日本郵便を騙る詐欺メールが来たので晒しておく。

そもそも「荷物に不備があり、受取人と連絡が取れませんでした」という箇所からしておかしい。この文脈だとオレが「受取人」という設定になっているわけだが、フツーの客商売であれば荷物を受け取っていただくオレを「受取人」などと第三者的に呼び捨てにすることはありえない。日本語がヘンなのである。まぁしかしイロイロ欠点を指摘すると詐欺師に知恵をつけることになってしまうのでやめるけども。





【日本郵便】お届け時ご不在のご連絡

日頃より日本郵便株式会社をご利用いただきありがとうございます。
重要なお荷物が届きましたが、荷物に不備があり、受取人と連絡が取れませんでした。 
お客様がこの荷物の受取人であるかどうかを確認したく、ご連絡させていただきました。
そのため、下記をご覧いただき、受取情報をご確認ください。
できるだけ早く、再度の配送を手配いたします。
→確認はこちら
お客様にはご不便、ご心配をおかけして申し訳ございませんでした。
ご理解いただきますようよろしくお願いいたします。
48時間以内に確認が取れない場合、お荷物は返却されますのでご注意ください。
■ご注意
・日本郵便を装った不審なメールが送られています。
 お心当たりのない不審なメールは、ウイルスを含む可能性もありますので、削除いただくようお願いします。
・交通事情、災害等により予定通り配達できないことがございます。あらかじめご了承ください。
・ご利用の端末によっては本メールに記載のURLに接続できない場合があります。
・本メールは送信専用アドレスで送信しております。
 本メールに返信されましても回答いたしかねますのでご了承ください。
■よくあるご質問
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携帯電話から 0570-046-666(通話料有料)
日本郵便株式会社
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■第13章 悪い情報

    調査員に正しい情報を7年間与え続けてみよう。そして8年目の最初の日、あなたが彼を思うがままにしたいと考えて間違った情報を伝えたら、く彼はそれを信じてしまうかもしれない。――『心理戦ケースブック』 (1958年)


「我々はリンダに良い情報と悪い情報を渡した。彼女は悪い情報を選んだ」。リックの言葉は私の心にこびりついて離れなかった。ラフリン・コンベンションが終わろうかという頃、私はディーラーズルームに戻った。そこではたくさんの人々が自分の商品を値引きして販売していた。数多くの本、数多くの雑誌、そして大量の知識。私はちょっと悲しい気持ちになって、こんな風に考えた。ここに並んでいるのは全部悪い情報なのだろうか。仮にそうだとしたら、これはどこからやってきたのだろうか。

■ブラックゲーム

第二次世界大戦中に若き印刷工であったエリック・ハウは、何の拍子か、英国の政治戦執行部(PWE)で働くことになった。彼が部下として就いたのはデイリー・エクスプレスの元外報記者であったデニス・セフトン・デルマーであった。デルマーは英国の敵を欺き、士気をくじいてしまう策を編み出す「ブラックアート」の専門家で、自らを兵士というよりは芸術家だと見なしていた。デルマーの最も悪名高いプロジェクトの一つとして「グスタフ・ジークフリート・アインス」というラジオ局の運営があった。この局は、1941年6月から1943年12月まで、謎のドイツ貴族「デア・シェフ」(指導者の意)による反ナチスの激しい演説をドイツに向けて放送した。デア・シェフのセンセーショナルな演説は、イギリスの情報機関が集めた本当の情報と、政治的腐敗や性的放蕩といった話も含めたナチ高官への誹謗をまぜこぜにしたものだった。デルマーは次のように書いている。「我々が広めたいのはドイツ人たちに打撃を与えて彼らを混乱させてしまうようなニュースだ。それは高尚な政治的動機というよりは普通の人間の弱さに訴えかけることで人々の政府への不信を募らせ、彼らが政府に背くよう仕向けていくことになるだろう」

デルマーのもとで働いていたエリック・ハウの専門分野は印刷で、その仕事は切手や配給カードの偽造にはじまって、より精巧な出版物の製作まで手掛けていた。その一例が「仮病の人 the Malingerer」として知られる104ページの小冊子で、これはヨーロッパ全域のドイツ軍に広く流通した。この小冊子ではヴォールタートと名乗る医学博士(ドクトル・ドゥ・グッド)が、兵士たちが病気や負傷を装って軍務を回避するための様々な方法を推奨していた。その内容は激しい症状を引き起こす薬草の蒸留法から始まって、医師の処方箋の偽造法、靱帯損傷や記憶喪失を装う方法にまで触れていた。この冊子は敵に相当な影響を与えたようである。というのもすぐにドイツ製のバージョンが現れて、それが連合軍兵士の間でも広がったからである。

PWEの最も奇抜な印刷プロジェクトの一つとしては、1942年から1943年までの間に6号まで発行された偽の占星術雑誌「天頂 Der Zenit」があった。エレガントなデザインのこの雑誌は、もともと迷信深かったナチスの心理に影響を与えたのだが(ヒトラーとヒムラーはいずれもお抱えの占星術師を雇っていたほどだ)、その記事は、占星術の見地からヒトラーの主治医の選択からUボートの発進のタイミングに至るまで、ありとあらゆることに疑問を唱えていた。また、この雑誌は巧妙に歪曲されたデータやその解釈をデッチ上げるため本物の占星術師を起用しており、それは多くの真っ当な占星術師ですらしばらくは騙されてしまうほどの説得力を持っていた。こうしたブラックプロパガンダの効果はすぐに明らかになるわけではなく、数ヶ月、時には数年を要することもある。しかし、一度疑念の種が撒かれれば、それはやがて不信の森へと成長する可能性があるのだ。

デルマーのPWEはほぼ白紙の状態から立ち上げられたのだが、第二次世界大戦後、ニセ情報の技術は次第に洗練されていった。冷戦時代には、KGBやアメリカの数多くの情報機関がそれぞれ偽造専門部門を持つようになった。ソビエトがニセ情報活動に費やした金額は推定で年間約30億ドルだが、アメリカはそれを上回る規模で、CIAだけで35億ドルをブラックアート(ないしはグレイアート)に投入していたと推定される。

両陣営がよく用いた手法の一つはニュース記事を「仕込む」ことであった。それは、国内外のニュース機関にエージェントを配置したり、あまり浸透できていない地域ではジャーナリストや編集者を買収したりすることで行われた。世界的なネットワークニュースメディアの成長により、例えばナイジェリアで仕込まれた話が数ヶ月、あるいは数年後になって対立国のメディアに毒のようにしみ出していく、といったことも起きるようになった。

KGBの偽情報専門部門である「アルファ部隊」が「積極的措置」として行った工作のうち最も成功した作戦は、1983年7月16日、インドの親ソ系日刊紙『パトリオット』に掲載された投書から始まった。そのタイトルは「エイズはインドに侵入するかもしれない:アメリカの実験によって引き起こされたナゾの病」で、執筆者は匿名の「著名な科学者と人類学者」とされた。内容は、エイズウイルスはメリーランド州フォート・デトリックでペンタゴンの生物兵器専門家によって作られたもので、もともと黒人やアジア人を標的にする「エスニック・ウェポン」として開発されたことをほのめかしていた。

このストーリーが成功への足掛かりを得たのは2年後だった。1985年10月、ソ連の週刊誌『リテラトゥールナヤ・ガゼータ』は、「インドで尊敬を集めている新聞パトリオット」からの引用だとしてこの手紙を掲載した。この新たなバージョンでは、アメリカがエイズを媒介する蚊を繁殖させ、他国に駐留している米軍兵士に感染させているという話が付け加わっていた。しかし快心の一撃が放たれたのは1986年だった。この年、ジンバブエで開催されたエイズ会議で、東ドイツの3人の科学者(東ベルリン生物学研究所の前所長ヤコブ・ぜーガル教授、その妻であるリリ・ぜーガル博士、そしてロナルド・デームロウ博士である)がこのテーマに関する論文を発表したことで、学術的な権威が付与され、まじめに考察される対象になったのである。

工作は成功した。1986年8月には、この説が『ロイヤル・ソサエティ・オブ・メディシン・ジャーナル』誌上で公然と議論され、10月26日には英国の日曜紙『サンデー・エクスプレス』の一面に「エイズは実験室で作られた-衝撃の事実」という見出しが踊った。この時点で、物語は制御不能となった。クウェートの新聞『アル・オアバス』にはエスニック・ウェポンの発射シーンを撮った写真が掲載され、ロイターにより配信されたのち、1987年3月にはアメリカのCBSイブニングニュースでも報じられるに至った。インドの新聞の取るに足らない記事から始まった話が、今や何百万ものアメリカの家庭に放送され、何百万ものアメリカ人の心に浸透していった。

ソビエトはそのようなストーリーを創作したことはないと終始主張していたが、1988年末、アメリカの圧力を受けて、これ以上この話を積極的に広めないことに同意した。しかし、すでに損害は生じていた。エスニック・ウェポンには「プラス・モービフィック・プラス」というコードネームさえ与えられていた。この話は主流メディアから姿を消したが、エイズ兵器の話はアンダーグラウンドの陰謀文化の中で根強く残り、今でもインターネット上で生き続けている。

当初は否定に回っていたKGBも、ソビエト連邦崩壊後には真相を明らかにした。1992年3月19日、ロシアの新聞『イズベスチヤ』で、ロシアの情報機関長官だったエフゲニー・プリマコフ(1998年に首相になった人物である)は、そもそもの話はアルファ部隊の特別工作によるものだったと認めた。「アメリカの科学者たちの巧妙な陰謀を暴露した記事は、KGBのオフィスで作成されたものだ」と彼は述べている。「プラス・モービフィック・プラス」は、冷戦中に両陣営のニセ情報の作り手によって作られた多くの話のなかの一つに過ぎないのだろう。

読者諸兄は「こんな話とUFOにどんな関係があるのか」とお考えかもしれない。その答えはこうだ――こうした話は一から十までUFOと関係しているのだ。1980年代半ば、PWEの文書偽造技術とKGBのアルファ部隊が巧妙に用いたターゲット型プロパガンダが融合するかたちで、アメリカで力を得つつあったUFOコミュニティの団結や信用をほとんど壊滅させてしまうような攻撃が行われた――おそらくそれは、空軍が関わった情報戦の中にあって最も壊滅的な集中攻撃というべきものであった。

■MJ-12

1984年12月11日、テレビプロデューサーであり、ビル・ムーアと共にUFOの調査を行っていたジェイミー・シャンデラの元に、アルバカーキの消印が押されたマニラ封筒が届いた。その中には35mmフィルムがあり、1952年11月18日の日付が入った文書が撮影されていた。その文書は、CIAの初代長官だったロスコー・ヒレンケッター少将によって作成されたもので、現職大統領であるドワイト・アイゼンハワーに対し、マジェスティック12作戦の存在を説明するものだった。「マジェスティック」または「MJ-12」と呼ばれるグループは、1947年のロズウェルUFO墜落事件の後、その残骸と乗員を研究するために選ばれた12人の科学者、軍関係者、及び情報機関の専門家で構成されていた。文書には、グループの研究を支援するため、データを収集する組織として「プロジェクト・サイン」、次いで「プロジェクト・グラッジ」が設置されたことも記されていた。さらに文書は、1952年にUFOの目撃情報が急増したことに触れ、MJ-12プロジェクトは新しい大統領の政権下でも「厳格なセキュリティ対策を課した上で」継続されるべきだと結論づけていた。ブリーフィング文書には添付資料リストも含まれていたほか、1947年9月24日付でハリー・トルーマンが署名したメモがプロジェクトを開始する旨を伝えていた。

政府のUFO文書に関しては、この時点でムーアは散々はぐらかされるような体験をしてきたが、「マジェスティック12」というグループにはなじみがあった。というのも、それはポール・ベネウィッツに渡すようリック・ドーティから託された「アクエリアス文書」に出てきたものだったし、実際この文書は彼らが準備していた本のベースになるはずのものだった。過去何年か、彼らは小出しにされた情報をたどってきたわけだが、この新たな文書というのは辿り着いた先にあった宝物なのだろうか? これは大鉱脈なのだろうか?

この文書をどうすべきかと考えたムーアは、しばらく手元に置いておくのがベストだろうと考えた。もっとも、限られた研究者仲間数人にはコピーを送っておくことにし、その中にはロズウェル研究者であるスタントン・フリードマンや航空宇宙産業に携わっていたリー・グラハムがいた。こうして何も起きぬまま時間が経過したことに、荷物の送り主は苛立ったのだろう。それからの数か月、ムーアとシャンデラの元にはハガキが何通か届いた。この時の消印はニュージーランドで、差し出し人はエチオピアのアディスアベバ、ボックス189とあった。ハガキには「リースズ・ピースズ」や「スートランド」といった短いフレーズが書かれていたが、ムーアたちには何の心当たりもなかった。その後、これは思いもかけない偶然が起きたというべきなのだろうが、カナダ在住のフリードマンから、「国立公文書館で最近機密解除された空軍文書があるので見てきたらどうか」とムーア、シャンデラに連絡があった。この国立公文書館がある場所は、メリーランド州スートランド。同文書館の主任アーキビストの名前はエド・リースだった。

果たせるかな、新文書コレクションのボックス189の中に、シャンデラとムーアはMJ-12文書を裏付けるように思われる証拠を発見した。その決定的証拠というのは1954年7月14日付のメモで、国家安全保障会議のメンバーで大統領補佐官のロバート・カトラーが、空軍参謀総長でMJ-12メンバーとされるネイサン・トワイニングに、MJ-12会議の日程変更を通知したものだった。

このメモにはアーカイブのカタログ番号が付いていなかったが、当時カーボンコピー用に使われていた「オニオンスキン」紙に印刷されていたため、一連の文書が撮影されていたフィルムよりは信用できそうだった。ただし、この時代のカーボンコピーにしては奇異に感じられる点もあった。この紙は折りたたまれており、まるでシャツのポケットに入れられていたもののようだった。

MJ-12文書を公開しようというシャンデラとムーアの気持ちを後押しするために、何者かが彼らににこの文書を発見させようとしていたのは明らかだ。しかし誰が? それに公文書館に密かに文書を持ち込むようなことがどうしてできたのか? 国立公文書館のセキュリティは厳重で、文書をシステムに滑り込ませることは、不可能ではないが難しい。もしそれが偽造であったとすれば、おそらく公文書館に収められる前にボックス189に挿入されたのだろう。しかし、もしそうであるならば、なぜ他の文書にはあるカタログ番号が付いていなかったのか?

ムーア、シャンデラ、そしてフリードマンはMJ-12文書を極秘にしていたが、その存在はUFOコミュニティの内輪に徐々に漏れ始めた。そして、何者かはその情報をさらに広めたいと思っていた。1986年、英国で最も有名なUFO研究者であるジェニー・ランドルズは、匿名の情報提供者から、アメリカ政府がUFOの証拠を隠蔽しているという証拠を提示された。しかし、彼女は騙されることを警戒し、その資料を受け取らなかった。

1987年初夏。同じくイギリスの新進気鋭のUFO研究者ティモシー・グッドは彼女のように選り好みはせず、エサに飛びついた。彼は、MJ-12文書を7月に出版予定の自著『アバブ・トップ・シークレット』の付録として発表することにしたのである。この話がビル・ムーアの元に伝わると、彼は公開すべき時は来たと判断し、1987年6月13日の全米UFO会議で発表した。主流メディアはすぐにこの話を取り上げ、数日内にはABCテレビの有名なニュース番組「ナイトライン」や『ニューヨーク・タイムズ』で報道された。

KGBのエイズ捏造と同様、MJ-12文書がどこか遠くの曖昧な話から全国ニュースに登場するまでには3年を要した。一方、ティモシー・グッドの『アバブ・トップ・シークレット』は国際的なベストセラーとなり、再びUFOが世間の注目を集めた。これこそが偽情報のあるべき形だった。MJ-12文書はUFOコミュニティ全体に巨大な亀裂を引き起こし、「この文書こそ長年待ち望んでいた証拠だ」として信用する者と、それはただの捏造だと考える者との間に対立が生まれた。25年が経過した今もなお、その対立は続いており、新たなMJ-12関連文書が次々と現れ、新たな論争と混乱を巻き起こしている。

1988年、FBIの防諜部門は、空軍特別捜査局(AFOSI)の依頼でMJ-12文書の調査を行った。FBIの訓練生が「トップシークレット」の印が押された文書のコピーを所持しているのが見つかったのである。これは機密情報の漏洩として、重大な連邦法違反となる可能性があった。

FBIの長期にわたる調査は、調査ジャーナリストであるハワード・ブラムが著書『アウト・ゼア』で詳述している。FBIの捜査官たちは文書のコピーを多くの政府機関に見せたが、どの機関もその文書について何も知らなかった。次に彼らは敵国であるソ連や中国に目を向けた。FBIは、CIAが冷戦工作の一環として敵対国にUFOの話を広めていたことを知ったため、MJ-12文書はその報復の一環ではないかと考えたのである。しかし、この仮説を裏付ける証拠は見つからなかった。

次にFBIは、AFOSI自体に――とりわけカートランド基地のAFOSIチームに目を向けた。だが、やはり手がかりは得られなかった。ブラムはこう記している。

    彼ら全員が、例外なくMJ-12文書の作成には関与していないと断言した。さらに問題を複雑にしたのは、多くの調査官が突然退職を決めてしまったことであった。彼らは今や民間人であり、そうなってしまえば――これは彼らが強硬に主張したところであり、或る時には呼ばれて立ち会った弁護士も繰り返し訴えたところであるが――彼らは今や民間人として憲法上のあらゆる権利を有していた。

あるFBIの捜査官は憤慨しつつこう結論づけた。「我々はこのMJ-12文書に関してワシントン中のあらゆるドアを叩いた。そこで分かったのは、政府は自分たちが何を知っているのかすらわかっていない、ということだった。秘密の層があまりにも多すぎるのだ……この文書が本物かどうかを永遠に知ることができないとしても、私には何の驚きもない」

結局、答えはAFOSIからもたらされた。彼らはこの文書が「完全な偽物」であることを認めたのである。AFOSIがMJ-12文書を作った者を知っていたとしても、それを明かすことはなかった。我々が知っているのは、リック・ドーティが捜査の一環として尋問を受けた一人であり、彼は1988年に空軍を退職し、一民間人になったということだ――ちなみに彼は西ドイツのヴィースバーデン空軍基地にいた1986年、詳細不明のある出来事の後にAFOSIを離れるよう求められていたのだという。

MJ-12文書は、カートランド基地のAFOSIがUFOコミュニティに対して行ったニセ情報キャンペーンにうまく合致していた。分かっている範囲でMJ-12について最初の論及があったのは1980年11月のことで、それはビル・ムーアがカートランドで見たアクエリアス文書の最後に登場した。この文書の唯一公開されたバージョンは、ムーアが自ら「手直し」してからポール・ベネウィッツやリンダ・ハウらに提供したものである。その最終段落にはこうある。「プロジェクト・アクエリアスについての米政府のスタンスとその帰結は依然としてトップシークレットであって、公的な情報ルート外には公開されず、そこへのアクセスもMJトゥエルブに制限されている」

「ナショナル・エンクワイアラー」の記者ボブ・プラットは、1982年1月にムーアと交わした会話の記録を残しているが、そこで彼は、のちのち小説に盛り込む予定だったMJ-12がいかなるものかについて、以下のようにスケッチしている。「政府…UFOプロジェクトはアクエリアスと呼ばれる。トップシークレットに分類され、アクセスはMJ 12に制限されている(MJは‘マジック’を意味するものと思われる)」。その一方で、ムーアとロズウェルの研究家であるスタントン・フリードマンは、もともとのアクエリアス文書に示されていた12人のメンバーというのは誰なのかについて延々と考察を重ねていた。そして、これには実に驚かざるを得ないのだが、そうやって推測した人々のうち11人は、後にジェイミー・シャンデラに郵送された文書の中に名前が記されていた。

この文書については、出所に関する問題の他に、技術面や事実関係にかかわる問題も多く存在している。中でも最も深刻なのは、ロズウェルUFO墜落事件の「現場とされる場所」である――ここにはMJ-12の存在意義がかかっている。元々のブリーフィング文書には、ETの宇宙船が発見された牧場は「ロズウェル陸軍航空基地の北西およそ75マイルの場所にある」と記されている。しかし、実際にはその場所までは空路で62マイル、道路を利用すると100マイル超となる。こんな細かいことにこだわるのは無意味だと思われるかもしれない。しかし、世界最大の秘密を守る者たちが新しくボスになる人物に報告を上げる時、事実を間違えないよう万全を期すのは当然ではないか。奇妙なことだが、ウィリアム・ムーアとチャールズ・バーリッツが墜落事件について初めて書いた『ロズウェル事件』にも、これと同じ距離が記されているのである――75マイルと。

では、誰がMJ-12文書を作成したのか。容疑者を指さすとすれば、その先にいるのは明らかにAFOSIだ。AFOSIはビル・ムーア、ボブ・プラット、スタントン・フリードマンが何気なく伝えた情報を捏造に利用したのかもしれない。しかし、その場合でも疑問は残る。もしAFOSIが偽造に関与していたとしたら、彼らは文書をAFOSIの本拠地であるアルバカーキから送付するほど間が抜けていたのだろうか。

推測できるのはこういうことだけだ。誰が文書を送ったにせよ(それは必ずしも文書の作成者や写真撮影者と同じとは限らない)、その人物は文書が基地から発せられたものだと思わせたかったのだろう。これはムーア自身も示唆していることだが、おそらく彼は「この文書が送られてきたのは、自分のAFOSIに対する貢献への論功行賞だろう」と思ったのではないか。あるいは、文書を作ったのが誰であれ、その人物はこれがニセモノだとばれても構わないと思っていたのかもしれない――バレるかどうかは重要ではなかったのかもしれないのだ。ハッキリしているのは、MJ-12文書がUFOコミュニティをターゲットに発せられたものだということだ(だから、ムーアとシャンデラが公開を控えている間に、文書は二人の英国のユーフォロジストに送られた)。そしてもう一つ明らかなことがある。作り手たちは人々がずっとUFOを信じ続けるよう仕向けたかったのだ。しかし、それは何故なのか?

■秘密とステルス

MJ-12文書が公開されたタイミングというのは、ポール・ベネウィッツをペテンにかけるところから始まった一連の工作がピークを迎えた時期でもあったわけだが、それは米空軍が当時有していた秘密技術のうち筆頭格であったF-117A「ナイトホーク」ステルス戦闘機の初期飛行とも密接なつながりがあった。このステルス戦闘機の生産決定が下されたのは1978年だったが、それはエルスワースのニセ情報事件があり、UFO墜落事件の話空軍からリークされ始めた年でもあり、そうした動きはやがてロズウェル事件の復活へとつながっていった。この飛行機の最初の試作機は1981年6月に飛行し、完成機は1983年10月にエリア51から飛び立ったが、この飛行機は1988年まで極秘扱いであった。これら初期のステルス機はネバダのエリア51や隣接するトノパ試験場でテストされていたため、航空機マニアやUFOハンターたちの目をそこからそらしてカートランドやダルシェにおびき寄せ、MJ-12文書という紙のチャフ(欺瞞情報)を使って攪乱するというのは最善の策だったのではないだろうか。

関係者間を行き交った文書のやりとりをたどってみると、こうした主張には裏付けがあるようにも思われる。AFOSIとの協力関係にあったビル・ムーアが調査をするよう指示された人物の中には、リー・グラハムという人物がいた。彼はカリフォルニア州アズサにある「エアロジェット・エレクトロシステムズ」社で、ステルス戦闘機や防衛衛星の部品を製造していた。グラハムと彼の同僚ロン・レゲールはUFOにも興味を持っていて、機密技術に関わる仕事をしている折々にそうした話をすることもあった。自分たちが製造に関わっている航空機がどのようなものかを知りたいと思ったグラハムとレゲールは、飛行中のナイトホークをひと目見ることができないかと考え、しばしばトノパに出かけては「ステルス・ハンティング」を試みていた。むろん彼らは、請負業者としてそんなことが許されないことは重々分かっていたのではあるが。

リー・グラハムが最初にムーアに連絡を取ったのは、『ロズウェル事件』を読んだ後のことで、彼らはUFOに関するデータを交換しあった。両者の関係にはAFOSI(空軍特別捜査局)も驚いたに違いない。ほどなくしてムーアは、グラハムにアクエリアス文書、次いでMJ-12文書を提供するようになったからである。グラハムは或る日、こうした文書をどのように入手したのかムーアに尋ねた。すると、ムーアは国防調査局(DIS)のバッジを見せた。DIS(現在の国防安全保障局)は、政府プロジェクトの産業安全保障を担当していた。グラハムはムーアに疑念を抱き始めた。これ以上深入りすれば、自身の機密クリアランスが危険にさらされ、仕事を失うかもしれないと心配になったのである。グラハムはUFO文書をエアロジェットのセキュリティ責任者に見せ、ムーアの行動を調査するよう提案した。

ところが、捜査対象になったのはグラハムの方だった。最終的に彼は、FBIの捜査官と民間人らしき風体をした男の訪問を受けた。彼らはグラハムに「ステルス機を追い回すようなことはやめろ」と強い調子で言った。ところが、UFOについてはこれからもどんどん話して良いし、MJ-12文書も広めていくようにと促した。この矛盾した指示というのは、1950年代にオラヴォ・フォンテスやサイラス・ニュートンに与えられたものを想起させるものがある。

後にグラハムは、FBI捜査官と一緒にいた男がマイケル・カービー少将であることを突き止めた。彼は空軍立法連絡事務所の所長で、ステルス戦闘機の飛行をはじめとするやエリア51での秘密プロジェクトを担当していた。数年後、グラハムは自身に対するDISの調査報告書を入手した。そこには、彼は国家に反逆するような人物ではないが、とりわけビル・ムーアのようなUFO愛好家に騙されて機密データを流出させてしまう恐れがあると記されていた。

グラハムのセキュリティファイルにはもう一つ、重要な人物の名前が記されていた。バリー・ヘネシー大佐である。ヘネシーの空軍での勤務歴によれば、彼は国防情報上級役員会のメンバーであり、かつ空軍長官室の対敵諜報および特別プログラム監視担当セキュリティ部長であった。そこには、彼は「安全保障と対敵防諜政策、ならびに空軍の全ての安全保障・特別アクセスプログラムの管理・監督に責任を有しており、そこには米国の防衛能力に大きな影響を与える可能性のある各種研究プロジェクトのセキュリティを保持する任務も含まれている」とあった。

彼がセキュリティ部長を務める前、MJ-12文書の公開やベネウィッツ事件が進行していた時期には、ヘネシーは国防総省でAFOSIの特別プロジェクト部門(PJ)を統括していた。1989年にリー・グラハムに送られた手紙には、PJの役割が以下のように記されていた。

「B-2およびF-117A航空機のような区分特別アクセスプログラムのためのセキュリティポリシーおよびその関連手続きを開発し、実施する。政府および産業界のプログラム参加者全員について、セキュリティに関連する活動を指導および監督する。特別な空軍の活動に対して対敵諜報およびセキュリティ支援を提供する。秘匿された場所に置かれた2つの分遣隊を運営している」

リック・ドーティとポール・ベネウィッツを邂逅させる作戦を担当していたのはヘネシー率いるPJ部門だったのだろうか? ドーティから提供された情報やムーアから得た情報を使ってアクエリアス文書やMJ-12文書を捏造したのは彼らだったのだろうか? 現在のところ、それが最良の答えということになる。となると、これが意味するのはヘネシーこそが「ファルコン」であって、ビル・ムーアに最初に接触してドーティを紹介した「赤いタイ」の男であったということだろうか? そうであれば完全につじつまがあうが、彼もムーアもそれは否定している。かくて研究者たちは別の可能性を探っているのだが、その中には、ドーティ以外に「ファルコン」たりうる者などいない、という信じがたい仮説も含まれている。だが、思い出してほしい。ドーティは、1988年10月のテレビ番組『UFOカバーアップ・ライブ!』には「ファルコン」として登場していた。

が、ファルコンが誰であろうと、この指揮系統の存在が示唆しているのは工作活動が上意下達で行われたということだ。そしてリック・ドーティは、その底辺近くにあって「現場」のエージェントとして活動していた。秘密のお宝を守るために米空軍はどんな手段を取り、どのようなことに注意を払い、UFOコミュニティに対してどんな対応を取るのか――こういった事について、ドーティ~ムーア~ベネウィッツ~グラハムと連なるエピソードは多くのことを物語っている。空軍にとって、UFO研究家は厄介な存在であり、時には必要な厄介者でもある。しかし、彼らが機微にわたるデータに手を出した時には――グラハムやおそらくポール・ベネウィッツのように――厳重に監視され、試され、時には利用され、そして時には無力化されねばならないのだ。

多くの研究者にとってのMJ-12文書は、「ロズウェルでのUFO墜落事件は本当にあったことで、その隠蔽は事件直後から始まった」ということを示すものとして、いわばUFO陰謀論における聖杯となっている。が、この問題の核心には奇妙なパラドックスがある。UFOコミュニティは、「米政府は真実を語らずウソをついてきた」と繰り返し主張するのだが、政府文書が然るべき形で提示されると、それは確たる証拠とされて真実を正当化するものになってしまう。

そうした信仰を持つ者たちにとってMJ-12文書が示しているのは、「権力の迷宮のどこかには地球外起源のUFO現象が本当にあると知っている者がいる」ということなのだ。これは即ち、いつの日にか情報開示が行われ、本当のことが暴露されるだろうということでもある。こうした情報開示は、ドナルド・キーホーの時代からこの方、UFOコミュニティにとっては希望の灯火であり続けてきた。その灯はこれからも消えることはないだろうし、意地でも灯し続けられるだろう。そして、この灯が燃え続けることは――1980年代や50年代がそうであったように――ヘネシーがやっていた仕事を今日担っている者にとっても重要なことであるに違いない。何故なら、UFOというものが消滅してしまえば、国防総省の手からは特別なプロジェクトを隠すための覆いが失われてしまうことになるからだ。


AFOSIとMJ-12文書のつながりを明確に示すデータがあるにも関わらず、信仰心篤きUFOの信奉者たちはこれを受け入れようとせず、今にいたるまでMJ-12やロズウェル墜落事件を喧伝し続けている。ここでもまた、我々は集団的な認知的不協和が働いているのを目にしているのだ。明らかになりつつある事実に直面しながらも、この現実を深く否定してしまうというアレだ。我々はここで一種の「ストックホルム症候群」が作動しているのを目撃しているのかもしれない。捕虜が捕獲者の心情に共感し始めてしまうというアレだ。MJ-12文書は1984年以来、UFOコミュニティを捕らえ続けており、政府のUFO陰謀を証明するための唯一の希望となっている。これらの文書がニセモノであることを受け入れた人間であっても、それはより深い真実があることを指し示しているニセ情報だとして擁護している者がいるのだ。そして、文書は次々と登場してくる。1990年代初頭からは、ゆっくりと拡大しつつあるもう一つの宇宙のように――あるいはロールプレイングゲームの拡張版のように――一連の新たな文書が現れ、MJ-12のシナリオにさらなる複雑さを加えてきた。これらの新しい文書のコピーはオンラインで見つけることができるが、その中でも最も想像力豊かなのは、1954年の特殊作戦マニュアル(SOM1-01)であり、地球外の宇宙船の回収作戦に関わる者へのブリーフィングガイドとなっている。

もしMJ-12文書の目的がUFOコミュニティを混乱させ、分裂させ、弱体化させることだったとすれば、それは作り手たちの期待をはるかに上回る成功を収めたと言えるだろうし、これは黒魔術の傑作とみなすべきだろう。誰がやったことであれ、彼らはJ.R.R.トールキンやジョージ・ルーカスが想像したものに匹敵する神話を生み出した。そしてそれは同じくらい長く続いていくに違いない。

■エイリアンシード

1980年代後半、MJ-12文書に含まれていた情報、ビル・ムーアやリック・ドーティが流布した文書、ポール・ベネウィッツのプロジェクト・ベータの情報といったものは、当初広まっていたUFO研究家のインナーサークルを越え出て、一般社会にも広がり始めた。この当時、インターネットは人々の生活に広まりつつあった。テキストオンリーのダイヤルイン方式の掲示板が、こうした奇妙な話を保管し、伝えるための格好の手段となっていた。

アメリカの真剣なUFO研究者たちの中には、インターネットが情報収集および共有のツールとしての潜在力を早々に認識した者もいたが、それはまた、新たに登場したコンピュータ愛好家やハッカーたちの注目も集めた。彼らの多くは(実は私もその中の一人なのだが)ロールプレイングゲームやビデオゲーム、ファンタジー、ホラー、SF文学を通じて世界を見つめて育った世代だった。こうした新たな愛好家のグループは、コンピュータ端末の下に広がるケーブルの束に足を置きつつ、その目は星々に向けるようなタイプで、UFO文化から流れ出してくる奇妙な情報のパッチワーク(それは複雑で詳細を極め、感情にアピールするものだった)を受け入れる準備はすっかりできていた。

この時期に最も影響力のあった情報のソースは、おそらくジョン・リアーであろう。彼の疎遠だった父親は、リアー・ジェットや8トラックテープレコーダーの発明者ウィリアム・リアーで、地球の大気圏の内外を自由に飛べる飛行機というのは電磁的に重力場を制御することで可能になるであろうという信念を常々公言している人物だった。ジョン・リアーは何年もの間、プロのパイロットとして働き、CIAの命を受けた「エア・アメリカ」社のミッションで東南アジアに飛ぶなど、様々な仕事をこなしてきた。腕利きのパイロットということで空軍や諜報の世界における彼の声望は高かったから、1987年後半にUFO情報を広め始めた際には、彼は一目置かれる情報ソースになっていた。

リアーがUFOに夢中になったのはその年の初めで、彼はそれ以降、可能な限り多くの情報を猛烈なスピードで集め始めた――本を読み、映画を観て、ポール・ベネウィッツやビル・ムーアといった人物と話し合ったりした。リアーがUFOに関して公に発した最初の声明は、各種の掲示板を通じて広く拡散された。それは、アクエリアス文書やMJ-12文書のニセ情報、そしてポール・ベネウィッツが体感した地下世界への妄想めいた恐怖を完全にまとめ上げたものだった。

1988年2月14日に行われたリアーへのオンラインインタビューからは、彼が広めていた情報の内容がうかがえる。その内容の多くは、今日の我々には馴染み深いものとなっている。曰く――戦略防衛構想(SDI)はロシアのミサイルを迎撃するためではなく、地球外生命体の攻撃から私たちを守るために開発されている。ロナルド・レーガンとミハイル・ゴルバチョフがアイスランドで会談を行ったのは、地球外生命体の脅威について話し合うためで、それが冷戦の緊張緩和の主な要因だった。CNNはMJ-12のメンバーによる暴露インタビューと、ロスアラモスで空軍大佐が地球外生命体とテレパシーで対話する様子の映像を放送しようとしていた。別のビデオにはETの映像装置が映っており、そこにはキリストが磔にされる場面が出てくる。一方でETたちは、ダルシェの地下基地で人間や動物を誘拐し、恐ろしい遺伝子交配実験を行っている。捕獲されたETの乗り物はエリア51で政府によって飛ばされている……そういった話が延々と続いていた。

1989年のMUFON会議でビル・ムーアが告白をした頃には、リアーが広めたこれらの話はUFOコミュニティに新たな血を注ぎ込んでいたが、一方ではそのコミュニティを分裂させてもいた。その内容はセンセーショナルで、恐怖を煽り、ほとんど馬鹿馬鹿しい内容だった。まさにSF的な悪夢そのものであったわけだが、実際それは悪夢を生み出した。ビル・ムーアとリック・ドーティが生み出してポール・ベネウィッツに伝えた話は、こうした新たな経路を通じて広がり、新たに夢中になる人々を生み出した。そうやって夢中になった人間は、明らかに政府やペンタゴンの最深部にもいた。

このような話は、新聞や雑誌、テレビのニュース、ドキュメンタリー番組(たとえば『UFO カバーアップ・ライブ!』や『未解決ミステリー』だ)といった主流メディアにも時折姿を現したである。1990年代半ば、つまり事がAFOSIの手を離れてから10年が経過した頃には、これらのアイデアは再び形を変え、今度はフィクションの世界に入り込んだ。『X-ファイル』や『ダークスカイズ』、そして大ヒット映画『インデペンデンス・デイ』は、その伝播のための非常に効果的な手段となり、20年前にスピルバーグの『未知との遭遇』が大衆の想像力に与えた影響に匹敵するものとなった。

さらにその10年後、ラフリンでのUFOコンベンションでも、同じ話は依然として語られ続けていた。新しいMJ-12文書、新しいビデオ、新しい証言者や告発者が現れ、皆同じメッセージを繰り返し伝えていた。ETは実在し、彼らはここにおり、アメリカ政府と対話しているというのである。こうしたメッセージは何度も繰り返され、語り直されるうちに、それを聞く者の記憶に永続的な痕跡を刻み込むようになる。疑わしいという気持ちを退け、真実であるとして親しみを覚えるようになってしまう。

しかし今、そのコンベンションは終わりを迎えた。ほとんどの参加者は、少なくとも次回の会合まで自分の惑星に帰っていくだろう。私とジョンは、過去1週間の狂気から解放されることに安堵していたが、一方でビル・ライアンとの別れを惜しんでいた。1週間のストレスに消耗したとはいえ、大衆の前で初めてひと仕事終えた彼は、自信と新たな使命感に満ち溢れていた。そして、新しい仕事には余得がなかったわけでもなかった。ビルは、予定していたイギリスへの帰国を取りやめ、講演の後に近づいてきた魅力的な黒髪の女性と数日間ラスベガスで過ごすことになったのである。「信じられないだろうけど」と彼は興奮気味に私たちに告げた。「彼女には人間の親は一人しかいないんだ。もう一人の親は地球外生命体なんだよ」

我々はビルの幸運を祈り、冷静に行動するよう助言した。誰もその時点では知らなかったが、セルポの大使としての彼の役割はもうすぐ終わろうとしており、さらに壮大な任務が彼を待ち受けていたのである。とまれ、私とジョンはといえば、アルバカーキに向かおうとしていた。インタビューのため、そこでリックと落ちあう約束をしていたのだ。 (14←15→16)

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■第12章 百聞は一見にしかず

    「その目的は……テレビ画面を通じて数十億の人間の心を直接条件付けすることだ……情報をコントロールする者が世界を支配する……そこではもはやメッセージに伝えるべき内実などない。メッセージは印象的な誘惑なのだ」
     ――ロフティ・マヘルジ、アルジェリア・アクチュアリテ、1985年3月13-19日

ホテルのバーに戻った我々に、リックはまた色々な話を聞かせてくれた。それによると、ウディ・アレンは大のUFO信者で、あるとき私立探偵を雇ってその真実を探らせたことがあったのだそうだ。その探偵はアレンのクレジットカードを使って1万5000ドルを使い込み、そのまま姿を消した。リックはスティーヴン・スピルバーグの家を訪れたことがあり、彼が空軍から購入したF-16やC-130のフライトシミュレーターを見たそうだ。リックは『Xファイル』や、スピルバーグがエイリアンによるアブダクションをテーマに手がけたミニシリーズ『テイクン』のコンサルタントとしても働いていた。軍のUFO関係者の中には、このような仕事に就いた者も少なくないという。リックは『Xファイル』のエピソードの1つに吸血鬼としてカメオ出演したこともあると言っていた。

ポール・ベネウィッツの精神を乱し、UFOの研究コミュニティを汚染する計画に関与した男が、その後、テレビを通じて何百万もの熱心な視聴者たち――その多くは将来UFO研究者になったはずなのだ――に影響を与える立場にあった。そう考えると、私はいささか心穏やかではいられない気分になった。そうしたコンサルタントたちは、自分たちが作り上げた神話を大衆の意識へと拡散していった時点で、なお空軍やDIA(国防情報局)に所属していたのだろうか?

私はリックに尋ねた。もし政府がUFOやエイリアンに関する真実を知っているのなら、なぜそれを我々一般市民に隠し続ける必要があると考えているのか? 1950年代であれば、エイリアンは共産主義者と同様、恐れるべき存在だったのかもしれない。しかし、『未知との遭遇』や『ET』を体験した我々は、宇宙の隣人に出会う準備ができているのではないか? 異星人とのコンタクトがあってもそれはあまたあるニュースの一つになり、数週間か数か月間は話題になるとしても、やがてはセレブをめぐるニュースやスポーツニュースに飲み込まれてしまうのではないか?

それに、もし1947年にエイリアンとの接触があったのなら、それから何か成果が上がっているのではないか? 世界は何か変わっただろうか? 我々は今でも資源を巡って争い、環境を破壊している。クラトゥのような、銀河を股にかける警察官はどこにいるのか? 人類の技術の進歩を考えてみても飛躍的な進歩などあったろうか? フリーエネルギーはどこにあるのか? 個人で飛ばせる空飛ぶ円盤は? 物質転送装置は? 僕のジェットパックはどこにあるのか?

「君は自分で答えを言ったじゃないか」。そうリックは言った。「フリーエネルギーだよ。エイリアンはフリーエネルギーを持っているが、そのことを抑えている連中は、一般人がそれを知ったらどうなるかを恐れているんだ。無限のクリーンエネルギー源があれば、石油経済が崩壊し、世界がひっくり返るかもしれない。世界中がカオスに陥る可能性がある。彼らはそういうことを心配しているんだ」

私は納得できなかった。たとえフリーエネルギー源が出てきたとしても、使用量は記録されるだろう。つまりインフラの費用は誰かが負担しなければならないのだ。しかし、確かに移行シナリオは複雑だろうと私は認めた。突然、リックは席を立ち、テーブルを離れた。私は彼を怒らせたのだろうか? 数分後、彼は我々のためにビールを、自分にはクラブソーダを持ってきた。彼は腰を下ろし、ガラスのテーブルの反対側から笑顔をみせた。遠くのスロットマシンのチラつく光が彼の頭の周りで炎のように揺らめいていた。

「君たちが好きだよ」。彼はなお微笑みを残しながらそう言った。「君たちは賢い」

「ありがとう」。私たちもリックが好きだと言った。何かが起きつつあった。

「この一週間、一緒に多くの時間を過ごしたよな。なぜだと思ったことはあるか?」

「ええと、ただ気が合っているんだと思っていました」

「まあ、そうだな。確かに気が合っている。でも、僕のほうは君たちを観察していたんだ。君たちが本当に言っている通りの人物なのか確認する必要があったからね」

「どういう意味ですか? インターネットで調べたとか?」

「そうだ。でも指紋も採取したし、いろんなデータベースでも調べた」

ジョンと私は、お互い顔を見合わせた。信じられない。

「指紋?! 一体どうやって?」。ジョンの声は震えていた。

「それは簡単だよ」。リックは、我々が困惑するのを横目に微笑んだ。「君たちが触ったものから採取できるんだ。ビール瓶みたいなものでもね」。彼はビール瓶を1本持ち上げた。「ここには指紋がびっしりだ。でも心配しないでいい。君たちはリストには載っていない。クリーンだ。問題ない」

「何のリストですか?」

「外国のスパイじゃないか、犯罪者じゃないか。そんなことを調べたのさ」

「でも僕たちはミステリーサークルを作った。あれは犯罪だよ!」。ジョンはそわそわしつつ笑った。

「心配ない。そんなことでは逮捕しないよ!」

しばし間が空いて、空気がちょっと軽くなるのを感じた。

「そこでだ。僕はDIAや政府の友人たちと話をしていたんだが、君たちが関心をもつかもしれないような提案が彼らからあった」

おっと、何てことだ。

「君たちがかなり乏しい予算で活動しているのは知っている。それで彼らは、その点で君たちを少し助けてあげられるかもしれないと言うんだ。要するに、撮影をいくらか支援してやれるということだろうね。……ただし、もし自分たちが作っている映画の内容に関していくつか提案を受け入れる用意があれば、だが」

重苦しい空気が漂った。ジョンの顔が青ざめていた。私は少しめまいを感じた。リックがビールに何かを入れたのか? 彼は続けた。

「彼らは君たちの映画用に映像素材を提供しようとしているのかもしれない――僕が昨日見たようなものをね。あるいは、この映画プロジェクト全体を指揮する代わりに、君たちが要した時間分も含めて全予算を負担しようということかもしれない。よく分からないが、25万ドル、いや50万ドル出すつもりかもしれないね。……こういう話に興味はあるかい?」

私は咳払いをし、口を開こうとした。と、そこでジョンが話し始めた。「リック、僕たちはお金のためにやっているわけじゃないんだ。もしそうだったら、こんなことはしていない。何か別の映画を作っているだろうね」

「君たちが倫理的な人たちだということは評価しているし、だからこそ嬉しい。それが僕が君たちを好きな理由の一つなんだ。君たちは偏見を持たず、えこひいきはしない。物事の真実を知ろうとしているだけだ。その点は尊敬しているし、同じ立場だったら、僕もそうするだろう」

「そうですねえ」。私はできる限りビジネスライクに聞こえるように言った。「彼らの提案には目を通してみましょう。そのまま通すつもりはありませんが、良いアイデアや良い素材があるかもしれない。大手スタジオや広告代理店のために映画を作るようなものだと思えばいいのかもしれないですね。ただし、そこで宣伝するのはUFOなんですが!」

「そうだね、そんなふうに考えることもできるだろう。とにかく、この話について考える時間を君たちにあげるよ。僕は明日ニューメキシコに戻る予定だ。出発前にもう一度会おう。そして、来週アルバカーキでまた会えればいいね」

リックが見えなくなると、ジョンと私は同時に安堵のため息をつき、笑い出した。信じられない気持ちだった。こんなことが起こるかもしれないとは予想していたが、実際に起こるとは思ってもみなかった。それにしても、何が起きたのだろう? あれは現実だったのか、それともまたまたリックのいたずらだったのか?

