カテゴリ: オカルト

そもそも詩とか歌といったものには全然理解のない無粋なオレであるワケだが、強いていうと「見放された人々」系の作品は何故か好きである。石川啄木とか山之口貘といったあたりだね。

啄木といえばこのへんか。
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一度でも我に頭を下げさせし
   人みな死ねと いのりてしこと






山之口貘でいえば、ま、これかなぁ
この兄さんは
成功しようかどうしようか結婚でもしたいと思うのですcontent_1297152868
そんなことは書けないのです
東京にいて兄さんは犬のようにものほしげな顔しています
そんなことも書かないのです
兄さんは、住所不定なのです
とはますます書けないのです
(「妹へおくる手紙」より=部分=)


で、数日前の日経新聞の文化欄で、虫武一俊という歌人の存在を知ったのだが、これがまさにそっち方面の人であった。記事にはこういう歌が載っていた。

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三十歳職歴なしと告げたとき 面接官のはるかな吐息
(『羽虫群』より)





ええなあ。いたたまれなさ、切なさが胸に突き刺さってくるぞ。才能がキラッキラ輝いておるぞ。36歳のひと。

で、ついでというとナンだが、関連でいろいろググっておったら、この歌集、オレは平成の戯作者と勝手に命名しているのだが、詩の方面にも造詣のふかい一流ブロガー・馬場秀和さんがブログでいちはやく紹介されておった。さすがである。




以前、木曽御嶽山の神隠しの話を書いたのであるが、松谷みよ子「現代民話考Ⅰ」をめくっていて、その出所となったとおぼしき箇所をみつけたので以下に再録する(原文にはない改行を適宜入れた)。


*長野県木曽御嶽山。御嶽山は山岳信仰の聖地だが、昔は行者だけが登っていた山である。山頂の一の池、二の池、賽の河原、三の池の谷間からは突然霧がわき、古来不思議が多く、三年ごとに起こるという。

本年(昭和五十四年)七月十五日午前四時、由比さんは御嶽神社へツアーの一行と参拝に出掛けた。参拝を終えて六時、王滝口頂上山花へ戻り食事となったが、一人分朝食があまったので一人いないことがわかり調べたところ、由比ヒデオさんと判った。それから四時間探したが見つからず、夕方七時神戸へ帰ってツアーは解散した。添乗員も下山して由比さん宅へ連絡したが戻っていないので大さわぎとなった。

次の日から四日間、延百二十名の人が地獄谷からナカマタ沢と目の届く所危険をおかしすべて調べたか見つからない。山頂から宿舎まではわずか一キロで難所もない。宿舎には孫への土産を入れたバッグが残っていた。家人の話ではどこへ行ってもきちんと連絡を入れる人だったという。

ところが四日目の七月十九日、五十八歳の老人(神戸参詣団体の一員)がまた消えた。三の池で御神水を汲んで頂上へむかい岩陰にかくれ、そのまま見えなくなった。近くには隠れるところも危いところもない。日数かけて捜索したがいない。神かくしかと言われた。

三年前の十一月、学生のリーダーがみんなの後をぴったりついて唱え言葉をかけながら登っていたが、突然声が聞こえなくなった。仲間が振りむくと、リーダーの姿はもうなかったという。同じ所で行方を断った人もあったが、その人は三か月後発見された。

この山には死霊がさ迷っているといわれ、怪奇のあるときは賽の河原からうめき声がするという。強力の児野忠雄さんは霧の中に巨人(ブロッケン現象)がいてもう一つの足音が聞こえ、幽界とのドアの次元の違う所に入ってしまい、これが神かくしではないかという。行者は由比さんは死霊にひかれて死んだといい、あのあたりとさしたが由比さんはいなかった。
 放送・唱和五十四年九月二十七日放映、東京テレビ「ミステリーゾーン」より。

 ――松谷みよ子「現代民話考Ⅰ」(2003年、ちくま文庫、448~450頁)


つまり、元来は東京テレビ、とゆーかテレビ東京のオカルト番組で語られた話であったらしい。テレビ屋さんというのは「作ってしまう」人種だと思っているので、こうなるとちょっと眉に唾をつけてかからねばならないような気がするが、ともかく行方不明事件があり、何らかの怪異と関連づけて語る人がいた――というのは確かなことのように思われる。






