと言えなくもないのである。

ロズウェルもフラットウッズもイーグルリバーもいいけれど、願わくばあまり知名度のないこのハッピー・キャンプもまたUFO事件の聖地の一つに加えてやっていただけないか。とりあえずいま考えているのはそういうことである。

*「いや、この事件の情報があんまり出回ってないのは、コレがhoax認定されてるからだから。深読み無駄だから」みたいな情報をお持ちの方は是非ご教示くださいませ  m(_ _)m


↑このページのトップヘ