私たちは、どんな提案であれ少なくとも検討はしてみるべきだということで一致した。最終的には自分たちの有利になるように事を運べるかもしれないし、優位を保つこともできるだろう。政府のニセ情報とUFOに関する映画を作るのに、実際のニセ情報を使うことができたら、これほど適切なことはないだろう。もし彼らが「ETはいる」という宣伝映画を作れと言ってきたら、そのお金をどこにつぎ込むべきかを教えてあげることになるだろう――もちろん丁寧にではあるが。そして、彼らの提案を受け入れなかった場合には、映画冒頭に次のようなテロップを入れるのも面白いかもしれない。「『ミラージュ・メン』の制作中、アメリカ国防情報局は我々に50万ドルを提供し、彼らの望む映画を作るように求めた。我々はその提案を断った」

結局のところ、リックのいかがわしい提案は実らなかった。彼は「向こうから連絡を取ってくるだろう」と言って情報畑のある人物の名前を教えてくれた。しかし、それから数週間、首を長くして待ったジョンと私は、つれない現実を受け入れねばならなくなった――米政府は我々に関心を示さなかったのか、そうでなければリックの教えてくれた人物はそもそも実在しなかったのである。いずれにせよここで言えることは、我々の映画が仮にアメリカの防衛当局から便宜を受けたとしても、それは初めての事例ではなかったということだ。

1953年当時、CIAのロバートソン・パネルは、「未確認飛行物体に付与されてしまった特別な地位や、残念ながらそれがまとってしまったナゾめいたオーラをはぎ取る」ために、「広範な教育プログラム」を立ち上げることを勧奨していた。こうした教育プログラムに関わった企業として名前が取り沙汰された会社の中にはウォルト・ディズニー社があり、同社を代表するアニメーターの一人によれば、こうした活動は2年後に実際に行われたのだという。ウォード・キンボールはウォルト・ディズニーに近い立場にあったアニメーター兼デザイナーだった。彼は『ピノキオ』のジミニー・クリケットや『ダンボ』におけるカラスたちを作り出し、ディズニーの短編映画で2度オスカーを受賞している。

1950年代半ば、キンボールはドイツのロケット科学者ウェルナー・フォン・ブラウンをフィーチャーした3つのテレビ番組、すなわち『宇宙における人類 Man in Space』『人類と月 Man and the Moon』『火星とその彼方へ Mars and Beyond』の脚本を執筆し、監督した。これらの「科学ドキュメンタリー」映画は非常に人気があり、アメリカの宇宙開発プログラムへの支持を広めたり、将来宇宙飛行士になることを夢見る子供たちを多数生み出す効果をもたらした。いかめしいが慈愛を感じさせるフォン・ブラウンはここで、4段ロケットや宇宙ステーション、そして最終的に火星やそれ以遠に人類を送り込む原子力宇宙船の計画を披露した。アイゼンハワー大統領は『宇宙における人類』を個人的にコピーしてくれるよう求めたとされ、ロシアの著名な宇宙科学者レオニード・セドフも同様な求めをしたと言われている。

ウォード・キンボールはまた、熱心なUFO愛好家でもあり、生涯にわたってその興味を持ち続けていた。1979年、彼は予告なしに「ミューチュアルUFOネットワーク」の年次会議に現れ、アメリカ空軍は1955年、ウォルト・ディズニーにUFOに関するドキュメンタリー映画を作ることを提案したことがあると語った。空軍はディズニーに実際のUFO映像を提供することを約束し、ディズニーは映画に登場させるエイリアンのキャラクター作りの仕事をアニメーターたちに命じた。しかし、結局空軍はUFO映像を提供せず、ディズニーはプロジェクトを中止するに至った。ただし、この時のエイリアンのキャラクターのうち幾つかは、一般公開されなかった15分のUFO映画に登場している。

キンボールは、空軍とディズニーがコラボした目的は、アメリカ人をETとの接触の現実に備えさせるためだと考えていた。こうした噂は、キリスト教色の強いUFO寓話ともいえるロバート・ワイズ監督の『地球が静止する日』(1951年)や、25年後のスピルバーグの啓示的映画『未知との遭遇』にもつきまとっている。スティーブン・スピルバーグやロバート・ワイズの動機がどんなものだったのかはハッキリしないが、おそらく彼らも他の我々と同じように新聞やUFO本で読んだことに影響を受けたのであり、彼らの映画はその影響の産物だった可能性は高い。

しかし、それらとは別に空軍によって完全に公認された映画も一つある。そのメッセージは明確だった。「UFOは実在する」というものだった。

■UFO: 過去、現在、未来

ボブとマーガレット・エメネガー夫妻は親しみやすくて陽気なカップルで、年齢は60代後半から70代前半である。彼らは、アーカンソー州の緑豊かな農地にあって、美しいイギリス風のアンティーク家具が並ぶ美しくて大きな家に住んでいる。夫妻が出会ったのは二人がロサンゼルスにある巨大な広告会社「グレイ」で働いていた頃で、マーガレットはデザイナー、ボブは最終的にクリエイティブ・ディレクターになった。マーガレットは愉快で弁舌鋭く、折れないタイプ。ボブも同様に快活ではあるが、性格はより穏やかでリラックスしたタイプだ。

夫妻は共に引退しているが、地域社会では活発に活動している。ボブは地元の音楽イベントを仕切り、地域のオーケストラで演奏をしている。彼は才能ある音楽家であり、ユーモアのセンスもある。1970年代初頭の人気テレビシリーズ『チンパン探偵ムッシュバラバラ Lancelot Link: Secret Chimp』の音楽を作曲したことを誇りに思っている。ちなみにこれは、主人公のチンパンジーがロックバンドで演奏しながら二重スパイとして活躍するという番組だ。


ボブとマーガレットは、ETはかつて地球を訪れたことがあり、おそらくは今でも地球にいるのではないかと信じている。マーガレットは、元サッカー選手から陰謀論者に転じたデイヴィッド・アイクの説だとか、2001年9月11日の事件にまつわる疑問、そして人間とエイリアンのハイブリッドでサイキック能力を持つ「インディゴ・キッズ」について話すのが好きだ。ボブは必ずしもマーガレットの全ての見解に同意しているわけではないが、UFOに関しては一定の知識を持っている。映画制作者として、ボブはおそらく他の一般市民よりもUFOの真相に近づいているのだが、そうした仕事をするよう仕向けたのはアメリカ空軍であった。

1970年代初頭、ボブ・エメネガーと彼の制作パートナーであるアラン・サンドラーは、古くさくなってしまった企業ブランドを復活させるような仕事で評判を得ていた(例えばリチャード・ニクソン大統領の再選キャンペーンといったものである)。1972年、彼らはペンタゴンのためにそのマジックを披露するよう依頼された。当時の国防総省は困難な状況に直面していた。ベトナム戦争は10年近くもダラダラ続き、アメリカ国民が政府に抱いていた僅かばかりの信頼はほとんど無に帰そうとしていた。国防総省には後押しが必要だったのだ。ひとつには自らの士気を高めるため、もう一つには人々に入隊を促すために。サンドラーとエメネガーはその手助けをできるのだろうか?

彼らの映画は、当時の軍内部にあって特にエキゾチックで刺激的なネタに焦点を当てることになった。エメネガーは、海軍で訓練を受けているイルカ、新たな原子融合技術、人間の心とコンピュータをつなぐインターフェース、偵察や爆弾探知の訓練を受けた犬を見たことを覚えている。いくつかの犬が頭にマイクロチップが埋め込まれているシーンもあったが、しかし、それは映画館でポップコーンを食べながら見たいようなネタではなかった。

先進的なレーザー技術やホログラフィーといった新技術も目玉の一つであった。アラン・サンドラーは、とりわけ印象的なホログラフィックのデモンストレーションを見せられた。映写室には端っこに小さな舞台があった。カーテンが開くと一人の男性が登場し、ペンタゴンの最新鋭ホログラフィー投影技術を紹介した。するとその瞬間、突然小さな鳥が舞台袖から飛び出し、その男性の肩に止まった。彼が微笑むと、その男性と鳥は消えてしまった。それ自体がデモンストレーションだったのだ。

犬やイルカ、レーザーは確かに興味深いが、それだけでは足りなかった。グレイ社の二人はもっと劇的なものを求めていた。そして、ペンタゴンの担当者はそうしたものを差し出すことになった。UFOである。サンドラーとエメネガーは、ロサンゼルス郊外のノートン空軍基地に招かれ、基地のAFOSI(空軍特別捜査局)長や、AFOSIに関係する保安担当官であり、空軍の映画取得部門の責任者でもあったポール・シャートルに会った。

空軍がUFO調査機関「プロジェクト・ブルーブック」を閉鎖してからまだ3年しか経っていない時期だった。それだけに、UFOに関するプロモーション映画をグレイ社に依頼することにはほとんど意味がなかった。しかし、ペンタゴンは真剣だった。二人は空軍のトップであるジョージ・ワインブレナー大佐とウィリアム・コールマン大佐に引き合わされた。ワインブレナーは、ライト・パターソン空軍基地にある外国技術部門(FTD)の司令官であった。FTDは今日の国家航空宇宙情報センターであるが、過去も現在も変わらることなく、空軍が保持していない技術に関する情報の中心地だった。もし本物のUFOについて知っている者がいるなら、それはワインブレナーであった。あるいはコールマンが知っていた可能性もある。彼は1960年代にブルーブックの広報連絡官を務めており、会見の時点では空軍の最高情報責任者だった。

ブルーブック時代のコールマンは、アメリカのトーク番組の司会者であるマーヴ・グリフィンにこう語ったことがある。「UFOのタイヤを蹴飛ばすことでもできたらUFOを信じますよ」。この発言に対しては「UFOにはタイヤなどない」という手紙が大量に寄せられたという。だが、コールマンが当時言及しなかったことがある。彼は1955年、B-52爆撃機でアラバマ州とフロリダ州の州境上空を飛行中、自らUFOを目撃していた。それは完璧な銀色の輝く円盤で、あまりにも至近距離であったため、彼は衝突を避けようとして巨大な爆撃機の方向を急ぎ変える必要があったという。円盤はいったん消えた後、飛行機から約2,000フィート下方、地表から100フィート付近に再び出現し、影を落とす一方で巨大な土煙を巻き上げた。

幻覚では土煙は立たない。コールマンと4人のクルーは非の打ち所のない報告書を作成し、プロジェクト・ブルーブックに提出した。コールマンが10年後にブルーブックから退くことになった時、彼は自分の報告書の記録がないことを知って驚いた。1999年にインタビューされた際、コールマンはこれを管理の不備に起因すると寛大な解釈を下していたが、UFOハンターたちは長い間、ブルーブックというのは、より秘密に行われているもう一つの作戦の隠れ蓑だと主張していた。この主張が真実であったことは、1979年に公開された1969年作成のメモ(これはブルーブックの閉鎖を記すものだった)によって最終的に証明された。その核心部分にはこうある。「国家安全保障に影響を与える可能性のある未確認飛行物体の報告は……ブルーブックのシステムの所管外である」

コールマン大佐とワインブレナー大佐は、空軍がUFOに関心を持っていることを示すのに熱心だった。空軍のファイルに自由にアクセスできると告げられたサンドラーとエメネガーは、UFOに関する映画を作ることを決めた。大佐たちは、機密情報を扱う際の危険性について映画製作者に警告しながらも、米国上空のみならず宇宙空間のものも含むUFOの膨大なデータ、写真、映像を提供することを約束した。さらに彼らは、CIAの高官を含む人たちによる至近距離からのUFO目撃の証拠だとか、とりわけ劇的な事例として1971年にホロマン空軍基地で実際に起きたETの宇宙船の着陸映像があることをほのめかした。映画『UFO: 過去、現在、未来』は、アメリカ空軍はUFOに本気で関心を持っているだけではなく、UFOとは何であり、その中に誰がいるのかを知っていることを示す作品になる予定だった。

大佐たちはこの資料を映画製作者たちに提供するためなら、どんなことでも厭わなかった。サンドラーはNASAに宇宙空間でのUFOの写真や映像を求めたが、NASAは門前払いをくらわし、そんな資料は持っていないと拒絶した。サンドラーがこのことをアメリカ空軍の担当に伝えると、空軍は「UFOが目撃されたNASAのフライト」「関係した宇宙飛行士の名前」、さらには「関係する映像のフレーム番号」にいたるまで詳しく記したペーパーを渡してくれた。この新情報を携えてNASAを再訪したサンドラーは、目当てのものを手にすることができた。もっとも、その画像にはぼやけて不鮮明なものしか映ってはいなかったのであるが。

なぜ空軍は、この程度の曖昧模糊とした資料を映画製作者たちに渡すために、多大な努力を払ったのか。これはこの事案にまつわる多くの疑問の中の一つに過ぎない。

さらに不可解なのは、コールマンを通じて映画製作者たちと接触したロバート・フレンド中佐が、彼らに語った話の内容である。フレンドはAFOSI(空軍特別捜査局)で働いていたが、1958年から1963年まで、少佐としてプロジェクト・ブルーブックの責任者を務めていた(ちなみにこのプロジェクトの要員は彼が去る頃には2名に減っていた)。

1959年7月初旬、フレンドはCIAの国家写真解釈センター(NPIC)で海軍情報部の司令官2人とCIAの職員たちと会うように求められた。U-2偵察機による写真データの分析を行うため1954年に設立されたNPICは、ワシントンDCの5番街とKストリートの区画にある駐車場ビル最上階にひっそりと置かれていた。2人の海軍司令官はメイン州のフランシス・スワンという女性を訪問してきたのだが、その女性によれば、彼女はAFFAという名の地球外生命体とテレパシーで交信しているのだという。このAFFAはOEEVという組織のリーダーで、EUNZAと呼ばれる地球での調査プロジェクトを進めているということであった。海軍の司令官たちは懐疑的であったが、スワンに複雑な技術的・天文学的な質問を投げかけると、驚いたことに彼女は正しい答えを返してきたのだという。AFFAはその後、交信チャンネルは切り替えられるので、海軍の人物を介して交信したいと提案。その海軍の司令官は同僚の発する難しい質問にちゃんと答え続けたという。[訳注:要するに海軍の軍人がチャネリングに挑戦したという話である]

この奇妙な出来事がワシントンに伝えられると、2人の司令官はCIAの写真センターに召喚された。かくて1959年7月6日、。先の海軍の人物をAFFAとの伝達役として、彼らは再び交信実験を行うことになった。ここでエイリアンが実在する証拠を求められたAFFAは、「窓のところに行け」と言った。するとその時、ごく近い距離を一機の空飛ぶ円盤がゆっくりと通過していった。驚いた列席者は近隣のレーダーセンターに問い合わせをしたが、返ってきた返答は「スコープ上には何も見えない」というものだった。彼らはこの時点でロバート・フレンドに助けを求めたのである。

3日後、フレンドは新たな交信セッションに立ち会うことになった。AFFAはこの時も前回同様、海軍の司令官を通じて話をすることになった。この時はフレンドが「空飛ぶ円盤を見たいのだが」と言ったところ、AFFAは「今はまだダメだ」と答えた。飛ぶのを見られなかったことには失望したが、海軍の司令官のトランス状態は本物だと確信したフレンドは、ライト・パターソンの上官に報告書を提出した。

ボブ・エメネガーは、フレンドを通じてこの会合についてのCIAのメモを入手したが、このメモは、NPICの創設者であり、CIAのロバートソン・パネルのために写真分析を行ったアーサー・ランダールが書いたものであると目された。このメモによってフレンドの説明通りの出来事が起きたことが裏付けられた形となり、これはエメネガーの映画の中でETとのコンタクトがあった証拠として取り上げられた。しかし、1979年にランダールとの連絡が取れた際、彼は1959年7月6日にNPICの窓のところに空飛ぶ円盤が現れたことを否定した。また彼は、件のメモを書いたことも否定した。

    私は一瞬たりとも、件の海軍将校が宇宙と交信していると信じたことはないし、UFOを見たこともない。我々がそんなデモンストレーションをやってみせろと言ったこともない。彼の説明によれば、スワン夫人は「自動書記」なるものを見せてくれたということで、もし求められれば私にも見せようということを言っていた……彼が私を [会議の出席者に] 選んだのは、私が彼の友人だったからだと思う……私は地球以外に知的生命体が存在することを信じているが、この件に関して言えば、彼に対してただただ同情と恥ずかしさを感じるばかりだった。厄介ごとに巻き込まれた男、私の友人だった男、そして上官に知られたら確実にキャリアを台無しにしてしまうような目に遭った男に対する思いとして。

もしランダールが真実を語っているなら、エメネガーに渡されたCIAのメモは誰が作成したのか。宇宙人に関する話に信憑性を与えるように詳細が改竄されたのは何故か。ランダールは、この会合が実際に行われたこと、CIAと海軍情報部が関与していたことは明確に認めている。ロバート・フレンドが調査に呼び出されたことも確かである。しかし、重要な細部――とりわけ本物の空飛ぶ円盤の出現が報告書に追加されてしまったことで、事態はよりドラマティックになり、空飛ぶ円盤の信者たちの掲げる火には油が注がれ、懐疑的な人々の疑念は膨らむことになった。この出来事は、ベネウィッツ事件に先駆けること10年前、エメネガーに対して示されたAFOSIの古典的ニセ情報作戦の一例であったように見えるのだ。

しかし、映画製作者たちにとって垂涎の的となったのは、エメネガーが聞かされたストーリー、すなわち1971年5月の早朝にホロマン空軍基地で起こったUFO着陸の話であった。彼が聞いた話では、まず最初に3機の飛行円盤が基地上空に現れ、そのうちの1機が不安定に揺れながら降下を始めた。それは地上から数フィートの高さで短時間ホバリングした後、3本の脚で着地した。偶然ではあったが、ヘリコプターに乗っていた空軍の映画撮影班はこの降下の様子を撮影しており、地上からは別の撮影班がこのシーンを捉えていた。

エメネガーはこの映画にリンクして刊行されたミリオンセラーの中で、空軍のフィルムアーキビストで、この出来事を目撃したと主張するポール・シャートルから聞いた話を描写している。


    司令官と2名の将校、それから空軍の科学者2名が到着し、不安げに待っていた。やがて、機体の側面にあるパネルが開いた。そこから外に1人、次に2人目、そして3人目が現れた。彼らは、タイトなジャンプスーツを着た人間のように見えた。背丈は我々の基準では低いかもしれず、顔色は奇妙な青灰色で、目は遠く離れて配置されていた。大きく目立つ鼻を持ち、頭部にはロープ状のデザインを思わせるヘッドピースを着用していた。

司令官と2名の科学者が前に進み、訪問者たちを迎えた。音声を介さないような形でのコミュニケーションが行われ、グループはすぐに「キング1」エリアの室内に入っていった。


その後何が起こったのか、宇宙人が何を話したのか、何を食べたのか、彼らが贈り物を持ってきたかどうか。これらは不明である。

ホロマンでの撮影を準備する中、エメネガーは管制官の一人に着陸について尋ねた。彼は「飛ぶ浴槽」のような物体が着陸するのを見たことを覚えていたが、それ以上の話はしなかった。エメネガーは火星ストリートにあるビルディング930に案内された。そこには宇宙人とその機体が滞在中保管されていたというが、今では特に異常なものはなかった。ホロマンでの撮影が完了した後、サンドラーとエメネガーは、このプロジェクトをUFOドキュメンタリーから歴史的事件に生まれ変わらせてしまう映像が届くのを待ちわびていた。しかし、映像は決して現れなかった。

落胆した様子のコールマン大佐は、こう告げた。――ペンタゴンの上層部が「今はこのとりわけ厄介な問題を掘り下げるのに良い時期ではない」と判断したのだと。当時、ウォーターゲート事件やニクソン政権の崩壊は人々を神経質にさせていたのだ。彼らは、その代わりにこの事件を「将来起こるかもしれないこと」として描くよう勧められた。せめてもの慰めとして、映画製作者たちは、何やらハッキリしない物体がホロマンの滑走路と思われる場所に降下する映像をいくつか映画に取り入れた。この映像は実際の着陸映像の一部だという噂は根強く残っているが、エメネガーはそれを「単にホロマンで実験機が着陸する様子を自分たちのカメラマンが捉えたものだ」と述べている。エイリアンとの遭遇についていえば、サンドラーとエメネガーは、ポール・シャートルの説明を基にしたアーティストの想像画で代用するしかなかった。

怒ったエメネガーは、ライト・パターソンにいるワインブレナー大佐との面会を要求し、なぜ映像が自分たちから奪われたのかを問いただした。ワインブレナーは不満そうに大声で言った。「あのミグ25のせいだ!こちらは持っているものを全部公開しているというのに、ソ連には我々が知らないものがたくさんある。もっとミグ25について知る必要がある!」。彼は前年に出版されたJ・アレン・ハイネックの『UFO体験』を本棚から取り出し、その中にある自分宛の献辞をエメネガーに見せた。「カフカの物語の一場面のようだった」。エメネガーはそう回想している。

それでは、映像は実際に存在していたのか、それとも単なる「撒き餌」だったのか? それは映画製作者たちに、自分たちの「ドキュメンタリー」はUFO現象の虚偽広告以上のものになるという確信を抱かせるためのルアーだったのだろうか?ポール・シャートルは、自分が見たのは本物だとしつつ、それは空軍が訓練用に映画スタジオから購入したフィルムだったのだろうと主張している。だが彼は、それはニセモノだと考えるにはあまりに「本物っぽかった」とも言っていて、何とも役に立たない。

『UFO: 過去・現在・未来』は、興味深いコーダ(締めくくり)で終わる。そこでは、社会学者のグループがETとの接触に関する真実をどのように公開するのが最善かを調べるため、大衆の信念のありようについて論じている。

ある社会学者は、「ETたちがあまりにも進歩していたり、アメリカの新しい友人より優れているように見えたらよろしくないのではないか」という懸念を表明している。アメリカ人が「ETたちは最初の開拓者がインディアンを扱ったように自分たちを扱うのではないか」と恐れるかもしれないから、というのだ。そこで彼は政府にこんなアピールをするよう推奨する。ETたちは「宇宙の平和、がんの治療法、太陽エネルギー」といった多くのものを提供してくれるかもしれないが、アメリカ人にだってETたちに与えられるものはいっぱいある。「ジャズ、ヤル気、カーネル・サンダースのフライドチキン」といったものがあるんだ、と。

別の社会学者は心理学者A.C.エルムズを引用している。「本当に必要とされているのは、宇宙からの敵対的な侵略者だ。そうすれば我々は一つの種として団結し、侵略者を追い出し、その後は平和に暮らすことができるだろう」。これはバーナード・ニューマンの『フライングソーサー』でおなじみのテーマである。最も興味深いのは、匿名の社会学者である。彼は、テレビでホロマンの映像のようなものが放映された時のインパクトに考えをめぐらした末、そこに登場するであろう「自称地球外起源人間型有機物 Humanoid Organisms Allegedly Extraterrestrial」という仮説的概念――略してHOAEXについて論及している。これについては我々が思うがままに解釈すればよいだろう。[訳注:舌足らずなので捕捉すると、HOAEXというのはもちろんHOAX デッチ上げのもじり。映像を信用しない人々によって「エイリアンの飛来はウソだ」という主張が盛り上がるだろうという含意]

こうした研究を集約しているのは、UFOカルト研究の古典『予言が外れるとき』(1956年)の著者、レオン・フェスティンガーである。フェスティンガーと2人の同僚は、シカゴの主婦マリオン・キーチ率いるUFOカルトに参加した。キーチはクラリオンという惑星からの宇宙人からメッセージを受け取っていた。1954年12月21日に起こるとされた世界的な洪水の予言が外れたとき、彼女の信者たちの多くはグループを去るどころか、むしろ信仰にさらに固執するようになった。フェスティンガーは、人が何かを真実であると信じているのに全ての証拠がそれを否定した場合、人は新しい信念体系に基づいて人生を再出発させるよりも、しばしば古い信念に執着し、現実との矛盾に対抗する新たな説明を生み出すということを発見した。フェスティンガーはこの反応を「認知的不協和」と呼んだが、これはUFOの分野や他のあまたの信念体系において繰り返し見られる現象である。

好奇心をそそってやまない『UFOs: 過去・現在・未来』は、『トワイライト・ゾーン』の創作者ロッド・サーリングがナレーションを担当した。それはUFOの実在を裏付ける真っ当な事例を紹介するもので、ロバート・フレンド、ウィリアム・コールマン、J.アレン・ハイネックが出演している。1974年の公開時にはそこそこの成功にとどまったが、スピルバーグの『未知との遭遇』が大ヒットした1979年に同作は再び注目された。『UFOs: それは始まっている』という新タイトルが付けられたこの拡張版には、キャトル・ミューティレーションがETによって行われている事を示唆する新たな素材や、ダルシェ周辺で行った調査について語るゲイブ・バルデスのインタビューが含まれている。

ボブ・エメネガーとUFOストーリーとの関わりはこれで終わらなかった。1980年代半ば、彼は国防音響映像局(DAVA)の高官2名から接触を受けた。1人は同局の局長ボブ・スコットで、もう1人は彼の補佐役にして、退役陸軍大将のグレン・ミラーだった。ミラーはかつてジョージ・パットン将軍と共に働き、さらにロナルド・レーガンのハリウッドでの最初のエージェントでもあった。スコットは以前、東欧を中心にアメリカ支持のプロパガンダを発信していた米国情報局で働いていた。今回も、プロジェクトを進めたのはコールマンとシャートルで、彼らはスコット、ミラー、エメネガーを引き合わせた。そして再び、空軍がUFOの秘密を公にする準備ができていると約束したのである。何回か奇妙な会合が開かれたが、そんな機会にスコットが「地球は複数のET種族の訪問を受けている」といった確信を語ったこともあった。だが、結局このプロジェクトは中止された。

1988年、ホロマン着陸事件は、『UFOカバーアップ・ライブ!』という悪趣味な番組が全国放送されたことで再び国民の前に浮上した。これは1988年10月18日に放映されたもので、番組はエメネガーがグレイ社で働いていた当時の同僚、マイケル・セリグマンがプロデュースした。彼はかつてはアカデミー賞授賞式を制作していた人物だが、エメネガーによれば、UFOの陰謀論に首を突っ込むようなことよりはカネ儲けの方にはるかに興味があった。この番組では、ボブ・エメネガーが自らの話を語り、シャートルはホロマンでの着陸映像を見た話を改めてしゃべった。

番組で最も印象的なシーンの一つは、ファルコンとコンドルという名前で紹介された空軍内部のインサイダー2人へのインタビューであった。その顔は影で隠されていたが、このインサイダーたちは驚くべき話を語った。エイリアン種族との条約について、そしてエリア51に収容されている生きたETについてである(彼らは野菜やストロベリーアイスクリームを好み、チベット音楽を聴くのが好きなのだという)。彼らは交換プログラムについても触れたが、それを「セルポ」とは呼ばなかった。この「鳥さん」たちが誰だったのかといえば、他でもない、別名ファルコンのリック・ドーティ(ただしもちろんビル・ムーアの言うオリジナルのファルコンではない)であり、別名コンドルのロバート・コリンズであった。ちなみにこの二人は、2005年に『Exempt from Disclosure』の共著者として再び手を組むことになる。

では、『UFOs: 過去・現在・未来』の目的は何だったのだろうか? 空軍はUFO問題に対する思いは一緒なのだというふりをしてUFOに関心を持つ新兵を引き付けようとしたのだろうか? それとも、ETは来ているという信仰を推し進める心理的プログラムをより広い範囲に広めようとしたのだろうか? UFOに対する一般の関心を高めながら、同時にこの問題への自らの関与を否定するというのは矛盾しているように思えるが、事がUFOに関わる限り、空軍の行動の多くは同様に矛盾している。この映画は空軍内部の意見の分裂を示しているのだろうか。あるいは、コールマンとワインブレナーの背景に見えるAFOSIや外国技術部門を念頭に入れると、むしろカウンターインテリジェンスやディスインフォメーションが目的だった可能性が高いのだろうか?

映画には確かにインパクトがあった。映画の中心にあるホロマン着陸事件は、UFOの世界で長く卓越した地位を占めることになった。『未知との遭遇』のクライマックスは、この事件を基に精巧なディスコ風の再現をしてみせたものであり、30年後にはセルポ事件の中心的な要素ともなった。しかしその前にこの事件は、AFOSIの汚い仕事によるところのもう一つの古典的事案においても重要な役割を果たすことになる。そして我々は、またもやその中心部にリック・ドーティを見ることになる。

■ETファクター

1983年までに、ポール・ベネウィッツの関心というのは、その殆どの部分がダルシェの宇宙人基地に集中するようになっていた。彼の「プロジェクト・ベータ」報告のおかげで、彼の存在と「エイリアンの侵略」というセンセーショナルなストーリーはUFOコミュニティでよく知られるようになっていた。それと同じ時期、ドーティ、ムーア、ボブ・プラットは自分たちのSF小説『アクエリアス・プロジェクト』についての議論をかわしていたのだが、そこで彼らが考えたアイデアの幾つかは、AFOSIがベネウィッツや他の研究者たちに流していたニセのUFO文書に盛り込まれていた。

そんな研究者の一人がリンダ・モールトン・ハウだった。彼女はコロラド州を拠点とするライター兼映画監督で、キャトル・ミューティレーションを扱った1980年のドキュメンタリー『奇妙な収穫』では地域エミー賞を受賞していた。彼女はキャトル・ミューティレーションの調査を通じてポール・ベネウィッツやゲイブ・バルデスと知り合い、この現象にはUFOが関わっていると確信していた。だからHBOがUFOについての映画制作を依頼してきた時、彼女はその好機を逃さなかった。『UFOs: ETファクター』というそのタイトルは、HBOが何を狙っていたのかを物語っている。それは『未知との遭遇』や『ET』の実話版だったのだ。

1983年4月、ハウはドーティからカートランド基地に招かれた。彼女がアルバカーキ空港に到着したとき、UFOは大きな話題となっていた。地元紙の一面には、1980年にカートランドのコヨーテキャニオン上空でUFO目撃が記録されたという空軍文書の公開についてのニュースが掲載されていた。また、地元の科学者ポール・ベネウィッツが、相互UFOネットワークのアルバカーキ支部でUFOについて講演を行ったことも報じられていた。

ドーティは予定通り空港でハウに会うことができず、ようやく姿を見せた時の彼は不安そうで苛立っているように見えた。彼らがカートランドへ向かう途中、ハウはホロマンでのUFOの着陸についてドーティに尋ねた。ドーティはそれは本当にあったことだと答えたが、正確な日付は1964年4月25日で、それはニューメキシコ州ソコロの外れの乾いた谷で、警官ロニー・ザモラが卵型の飛行物体が着陸するのを目撃した数時間後だったと言った。

ドーティはハウを上司のオフィスだという場所に案内し、机を挟んで座った。頑健な牧場主や軽薄なテレビ業界の連中と一緒にいることに慣れていたハウは、民間人然とした服装のドーティをあまり印象に残らないタイプだと思ったが、彼はハウの注意を引く術を知っていた。彼はハウに、彼女の映画『奇妙な収穫』は政府の人々を動揺させたと伝えた。彼女は何か重要なものに近づきつつあるというのだ。彼は、AFOSI(空軍特別調査局)のメンバーとともに、彼女がドキュメンタリーを通じて真実を伝えるのを手伝いたいのだと言った。彼が提供できるもののサンプルとして、ドーティは引き出しを開けて書類を幾つかリンダに手渡した。「上司からこれを見せるように言われています」。そう彼は言った。さらに彼は、窓から遠く離れたところにある大きな鏡の前の椅子に座って書類を読むように言った。「窓越しに監視されているということもあるかもしれませんからね」。彼はそう言った。ハウは、鏡の向こう側では誰かが彼女の反応を見ていたのではないかと今でも考えている。

この時ハウが見たのは、AFOSIが作成した「アクエリアス文書」であり、それは彼女の心を揺さぶった。「アメリカ合衆国大統領へのブリーフィングペーパー」と題されたその文書には、あまり知られていないUFO墜落事件の話が書かれていて、そこにはロズウェル事件のほか、1952年までロスアラモスで生存していたエイリアンEBEの話も書かれていた。EBEの語ったところでは、彼らの種族は数千年前から地球に来ていて、今もなお地球にいるということだった。彼らは人類を遺伝的に作りだし、霊的指導者を通じて我々の進化を導いてきたが、その中には、2千年前に「平和と愛を教えるために送られた」者も含まれていた。こうした内容の多くはビル・ムーアとボブ・プラットが彼らの本について語り合っていた話から出たもので、元はといえばエーリッヒ・フォン・デニケンの『神々の戦車』のおかげでポピュラーになっていたものだった。ムーアはそのアイデアをドーティに渡し、今やそれがハウに伝えられるに至ったというわけだ。

アクエリアス文書によれば、プロジェクト・ブルーブックというのは、極秘にされていた本物のETの技術から大衆の注意を逸らすためにのみ存在したもので、実際のUFOに関する問題はMJ-12という組織によって管理されていたとしている。その文書は、フランク・スカリーの『空飛ぶ円盤の背後で Behind the Flying Saucers』で採り上げられた後、ほとんど忘れ去られていたアズテックでのUFO墜落事件についても言及していた。これは1970年代後半、匿名の空軍情報源からの情報漏洩がうまいこと仕組まれたこともあって再び注目を浴びていたのである。この事件を掘り下げたビル・ムーアは、リック・ドーティやボブ・プラットと議論を重ねていたのだが、その内容はドーティ経由でアクエリアス文書に入り込み、それが再びUFOコミュニティに広まっていったということになる。しかも今度は政府のお墨付きという形だ。そのプロセスというのは実にグルグルと循環しているようで、めまいを覚えざるを得ないほどだ。

ドーティはハウに対して、墜落したUFO、エイリアンの遺体、ホロマンへの着陸映像、そして何とも驚くべきことに生きているイーバEBEの映像を提供しようと言った。さらに彼は、現在米国政府の「客」として滞在しているEBE3に会って、場合によってはその撮影すらできるかもしれないと仄めかした。しかし、これには一つ落とし穴があった。ハウの撮る映画では、UFOのストーリーはソコロ事件があった1964年までに限定されるというのだった。なぜこの年が切り取り線として選ばれたのかは不明だが、おそらくそれはハウをダルシェやベネウィッツの問題から遠ざけるためだったのだろう。

ハウは驚愕した。自分はついにUFOの真実を世界に伝える存在になるのだ。しかし、なぜ空軍はそんな素材をニューヨーク・タイムズやメジャーなテレビのニュース番組にではなく、彼女に与えようというのか。ドーティは、警告を発するような素振りは一切見せずに率直な調子でこう言った――個人の方が大組織より操りやすいし、簡単に信用を失墜させられるからさ、と。

ハウはHBOに「世紀の物語」に備えるように伝えたが、HBOのプロデューサーは、提供されるという映像について後々責任を問われないことを保証する書簡が欲しいと米空軍に主張した。ドーティはハウにそうした書簡を用意すると約束した。数週間が経ち、数ヶ月が経った。ドーティは、EBE1を世話していた空軍大佐とのインタビューをセッティングすることを約束したが、その前に彼女と彼女のスタッフの身元調査を行う必要があると主張した。そして、結局は何も進まなかった。HBOはその間、不安を募らせていた。映像はどこにあるのか? 1983年10月までに、ハウのHBOとの最初の契約は失効し、彼らはその映画制作を断念した。ハウは打ちひしがれた。

数年後、ドーティはハウとの間にこうしたやり取りがあったことを否定したが、ハウはやりとりが実際にあったとする宣誓供述書に署名して対抗した。彼女はまた、ドーティとの間のやり取り、そしてHBOとの間のやり取りを記した文書も明かした。なぜAFOSIがリンダ・ハウを欺こうと決めたのかは不明である。当初からHBOの制作をやめさせる計画であったのか、それともただ予期せぬ事態があってこうなったのか? 理由は正確にはわからないが、彼らがそうしたことをしたのは確かであったし、ドーティは24年後になってハウが述べたようなやり取りがあったことを認めた。その目的は、ベネウィッツに対するAFOSIのニセ情報プログラムに関連していた。ドーティの言葉によれば、「我々はリンダに良い情報と悪い情報を渡した。彼女は悪い情報を選んだ」。彼はこの件についてこれ以上の事は言っていない。

こんな風に徹底的にごまかされて自らのキャリアを害されたリンダ・ハウは、UFOの問題から完全に足を洗ってしまったのではないか――あなたはそう考えるかもしれない。だが実際は、レオン・フェスティンガーの認知的不協和理論に従うように、彼女は地球上にETが来ているというのは本当だとさらに確信するようになり、以来、その事実を記録することに生涯のほとんどを費やしている。

これはユーフォロジーの領域では何度も繰り返されるパターンであって、そこには矛盾とパラドクスがあまりに多くあるために、ビリーバーたちはETの存在を信じ続けるため込み入った理屈を日々新たに発展させていかねばならないのだ。この辺はニセ情報戦略の設計者たちであれば熟知していることであり、ハウを欺いたのを契機に、彼らはさらなる傑作を作りだそうとしたのだった。 (13←14→15)



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■第11章 狂気の縁

    錯乱の極みというのは、かくあれかしという願望によって何かを信じてしまうことだ ――ルイ・パスツール

リック・ドーティは、ジョンと私を気に入ってくれた。私たちの側もそうだった。ラフリンでの一週間の間、彼はほとんど常に私たちと一緒にいた。そんな状況は時に私たちを不安にさせた。知り合って間もない頃、私たち三人は、ラップトップをワイヤレスでインターネットにつなぐことのできる小さなショッピングモールに行くことになった。ホテルの外の賑やかな大通りを渡っている時――それは実際にはほとんど高速道路だったのだが――私は突然、めまいがするような妄想に襲われた。その時点までにリックは、コンピュータをハッキングする自らのスキルを我々に話していたし、DIA(国防情報局)の仲間と会ったことだとか、その連中がUFO会議の参加者のうち何人かに関心をもっており、それはとりわけリックの言い方でいうところの「外国人」であることなどを明かしていた。

突然、ピンときた。コンピューターを手元に置いたリックの近くでPCをオンラインにつなぐということは、我々のことや我々の映画についての情報が詰まったマシンに、諜報機関の侵入を許すことにならないだろうか? 目の前には小さな黒い星が踊りだしたが、もう後戻りはできないことに気づいた。この波に乗って、事態を最後まで見届けるしかないのだ。

白いタイルが敷かれ、エアコンの効いた、ムサカ料理の匂いが香るモールで、私たちは同じテーブルについた。ジョンと私は片側、リックは反対側に座り、ラップトップの画面が背中合わせになるような配置だった。ワイヤレスの送信機にはパスコードが設定されていて、そのサービスを提供しているカフェは閉まっていた。我々は、リックがシステムをハックして繋げてくれるのではないかと冗談を言ったが、彼は別に異議を唱えることもなかった。しかし1分ほどしてもそういうことにはならないことが分かったので、私は振り向いて別のテーブルに座っていたラップトップのユーザーからパスワードを教えてもらった。我々はこれをエリント(電子諜報 ELINT)に対するヒューミント(人的諜報 HUMINT)の勝利だといって記録にとどめることにした。どういうわけか、それ以降リックといて不安になることはなくなった。

だからといって、彼が奇矯な行動を取らなかったわけではない。ある日の午後、私がロビーで自分のラップトップを操作していたところへ、自分のラップトップを持ったリックが近づいてきた。

「やあ、マーク!」。リックの声には秘密めかした調子があり、私は瞬時に警戒態勢に入った。「見せたいものがあるんだ」

彼はラップトップをテーブルに置いて画面を開いた。そこには異星人の写真や絵がずらりと並んでいたが、いずれも「グレイ」タイプだ。灰色の肌、無毛で膨らんだ頭、大きくて黒いアーモンド型の目、口の位置にある裂け目、鼻のところにある穴、そして鉛筆のように細い首。

「これを見てどう思うかい?」と彼は聞いた。

私はほとんど全部の写真を見たことがあったので、そうリックに伝えた。同時に、それらはすべて偽物だと思うとも伝えた。いくつかは模型で、いくつかは映画の特殊効果による創作物だ。二、三、非常によくできたものもあった。

「どうしてこれを見せているんです?」と、私は疑念を隠すことなく尋ねた。
「この中の一つは本物だ。どれだと思う?」
「全部偽物だと言ったでしょう」
「私は生きたEben エベン を見たことがあるんだ。そしてこの中の一つがその写真だ」

彼は、生物の一つを指さした。それは横を向いたグレイで、通常よりも顔は長く、気品があって意志を感じさせる表情だった――エイリアンの顔から感情を読み取れるとしたら、の話だが。腕は体の横に下ろしていて、画像は肘の上からしか写っていなかった。私は疑わしいと言った。

「これは本物だよ」とリックは主張した。「我々はこれをEBE2と呼んでいたんだが、1964年から1984年までアメリカ政府のゲストとして生きていた。私はロスアラモスでこいつがインタビューされているのを見たよ」。リックは著書『情報解除免除 Exempt from Disclosure』の中でもこの件について触れている。1983年3月5日、彼は名前が明かされていない、とある人物に連れられて、ロスアラモス国立研究所の地下深くにある部屋に入った。そこには「テーブルが二つと椅子が数脚、録音機器が置かれていて、私はドアの近くに座った」。空軍の大佐が入室し、インタビュー中は黙っているようリックに指示した。リックが「インタビューされるのは何者か」と尋ねると、「別の惑星からのゲストだ!」と言われた。5分ほど後に、身長4フィート9インチの人間とは異なるように見える生物が現れた。それはクリーム色をしたタイトなスーツを着ていて髪の毛はなく、リックは「これはEBE2だ」と教えられた。

質問者は大佐と正体不明の民間人2人で、彼らはEBE2に主として故郷の惑星やその大気について質問した。「このインタビューで興味深かったのは、EBE 2の向かいに座っていた3人が発する質問が、私には一切聞こえなかったことなんだ」。リックが聞いたのは、ETの返答だけだった。それは「完璧な英語だったが、機械的な声のように聞こえた」。EBE2は、ニューメキシコの気候は故郷を思い出させるので気に入っていると述べた。

リックと一緒にEBE 2の写真を見ていると、そこにジョンが現れた。私はEBE2を指し示し、リックが話していた話を繰り返した。「それは胸像だ」とジョンは即座に言い切った。「知り合いのUFO研究家がそれを家の暖炉の上に置いているよ」

リックの声にはかすかな苛立ちが入りこんでいた。「もしそれが胸像だとしたら、写真を元にして作られたんだ。だって私はこれが本物だと知っているからな!」

「それは胸像だ」とジョンは言い張り、そのまま立ち去った。

我々と一緒にいない時のリックは、ビル・ライアンと連れ立っていた。リックは我々に対してはセルポの話をしたがらなかったが、ビルがいるところでは必ずその話題が出た。もっとも、私たちは会議中あまりビルと話す機会がなかった。彼はこの会議では注目の的だったからだ。彼はいつ見てもジャーナリストにインタビューされたり、UFO研究家に質問されたりしていた。