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タイムマシンで未来からやってきたという触れ込みの例のジョン・タイター以来、「未来人が語る近未来の歴史」というジャンルがオカルト業界で確立しつつあるようだ。そういう人間がネットにいろいろ近未来のことを書き記していくというのが典型的パターンで、で、「当たった」だの「外れた」とかいって騒ぐのは、こういうのを全然信じていないオレからしてもなかなか楽しいことである。

とりわけこの手の話でよくできていると思うのは、「エヴェレットの多世界解釈」とか何とかいうよくわからん話を援用して、「多元宇宙は無数にあるので、未来人が行ったり来たりするうちに宇宙は分岐してしまい、結果的に未来人の語った通りの未来が来ないこともある」みたいな言い訳がちゃんとできる仕組みになっているところである。だから、全部当たらなくて当然よ、と開き直れるのである。賢いのである。

閑話休題。これは2011年の段階ですでに日本にも出回ってたらしく「4年遅れかよ!」とツッコミを入れられる方もいるだろうが、最近オレがようやく知ったこの手のストーリーに、2060年から来た軍人だとかと称する人間が、2010年11月から翌年2月にかけて韓国のネットに書き込みを残していった、という話がある。

オリジナルのサイトがどこにあるかも知らんし、仮に分かっても韓国語などわからんから、あくまで日本語のサイト(このNAVERまとめとか)を見るしかなく、もちろんタイムスタンプの捏造などの可能性があったとしてもその辺にツッコミをいれる術もないので、あくまで「お話」として消費する立場から言わせてもらうのだが、これ、けっこう面白かった。


「2013年の時点で北朝鮮の金正日は死亡している」というのはアタリだが、ま、健康悪そうだったのは確かであるし、「2013年に李会昌が韓国の大統領になる」とか「2012年に大恐慌が来る」とかいうのはいきなり外れ。2015年に第3次世界大戦だかが起きて中国でバタバタ人が死んで(しかし中国とどこが戦うのだ?)、そのあおりで北朝鮮が崩壊して2017年に統一韓国ができて朴槿恵が大統領になる、というのは、うーむ、今年はあと10か月しかないので、これはどう考えてもキビシイのではないか。

ところが日本に関しては「2011年頃に大地震で津波が起きて、それに伴って放射能漏れの被害が出る」と書いているらしい。ここで「なるほど、2011年3月以降に捏造されたネタだったのね」と言ってしまうのは冷血極まりない態度なので、しばし信じたフリをしておつきあいすると、一方では「2013年が終わる前、日本の政治体制は既存のシステムから完全に変更」とか言っているらしい。自民党が総選挙で大勝して第2次安倍政権が成立したのが2012年末であるから、その後の安倍の「暴走」ぶりをみれば強引に「当たった」と言い張ることもできないではない。「やるじゃん!」みたいな事を考えてしまったりして、この辺は何か妙なリアリズム(笑)。

何かこういうチグハグな未来予想みたいなものをどういう人間がどういう判断のもとに書いたのか、というのは想像してみると何だか面白い。今回のも、「ニコラ・テスラは実は未来人だった」みたいな小ネタを差し挟んでいていて工夫がしのばれた。というわけで虚構と現実のはざまに遊ぶ未来人文芸というのは、これからもイチオシの注目ジャンルである。

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たとえば「家」とはなんだろう?

家なのかそうでないのか何ともハッキリしないものがあるとしよう。さて、それが一体どちらなのか、判断の基準を明示してどちらかであると判断を下すのは不可能なことだ。

もし人が住んでいる納屋があったとしたら、それは家=ハウスである。だが、もし「何ものかが住んでいるのが家だ」というのなら、どんな構造をしていようと関係はないのだから、鳥の巣でさえ家になってしまう。「人間が住んでいるかどうか」というのも照らすべき基準とはいえない。なぜなら、われわれは犬の住むところでさえ「ドッグ・ハウス」というのだから。建築材で出来ているのが家、ということもできない。なぜならわれわれは [氷でできた] エスキモーの家を「スノー・ハウス」というのだから――貝はヤドカリのための家であり、さかのぼっていえば、それはもともとその住み家を作り出した貝じしんの家でもあった。ワシントンのホワイトハウスと浜辺の貝のように一見してあまりに違うもの同士であっても、家であるという点においては連続性をもっているもののようにみえる。