木曜日の午後、ジョンと私はラウンジでリックと一緒に座り、ビルを待っていた。そこに黒い服を着た男がやって来て、同席してもいいかと尋ねてきた。我々は皆うなずいて承諾した。彼は体格こそ良かったが、どこか女性的な感じで、黒いタートルネックはいささかピチピチ過ぎるのではないかという気がした。座るや否や、その男性は自らのUFO体験を30分間にわたってしゃべり続けた。彼はまるで催眠術にかかっているか夢を見ているかのように、奇妙で声で歌うように話した。それによれば、自分はシングルファーザーで、数年前にアリゾナ州フェニックスの野外で空飛ぶ円盤を見たことがあるという。その出来事のすぐ後、彼は奇妙な男2人に会ったのだが、一人の目は赤く、もう一人の目は金色に輝いていた。一人目の男との出会いはおおむね良い感じで、電話番号も聞いた。だが、二人目との出会いはトラウマが残った。「いいですかと聞きもしないでずかずかと入り込まれたような感じ」がしたのだという。

そのおしゃべり男は二か月間、その体験を忘れていたが、ふと最初の男の電話番号を聞いていたことに気づき、電話をかけてみた。出たのはその男の妻だった。「主人は外出中です」と彼女は言い、「すみません、オーブンにエンチラーダ [メキシコ料理の一種] を入れてるところなんです」と続けた。そして彼女が電話を切った瞬間、記憶が一気に蘇ってきた。彼が覚えていたのは、ただ一つ、男たちの目のことだった。それは「花火のように回転し、閃光を放っていた」。男の話も終わりかけたところへ、ビルが現れた。彼は動揺した様子で、マニラ封筒を握りしめていた。

「みんな、話したいことがあるんだ」。私たちは黒服の男に失礼を告げ、別のテーブルに移動した。

「この封筒をロビーで渡されたんだ。誰かが僕のために置いていったらしい」。封筒には、太い緑のマーカーで「B. Ryan」と書かれていた。「ちょっと見せてくれ」とリックが言った。「封を開けるのは得意なんだ」。しかし、ビルは自分で封筒を開けた。

中には、ワープロで印刷された紙が三枚入っていた。印刷はかすれていて、プリンターのインクが切れかかっていたらしい。それは、セルポの宇宙飛行士の日誌の知られていない部分で、彼らが連れて行かれた異星人Ebenの惑星では彼らと意思疎通を取るのに苦労したことが記されていた。加えてそこには小さな紙片も入っていた。そこには手書きでのたうつ文字のようなものが書いてあり、合計16本の線が歪んだ格子を形作っていた。これはエイリアンの文字なのだろうか? 我々は何度か紙を回転させて、そのグニャグニャがどっちからどっちに向かっていくのかを確かめようとした。繰り返し出てくる文字がないかと探してもみた。しかし、何も分からなかった。ビルは中に入っていたものを封筒に戻した。

「失礼するよ、皆さん。もう行かないと。会議の主催者たちとUFOのビデオを一緒に見る約束をしているんだ」

我々は、夕食後にホテルのロビーでビルと会うことにした。翌日は彼が発表をする大切な日だった。彼が上映会に向かって走り去る姿を見ながら、私は考え込まざるを得なかった――エイリアンの真実という霧深い海を航行する船長として、ビルは自らの船を自ら操船しているといえるのだろうか。ラフリンに到着してからのこの数日、彼はアメリカのUFOコミュニティに熱烈に迎えられてきた。しかし私は、彼が誰かに操作され調教されている可能性を捨てきることができなかった――その「誰か」の正体は分からないにしても。私の最大の懸念は(それはジョンとグレッグも共有していたのだが)彼が「もう一人のポール・ベネウィッツ」になってしまうのではないか、ということだった。

■プロジェクト・ベータ

1981年の後半、UFOコミュニティに出回った「プロジェクト・ベータ:現状の要約と報告(推奨ガイドライン付き)」という文書がある。それは驚くべき文書であり、かつ今から考えればポール・ベネウィッツの壮大な妄想に満ちた悲劇的な文書でもある。その詳細な内容というのはベネウィッツのような優れたエンジニアなくしては得られなかったもので、この文書は、彼が収集し、迷宮めいたファンタジーを作り上げるのに用いたデータをまとめ上げたものなのだ。そしてこれが悲劇だというのは、精神疾患についての記録に出てくる他の有名な事案などとは異なり、この妄想がAFOSI(空軍特別調査局)からベネウィッツに与えられたニセ情報によるものであり、もっぱら彼自身の空想に基づくものだったわけではないという点にあるのだ。さらに言えばこの文書は、AFOSIがベネウィッツにニセ情報を提供するため、どれほど徹底的な操作を行ったかも明らかにしている。

25ページにわたるこの報告書は、まず「調査員 物理学者 ポール・F・ベネウィッツ」によって収集された情報の概要から始まっている。

    エイリアンの通信およびビデオチャンネルの探知と解読(いずれも地域・地球・近宇宙レベルでのもの)。エイリアンの船や地下基地のビュースクリーンからの映像を常時受信(受像内容としては典型的なエイリアン、ヒューマノイド型。時としてホモ・サピエンスと思われる存在)。

    エイリアンとの直接通信を常時確立(コンピュータと16進法コードの一種を使用。出力はグラフィックとプリントアウトによる)。エイリアンの通信ループを通じて地下基地の真の位置がエイリアンから明かされ、正確に特定された。引き続いて空中および地上からの写真撮影により、着陸用パイロン・地上の船・入り口・ビーム兵器・打ち上げポートが確認された。このほか地上には静電現象を利用した乗り物に搭乗したエイリアンも確認された。ビーム兵器の充電もやはり静電気によるものと見られる。

ベネウィッツは、異星人の心理について学んだことをまとめている。「異星人は狡猾であり、欺瞞を用い、平和構築プロセスへの意図は一切もっておらず、いかなる事前の合意にも従うつもりはない」

ここで彼は、自らがアルチュレタ・メサにいると信じている地球外生命体について語っているわけであるが、それは同時に彼の「友人たち」、つまりカートランド空軍基地の人々に向けた言葉であったのかもしれない。時折、彼は与えられた情報の矛盾点に注意を向けていたようでもある。「確かに彼らにはウソをつく傾向がある。が、ウソをついたという記憶は長持ちしないので、コンピュータから出力したものと直接比較してみれば事実は明らかになる。いわば『ひび割れから抜け落ちる』というヤツで、そこから真実は現れるのだ」。さらに彼は、異星人についてこう述べている。

    彼らは信用できない。もしエイリアンが「友人」ということになっていたとしても、差し迫った物理的脅威の時にその「友人」を呼び出した場合、その「友人」はすぐに敵側につくであろう……彼らは如何なる状況でも絶対に信用できない……彼らは完全に欺瞞的であり、死をためらうこともなく、人間や人間の命に対する道徳的な尊重は全くない……両者が署名したどのような合意も、エイリアンによって尊重されたり遵守されたりすることはない。彼らは「そんなことはない」と我々を信じさせようとするかもしれないが。

こうした発言から、無意識下ではあれ、彼には自らの状況について一瞬明晰さを発揮した瞬間があったのだ、ということを読み取らずに済ますのは難しい。ただ彼に対する工作が功を奏したおかげで、その鋭い洞察は影を投げかけている者にではなく、壁に映った影たちに向けられたのではあるが。

ベネウィッツは、エイリアンは人類を支配するために無慈悲な野望を抱いていると警告し、彼らが人間を奴隷にするためのマインドコントロール用のインプラント技術、彼らの兵器や宇宙船、そしてダルシェ(ダルシー)基地について詳述している。報告書は、この脅威を無化する唯一の方法は武力であると結論付け、ダルシェ基地への水供給を断つという精巧な計画を論じている。ベネウィッツは、ETとその乗り物に対抗するため開発した特殊なビーム兵器についても記述しており、これには軍の担当者も大いに関心を寄せたに違いない。

そして、冷ややかな最終声明で彼はこう宣言する。
    全面的に成功を収めるための鍵は「彼らは武力をのみ尊重する」ということである……アメリカ人として言うならば、今回のケースにおいては、答えを出すために我々がこれまで受け継いできた道徳的原則に頼ることはできない。そのことを認識しなければならない。交渉は不可能だ。この特定の集団は、狂犬に対するのと同じように対処する以外に方法はない。そのことを彼らは理解している……従って、この脅威に対処するにあたり、我々が「侵略者」と呼ばれる筋合いは全くない。我々は文字通り侵略されているのだから。

ベネウィッツにはかくも明確に精神的な不安定の兆候が出ていた。ところがカートランド基地の関係者は、既に手に負えなくなった事態を終わらせるのではなく、さらに別レベルの工作をするよう決定したのである。その心中は察するほかない。そしてAFOSIのベネウィッツに対するキャンペーンは少なくとも1984年まで続き、彼の精神状態はさらに悪化していった。

リック・ドーティがポール・ベネウィッツについて語る時、彼はベネウィッツを「友人」であり「素晴らしい人間」という風に語った。ドーティは我々に「ベネウィッツに起こったことをひどく後悔している」と話した。私はそれを信じた。ドーティのベネウィッツの事案への関与は1984年に終わった。彼は2年間、ドイツに配属されたのである。ビル・ムーアのAFOSI(空軍特別調査局)関係の仕事もその翌年に終わった。彼らがAFOSIの作戦が終了した後もベネウィッツと連絡を取り続けていたことは、彼らが築いた関係が真っ当なものであったことの証である。しかし、その時点では、もはやベネウィッツを救うことはできなかった。

ドーティが1986年にカートランドに戻ったとき、ベネウィッツの精神状態は著しく悪化していた。ドーティは、ベネウィッツにUFO研究をやめるよう説得しようとした。それは家族や事業、そして健康のためでもあった。それら全てが損なわれていたのである。彼はベネウィッツに「あなたがこれまで渡されてきたUFO情報はAFOSIが作ったものだ」とすら語った。しかしベネウィッツは、それを受け入れなかった。彼自身がニューメキシコ州が異星人に侵略されていると信じ込んでいるのに加えて、今では他のUFO研究者たちもその話に耳を傾けていた。彼にはオーディエンスがいたのだ。彼らは異星人の侵略から世界を救うことはできたのかもしれない。だが、ベネウィッツを彼自身から救い出すことはできなかった。

1987年、ビル・ムーアが最後にベネウィッツを訪ねたとき、彼はほとんど眠らず、食事も摂っていなかった。彼はチェーンスモーキング状態で(ムーアがグレッグ・ビショップに語ったところでは、ある時数えたら彼は45分間で28本のタバコを吸っていたという)、言葉をつなげるのに苦労していた。彼は強烈な被害妄想を抱き、ドアや窓に追加の鍵を取り付け、家じゅうに銃やナイフを隠していた。ベネウィッツはムーアやドーティに、異星人が夜中に彼の寝室に入り込み、彼に薬を注射して奇妙な行動をさせていると語った。彼は時折、砂漠の真ん中で、自分の車の運転席に座った状態で目を覚ますことがあった。グレッグ・ビショップによれば、ドーティとムーアの二人は、それぞれ別個に「ベネウィッツの右腕に針跡のようなものがある」という話をしていたという。彼は、政府機関の何者がベネウィッツに薬を注射し、それから砂漠に連れ出して異星人の恐ろしさだなどといった不条理な話を彼に植え付けているのではないかと疑った。ドーティは、ベネウィッツが自分で薬を注射しているのではないかと考えていた。しかし彼は、ベネウィッツの家の1階の窓の外に梯子の跡があるのを見たとも主張している。それはまさにベネウィッツが異星人が家に侵入している場所だと言っていたところだった。

事態がついに頂点に達したのは、1988年8月であった。61歳になったベネウィッツは、半分おかしくなっていた。彼の会社サンダー・サイエンティフィックは、成人した二人の息子によって経営されていた。家の中では、彼は妻のシンディが異星人に支配されていると非難していた。最終的には、彼が自室に砂袋を積んで立てこもるという事態に至った。

このままではいけないと家族は判断し、ポールはアルバカーキにあるプレスビテリアン・アンナ・カセマン病院の精神科施設に隔離された。そこで彼は1ヶ月間監視下に置かれた。ドーティがこの古い友人を訪ねたとき、ベネウィッツは彼のことが分からなくなっていた。

では、なぜこのような事態になったのか?

ドーティの説明はこうだ――AFOSIの作戦というのはカートランド空軍基地のセキュリティにのみ関わるものであって、1980年代半ばには終了した。一方で国家安全保障局(NSA)は、自分たちがカートランド基地から発している通信がベネウィッツに傍受されるのを防ぐため、向かいの家からニセ信号をビーム状に浴びせかけていたが、これは陸軍の作戦終了後も数年間続けられた。その理由は不明である。

NSAの関与は本当にあったのだろうか?AFOSIが作りだし、ムーアとベネウィッツに提供した政府のニセUFOメモは、政府によるUFO隠蔽の多くはNASAが元凶だと名指ししていた。ドーティは現在、このNASAというのは実際にはNSAをほのめかしていたのだと述べているが、当時のアメリカ空軍がNASAをおとしめようとした理由は十分に理解できる。NASAとアメリカ空軍は1950年代末にNASAが設立されて以来、宇宙に関する苦い対立を繰り返してきた。アメリカ空軍は常に宇宙に対して強い関心を抱いていたため、多くの航空宇宙予算が民間組織であるNASAに割り当てられることは癪の種だった。さらに、空軍はUFOという厄介ごとを押しつけられたのが気に入らなかったのかもしれない――宇宙の問題はNASAの領分じゃなかったのかよ、というワケだ。

UFOに関する空軍の広報活動は、1947年からプロジェクト・ブルーブックが閉鎖された1969年まで続いたが、それは空軍にとってずっと悪夢とでも言うべきものだった。ブルーブックの閉鎖後、空軍はUFOに関する問い合わせに対して「調査は終了しました」という定型文で回答していた。もちろんこれはウソだった。空軍がUFO事件の調査investigating(扇動 instigating かもしれないが)をやめたとしても、ファルコンやドーティ、AFOSIの活動が示すように、それについて考えることやUFO団体を監視することは明らかに継続していた(ちなみに大空を自分の縄張りだと考える空軍が調査をやめたというのはありそうもないことではある)。

UFOはその後も飛来し続けた。1975年にモンタナ州でICBM基地の目撃が報告されたのに続いて、1977年11月16日にはスティーヴン・スピルバーグの映画『未知との遭遇』が公開され、世界中でUFOに対する関心が再燃した。その流れの中にはは、国連にUFO調査機関を立ち上げようとしたグレナダの大統領、エリック・ゲイリーの試みもあった(結局は実らなかったが)。UFO目撃情報は世界中で急増し、新世代のUFO愛好家たちが生まれ、彼らは空に飛び交っているものについての真実を知りたいと願った。こうした大衆の要求にこたえて、当時のジミー・カーター大統領は、選挙活動に自らUFOを目撃した経験を公然と語りつつ、新たなUFO調査はNASAが主導すべきだと提案した。

しかし、NASAは乗り気ではなかった。「私たちはUFOの調査をやりたいとは思っていません。なぜなら、私たちに何ができるのかハッキリしないからです」。NASAの広報担当者はAP通信にそう語っている。「金属片や生物組織、布の一部といった、測定可能なUFOの証拠は全くありません。ラジオ信号すらないのです。写真は測定できるものではないですし……理論や記憶なんてものじゃらちがあかない。緑色の小人が一人でもいれば、何百万ドルもの予算がつくでしょうけどね」

いずれにしても、アメリカ空軍は困難な立場に立たされる可能性があった。もしNASAが調査を開始すれば、UFOのナゾに空軍が過去どのように取り組んできたかを蒸し返そうとするだろう。それは時間も予算もかかるだろうが、空軍にとっては少なからずバツが悪いことになりかねなかった。逆にNASAが手を出さなければ、次にUFO問題に取り組むべきは空軍だという期待が生まれるだろうが、10年前にようやくUFO問題から手を引いた空軍にしてみれば、再びその泥沼に戻るようなことも避けたかったであろう。

最終的にNASAも空軍も新たなUFO調査を強いられることは回避したが、それは際どいところであり、両組織の間に新たな遺恨を引き起こしたことは疑いようがない。従って、1981年に出回った偽造文書「アクエリアス文書」において、AFOSI が政府の秘密UFOプロジェクトの首魁としてNASAを名指しした時、空軍は注目を自分たちからそらしただけでなく、ライバルに一矢報いることにも成功したのだった。結果としてNASAは、狂気じみて胃の痛くなるようなUFO広報の悪夢をちょっぴりとではあったが体験することになった――UFOについて山のように寄せられる問い合わせに象徴されるような、そして空軍が20年以上苦しんできた広報の悪夢というものを。

AFOSIはまた、NASAというおとりを持ち出せば、ビル・ムーアがいとも簡単に引っかかってしまうことも知っていた。ムーアとバーリッツの共著『ロズウェル事件』には、NASAが隠蔽したとされる宇宙飛行士絡みのUFO事件がいくつか挙げられている。最も注目すべきは、歴史的なアポロ11号の着陸地点が他の「宇宙船」で「あふれかえっていた」ために、最終段階で変更されたという主張である。ちなみにこの本には、パイロットのバズ・オルドリンとミッションコントロールの間で交わされたとされる身も凍るようなやりとりが出てきており、その記述に対してオルドリンはムーアとベルリッツを相手取った訴訟を起こしている。

しかし、ベネウィッツ事件の真の黒幕は、ドーティがいう通り、この宇宙機関から「A」が一文字が取れただけのNSAであったかもしれない。1990年代初頭、NASAの電話交換手が好奇心旺盛なUFO研究家たちからの問い合わせに疲弊していた頃、ビル・ムーアはこんなことを言っている。――オリジナルのアクエリアス文書にはNSA(国家安全保障局)という名前が書かれていたのではないか。そして含み笑いをしながらそれをNASAに書き換えたのはAFOSIの関係者たちだったのではないか、と。

NSAはベネウィッツに関心を持っていたのだろうか? 彼が傍受していた信号が空軍のものではなくNSAのものであったとしたら、そういうこともありえただろう。加えてNSAは、「ベネウィッツは情報源として使えるかもしれない」という内容のソ連サイドの通信を傍受していた――ベネウィッツ自身がそのことを知る由はなかったのであるが。となると、AFOSIやNSAが最も恐れていたであろうシナリオというのはこういうものになる。すなわち、ベネウィッツがUFO情報を誰彼かまわずばらまくことで、その情報がカートランドで行われている何らかの秘密の研究開発プログラムにソ連の注意を引きつけてしまう――。

しかし真の疑問は、米空軍なのかNSAか、あるいは他の組織かもわからないが、何者かがポール・ベネウィッツを廃人に追い込もうとした理由である。

グレッグ・ビショップは、ベネウィッツはカートランドで行われていた極秘の航空機や衛星技術のテストに偶然出くわしてしまったのだと考えている。ベネウィッツは異星人の本物の宇宙船が極秘に飛行しているのを見てしまったのだと考えている人もいる。しかし、いずれの説も、この才能豊かではあるが脆弱な心に対して、空軍が執拗な心理的攻撃を行った理由を十分に説明するものではない。さらにこれらの説は、空軍が――あるいは別の組織かもしれないが――新しいオモチャ、それもとりわけ一番大事なエイリアンのオモチャをテストする時、それをするのに適した数マイル四方の地所を人里離れた砂漠地帯に所有しているのに、わざわざ人目のある住宅地で行った理由も説明できない。

「秘密技術」説にとって最も致命的な反論としては、もしベネウィッツが見てはならないものを見たのなら、空軍は彼に黙っているよう頼むだけでよかったはずだ、というものがある。愛国者であり、軍と契約関係にもあった彼なら、ほぼ確実にその要請に従ったことだろう。仮に彼が拒否したとしても、軍は法的に圧力をかけることができたはずだ。ブラッド・スパークスやバリー・グリーンウッドが指摘するように、政府や軍の秘密の通信を傍受したら、1934年の通信法や1917年のスパイ法に違反することになっただろう。もしベネウィッツがNSAの機微にわたる通信を傍受していたなら、彼は逮捕され、機材は押収され、事業は閉鎖されたであろう。しかし、そうはならなかった。代わりに彼は妄想を煽られた。なぜだろうか?

この事件についてのグリーンウッドとスパークスの見立てによれば、AFOSIには(そしてベネウィッツになされた工作には)より悪意に満ちた、計画的な意図があったとされる。カートランド基地のAFOSIが初めてベネウィッツを認識したのは、おそらく1979年4月にアルバカーキで開催されたハリソン・シュミットのキャトル・ミューティレーション会議だった。その翌月、リック・ドーティはエルスワースからカートランドに転任したのだが、カートランド基地ではその前年、UFOをテーマとしたニセ情報作戦を『ナショナル・エンクワイアラー』に仕掛けることに成功していた。さらに4か月後の1979年7月、ベネウィッツは自宅の近くのマンザノ山脈で光を撮影し(それはおあつらえ向きなことに彼の家から見える場所だった)、無線通信の記録も始めた。それを彼はUFOと関係したものであるに違いないと考えた。

1980年1月27日、ベネウィッツは初めてエイリアンからの通信を受信した。彼は1981年に空軍の情報参謀補佐長宛てに送った手紙の中で、こう主張した。すなわち、最初の電子通信セッションに際しては、カートランドの警備部隊の指揮官にして、ベネウィッツが最初にUFOの目撃を報告したアーネスト・エドワーズ少佐その人が立ち会い、「非公式ながら得がたい後方支援」をプロジェクト・ベータに提供してくれた、と。空軍は、最初から積極的にベネウィッツに関わり、彼の妄想を助長していたのである。1980年7月、AFOSIはカートランドでのUFO事件に関するクレイグ・ウェイツェル名の手紙をAPROに送り、APROはビル・ムーアに調査を依頼した。9月になるとムーアはファルコンとリチャード・ドーティから連絡を受け、ベネウィッツ作戦は第二段階に入った。

このように見てくると、事件は全く新しい様相を呈してくる。ベネウィッツはカートランド上空のUFOを偶然目撃したのではなかった。それらは彼のために飛ばされていた、明るく輝く撒き餌であった。一方、ウェイツェルの手紙はUFO研究者を引き寄せるために意図されたものであった。ムーアとベネウィッツは共に餌に引っかかり、捕まった。AFOSIは最初から彼らをUFO情報操作の媒体として利用しようと計画していたのである。彼らの本当の標的はベネウィッツではなく、UFOコミュニティ全体であった。

■ユーフォロジーでの戦争

AFOSIの公的な任務は、「空軍、国防総省、米国政府に対する犯罪、テロリスト、情報活動の脅威を特定し、把握し、無力化すること」である。AFOSIの活動の多くは「情報作戦」に含まれ、空軍政策指針10-7(2006年)では、これが三つの主要カテゴリー、すなわち「電子戦作戦(EW Ops)、ネットワーク戦作戦(NW Ops)、影響作戦(IFO)」に分類されている。

ここで我々の注目を引くのは「影響作戦」である。これには「軍事欺瞞(MILDEC)、作戦保安(OPSEC)、心理作戦(PSYOP)、防諜(Cl)、広報作戦(PA)、および反プロパガンダ」が含まれる。この文書によれば、こうした作戦は「我々自身を防御しつつ、敵対する人間や自動化された意志決定システムに影響を与え、妨害し、あるいは拘束するため」に展開されるもので、空軍はこれらの能力を「物理攻撃兵器によるのと同様の効果を達成するため使用する可能性がある」としている。

仮にあなたが空軍だと想像してほしい。あなたが目標とするのは空域での絶対的な優位であり、それを維持するためには、多くの秘密を守る必要がある。それはたくさんある。作戦上の秘密。戦術上の秘密。航空機・衛星・兵器に関する技術上の秘密。こうした秘密――とりわけテクノロジーの秘密――を守ることは死活問題である。UFO研究者たちはあなたの秘密計画を覗き見しようとしており、情報公開法に基づく要求を次々と送りつけ、あなたがDNAを盗むエイリアンと共謀してUFOの真実を隠蔽していると非難している。けれども、あなたはそんなものは絵空事だと知っている。UFO研究者たちの目的は、あなたが守るために何百万ドルも費やしているすべての秘密を暴露することだ。あなたが彼らを脅威と見なし、無力化しようとするのは当然のことである。

あなたのすぐ近所の住人で、UFO陰謀論を大声で唱えているポール・ベネウィッツ。UFOコミュニティで最も尊敬されているビル・ムーア。彼らをコントロールできれば、あなたはこの厄介な人々への攻撃を始めるための完璧な拠点を持つことになる。

ドーティが繰り返し我々に話したように、一度ベネウィッツに対する作戦が始まってしまえば、それは難しいことではなかった。ベネウィッツが自らの信念を保っていくためには、外からあれこれ応援してやらなくても、時折ちょっとした後押しをすれば十分だった。そしてベネウィッツはとてもよくその役割を果たした。ユーフォロジーの主流派の注目を集め、「善対悪」「我々対彼ら」「人類対異星人」という、センセーショナルだが単純な物語を広めたのである。

サイラス・ニュートンやジョージ・アダムスキーらの初期の作り話と同様に、ベネウィッツの「プロジェクト・ベータ」は、UFOコミュニティを集中させ、分裂させ、UFOに関する真剣な研究を困難にする騒音の壁を作り上げた。このテーマに真剣に取り組もうとする多くの人々は、その取り組みを断念せざるを得なかった。これは情報戦の見事な手本であったが、その代償は非常に大きかった。

ポール・ベネウィッツ問題の最終局面において、断崖の縁でよろめいていた彼は自ら身を投げたのか? それとも後ろから押されたのだろうか?

■ビルの大事な日

我々はその晩、ビル・ライアンが異星人へのインタビュー映像なるものを見た後に、彼と会うことになっていた。明日は彼の大事な日だった。いよいよ彼による「セルポ」の発表があるのだ。1時間経った。ジョン、リック、そして私はロビーで待った。しかしビルは姿を見せなかった。彼のホテルの部屋に電話をかけたが応答はなかった。ジョンが部屋を訪れノックしたが、電気は消えており、誰もいない。ビルはどこにもいなかった…。

翌朝、我々はロビーにいるビルを見つけた。彼は明らかに動揺していた。ビルによると、「セルポ文書」の情報源であるナゾの人物、アノニマスが、ラフリン・コンベンションの理事会の一員であるベテランUFO研究家、ドン・ウェアに連絡を取ってきて、ビルの講演を評価し報告するよう指示したという。ビルは、何かうまくいかないことがあって、セルポの代弁者としての役割を失うのではないかと恐れていた。しかし、これは驚くべきことではなかった。人類史上最も重要な発表の代弁者として、常に試されているというのは当然のことだった。アノニマスは見守っていたのである。

緊張していたものの、ビルは発表の前にカメラを回してのインタビューを受けることに同意した。だが、準備をしているとリックが現れた。

「みんな、ちょっと問題が起きた。誰かカメラの操作はできる? ちょっと面白いことになりそうなんだ。私のDIAの相手方が、これまで公開されたことのない映像を見せたいと言っているんだ」

「それには何が映っているんです?」とジョンが尋ねた。
「ETのインタビューだ。」
「またですか?いったい何回目なんだ?昨日見せてくれた写真とは関係があるんですか?」

「いや、違う。」リックの声には少し苛立ちがにじんでいた。「これは別物だ。この映像は誰も見たことがないし、向こうさんは君たちがドキュメンタリー用にカメラを持ち込むことを許すかもしれないぞ」

ビルはインタビューを受ける態勢に入っていて、我々に話したいことがあるような様子だった。一方でリックはUFO史上の「聖杯」を提供しようとしていた。そう、本物の「生きたエイリアン」だ。しかし、なぜDIAは我々にそれを見せようと思ったのだろう? 4日間にわたる駆け引きを経て、我々の忍耐は限界に近づいていた。「リック、今はビルの件で忙しいんです」と私は言った。「私たちがビルをインタビューしてる間は、女性カメラマンが小型のカメラで撮影できるかもしれない」

リックは、歴史的な提案を拒否されたことに少し驚いた様子だったが、自分の相手方の意思を確認すると言って立ち去った。その間に我々はビルに注意を向けた。ビルはラジオマイクを装着し、そわそわしていた。何かが彼を苛んでいることは明らかで、彼は言葉に詰まっていた。ビルは緊張するとどもる癖があるのだ。

「昨日届いた新しい文書…今日の話の中心に据えたかったんだ…あのエイリアンの文字を人々に見せて、その解読を始めたかった。でも、それができないんだ…知らせを受けたんだ…まだ話すことができないんだ」

「誰から言われたの?」と私は尋ねた。
「それは言えない。でも彼の意向には従わなければ」

「新しいものを見せられないのは残念だが、他にもたくさん話すことがあるじゃないか」
「そうだね。そうだと思う」

トイレに行ってきたビルは、インタビューのために腰を下ろした。我々はラジオマイクがまだオンになっていることを彼に伝えるのを忘れていた。

その後のビルへのインタビューはドラマチックなものとなった。この会議は彼にとって心理的な地雷原のようなものであり、彼は深刻なストレスを受けているように見えた。ビルはユーフォロジーの新たな英雄、忖度ナシで話す男として讃えられ、毎日多くの支持者やインタビュアーに囲まれていた。彼はユーフォロジーの中心部で歓迎を受け、会議の要人たちと肩を並べてはUFOやエイリアンの映像を見ていた。彼らはビルを抱擁していた。それは確かだ。しかしその目的はなんだったのだろう?

「すべての行動が監視され、分析されているような気がするんだ」と彼は言った。「すべての会話が盗聴されている」。我々は、彼がラジオマイクをつけたままトイレに行ったことは口に出さなかった。

「もう誰を信じていいのか分からない。正直なところ、これ以上耐えられるか分からない」

リックについてはどうか? ビルは彼を信頼しているのか?

「リックは本当に大きな助けになってくれた。彼はまさに導きの光だよ。UFO分野での彼の経験は私にとってとても貴重だった。この間ずっと、彼はガイドをしてくれた。彼がいなければここまでやってこれなかっただろう」

リックは具体的にはどのようにビルを助けてきたのか、またビルがセルポの話に関わるようになった当初から彼は支援していたのかどうか。そう尋ねようとしたが、ちょうどその時、リックがロビーに現れた。まるで獲物を手にした猫のように満足そうだった。

トラブルの兆しを感じたジョンは、リックをビルから遠ざけるように誘導し、私は素早くインタビューを締めくくった。リックがビルの肩越しに監視している状況では、これ以上の情報を引き出すのは難しいだろう。

我々は一緒にテーブルを囲んで座った。リックの目はキラキラと輝いていた。

「エイリアンの映像を見たよ。本当に素晴らしいやつだ。でも、撮影するのはダメだそうだ。特別な上映が行われたんだ。参加者は会議の主催者であるボブとテリー・ブラウン、DIAのエージェントが2人ほど、あと見知らぬ2人だった。ホテルの一室で、上映の準備が整えられていた。使用していた機材はパナソニックだ。政府はいつもパナソニックを使うんだ」

我々はリックのいる方に身を乗り出した。彼は映画の内容を話してくれるのだろうか? それとも政府のエージェントが映画を見る時は、どのブランドのポップコーンを食べるのかを教えてくれるのか?

「うん、映像は古いものだ―1940年代後半から1950年代初期のものだろう。車が施設の外に停まるんだ。ロスアラモスの施設に見えたな。あそこには何度も行ったことがあるんだ。外には民間と軍の車両が停まっていて、いかにもあの年代のクルマという感じだった。1人の男が建物に入り、カメラが彼を廊下の奥まで追っていく。僕の見るところ、あれはロバート・オッペンハイマーだったね」

ジョンはカメラの動きを尋ねた。それはトラックに乗っているのか、それとも三脚に据えられているのか?

「三脚に据えられて移動していったように思うね。オッペンハイマーがセキュリティドアを二つ通っていく時、少し揺れていたからな。ドアは、彼の付き添いがインターホンに話しかけた後に開いた。廊下の最後にもう一つのドアがあり、その前にMP(軍警察)が立っていた。彼の記章には“ダグラス”という名前があった。彼の制服と武器は1940年代か1950年代のものだったな。ドアが開くと…そこにいたんだ、Ebenエベンが。ノドの周りに発声器みたいなものがあって、そのせいか喋る時には機械音声のような声がしたな」

「彼らは何を話していたんです?」とビルが興奮して尋ねた。「彼らの母星についてですか?」

「いろいろなことを話していたよ。そう、Ebenエベンは自分たちの星についても話していた。それは40光年先で、二つの太陽があって、乾燥した砂漠のような風景なんだそうだ」

「まるでセルポみたいだ」。ビルは微笑んでいた。数分前の不安はすっかり消えていた。

「そうだな、そうかもしれない」。リックは答えた。

ビルは講演の準備のために立ち去った。彼の講演まであと20分だった。彼の足取りは軽く、新しい自信がみなぎっていた。リックの激励トークが功を奏したようだった。

ビルのプレゼンテーションには満員の観客が集まった。音声が何度か途切れ、少し話が長引いたかもしれないが、彼は聴衆が聞きたかった話をちゃんと話していた。米政府とETとの接触の証拠とされる資料。内部情報源の裏付け。そしてさらなる情報が控えていることのほのめかし。彼は最後まで聴衆の注目を引き続けた。

ただし、一つのテーブルだけは様子が違った。今週の初めから目にしていた男たち、つまり鋭い目をしたフライトジャケットの男と、二人の屈強な付き添いがいつものように無表情で同じテーブルに座っていたのだ。ビルがポール・マクガヴァンの名前を出した時――ちなみにマクガヴァンというのはドーティの話によればDIAの情報源で、最初にEメールでセルポのストーリーの多くの部分を補強した人物とされる――オールド・スティーリーのような目をした男は突然落ち着きを失い、テーブルを立って部屋を出て行った。ひょっとしたら彼はポール・マクガヴァンだったのだろうか? [訳注:Ol' Steely-eyes という言葉はよくわからない]

ビルの講演が終わった後、人々が質問のために列を作ったが、私はロビーに出て、残りの観客が退場する様子を見ていた。その雑踏の中から現れたリックは、私のそばに来て、ビルのプレゼンテーションについてどう思うか尋ねてきた。

「私ならもうちょっと整理して話したかもしれませんね」。私は如才なく答えた。

リックは同意した。「採点したらC+といったところだ。彼はスライドを使うべきだろうな。講演にはスライドを使わないとな、パイロットにとってのコンパスのようなものだから。アレは発表をリードしてくれる」

ビルが講演ホールから出てきた。ファンに取り囲まれ、ほとんど運ばれるようにしてテーブル席に腰を下ろした。質問に答えるビルは、とりわけ40代前半の魅力的な女性に注意を払っていた。その女性は背が低く、顔も髪も黒っぽい感じだった。ビルとその女性はしばし話し込んでいた。リックと私は「ああなるほどね」といった感じでお互いにほほえみあった。

群衆が散った後、ジョンと私はビルと話をするチャンスを得た。ビルはすべてが終わって、反応も良かったことに満足しているようだった。彼は始まる前は不安感で体が痺れるほどだったと言った。というのも、ステージに上がるちょっと前には主催者から「もし照明が消えたらすぐに地面に伏せて下さい」と言われていたのだった。主催者側もビルの発表が行われている間に何かトラブルが起きるかもしれないと忠告されており、舞台脇には万一に備えて屈強な警備員数人が舞台袖で待機していたのだという。

私は「オールド・スティーリーの目をした男」が突然出ていったことに触れ、彼がロビーをこっそり通り抜けていったことをビルに教えてやった。私は、彼がポール・マクガヴァーンなのではないかと彼に聞いてみたのだが、ビルはそれを否定し、その男からは以前話しかけられたことがあったと言った。彼はテリーという名前で、アリゾナ州出身のUFOコンタクティだった。ビルに語ったところでは、彼はあらゆるUFO会議に出席しているということだった。私は、なぜコンタクティがあんなに陰険な顔をしているのか、そしてなぜいつも両脇に大男たちをはべらせているのか、疑問に思った。彼ら全員がコンタクティだとでもいうのだろうか? あの3人はあらゆるUFO会議に揃って参加しているのだろうか?

その日の午後、我々はリックの撮影をする予定だったのでロビーで彼を待っていた。いつもそんなことはないのだが、彼は1時間ほど遅れてやってきた。その間、私は物理学者でありながらオカルトを実践しているという人物や、インターネットラジオの司会者、さらには『ハスラー』誌に会議についての記事を書くというジャーナリストと話をすることができた。リックがようやくやってきた時、彼は我々との約束を忘れていたようだったが、それでも撮影には快く応じてくれた。

私たちはホテルのエレベーターに向かったが、角を曲がると「オールド・スティーリーの目をした男」と突然出くわした。彼とリックはまるで磁石がはじきあうようにお互いに飛びのき、鉢合わせしたことに一瞬驚いた表情を浮かべ、大げさに貧乏揺すりをしたり地面に目をやったりしていた。エレベーターの扉が開くと我々は乗り込み、緊張した空気の中、2つ上のフロアに向かったが、リックと「オールド・スティーリーの目をした男」は、怒った雄猫同士のように殊更にお互いを無視しあっていた。

目的の階に到着したリックと私はホッとしてエレベーターを降り、中二階へと進んでいった。

「じゃあ、あれがポール・マクガヴァーンだったわけですか?」。私は笑いを抑えながら尋ねた。

「どうしてそれがわかったんだ?」。リックは驚いたような、それでいて嬉しそうな顔をした。

私は笑いながら、彼とその仲間を一週間ずっと観察していたこと、リックと彼の間で目配せが交わされるのを見たこと、そして彼がビルの話の中でマクガヴァーンの名前が出た途端に退席していったことを説明した。

「よくやったな。MI6で働けるんじゃないか? しかしだ。君がジョンと一緒にパンダエクスプレスで麺を食べているのを、我々がホテルのバーから見ているのは気づかなかっただろ!」。リックは破顔一笑し、満足げに私を見た。彼にとってはこういったこと全てがゲームなのだろう。そんなことを強く思った。そのゲームが何なのか、私には全くわからなかったのだけれど。

撮影はうまく進んだ。リックはカメラの前では自然体であった。彼はポール・ベネウィッツについて、そしてこういった会議を情報機関が監視する必要性について、ちょっとだけ話した。また彼は、自分はセルポに関する件には全く関わっていないのだと主張した。彼はただの民間人として興味を持っただけだというのだった。

その夜、メインホールではミステリーサークルに関する映画が上映された。ジョンと私はそれを見に行くことにした。我々は、ミステリーサークルの作り手たち(自分たちもそうだったわけだが)の仕事と、リックが関与していた情報操作の仕事の類似点ということについて考えていた。どちらのグループも秘密裏に活動し、UFOに関する新たな物語を作り出し、そしてその物語は独り歩きしていった――書籍やUFO会議、ハリウッド映画、強力な信仰の体系といったものとして。どちらのグループも、自分たちの活動を取り巻く神話がますます大きく、複雑になっていく様子をリングサイド席から見守ってきた。どちらのグループも当初は沈黙を強いられた。やがて彼らは、ビル・ムーアや一部のミステリーサークルの作り手がそうしたように沈黙を破った。だが、その時点で彼らは、神話を信じる者たちによって「自分たちが作り手であったこと」を否定されてしまった。実際のところ、ミステリーサークルの作り手と情報操作のアーティストたちの違いは、彼らはその仕事で報酬を得ているが、私たちは得ていないという点ぐらいだ。もしもUFO神話の発展に関与した組織が、自分たちの役割を明らかにしたとしても、すぐに同じように滑稽な状況に陥ってしまうだろう。信者たちは真実を知りたがっているのではない。ただ自分たちの既存の信念が確認され、詳しい話が積み重ねられていくことを望んでいるだけなのだ。

ジョンと私は暗くなったホールに入り、小麦が押しつぶされたウィルトシャーの畑の見慣れた光景を目にした。そこには、リックが一人で座っているテーブルがあった。私たちは横に座った。ミステリーサークルの専門家が異常な放射線値や遺伝子操作された作物について発言するたびに、ジョンと私は笑いをこらえるのに苦労した。私たちのチームがデザインしたいくつかのサークルも、荘厳にスクリーン上を滑っていった。私は思った。AFOSIのエージェントがUFO雑誌をめくるたびに感じているのも、こういうことなのだろうな、と。

私たちの喜んでいる姿はリックの注意を引いた。ジョンは彼に身を寄せて、「こういうサークルの中には僕が作ったものもあるんだ」と言うと、リックはびっくりしたようだった。「どうやって!?」と彼は小声で叫んだ。これには我々もリック以上に驚いた。彼は、ミステリーサークルが人間の手で作られていることを知っているはずではないか? そして彼は、我々と会う前にジョンの「サークルメーカーズ」のウェブサイトを調べていたはずではないか?

スクリーンでは、2つの光の玉が巨大なミステリーサークルを作り出す像が流れていた。この業界では「オリバーズ・キャッスル映像」として知られているものだ。「あれを作ったのは僕です」とジョンが言った。実際そうなのだった。彼は1996年、他の2人の仲間とデジタル特殊効果の技術者と一緒にこれを制作したのだ。リックは明らかに感銘を受けたようすで、観客から漏れたかすかな驚きの声にも、彼がそんな反応をしても当然だろうと思わせるものがあった。

映画が終わった後、リックはそれほど驚いてはいないのだという風を装った。「まあ、全部知ってたさ」と彼は言いながら、シャツの隅でメガネを拭いていた。「ミステリーサークルが人の手で作られていることは知っていたよ。君たちに夢を壊されたわけじゃない! でも……どうやって作ったんだ?」

外に出た我々は、クロップサークルの作り方やUFOをデッチ上げる方法、デジタルを用いたトリックなどについて話した。そして、最近ではUFOのビデオが偽物かどうかを判断するのはほぼ不可能であり、奇妙な乗り物がクッキリ映っているほど本物である可能性は低いという、とても残念な状況が生まれているといったことも。

「それでですが」とジョンが尋ねた。「あなたが今朝見たエイリアンへのインタビュー映像、それは特殊効果の産物ではなかったと明言できますか?」

「うん、あれは本物だよ。」リックの顔に狡猾そうな表情が一瞬浮かんだ。そして彼は微笑んだ。「さあ、君たちもあの映像を見に行ったらどうだい。部屋は11012号室だ。ノックすれば入れてくれるかもしれないよ」

ジョンと私は顔を見合わせ、リックとは後でホテルのバーでまた会うことにしてから、笑顔を交わしてエレベーターへと向かった。エレベーターの中に入ると、急に緊張感が高まった。計画を立てるような時間はほとんどなかった。

「じゃあ、ドアをノックして『こんにちは。エイリアンの映像を見せてくれるのはここですか?』って言えばいいんだな。ロビーにいたら誰かが近づいてきてここで特別上映があるって教えてくれた、と言えばいい。最悪、追い払われるだけだ」

「ずっと僕たちのことを監視していたかもしれないよ」。そうジョンが言った。「リックと一緒にいたことは彼らも見ていたはずだ。リックに教えられたってことは分かってるだろう」

「でもどうすればいいっていうんだ?」。私は不安を隠そうとしつつ応えた。「ノックするしかないだろう……」

廊下には誰もいなかった。そして長かった。廊下は奥に行くにつれて、閉所恐怖症になるんじゃないかと思わせるほどすぼまって見えた。気がつけば、カーペットの上にはタイルが並ぶ柄が催眠術のように何度も繰り返され、頭上では蛍光灯が点滅していた。手のひらが汗ばんできた。

前方には「起こさないでください」という札がかかったドアが見えた。この廊下にはこのドアしかない。11012号室。何の変哲もない。私たちはドアの前に立ち、耳を澄ませた。静寂。私は深呼吸をしてノックした。反応なし。いつ「オールド・スティールの眼」をした男と彼の仲間たちが廊下を突進してくるか、気が気ではなかった。「もう一度ノックして」とジョンがささやいた。

私は再びノックした。返事はなかった。私は鍵穴から中を覗いた。電気は消えていた。誰もいなかった。ドアの下にメモを差し込むことも考えたが、代わりに「起こさないでください」の札を裏返していくことにした。名刺代わりということで。

我々は急いでエレベーターに向かい、これは一体何だったのだろうと考えた。また別のゲームなのだろうか? あの部屋は誰のものなのか? DIAの上映室だったのだろうか? それともリックの部屋だったのか?

ホテルのバーに戻り、瓶ビールを飲んだ。少なくとも私たちが挑戦してみたのは確かなことだ。

私たちの会議での一週間は終わろうとしていたが、頃合いはもうギリギリということのようだ。この間、我々はほとんどの時間をUFOやETについて話をすることに費やしていた。我々を現実につなぎ止めているロープは端の方でほつれ始めていた。あと一週間この状態が続いたら、我々はいとも簡単に大海に漂流することになっただろう。あまりにも長くUFOの魅惑的な輝きを見つめていると、そうなってしまうということなのだろうか? ビル・ライアンの身に起きつつあるのもそういうことではないのか? ポール・ベネウィッツの身に起きたのもそういうことではなかったのか? (12←13→14)

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久しぶりに天声人語ネタ。

今朝の天声人語は酷かった。批評に必要な範囲の引用は著作権法でも許されているので今回もその冒頭部を貼っておく。

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要するにイタリアに比べると日本はまだまだちゃんとした防災対策が出来ていないという話で、司令塔をちゃんと作って行政の縦割りもやめなさいという説教をしている。ああそうですかという話であるが問題はソコではない。

冒頭部を読んでいて、オレはこの箇所に引っかかった。

 私はその7年後、震災復興策の一環でできた高校で学ぶ機会を得た。

オレの知る限り「震災復興」という言葉が日本で一般化したのは阪神大震災以降のことである。阪神大震災があったのは1995年。しかしこの文章を読むと1976年の7年後というから1983年に「震災復興策の一環でできた高校」が存在していたことになる。

ん? どして? ここで5秒ほど考えた末にやっと疑問が解けた。そうかこの筆者は当時日本にいたわけではなくて、イタリアにいたのである。日本の新聞で日本語の文章を書いている記者なので基本的にはこの国で生まれ育った人間なのだろうというアタマでいたのだが、実はそうではなかった。たぶん筆者は帰国子女というヤツで、当時はイタリアの高校に通っていたのである。しかしこの人はその辺のことをハッキリ書かない。なのでオレも勘違いしてしまったのだ。

要するに、文章のイロハとしては、だからここで「自分はイタリアにおりました」という話をひと言しておけばよかった。そうすれば誤解される恐れはない。なのにそれをしなかったというのは「文章がヘタ」という風に言ってしまえばそれまでなのだが、要するにこの筆者は日本にフツーに住んでフツーに暮らしている人々への想像力が悲しいほどに欠落しているのだろう。

「イタリアで高校生活を送った人」というのは我々からするとちょっと変わった体験をしてきた人物と映るのだが、たぶんこの筆者のアタマの中では「まぁ天声人語書いてるような人間はそもそも国際派のエリートなんよ。別に私はイタリアの高校出ましたとかダサいこと書かんでもそれぐらい察しろよ」ということになっているのだろう。そしていわゆる「出羽守論法」を披瀝してしまうのである。

この辺がオレが常々言っている「朝日新聞のエリート趣味」の表れであって、若い頃から世界的な視野を養ってきたオレ様が何も知らんアホどもに説教してあげましょうとゆー傲岸不遜な態度が透けてみえる。

ついでに「出羽守論法」についてひと言いっとくと、そもそもイタリアと日本はその社会の成り立ちや現況なども違うワケで何でもかんでもイタリアみたいにできるハズがない。たまさかおまえさんがイタリアで高校生活を送ったからといってそんな説教をする権利を自動的に得たと思ったら大間違いなのである。(おわり)


【注記】なお、朝日新聞批判だというのでたまたま迷い込んできたが別にアカ批判もしとらんので拍子抜けしたという人がいるかもしらんので念のため書いておくが、オレは基本リベラルであって別に特別高等警察のように朝日の思想傾向を断罪しようとしているワケではない。オレが問題にしているのは朝日の紙面から漂う「わしらインテリが無知蒙昧な連中に啓蒙を施してあげよう」的な貴族趣味である。今はもうそういう時代ではないのである
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■第10章 牛・盗聴器・地下のエイリアン

    第3条: 両締約国は、ミサイル警戒システムによって未確認の物体が探知された場合、またはこれらのシステムや関連する通信設備に干渉の兆候が現れ、そうした出来事が両国間の核戦争勃発のリスクを引き起こす可能性がある場合には、直ちに互いに通知をする義務を負う。
     ――米ソ偶発核戦争防止協定(1971年9月30日)

翌朝。もう会議の準備が始まろうとしている中、軽い二日酔いを引きずりながら、ジョンと私はフラミンゴの「アヴィアリー・ラウンジ」で落ちあい、常に用意されているコーヒーを喉に流し込んだ。それはユーフォロジストたちにとっての必需品だった。9時きっかりに始まる講演は午後5時まで続き、昼食の時間以外に休憩時間はなかった。本日の議題は次のようなものだった。2012年12月に何が起こるかを予測するイギリス人の話。それとはまた別のイギリス人による「英国軍がミステリーサークルの研究の隠蔽を図っている」という陰謀についての話。邪悪なネイティブアメリカンの霊がいるというユタ州の牧場についての発表。次元を超えたワームホールの話。そしてもちろんUFOである。

リック・ドーティが現れたのは午前10時半頃だった。我々に会えた彼は嬉しそうで、明るい表情だったが、実は朝の5時45分、会議に参加していた国防情報局(DIA)の知り合いに起こされてしまったということだった。DIAの職員が話をしたいというので、彼らはホテルの駐車場で会い、レンタカーに乗って町の外れまで移動し、そこで話をしたのだという。ただし、その内容は口外無用とのことだった。リックには、その日の午後にも同様な面談の予定があった。しかし彼は「こうした面談は公のものではないのだ」と言って、自分が「一般市民」として会議に参加していることを強調した。

その日のプレゼンテーションについて雑談をした。「スキンウォーカー牧場」という名で知られる、ユタ州のあの牧場はどうなんだという話になった。1990年代初頭、牧場の所有者は何頭かの牛がミューティレーションの餌食になっているのを発見した。血は抜かれ、生殖器は綺麗に切り取られ、耳(そして時には舌)は取り除かれ、直腸はくり抜かれていた。しかし、牛たちが抵抗した形跡は全くなかった。この異常なパターンには、1970年代に牧場主たちを悩ませた同様のミューティレーションを思わせるものがあった。さらに死んだ動物の近くにビッグフットのような生物が現れたり、空に奇妙な光が見えたりしたこともあった。

「スキンウォーカー? あれはデッチ上げじゃないのか?」とリックは一蹴した。「正直に言うと、こういった話の90パーセントはデタラメだ。真実はこういうことだ。宇宙人は存在している。そしてしばらく地球にいた。我々は2体を捕まえて、彼らのテクノロジーを手に入れた。そして彼らは1965年にセルポ・チームを連れて地球を去っていった。実際にあったのはそういうことだ。残りの話は全部たわごとだよ。特に例のアブダクションなんていうのはね」

「本当に?全部が全部?」

「まあ、一つだけ謎のアブダクション事件があった。(アリゾナ州)フォー・コーナーズの辺りで女性が誘拐されたんだ。ニューメキシコ、コロラド、ユタ、アリゾナの州境が接する辺りだ。あそこは岩とヘビしかない土地でね。彼女はある夜、車に赤ん坊を置き去りにしたまま連れ去られた。彼女の夫は空軍に所属していたので、AFOSIに調査を依頼したわけだ」。リックは笑ったが、突然真剣な顔つきになり、何か未知のものに直面したかのように一瞬黙り込んだ。「あれは何だったのか、結局わからなかったよ。私は家に素晴らしい望遠鏡を持っていて、それをコンピューターに繋いでいるんだ。深宇宙の天体を観察するのが好きで、そこには何があるのだろうと考えてしまう。向こうには何かがある。そう思っているよ。全体の35パーセントぐらいは分かってるると思うが、残りはね……まあ、何が起こっているのか知っているヤツはいる。それは確かなことさ」

我々が話していると、見覚えのある人物がテーブルに近づいてきた。講演の最中、2人の屈強な付き人と一緒にいた、あの風雨にさらされたような顔つきの男だ。彼は我々のテーブルを通り過ぎつつリックに目配せをし、意味ありげに「分かっているよ」といった風に頷いてみせた。我々はそれを見なかったかのように振る舞ったが、私は内心恐怖に震えていた。彼はリックと関係のあるDIAの一人なのだろうか?

スキンウォーカー牧場でのキャトル・ミューティレーションについて話しているうちに、話題はポール・ベネウィッツ伝説の中でも最も奇妙な側面へと移っていった(それはリックが直接関わっていたものでもあった)。それは新たなUFO神話の中でも特に強烈で妄想めいた部分の、その土台を作り上げたストーリーでもあった。ニューメキシコ州の小さな町・ダルシェ(ダルシー)は、アルバカーキの北方約200マイルにあって、コロラド州との境に位置するジカリラ・アパッチ族の居留地であるが、この町を見下ろすメサ(台地)の地下にはエイリアンの基地が隠されているというのだ。


会議が終わって一週間後、ジョン、グレッグ・ビショップと私はダルシェを訪れた。町に入ってまず気づくのは、その小ささと貧しさである。次に目を引くのは、周囲の景色の美しさである。緑豊かな谷は雪を頂いた壮大な岩山の間に広がっており、さらに周囲を圧するようにして、巨大な氷河を思わせるアルチュレタ・メサの壁がそびえ立っている。メサはもっともっと小じんまりした台地で、異星人の地下基地がある場所としてはあまりにお粗末なところだろうと考えていたのだ。しかしそれは実際には陸地に浮かぶ島のようで、長さは約25マイル、幅は10マイル、高さは場所によっては300フィートもある。ここならエイリアンの基地だって幾つも収まりそうだ。

ダルシェでもう一つ目を引くのは、周囲から浮いた感じの「ベスト・ウェスタン・ジカリラ・イン・アンド・カジノ」である。これは町の中心と思しき場所にあり、ハイウェイ沿いに建っている近代的で相当豪華なホテルである。入口の前には2頭の巨大なブロンズの馬が立ち上がっている。客を歓迎するのにはどうかと思うが、ホテルのスタッフは私たちを喜んで迎えてくれた。ギフトショップではUFOのTシャツまで売っていた。そこには「友だちは宇宙人の検査を受けたのに私はこのショボいTシャツだけ」と書かれていた。この目立たない場所がどうして不吉な場所としてここまでの評判を得たのか? その答えは、ポール・ベネウィッツの心の中と、AFOSIが生み出した壮大な幻影の中に隠されているのだ。

■臓器泥棒たち

1979年4月20日はリチャード・ドーティがニューメキシコ州カートランドでAFOSIの任務に就くちょうど一か月前であったが、上院議員で月面を歩いた元宇宙飛行士でもあるハリソン・シュミットはその日、アルバカーキでちょっと前例のないような会議を主催した。会議には、ニューメキシコ州、コロラド州、モンタナ州、アーカンソー州、ネブラスカ州から集まった牧場主や法執行官たちが出席し、彼らは一つの問いに対する答えを求めていた。「誰が、あるいは何が、彼らの家畜を殺し、切り刻んでいるのか?」。この会議にはポール・ベネウィッツも出席していた。そして、おそらくカートランド基地からはAFOSIの代表者も目立たないようにして参加していたのだろう。

多くの牧場主や地元の警察は、こうした殺害の下手人は人間だと確信しており、おそらくは魔女や悪魔を崇拝するカルトが関与しているのだろうと考えていた。しかし、カンザス州立大学で行われた検死が明らかにしたのは、牛は人間ではなく動物に襲われたのだということだった。それでも牧場主たちはこの説明を受け入れなかった。1974年の終わりには武装パトロールを組織し、血塗られた殺害者たちを捕らえる態勢を整えた。が、何も見つけることはできなかった。その間も家畜の死は続いてアメリカ中の牧場地帯に広がり、ついには全国ニュースにまでなった。

オクラホマ州とコロラド州で行われた公式調査はいずれも人間の関与を否定し、こうしたミューティレーションは自然死や捕食者によるものと改めて結論づけた。だが、それでもミューティレーションと見える現象はやまなかったし、ウワサも消えなかった。恐怖の波が広がっていくにつれ、ストーリーはさらに奇怪なものになっていき、ミューティレーションの現場付近で奇妙な光やヘリコプターが目撃されたという報告も増えていった。あるコロラド州の新聞は1974年、或る保安官がミューティレーションの現場で手術用の手袋やメス、そして牛の陰茎が入った軍用バッグを発見したと報じた。が、ミューティレーションにおける最も不可解な点は、犯人が音もなく現場に出入りし、痕跡を残さずに去ることだった。そのため、誰かがこの事件とUFOとの関連を考えるのは時間の問題であった。

1975年、モンタナ州は奇妙な現象の津波に見舞われた。キャトル・ミューティレーション、卵型の航空機や標識のないヘリコプターの目撃、空軍ICBMサイロ上空でのUFOの目撃。そして最も謎めいていたのは、銃撃を受けても平然としているビッグフットのような生物の出現であった。これは単なるカルトの仕業ではない。そんな疑念が強まっていった。調査のほとんどは地元の保安官が行っていた。地域の軍や空軍は何が起きているのかを知っている様子もなく、気にもかけなかった。そして連邦政府は関わり合いになるのを拒んだ。事態は収拾がつかなくなってしまい、牧場主たちは武装した民兵隊を結成して家畜を守ることになった。恐怖は地域社会に広がり、いつパニックが爆発してもおかしくはなかった。モンタナ州の高校では、学生たちが切断犯の最初の人間の標的になるというウワサが広がり、保安官が呼ばれて生徒たちを落ち着かせる事態にまでなった。それはまさに、CIAのロバートソン・パネルが1953年に警告していた非合理的なヒステリーの典型であった。

1970年代後半、ニューメキシコ州はミューティレーションの波に襲われていた。牧場主や地元の保安官は、上空を飛ぶ航空機に向けて銃をメクラ撃ちするようになり、今にも大きな事件が勃発しそうな状態になっていた。1979年のアルバカーキ会議は、シュミット上院議員が、家畜のみならず人間が傷害を負うようなことが起きる前に事態を収拾しようとした試みであった。この会議でポール・ベネウィッツは、ダルシェを拠点とするハイウェイパトロール隊員、ゲイブ・バルデスと初めて出会った。ダルシェは1975年以来、キャトル・ミューティレーションとUFO目撃に悩まされており、バルデスは地元の牧場主たちのために自ら調査を始めていたのである。

参加した会議が終わった翌週、私とジョンは、アルバカーキ郊外にある居心地の良さそうなバルデスの自宅を訪問した。現在は退職しているが、真面目で人当たりの良いメキシコ系アメリカ人である彼は、ミューティレーションの謎に今も強い関心を持っていた。1997年には、ラスベガスのホテル経営者ケビン・ビゲローが率いる超常現象研究組織「ナショナル・インスティテュート・オブ・ディスカバリー・サイエンス」のために、この問題に関する詳細な報告書を執筆していた。ちなみにビゲローは、私たちがラフリンで聞いたユタ州のスキンウォーカー牧場の調査にも資金を提供した人物である。

1970年代にまでさかのぼるバルデスの調査は、特に被害が大きかったマヌエル・ゴメスの牧場にスポットを当てていた。死んだり切断された動物のそばには、キャタピラの跡や紙片、計測器、注射器、針、ガスマスクなどが見つかった。また、ある現場では、レーダーを反射するチャフが一帯を覆っており、それは死んだ牛の口に詰め込まれていた。さらに、一部の動物は骨折していたが、手足にはロープの痕跡があり、宙吊りにされてから地面に落とされたことが示唆されていた。こんなことをした者の正体はともかく、これは人間によるもので、しかも組織的に行われたものだった。

モンタナ州と同様、ミューティレーションはUFOの目撃ラッシュと同期していた。バルデスや同僚たちは奇妙な飛行物体に何度か遭遇していた。ある時、バルデスのチームは野原でオレンジ色の光に肉薄したが、近づくとその光は消えた。それから、目には何も見えなかったのだが、彼らの頭上を芝刈り機のエンジンのようなくぐもった音が通り過ぎていった。これはまた別の時であるが、バルデスと2人の同僚は、円盤型でローターのない、まばゆいほど明るく光る物体を上空に目撃し、その真下にかがみ込むという体験もした。その物体が上空を飛び去った時に聞こえた音は「プップップッ」とか「カチカチカチ」といったもので、先進的な異星人の技術とはおよそ似つかわしくないものだったという。

ダルシェ周辺でのミューティレーションの凄まじさは、元サンディア研究所の科学者、ハワード・バージェスの関心も引きつけた。1975年7月のある晩、バージェス、バルデス、そして牧場主ゴメスの3人は、ミューティレーションの背後に人間がいるかどうかを確かめるため、直感に頼って或る行動に出た。3人は、まず100頭の牛の背中に紫外線ランプを当ててみた。すると、いくつかの牛には紫外線でしか見えない物質が付着していることが分かった。その印が付けられていたのは、すべて1歳から3歳の特定の品種であり、しかもゴメスの牧場で見つかった死んだ牛と同じ品種であった。ゴメスはすぐにこのプロファイルに合致する動物をすべて売り払った。

この発見を基に、3人は犯行の手口を再構成してみた。選ばれた牛にはカリウムとマグネシウムを含む水溶性のUVペイントで印が付けられており、これは犯行が行われる直前にマーキングがされたことを示していた。夜の闇に紛れて、犯行グループが手配した航空機がその地域に現れる。それから、周りからは見えないブラックライトのビームを使って、印の付けられた牛が特定される。選ばれた牛は、おそらくは空からライフルで鎮静剤を打ちこまれ、それからミューティレーションが行われる。それは現場の地上で行われる場合もあれば、運ばれていった他の場所でなされることもある(だから牛の中にはロープ痕が残ったものがある)。バルデスはそう考えた。バルデスは、切断犯たちはアルチュレタ・メサの頂上にある数多くの廃鉱の一つを手術室兼実験室として利用していたのだろうと言った。凄惨な作業を終えると、彼らは切断され血を抜かれた動物を牧場に戻し、それを不幸な牧場主が発見することになる――。

この問題に対するバルデスの情熱に疑いはなかったが、彼は同時に不安も感じている様子だった。ある時、彼はメサの頂上で軍事施設への入り口を発見したとほのめかしたが、さらなる情報を求められると即座に話すことを渋りだした。バルデスは何度かこうやって口を閉ざしたが、どうも彼は「言ってはならないことを言ってしまった」と感じているかのようだった。後に我々は、彼のためらいには相応な理由があったことを知った。1970年代に調査を進めていた際、彼は自分が監視されていると確信し、その疑念は電話機の受話器に仕込まれた盗聴器の発見によって裏付けられたのである。

とまれ、バルデスが私たちに語った内容は驚くべきものだった。コロラドスプリングス近郊のフォートカーソン基地はここから約300マイル北方にあるが、彼の考えによれば、軍はここからダルシェ地域までヘリコプターを飛ばしており、アルチュレタ・メサをキャトル・ミューティレーションの言質拠点として利用していた。さらに彼は、家畜切断犯の航空機に加えて「本物の」UFO、つまり空飛ぶ円盤が、おそらくは別の政府機関によって飛ばされていたのではないかとも示唆した。これは事態をさらに混乱させるため、さもなくば少なくとも地元の住民を混乱させるためだった、と彼は言った――この発言には私たちも困惑したのであるが。

では、バルデスをはじめとする人々がダルシェ上空に出現するのを目撃した、「カチカチ」という音を発する謎の航空機とは何だったのか。それは、陰謀論でよく語られる伝説の「黒くて音を立てないヘリコプター」だったのだろうか。テクノロジー時代における神話として「音を立てないヘリコプター」というのはUFOと同様強力であり、これまでずっと妄想狂が抱くもう一つの幻影と見なされていた。もっとも、もし音を立てないヘリコプターが実在するならば、なぜそれが戦場だとか一番役立つはずの都市作戦で使用されないのかという疑問が生じる。その答えは「それは実際は使用されていた」というものである。我々はそのことを最近まで知らなかっただけなのだ。音を立てないヘリコプターはただ実在するというだけでなく、1972年にはすでに飛行していたことが明らかになっている。それはヒューズ社の500P(Pは侵入者の意)と呼ばれるヘリで、操縦した者たちはこれを「ザ・クワイエット・ワン(静かなヤツ)」と呼んでいた。

国防総省の高等研究計画局(ARPA、現在のDARPA)は、1968年からサイレントヘリコプターを開発しようと試み、そのベースとしてヒューズ500という軽量観測ヘリコプターを使用していた。その成果を現場で活用したのはCIAであり、特殊作戦局航空部門用に2機を購入、南東アジアで秘密任務を行う悪名高きい「スパイ」会社、エア・アメリカに提供した。

このヘリコプターの存在に対して常々どのような議論がなされていたかを考えると皮肉なことではあるのだが、クワイエット・ワンは、ロサンゼルス警察がその活動に際してあまり騒々しくない都市用ヘリを求めていたところから生まれた。ヒューズ社は最初、500型のテールローターのブレードを2枚から4枚に増やし、それらをハサミのように配置することで、騒音を半減させた。ARPAはこのロサンゼルス警察のヘリコプターの話を聞いて静かなヘリコプターは自分たちにも非常に役立つことに気づき、さらなる研究に資金を提供した。

ヘリコプターの「ワップワップ」という音は「ブレード渦相互作用」によって生じる――言い換えれば、ブレードの先端が高速回転によって生じる小さな竜巻を叩くことで発生する。ヒューズ社は、メインローターにブレードを1枚追加し、かつブレード先端の形状を変更することで、この効果をほぼ完全に排除できることを発見した。さらに500型の排気口にはマフラーが取り付けられ、空気取り入れ口には防音板が設置され、機体全体が鉛とビニールパッドで覆われた。その結果、完全に無音ではないものの、その音はヘリコプターのそれとは思われないものに変わった。クワイエット・ワンはほぼ無音というだけではなく、ほぼ不可視でもあった。赤外線カメラを搭載し、灯火を使わずに飛行・着陸することが可能だったからだ。だが、この機能は当時の軍事技術の最先端であったものの、改良初期につきものの多くの問題に悩まされた。

クワイエット・ワンのテスト飛行はエリア51とカリフォルニアで行われたが、その飛行中にいくつかのUFO報告を引き起こした可能性がある。そして1972年、クワイエット・ワンは実戦配備された。CIAの2機の500Pがラオスのジャングル奥深くにある秘密の飛行場に運ばれたのである。クワイエット・ワンの存在は誰にも知らされていなかった。写真撮影は禁止され、このヘリ用に偵察機や衛星の目を逃れるために特別な格納庫が用意された。クワイエット・ワンは非常に静かだった。基地に駐留していた兵士たちは、このヘリが上空を通過する際、その音は遠くを飛ぶ飛行機のそれのように聞こえたと言っている。そんなシロモノを目前にした者はさぞや仰天したことだろう。しかし、そのほとんど魔法のような能力にもかかわらず、クワイエット・ワンは現場ではそれほどうまくいかなかった。1972年12月、一機は敵地背後に盗聴器を設置する任務に成功したが、もう一機は訓練中に壊れてしまった。生き残ったヘリコプターはカリフォルニア州のエドワーズ空軍基地に戻され、解体されたとされる。

クワイエット・ワンの記録はワシントンDCにあるCIAのフロント企業「パシフィック・コーポレーション」に行き着いたが、その先どうなったかは不明で、ヒューズ 500Pや他の「静かな」ヘリコプターについてそれ以降の記録は存在しない。しかしそれは、こうしたヘリが以後製造されなかったということを意味するわけではない。その予算は政府の拡大し続けるブラック・バジェットの中に隠されていた可能性がある――もちろんそんな証拠があるわけでもないが。クワイエット・ワンの話が示しているのは、このような航空機の技術が1972年末にはすでに完全に実現していたということで、「その後継機が1975年までにはモンタナ州やニューメキシコ州上空を飛ぶようになっていたかもしれない」と考えても、そこにさほどの飛躍はないということである。この地域で目撃された謎のヘリコプターとミューティレーションの因果関係を証明することはできないけれども、ゲイブ・バルデスと彼の仲間たちは、ダルシェのあの夜、頭上を急襲された。そしてミューティレーションされた家畜のそばには誰かがガスマスクや軍の備品を残していった。なお疑問は残る。誰がやったのか。そしてなぜ?

■狂った牛と平和的な爆弾

ハリソン・シュミットの会議の後、すなわち1980年に出たFBI報告書が結論づけたように、いわゆるキャトル・ミューティレーションのいくつかは動物の自然死や捕食者の襲撃によるものであって、それが不安を感じた牧場主によって何やら邪悪なものへと変えられてしまった可能性が高い。しかし、捕食動物が牛にUVペイントをつけたり、ヘリコプターを飛ばしたり、残骸を残したりしていたという考えに納得できないなら、そして人間ではない宇宙人や悪魔といったものを持ち出さないのであれば、犯人として残るのは人間である。

パニックが起きた初期、牧場主や報道機関は、犯人をカルトの信者、つまり悪魔崇拝者やウィッカ信者、あるいは変質者と考える傾向があった。未確認の目撃証言の中には、ローブを着た人々が畑や道路沿いを歩いていたというのもあるが、こうした不気味な輩に話しかけたり、その行き先を確認したりした者はおらず、この線の調査はすぐに行き詰まってしまった。ミューティレーションの現場の多くがアクセスしにくい場所にあること、動物の不審死には奇妙な光やヘリコプターの目撃がつきものであることから、調査官たちは別の方向に答えを求めることになった。

1975年にモンタナ州でミューティレーションが相次いでいた間、地元住民はその時期にICBM(大陸間弾道ミサイル)サイロの上空で目撃されていた謎の光と動物の死とを結びつけた。少なくとも幾つかの事例において、その光体は、ダルシェ周辺で「プップップッ」という音を立てながら飛んでいるのが目撃された飛行機と同じものだったのではないか?モンタナ州の核ミサイルサイロ上空を飛んでいたのは特異な照明装置を備えた静かなヘリコプターで、その目的なサイトの警備体制をテストし、担当者が謎の航空機にどう反応するかをチェックするためだったのではないか? 兵士たちは、その航空機に発砲したりスポットライトを当てたりしないよう命じられていたと言われている。もしそれらが本当にどこから来たのかわからないものであったのなら、これは奇妙な命令である。あるいは、その侵入行為は、その少し前にノースダコタ州ネコマに建設された弾道ミサイル防衛システム、「セーフガード」の目標追尾能力をテストするためだったのかもしれない。この複合システムは全国的な防衛ネットワークの一部として唯一完成したものだったが、1976年に解体された。おそらくそれは「友好的な幻の航空機」を発見するのにあまり役立たなかったのではないか? いずれにせよ、そのどちらの説でも――あるいはまた別のものでもいいのだが――地元の法執行機関が軍によってツンボ桟敷に置かれていたことの説明はつく。彼らは単に知る必要がなかったのだ。

こうしたモンタナ州での事件は地元の新聞ではしばしば報じられていたが、全国紙で取り上げられたのは4年後で、1977年に『ナショナル・エンクワイアラー』へのリークがあった後のことだった。その直後、つまり1978年にはエンクワイアラー誌にニセのエルスワース文書が送られたワケだが、そこには事件をETやUFOに結びつけようという狙いがあったようだ。それはおそらく、全国紙がさらなる調査を行うことを防ぐための策略であった。大手新聞の記者たちにとってICBM事件に関心を持つことは、すわなち変人やUFO陰謀論者、そしてより悪いことには『ナショナル・エンクワイアラー』と同列に見られてしまうことを意味していたからだ。

我々はミューティレーションが如何に行われたかについて幾つかの手がかりを得たが、なおそんなことが行われたのかという動機を問わねばならない。「ETによる遺伝子実験」説を除けば、この現象は疫学に関係していると考えるのが一番もっともらしい説明ということになる。多くの研究者は、このミューティレーションが秘密の研究や実験の一環であった可能性を提起している。切断者が取り去るのは、ふつう唇、舌、肛門、乳房、そして性器であるわけだが、これらは汚染や感染の影響を最も受けやすい部位である。つまりは動物が食物を摂取したり排泄したりする柔らかな部分であり、バクテリア、ウイルス、化学物質が最も出入りしやすい部分、そして人間からすればそうしたものを一番見つけやすい場所である。さて、それではその正体不明の人間は一体何を探していたのか?

一つの可能性は放射線である。その意味では、ダルシェ周辺というのはアメリカの核の歴史においてとりわけ特異な位置を占めている。ダルシェの南西約25マイルに位置するカーソン国立森林公園には、周囲が開けた場所に小さなプレートが設置されている。そこには次のように書かれている。

    低生産性ガス貯蔵層に刺激を与えるためアメリカで最初に行われた地下核実験の場所。29キロトンの核爆弾がこの場所の地下4227フィートで爆発した。(1967年12月10日)

この爆発は、核の平和利用を目的とした「プラウシェア計画」の一環で、天然ガスで満たされた直径80フィート、高さ335フィートの空洞を作り出し、一定の成果を収めた。残念ながらガスは爆発によって危険なレベルの放射能を帯びてしまったため、商業的価値は失われ、この場所は永遠に封鎖された。ミューティレーションを行った者たちは、このガスバギー実験による放射線が周辺地域に漏れ出し、環境に与えた影響を調べていたのではないだろうか?

より最近では、分子生物学者のコルム・ケレハーが、キャトル・ミューティレーションとプリオン関連疾患、すなわち狂牛病(BSE)と呼ばれるウシ海綿状脳症の広がりとの関係を指摘している。ケレハーが示唆するところでは、ミューティレーションは野生の鹿やエルクに見られる慢性消耗病(CWD)の発生と結びついており、CWDやBSEを引き起こすプリオンは野生の鹿から家畜の牛へと種の壁を越えて移り、最終的には人間の食物供給に入り込んだのではないかという。彼は、このプリオン感染の起源はメリーランド州のベセスダやフォート・デトリックにある米政府の研究所にまでさかのぼることができるとしており、そこには致命的な神経疾患であるクールー病に感染した人間の脳が1950年代後半からずっと保管されているのだという。

この二つの疫学的説明のいずれもが、ミューティレーション現象に関してしばしば提起される疑問の一つに答えている。もし政府や他の機関が家畜の不審死の黒幕ならば、実験用に自ら牛を購入して繁殖させればよいではないか、という問いだ。その答えは「彼らが必要とするサンプルは、最終的に私たちのハンバーガーになる牛そのものだからだ」ということになる。しかし、なぜ彼らは遺体を置き去りにするのだろうか。これは答えるのがより難しい問題である。遺体を処分するのが難しかったのかもしれないし、「牧場主が高価な家畜の保険を請求できるようにしてやろう」という意図があったのかもしれない。あるいは、「牧場主たちは恐怖のあまりさらなる調査など行わないだろう」と考えたのかもしれない。また、悪魔崇拝や血に飢えた宇宙人のウワサが広まったことで、切断者たちはその奇妙な行為によって生まれた混乱が自分たちに有利に働くと感じたのかもしれない。

本当のところは、我々にはまだ分かっていない。しかし、ミューティレーションは北米や南米で今なお続いている。牛の群れがいる場所であれば、そう遠くないところに切断者たちもいるのだろう。それはUFOの目撃報告も同じことである。

■エイリアン基地の建設方法

1979年にアルバカーキで開かれたミューティレーション会議で、ゲイブ・バルデスがポール・ベネウィッツに出会った頃までには、牛の死亡事件とUFOとを関係づける考えはしっかり確立されていた。そして、1980年5月25日、コロラドで発生したミューティレーションをテーマに、リンダ・モールトン・ハウが脚本・制作を手がけたドキュメンタリー『奇妙な収穫 A Strange Harvest』が、ET犯人説による説明を国中に広めた。このドキュメンタリーには、エイリアンに誘拐された人物に対してコロラド大学の心理学者でUFO研究者のレオ・スプリンクルが行った逆行催眠の模様も描かれていた。こうなってみれば、スプリンクルとベネウィッツがルナ・ハンセンを催眠にかけた際(彼女は同年5月初めに「アブダクションされた」といってベネウィッツに助けを求めてきたのだ)、彼女が「連れ去られた地下基地で、子牛と人間が切断されるのを目撃した」と述べたのも決して不思議なことではあるまい。

アルバカーキでの会議の後、ベネウィッツとバルデスは文通を続け、最終的にはダルシェ地域でミューティレーションの謎を解明するための共同調査を行うようになった。ダルシェは、ベネウィッツのET神話において徐々に重要性を増していき、1981年半ばまでには、彼は「エイリアンたちはアルチュレタ・メサの奥深くにある基地からアブダクションとミューティレーションのミッションを実行している」と信じるようになった。もちろん、彼はこのことをリチャード・ドーティやビル・ムーアに伝えた。この時までAFOSI(空軍特別捜査局)が行ってきた工作は、ムーアを経由して渡すニセ文書や、コンピュータを通じて送られてくる「ETのメッセージ」でベネウィッツの妄想をさらに煽ることであった。ドーティの役割は、友人としてベネウィッツに接近し、UFOやETについての彼の研究が「正しい方向に進んでいる」と穏やかに励まし、後押ししていくことだった。そこで事態はさらに劇的な展開を見せ始める。

ベネウィッツの関心をカートランドから逸らすべきタイミングだと考えたAFOSIは、彼が地下基地だと信じているアルチュレタ・メサを、よりそれらしく見せかける準備を始めた。夜の間に古びた軍事装備が曲がりくねった山道を越えてメサの頂上まで運ばれ、小屋や壊れた車両、通気孔といったものが計算づくで配置された。そこが活動の行われている場所であるかのように装ったのである。さらに低木を取り除いて、そこがヘリコプターの着陸パッドに――そしておそらくはUFOの着陸地に――見えるようにした。ドーティはさらに、雲の上に光を投影するシステムを設置したとも言っている。UFOの目撃報告を増加させて、ベネウィッツやバルデス、その他の人々を引き続きその場所に引きつけようとした、というのである。

地下基地にはスタッフもいるよう見せる必要があったため、カートランドの特殊部隊ユニットがその地域に派遣され、忙しく活動しているように見せかけた。AFOSIは、メサの反対のコロラド側にあるフォート・カーソン陸軍基地にも連絡し、その場所を訓練演習に使用するよう提案した。ドーティによれば、AFOSIはこうした陸軍演習に補助金を提供し、「こうした動きは反ソビエトの諜報活動の一環なのだ」と説明した。これはある意味で本当にそうだった。ある時、ゲイブ・バルデスとテレビクルーは、ベネウィッツと共に地元のUFO目撃についてのニュースを撮影していた。すると、ブラックホーク・ヘリコプターが彼らのヘリを追尾してきた。慌てたニュースクルーは着陸し、ブラックホークもそれに続いた。バルデスは乗っていた黒ずくめの兵士たちに対し、自分はハイウェイ・パトロールマンとしての管轄権を有していることを主張して怒りをぶつけたのだが、追い払われる前に一人の兵士のパッチをよく見た。それはフォートカーソンのエリート部隊であるデルタフォースのものだった。

ベネウィッツ自身も熟練したパイロットだったから、彼はエイリアン基地の入口を探してメサ上空を定期的に飛行していた。また、リック・ドーティとカートランドの警備主任であるエドワーズ大佐に案内され、少なくとも3回、通気孔やその他の設備が設置されている場所を見せられた(もちろんそれらの設備はAFOSIが取りつけたものである)。AFOSIの勧めもあって、ベネウィッツは基地に関する報告を定期的にUFOコミュニティに配布したが、そこには自分で撮影したボンヤリした「UFO」だとか、不明瞭なメサの地表の写真も添付した。こうした報告は、ダルシェのエイリアン基地にまつわる精巧な神話を生み出したが、そうした神話の中には基地内部の詳細な図だとか、米軍と基地内のET居住者の間の壮絶な対決を描いたストーリーなどといったものも含まれていった。

もっとも、ベネウィッツは1985年の後半、実際に何かしら普通でないものに出くわしていた可能性がある。ベネウィッツがいつものようにカメラを携えてメサ上空を飛行していると、メサの最もアクセス困難な場所の一つで、彼が言うところの「墜落したデルタ翼の航空機」を発見した。ベネウィッツはすぐに、この目撃情報をゲイブ・バルデスやビル・ムーア、ニューメキシコ州のピート・ドメニチ上院議員などを含む幅広い連絡先に報告した。彼はその墜落機の写真を数多く撮影し、いくつかを米空軍に提供したが、その他の写真は盗まれた可能性が高い。彼の当時の手紙によると、これはよくあることであった。現在残っているのは、彼の描いた墜落機の図と、片付けられた後の現場写真だけである。ベネウィッツは手紙の中でこう言っている――その残骸は米空軍が秘密裏に飛ばしていた核動力のテスト機なのだが、一帯をコントロールしているのは誰かを政府に思い知らせるべくエイリアンによって撃墜されたのだ。現場には墜落機の燃料電池から漏れ出た放射線が染みこんでおり、ベネウィッツはこのことを非常に案じていたという。

同年11月初め、ゲイブ・バルデス、ベネウィッツ、ジカリラ族の一人、そしてドメニチ上院議員から派遣された政府科学者は、ガイガーカウンター持参で苦労して現場に到達した。放射線は検出されなかったが、墜落の痕跡は見つかった。倒れた木や地面に残った溝、そしてバルデスによると、政府支給のボールペンが一本あったという。

ベネウィッツが目撃したのは墜落したステルス機だったのだろうか? それは十分にあり得ることだ。F-117A ステルス戦闘機は少なくとも1981年から飛行していたが、1988年まで極秘にされていた。ベネウィッツの描いた図により類似しているのはB-2 ステルス爆撃機であるが、その開発は1981年に始まり、1985年までには試作機が飛行していた可能性がある。もしその飛行機の一機がメサで本当に墜落したのなら、空軍が放射線の話をでっち上げて、掃除が行われる間、ベネウィッツや他の好奇心旺盛な者たちを遠ざけようとした可能性がある。この時点でドーティはすでにこの事案から外れていたが、AFOSIは依然としてベネウィッツを監視していた。「道に迷った物理学者がエイリアンを探していた場所で偶然空軍機の残骸を見つけてしまった」ということであれば、その皮肉にAFOSI本部では目を丸くした者がいたに違いない。

■ダルシェへの道

これらすべては20年以上前の話であるが、ダルシェ周辺では今でも時折UFOが報告されており、この場所には未だ揺るぎない神秘のオーラが漂っている。奇妙な過去の痕跡が、これから現代の好奇心旺盛な探求者たちによって発見されるようなことはあるのだろうか?

ゲイブ・バルデスは、ジョンと私に「かつてミューティレーションの実験室があったかもしれないメサの古い鉱山へと続くアクセス用のトンネルを知っている」と話してくれ、嬉しいことには私たちとグレッグ・ビショップをそこへ案内してくれると約束してくれた。しかし、私たちに出かける準備ができた頃には、ジカリラ族が一帯でのテレビクルーの撮影を禁止することを発表していた。一つの理由としては、ゲイブが日本の撮影クルーを許可なくメサに案内したことがあったという。秘密の実験室には行けないことに失望したが、私たちはそれでもダルシェを訪れることにした。

ジョンが山の中で撮影をしている間、グレッグと私はメサに近づき、万が一質問された場合に備えてウソの話を作り上げた。グレッグは熱心なパラグライダー乗りだったが、アルチュレタ・メサというのは小さなモーターとパラシュートを背に大空に飛び込むのには最適な場所だった。グレッグのパラシュートをトランクに積み込んだ我々は、メサの麓へと続く小さな曲がりくねった道を進み、上へ登っていく。メサの底まで約3マイルの道のりで、私たちは牛たちや雷で焼かれた木々を通り過ぎた(牛は無事だった)。グレッグと私はメサの引力、未知のものが放つ緊張感を感じ取った。それはまるでラジオ信号のように頂上から発信されているかのようだった。ここは我々にとっては巡礼の地であった。頂上に近づくにつれ、道端に明るい赤い看板が現れ始め、ここはジカリラ族の私有地であると警告していた。許可なく入ると逮捕され、多額の罰金が科せられることにもなりかねない。ダルシェの留置所で一夜を過ごすつもりはない。私たちは引き返して、町の別の場所を探索することにした。

ベストウエスタンホテルの近くにある、寒々しいコンクリートで覆われた集会所で、私たちは二人の酔っ払ったインディアン、ハンフリーとシャーマンに出会った。いずれも年齢はおそらく40代。アルコール依存症はインディアン居留地における重大な問題である。失業率は高く、インディアンの住民はダルシェで生活するためにかなりの補助金を受け取っているが、それでも多くの人が酒に溺れてしまう。

二人のうち、より酔っていたのは、狂気じみた目をした長髪のハンフリーであった。シャーマンはかなり整った外見で、悲しそうな表情をしていた。彼らは異父兄弟だと私たちに話してくれた。多くのインディアンと同じように、シャーマンは幼い頃に複数の居留地を転々としていたが、現在はダルシェが自分のふるさとだと感じていた。ハリウッドの西部劇で育った私たちは、インディアンを砂漠の住人と考えがちだが、シャーマンは、彼の部族であるアパッチ族は19世紀には緑豊かなカナダに起源を持ち、そこから南の砂漠に追いやられたんだと教えてくれた。そしてカナダに来る前は……彼らは地球の中心から来たのだという。

シャーマンは自分がアルコール依存症であることを認めたが、かつては部族の警察官をしており、ゲイブ・バルデスを知っていると言った。彼はゲイブが良い人間だと言った。彼は私たちがダルシェで何をしているのか尋ねたので、私たちはグレッグのパラグライダーのことを話し、メサから飛んでみたいのだがどうだろうと聞いてみた。するとシャーマンの顔は真剣な表情に変わった。

「いや、あそこには行けない。あそこは危険地帯だ。危ない」

私たちは耳をそばだてた。彼はUFOだとかミューティレーションに気をつけろというのだろうか?

「あそこはとても危険だ。気流がメサの壁に向かって吹き返してくるから、ひょっとしたら死ぬかもしれない」

そういうことか。私たちは話題を変えてみた。あそこにはよく行くのかとシャーマンに尋ねた。

「ああ、よく行くよ。ダートバイクで行くのが好きだ」

「じゃあ、何か変わったものを見たことはあるかい? なんでこんなものが、ってヤツ」

「ああ、もちろんだよ。たまに動物の角を見つけることがあるんだ、牛の角だ。売り物になるんだ!」

その時、ハンフリーがふらふらと私たちの方へやってきた。目がぐるぐる回り、腕を振り回している。

「俺もあそこに行くよ……牛を追っていくんだ……そうさ……でもあのメサには行かないほうがいい、ああ絶対にだ。あそこでは悪いことが起こるんだ……あそこに行くやつらは、飲みすぎて……そして転落するんだ…」

ハンフリーは言った。「おい、秘密のインディアンの魔法を見たいかい?」

「もちろん」

東に数マイル離れた山々の上に集まり始めた暗い嵐の雲に向かって、ハンフリーは腕を振った。彼は詠唱し、何かポーズを取り、最初に空を、次に地面を指でさしてみせた。ささやくような、あるいは何やらつぶやくような言葉は私には理解できなかったし、おそらくアパッチ語を話せる人にも理解できなかったのではないか。それから彼は一瞬しらふに戻ったような顔で私を見た。

「自然というものをお前に見せてやろう!」

狂ったように笑いながら、ハンフリーは最後に腕を上げた。私が笑いを返そうとしたその瞬間、2つの雷が近くの丘の頂上に轟音を立てて落ちた。

私は感銘を受けた。そう伝えると、彼はもったいぶった様子で私の耳元に近寄り、ささやいた。「見たことは誰にも話すな」。それから私の手を握って笑ってみせた。良いショーを見せられたことに満足したように。

その夜、安全なベストウエスタンホテルの部屋に戻った私は、奇妙な夢を見た。ジョン、グレッグと私は、ダルシェの風景の中を歩いていた。広大な平原は険しい岩山に囲まれていた。19世紀の幌馬車隊がゆっくりと、きしみながら私たちの方に向かってきていたが、やがてその姿は遠くに消えていった。隊の先頭には、風雨に晒されたような感じの白髪交じりの男がいて、老いを感じさせない日焼けした顔はステットソン帽の乾いた革と一体化しているようであった。その男は帽子のつばに手をかけてうなずき、微笑んだ。私は笑みを返し、それから振り返ってみた。ジョンとグレッグに「時代錯誤のようだけれど心地よいものじゃないか」と言ううために。

だが再び前を向くと、その男も、幌馬車隊も姿を消していた。(11←12→13)

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■第9章 リック

    リックのような人物とふらっと会って話をする。彼は「一般人として」心を打ち明け、全てをあらいざらい話す。そんなことがあり得ると考えている人間には口あんぐりだ。そんなことはありえない。
     ――ポール・ベネウィッツ(クリスタ・ティルトン宛の手紙より)

ラフリンUFOコンベンションは今や佳境に入っていた。空気で膨らませたマンガ風の巨大なエイリアン人形を前に、ジョンと私はロビーに座り、行き交う人々を眺めては「この中にリック・ドーティがいるのだろうか」と考えていた。仮にいたとしても、我々は彼を見分けられるだろうか? グレッグ・ビショップが警告してくれたところでは、彼が本を書くためにインタビューした際、ドーティの写真は撮ったのだけれど、これまでにリック・ドーティと確認された人物は少なくとも2人いたのだという。[訳注:ここの意味はよくわからない]  しかし、そんなことを言われても我々の捜索に役立つわけではない。大会は一週間続くが、この日は平日ということもあって、辺りには年配の退職者が多かった。通り過ぎる群衆をチェックしていると、こちらを見返してくる人もいた。彼らは潜入捜査官なのか、それともこちらのたたずまいが彼らの妄想をかきたてているのか?