これと同様に、たとえば電気についても、それが何であるかを言い表すことのできる人間はいない。それは「熱」とか「磁力」とか「生命活動」といったものとハッキリ分離できるようなものではない。そう、哲学者や神学者、生物学者たちは、それぞれに「生命」を定義しようとしてきたが、そうした試みも失敗してきた。なぜならハッキリとしたかたちで定義できるものはそこにはないのだから。実際のところ、およそ生命にまつわる現象というのは、化学や電磁気学、天体の運行といった場にも姿を現わしてしまうものなのだ。

濃紺の海に浮かぶ、真っ白なサンゴの島々を考えてみよう。

一見したところでは、それぞれの島は異なってみえる。見たところ、それぞれには個性があるようであり、ハッキリとした違いがあるようにみえる――しかし、それらはすべて同じ海底から突き出すようにして存在している。海と陸との相違というのもハッキリしない。海が満ちているところに陸地が生じることもあれば、土地が広がっているところに水に満ちた場所が生じることもある。

そういうわけで、もし万物が相互に地続きになっているものであるならば、或るものが「そう見える」からといって、それが見たままのものであるとは限らない。テーブルの脚であっても、もしそれが何かよそから投影されて在るものだとしたら、単なるテーブルの脚以上のものである。もしわれわれが物理的な意味で環境とひとつながりの存在だとしたら、あるいは精神的な意味で、われわれが環境とのかかわりを離れて何事かを表現することなどできないのだとしたら――われわれがふつう言っているような意味での「現実世界」に生きている人間など一人もいない。

さて、われわれがここで言っていることは二通りに捉えることができる。

ひとつは「伝統的な一元論」としてのそれ。そして、もうひとつはこういう意味合いのものだ――固有のアイデンティティをもっているようにみえるあらゆる「事物」は、どこか見えないところにあるものから投影された島々のようなものに過ぎず、詰まるところ自他を区別する確固とした境界線など有してはいない、ということ。

こうした「事物」はどこからか投影されたものに過ぎない。にもかかわらず、それらは「どこかに隠れているもの」――それは個々の事物が固有のアイデンティティを有しているということを決して認めようとしないのだ――から必死で我が身を引き剥がそうと試みる。

そうやってすべての事物が互いにつながりあった関係を頭に浮かべてみる。そこではすべてのものがそれぞれに違いをもっているようではあるが、それらが目指しているのは畢竟ひとつの目標である。つまり「自己を他から引き剥がして確固たる実在を手にいれること」である。それは「実体をもつ自己」「確固たる自分」「他との境界をもつ存在」「揺るぎなき独立」を得ることであり――あるいは、それを人間にまつわる言葉を使って言えば「個性」や「魂」を立ち上げることだ、ということもできよう。

自らをリアルなもの、肯定しうるもの、あるいは絶対的なシステム・支配するもの・組織・自己・魂・実体・個人性をもつものとして立ち上げたい――そのように考えるものはすべて、まずは自らの周囲、自己を形作っているものの周りに輪郭線を引き、次いであらゆる自己ならざる「もの」を排し、放逐し、あるいはそこから遠ざかっていくことによってのみその試みを成就することができる。

もしそのようにできなければ願いが成就することなどありえない。

だが、仮にそのように行動できたとしても、それはあらかじめ失敗が宿命づけられた悲惨な行動たらざるを得ないのだ。それはあたかも海面上に円を描きながら「円の中に立ち騒いでいる波というのは、円の外側にある波とは全然無関係だ」といっている人物(むろん内側と外側の波はつらなっているわけだ)、あるいは「認められたもの/否定されたものは劃然と区別可能なのだ」と真剣に説いている人物のふるまいにも等しい。