ビル・ライアンは何度か私たちの前を通り過ぎていった。彼も監視されていると感じているようだった。「惑星セルポからの使者」としてコンベンションに参加しているビルは皆の注目を集めていたが、それが彼を少し悩ませ始めていた。「ここでは信じられないほどの政治的かけひきだとか妄想がうごめいている」。彼は通りすがりにそう話してくれた。「誰もが、信頼できるヤツ・できないヤツを私に教えようとする。誰もが今起きていることについて一家言もっているんだ」

グレッグ・ビショップは、このコンベンションでポール・ベネウィッツについて話す予定だったが、ビルに対して言っておきたいことがあった。というのも、リック・ドーティがUFO問題についてのビルの指南役を務めていたことが分かったからだ。「ビル、注意したほうがいい。リックが一枚噛んでいるなら、あまり深入りしないほうがいい。ベネウィッツに何が起こったかは知ってるだろ。セルポは政府のニセ情報か、さもなくば詐欺だ。いずれにせよ、ポールのように火だるまにならないよう心しなければいけないぜ」

しかし、ビルは毅然としていた。「たとえ真実が10%しかなくて残りがニセ情報だとしてもだよ、これは人類史上最大の物語なんだ。見過ごすわけにはいかないよ」。インタビューの依頼が山積みになっていたビルは、スポットライトを浴びる瞬間を楽しんでいるようだった。結局のところ、人が世界を変えるような僥倖に恵まれることはほとんどない――そういうことなのだろう。

私たちは催しを見ながら、その人を待った。プエルトリコ沖の海底にあるエイリアン基地についてのプレゼンテーションには大勢の聴衆が集まっていたが、グレッグの講演はそれほど多くの観客を集めなかった。ビル・ムーアの暴露から17年経っても、人々はまだ自分の身のまわりで起きていることに興味を示そうとはしなかった。

しかし、グレッグに注目していた一団もいた。それは以前から私の目を引いていた興味深いグループだった。彼らはどの発表の時も、出口に一番近いテーブルに座っていた。しかもそれをこの数日間、ずっと続けていた。そのうち2人は大柄でがっちりした30代と思しき男たちで、きちんとした身なりをしていた(1人はあごひげを蓄え、大きなカーボーイハットの下に整えられたポニーテールをたらしていた)。この2人に挟まれて座っていたのは、60代ほどで長年風雪に晒されてきたような風体の痩せた男だった。髪は灰色で眼光は鋭く、茶色の革製フライトジャケットを着た男は、仲間たちと同様に体調万全といった風であった――それは大会の多くの参加者たちとはおそろしいまでに対照的であった。彼らは軍から監視にきた人間か、さもなくば諜報機関のエージェントではないか。私はそう考え始めた。これまで学んできたことを考えると、ここにスパイがいないほうがむしろ驚きであった。その一方で、私たちは半ば公然の秘密であるエージェント、すなわちリック・ドーティを探していた。

彼は現れるのだろうか?グレッグもビルも彼は来ると思っていたが、私たちは半信半疑だった。UFOの歴史の中で最も悪名高く、信頼されず、さらには嫌われている人物の一人が、UFO研究者でいっぱいのホテルにフラリと現れるとは思えなかった。少なくとも変装しているだろう。そんな推測に基づいて、私たちはリック・ドーティの「候補者」たちに3段階評価をつけ始めた。ハワイアンシャツにショートパンツの男? うーん、2点。もしかしたらリックはヒゲを生やしているかも? 1点。彼は背が高いのか低いのか? もしかしたら写真ではカツラをかぶっていた? 0点。

3日目の午後も半ばを過ぎて、リック・ドーティが現れる気配はなく、我々は絶望し始めていた。この無謀なミッションを始めた時だって、実際に会えるどころか、彼と連絡を取ることすら難しいだろうと思っていたのだ。彼は結局謎のままであり続けるのかもしれない。

そのとき、私の目の前を灰色のフランネルのズボンが通り過ぎた。ポケットには会議のバッジがクリップで留められている。「リック・ドーティ」。私は椅子から飛び上がり、叫んだ。「リック!」

「やあ!君たちがイギリスから来た映画のクルーかい?」

リックは、私たちが見た写真通りの姿であった。50代半ば、短く整えられて灰色がかった茶髪、ワイヤーフレームの眼鏡、白とグレーのストライプの半袖シャツで、その胸ポケットにはペン。何の特徴もない彼は、諜報員というよりは普通の公務員のように見え、まったく目立たない。ワイルド・ビル・ドノバンというよりはむしろビル・ゲイツのような印象だ。完璧だった。

「変装して来ると思っていたのに。こんなUFO会議に出席するなんて危険じゃないんですか?」

「いや」と彼は甲高い笑い声をあげた。「ここにいるほとんどの人は私のことを知らない。UFO会議に来たのは久しぶりだよ」

リックは腰を下ろして話し始めた。彼は現在、国土安全保障省でコンピュータ関係の仕事をしており、さらに弁護士としての訓練も受けていると言った。彼は、UFOに強い関心を持つ「民間人」としてここに来ているのだと繰り返し説明した。それからの数日、「民間人」という言葉はリックの口から何度も繰り返されることになる――鼻にかかった、緩やかに上下する声で。「ホテルに到着して、部屋の鍵を受け取ろうと列に並んでいた時、数人後ろに国防情報局(DIA)の知り合いが並んでいるのを見かけたよ。彼は私を見て驚き、『ここで何しているんだ?』と聞いてきた。私は『ただの民間人だよ、他の人と同じようにUFO会議を楽しんでいるんだ』と答えたよ」

「国防情報局がこの会議に来ているんですか?」

「もちろん、UFO会議には必ず情報機関の人間がいる。ここにも数人いて、何が話題になっているのか、どんな目撃談があるのか、何を見たと考えているのかを探っている。今年は中国のUFO研究者の代表団も来ている。DIAの連中は彼らが何を目的にやってきたのか非常に興味を持っているだろう。でも私は、ただの民間人としてここに来たんだ」

突然リックが顔を上げた。ビル・ライアンが私たちのテーブルに現れたのだ。

「リック!会えて嬉しいよ。また後で話そう!やあみんな!」

「やあビル、何してるんだ?一緒にどうだい?」

「いや、招待されたビデオのプライベート上映会に行くところなんだ。生きているエイリアンへのインタビューさ。君たちも連れて行きたいけど、招待されたのは6人だけなんだ。また後で!」

ビルはロビーを歩き去った。その姿は水を得た魚のようで、彼はこのコミュニティの奥の院に既に居場所を見つけてしまったようだった。

「そのビデオは見たよ」とリックは軽蔑のこもった声で言った。「デタラメだよ」

彼はしばらくの間、私たち2人を真剣な目で見つめた。「君たちはビルと一緒じゃないよね?」

「一緒? いや、一緒にやってきたわけじゃありません、そういう意味だとしたら。ここでは彼を撮影するだけで、彼のことはあまり知らないんです」

リックはほっとした様子だった。彼はこれから行かなければいけない用事があると言ったが、夕食に一緒に行かないかと尋ねてきた。私たちは喜びを隠しながら同意した。

リックが姿を消した後、我々は思わずハイタッチをせずにはいられなかった。喜びいっぱいのニセ情報オタク2人組だ。なんてこった、UFO界の謎の男、リック・ドーティが夕食に誘ってくれたのだ。次は何があるのだろう? ひょっとしてリクルート?

その日の午後、グレッグ・ビショップにリックと会い、夕食に行くことになったと話した。

「おっと、それは楽しい時間になるだろうね」。彼はそういったが、少し困惑したようでもあった。「彼は面白い話をいくつかしてくれるだろう。間違いない。でも、よく注意して聞くことだね。彼の話は、聞くたびに少しずつ内容が違ってくるから」

■影の中での生活

「コロラド・ベル」は昔の外輪船をレストランに改装した店だ。あるいはレストランを外輪船に改装したと言うべきかもしれないが、どちらが良いのか言うのは難しい。ここで、リブとフライのクラシックなアメリカ料理を食べながら(ベジタリアンのジョンはサラダだったが)リックは諜報活動の話や武勇談で私たちを楽しませてくれた。彼は1960年代後半、エリア51で働いていたことがあると言った(エリア51はしばしばUFOとの関連が語られるネバダ砂漠の只中の極秘の空軍基地である)。1980年代には、モスクワの街角でスパイを追跡するためにロシアのおばあさんに変装したこともあったという。また、ブルガリアの国防大臣が従者と不正な行動をしているのを捉えるため絵画にカメラを仕掛けたこと、ロシア軍のソフトボールチームのアルミバットにマイクロフォンと送信機を隠した話などもしてくれた。さらに彼一流のハック技術も自慢してみせた――例えば、嘘発見器のテストから逃れる方法(「尻の筋肉を締めろ」)、曲がり角の向こう側を見ることができるレーザー(ただし「もう機密情報じゃないと思うけどね」だそうだ)、紫外線の痕跡を残すスパイ・ダストといったものの話で、それらは我々をおおいに驚かせた。

これらがリック自身の経験なのか、あるいは新しい接触相手に強い印象を残そうとする時のため、彼らのコミュニティで皆が共有できるよう代々伝承されてきたスパイの物語なのかは分からなかった。リックの軍歴にはモスクワやエリア51に関する記録はないが、もしこれらが機密任務だったなら、そうした記録はおそらく残されなかっただろう。実際のところ、リック・ドーティについて多くのことを知ろうとしてもそれは実に難しい。彼が語っていないことはまだまだたくさんあるのだ。

リチャード・チャールズ・ドーティはおそらく1950年にニューヨーク州バートンで生まれた。オンライン上の情報には、彼をニューメキシコ州ロズウェル生まれとするものがある。本当ならばステキだが、それはほぼ確実に間違いだろう。ただ、ドーティ家はニューメキシコ州と強い繋がりを持っており、UFOは実際ドーティ家の血筋の中に存在している。

1951年、リックの叔父で気象学を学んだ経歴のあるエドワード・ドーティ少佐は、米空軍のプロジェクト・トゥインクルの指揮を執ることになった。このプロジェクトは、1949年後半からニューメキシコ州のいくつかの重要な軍事施設の近くで目撃された奇妙な光を監視するものだった。これらの光は多くの場合緑色の火の玉で、音もなく長距離を飛行してから垂直に落下し、地面に落ちる前に燃え尽きた。それらはロスアラモス複合施設や、近くのカートランドおよびホロマン空軍基地の上空に繰り返し出現したが、これらの施設では当時、地球上で最も機密性の高い軍事研究が行われていた。火の玉の目撃者の多くは、軍人や情報機関の関係者、科学者たちであり、彼らの豊富な知識と経験を動員してもその正体を解明することはできなかった。多くの人は、こうした光は火炎弾やロケット、隕石のいずれでもないと考えていた。隕石専門家のリンカーン・ラパズ博士は、緑色の火球を含む2つのUFO目撃を報告していたが、これらの火の玉は人工的なもので、アメリカまたはロシアの機密技術であると確信していた。これは、やはり当時ロスアラモスにいたレオン・デビッドソンとも同様の考えだった。しかし、1950年にニューメキシコへの観測ステーション設置の試みが半ばで挫折したころには緑色の火の玉は徐々に姿を消していき、1951年、ドーティ少佐がその残務管理をしている間に、プロジェクト・トゥインクルはついに閉鎖された。

エドおじさんのUFO史における役割はさておき、リックは子供の頃、空飛ぶ円盤にほとんど興味がなかった。ただ、彼の兄はそれに夢中だった(年下のリックにとってそれは笑いの種であった)。1968年9月、リックはアメリカ空軍に入隊し、テキサス州のラックランド空軍基地で基礎訓練を受け、その後同じ州のシェパード空軍基地に配属された。ここまでは確実な情報であるが、ここから先、彼をめぐる話は急激に曖昧になっていく。

ドーティの軍歴によれば、彼はシェパード基地に警備隊員として勤務した後、ベトナムのファンラン空軍基地に派遣されたのだが、その間には何か驚くべきことが起こった……という話がある。グレッグ・ビショップは著書『プロジェクト・ベータ』の中でこの出来事を描写しており、ドーティ自身も自費出版の書籍『情報解除免除 Exempt from Disclosure: The Black World of UFOs』の中で再びこの話を取り上げている。その共著者は元空軍の物理学者だったロバート・コリンズであったが、彼もまたリック同様、ビル・ムーアの言う「鳥の群れ」、すなわちUFOに興味を持つ軍内部のインサイダーの一人であった。

この書籍の中でリックは、1969年7月、ネバダ州のインディアン・スプリングス空軍基地近くの極秘施設で、彼が任務に就いていた時のことを語っている。彼は3,500フィート×4,000フィート、高さ100フィートという巨大な格納庫の外で警備をしていたのだが、その中には「実験機」が格納されていると言われていた。ある日、その格納庫の扉が開き、牽引車によって大きな空飛ぶ円盤が引き出された。それは滑走路に1時間ほど置かれ、白衣を着た男性たちがああでもないこうでもないと何やらやっていたが、それが飛び立つことはなかった。リックがそこにいた45日間、現場では何度か同じようなルーチンが繰り返された。ある午後、民間人の「ミスター・ブレイク」と呼ばれる人物がリックに、空飛ぶ円盤について何か知っているか尋ね、さらに「今日見た物体が別の惑星から来た本物の円盤だと言ったらどうする?」と問いかけた。困惑する若い警備兵にブレイク氏は、いつの日にか、君が目にした乗り物の真実を知る日がくるだろうと言った。

この話はリックの「起源神話」とでも呼べると思うのだけれど、『プロジェクト・ベータ』の中では少し異なる形で語られている。こちらのバージョンでは、事件は明らかにエリア51で起こったことになっている。巨大で黒い円盤状の物体が滑走路に引き出され、それは静かに起動すると、青い電気のコロナに包まれて地上から200フィートほど浮かび上がる。ドーティはそのようなテストを何回か目撃したが、ある時、技術者が「これは大気圏外まで行けるかもしれない」と言うのを聞いたという。さらにまた別の時であるが、指揮官が(念のため言うとこれはミスター・ブレイクではない)ドーティにこう言ったのだという。「これは一般的にUFOと呼ばれるものであるが、我々のものではない。借りているのだ」。ここでも他のバージョンと同様、ドーティは「やがてこの乗り物についてもっと知ることになるだろう」と告げられている。

ドーティの証言は、UFO関連の文献によく登場する軍絡みの大ボラの典型だ。が、ここで我々は一つの行き止まりにぶつかる。これらの話は虚構なのか? アメリカ政府は本当に異星人の宇宙船を所有しているのか? それとも、彼らはこのような事件をデッチ上げ、被験者が予期せぬ事態に直面した時に冷静さを保てるかどうか、あるいは秘密を守れるかどうかをテストしているのではないか? 仮にそうなら、もし被験者が空飛ぶ円盤について口を滑らせても大きな実害はないし、被験者はたくさんいるUFO狂の一人として見られるだけだ。しかし、リックはその手の単なるUFO狂には見えなかった。

ベトナム後、ドーティはワシントン州のマッコード空軍基地に2年間配属され、その後、西ドイツのヴィースバーデンで3年間、門兵として勤務した。1976年、26歳になった彼は、サウスダコタ州のエルスワース空軍基地に異動となった。ここで彼は初めてUFOの真の力を垣間見ることになった(エリア51での飛行試験のことは措くとして)。この頃、エルスワースには戦略爆撃機とミニットマン大陸間弾道ミサイル(ICBM)が配備されており、冷戦期のアメリカの重要な軍事拠点となっていた。1975年11月、隣接する州ではミサイルサイロがUFOの目撃に悩まされ、奇妙なキャトルミューティレーションが相次いで発生していた。これらの事件はすべて米空軍の文書に記録されており、基地内でのウワサとなり憶測の対象となっていた。

これはありそうにないことに思われるだろうが、その当時、[タブロイド紙の] 「ナショナル・エンクワイアラー」誌はUFO情報に関しておそらくは最も大胆で、かつ信頼できる情報源となっていた。空軍が公式UFO調査機関の「プロジェクト・ブルーブック」を閉鎖してから5年がたった1974年の末、エンクワイアラー誌は民間UFO研究団体APROや全米空中現象調査委員会(NICAP)、そしてアレン・ハイネックを含む科学者たちと共同で、UFOに関する「ブルーリボン」パネルを設置した。これらのUFO団体は最も興味深い事例をエンクワイアラー誌に提供し、パネルが必要と認めた場合には同誌がさらなる調査資金を提供することになっていた。同時にエンクワイアラー誌は、UFOが実際に宇宙から来たことを証明できる者には100万ドルの報酬を、またその年のベストとされた事例の目撃者には5,000ドルから10,000ドルを提供していた。

1978年2月、スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』が爆発的なヒットを記録してからわずか3か月後、サウスダコタ州ラピッドシティの消印が押された匿名の手紙がでナショナル・エンクワイアラーのフロリダ支局に届いた。その手紙は、第44ミサイル警備中隊の司令官からのものとされており、前年11月にエルスワース近くのミニットマン・ミサイルサイロで起きたセキュリティ違反事案について記していた。またこの手紙には空軍の報告書も添えられており、そこにも事件の詳細は記されていた。

その手紙と文書によれば事の顛末は次のようなものだった。違反行為を調査するためサイロに派遣された2人組のセキュリティ警戒チームは、そこで緑色に光る金属製のスーツとヘルメットを装着したヒューマノイド一体と出くわした。その「存在」は武器を発射し、警戒チームの一人が所持していたライフルを溶かし(まるで『地球が静止する日』のように)、その男は両手にひどいヤケドを負った。もう1人の兵士は、このほかに2体の人影があるのを目撃した。彼はそのうちの1人の腕を撃ち、さらにもう1人のヘルメットを撃った。だが彼らは傷を負った様子もなく、丘を越えて姿を消し、30フィートの空飛ぶ円盤に乗り込んで高速で飛び去った。手紙には、サイロ内のミサイルからは核部品がなくなっていることが後に判明したと記されていた。

エンクワイアラーの記者3人――その中には後に独り立ちして著名なUFO研究家となったボブ・プラットもいた――はエルスワースに向かい、調査を開始した。しかし、調査が進むにつれ、物語はボロボロと崩壊しはじめた。事件に関わったとされる全員に話を聞いた結果、すべてはデッチ上げだったことが分かった。空軍の報告書は巧妙に作られたニセモノだったのだ。手紙に名前の挙がった人々は確かに基地で勤務していたが、その役職は手紙に記されていたものとは異なっていた。また、ファーストネームが実際と違っていた者もいたし、場所も混同されていた。チームは合計で20の誤りを発見し、エンクワイアラーは結局その話を記事化しなかった。しかし、エルスワース文書は、アメリカの防衛能力に対してETが関心を払っている証拠なのだという売り文句でUFOコミュニティにリークされ、後にポール・ベネウィッツの興味を引くこととなった。ボブ・プラットがこれは偽造だとする文章を公にしたのは1984年のことであった。

このエルスワースの手紙の黒幕は誰だったのか? リック・ドーティは当時エルスワースで勤務していたが、彼は「自分がAFOSIに採用されたのは1978年の春だった」として、この事件への関与を否定している。しかしこれは、AFOSIが後にビル・ムーアやポール・ベネウィッツに対してしでかした事に似ている。デッチ上げが公に暴かれたにもかかわらず、エルスワース文書というのはニセ情報を研究する上でのテキストといえるものである。彼らは、狙ったグループ(この場合は「ナショナル・エンクワイアラー」とUFOコミュニティだった)に対し、少なくとも最初だけはもっともらしく聞こえるような形でバカバカしい話を伝える。一見するとその文書は本物で、そのストーリーは裏が取れているように見えた。だからエンクワイアラー誌は数千ドルと延べ数百時間を無駄にしてこの事件を調査したのである。

では、なぜAFOSIはエンクワイアラーにニセ情報を流そうとしたのか? 出版社のUFOへの熱狂に水を差そうとしたのだろうか? ボブ・プラットは後にこう語っている――UFOのストーリーはセレブの物語ほど売れなかった。にも関わらず、エンクワイアラーの出版人であるジェネローソ・ポープ・ジュニアは、何万ドルもの資金を出して自分を世界各地に派遣し、UFOの話を取材させていた、と。プラットは、ポープが本物のUFO信者であったと考えていたが、「ポープには諜報機関とのつながりがあったのでは」と疑う者たちもいた。ポープは1951年、CIAによる心理作戦の訓練を1年間受け、その翌年にエンクワイアラー誌を買い取った。彼はまた、ニクソン政権で国防長官を務めたメルビン・レアードの親友でもあった。

エルスワースのデッチ上げには、「近隣のICBMサイロで1975年に侵入事件があった」というウワサから一時的に関心をそらす役割があったのかもしれない。あるいは、『未知との遭遇』に登場するような、平和を愛する異星人をおだてるための「引き立て役」を舞台に上げようとしたのかもしれない(この映画のラストはデビルズ・タワーを舞台としていたが、これはたまたま――といって良いのかどうかは不明だが――エルスワースからほんの数マイルしか離れていない)。ちなみにこの映画はUFOへの関心を大きく再燃させ、新たな調査の再開を求める人々の声は高まっていったが、それこそは空軍が避けたかったことだった。してみるとこれは、単にAFOSIが新たに採用した人間向けにニセ情報の訓練をしただけのことだったのかもしれない。

リック・ドーティが直接関与していなかったとしても、彼がその話を耳にしていたことは確実である。1978年3月までに、彼は下士官学校で6週間の訓練を受け、1979年5月にはAFOSIの一員としてカートランド空軍基地に配属されていた。ポール・ベネウィッツに対する工作は、彼が来てから数か月後に始まることになる。

■アクエリアス計画

リックと過ごしていると、彼がどうやってポール・ベネウィッツやビル・ムーアの信頼を得たのかがよく分かった。確かに、彼の話の中には真実味の感じられないものがいくらかはあった。彼の口からこぼれ出るそうした話には、どこかで伝え聞いたものといった感じがつきまとった。しかし、それは問題ではなかった。我々が話している相手はリック・ドーティなのだし、新しい友だちとの間で少しばかりホラ話が出たって何だっていうんだ?

ホルモン剤たっぷりの牛肉で満腹になった我々3人は――もっともジョンはレタスばっかりだったが――グレッグ・ビショップを探しに行くことにした。リックに、グレッグの著書『プロジェクト・ベータ』であなたは重要な役割を果たしていたが、自分ではあの本をどう思っているか、と尋ねた。リックは「あれは良い本だ」としつつ、「よく出来たニセ情報というのはみんなそうなんだが、あの本には正確な情報と不正確な情報が混在している」と言った。少し意外だったのは、彼があの本がそれほど売れなかったことに失望していると述べたことだ。リックは明らかに商才に富んだ人物であった。

総じていえば、リックは本というものについてあまり話したがらない傾向があった。彼は『情報解除免除 Exempt from Disclosure』にはほとんど関わっていなかったと言い、自分の名前を表紙に載せたくはなかったと述べた。ただし、改訂版の第2版にも彼の名前は記載されている。そして、我々との会話ではあまり触れたがらなかったが、リックは1980年代初頭、「出るかもしれない」とウワサされていた別の書籍プロジェクトに関与していたことがあった。その本は結局日の目を見なかったが、それが出ていればムーアやベネウィッツと関わっていた頃のリックのパーソナリティを覗き見ることができたのかもしれない。

1981年末までに、リック・ドーティとビル・ムーアの関係は次第に強固なものとなっていた。情報のやり取りは双方向で行われており、ドーティはプロジェクトのコードネームやUFO隠蔽工作に関与する人物のヒントなどをムーアに提供し、一方でムーアはUFOコミュニティ内部の最新情報をドーティに渡していた。ムーアは、ナショナル・エンクワイアラーの記事でUFOコミュニティからの信頼と尊敬を得るに至ったボブ・プラットとも密接な関係にあった。誰がこのプロジェクトを発案したのかは明確ではないが(ムーアとドーティは沈黙しており、プラットはすでに亡くなっている)、まずはドーティとムーアが、彼らが共有していた情報をまとめた本を出版する構想について話し合った可能性が高い。この本はムーアが成功を収めた『ロズウェル事件』の続編として計画されたもので、ドーティは「ロナルド・L・デイヴィス」という名義の内部情報提供者として登場し、ムーアとプラットは執筆を担当する予定だった。その本の素材は、ドーティがムーアを通じてポール・ベネウィッツに渡していたニセの政府文書と本質的には同じもので、ロズウェル事件後に始められ、なお継続している秘密のUFO調査の詳細が含まれることになっていた。

ボブ・プラットはムーアとの間の電話を全部録音していたので、そのテープから、ムーアは当初、書籍をノンフィクションとして発表することに固執していたことが明らかになっている。しかしプラットは、ムーアがドーティを通じて提供する素材には十分な証拠がないことに不安を感じていた。渋々ながらムーアはフィクション形式での出版に同意した。書名は最初『Majik 12』と名付けられたが、やがて『アクエリアス計画』と改題された。これはドーティがムーアに渡した偽造文書の名前から取った。プラットとムーアが構想したこの本は、愛国的なアメリカ兵士「D」の物語となる予定だった。主人公のDは、ベトナムでの過酷な任務から戻り、今は自国に裏切られたと感じている人物である。

Dは諜報活動部門にリクルートされ、ニセのUFO情報をバーコウィッツ博士なる人物(ほぼポール・ベネウィッツそのものだ)に提供する任務を受ける。Dはその後、サウスダコタ州のサイロにある核ミサイルに未知の物体が干渉しようとした事件を調査するよう命じられる(エルスワースでのデッチ上げ事件を題材としたもの)。Dは次第にアメリカ政府の奥深くに隠された超機密のUFOプログラムに気づいていく。これこそが「アクエリアス計画」であり、このプログラムを監督している組織が「マジェスティック」、または「MJ-12」である。

UFOをめぐる陰謀の深みに引き込まれていく中で、Dはイエス・キリスト、ムハンマド、アドルフ・ヒトラーといった歴史上の人物はすべて異星人に操られていたことを知る。ドーティからムーアに提供された情報を反映するように、Dは地球と関わっている異星人には3種類があることを知る。まずは北欧風の美しい容姿を持つヒューマノイドで(ジョージ・アダムスキーのオーソンに似た存在)、彼らは最初に地球に人類を根付かせ、密かに我々の発展を導いている。次は悪意あるグレイで、遺伝的収穫プログラムの一環として人類を誘拐したり家畜を切り刻んだりしている。そして3つ目の種族は、地球の天然資源を略奪しようとしている。アメリカ政府はこれらの異星人すべてを知っており、MJ-12を通じてそれらを監視し、時には高度な技術と引き換えに彼らと交渉していた。しかし、究極的にはMJ-12にこれらの異星人を阻止する力はなく、それ故に隠蔽工作が必要となっていた。国内に大混乱を引き起こすことなく、政府が市民に「我々の遺伝子や地球の資源は異星人の手のうちにある」と告げる――一体そんなことがどうすれば可能なのだろう? 真実に近づきすぎた我らがヒーローDは、人民には何が実際に起きているのか知る権利があると決断する。彼はビル・ムーアやボブ・プラットのような研究者たちに本物のUFO資料を漏洩し始めるが、最終的にDはMJ-12によって暗殺される。これは『未知との遭遇』の壮大な結末を悲惨な方向にひとひねりしたものになるわけだが、彼の遺体は異星人の一種族に引き渡され、彼らの惑星へと運ばれていく。

これはすべてフィクションなのか、それともリック・ドーティは本当に自らをUFOの真実を求める殉教者だと思っていたのか? 一番ありそうなことを言えば、ドーティはムーアに対して自らをそのように思わせたかったのだろう。彼とファルコンは当初、自分たちを政府のUFO政策に反対する内部告発者だと位置づけ、ムーアに本当のUFOの秘密を提供することを約束していた。作中で殉教者となるヒーローDは、いくつかの点でドーティとムーアの両方を合わせたような存在であって、真実を追求するために自らの尊厳、魂、さらには命までも危険にさらす人物だった。そうした役割というのは、ムーア自身も、1989年のMUFON講演に立った自らに投影したものだった。彼は、AFOSIと結託したのは正しいことだと本気で感じていたようであり、彼が受け取っていた情報の一部は真実であるとも信じていたようなのだ。

しかし、ドーティはどうだったのか?1989年、彼のUFOに関するニセ情報工作が公になった直後に書かれた手紙の中で、ドーティはこう述べている。

    地球が過去に他の惑星からの訪問を受けていたかどうか、私は個人的な決断を下すのに十分な情報を持っていません。もし政府での任務中にアクセスできた情報に基づいて決定を下すならば、こう言わねばならないでしょう。はい、地球は訪問を受けていました、と。しかし、私がアクセスできた情報が完全に正確であったかといえば、100%確信しているわけではありません。

これを彼が2006年に「UFOマガジン」に書いた記事と比較してみよう。「1979年初頭……私は特別区画プログラムに参加するよう指示された。このプログラムは、米国政府の地球外生物(EBE)に対する関与についてのものだった。最初のブリーフィングで、私は政府のEBEへの関与についてその背景を洗いざらい説明された」。我々はどちらのリチャード・ドーティを信じるべきか? そして、これはより重要なことだが、彼自身は何を信じているのだろう?

■イエローブック

ジョン、リック、私の3人は、グレッグ・ビショップと彼の婚約者のシグリッドと、「マディ・ラダー」というバーで会った――そこは薄暗い照明、鮮やかなネオン広告、スポーツ放送を流すテレビがあるアメリカ風の怪しげなバーで、ラフリンでは一般的なリバーボートの趣向が取り入れられていた。グレッグとリックの間にはギスギスした関係があったのかもしれないが、とりあえずは友好的な感じだった。グレッグは、あなたの言うことはあまり信じていないとリックにハッキリ言っていた(もっとも彼は誰も信じていないのかもしれないが)。一方のリックは、グレッグに対して時折トゲのある言葉を交えながらもジョークで返していた。ビールを飲んだ。というか、かなりの量を飲んだ。リックも飲んでいたが、彼が飲んでいるのを見たのはその時だけだった。

最初、UFOのことは話題に上らなかったが、酒が進むにつれて抑制が解け、最後にはなぜ我々がここに集まっているのかについて話さねばならなくなった。我々がETの訪問について懐疑的なスタンスを保っていたのに対して、ひとりリックは一歩も譲らなかった。彼はこう断言した。「ヤツらはここに来ていたんだ。アメリカ政府はヤツらのことを知っているし、証拠となる技術も持っている」

私は大声で、おそらくは大きすぎる声で、信じられないと言った。リックは最初、私の疑問の声に衝撃を受けたようで、その姿勢は自陣の防衛に回らねばならなくなった男のそれであった。より饒舌になった私は、さらに問い詰めた。するとリックは思いがけなく防御的な姿勢を取った。「そういうテクノロジーが本当にあるのは知っている。自分で扱ったからな」。彼はこう言った。

「何を扱ったんですか?」

「エイリアンの技術だ。クリスタル……ホログラフィック装置のようなものだ。それは『イエローブック』と呼ばれている。持ったこともある。長方形のクリスタルの板で、ハードカバーの本みたいだった。前面には左右にくぼみがあり、そこに親指とか指を置くと、何かが見える」

「何が見えるんです?」

「私に見えたのは言葉だ。他の人は映像を見た……言っておくけどあれは本物だった」

「パーム・パイロット [訳注:かつてあった小型電子手帳] を発展させた軍のテクノロジーかもしれないでしょう?」

「これはエイリアンの技術だ。単純なことさ。もしそこにいたなら、君もそう思うだろう。君が私を信じようが信じまいがどうでもいい。私はそこにいたんだからな」

そしてその会話は終わった。

いまこの時点で、「私は人を見抜くのが得意だから、リックが真実を語っていたことは分かる」とでも言いたいところだ。が、それはできない。私は酔っていたし、リックも酔っていたと思うし、他のみんなも酔っていた。ただ言えるのは、リックがその時に見せた防御的な態度、声に現れた高音の弱々しい感じ、肩をすくめる仕草、そうしたものすべてが小細工なしの生の姿に見えたということだ。その瞬間、私は彼を信じたのだ。

それ以降、私はこう感じている。リックは「地球は訪問を受けた」と本当に信じているのだ。彼がなぜそう信じているのか、どのようにしてそう信じるようになったのかはまた別の問題だし、我々には知る術がない。

もしかすると、リックはあまりにも長い間同じ嘘をつき続けたので、それを自分でも信じるようになったのかもしれない。しかし、私にはこう思われてならない。ブリーフィング、空飛ぶ円盤のテスト飛行、イエローブック等々、間欠泉の蒸気のように彼から湧き出してくるストーリーが作る迷路のどこかで、彼に確信を与えるような何かが起きたのではないか。

リックは何かを見せられた、あるいは少なくとも彼が信頼していた人々――友人や軍の上司――から何かを聞かされた。彼の語るスパイの話が別人の戦争体験の焼き直しと感じられるのと同じように、UFOの話のいくつかも彼自身のものではないのかもしれない。しかし、そうだったからといって必ずしもUFO問題が現実から遊離していってしまうとは言えない。アメリカ軍内部にはUFOやET(地球外生命体)への強い信仰の文化があり、ユーフォロジーにおけるアラジンの洞窟を垣間見ることを期待して軍に入ってきた者もいる。もしかしたら、本当に地球外の何かがそこに隠されているのかもしれないし、あるいはこうした遺物はすべて、単なる情報撹乱のための小道具にすぎないのかもしれない。そして、おそらくリックはそうしたものを見たのだ。

しかし、リック・ドーティを信じるかどうかにかかわらず、我々としては彼が人を欺く訓練を受けていたことも忘れてはならない。彼はカートランド空軍基地でAFOSIに所属していた時期に欺瞞工作をし、その25年後になってもなお、非常に奇妙な行動に関与していた。そして、それらはさらに多くのウワサを巻き込んでいくことになる。(10←11→12)



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■第8章 ユーフォロジストたちの中で

    気がつくと、円形のドーム型の部屋にいた……それはまるで真珠のような神秘的な物質でできており、繊細な色彩が光を放ちながら虹のように輝いていた。そこへ音楽が聞こえてきた。聞き覚えのあるメロディー、それは私の大好きな曲「フールズ・ラッシュ・イン」だった……私は、彼らと一緒にいることでどれほど安心できるかを悟った。彼らは私のすべての考え、夢、そして大切にしている希望を知っている存在だった。
     ――オルフェオ・アンジェルッチ『円盤の秘密』 (1955)


ラフリンのフラミンゴ・ホテルの部屋から、輝きまたたくネオンライトの列が砂漠の夜空の星々をかき消す様子を眺めていた。1995年の晴れた日に私や友人たちが目撃したものが何だったのか、私は全く真相に近づけていなかったのかもしれない。だが、私やジョン、そして何百万もの人々が魅了されてきた物語がどのようにして形をなしてきたのかは、よりハッキリと理解できるようになっていた。

空飛ぶ円盤の現象の背後に軍や情報機関がいるという信仰は、私にはUFO伝説にまつわる他の荒唐無稽な話と同じくらい見当違いで、妄想狂的であるように思われた。しかし、アメリカ空軍、海軍、CIA、NSAなど、この手の謎めいた略語集団に括られる機関が、UFOについて意図的に国民を欺き、時にはお互いに騙しあってきたことは明らかだった。それぞれが自分たちの目的のためにこの現象を利用し、それによってUFO神話の展開に影響を与えていたのだ。UFOが本当に空を飛び回り、地面に墜落し、我々に呼びかけたり、誘拐したりしていたかどうかはともかく、そうした話の背後にはすべて人間の痕跡があった。

しかし、私はもどかしさを感じていた。今にいたるまでこうした奇妙な物語は、古い書籍や記事、その時々の政府文書、逸話や風説の断片、そして多くは推測混じりの直感によって組み立てられていた。確固たる証拠はほとんどなかったが、私は何を得られるのだろう? 秘密は情報機関にとっていつも吸っている空気のようなものであり、仮にUFOの作戦が今なお秘密裏に続けられているなら、その歴史が簡単に明らかになるはずもない。情報機関の界隈に昔から伝わる格言にこういうものがある。「推測というのは、何も知らず、そして知ることが不可能な時に行うものである」

UFO伝説の最初の波を形作った戦略家やエージェントたち、つまりオリジナルの「蜃気楼の男たち Mirage Men」は、すでに皆いなくなっていた。ジョンと私が彼らと話をすることはもうできない。しかし、ビル・ライアンを追ってセルポの物語を追跡し、盛況を極めるラフリン・コンベンションへと至った我々は、彼らの後継者に出会えることを期待していた。

■完全な公開

CIAのロバートソン・パネルは1953年、民間UFO団体を厳重に監視すべきだと提言した(「監視」とはおそらく「潜入」と読みかえるべきだろう)。そこで実名を挙げて名指しされたのは、空中現象研究機構(APRO)とシビリアン・ソーサー・インスティゲーション(CSI)だった。UFOコミュニティの中の賢明な者たちが、自分たちは政府によって監視され時には干渉されていることに気づいていたとしても、彼らは「それは地球外生命体が訪問しているという真実に自分たちが近づきすぎたからだ」と信じる傾向にあった。その30年後、政府の関与について見えてきた構図はそれと全く違うものだったわけだが、それは多くのUFO研究者たちが(おそらくは薄々本当のところは知りながら)あえて目をそむけてきたものだった。こうした出来事すべての中心にいたのは、ユーフォロジーの世界における最初の内部告発者で、英雄的な研究者から裏切り者・はぐれ者へと立場を転じたウィリアム・ムーアだった。

ビル・ムーアはこの分野で最も尊敬されていた人物の一人だった。彼には40年間も埋もれていたロズウェル事件を掘り起こした大きな功績があり、彼のベストセラー本『ロズウェル事件』は、このジャンルに対する大衆のイメージをますます改善させた。しかし、1989年にラスベガスのアラジン・カジノ・ホテルで開催されたMUFON(相互UFOネットワーク)の会議において、彼が発表に立った時点ではUFOコミュニティは完全な混乱状態になっていた。この会議は、事実上、内戦の様相を呈していたのだ。比較的穏健なMUFON公認のイベントがアラジンで開催される一方で、近くの別の場所では、分派による会議が開かれた。こちらの講演者はより過激なUFO現象の「暗黒面」を説き、エイリアンによる地球の植民地化は着々と進んでおり、政府はこれを隠蔽する陰謀を謀っているなどとして警鐘を鳴らしていた。ちなみにこの主張では、政府は進んだ軍事技術を入手する見返りに、ETが恐ろしいアブダクションで人間の遺伝子を得ることを認めているということになっていた。

ムーアが「公認」イベントのステージに立ったとき、彼はこれが自分が公の場に出る最後の機会になるかもしれないことを知っていた。なぜなら彼は、ユーフォロジーの世界に生じたカオスの少なからぬ部分は自分に責任があることを知っていたのだ。彼はまさにその話を全世界に告白しようとしていたのだった。

ムーアのスピーチの記録として残っているのは、粗い画質のビデオテープが唯一のものである。音声は別途録音されているが、時折、同期がずれたり、完全に途切れたりすることがある。ムーアは、灰色か茶色のスーツを着た熊のような男で、厚いヒゲ、黒い眼鏡、そしておかっぱ頭によって顔はほとんど隠れている。演壇に上った彼は神経質な様子で、1000人に及ぶ立ち見席の聴衆を前に体を左右に揺らしていた。彼は咳払いをしてから話し始めた。「皆さん、私の友人も私に反対している方も、協力者の方も同僚の方々も、つまりはUFO研究者の皆さんということなのですが、まず自己紹介をさせてください。皆さんは私の名前を知っていると思いますが、同時にビル・ムーアとは何者で、何を企んでいるのかと疑問に思っている方も多いでしょう……自分自身は私がずっと何をしてきたかを知っているわけですが、問題は他の誰も私がしてきたことを知らなかったことなのです……これはあなた方にとって聞きたくない話かもしれませんが、それでも本当の話なのです」

それからの2時間、ムーアは落ち着いた調子ながらも力強く自らの物語を語った。その話は、UFOコミュニティに新たな視点をもたらす風穴を開けるようなものとなった。彼は、チャールズ・バーリッツ(彼自身も元陸軍情報将校だった)との共著になる2冊の書籍、『フィラデルフィア・エクスペリメント』(1979年)と『ロズウェル事件』(1980年)で成功を収めたが、その後、労使関係の専門家としての職を辞し、アリゾナ州に移り住んで執筆活動に専念することになった。また彼は、ツーソンに拠点を置くAPRO(空中現象研究機構)の特別調査部長にも就任した。

1980年9月の始め、ラジオ番組で『ロズウェル事件』の宣伝をした直後のムーアは、放送局で電話を受けた。「我々が見るところ、彼が何を言っているのか分かっているのはあなただけだと思います」。東ヨーロッパ訛りのある匿名の男性はそう言い、そのまま電話を切った。数日後、ムーアがニューメキシコ州アルバカーキの別のラジオ局にいたとき、その男は再び電話をかけてきて、同じメッセージを伝えた。ムーアはこの時、この人物と地元のレストランで会う約束をした。男は赤いネクタイをしていくということだった。ムーアは、ロバート・リンゼイの著書『ファルコンとスノーマン 友情と陰謀の真実の物語と』にちなんで、この人物に「ファルコン」という名前を付けた。ムーアはファルコンの地位や正体を明かしておらず、ただ彼は「情報機関において重要な位置にいた人物だ」とだけ語っている。

ディナーの席で、ファルコンはムーアに取引を持ちかけた。それは、ムーアが上手く立ち回れば、ファルコンはUFOコミュニティが最も求めているもの、すなわち政府によるUFO隠蔽の決定的な証拠を提供できる――というものであった。その代わり、ムーアは情報機関が何より求めているもの、つまり情報を提供することが求められた。「私は勧誘されていることに気づいた」とムーアは1989年に語っている。「でも、なぜそんなことをするのかは分からなかった」。ムーアが提案に同意すると、一通のマニラ封筒を渡された。中には空軍の文書があった。それは「プロジェクト・シルバースカイ」に触れたもので、民間人による空中「物体」の目撃情報と、「スパイク型飛行体」の回収について書かれていた。

ムーアとファルコンは9月30日に再び会った。ファルコンに同行していたのは、空軍特別捜査局(AFOSI)の若き捜査官、リチャード・ドーティであり、彼がムーアとファルコンの連絡役を務めることとなった。ムーアはすぐさま、シルバースカイの文書について二人を問い詰めた。彼は目撃者の名前を調べてみたが、該当する人物はいなかったのだ。その文書は偽造されたものだった。ファルコンは「最初のテストは合格だ」と祝福した。かくて彼は次の段階に進む準備ができた。

ファルコンは、自分が国防情報局(DIA)に所属しており、情報機関内にあってUFOに関する真実を大衆に伝えたいと考えているグループの代表なのだと明かした。ムーアは、彼らがその試みに取り組む上で信用できる人物と見込まれたのである。その見返りとしてムーアは、UFOコミュニティの中では誰が何をやっているかという情報を彼らに渡すこと、そして逆にUFOシーンに誤情報を流すことも求められた。ムーアは、偽情報ゲームに巻き込まれつつあったのだ。

実際、このゲームはすでに始まっていた。その年の初めに、ムーアはAPROの幹部から奇妙な手紙を渡された。それは、ニューメキシコ州アルバカーキのカートランド空軍基地駐在の若き空軍士官候補生、クレイグ・ウェイツェルが書いたもので、訓練中に10人の士官候補生が目撃した着陸したUFOと銀色のスーツを着た乗員について記述されていた。ウェイツェルは、その乗り物と乗員の写真を撮影していた。カートランドに戻ると、ウェイツェルは、黒いスーツとサングラス姿で黒っぽい髪の謎めいた男に接触された。ハックと名乗ったその男は、基地内のサンディア研究所の者だと言い、UFOの写真を要求してきた。動転したウェイツェルは、それらを渡してしまった。ウェイツェルは、この出来事をカートランドの警備担当者、ドーディに報告したと手紙の中で書き、手紙の最後には、墜落したUFOが基地内のマンザノ山の下に保管されていると述べていた。

常に用心深い調査者であるムーアは、ウェイツェルを追跡して彼に会った。ウェイツェルは、確かに銀色のUFOを見たと言い、それは突然加速して飛び去り、「今まで見たことのないような加速をした」と述べた。しかし、それは手紙に記載されていた場所で起きたわけではなく、搭乗者は見なかったし写真も撮っていなかった。当然ながらハック氏という不気味な男に会ったこともなかった。そして、もちろん「ドーディ氏」はリチャード・ドーティで、ウェイツェルの手紙はムーアを誘い出すための餌であった。AFOSIは狙っていた獲物を釣り上げたのだ。


ポール・ベネウィッツに会いにいったらどうかと最初にムーアに提案したのがAPRO(空中現象研究機構)だったのか、あるいはAFOSIだったのかはハッキリしない。どちらにとってもそう言って然るべき理由があった。ベネウィッツは1979年7月、マンザノの山々の上空を飛び回っている奇妙な光を撮影し始めた。さらに彼は自作の受信機で奇妙な信号を拾い始め、それはUFOから発せられているものに違いないと確信した。1980年5月、ベネウィッツがミルナ・ハンセンという若い母親と知り合ったことで、事態はさらに奇怪な方向に向かった。ハンセンと8歳の息子は、アルバカーキの北西約65マイルにあるイーグルズ・ネスト付近で、車の上に奇妙な青く輝く明るい光を目撃していた。彼女がこの出来事をAPROに報告したところ、APROはその地域の代表者をしていたベネウィッツを訪ねるよう彼女に勧めたのである。ベネウィッツの元で催眠術を施されたハンセンは、UFOに引き上げられ、そこで恐ろしいもの――すなわち、切り刻まれた牛や人体のパーツがタンクに入れられているのを見たと述べた。自分の身に起きたことへの恐怖と、答えを知っていそうなベネウィッツに対する信頼感から、ハンセンはベネウィッツ家に足繁く通うようになし、二人は不穏極まりない「感応精神病」へと陥っていった。

ハンセンは、科学者にしてUFOの専門家であるということでベネウィッツを信頼していたが、彼がAPROに送る手紙は次第に奇怪なものになっていった。例えば彼は、ハンセンを掠った宇宙人は彼女の体内に追跡装置を埋め込んでおり、その装置で彼女の一挙手一投足を追跡しているほか、その思考もコントロールしているのだと断定していた。ハンセンの身の安全とベネウィッツの精神状態を懸念したAPROは、ビル・ムーアに彼の元を訪ねて調査をするよう依頼した。一方ではアメリカ空軍もまた、ベネウィッツの元を訪ねることをムーアに求めていた。空軍が彼に吹き込んだニセ情報がどれほど成果を上げているか確認したかったのである。

アメリカの情報公開法を通じて公開されたカートランド空軍基地の内部文書には、ベネウィッツに対する工作がどれほど迅速に進行したかが記されている。ベネウィッツ博士が、カートランド基地の警備責任者であるエドワーズ少佐に最初の目撃情報を報告したのは1980年10月24日だったが、エドワーズはこの件をAFOSIのドーティに引き継いだ。彼らの報告書にはその後の経緯がこう記されている。

    1980年10月26日、[特別捜査官の] ドーティは、空軍試験・評価センターの科学顧問であるジェリー・ミラーの協力を得て……ベネウィッツ博士と彼の自宅で面談した。その場所はアルバカーキ市フォー・ヒルズ地区で、この地区はマンザノ基地の北側境界に接している。ベネウィッツ博士は……電子記録テープを何本か示してみせたが、彼によればそれはマンザノ/コヨーテ・キャニオン地区から発せられている磁気が高まっている時期の記録だった。彼はまた、アルバカーキ地域上空で撮影された飛行物体の写真もいくつか提示した。彼は、いくつかの電子監視装置をマンザノに向け、高周波の電磁パルスを記録しようとしている。ベネウィッツ博士は、これらの空中物体がこれらのパルスを発しているのだと主張している……ミラー氏は、ベネウィッツ博士が収集したデータを分析した結果、何らかの未確認飛行物体が撮影されているのは確かだとした。しかし、これらの物体がマンザノ/コヨーテ・キャニオン地域に対して脅威を与えているかどうかについては結論が得られなかった。ミラー氏は、電子記録テープは決定的なものではなく、ありきたりな [磁気の] 発信源から得られたものではないかという印象を抱いた。この地域では他に目撃情報は報告されていない。

11月10日、ベネウィッツはカートランド空軍基地に招かれ、基地内の各部署の責任者たちに自身の調査結果を明かした。彼のプレゼンテーションが終わる時まで残っていたのはAFOSI(空軍特別捜査局)とNSA(国家安全保障局)の代表者だけであったが、彼らは、どういうワケかはわからないがベネウィッツは自分たちが実験的に行っている通信を傍受していることに気づいた――その通信というのは、彼らが知る限り、フィルムに映った光とは何の関係もないものだったのだが。NSAは彼が信号を傍受するのを放置しておくことにした。それによって、どのように彼が傍受をしているのかを把握し、自分たちにとって彼が何か役立つのかどうかを見届けようとしたのである。

11月17日、AFOSIの新たな協力者であるビル・ムーアは初めて彼らのオフィスに召喚され、UFO研究の現状についてに報告するよう求められた。リチャード・ドーティは会議後、AFOSI内部の機密通信のためのテレタイプ・ディスプレイをムーアに見せた。そこには新しい文書が表示されていた。そこには「秘密」というラベルが付けされており、ベネウィッツが撮影した3枚の写真と8mmフィルム2巻についての分析が記載されていた。文書の最後には「プロジェクト・アクエリアス」に関する言及があった。

1981年2月、ファルコンとドーティは、とある文書をベネウィッツに渡すようムーアに求めた。ひと目見た時、その文書は11月にテレタイプで見たものと同じように思えたが、よく見ると微妙に改編されていることに気づいた。その文書には次のように書かれていた。

    (S/WINTEL) 米空軍は公にはUFO研究に従事していないが、空軍は依然として米空軍の施設や試験場でのUFO目撃に関心を持っている。NASAを筆頭とするいくつかの他の政府機関は、偽装を施した上で真正の目撃情報を調査している。(S/WINTEL/FSA)
    そのような偽装の一例が、メリーランド州ロックビルにある米国沿岸測地調査所のUFO報告センターである。NASAは目撃情報の結果を然るべき軍事部門にフィルタリングして渡すが、公式な情報機関のチャンネル外に情報は配信されておらず、ただ「MJ12」に対してのみ制限付きのアクセスが許される。ベネウィッツに関するケースはNASAとINSによって監視されており、両者からは今後の証拠はすべてAFOSIを通じて送付するように要求されている。

1983年、空軍情報部はこの文書について「機密情報の不正な公開の可能性」というタイトルのもとで調査を行った。彼らはその文書にいくつかの問題があることを指摘しており、特にその情報源とされていたグレイス大尉という人物は実在しないこと、また文書の形式も機密文書にふさわしくないものであることを挙げた。さらに報告書は「この文書は文法的な誤りやタイプミスが多く、全体的に見て意味をなさない」と苛立ちを込めて指摘していた。つまり、この文書は偽造されたもので、専門家にとってはあまり説得力のあるものではなかった。問題はテクニカルなものだけではなかった。文書にはより根本的な問題があった。NASAがベネウィッツを監視しているという話は馬鹿げていた。NASAはカートランドに施設を持っておらず、監視業務も行っていなかった。また、米国沿岸測地調査所は1970年には業務を停止していた。この文書には「MJ 12」という当時誰も聞いたことのなかった組織への言及があったが、その名前はそれからの30年間、UFOコミュニティを悩ませることになる。

ファルコンとドーティは、ムーアに「プロジェクト・アクエリアス」の文書をベネウィッツに渡すよう執拗に求めた。彼らがムーアに他人を欺くよう求めたのはこれが最初で、ムーアはその一線を越えることをいったんは拒んだ。ムーアとベネウィッツはすでに定期的に連絡を取りあい、友人関係を築きつつあったからである。しかし彼の「調教師」たちは、もしムーアが協力しないのであれば、彼らの関係はその瞬間に終わると明言した。

ムーアはその夏、「サンダー・サイエンティフィック」社の研究所でベネウィッツにその文書を手渡した。これはベネウィッツが待ち望んでいた証拠であった。つまりそれは空軍が彼の研究を真剣に受け止めていることを裏付けるものだったし、ベネウィッツが正しい方向に進んでいることを示すものでもあった。「サンダー・サイエンティフィック」社が盗聴されていることを知っていたムーアは、ラジオの音量を上げて会話を聞こえないようにしつつ、誰にもこの文書を見せないようベネウィッツに懇願した。しかし、それは無駄だった。カートランドで得た通信や目撃体験や、そしてミルナ・ハンセンから引き出された情報が相俟って、ベネウィッツはいま・ここでエイリアンの侵略が進行していることを確信していた。彼はすでにアメリカ空軍に警告していたが、今やその警告は世界に発信されねばならなかった。

ベネウィッツはAPRO、地元の政治家(ニューメキシコ州の上院議員を含む)、元宇宙飛行士のハリソン・シュミット、さらには大統領ロナルド・レーガンにまで手紙を書いた。レーガンへの手紙には空軍長官室からの返信があり、空軍は1969年のプロジェクト・ブルーブックの終了と共にUFOの調査を停止したという標準的な回答が返ってきた。しかし、ベネウィッツはこれが真実でないことを知っていた。彼は、その時点においてカートランドでUFOを調査している空軍関係者を名指しで挙げることができたからである。

侵略者に対する活動を強化すべく、ベネウィッツはコンピュータシステムを改造して「エイリアン」の通信を解読し、繰り返される信号を、例えば「UFO」「宇宙船」「アブダクション」といった具体的な言葉に翻訳してみた。エイリアンの計画を理解できれば、空軍が彼らの侵略を防ぐのに役立つと考えたベネウィッツは、解読されたメッセージをAFOSIの友人たちに送り始めた。彼らはベネウィッツの行動に引き続き大きな関心を払っていた。

1981年の半ば、ベネウィッツは高名な天文学者にしてUFO研究者であるJ・アレン・ハイネック教授の訪問を受けたが、ハイネックは新しいコンピュータを持参していた。UFO界の権威の訪問に、ベネウィッツは自分が重要なことに関わっているのだという確信をさらに強めたことであろう。ハイネックは、1948年にアメリカ空軍のプロジェクト・サインへの協力を依頼されて以来、UFOに深く関わっていた。当初はUFO現象に懐疑的だったハイネックだが、後にこの現象が何か実在する未知のものを示していると確信するようになり、1960年代後半には空軍に反旗を翻した。ハイネックは1972年の著書『The UFO Experience』でプロジェクト・ブルーブックを偽装と断じ、UFOとの遭遇を分類する独自のシステムを紹介した。その中には、UFOに乗船している存在との遭遇を指す「第三種接近遭遇」というカテゴリも含まれていた。この用語はスティーヴン・スピルバーグによる1977年の映画のタイトルとして使われ、映画の壮麗なるクライマックス場面には、トレードマークのパイプをくわえたハイネックがカメオ出演している。

ベネウィッツを訪問した当時、ハイネックはUFO研究センターを運営しつつ、エバンストン大学で教授職を務めていた。また、空軍から年間5千ドルの報酬を受け取っていたとも言われている。ハイネックは空軍のベネウィッツに対する工作を知っていながら、それに加わっていたのだろうか? もしそうなら、カーネル・サンダースさながらに親しまれた「科学的ユーフォロジーのゴッドファーザー」というイメージは明らかに確実に大ダメージを受けることになっただろう。しかし、ビル・ムーアの主張によれば、ハイネック自身は彼にこう語っていたという――「誰から渡されたかは彼に話さず、特別なソフトウェアが入っているコンピューターをベネウィッツに届けるように空軍に言われたんだ」

ベネウィッツは新しいコンピュータをセットアップし、それが伝えてくれる精度のより高いメッセージの解読に没頭するようになった。その新しいメッセージの一部を見るだけでも、彼がどれほどエイリアンの幻想に取り憑かれていたかは明らかだ。「勝利。我々の基地は母船から補給を受ける。時間が引き裂かれた。メッセージは星を打ち抜く。若返り方法で問題を引き起こした。6つの空。あなたに話すこと全てが助けになる」。このようなテキストが何ページにもわたって続く。ムーアは、新しいコンピュータは「すべての単語、文章の断片、時には文章全体」を、ベネウィッツの家に向けて発せられる「互いに異なった様々なエネルギー・パルス」の一つ一つに割り振っているのではないかと考えた。誰かがポール・ベネウィッツの幻想に油を注いでいた。しかし、それは誰だったのか?

ベネウィッツが送ってくる「研究プロジェクト」の手紙がカートランドの注目を集めるにつれて、監視も強化された。彼は自宅や車が侵入されていると確信し、向かいの家はエージェントが占拠していると信じるようになった。ムーアはある日、白いバンが二人のそばに――それは中から二人の写真を撮るのに格好の位置だった――停まったことを覚えている。ナンバープレートの所有者をたどると、それはコロラド州の北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)に登録されていた。アルバカーキのフォー・ヒルズ地区は、国家の情報機関の遊び場になっているかのようだった。

こうした出来事がベネウィッツの精神状態に良い影響を与えるわけはなかった。1982年、ベネウィッツはムーアに対して「基地の向こう側にあるメサ地域に光が見える」と言い出し、これはUFOが人間を遺伝子実験のために拉致している証拠だと語った。しかしムーアが調査すると、この時は軍用ヘリコプターが一帯でサーチライトを灯して捜索救助訓練を行っていたことが判明し、その事実はカートランドも認めた。しかし、すべてが幻想ではなかった。ある日、ムーアがベネウィッツの自宅を訪れたところ、家の研究室の天井近くに直径約12センチメートルの黄色い光球が浮かんでいるのを目撃した。その光はわずかに揺れ、淡くて青い輝きに包まれていた。ムーアが驚いた顔をすると、ベネウィッツは「このオーブはよく現れるんだが、正体が何なのかはわからない」と言った。

20年後にグレッグ・ビショップのインタビューを受けたリチャード・ドーティは、彼と国家安全保障局(NSA)のエージェント2人がベネウィッツの家の周辺を嗅ぎ回っていたある夜、彼らもこうした光球の一つを目撃したと主張している。「それはオレンジ色で、内側がキラキラしていた」とドーティは回想している。彼らはその時、道路の上に立っていたのだが、ドーティはNSAのエージェントたちに「あれはあんたらのものか?」と訊ねた。だが、彼らは「違う」と答えた。3人はその光がどこかから灯影されているのではないかと探してみたが、光源のようなものを見つけることはできなかった。

カートランド基地の治安部と接触を持ってから1年もたたないうちに、ベネウィッツはパラノイアのフィードバックループに陥ってしまった。そのループは彼の疑念を強化する一方、彼が自らの内心を空軍情報部にさらけ出してしまう事態をも生み出した。深刻な緊張状態に陥ることなくこのような状況が続くことはおよそありえないのだが、ベネウィッツの苦難は数年間に及び、終末が訪れるまでさらに奇妙な事態へと発展していった。ムーアが後に語ったところによれば、パラノイアに取り憑かれているにも関わらずベネウィッツは「優れた話術」を持ち、聞いてくれる人には誰にでも話し続けたという。「ベネウィッツの話を聞いた多くのUFO研究者たちは、さらなる調査をすることもなく、彼の話を鵜呑みにしていた」。その結果、ベネウィッツのパラノイア的な幻想はUFOの地下世界へと浸透していった。AFOSIは人々のUFOについての考えを直接操作し、ビル・ムーアを通じてフィードバックを得ていたのである。教科書通りの心理作戦のシナリオであった。

ビル・ムーアが新しい「雇い主」のために行っていたのは、ポール・ベネウィッツと彼を介して流した情報を監視するだけではなかった。彼のロシア語の流暢さを活かした古典的なスパイ活動もあった。ソ連国内にいるアメリカのスパイは、アメリカのUFO研究者に向け、しばしば情報を求めるようなふりをして絵はがきを送っていた。「ほとんどのはがきは無害なものだった……しかし、私が受け取ったはがきの中には(ロシアの)施設、兵器システム、そして防衛に関して暗号化された情報が含まれていたものがあった」。ムーアはこのようなはがきを受け取ると、探知不能な政府の番号に電話し、その内容を読み上げた。その時点で相手は「ありがとう」と言い、電話は切れるのだった。これは、それぞれのはがきには意図されたメッセージの一部しか含まれておらず、それらが集められて全体像が完成するという仕組みであった。連絡が取れた後、ムーアははがきをワシントンD.C.の郵便私書箱に送り、その内容が何であったのかを知ることはなかった。

ムーアや、後に彼が信頼して引き込んだ仲間たちは、ニセモノかどうかを知らされずに文書を手渡されることが時折あった。1982年初頭、ファルコンはムーアに電話をかけてきて「識別信号」――つまりはパスワードを伝えてきた。それは何かが近々彼の手元に届けられるということを示していた。次いで2月1日、或る男がムーアのところに近づいてきて、そのパスワードを言ってからマニラ封筒を手渡した。封筒には、1980年8月と9月にマンザノ周辺で目撃されたUFOに関するカートランド基地内部のセキュリティ文書が含まれていた。その文書は、ベネウィッツの話を裏付けるために捏造されたニセモノだった可能性が非常に高いが、当時のムーアには自分がアクセスを許された文書がどんなものなのかは分からなかった。

1983年、ムーアはまもなく重要な情報を受け取ることになると告げられた。そこから奇妙な「無駄足だらけ」の追跡が始まった。彼は全国の空港を飛び回り、最後にニューヨーク州のホテルに到着した。そこで、運び屋が彼の部屋にやって来て、例のマニラ封筒を手渡した。ムーアは19分間、その内容を調べることが許された。その間に彼は文書の写真を撮り、その内容をテープレコーダーに吹き込んだ。

その文書は、ジミー・カーター大統領のためのUFOについてのブリーフィング資料だとされていた。カーターはかつて、アメリカ政府がこの問題について知っているすべての情報を公にすると約束していた人物である。文書には、1981年のニセのAFOSI文書で言及されていた「プロジェクト・アクエリアス」とマジェスティック12(MJ-12)グループについて、さらなる言及がなされていた。この新たな文書が示していたメッセージは、MJ-12という秘密の政府組織が、UFOやその搭乗員の問題に対処するため、そしてETが実在していることを秘匿するために、少なくとも1950年代初頭には立ち上げられていたというものであった。これらの文書は後にムーアとAFOSIの二つのルートから他のUFO研究者たちの知るところとなったが、それがしつらえた土俵の上では、やがてUFOコミュニティが歴史上最も壊滅的な打撃を受けることになる。AFOSIによって植え付けられたエイリアンの種は、手がつけられないほどに成長し始めていた。

1989年のMUFON大会で、ムーアはプレゼンテーションの最後にUFOに関する自らの「状況評価」を発表した。彼のいくつかの発言は、現在の私たちから見ても理にかなったものであったが、その他の発言は当時のUFOコミュニティにはびこっていたパラノイア状況を反映したものだった――その影響はムーアのような地に足の着いた研究者にも及んでいたのである。ムーアは聴衆に語っている。
    ▼高度に進化した地球外文明が地球を訪れており、彼らはいま・ここに来ていることについて私たちの認識を積極的にコントロールしている
    ▼少なくとも2つの政府機関の一部はこのことを把握しており、極秘の研究プロジェクトに取り組んでいる。そのうちの1つのプロジェクトは、一部のUFOが人間以外の何者かによる高度な技術の産物であることを証明するデータを有している
    ▼アメリカ政府のカウンターインテリジェンス部門は、少なくとも40年間にわたってUFO現象に関するニセ情報を流してきた。少なくとも2つの機関の高レベルの工作員がこれに関与しており、両者はある程度協力しあっている。彼らはニセの文書を作成しつつ、UFOコミュニティの研究者や体験者について内部通報者を使って情報を収集している
    彼らはなぜこうしたことを行っているのか? ニセ情報というのは、非常に高いレベルで存在し、ごく一部のエリートだけが知らされている「本物のUFOプロジェクト」を安全保障上秘匿するために用いられているのである。
    ▼それはアメリカ政府の研究開発プロジェクトから注意をそらすために役立つ
    ▼それは、三極委員会のようなグループ――つまり宇宙からの未知の脅威を持ち出して世界統一を実現するためにUFO現象を利用しているグループにとって助けになる
    ▼それは、カウンターインテリジェンスに携わる工作員が欺瞞・ニセ情報工作の訓練をする上で格好の手段となる
    ▼それは、人間社会に自分たちの存在をゆっくり認識させていこうとしてエイリアン自身が操作しているものである

三極委員会に関するコメントは無視するとして(これは当時拡大していた「新世界秩序」の陰謀論に関して数多くあった符号の一つだった)ここになお残る事実がある。つまり、ムーアはインテリジェンス・サービスによって張り巡らされた欺瞞の網に深く関与していたにもかかわらず、依然として「地球外生命体は地球に来ている」という揺るがぬ信仰を語っていた――という事実である。

AFOSIとの関係に絡み取られてほぼ10年経った後もなお、ムーアは「UFOシナリオなんてものは丸ごとインテリジェンスの策略なのだ」といって一蹴することがなかった。これは驚くべきことだ。しかし、彼は依然として信じていたし、さらに驚くべきことに彼の「調教師」だったリック・ドーティもまた信じていた。そして今。彼が暗闇から押し出されて17年たった後、ジョンと私は彼に会う準備をしていた。(09←10→11

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■第7章 宇宙のパイオニアたち

    友よ、残念だが地球は錯乱した狂人の手のうちにあるのだ。彼らはあまりに常軌を逸しているが故に、真実を語る我々をウソつきといって糾弾するのだ。 ――ディノ・クラスペドン「我が空飛ぶ円盤との接触」(1957)


ラフリンのコンベンション会場を見回すと、そこにはエイリアンの像、フィギュア、ステッカー、本、風船人形が果てしなく並んでいる。これを見たら未来の考古学者たちが「21世紀の人間たちは無表情な小人を神として崇拝していたのだろう」と考えても不思議ではないだろう。が、実際のところグレイ(とエイリアンたちは呼ばれるわけだが)と「自分はエイリアンたちとコンタクトしている」と信じる人たちの関係というのは、よく言っても曖昧模糊としたものだ。エイリアンによるアブダクションに対するパニックが最高潮に達した1980-90年代、我らが隣人たるエイリアンとの関わりで最も普通だったのは、「最後に外科用メスを持ち出されてしまう」というものだった。多くの人たちがこうした外科手術に至るような接近遭遇をトラウマ的なものと感じた一方で、モルモットにされた人間のうち僅かな人たちは、そうした体験をポジティブなものと捕らえ直すことに成功した――つまり、「自分たちを捕まえた者からは愛や平和のメッセージ、差し迫った環境災害について知らされたのだ」といって。ラフリンではエイリアンたちが自らについて語ることを聞くことはほとんど無かったけれど、それは常にそうだったわけではない。1950年代にさかのぼると、映画『地球が静止する時』に出てくる説教好きなヒューマノイド「クラートゥ」がそうだったように、知恵を授けるETたちの小さな宣教団は地球に下りてきて、人類に如何に行動すべきか・何をしてはならないかを教えたようなのである。

ケネス・アーノルドによる目撃やモーリー島、ロズウェル、アズテックにおける事件はUFO時代の夜明けを告げたが、それらはその後も続くUFO神話の基本要素を二つ確立した。UFOは構造体をもつ乗り物であり、それは私たちの飛行機と同様に墜落する可能性があるということだ。ライフ誌や男性誌トゥルーの特集が出るまで、多くの人々はこれらの乗り物がアメリカ製またはロシア製だと考えていた。しかし、今やそれらは外宇宙――おそらくは金星や火星、あるいは土星の月のどこかから来ていることが明らかになった。次なる問いは「では誰がそれを操縦しているのか」ということだった。

1952年、世界はその答えを知ることになる――サンディエゴとロサンゼルスの間にあるパロマー山のふもとで「パロマー・ガーデンズ・カフェ」を経営していた61歳のポーランド系アメリカ人、ジョージ・アダムスキーの登場によって。パロマー山の頂上には当時世界最大だった200インチのヘール望遠鏡が設置されていたが、アダムスキーは自分で所有する15インチや6インチの望遠鏡を通りすがりの人々に貸し出し、天体を観察させていた。アダムスキーはまた神智学的な傾向のある神秘主義団体「ロイヤルオーダー・オブ・チベット」を運営しており、カフェでは彼を「教授」と呼ぶ小規模な支持者たちを集めては定期的に異教的なトピックについて講義を行っていた。

1949年、アダムスキー教授は、SF小説『宇宙のパイオニアたち:月、火星、金星への旅』を自分の名前で出版した。もっともそれは本当は秘書のルーシー・マクギニスが執筆したものであったわけだが。それからまもなく、彼は講義に空飛ぶ円盤の話を取り入れるようになり、宇宙船を見たり写真を撮ったことがあると主張するようになった。地元では彼の円盤の目撃者としての評判が高まり、1950年にはレイ・パーマーの雑誌『Fate』に取り上げられるまでになった。アダムスキーは瞬く間にカリフォルニアにおける「空飛ぶ円盤産業」の一人者となり、カフェのビジネスも波に乗った。

空飛ぶ円盤がニュースで大きく取り上げられるようになり、アダムスキーの神秘的な円盤グループは新たなメンバーを引きつけ始めるようになった。その中には、ウィリアム・ダドリー・ペリーの親しい友人だったジョージ・ハント・ウィリアムソンもいた。ちなみにこのウィリアム・ダドリー・ペリーはインディアナ州ノーブルズビル出身で、神秘主義的団体「シルバー軍団 Silver Legion」を運営していた人物である。もともとはシナリオライターとしてハリウッドで脚本16本を手がけていた。彼は乱暴な物言いで知られた過激派で、あらゆるものを憎悪し――例えば黒人、ユダヤ人、共産主義者、ルーズベルト大統領といったものだ――唯一彼が英雄と仰いだのはアドルフ・ヒトラーであった。「シルバー軍団」の支部はほとんど全州に置かれ、「シルバー・シャツ」と呼ばれたそのメンバーに銀色のナチス風の制服を着るよう奨励していた。「シルバー軍団」は多くの雑誌も刊行しており、1940年の始めまでにはFBIの注意を引くまでになっていた。真珠湾攻撃についての公式見解に公然と疑問を呈するようになったことで、彼は叛逆煽動罪に問われ、15年の刑を宣告されたが、1950年になって早期仮釈放された。

ウィリアムソン夫妻はそれまでウィジャ盤を使って空飛ぶ円盤の乗員との接触を試みていたのだが、この当時、アダムスキー教授がスペース・ブラザーズとコミュニケーションを取っている録音テープを聴いた。これにいたく感銘を受けた二人はグループに参加することになった。さらに彼らは1952年11月20日、アダムスキー、ルーシー・マクギニス、そして円盤愛好者であるアルフレッドとベティのベイリー夫妻とともにカリフォルニア砂漠をドライブ中、車の上を飛ぶ巨大な葉巻型物体を目撃するに至った。彼らはこれを機にグループの中心的なメンバーとなる。アダムスキーは同乗者たちに「これはスペース・ブラザーズの飛行船の一つだ」と言い、「自分をここに下ろしていってくれ」と頼んだ。

一時間後、教授は驚くべき体験を携えて戻ってきた。望遠鏡とカメラを手にして砂漠の中に一人いたアダムスキーは、先ほどのより小さく、美しい乗り物が半マイルほど離れたところに着陸するのを見た。その乗り物から出てきたのは「この世界の者とは思われぬ人間」で、身長は約5フィート6インチほど。見たところ20代後半で、長い金髪、高い頬骨。額は広かった。彼は上下がつながった茶色の服と赤い靴を身につけ、非の打ち所のない笑顔を浮かべていた。かわされた言葉はわずかだったが、そのほとんどはテレパシーとボディランゲージによるものであった。

北欧系の外見をした宇宙人はオーソンという名だった。彼は、母星である金星からカリフォルニアにやってきたのだが、それは彼の種族が人類に対して抱いている関心のため――とりわけ原子爆弾の使用に対する憂慮を伝えるためだった。オーソンは、アダムスキーに彼らのメッセージを広める手助けをしてくれるよう頼み、会合が終わると、オーソンは乗り物に乗って飛び去った。残されたのは一つの靴の跡だけだったが、アダムスキーとその仲間たちはその足跡を石膏で保存することができた。その石膏には奇妙な印が見て取れたが、その中には星や鉤十字などもあった。


アダムスキーは約束を守り、間髪入れずその驚くべき出会いについて語り始めた。1953年、彼の話は(このたびもクララ・L・ジョンによる代筆ではあったのだが)『空飛ぶ円盤は着陸した』(訳注:邦訳題『空飛ぶ円盤実見記』)というベストセラー本に収録された。そこには、アイルランド貴族のデズモンド・レスリーの手になる古代の空飛ぶ円盤に関するエッセイも含まれていた。アダムスキーは世界中を旅してスペース・ブラザーズとの出会いについて語ったが、最初の接触の後も彼らとのコンタクトは続いた。教授との面談を希望した人の中にはオランダのユリアナ女王や、伝えられるところによればローマ教皇ヨハネ23世もいたという。その間も、スペース・ブラザーズたちは時折カフェに立ち寄り、彼らの新しい地球の友人と情報を交換し、彼を宇宙空間への旅に連れて行ったが、これについては、彼は1955年に出した『宇宙船の中で』(訳注:邦訳題『空飛ぶ円盤同乗記』)という別の本の中で記述している。

のちに行われた調査は、このポーランド人教授に対して好意的なものではなかった。彼の象徴ともなったUFO写真は、鶏の餌箱や1952年初めに出回った技術論文に描かれていた空飛ぶ円盤のデザインに不思議なほど似ていた。その日砂漠で実際に何が起こったのか、アダムスキー以外に知る者はいない(おそらくオーソンを除いては)。しかし、彼の遭遇があったタイミングはこれ以上ないほど絶妙なものであった。それはワシントンDCでの目撃フラップからわずか数ヶ月後、CIAと米空軍が円盤の問題を沈静化させる方法を議論している最中であったのだ。

アダムスキーの物語は、空飛ぶ円盤の問題に対して人々が渇望していた答えを差し出した。その乗員は悪意のあるロシア人ではなく、平和を愛する金星人だったのだ。急成長していた科学志向のUFOコミュニティ(その代表格がレオン・デビッドソンだ)は彼の話を嘲笑したが、よりスピリチュアルな志向を持つ者や一般大衆はそれを受け入れた。アダムスキーの名声が広がるにつれて、別の「コンタクティー」たちが数多く現れた。彼らはこもごもに慈悲深いスペース・ブラザーズだとか外宇宙への楽しい旅行といった似たような物語を語った。

こうしたコンタクティーたちは、UFO愛好者を集めて最初の大規模集会を開催したが、その規模はこのラフリン・コンベンションを恥じ入らせるほどのものであった。この種のコンベンションの一例としては、コンタクティーにして航空機会社のダグラスでエンジニアをしていたジョージ・ヴァン・タッセルが組織し、モハヴェ砂漠のジャイアント・ロックで長年開催されたものがあるが、そうしたところには、数千人ものUFO信者が、お気に入りの話題に関する最新のニュースや理論をわかちあうため集まってきた。コンタクティーたちのビッグウエーブは、UFO現象に対して大衆や政府が示す態度に変化を生み出した。それはレオン・デビッドソンやキーホーの真剣なアプローチとは全く対照的なUFO愛好者のイメージを作り出したのである。テクノロジーの問題として謎を解明しようとする真剣な科学者の姿は消え去り、その場所は変人、霊媒師、狂人たちが占めることになった。

アダムスキーや他のコンタクティーたちは(政府の)情報ゲームに巻き込まれていたのではないかという憶測は1950年代からあった。レオン・デビッドソンはアダムスキーが彼の遭遇を公にした直後に彼と連絡を取り、数年間にわたって彼と何度か手紙を交わした。デビッドソンがオーソンや他のスペース・ブラザーズについて何か奇妙な点があるかどうか尋ねたところ、アダムスキーはこう答えた。「彼は間違いなく人間です……髪を切ってビジネススーツを着ていれば、どこでも誰とでも怪しまれることなく一緒にいることができるでしょう」

当然デビッドソンは、アダムスキーの遭遇の背後にアレン・ダレスの仕掛けがあることを感じ取った。彼の外宇宙への「旅」の模様は著書『宇宙船の中で Inside the Spaceships』(邦訳題『空飛ぶ円盤同乗記』に記されているが、それは常にスペース・ブラザーズが彼を黒いポンティアックで拾い、砂漠へと連れていくところから始まった。そこでアダムスキーは、着陸した「偵察船」に乗り込んで椅子に座り、対になったスクリーンに星が流れていくのを見た(乗り物の窓は常に閉まっていた)。だが彼は、飛行中には「全く動きを感じなかった」と言っている。こうした旅の最中、スクリーンには「金星のニュース映画」が映し出され、スペース・ブラザーズは様々なトピックについて講義を行ったが、その間、アダムスキーには奇妙な色の飲み物が与えられた。疑い深いデビッドソンはこう指摘している――1955年、ディズニーランドに「ロケット・トゥ・ザ・ムーン」という乗り物が作られたが、それはバックプロジェクションを使用して宇宙を飛行している感覚を再現していた。アダムスキーの宇宙旅行は、同様のハリウッドの特殊効果を使って捏造されたものなのか? そして、スペース・ブラザーズが提供した機内飲料には何が入っていたのだろう?

アダムスキーの冒険の背後に誰がいたにせよ、「シルバー・シャツ」のジョージ・ハント・ウィリアムソンが彼のサークルに関与していたことは、「ロイヤル・オーダー・オブ・チベット」は禁酒法時代に密造酒を製造するための隠れ蓑だったという根強いウワサも相俟って、FBIの注意を引きつけるには十分であった。そして、アダムスキー自身もその活動の初期からFBIの注目を集めていた。1950年9月のFBI報告書には、鮮明な描写がある。教授はFBIのエージェントにこう語っている。「お聞きになりたいのなら話しますが、彼らの政府はおそらく共産主義者のそれです……それはより進歩した未来の政体なのですよ」。彼はこうも予言した。「ロシアは世界を支配し、それから1000年間に及ぶ平和の時代が訪れるでしょう」。彼はまた、ロシアはすでに原子爆弾を持っていることを指摘し、次のように述べた。

    今後12ヶ月以内にサンディエゴは爆撃されるでしょう……今日のアメリカ合衆国は、崩壊前のローマ帝国と同じ状態にあり、ローマ帝国が倒れたように崩壊するでしょう。この国の政府は腐敗した政府であって、資本家は貧者を奴隷化しているのですよ。

すべてのコンタクティーが共産主義者であったわけではない。例えば、カール・ユングのお気に入りで、ジョージ・ヴァン・タッセルと同様に航空宇宙産業で働いていたオルフェオ・アンジェルッチは、明らかにアメリカの側に立っていた。「共産主義は、目下のところ地球にとって根本的な敵であり、その旗の下に悪の統一勢力の穂先を隠している……[それは]必要悪であり、毒のある生物、飢饉、疫病、天変地異のように地球上に存在している。これらすべては人間の内にある善のネガティブな力なのであって、そうしたものを発動せしめる」

FBIがコンタクティーたちを監視していたことは明白であるが、彼らの中に、アメリカ政府や、事によればソビエト政府の働きかけを受けたり操られたりした者がいたかどうかは不明である。レオン・デビッドソンは、CIAはアダムスキーや彼の仲間に「関わっていた」と確信しており、大きく言えば平和主義的で反原爆に立つ彼らのメッセージは、国際的な平和運動が成長する上での重要な要素であったと見なしていた。この平和運動は、1958年にアメリカ、イギリス、ソビエト連邦の間で短期間の核実験禁止が合意されることで頂点に達した。これらはすべてアレン・ダレスのマスタープランの一部だったのだろうか?

彼らがCIAの操り人形であったかどうかにかかわらず、アダムスキーと他のコンタクティーたちは、ロバートソン・パネル報告書のいくつかの重要な勧告を実行に移した。彼らの行動により、UFOの問題が再び真剣に受け取られるまでには長い時間が流れることとなった。また、彼らの大会はUFO信者たちを一箇所に集めることになり、情報機関が彼らを監視することを非常に容易にした。この伝統は今日まで続いている。

■ブラジル版モーリー島事件

アダムスキーと彼の仲間のコンタクティーにとって、宇宙人との遭遇は非常に深い経験であり、彼らの乗り物に乗ることは他に類を見ないスリルであった。スペース・ブラザーズは、その高度な知性と技術にふさわしい慈愛と知恵を放ち、その知恵は人間の乗客に「これを他の人と分け合おう」というインスピレーションを与えた。しかし、もし出会うのが宇宙から来た説教師ではなく、人を誘拐し、薬を盛り、レイプし、興奮した犬のようにうなり声や吠え声をあげるエイリアンの悪魔であったらどうであろうか?これはまさに1957年に若いブラジル人農夫、アントニオ・ビラス・ボアスの身に起こったことである。

ビラス・ボアスの物語には、興味深い前触れがある。それはその年の9月にリオデジャネイロで起こった。リオの「オ・グローボ」紙の人気コラムニストであるイブラヒム・スエッドは、読者の一人から飛行円盤の破片が送られてきたと記事に記した。普段はセレブのゴシップを扱うことが多いこのコラムで、スエッドはこれまでUFOに興味を示したことはなかったのだが、彼はそこで読者からの手紙の一部を再掲した。

    あなたのコラムの愛読者、そしてあなたを尊敬する者として、新聞記者であれば一番関心があるであろうもの――そう、空飛ぶ円盤にかかわるものをお送りしたいと思います……数日前のこと……私はサンパウロのウバトゥバの町に近い場所で、友人たちと一緒に釣りをしていたのですが、そのとき空飛ぶ円盤を目撃しました。その円盤は信じられない速度でビーチに接近し、海面に衝突しそうになったのです。最後の瞬間、ほとんど水面に衝突しようというところで、それは上方に向かって鋭いターンをし、驚くべき勢いで急上昇しました。私たちはその光景に驚いて目を奪われましたが、その時、円盤が炎に包まれて爆発するのを見たのです。円盤はバラバラになって数千の燃える破片になり、輝く光を放ちながら落下しましたが、辺りはすごく明るくなりました……これらの破片のほとんどは海に落ちましたが、一部の小さな破片がビーチの近くに落ち、私たちはこの軽い紙のような素材を大量に拾い集めました。その一部を同封します。

このコラムはオラヴォ・フォンテス博士の目にとまった。彼は若くして尊敬を集めていた医師で、ブラジル消化器栄養学会の副会長を務めたのち、1968年にガンで亡くなった。まだ30代であった。フォンテスは、1954年末にブラジルで起きたドラマティックなUFO報告に魅了され、自ら個々の事件の調査を始めたのち、1957年初めにアメリカのUFO組織APROに加入した(ちなみにこれはロバートソン・パネルが観察することを推奨していた団体である)。

ウバトゥバでの墜落事件についての報告を読んだ後、フォンテスは直ちにスエッドに連絡し、その軽量の金属素材をブラジル農業省の国立鉱物生産局で分析する手配をした。また、そのサンプルは米国大使館を経由してアメリカ空軍にも送られた。その試料はマグネシウムと判明したが、その中には普通はありえないほど純度の高いものもあった。このほか奇妙な成分が含まれているものもあったが、これらは事後的に添加することも容易だったと考えられる。

この調査結果は全国ニュースとなり、フォンテスをブラジルを代表するUFO研究家として押し上げたのだが、それは彼自身が奇妙な近接遭遇をする上での布石ともなった。1958年2月、フォンテスは「ウバトゥバの素材について話をしたい」というブラジル海軍省の情報将校2人の訪問を受けた。彼らは、フォンテスに「関係のないことに首を突っ込むな」と警告した後、UFOの秘密について知っていることをすべて話した。彼らが言うには、世界の諸政府は地球に来ている地球外生命体の存在を認識しており、それを隠すためにあらゆる努力をしているという。これまでに直径30フィートから100フィートの空飛ぶ円盤6機が墜落しており、そのうち3つはアメリカ(2つは良好な状態で)、1つはイギリス、1つはサハラ砂漠、1つはスカンジナビアで墜落した。そのすべてに小柄なヒューマノイド型の乗員が搭乗しており、いずれも生存者はいなかった。科学者たちは現在、これらの円盤のリバースエンジニアリングを試みているが成功していない。が、その動力は、回転する強力な電磁場と原子の構成要素によって生じるものと思われる。UFOの乗員の側は人類との接触に興味を示しておらず、追跡する飛行機を何機か破壊していることもあって、極めて敵対的であると考えられている。このUFOの問題は最高機密とされており、ブラジル大統領でさえもその詳細を知らされていない。事が重大であるだけに一部の目撃者や研究者は情報漏洩を防ぐために暗殺された――彼らはそう警告した。

フォンテスはこの訪問に戸惑いながらもひるむことはなかった。彼はここで、我々であっても当然問うであろう質問をしたかもしれない。もしUFOの問題が大統領にさえも知らされないほどの秘密であったなら、なぜ海軍将校の暴露譚がこれほど多く一般の書籍や雑誌に掲載されてきたのか? そして、なぜ彼らはフォンテスにそんな話をしたのか?――実際のところフォンテスは、その情報を直ちにAPROのディレクターであるコーラルとジム・ロレンゼンに伝えたのだったし、二人はそこで似たようなウワサは他の情報源からも来ていたことを確認しているのだから。これは誰かがフォンテスとAPROにこうした話を信じてもらい、広めて欲しかったということなのだろうか?――あたかもサイラス・ニュートンが、1950年に墜落円盤の話を広めるよう何者かに促されたように。

■誘拐の元祖

オラヴォ・フォンテス博士が謎の「黒服の男たち」(os hometis de preto)の訪問を受けたタイミングは、「不吉」というのとは違うにしても不思議なタイミングであった。というのも、その数日前、博士は若い農夫から「宇宙から来た誘拐者たち」に関する奇妙で恐ろしい話を聞いたばかりだったからである。

彼らがアントニオ・ビラス・ボアスを連れ去ったのは、1957年10月16日。スプートニクが地球を周回する最初の人工物となってからわずか2週間も経たない時期であった。場所は、ブラジル南東部ミナス・ジェライス州のリオ・グランデ川沿いにあるサンフランシスコ・デ・サレス近く。23歳のビラス・ボアスは一家の農地を耕していた。彼は太陽の日射しを避けるために一人で夜中に働いていたのだが、それだけに彼は不安だった。

その2日前、ビラス・ボアスと彼の兄ジョアンは同じ畑を耕していたが、輝く赤い光に驚かされた。その光は目を刺すようで、時折「夕日のように」眩しい光を放っていた。彼らがその光に近づこうとすると、光は素早く逃げて行き、突如として消え去った。

10月16日午前1時、その赤い光がまたやってきて、「トラクターと周囲の地面を昼間のように照らした」。その直後、物体はリオ・グランデ川の土手から約150フィートの距離に着陸した。その瞬間、トラクターのガソリンエンジンが止まり、ライトが消えた。

「それは奇妙な機械だった」とビラス・ボアスはフォンテスに語った。「形はやや丸く、周囲には小さな紫色のライトが点灯しており、前部には巨大な赤いヘッドライトがあった…それは大きな、細長い卵のような形をしていた…機械の上部には高速で回転しているものがあり、蛍光を思わせる強力な赤い光を放っていた」。翌日、ビラス・ボアスは機体の残した三脚の跡を測定し、その長さを約35フィート、最も幅の広い部分を約23フィートと推定した。

飛行物体が着陸した時、ビラス・ボアスは逃げようとしたが、「奇妙な服装」をした、背の低くて力の強い人物に荒々しく捕まえられた。続いて3人の背の高い存在が現れ、彼を金属製のハシゴに押し上げ、跳ね上げ式ドアになっているハッチを通して中に押し込んだ。ビラス・ボアスはこうした存在の服装について詳細な説明をしてみせた。彼らは黒いストライプの飾りがついた灰色のオーバーオールを着ており、頭には布製と思しきヘルメットがあった。ヘルメットは薄い金属片で補強されていたが、鼻の部分には三角形の金属片があり、2つのレンズが付いた目の穴の中間に配置されていた。ヘルメットの頂部は通常の人間の頭の高さのほぼ2倍にまで延びており、額は広いように見えた(この詳細はアダムスキーのオーソンと共通している)。ヘルメットからは細い銀色のチューブが出てオーバーオールの背中に接続されていた。誘拐者たちはそれぞれ、硬い感じがする五つ指の手袋、厚底のゴム製のブーツ、そして胸にはパイナップルの輪切りほどの大きさで、丸くて赤い反射板を一つ装備していた。