冒頭部の超訳その2です。


従って、私は、「呪われしもの」という言葉を「追放されたもの」という意味で使っている。

だが、追放されたものという言い方には、それがいつの日にか「その場に居残るもの」に転ずる可能性もあるはずだ、という思いを込めている。

こんな風に言ってもよい。今日はここに残されたものであっても、明日どうなるかはわからない。

そして今日放り出されたものが明日になればこの場にある、ということもありうる――もちろん今日放逐されたものが、未来にあってもやはり放り出されている、ということもあるだろうけれど。

われわれとしてはこう言ってみたい。「いまここにない」と「将来においても存在しない」のはざまにも――あるいはわれわれの身の回りにある日常的なものと(いけすかない言い方だが)「実存的なもの」のはざま、といってもいいのだが――大いなる転変はあって、それは天国と地獄の間を往還する運動にもなぞらえることができる。つまり、呪われしものが、そのままずっと呪われしものであり続けるわけはない。救済があるからこそ地獄に堕ちることもある。となれば、われわれの呪われし悲惨なるものが、やがて麗しき天使に化けることもあるのではないか。さらに推論を進めていけば、やがてはそのようなものどもがかつて追い出された場所に帰還することもあるのではないか、そう思われるのだ。


われわれとしてはこう言ってみたい。いかなる者であれ自己を立ち上げようとするときには、何ものかを他者として外部に放り出さねばならぬ――つまり、一般的に或るものが「存在している」という状態は、程度の差こそあれ「内にあるもの」と「締め出されたもの」の間に存在する、それ相応にハッキリした相違点が記述されることによって成りたっている。

しかし、実際にはそれほどハッキリした相違点などない、ということもわれわれは言っておかねばなるまい。万物は、チーズを食い荒らしている虫やネズミのようなものだ。ネズミと虫――この二者ほどかけ離れたものはないようにもみえる。ネズミであればこのエサのところに一週間通うのだろうし、虫なら一か月。が、どちらの場合も外からはチーズのようすが変わっていくのが見えるだけ。結局われわれはみな虫かネズミ。そうしたものが食い荒らしているチーズの外側だけが、時に応じて様々な姿をみせるだけの話である。

あるいはこうも言える。赤色と黄色とはまったく異なる色だとはいえない。それは単に「黄色の有する彩度は赤のそれとは異なっている」というだけの話だ。つまり赤色と黄色は連続していて、だからこそ両者が溶け合う領域にはオレンジ色というものが存在するのである。

それではこの黄色と赤色の議論を踏まえて考えてみよう。すべての現象について、赤の要素を含むものを「真」、黄色の要素を含むものを「偽(ないしは架空のもの、でもよいが)」として科学的分類を試みることになったとしよう。するとその境界領域は「偽」だといえるけれども、同時にどちらとも言い難い恣意的な性格も持っていることになる。なぜならオレンジ色をした物体というのはまさにその変移する領域にあるので、事前に設定されたボーダーラインの両側とつながりをもってしまうからである。

こうやって考えていくと、われわれは次のようなことに気づかざるをえない。

つまり、分類すること、内部と外部のものを分けることには何ら根源的な根拠はなく、そうした考え方は「赤色と黄色は区別できる」というこれまで一般的だった考え方よりもむしろ道理が通っているのだ。

科学が自ら喧伝するところによれば、これまで科学は膨大なデータをその内側に取りこんできた。実際、そうでなかったら、科学というのはいったい何をしているのか、という話にもなるだろう。そして、これもまたその喧伝するところであるけれども、科学はこれまで膨大なデータをその外側に放り出してきたのである。さて、もし赤色が黄色との連続性をもっているとしたら? もし「内側にとどめ置くか」「外側に放り出すか」という基準がハッキリした分岐点をもたず、連続性をもっているのだとしたら? 科学は、最終的に受け入れられたものとそれほど変わらないものを外部に放逐するようなことをしてきたのに違いないのだ。互いにオレンジ色の中に溶け合ってしまう赤色と黄色というのは、あらゆるテスト、あらゆる基準、ある種の説が生み出されてくるプロセスを象徴的に示している――。