まるでバック・ロジャースの連続ドラマや『地球が静止する日』にも似た安っぽい話のようでもある。乗り物の内部も1950年代に想像された未来像を反映したもののように思える。部屋は丸くて、白く、明るく、特徴がない。家具といえばあるのは金属製のテーブルと回転するスツールだけで、すべて床に固定されていた。天井には四角い蛍光灯があり、リングのように全体をひとまわりしていた。

うなり声や鳴き声でコミュニケーションを取りながら、ヒューマノイドたちは捕らえたビラス・ボアスの服を脱がせ、湿ったスポンジで体を拭き、大きくて柔らかなベッドのある部屋に連れて行ったが、ベッドは灰色のシーツで覆われていた。血を集める「吸い玉」のような装置を顎の下に当てられた後、彼は放置された。部屋は壁の穴から入り込んできた灰色の煙で満たされ、それは吐き気を催させた。それから、背は低いが非常に美しくて全裸の女性がドアの戸口に現れた。彼女は人間だったが、顔立ちをみると随所が奇妙なほど尖っていた。髪はほとんど真っ白で、中央で分けられていたが、陰毛は鮮やかな赤色だった。彼女の目は大きくて青かった。その目は丸いというよりは細長く、切れ長のつり目だった。それは、少女たちがアラビアの王女風のファンタジックな化粧をした時の目を思わせた。

その女性はビラス・ボアスに体を擦りつけてきたので、彼は自制できないほど興奮してしまった。次から次へと事は運んだ。「それは通常の行為でした」とビラス・ボアスは語った。「彼女はどんな女性でもするようなことをした」。彼は、その興奮を誘拐者たちが彼の体に塗りたくった液体のせいにしたが、そんな状況下で催淫薬が必要であったかどうかは疑わしいだろう。行為が終わると、その女性は笑顔を見せ、自分の腹部と空とを指差した。それを見たビラス・ボアスは、彼女は自分たちのハイブリッドとなる子供を生むつもりなのだろうと思った。

ビラス・ボアスが服を着た後、彼は乗り物の外部を案内され、それから「別れる時間だ」と告げられた。事態に困惑し動揺していた彼は、その乗り物が大きなうなり声を上げつつ離陸するのを見守った。そのライトは様々な色に点滅していたが、最後には明るい赤色になった。回転している上部は、機体が地上からゆっくりと浮き上がっていくにつれて、ますます速く回り始めた。その三本の脚は機体の腹部に引っ込んでいった。それは100フィートほど上昇し、大きなブンブン音を立てた後、突然の衝撃とともに弾丸のように上空に飛び出した。若い農夫は強い衝撃を受けた。「彼らはやるべきことが十分に分かっていました」と彼はフォンテス博士に語り、同時に「彼らは人間だった。ただ別の惑星から来た人間でした」とも語った。

時間は午前5時30分になっていた。この出来事は約4時間にわたって続いていた。ビラス・ボアスはトラクターを動かそうとしたが、エンジンはまだかからなかった。エンジンのバッテリーの配線が外されていたのだ。ローテクではあるが、逃走防止としては効果的な手段だった。彼はよろめきながら家に戻ったが、彼の姉妹は、そのとき彼が黄色い液体を吐いたこと、アゴに黒っぽいあざがあったことを覚えている。続く数週間、彼は体の痛みや目の刺激、さまざまな体の不調に苦しんだ。

この事件の直後、彼は人気のある「オ・クルゼイロ」誌の編集者ジョアン・マルティンスに手紙を書いた。するとビラス・ボアスはリオデジャネイロに空路招かれることとなり、そこでインタビューを受けるとともに、フォンテス博士に検査されることになった。マルティンス自身はビラス・ボアスの話を雑誌に載せなかった。だが、その話は1962年にマイナーなブラジルのUFO雑誌に掲載され、1960年代半ばには英語圏のUFO雑誌に初めて紹介された。フォンテスはこの若い農夫の誠実さに感銘を受け、奇妙な話ではあるけれども、彼の証言を信じた。ちなみにビラス・ボアスは、マルティンスが「儲けることができるよ」と示唆したのにもかかわらず、新聞に話を売ることはなかった。

さて、実際には何が起こったのだろうか?アントニオ・ビラス・ボアスは本当に性的に飢えたエイリアンに誘拐されたのだろうか? あるいはすべては夢だったのか、あるいは幻覚だったのか――その夢や幻覚は、おそらく意識を失ったあとにアゴのアザを説明しようとして生み出されたものではないのか? そうであれば人間の正常な心理の範囲内におさまる可能性が高い。彼と兄はその月の初めに空に赤い光を見たことがあり、新聞にはUFO目撃の報告が載っていた。それらが彼を刺激してエイリアンのファンタジーを見せたのかもしれない。しかし、さらに別の可能性もある。それは「実際にエイリアンの誘拐があった」という考えと同じほど馬鹿げているのかもしれないが。

■洗脳マシン

ボスコ・ネデレコビッチは1999年にバージニア州フェアファックスで亡くなるまで、ラテンアメリカ諸国の未来の指導者を教育するインターアメリカン・ディフェンス・カレッジの通訳兼翻訳者であった。ユーゴスラビア出身のネデレコビッチは1978年、アメリカのUFO研究者リッチ・レイノルズにこんな告白をした――1950年代から1960年代にかけ、CIAはプロジェクト「オペレーション・ミラージュ」として世界各地でUFO事件を意図的に作り出していた、と。さらにネデレコビッチ自身も、1956年から1963年の間、米国際開発庁(AID)の名のもと、ラテンアメリカでCIAのために働いており、こうしたでっちあげ事件のいくつかに参加していた。そして、その一つがビラス・ボアスの誘拐事件だった――と。

ネデレコビッチの主張によれば、彼は1957年10月中旬、ヘリコプター・チームの一員として、ブラジルのミナス・ジェライス州で心理戦と幻覚剤のテストを行っていた。そのチームは、彼、他のCIA職員2人、医師、2人の海軍士官(1人はアメリカ人、1人はブラジル人)、さらに3人のクルーから構成されていた。ヘリコプターには様々な電子機器と、長さ約5フィート、幅約3フィートで金属製の「キュービクル」というものが搭載されていた。ネデレコビッチはそれが何のために使用されたのかは知らされなかったが、軍事の心理戦作戦に使用されるものだと聞かされていた。

最初にチームは、作戦基地のウベラバ(サンフランシスコ・デ・サレスの東約150マイル)周辺を飛行し、電子機器のテストを行った。数日後、彼らはリオ・グランデ沿いを飛行し、夜間掃討を行った。熱感知カメラを使用したところ、彼らは地上に一人の人影を確認した。ヘリコプターは約200フィートの高さまで降下し、エアロゾル状の鎮静剤を放出した。ヘリコプターが着陸すると、その男は逃げ出したが、3人のCIA工作員が彼を追いかけ、ヘリコプターに引きずり込んだ。その際、彼の顎がデッキにぶつかった。ネデレコビッチは、彼らが機内でその男性に何をしたかについては言及していないが、数時間後にまだ意識を失ったままの彼をトラクターの横に残して立ち去ったのだという。

では、この男性はアントニオ・ビラス・ボアスだったのだろうか?ネデレコビッチの証言の個々の要素は、ビラス・ボアスの話と一致している。例えば、その時間、場所、気象条件、そして被害者のアゴのアザといったものだ。同様に、ビラス・ボアスの話の多くの要素(例えば誘拐者の服装だ)を見ても、相手はエイリアンではなく人間だったように思える。彼らの飛行機も、彼自身の想像力だとか狡猾なSF風の意匠によって修正されてはいたが、実際にはヘリコプターだった可能性もある。機体の外部に取りつけられた白色を含む様々な色のライトはUFOっぽい雰囲気を醸し出していたかもしれないし、上部の「回転する」ドームはローターブレードだった可能性がある。ただしこれには反論もできるだろう。大型のヘリコプターは大きな騒音を発するものだし、「静音」ヘリコプターが実際に運用されるのはまだ数年先のことだった。人里離れた土地の夜間のこととはいえ、当時のブラジルの農村では珍しいヘリの音が聞こえれば誰かしら聞いていただろう。

このストーリーの他の部分にも、真実味はある。事件があった当時、CIAと米軍はブラジルやラテンアメリカ全域にしっかりと拠点を築き、地域の政治的動向を注視していた。ブラジルは特にセンシティブな国と見なされていた。その広大な面積、豊富な天然資源、そしてアメリカに近い位置といったものは、ソビエト拡張主義の対象として魅力的であった。事態は1964年にヤマ場を迎えた。CIAは、ジョアン・グラール大統領を追放し、次なる2年間権力を握る残虐な軍事政権を成立させるクーデターに参加したのである。

1957年になるとCIAはMK-ウルトラ計画にも深く関与するようになった。薬物、外科手術、テクノロジーを用いた精神および行動改変技術の研究である。彼らは多くの精神活性物質(幻覚剤、鎮静剤、興奮剤、精神異常発現薬といったものだ)の実験を行ったが、それはしばしば事情を全く知らされていない対象に対して行われた。CIAが自国の管轄地域外でテストを行った可能性はあるのか? 問うまでもない。この時期のCIAにとっては世界全体がその管轄内にあった。

ビラス・ボアスは、その体験中ならびに体験後に繰り返し吐き気を感じ、加えて不快な生理的影響も受けていたが、フォンテスはこれを放射線被曝に関連したものと考えた。ネデレコビッチが語った「キュービクル」は、放射線被曝の影響をひそかにテストするために使用されたのではないか? ヘリコプターのフライトの際にどんな服装をしていたのかについてネデレコビッチは語っていないが、ビラス・ボアスが証言した誘拐者たちの服装・ヘルメットは、放射線防護具だったとも考えられる。

こうした考究をさらに一歩進めると、催眠や幻覚剤の影響下で、人に実際には体験していないことを「体験した」と信じさせることは可能なのかという問いが浮かび上がる。その答えは明らかに「イエス」である。そのことを言うのに多言は要しない。2001年、ワシントン大学の心理学者たちは、子供のころにディズニーランドに行ったことのある人々に、園内にバグズバニーのいるニセの広告を見せた。その際、被験者のいる部屋に段ボールから切り抜かれた巨大なバグズが置かれたケースもあった。後に質問されたとき、広告を見たグループの3分の1はディズニーランドでバグズ・バニーに会ったことを覚えていた。また、切り抜きが置かれた部屋で広告を見たグループの40%も同様だった。被験者たちは催眠術にかけられたわけでも薬物を摂取したわけでもなかったのに、である。そもそもディズニーランドでデカい声で話すウサギに会うことはありえなかった――ワーナー・ブラザースとウォルト・ディズニーの弁護士がそれを許すことは決してありえないのだから。

偽の記憶を作り出すのは比較的簡単であるが、UFOの遭遇に関していえば、これは「諸刃の剣」となる。UFO事件やエイリアンによる誘拐について単に文章を読んだりしただけでも、それが睡眠麻痺や解離状態といった、珍しいとは言えないけれども普通とも言えない経験と結びついたら、「自分は何かしら現実の遭遇体験をしたのではないか」と疑う人がいるかもしれない。ヴィラス・ボアスに起こったのはこういうことだったのかもしれない。彼の体験は、現実には根拠のない鮮やかな幻想だった可能性がある。しかし、エリザベス・ロフタスの研究とネデルコビッチの証言を組み合わせると、また別の絵図が浮かび上がってくる。

ハンガリーの作家ラヨシュ・ラフは1959年、『洗脳マシン』という著書の中で、1953年に共産党に誘拐され、収容所の「マジック・ルーム」に連れて行かれた経験を描いた。そこには、薬物を投与された被験者を心理的に不安定にするため、ありとあらゆる仕掛けが施されていた。壁は丸く、家具は床に固定されていた。奇妙でサイケデリックな照明が用いられており、回転する色つきのジェルやレーザー光線のようなものもあった。さらにスクリーンには性的・暴力的な写真や映像が映し出された。ある時、ラフは性交している女性の映像を見せられたが、相手の男性の顔にはぼかしが入っていた。そのあと目が覚めると隣にはその女性が横たわっていて、フィルムの中の映像が実際に起こったことであるかのように話した、それから彼女はラフと性交した。「マジック・ルーム」では現実と幻想が曖昧にされた。その目的は犠牲者を心理的に「破壊」することだった。

ラフはアメリカに逃れ、議会で「洗脳」の実態について証言した。しかし、話はそれほど単純ではない。ラフは確かにハンガリーで拘束されている間、恐ろしい心理的拷問を受けたが、アメリカに政治亡命者として逃れてきた彼は、議会や大衆のためにその体験を誇張するよう促されていた可能性がある。彼の恐怖に満ちてセンセーショナルな著書『洗脳マシン』はその一環であったろうし、CIAの工作員によって書かれたものである可能性がある。それは冷戦期にはよくあるプロパガンダの手法であった。

しかし、ラフの「マジック・ルーム」が虚構であったとしても、MKウルトラは虚構ではなかった。CIAがアメリカのパルプSFや1947年以来発展してきたUFO神話に触発されて、心理操作を行った可能性はあるのか? 我々としてはこう言わざるを得まい。「おそらくはイエスだ」と。08←09→10






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さて、これまで割り箸を活用してハトよけテグスを張る作業を続けてきたところであるが、やはり割り箸を支柱にするのは耐久性からいってちょっとツラいのではないか。じゃあ支柱には細長い金属板を使ってみましょうかということで、前回までに一部試験導入をしたところであるが、今回改めて割り箸を全廃、金属板に全とっかえをすることにした。短い割り箸文明の時代は終焉し、ここに金属器文明が到来したのである!

今回使ったのは「KONTEC キレイ曲る板 500」という商品で、要するに長さ50センチほどの細長いステンレス板である。これは折り曲げが可能なので、クニャクニャした手すりに極力フィットするよう人力で押し曲げ、これをScotch強力両面テープ、それから今回購入したゴリラ強力補修テープ、さらには結束バンドなどを適宜用いて手すりにムリヤリ結びつけることにしたのである。






ちなみにこのステンレス板には穴がたくさん開いているので、テグスはこの穴に結びつければヨロシイ。釣り糸を結ぶのに用いられるというクリンチノットとかいう方法を試してみたが、なんかよく締まってるのかわからんので結び目にはエポキシ系接着剤をチョンチョンとつけておいた。
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最終的にテグスを張り回してピンと張ったあとの終端部も、釣り人にならってキッチリ結ぶのが良いのだろうが、最後めんどうくさくなってしまい、ゴリラの補修テープでその辺に貼りつけてオワリにした箇所もある。手抜きである。


さて、今回の作戦には若干の懸念もある。

写真でもお分かりだろうが、このステンレス板にはテグスによってかなりのテンションがかかっているので、若干たわんでいる。たわんでいって変形するとテグスが緩んでしまう。そういうことになると定期的に手入れをしなければならないのだ。しかし、ワレワレ市井の人間はありあわせの手段や道具でなんとかその場をしのいでいくしかないのである。レヴィ=ストロース言うところのブリコラージュ。頑張れオレ。

まぁそんなことはともかく、今回のテグス・プラスアルファの作戦として、こないだダイソーに行って「びっくりスネーク」というヘビのおもちゃも買ってきた(しかも4つw。適宜ローテさせればバカなハトも騙されるのではないかというアイデア)。これも適宜その辺に転がしたりしているので相乗効果が期待できよう。

*蛇足ついでに言っておくが、ググってみるとこの「びっくりスネーク」というのはハト害対策にずいぶんと活用されているらしい。ひょっとしたら誰かをビックリさすとゆー本来の役割よりもコッチのほうがメインになっているのではあるまいか。ともかく、病原菌をばらまく害鳥を敢えて保護し、ハトを殺傷したら人間に刑罰を課すという日本のキチガイ行政のせいで皆さんずいぶんお困りなのであろう。ご健闘を祈ります!


ということで今回のテグス作戦はコレでとりあえずオシマイ。また何か問題がでてきたら後日談でも書いてみよう。(おわり)

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 ベランダ正面の手すり部分は、布団干しに使われることも想定してバネをつけて取り外せるようにした。ちなみにこのバネは、「ミツギロン」という会社が出しているハトよけテグスセットに入っていたヤツ(メルカリで安く出てたのでダメモトで「テグスコーナーバー」というのを買ったのである。手すりにはうまくつかなくてガッカリしたがバネは活用させていただいた

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壁面にはテグス折り返し用に割り箸片を貼っていたのだが、これも今回はずし、ダイソーで売ってた木片を切り出して代わりに壁に貼りつけてみた

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■CIA + ECM = UFOs

戦間期に生まれたレオン・デビッドソンは少年時代、科学分野でちょっとした天才の名をほしいままにしていた。彼は13歳の頃には早くも「僕は化学技術者なのだ」と宣言し、数年後にはコロンビア大学工学部の博士課程に進んでマンハッタン計画に携わることになった。彼は最終的にロスアラモス研究所の監督技師となり、核産業のためのコンピュータシステムに長年取り組んだ。その後の彼は、プッシュホンの技術にも早い時期から関心を示していた。

アイゼンハワーならば「軍産複合体」と呼ぶであろう世界で働く多くの科学者と同様、デビッドソンもUFO問題に魅了されるようになった。1949年にロスアラモスで働き始めて間もなく、彼は研究所内の空飛ぶ円盤グループ「天体物理協会」に参加したが、そのグループはニューメキシコ周辺で起きていた奇妙な緑色の火の玉の目撃ウエーブを調査していた。デビッドソンは、こうした火の玉は大気上層で秘密裏に行われているロケット研究に伴うものだと確信していた。この件について当局が説明することはなかったが、彼はほとんどのUFO事件の背後には軍事的な秘密実験があると徐々に信じるようになっていった。首都上空へのUFOによる領空侵犯を報じたワシントンポスト紙の一面記事で、デビッドソンは「空飛ぶ円盤に特別な関心を持つ科学者」として紹介されている。

    空飛ぶ円盤に関してきわめて詳細かつ科学的な研究をしているデビッドソン氏は、こう語った。「UFOというのは、おそらくは『円形の飛行翼』をもつアメリカの『航空製品』であって、それは急加速と比較的低速度での飛行を両立させる新型ジェットエンジンを用いている」。彼の考えによれば、UFOは「新型の戦闘機」か、さもなくば誘導ミサイルないしは有人誘導ミサイルであるという。彼は、革新的な「コウモリ型の翼」をもつ海軍の新型機F-4Dなど最近のジェット戦闘機に触れ、UFOのみかけはこうしたものに似ているのかもしれない、とした。 

こうして最初は疑念から始まったものが、1959年までには確信に変わっていった。この時の彼は、ワシントンに出没したUFOは巧妙に仕組まれた高度な電子対抗手段(ECM)技術のテストに起因するものだったことを示唆している。彼はUFO研究家向けのニュースレター「Saucer News」(1959年2-3月号)に「ECM + CIA = UFO」というイカしたタイトルのエッセイを発表し、1950年までにアメリカ空軍が利用できるようになっていた基本的なECM技術について説明している。

    我々の爆撃機に搭載された「ブラックボックス」は、敵のレーダー信号を受信し、それを増幅し修正して送り返す。要するに爆撃機からの通常のレーダー反射をかき消すようにして戻すのである。その際には時間をずらしたり位相が変えられることもあるし、レーダースクリーン上の「ブリップ」が示す距離、速度、方向が誤ったものになってしまうこともある。 

最も原始的なECMは「ウィンドウ」またはチャフなどと呼ばれていたが、実際には全く電子的なものではなかった。それは1943年7月、ハンブルクに対する破壊的な空襲のさなか、イギリス軍によって初めて用いられたが、実際には乗組員がアルミニウム片を束ねたものを飛行機から投げ落とすというものだった。ドイツが用いていたヴュルツブルク・レーダーの波長は53~54センチだったが、その半分の長さにカットされた金属片の雲は、偽のエコーを発生させることで敵のレーダーを使いものにならなくした。戦争が進むにつれて、軍用機には特定の波長・周波数のレーダー波やラジオをジャミングする、より複雑な電子システムが装備されるようになった。

これらはすべて混乱を引き起こすためのものであったが、デビッドソンが語っていたのはもう少し洗練されたもの――そう、「欺瞞」であった。彼は、こうした新たな手法が用いられた最初の事例は、南太平洋の南西諸島で戦時中に起きた出来事であったとしている。それは1945年4月。第二次大戦の最終局面で、沖縄侵攻の準備をしていた連合国軍が神経をすり減らしていた時期であった。この地域のすべての船舶は日本の特攻隊の標的にされることを恐れていたから、レーダー画面にブリップが現れると、それがどんなものであれ全乗員はデッキに飛び出して応戦する態勢に入った。しかし、時として、レーダーブリップは現れたけれども、それに該当すべき航空機が見当たらないという事態が起きた。この幽霊のようなレーダー反射、いわゆる「駆けていくゴースト」は、南西諸島に集結した艦船のレーダースクリーンに繰り返し現れた。これらのゴーストの少なくとも一部は、鳥の群れによって引き起こされたものだった。ペリカンが――ちなみにペリカンは後にケネス・アーノルドの円盤目撃事件の下手人ともされた――単独の航空機と誤認されることもあった。海軍の科学者は、多くの強力な海軍レーダーが近接して運用されていることがゴーストを引き起こした可能性があると推察し、そこから「意図的にレーダーファントムを作り出せればそれは敵を欺くための非常に有用なツールになる」ということに気づいた。


1957年3月の「アヴィエーション・リサーチ・アンド・ディヴェラップメント」誌の記事は、このゴースト技術が如何にして改良され、民生部門に導入されてきたかを論じている。

    標準的なレーダー表示装置上に最大6つのターゲットを生成できる新たなレーダー移動ターゲットシミュレーターシステムが開発された……その目的はレーダーオペレーターの訓練や、飛行中の空中早期警戒担当者のテストのためで……ターゲットの位置、経路、速度は……リアルな飛行経路をシミュレートできる……最大10,000ノット(約11,500マイル/時)の速度を示すものが容易に生成される……ターゲットは左または右に回転させることができる……各ターゲットについて……それぞれスコープ上にリアルな姿を現出させる調整機能がある。 

デビッドソンは、このように描写されたものが1952年7月にワシントンでレーダー上に現れたものと非常に似通っていることに気づいた。そして彼は、誰がそれを操作していたのかを「知っていた」。

    1951年以来、CIAは自らの目的のために空飛ぶ円盤の目撃を引き起こしたり後押ししたりしてきた。巧妙な心理的操作によって、一連の「ありきたり」な出来事が、地球外からUFOが来ていることの非常に説得力ある証拠として提供されてきた……(そうした企みの中には)当事者となったレーダー担当者が知らされぬまま内密にEMCが軍事利用されたケースもある。 

デビッドソンは正しかったのだろうか? それがCIAであったかどうかはわからないが、誰かがこうした技術を使ってパイロットやレーダーオペレーターをテストしていた可能性はあるように思われる。1957年に英国で発生した事件は、レーダーを用いた欺瞞の典型的なケースと思われる(その出来事によって一人のアメリカ人パイロットは恐怖に突き落とされた)。彼、すなわち25歳のミルトン・トーレス中尉は当時、ヨーロッパのアメリカ戦略航空軍団の前哨基地でもあったケント州のマンストン基地に駐留していた。5月20日、彼は約15マイルほど先にレーダーで捉えられたB-52爆撃機ほどのサイズの大型機を追跡するため(ちなみに同機の長さは約160フィート・幅は180フィートである)、F-86Dセイバージェットでスクランブル発進するよう命じられた。トーレスは、攻撃準備をして射撃する命令を受けたが、戦時中でもなければケント州の片田舎でパイロットがそんな命令を受けるなどというのはおよそ考えられないことであった。そこへ――これは彼が恐れていたことであったが――「その飛行機は敵であっておそらくロシアのものだ」という連絡が入った。

トーレスと、もう一機のセイバー機に乗った僚友は3万2000フィートまで常勝し、マッハ0.92(時速約700マイル)で巨大な物体に向かって突進した。トーレスによれば、その物体は空母ほどのサイズでありながら、彼のレーダースクリーン上では昆虫のように動き回っていた。彼は侵入者に向けて24発のロケット全弾を発射する準備をしていたが、彼ももう一人のパイロットもターゲットを目視することはできなかった。それは目に見えない飛行機だったのだろうか? 突然レーダー信号が消え、セイバーは基地に呼び戻された。

翌日、トーレスはトレンチコートを着たアメリカ人の訪問を受けた。彼はアメリカ国家安全保障局(NSA)から来たと言った。謎の男は、もし再び飛行機に乗りたいのなら口を閉ざしておくようにと警告した。そしてトーレスは30年間沈黙を守った。トーレスの話は、デビッドソンが記述したレーダー欺瞞の典型的な事例のように思われる(UFOの歴史の中には同様の話が数多くある)。謎のアメリカ人が本当にNSAから来たのかどうかはわからないが、NSAもCIAもこの技術に関心を持つに足る十分な理由はあった。そして両者とも、第三者に接触する際に他の機関のメンバーだと身分を偽ることを常套手段にしていた。

CIAとNSAは共同作業に取り組んでもいた。1960年代初頭までに、彼らは「パラディウム」と呼ばれるプロジェクトを開始していた。それは、ソビエトの航空機、船舶、潜水艦、地上レーダー、ミサイル基地をターゲットとして、電気(ELINT)・通信(COMINT)・信号(SIGINT)のかたちで情報をアメリカに取り込もうというものだった。冷戦の初期には、こうした情報は「カラス」と呼ばれるパイロットによる危険な「フェレット」ミッションを通じて収集された。「カラス」たちはソ連の領空の外縁を探り、防空システムを起動させることでできるだけ多くのデータを地上レーダーや通信システムから収集しようとした。

パラディウムは、より安全にデータを収集できる画期的な技術を生み出した。この技術によってCIAは幽霊飛行機をソビエトのレーダーに浮かび上がらせることが可能になり、NSAはその間、こうした幻影がどのように探知され、追跡され、報告されるかを監視した。こうした幽霊飛行機はどんな形やサイズのものでも作り出すことができたし、どんな速度や高度でも飛行させることができた。

電気シグナルの専門家で元CIAのユージーン・ポティートは、キューバ危機の際に敢行された手の込んだ作戦について語っているが、そこではパラディウムのシステムと、潜水艦からパラシュートをつけた金属球を発射し、キューバのレーダーを混乱させる作戦が平行して用いられた。ポティートのCIAチームは、レーダー上の幻影をキューバの空域に「飛行」させ、その「侵入者」に向けて戦闘機を緊急発進させるよう仕向けた。CIAはパラディウムシステムを用いて幽霊航空機をキューバの戦闘機の前方に出現させ、ちょうど良いタイミングが来るのを待ち受けた。キューバのパイロットがゴースト機を撃墜しようとしているのを探知した瞬間、NSAのチームは「全員が同じ考えを抱いた。エンジニアはスイッチに指を伸ばした。私が『よろしい』とうなづくのを見て、彼はパラディウムシステムをオフにした」 

エドワード・ランズデールのアスワン(先述した「フィリピンの神話に登場する吸血鬼」のことだ)は、今や航空機となった。軍が関わり、UFOがレーダーで捕捉された初期の事件の中には意図的に偽装されたものがある。その目的は、レーダーオペレーターやパイロットがこうした異常にどのように反応するかをテストし、心理戦のシナリオにおいてこうした技術がどれだけ使えるかを試すことだった――そんな風に考えるのは理にかなっているように思われる。しかし、レオン・デビッドソンはさらに一歩進んで考えた。彼は、パラディウムというのは政府が究極の目的を達成するための一つの道具に過ぎないと考えた。すなわち、未確認飛行物体を地球外から来た宇宙船へと変貌させ、エイリアンの侵略をでっちあげるという目的のために――ちょうどバーナード・ニューマンが『空飛ぶ円盤』で描いたストーリーのように。

■神話をつくる

1952年7月のワシントン上空での空飛ぶ円盤事件は、UFOの歴史における決定的な転換点になった。この事件は、CIAがかつて心理戦略委員会(PSB)に警告したような混乱を引き起こし、同時にCIAがUFO問題に介入する格好の理由を与えた。一方、この事件は世界中で報道されたが、それはちょうどこの問題への関心が英国でピークを迎えた時期でもあった。

しかし、その時点でアメリカは「エイリアンの侵略ありうべし」という雰囲気になっていたのだろうか? 1952年4月、アメリカで最も人気のある雑誌『ライフ』は、「我々は宇宙からの訪問者を迎えているのか?」という記事を掲載した。ちなみにこの号の表紙には、どんなアメリカ人男性もあらがうことができなかったであろう、若くて魅力的なマリリン・モンローがフィーチャーされていた。さて、この記事は、次のように始まっている。「空軍は今、あまたの円盤や火の玉の目撃について説明がつかないことを認めざるを得ない状況にある。そこでライフ誌は、惑星を超えてやってきている円盤が実在するという科学的な証拠を提示してみせよう」。記事はそのクライマックスで、太字を使って以下のような主張を展開している――円盤は自然現象ではなく、アメリカやロシアの秘密航空機でもなく、風船でも心理的なものでもない。従ってそれは宇宙から来たものであるに違いない、と。

著者であるH.B.ダラク・ジュニアとロバート・ジンナは、この記事に関して、空飛ぶ円盤の話題を抑え込んでいたはずのアメリカ空軍と1年間にわたって協議を重ねていた。それだけに、この断固としたET仮説支持のトーンは驚きであった。デビッドソンは疑問に思った。空軍が望んでいないのに、アメリカで最も評価の高い雑誌がそのような記事を掲載することなどできるのだろうか? ルッペルトによれば、ジンナは空軍の高位の人々と話をしており、その意見は記事に反映されていた。しかし、それは空軍の戦略だったのか? それともタイムライフのオーナーで、CIAやPSBと親密な関係にあるヘンリー・ルースの指示によるものだったのか? ジンナとダラクは誰のゲームプランに従っていたのだろう?

『ライフ』の記事が空飛ぶ円盤の研究に「真っ当なもの」というイメージを与える一方、ET仮説を後押しし、さらにこの現象について洪水の如き報道がなされることに寄与したことは疑いない。ルッペルトによれば、1952年の最初の6か月間で、148のアメリカの新聞が6000以上のUFOに関する記事を掲載していた。

これは誰かが故意に円盤ヒステリーを煽り、7月に起きる壮大なるワシントン上空の領空侵犯に向けて前奏曲を奏でたのだろうか? デビッドソンは、ワシントンでの目撃ウエーブは大がかりなレーダー偽装事例の一つでありデモンストレーションであったと確信していた。この考えを第三者的に眺めてみるならば、なおパラノイア的ではあるけれども、それほど狂っているとも言えないだろう。1952年までにCIAがUFO現象に強い関心を持つようになっていたことは間違いないし、彼らがそうするのは完全に理にかなっている。1945年にまでさかのぼるレーダー偽装の技術を踏まえれば、1957年の時点で、レーダー上に幽霊飛行機を作り出して制御する技術というのは、相応の対価を払ったものには誰でも利用可能だった。ワシントン事件の直後にサムフォード将軍がニューヨーク・タイムズに述べた声明は、故意にレーダーが操作された可能性を示唆するものとも解釈できる。「我々はレーダーについてますます多くのことを学んでいる最中だ……レーダーは、最初に設計された目的とは異なるトリックを行うこともできるのだ」。デビッドソンは、首都防衛の任務を負った空軍の迎撃機は通常ワシントンDCから4マイル離れたアンドリュース空軍基地に配備されているが、この領空侵犯があった月には、90マイル離れたデラウェア州ニューキャッスルに移されていたと指摘している。これはアンドリュース基地の滑走路が修理されていたためとされるが、ともあれこれによって迎撃機の現場への到着はかなり遅れてしまった。

しかし、ワシントンの目撃が偶然ではなかったことを示す最も明確なヒントは、プロジェクト・ブルーブックのエドワード・ルッペルトに与えられていた。それはワシントンDC上空での出来事が始まる数日前のことだった。航空会社の乗務員が奇妙な光を目撃する出来事が相次いでいたことから、ルッペルトは「名前を明かせない機関」のある科学者(デビッドソンはこれがCIAだと推測していた)とUFOについて2時間議論をした。その終わりに、科学者は一つの「予言」をした。「数日のうちに……連中は大爆発を起こす。それで人々はUFO目撃の決定版みたいなものを目にするだろうね……場所はワシントンかニューヨークだが、たぶんワシントンだ」 

数日後、それは実際に起こった――その科学者が言った通りに。ルッペルトが彼の著書で言っているように、空軍情報部はワシントン事件についてツンボ桟敷にあった。そして、前述のように彼自身は事件の2日後に新聞で初めて事件を知った。その後、ルッペルトが事件を直接調査するためワシントンに行こうとしたが、スタッフカーを借りることはできなかった。「出発しようとするたびに、何かもっと緊急なことが起こった」と彼は書いている。  かくて空軍のUFO調査主任は、空飛ぶ円盤の歴史の中で最も劇的な事件に現場で立ち会うことができなかった。ルッペルトが後に回顧したところでは、ワシントンの領空侵犯についての報告をまとめるのには1年がかかったが、タイムリーにワシントンに到着していればそれは1日で済んだ。まるで誰かが彼の仕事を妨害しようとしているかのようであった。「空軍が何をしているのか、私は全く分からない」。彼は後にライフ誌のジャーナリスト、ロバート・ジンナに語った。

■ストークが知っていたこと

もしワシントンの騒動が仕組まれたものであったなら、その責任を負うのは誰で、その目的は何だったのか? 議論を呼ぶであろう仮説は、1953年1月9日、ハワード・クリントン・クロス博士からマイルズ・ゴル大佐を経由してエドワード・ルッペルトに送られたメモの行間に見いだせるかもしれない。 クロスはバテル記念研究所で働く冶金学者で、この研究所は材料科学に特化した民間の研究機関であったが、その当時はプロジェクト・ストークというコードネームでアメリカ空軍のUFOデータを処理する仕事を請け負っていた。一方のマイルズ・ゴルは、米空軍の技術移転部門の分析主任であった。冶金学者のクロス。ハードウェアの専門家であるゴル。UFOの専門家であるルッペルト。この三者が関わっていたということは、空軍がUFOについてどう考えていたかはともかく、軍はその技術的側面に関心を寄せていたことを明確に示している。

そのメモは「機密」指定されたものだったが、ここにはCIAのロバートソンパネルが1週間以内に開かれる予定であり、プロジェクト・ストークとアメリカ空軍の航空技術情報センター(ATIC)は「その会合で議論できること、議論されるべきでないこと」を事前に話し合うべきだと指摘している。この記述は、空軍がCIAに対してUFOに関する情報を隠す用意をしていたことを示唆している。しかし、どの情報を隠そうとしたのか? 隠そうとしたのは、プロジェクト・ストークがいまだUFO問題に対して満足のいく答えを持っていないということだったのかもしれない。アメリカ空軍内部で作られた他の報告書が見いだしたことをなぞるようにして、クロスはこう記している。「我々が今日まで未確認飛行物体の研究を重ねてきた経験から言えることは、信頼するに足るような使えるデータは明らかに不足しているということである」(訳注:ここでクロスのメモと言われているのが即ちジャック・ヴァレのいう「ペンタクル・メモ」である)

クロスはCIAに対し、空軍は事態を把握していないと伝えるのを恥じたのだろうか? おそらくそうなのだろう。しかし、彼の次なる提案は、全く別の陰謀的なトーンを見せている。ここでクロスは、プロジェクト・ストークの一環として「信頼すべき物理データを得るために、コントロールされた実験を実施すること」を推奨している。その計画というのは、UFOの目撃が多い地域に観測拠点を設置し、そこから天候のパターン、レーダー反射、UFOと誤認される可能性のある特異な視覚現象(風船、航空機、ロケット実験など)を詳細に記録しようというものだった。クロスは書いている。「そのエリアでは、様々な種類の空中を舞台にした活動が極秘のうちに、かつ意図をもって計画されるべきである……そうすれば、軍人など公職に就く者からの報告のみならず、これを目撃をした普通の市民からの報告も山のように寄せられることだろう」。要するにクロスは、UFO事件をでっち上げ、その結果どういうことが起きるかを見てみようと提案しているのだ。彼は、その「空中での活動」は他の軍関係者に事の次第を知らせずに行う手もある、とまで言っている。「このようにして仕込まれたデッチ上げはまず間違いなく偽りであることが暴露されるだろうが、それが確実に知れ渡るのは軍内部に限られ、公に表に出るようなことはないだろう」

かくてクロスは、そうした実験は米空軍が空飛ぶ円盤という「問題」についてハッキリした結論を得る上で役に立つだろうし、さらなるパニックが起きた際、UFOの報告――とりわけ一般大衆から寄せられた報告をどれだけ真剣に受けとめるかを決める上でも助けになるだろう、と結論づける。そして最後の下りは、空軍はUFO問題を取り扱う際に何を優先させようとしているのかを明らかにしている。「空軍は将来のしかるべき時点で、大衆を安心させるため、すべてはコントロール下にあるという意味の、ポジティブな声明を発することができるよう心せねばならない」

当時のUFO報告の中には、ストークが仕込んだものとおぼしき多くの事件が含まれている。そのような事件が、北ヨーロッパ沿岸での大規模なNATO合同演習「メインブレイス演習」の間に起きた。ルッペルトは回顧録で、1952年9月に演習が始まる前、ペンタゴンは「半ば真剣な調子で」海軍情報部にUFOに注意するよう指示したと述べている。実際、メインブレイス演習では、2件の刮目すべきUFO目撃が報告されており(うち1件では写真も撮影された)、それらはいずれも大きな銀色の風船のように見えた。しかし、調査の結果、どの部署からも「それは当方の責任です」との返答はなかった。これはストークが速達でも出したということなのだろうか?(訳注:ストークがニセUFOを飛ばす指令を発した、といった意味か?)

クロスのメモは、アメリカ空軍が空飛ぶ円盤の謎の核心を理解するのにまだ苦しんでいたことを示している。これとは別の内部メモも示していることであるが、ロズウェルだろうがアズテックだろうが他の場所であろうが、彼らがどこかに墜落した空飛ぶ円盤を保持していたことなどありえないのは明らかなのだ。では、なぜ空軍はUFOに関する情報をCIAと共有するのを制限しようとしたのだろうか? それは、空軍がいまだ確たる結論を得ていないのに、CIAが何らかの結論に至るということを望んでいなかったからかもしれない。それは空軍と海軍の間にもあるような、組織間のライバル意識を反映していたのかもしれない。さもなくばバテルと空軍は、UFO問題をCIAに押し付けてしまうためには、CIAに知らせることなく自分たちだけでUFO事件をデッチ上げるのが良いと考えたのかもしれない。確かに首都空域への領空侵犯事件をデッチ上げるなどというのは、今日では無責任に過ぎると思われるし、実際そうなのだが、ともかくこの事件は政府の中心部に強力なメッセージを送ることができた。それは同時に「UFOについては空軍が『すべてをコントロール下に』置いている」ということも示したのだった。

ワシントンでの事件は、最終的にCIAがUFOを真剣に受け止めるきっかけとなった。ロバートソン・パネルの側にはとりわけ懸念していたことがあった。前年7月のようなことがあって、ソビエトが偽りの標的を用いてアメリカのレーダーと通信のシステムをオーバーフローさせてしまうのではないか――しかも最悪のシナリオでは、それは核攻撃のプレリュードともなりうるのだ。しかしそうなると、パネルの参加者から「そのようなニセの標的を作る技術は既にあって、それがワシントンでの騒動を引き起こした可能性がある」といった指摘がなかったのは奇妙に思われる。これはクロスがCIAから隠したかったことの一つだったのだろうか? 仮にそうだとしたら、やがて起きる騒動についてルッペルトに警告した所属不明の科学者というのは、レオン・デビッドソンが疑ったようにCIAから来たわけではなく、バテル研究所の人間だったのではないか?

少なくともアメリカ空軍の一部は何が起きているのかを知っていたのではないか。ワシントンでの事件後の記者会見を主導した空軍情報部長のジョン・サムフォード将軍が、1956年に国家安全保障局(NSA)の2代目局長に就任したという事実はひょっとしたらそれを示唆しているのかもしれない。NSAは国際間の通信を監視していたし、先に述べたように、CIAと連携して日常的にパラディウム・システムを使用していたのである。

レオン・デビッドソンは、ロバートソン・パネルで何が議論されたのかハッキリ知らなかったし、クロスのメモについても知ることはなかった。しかし、1952年7月の出来事がレーダー欺騙技術によるものだと確信していたし、それが正しいか間違っているかは別として、UFO現象の背後に誰がいるのかについては自分なりの考えを持っていた。彼は、プロジェクトを指揮していた人物としてCIAのアレン・ウェルシュ・ダレスを挙げている。合衆国国務長官ジョン・フォスター・ダレスの弟でもあった彼は、1953年から1961年まで、まるで私領のようにCIAを支配していた。文民として初めて長官に就いたアレン・ダレスは戦時中の諜報活動に深く関わっており、V-2ロケットの開発者ヴェルナー・フォン・ブラウンを含むドイツの科学者を「プロジェクト・ペーパークリップ」の下でアメリカに秘密裏に移入するのも監督していた。

ダレスは、冷戦の初期のアメリカの舵取りに貢献した。ワシントンの領空侵犯事件の数日後、心理戦や秘密作戦を担当する「汚いトリック」部局としてCIAに作戦本部(Directorate of Operations)が置かれたが、これもダレス指揮下でのことだった。この作戦本部は、国際社会の現状維持に務めるアメリカの役割を保持・発展させていくため、重要にして悪名高い存在となっていった。また、デビッドソンの指摘するところでは、ダレスは哲学者カール・ユングの親友にして、崇拝者でもあった。ちなみにユングは1959年、先見の明を発揮して神の如き存在としての空飛ぶ円盤についての本を執筆している。この二人が1950年代初期に皆が関心を寄せていたテーマ、つまり空飛ぶ円盤について議論をしていたことは疑いない。デビッドソンは、UFOをめぐるストーリーが展開して新たな段階に入っていく時、その背後にはいつもCIAがいて、その黒幕はダレスであったと確信していた。彼はこう記している。「ダレスは『善良なエイリアンは過去数千年にわたって地球を訪れてきた』という神話を信奉していた」。そして「奇術師の手品、トリック、ショーマンシップ」を用いて、よくある誤認や軍用機の目撃をエイリアンの目撃、着陸、コンタクトに変えてしまったのだ、と。

では、なぜダレスとCIAは「宇宙からの訪問者」説を推進しようとしたのだろうか? UFOというのは、CIAが秘密裏に進めている心理的・政治的作戦、さらには高度な軍事テクノロジーを隠すのに丁度良いものだったのだ。UFOの神話を広めれば、ロシア人たちは空飛ぶ円盤の物語を調査し――もっといえばアメリカが自らの手で高度な円盤型航空機を飛ばしている可能性を調べるために時間やリソースを消費してくれる可能性があった。

三つ目の理由はユングの考えに由来するもので、それはバーナード・ニューマンの小説『空飛ぶ円盤』のプロットからもきている。

第二次世界大戦が現前させた黙示録的な恐怖は、多くの人々をして「神は人間を見捨て、我々を悪しき発明の下に投げ出した」と感じさせるに至った。我々は、新たな宗教としてのテクノロジーが倫理に取ってかわった新たな時代に突入し、もはや原子爆弾よりも高次のパワーというものはありえない。そう感じるようになってしまった。しかしそこでユングは、欠けるところがなく円形をした空飛ぶ円盤の形状に、神の如き完全性を示す現代的な象徴を見てとった。我々を超越する高次の権威が存在し、それが空飛ぶ円盤を飛ばしている――そのような信仰は 人類に定められた自滅を押し止めてくれるのではないか?

ダレスは、このような信仰を煽るために洗練されたトリックを使っていたのだろうか? しかし、その「高次の権威」というのはいったい誰――というか何だったのだろうか? 彼らは我々に何を伝えようとしていたのだろうか? 
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■第6章 ワシントンvs.空飛ぶ円盤
    「象徴というものは、相手が納得してしまう流れを示してみせれば良いのである。象徴は、騙す相手の内面に確固としてあり、彼があらかじめ受け容れている観念を伝えねばならないのだ……それはあたかもスポーツフィッシングの釣り人が、ルアーをたやすくゲットできるエサにみせかけるために、匂いや動き、色彩をそれらしく見せるのと同じようなものである」 ――『欺瞞分析入門:心理作戦の標的となる聴衆の分析』(リエカ・ストロー中佐、ジェイソン・ウェンデル少佐。 『イオスフィア』 2007年秋号より)

1952年の初め、CIAのウォルター・B・スミス長官は心理戦略委員会のレイモンド・アレン長官に次のような書簡を送った。
    私は本日、「未確認飛行物体に関連する諸問題というのは、諜報活動や諜報作戦のみならず、心理戦においても重要な意味を持つ」と結論づけた提案文書を国家安全保障会議に送付しました。私は早期に会議を開催し、心理戦のためにこうした現象を攻撃・防御の両面で利用できるかどうか、その可能性を議論したいと考えています。 

スミスは、1951年の後半、空飛ぶ円盤に対する大衆の関心が劇的に増していく状況に対峙していたのだが、それは急激な目撃報告の増加へとつながっていき、その報告の多くは軍隊の内部から寄せられるという事態を呈していた。それと同時期、米空軍のプロジェクト・グラッジのチームは円盤の問題を軽視する方向でうまいこと仕事を進めつつあったが、それが故に彼らはどう考えても首を捻らざるを得ないような事件をも無視しようとした。そうした事件の一つ、つまり同年9月にニュージャージー州フォート・モンマス陸軍基地で起きたパイロットとレーダーオペレーターによる目撃事件は、空軍の高官たちを動かすきっかけとなり、1952年3月、グラッジはプロジェクト・ブルーブックへと改編された。この改編は空飛ぶ円盤の「当たり年」にかろうじて間に合った形となり、目撃報告は同年6月から10月の間に886件に及び、夏のピーク時には一日に50件が寄せられるほどであった。ブルーブックの責任者であるエドワード・ルッペルト大尉は(ちなみに彼は「未確認飛行物体」という言葉を作った人物だ)は、この数字は1947年以降に空軍が受理した総件数より149件多いものだったとしている。

ルッペルト自身はフォート・モンマスでの目撃事件はバルーンによるものと考えていたが、この事件に続いて、空軍はJANAP 146(B)を発した。これはすべての軍隊に向けた指令の拡張版とでもいうべきもので、未知の飛行機を目撃した際は国防長官、防空司令部、最寄りの米軍基地に報告するよう指示していた(ちなみに国防長官は次いでCIAに報告を転送することになっていた)。さらにUFO事件に関する情報を許可なく公開することは犯罪とされ、最高で懲役10年と1万ドルの罰金が科されることになった。ソビエトがアメリカの一挙手一投足を監視している状況にあって、UFOは――ここでいうUFOには極秘のバルーンやミサイルの発射、開発中の航空機の飛行も含んでいたが――諜報や安全保障上の問題になりつつあり、コントロール下に置かれるべきものともなっていた。

ウォルター・スミスの懸念はやがて薄気味悪いほど的中することになった。UFOをめぐる状況は1952年7月の2夜、当惑を強いるような、そして潜在的には破滅的となってもおかしくないクライマックスを迎えた。数多くの非確認物体がワシントンDC・ナショナル空港のレーダー画面上に現れたのである。その最初の夜、すなわち7月19日から20日にかけての真夜中、首都から15マイルの位置で7つの物体が捕捉された。それらは時速約100マイルでホワイトハウスに向けて徐々に近づいていた。近くのアンドルーズ空軍基地からも明るく光るオレンジ色の球体一つが目撃された。その場にいた空軍兵によれば、それは「円を描くような」動きを見せ、それから「信じられない速度で」飛び上がって消え去った。このほか近くを飛行中だった旅客ジェット機のパイロットからも、白く輝く高速の光が6つ目撃されていた。

未確認物体の目撃とレーダー上での捕捉は午前3時まで続いていた。ここで、物体を子細に観察すべく迎撃機2機が飛び立ったところ、その時点で残っていたUFOは空から消え、レーダーからも消えた。ところがジェット機が燃料不足で帰投するや、物体は再度出現した。そのため、民間航空局の上級航空管制官のハリー・バーンズは、その正体はどうあれ、このUFOは無線交信を受信し、それを踏まえて行動しているのではないかと思った。バーンズはこの出来事について空軍の上級幹部の注意を促そうとしたが、それは無視されたように思われたため、彼の苛立ちは倍加した。空軍内の誰かはいま何が起きているのかを知っているのではないか――そんな疑惑を膨らませるようなこともあった。ブルーブックのエドワード・ルッペルトは、二日後に新聞の一面を読むまで、この出来事について全く知らされていなかったのだ。

未知の航空機が米国の空域に侵入するなどということは今日の我々にはありえないことと思われるかもしれないが、その出来事がいかなる騒動を巻き起こしたかは想像に難くない。それは「パールハーバー」から11年後のことで、アメリカ軍の記憶の中でその傷はまだ真新しかった。さらに言えば、1952年の時点で、そうした侵入がもたらす危機の大きさは1941年の頃よりはるかに大きなものになっていた。ソビエトはその時点で原子爆弾を3発爆発させていた。その夜、ワシントン上空に現れた7つのUFOのうちには、彼らが作った「ファットマン」や「リトルボーイ」を搭載したロシアの爆撃機がいたかもしれないのだ。そして、7月26日にUFOは戻ってきた。この時はレーダー上に12機が映し出され、それ自体はさほど驚くべき速度ではなかったが、時速100マイルで飛行していた。前回同様、光は航空機上からも地上からも目撃された。さらにこれも同様に、ジェット機2機が迎撃に飛び立った。あるパイロットは、4つの白く「輝くもの」を追跡したが、それらは突然「こちらに飛んできて飛行機の回りを取り囲んだ」。だが結局のところUFOの正体はこの時も明らかにはならなかった。

メディアはまたも大騒ぎを始め、ペンタゴンでは空軍の記者会見が開かれた。その規模は第二次大戦以降で最大のものとなった。ルッペルトは1956年に刊行した回顧録『未確認飛行物体についての報告 The Report on Unidentified Flying Objects』で、大混乱に陥ったその場の状況を描いている。空軍情報部のジョン・サムフォード将軍はその目撃について何か言質を取られることを避けつつ、このUFOは「誘導ミサイルだとか秘密裏に開発されたアメリカの飛行機だとかではない」と言って人々の恐怖を和らげることに全力を挙げた。直截に「その物体はアメリカの秘密兵器か」と問われた時、サムフォードは遠回しで謎めいた返答をした。「質量をもたず、無限のパワーを出すようなシロモノは持っておりません」。次いで現れたのはライト・パターソンの空軍技術情報センター(ATIC)から来たレーダーの専門家、ロイ・ジェームズ大尉だった。彼は、少なくともレーダー反射の幾つかは気温逆転によるものだとした――つまり地表近くの冷たい空気の上に、温かく水蒸気の多い空気層が出来る現象で、こういう時にはレーダーが地上レベルにある蒸気船のような巨大な物体の反射を拾ってしまうことがあるのだ、とした。ルッペルトたちはこの説明に納得しなかった。が、報道陣はこれを受け容れた。

この二度にわたる領空侵犯は、その前年に大当たりした映画『地球が静止するた日 The Day the Earth Stood Still』に描かれた出来事と気味が悪いほど似ていた。この映画では、善意のヒューマノイド型エイリアン、クラトゥの操る空飛ぶ円盤がその姿を見せ、次いでワシントンDCに着陸することでパニックを巻き起こした。一方、現実のワシントンでの目撃事件は全国の新聞で一面の記事になり、凄まじい目撃報告の波を生み出し、ルッペルトとブルーブックの仕事を激増させた。全米からの目撃報告は空軍に殺到し、その数は7月だけで536件にも達した。その結果、空軍内部の通信には支障が出るほどだったし、扇情的な記事でメディアは埋め尽くされた。大西洋の向こうでは、この大波が英国の首相ウィンストン・チャーチルの興味を引きつけていた。彼は顧問に渡したメモでこんなことを訊ねていた。「いったいこの空飛ぶ円盤というのは何なのだ? 何を意味しているのか? 真実は何なのか?」 

こうした動きはCIAをいらつかせた。何か手を打たねばならない。CIAがUFO問題に首をつっこまねばならない時がやってきたのである。CIAのUFO調査に引き入れられたのは応急情報室(Office of Current Intelligence)、科学情報局、そして武器装備部門だった。1952年8月、CIAの代表者たちは、そのカウンターパートに当たるライトパターソンの空軍技術情報センターの面々と何度も極秘の会談を行った。最も重要だったのは、日増しに疑念を膨らませている大衆からCIAがUFO問題に関わっているのを隠すことだった。「サイレント・グループ」が「陰謀」や「隠蔽」をくわだてているといった話は既に広まりつつあった。その立役者はドナルド・キーホー。彼が1949年に「トゥルー」誌に書いた記事は『空飛ぶ円盤は実在する Flying Saucers are Real』という本になってバカ売れしていたのである。CIAがUFOに関わっていることが知れたら、こうした疑念が裏付けを得てさらに広まってしまうことは明らかだった。

CIAが調査にあたって作ったブリーフィングペーパーは、この組織が――さらにいえば国を司っている人々が――UFO問題や他の世界をどう見ていたのかを明らかにしている。同時にそれは、半世紀以上前にこの件で提起された問題は、今もほとんど変わらず残っていることをも示している。そのペーパーはまずUFOについて主要な作業仮説4つを検討している。「その物体は米国の機密の航空機である」「それらはロシアの航空機である」「UFOは地球外起源のものである」。そして最後に「それは既知の航空機や自然現象の誤認である」。ペーパーに記されているところでは、CIAの職員たちは最初の仮説、つまりは秘密の航空機説を追ってとても高いレベルにある人々にまで当たったのだが、目撃報告を現在進行中のプロジェクトのせいにすることはできないというところに結論は落ち着いた(彼らがこの時点で気づいて然るべきだったこともある。CIAはそれから3年のうちに、当時最高機密だった偵察機U-2を飛ばすことになり、それはUFOの目撃報告の相当数を占めることになる)。彼らはこんな指摘もしている。仮に空軍がウソをついているとしたらどうか。しかし得られている証拠はこの仮定にそぐわない。米空軍がきわめて貴重な新しいオモチャをもっているのなら、なぜそれに対して自軍のジェット機でスクランブルをかけるようなリスクを負うのか。そして、そんな航空機を首都上空で公然と飛ばすという信じられないリスクを冒したのは何故なのか。

ソビエト機による領空侵犯説にも同様な疑問が生じた。CIAは、アメリカ同様、ロシアの技術者たちも楕円形や三角翼の飛行機の設計が可能かどうか研究していたことを知っていたが、そのような飛行機を飛ばす技術的な進歩がみられた兆候はなかった。むろん、ロシアがそうした飛行機を敵国の首都上空で飛ばすと考えた時点でこれは気違い沙汰なのであるが。さらに言えば、偵察プロジェクトとしての領空侵犯が行われたというような形跡もまた全く認められなかった。

「全く支持されなかった」もう一つの説として、ロシアはバルーンを米国上空に飛ばし、報道を通じてその航路を記録しているのではないかというものもあった。実のところ、同様に「およそありえない」と考えられていたけれども、実際には現実のものとなってしまった前例はあった。領空侵犯した日本の風船爆弾「フグ」は、1945年に米国の市民を死亡させていたのである。「火星から来た男」説についてCIAは、「知的生命体はどこかに存在しているかもしれない」が、そうしたものが地球を訪れているという説を支持する天文学上の証拠はないとし、さらにその目撃パターンも軍事的観点からみると全く意味をなさないとした。この結論は、その4年前にランド・コーポレーションのジェームズ・リップが到達したのと同様なものであった。

かくて第4のオプション、すなわち「UFOは一連の誤認によるものだ」とする選択肢が、最もありそうな答えとして残った。これはまた、プロジェクト・グラッジの閉鎖以来、空軍の公式見解となっていたものでもあった。このような点を踏まえて、ブリーフィング・ペーパーは、報告をしてくる人々というのは多くの場合、思い込みに捕らわれすぎたのだとした。誤認された物体はほぼ常に空を背景として目撃されたが、その大きさ、速度、距離、動きなどを見積もるために参照できるものがなかった。一連の心理学的要因もまた多くの目撃を意味づけるために持ち出された。つまり、メディアの報道(CIAはこれをオーウェル流の言い回しで「心理的条件付け」と呼んだ)、事実を脚色したり捏造することで注目を浴びたいという潜在的な欲求、見慣れないものに出くわした時に生じる情緒的反応といったものである。

1952年9月24日、CIAの科学情報局担当次官補であるH・マーシャル・チャドウェルは、ATICの会議内容をまとめた報告書をウォルター・スミス局長に送付し、会合から導き出された結論を概説した。その内容は、ここでほぼ全文を引用するに値するものだ。

    空飛ぶ円盤をめぐる状況は危機的な二つの要素をはらんでおり、それらは緊張状態にあっては国家安全保障にかかわる意味を有するものとなる。すなわち――
    a)心理的要素:空飛ぶ円盤が世界中で目撃がされている中にあって、調査が行われた時点に於いてソビエトではこれについての如何なる報道、コメントも見られず、風刺めいた話題すらなかった……国家にコントロールされた報道にあっては、その内容はもっぱら公的な政治決定に従うものとなる可能性がある。従って、この種の目撃について以下のような疑問が生じる。
    1)目撃はコントロールできるか
    2)目撃は予測可能か
    3)目撃を心理戦の観点から攻撃ないし防御のために利用することは可能か
    この現象に関する大衆の関心は米国のメディアに影響を与え、空軍への問い合わせの殺到といった事態を巻き起こしているが、これが示しているのは、国民の相当な部分は信じがたいものを受け入れようという心理的条件づけを受け入れているということである。この事実が明らかにしているのは、ここには集団ヒステリーやパニックを引き起こす潜在的な可能性があるということだ。
    b)空の脆弱性:合衆国の空中警戒システムが、今後レーダーと目視観測の組み合わせに依存していくであろうことは間違いない。ソビエトは現時点で合衆国を空爆する能力を有している……攻撃があった場合のことを考えると、我々が現時点で幻影と実体あるものを即座に区別できないのは明らかである。そして緊張が高まっていくにつれて、我々が誤警報に見舞われるリスクは増えていくだろうし、実際の攻撃を誤って幻影とみなしてしまう危険性はさらに大きくなっていく。

チャドウェルは、ソビエトが空飛ぶ円盤について何を知っているかを調査するよう指示しつつ、次のように結論づけた。すなわち「研究は以下の事項を念頭に置いて進められるべきである。アメリカの心理戦のプランナーたちはこうした現象をどうやって利用すればいいのか。こうしたものを活用しようとするソビエトに備えて、どのような防衛策を計画すればいいのか」。かくて彼が最終的に提唱したのは、「パニックのリスクを最小化するために」その現象を大衆が如何に受けとめるかを自分たちが管理すべきだということであった。

ウォルター・スミスはこの時点で腹を決めた。CIAは1953年1月、核物理学者、レーダーとロケットの専門家、他の空軍関係者、および天文学者から成る秘密のパネルを招集した。ペンタゴンの兵器システム評価グループの責任者であるハワード・パーシー・ロバートソン博士が率いるこのグループは、非常に長い昼食休憩を取りながら、UFO報告を聴取し、未確認物体のフィルムを観察し、この現象を解明し得る説明を求めて四日間を過ごした。彼らの結論は、1966年まで一般に完全には明らかにされなかったが、チャドウェルの先の報告が懸念していた点に的確に応じたものとなっていた。

ロバートソン・パネル報告書は軍に対し、その要員を訓練して、通常見かけることのない光る人工物や自然現象(流星、火球、蜃気楼、雲など)といったものを肉眼でもレーダー上でも識別できるようすべきだと提言した。報告書にはこう記された。「このような訓練により、誤認やそれに伴う混乱に起因する報告は著しく減少するはずだ」。一般の人々に関しては、彼らの関心を弱め、ソビエトの「巧妙な敵対的プロパガンダの影響力」を減らすために、"debunking"(誤りの暴露)プログラムが設定されるべきだとされた。「手品のトリックの場合のように、『タネ』が知られている場合の刺激ははるかに少ない」と報告書は述べている。こうした教育の実施方法についても興味深い提案があった。彼らはディズニーのアニメーションや第二次世界大戦中に訓練フィルムを制作したジャム・ハンディ・カンパニー、および海軍の特殊デバイスセンター(現在の海軍研究所)を利用して、航空機の識別訓練を行うことを提唱していた。

地区住民の心理的モニタリングもまた考慮すべき重要なポイントとされた。パネルのメンバーは、1949年2月12日にエクアドルのキトで発生した突拍子もないUFO神経症騒動のことを知っていたのに違いない。この時、ラジオ番組「宇宙戦争War of the Worlds」がきっかけとなって生じたパニックは暴動を引き起こし、戦車が街に出動してからようやく鎮圧されたのだが、最終的には20人の死者が出た。報告には「強く求めたいこと」として、その種のプログラムには心理学者や「おそらくは広告の専門家となろうがマスコミュニケーションの技能に長けた人物」のアドバイスを仰ぐべきだともあった――ちなみにこのくだりではハドリー・キャントリルの名前がでてくるが、彼はオーソン・ウェルズの1938年版「宇宙戦争」のラジオ劇に関して米国で起きたパニックについて書いている人物である。 

ロバートソン報告書は、民間のUFOグループを監視することも推奨していた。「なぜなら、広範な地域にわたる目撃があった場合、そうした団体は大衆の思考に大きな影響を与える可能性があるからだ。彼らの無責任さ、そしてそのようなグループが破壊活動に利用される可能性というものは、常に念頭に置かれるべきである」。かくてそれからの20年間、そうした団体の一つで、アリゾナ州ツーソンにあった空中現象調査機構(APRO)という名のグループは諜報機関によって厳しく監視されることとなった。

結論として報告書は、UFO自体は「国家安全保障に対する直接的・物理的脅威」とはなっていないようだとしたが、それらの報告が寄せられると「関係のない報告が通信チャンネルを塞ぎ」、多数の誤報を作り出して真の敵対行動が無視される危険性が生じ、いわば「オオカミ少年状況」を生む可能性があると指摘していた。さらに報告書は、このテーマに対する一般の関心が高まると、「巧妙な敵対的プロパガンダにつけこまれ、人々がヒステリックな行動を取ったり合法的な権威に対して不信を抱くというような病的な国家観念」が植えつけられる可能性があるとしていた。

空飛ぶ円盤は、反乱者、さらにもっと悪いことには共産主義者さえ作り出すかもしれない。従って国家安全保障にあたる機関は、「未確認飛行物体に与えられた特別な地位と、それが不幸にも獲得してしまった神秘のオーラを直ちに剥ぎ取る措置を講じるべきだ」とされた。カーティス・ピーブルズが指摘するように、「ロバートソン報告書は空飛ぶ円盤についてのものではなく、真珠湾に関するものであった……米国は、ソビエトによる奇襲核攻撃の幽霊に悩まされていたのだ」 

CIAと米空軍がどの程度までこの勧告を実行に移したかは、あまりハッキリしない。だが、ハッキリした物言いをする科学者のレオン・デビッドソンは――彼は熱心なUFOファン以外からはすっかり忘れられた存在なのだが――自分はその答えを知っていると考えていた。(06←07→08






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さて、ベランダの手すりにハトよけテグスを張る作業の第二弾である。
まずはベランダの両端を片づけてしまおうということで前回は右端の作業をしたのであるが、今回は反対の左側にチャレンジである。

今回のベランダ左側には壁がないので、まずはテグスを張るための木製器具を自作し、隣家との間をへだてるパネルにテープで貼り付けてみた。今回も主な素材は割り箸で、基本的には木工用ボンドでペタペタ組み立てた。もっとも割り箸だけでは強度が不安だったので、100均で買ってきた木材をノコギリで三角形に切り出し、取りつけてみた。
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ということでコチラが完成したところである。
どれぐらいもつかは不明です(笑)。
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あとはベランダ正面の左右約5メートルほどの手すり部分を何とかしなければならんのだが、布団を干す時に外したりできるよう、バネを仕込んで随時外せるような仕掛けにしたいと考えている。それらの部材が揃うまでは放置……と考えていたのだが、実はちょうど今朝、衝撃的な事件があった。

ベランダ中央部に大量のハトのクソが落ちていたのである。

単なる偶然ではあろうが、こんな大量のフンを見かけたのは久方ぶりであった。しかもこっちがちょうど対策を練っている時期であるだけに「やってみなよフフフ」と挑発されたようで怒髪天である。なんだこのクソハト野郎ふざけやがってゼッテー許さんからなということで、とりあえずの応急措置として手元にある部材だけでとりあえずこの部分にもテグスを張ってみた。前回にもちょっと論及した細長い金属板が届いていたのでコレを手すりに貼り付けて、テグスを張るベースにしたのである。

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「これでどうだッ!」というところであるが、実際には作業に疲れてしまい、手すりがカギ状にカクカクと曲がっている幅20センチほどの部分はテグスを張っていない。手抜きである(苦笑)。その辺から侵入される可能性もあるがどうか。とまれ、ハトよけ作戦はなお続く。(つづく



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オレはマンション住まいなのだが、ときおりベランダにハトのハネだとかフンだとかが落ちているのを見かけることがある。要するに各地で頻発しているハト害というヤツなのだが、ともかく勝手に侵入してきてひとさまの家を汚していくヤカラは不愉快である。無職でヒマなせいか(笑)最近コレがちょっと気になってきた。

ホントなら火器を用いて侵入次第射殺してしまいたいところだが、残念ながらヤツらは鳥獣保護法だか何だかに手厚く守られていて殺傷するとコッチがタイホされるらしい(泣)。フンと一緒に病害菌をまきちらしとるハトが保護対象というのはどうにも解せないが、まぁ日本というのは大昔から人間を差し置いて「生類憐れみの令」を出したりするおかしな国なので仕方が無い。殺傷せぬまでも連中に恐ろしいトラウマを与えるような攻撃方法はないかと思案しているのだが、そもそもヤツらはトリアタマなので「トラウマ」という概念はないのかもしらん。やむを得んので、とりあえずは連中を近寄らせないための対策を考えることにした。

さて、ハトの行動を監視していると、マンション一帯に飛来したヤツらはその習性としてまず第一にベランダの手すりにとまり、周囲を観察する。そして「どうやら安全そうだナ」となれば中に侵入するなりフンをするなりして(勝手に)縄張り宣言をする。ここでつけ上がるせると中にはベランダに巣を作り出す図々しいヤツもいるらしい。やはり水際作戦が重要ということのようだ。

さて、そこで一番有効な対策というのはネットでベランダ全体を囲ってしまうことらしい。しかしそんなことをするのはあまりに辛気くさいしウザい。そこでソコソコ効果があるらしい「テグスの張り回し」作戦というのを試みることにした。手すりの上にテグス線を張り、ハトをとまれなくする。そうやってお帰りいただく。これならそんなに目立たないしスマートではないか。

そこでいろいろ調べたところ、テグス張り回し用の商品は市販もされていた(→たとえばこんなの)。しかしよくよく考えてみると、オレのウチのベランダの手すりはオシャレのつもりなのか何かしらんが妙なアールがついていて、平らになっていない。それ故にこのテの器具はうまく装着できそうにないのだった。

しょうがないのでさらにググると、自作ツールでテグス張りをしている人もいた(→こことか)。マネしてみようかと思ったが、この方の細工もやっぱり手すりがある程度平坦でないとうまくいかない。万策尽きかけたのだが、たまたま大阪府のサイトで「テグス張る土台に割り箸とか使ってもエエよ~」みたいなことが書いてあったので、その線でちょっと挑戦してみることにした。

ちなみにウチのベランダの柵は凸状に出っ張った形になってンので、とりあえずその右端の部分だけ試験的にハトよけをつけた。手順は以下の通りだが、材料は基本的に家にあったものを使っている。

①支柱代わりの割り箸の真ん中あたりにテグスを結びつける。次いで、この支柱を「3Mスコッチダクトシールテープ」でムリヤリ手すりに貼り付ける。これだけだとちょっと頼りないので30cmぐらいの結束バンドでさらに手すりにしばりつけた

②テグスを張り渡す壁側には「3Mスコッチ強力両面テープ外壁面用」で割り箸を2本貼り付け、その背後にテグスを回して割り箸の支柱に戻す(なおこの壁面部の割り箸もスコッチダクトテープで補強)

③割り箸の支柱まで引いてきたテグスを割り箸上部にぐるっとまきつけ、ピンとさせてからスコッチダクトテープで固定(スコッチダクトテープに頼りっきりの男w)
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ということで、ご覧の通り「やっつけ仕事」である。とりわけデコボコした壁面部にテープでムリヤリ貼り付けた割り箸には常時「引っ張り力」がかかっているので、剥がれたり浮いたりしてくることが考えられる。支柱にした割り箸だって曲がったり折れたりするかもしらん。それでもしばらくはこんな運用でハトの出方をみる所存。

【追記】
なお、先に記したように家のベランダは凸状に出っ張った形になっているのだが、近々左端の部分にも同様に割り箸細工でテグスを張ろうと考えている。構造的には今回の右端部と若干違っているので若干アタマをヒネらないといけない。が、まぁ何とかなるだろう。

問題は中央部である。ここは横幅が5、6メートルほどもあるので脆弱な割り箸ではテグスを支えきれないだろう。そこでいろいろ考えているのだが、とりあえずこちらのサイトの方の作戦が参考になりそうだ。

要するにこの方も市販の器具は手すりに装着できないというので自作をしているのだが、その際に「クロームフリープレート」というのを使っておられる。要するに軽量で細長い金属板なのだが、コレは薄っぺらいため、ある程度曲げることができる。これを手すり部分にうまいこと貼り付けてテグスを張る支柱にした――というのである。

ウチの場合、グニャッと曲げて手すりの柵にそわせつつ、結束バンドで取りつければうまくいくのではないか。(つづく








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岸田文雄が政権を投げ出すようだ。記者会見でイロイロ言ってたけれども、詰まるところ9月の自民党総裁選に出ても惨敗必至なのでカッコつけて自らやめるテイを装ったというだけのことだろう。とんだサル芝居である。

今思えば岸田の政治というのは一から十までクソだった。なによりもまず国民の暮らしがガンガン劣化しているのに対して有効な手を打てなかった。ここにきて「給料がアップしはじめた」みたいな話がないこともないが、そういう景気の良い話は国民の大多数を占める貧乏人にはまったく関係がないし、そもそも民間企業の給料が上がったからといって岸田の功績にするのは全くの筋違いであって、岸田は「給料上げてネ」とか口先で言ってただけである。

一部メディアからは「外交に成果があった」みたいな評価もされている。「軍事費倍増で中国に対抗姿勢を示したのは偉かった」みたいな話であるが、百歩譲ってそうした軍備拡張路線が正しかったとしても実際には「どうやってそんな軍事費を捻出するのか」のメドはいまだたっていない。要するにカネもないのにそんな大見得を切った岸田はバカ中のバカである。いくら栄養失調でもカネがないのに「今半」のすき焼きを食いにいくワケにはいかんのだ。これからミサイルを買うための大増税が始まるのは目にみえており、「外交に成果があった」もクソもあるまい。

もちろん自民党の統一教会ズブズブ問題だとか裏金脱税フリーパス問題なんかも真相解明する気はゼロで、真っ当な対策もとらなかった。「反省してま~す(チッうっせーな」ぐらいな感じで、アホな国民が全部忘れるのを待っているのがミエミエだった。例の少子高齢化にたいしても何等有効な対策はとっていないし、要するに岸田の政治はすべてがその場しのぎのゴマカシに過ぎなかったのである。

、まぁここでそんな床屋政談をしていても仕方ないのであるが(笑)それはそれとしてオレがいま注目しているのは自民党が次期総裁に誰を選ぶのか、である。

自民党のクソジジイたちが談合してリーダーを決めるいつものパターンでいけば、最有力好捕は茂木敏充(68)である。政財官のトライアングルで悪巧みを進めるという旧来の自民党政治の世界ではとても評価が高いようなのだが人間性には問題があり、とにかく威張る男・傲慢な男であるらしい。いわゆる小人物なのだろう。だから自民党支持層でもあんまり人気がない。人相も悪くて冷酷そうな相が丸見えであるからもちろん一般国民の人気もない。まぁしかし、アホな国民をだまくらかして従来の腐敗政治を温存していこうと考えたのであれば第一候補で危なげがない(笑)。
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 茂木俊充


しかし、さすがにこういう悪相の人間を自民党のトップに据えたら、ただでさえ愛想を尽かされつつある自民党なので、今後の選挙に響くのではないかという懸念もある。そうすると、まだ汚いアカがついていない感じの若手中堅をかつぎだそうという動きも当然出てくる(実際はたいして若くない人もいるがw)。そういう文脈で名前が挙がっているのが河野太郎(61)、小泉進次郎(43)、上川陽子(71)、小林鷹之(49)あたりということになる。

だがオレのみるところ、ホントにこういう連中が清廉でクリーンなのかといえば疑問である。たとえば河野太郎というのは、奇矯な人格&それと表裏一体の「突破力」で知られる変人であって、なんか政治をムチャクチャにするパワーだけはあるんではないかと思われていたンだが、出世するにつれてこれまでずっと言ってきた「反原発」を引っ込め、最近では「原発アリ」といった発言もしているらしい。要するにクソジジイが支配する自民党内で出世するために、節を曲げて転んだ男なのだろう。そんなのが首相になってもクソジジイのリモコンで動くだけの操り人形を脱することはできまい。
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 河野太郎

そういう意味では「初の女性首相!」みたいな期待も一部にあるらしい上川陽子なんてのもダメだろう。三菱総研を経てコンサルか何かやってたところを自民党にスカウトされて政治家になった人物で、相当にデキるという話はある。しかしこないだ麻生太郎が講演で上川について「あの人はルックスは悪いが仕事はできる」(意訳)みたいな話をしてネタにされた際、なんだか薄笑いを浮かべてスルーするような、いかにも「男社会に迎合して生き残る女」的なレスポンスをしていた。アレをみていてオレは「ココは抗議するところだろう。こりゃダメだ」と思った。経歴は立派かもしらんがエライ人間に迎合して出世するようなタイプに国政は任せられんし、仮に首相になっても河野太郎同様にリモコン操作されるだけのことだろう。
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 上川陽子

もうだいぶん長くなってしまったので、あとは簡単に済ますが小泉進次郎というのはみなさんも「小泉構文」で知る通り単なるアホである。みかけがちょっといいのでそこら辺のババアを引きつけるのには良いが首相にしたら日本は滅びるだろう。

小林鷹之というのは国民的な知名度はほぼゼロだが、東大から高級官僚になったような典型的エリートでアタマがよく政策通だという評判である。加えて49歳と若くて見映えもなかなかヨロシイ。岸田内閣では大臣の格としては相当ショボいけれどもいちおう内閣府特命担当大臣というのもやった。「じゃあ自民党の強欲イメージごまかすのにコイツ担ぎ出してみる?」みたいな機運が一部で盛り上がっているらしい。ただし国家存亡の危機にあって一番大事なのは志だとか熱意である。自民党の裏金問題について「これはさすがにアカンだろ」ぐらいのことは言うべき自民党の若手たちがダンマリしていたのは記憶に新しいが、そんな情けない連中のひとりであった小林がノコノコ出てきて「じゃあ自民党改革しま~す」などと言い出したら悪い冗談だろう。しょせんこれも予備の操り人形といったところか(注:なおその後Wikipediaみてて知ったのだがこの小林というのは壺議員であった。つまりは国賊。論外であったw)。
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 小泉進次郎と小林鷹之


このほか石破茂だとか高市早苗だとかいうのもいるが、いずれも自民党内での人望がないのでなかなか浮かぶ瀬はなかろう(個人的には石破茂に一度やらせてみたいと思っているが絶望的に党内人気がないらしい。まぁ狂人のサークルで比較的マトモな人間が浮いてしまうのは仕方がないことではある)。

ということで、結果的に誰が出てきても次期自民党総裁にはほとんど期待ができないのは確かである。そもそも安倍晋三という男が自分の地位を脅かす人間をテッテ的に締め上げてきたからこそこういう人材不足に陥ったしまったワケで(たとえば石破茂はそうやってツブされた)それはそれで自業自得ではあるのだが、自民党の皆さんが「カレー味のウンコ」と「ウンコ味のカレー」のどちらを選ぶのか――みたいな観点からみればコレはなかなか面白い見ものではある。来月にはそうやって自民党の新しい顔が決まる。



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今回のパリ五輪に関しては「フランスの連中っていまだにアジア人差別してるんじゃネ?」疑惑が改めて持ち上がった。この問題、例の誤審問題もあったし(審判自身がフランス人でなくても観衆の圧力で差別に加担することは十分ありうる)、数日前には現地にいってた柔道家の高藤直寿が「レストランでずっと腕上げて店員呼んでも全然来てくれんかった」みたいなことをXに書き込んだことでも注目された。

おフランスなんか行ったことはないのだが、こういうニュースに触れると、日本にいても陰が薄いせいかメシ屋で店員にずっと無視されることが再々あるオレのような人間であれば、おそらくフランスあたりではアジア人差別要素が加算された結果客席の片隅に追いやられて放置プレイ3時間みたいな処刑を受けるのはほぼ確実なような気がしてきて、フランス人への疑念がフツフツと沸きあがってくるのだった。

というのも、むかし読んだ会田雄次の名著『アーロン収容所』には、捕虜になった会田雄次がイギリス軍の女性兵士の部屋に掃除かなんかで入っていったら彼女は全裸だったけれども「あぁ日本人か」みたいな感じで全く平然としていたという有名なエピソードがあったのだが、そのときオレの胸中には「あぁやっぱヨーロッパの連中は心の奥底まで差別意識まみれなんだろうなあ」という認識が深く刻まれたのである。会田が屈辱的な体験をしてから80年ぐらいたったけれども流石にそこまで強固なアジア人差別が刷り込まれていたのであれば雀百まで踊り忘れずというヤツで、やっぱり連中は全然反省しとらんのではないか(コレは余談ではあるがだいたい日本人だって中国朝鮮の人たちにたいして何かスキあらば見下すようなことを言い出すではないか)。

さらに言っておくと、イギリス人というのは植民地経営では分断統治などを活用し、けっこう地元民をうまいこと懐柔する狡猾なところがあったが、そんな連中ですら会田雄次にいわせればこんなテイタラクだったワケで、しかるにフランス人というのはイギリス人よりも相当に高慢・傲慢である(という印象がある)。してみるとフランス人というのは相当に露骨な差別意識を有している可能性が高い(気がする)。

まぁ昔から日本人は「花の都パリ」とかいって高慢なフランスにあえて膝を屈するような卑屈なところがあった。たまたま最近読んだ読売新聞ではパリ五輪開催に合わせたのだろう、文化面で「パリに行きたい」とかいう連載をやってて、パリにあこがれてきた代々の文化・芸術関係者を紹介していたけれども、そういうのは何かちょっと違うのではないかという気もしていた。こういう機会に「ヤツらは本当のところは相当に下品野蛮下劣な生物なのではないか?」という問いを立ててみるのも悪いことではあるまい。こういう考察を誘うのも数少ない五輪の効用のひとつと言えよう。

【追記】

なお、フランス人にかんしては「柔道やらマンガやらで日本文化をリスペクトしている親日派はけっこう多い」みたいな俗説もあるが、ソレはホントなのかという疑問もある(大多数は差別主義者だが一部にオリエンタリズム的逆張りで日本を贔屓する層もいるということかもしらんが)。

あるいは今回のパリ五輪でフランスの柔道チームは黒人ばっかりだったが会場を埋めたフランス人たちは熱狂的な応援を送っていたことを考えると、アジア人差別はあるにしても移民で入ってきた黒人は差別の対象にしないといった「お約束」があるのか? それとも柔道のような特殊技能をもった黒人は「名誉白人」扱いされているということなのか? なんかナゾは深まるばかりである。



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パリ五輪も終わったが、今大会で特筆すべきは陸上女子やり投げでの北口榛花の優勝である。

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オレも再々言っているように、およそスポーツというのは細かいレギュレーションとか採点要素とかが入ってくればくるほど納得感が薄れる。もっというとプリミティブな訴求力が削がれる。

なんとなれば、あるいみ細かいルールが定められているほど特定の人たちに有利な状況が生まれたりするワケだし、審判の主観で勝ち負けが決まる要素が強いと(たとえば今回パリ大会の柔道である)ハッキリいって「シラケる」。

これは余談になるが、オレの好きな野球というスポーツはまさにこういう「シバリ」が多い競技であって、野球がなかなか世界に普及していかないのもそういう理由があるからだと思われる。たとえば「野球では三回空振りするとアウトになるけれども何で三回なのか?」みたいな素朴な疑問を出されても答えられないのである。(ここで慌てて付け加えておくが、そういう細かいルールでがんじがらめになった競技には、逆に「ルールの抜け道を探ってウラをかくのが面白い」みたいな倒錯した楽しみ方が生まれる。いったんそういう「沼」にはまるとそれなりの中毒性が生まれるのだが、まぁその辺は一見さんにはなかなか難しい)。

閑話休題。そういう風に考えていくと、その手のよくわからんルールがほとんどないのが陸上競技である。100メートルを一番早く駆け抜けるのは誰か。そういう単純明快な原理ですべてが運営されていく。プリミティブであるが故にこれは門外漢にも凄さがよく分かる。ごまかしが効かない。そういう意味でヤッパ陸上競技はスポーツの華であり王者であると言わざるを得ないのだ。

そうしてみると、今回の北口の金メダルというのは如何にスゴイことであったかが分かる。体格や筋力といった面でいえばモンゴロイドはどうしたってコーカソイドやネグロイドに対して不利である(大雑把にいって。たぶん)。陸上競技では過去にマラソンで金メダルを取った女子選手はいたワケだけれども、これは或る種の持久力みたいなものである程度挽回することができる種目だったからこその快挙であって、フィールド競技となるともうこれは絶望的である。そこは超絶トレーニングであったり卓越したテクニックやらでどうにかこうにか対抗していかざるを得ないのだが、それを今回彼女はやりきったのである。

言ってみればこれは100年に一度の快挙。今大会は柔道の誤審問題とかいろいろあったけれども、日本勢にとって大会掉尾を飾るにふさわしいグッドニュースがここにきて飛び込んできたのは慶事であった。


◆追記

なお今回の北口金に関連して、往年のやり投げ選手・溝口和洋(1962-)が各種メディアでコメントなどしていたのも嬉しかった。

その半生については上原善広『一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート』という名著があるのでゼヒ読んで頂きたいのだが、彼は師弟関係の重視みたいな陸上競技の決まり事を片っ端から無視する「一匹狼」みたいな存在として1980年代に活躍した選手である。しかも溝口は単なる無頼派だったワケではなく、実力もハンパなかった。彼は常軌を逸した特訓だとか独自に編み出した独特の練習法などによってほぼ独力で世界レベルにまで到達した人物で、その怪物ぶりは1989年に出した87m60というレコードがいまだに日本記録として破られていないことでも明らかだろう。

それだけの実績があるにも関わらず引退後は陸上界と縁を切り、パチプロ(!)やったりした末に現在は農業をやっているのだという。なんという潔さであろう(ちなみに、表向き陸上から足を洗ったといいながらやはり五輪でメダルを取った室伏広治が教えを乞いにきた時にはこれに応じて私的にコーチしてやったみたいな話もあったりする。この辺りもまた素晴らしい)。

彼はほぼオレと同年代だし、そもそもこういう偏屈な人間が大好物のオレとしてはひそかにシンパシーを抱いてきたのであるが、そういう不世出の人物が北口の金というタイミングで再度スポットを浴びたようなかたちとなったのはしみじみと嬉しかった。これはちょっと前の記事であるようだが、この孤高の先駆者、溝口和洋さん「やり投げを好きと感じたことはない」 パリ五輪へ北口榛花は世界記録も目指せる「才能」なんてのはとてもよく書けているので、どうせそのうちネットからは消えてしまうのだろうが時間のある方は読んでやっていただきたい。


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いわゆる「新そば」というのはフツー秋に収穫されたそばを供するものであるが、たまたま立ち寄ったこの信州のそば屋では今夏に収穫されたばかりのものを「新夏そば」と称して出しておった。淡白な味わいではあるが美味。

ここでオレは考えてしまったのであるが、たとえば東京あたりでそこそこ名の知れたそば屋というのは例外なくペダンティックで気取っており、かつバカ高いのが常である。しかし、この店は市井の人々の生活に徹底して寄り添った感じで、たとえば信州B級グルメの「山賊揚げ」なんてものも平気で出しているし、平日ランチタイムには珈琲サービスなどもしている。にもかかわらずこのそばのクオリティというのは一体どういうことか。

かくてオレは「食文化の本当の豊かさとはいったい何だろう?」といったことをシミジミと考えてしまうのであった。


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愛車インプレッサスポーツも今年の冬には2回目の車検を迎えるということで、まもなく購入丸5年。走行距離はまだ3万キロにも届かないのではあるがタイヤはほっといても経年劣化する。5年ぐらいが一つの区切りだというし、このあたりで思い切ってタイヤを履き替えることにした。

そこで今回買ったのが、ミシュランのオールシーズンタイヤ「CROSSCLIMATE 2」(205/50 R17 93W XL)である。

実のところをいえば、オレは都会暮らしなので雪道に遭遇する可能性はあんまりない。しかし、我が郷里は信州である。もちろんスタッドレスなんかもっていないので、ゴムチェーンこそ用意しているが突然冬の長野に行く用事ができて雪でも降り出したとなればなかなか難儀。となると、ちょっとした降雪にも対応できるタイヤを履いていたほうが何となく安心感がある。夏タイヤとしても、まぁクルマにうるさい人ならアレコレ言いたいこともあるのだろうが、別にそんな暴走行為でもせぬ限り問題はなかろう。そういう判断である。

さて、こういうご時世なのでタイヤもできるだけ安く買いたいのは人情である。そこでいろいろ調べたところ、やはり通販をかませるのが安いようだ。某タイヤフッドあたりの通販も半年だかのパンク保証も無料で付けているようで良さげだったのだが安さでいうとやはりAmazonだ。ちなみに今回は出入り業者でなくAmazon本体から買ったのだが4本で8万円ちょい。近場のガソリンスタンドに送ってもらって取り付け工賃は1万1440円。ゴムバルブと廃タイヤ処分料はオレの行ったところだと計3600円。このほか「タイヤハブが錆びてっから防錆施工どうです?」とか言われたのでこれは別料金で払ったが、これは好き好きである(4400円というのが安いのか高いのかはわからんかった。なんか微妙に高いような気もするがまぁヨシとする)。

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ということで作業完了。

ちなみに、若干心配だったこともある。Amazonのバアイ、安いのはイイが製造年月の保証なんかはナイので仮に古いのを送ってこられてもコッチとしては文句が言えないようなのである。

そこで今回、ガススタンドの店頭でタイヤをみたところ「0924」の刻印を確認した。つまり2024年の第9週の製造、言い換えると今年2月25日から始まる週の製造なので約5ヶ月前のモノである。ネット世論をみると、どうやらタイヤというのは製造から1年以内のブツならヨロシイでしょうというのが定説らしいので、これもまあ別に案ずるほどのことはなかった。

(注)もっともミシュランのタイヤはこの刻印を何故かタイヤの片側にしか入れていないようで、クルマに取り付けられたタイヤをみても2本は「0924」を確認できたが、もう2本は刻印面が内側に入っていて見ることができない。タイヤ業界では、4本買っても製造年月の違うのを一部混ぜてくるケースがあるというので、ひょっとしたら未確認のタイヤだけ古かったりする可能性も絶無ではない。スタンドで最初から4本全部目視しとけば良かったが、まぁ積んであったタイヤはみんな同じに見えたので大丈夫だろう……たぶん(苦笑)。

さて、ネットとかをみるとタイヤには慣らし走行というのが必要であるらしい。速度80キロ以下で100kmも走れば良いようなので、しばらくはタラタラ走らないといかん。ちなみに取り付けしたガススタンドでは1ヶ月もしたらナットの増し締めに来いと言っていた。「この機会にお得意さんに!」という狙いアリアリだった(笑)。


【追記】
といっていたらちょうど今日(2024/07/23)の朝日朝刊に、住友ゴムが氷上走行もフツーにこなすオールシーズンタイヤ「シンクロウェザー」を売り出すというニュースが載っていた(ちなみにCMには大谷翔平を起用するらしい。気合い入っとるw)。ご承知のように、今回買ったミシュランのも含めて今のオールシーズンタイヤは「雪はなんとかこなします。でも凍結路面ではほとんど通用しません」ということになっている。そういう意味ではこの新製品、どうせバカ高いのだろうがこういうのがフツーに売られるようになったらスゴイ革命である。今後の推移を生温かく見守りたい。


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久しぶりに蒙古タンメン中本に行ってきた。夏はやっぱりこれだな。

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