あるいはこうも言える。「いかなる問題であれ、すべてのものは分類し区別することができる」という主張は、「万物には判断の基準となるような確たる判別のポイントが存在する」という錯誤の上に成り立つ幻想なのだ――。

また、そのように知的思考を用いてものごとを探究する営みというのは、「事実」「物事の根源」「普遍」「法則」「定式」「三段論法の大前提」といったものを見つけ出すため続けられてきたのだった。その結果、これまでにどんな達成があったかといえば、せいぜいが「ある種の事柄は自明である」と言えるようになったことぐらいである。にもかかわらずわれわれは、何やら「証拠がある」と聞くと何かが証明されたのかという風に考えてしまう。

これが彼らのいう「探究」なのである。それは実際には何らかの達成を成し遂げることなどなかったのだが、にもかかわらず科学は、ある種の達成があったかのようにふるまい、支配者として君臨し、宣命を重ね、そしてその意に沿わないものを退けてきたのだった。

チャールズ・フォート『The Book of the Damned』(1919)の冒頭部分を超訳してみた。誤読をごまかす魔法の言葉、それは超訳(笑)。


「呪われしもの」たちが列をなしている。

ここで私が「呪われしもの」と言うのは、追放され、放逐されてきたもののことである。

そう、われわれはこれから科学によってこの世界から放逐されてきた、ひと連なりの事実を見ていこうとしている。

そのようにして呪いの言葉をかけられたものどもが、これまで私が掘り起こしてきた記録に導かれるようにして、これから隊列をなしてわれらの前を進んでいく。あなたはそれをこれから読み進める――いや、あなたに読まれずとも、呪われたものたちは行進を続けていくのだろう。土気色をしたもの、燃えるように熱を放つもの、腐臭を放つものと、その姿は様々ではあるけれど。

中には屍体や骸骨、ミイラのたぐいもいて、それらは、付き従ってくる「生きながらにして呪われたものたち」の力を借りてはヒクヒクピクピクと体を蠕動させたりもする。熟睡しているのに、何故か歩いている巨人が脇にいたりもする。理にかなった定理の如きものもあれば、ボロ布の如きものもある――まるでユークリッドがそうであったように、連中は「秩序などナンセンス!」とでもいった心持ちで行進を続けていくのだろう。小柄な売春婦たちはそのあたりをヒラヒラ身を翻しながら飛び歩いたりするのだろう。

多くは道化者。しかし、同時にその多くが実は端倪すべからざるものであったりする。暗殺者もいるだろう。ほのかに漂ってくる悪臭。薄気味悪い迷信。何ということもない影。どぎつい悪意。気まぐれ。優しさ。無邪気さもあれば衒学趣味も。奇っ怪なもの。グロテスクなもの。誠実。不正直。深淵なるものもあれば幼稚っぽさもある。

突き刺すような痛み。笑い。そして、ほとんど無意味なほど馬鹿丁寧に、かつ長い間、組み合わされた祈りの手。

結局のところ、どこに出しても恥ずかしくないような第一級の見かけをもちながら、同時に罪人めいてみえるものたち。

その相貌をひと言で評してみれば、威厳がありながらも何とも放埒きわまりない。その声をひと言でいえばお祈りのようであるのに、どこか喧嘩腰のようでもある。だがしかし、全体を貫く何ものかがあって、それを言葉で表現するなら「行列のようだ」ということになる。

こうしたすべてのものを「呪われている」のひと言で済ませてしまった勢力を言い表すのに、ちょうど良い言葉がある。それは「謬見に満ちた科学」。

だがどのように言われようと、それらの行進は止まらない。

チビの売春婦たちはふざけて辺りを跳ね回る。気のヘンな連中は気を散らすようなことばかりする。道化たちはおふざけをして、みんなのリズムを乱そうとする――それでも全体としてみれば行進の一体性というのは失われてはいない。そして、印象に残る個々のものどもが次々に目の前を通っていく。いつまでもいつまでも。

そうしたものどもがわれわれのこころをガッチリと捉えて離さないのは、それが人を脅かしたり馬鹿にしたり蔑んだりするからではなく、総体として統制のとれた動きを構成しつつ、次から次へとわれわれの前を行進し続けていくからにほかならない。

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