■第四章 発射

    「私の任務というのは、他の惑星についての様々な考えを受け入れるよう、大衆に心構えをしてもらうことであった。この目的のため、私は世界中の名の知れた新聞に記事を書いては関心をかきたてようとした。火星の運河だとか、いまだ説明がついていない月面の白い筋といった、むかし議論を呼んだ話を復活させたのである」 ――バーナード・ニューマン『空飛ぶ円盤』(1948年)

ジョンと私が映画制作を考え始めてから数ヶ月後、私はグレッグ・ビショップによる『プロジェクト・ベータ』という本のゲラ刷りを入手した。彼はロサンゼルスの作家にしてUFOの研究家でもあった。グレッグと私は何回か会ったが、ユーフォロジーと神秘主義、ポップカルチャーのオーバーラップする部分に強い関心をもっているという点で、私たちはすぐに意気投合した。その本は米空軍がポール・ベネウィッツに対して行った働きかけをテーマにしたものだったが、グレッグはその取材の過程で、何時間かドーティーと面談していた――その場所はニューメキシコ州の片田舎のデニーズレストランだったそうだ。その会話を録音したりノートを取ったりすることは禁じられたが、それでもこれは大きな突破口ではあった。空軍サイドからこのストーリーが語られたのはそれが最初だったのだ。

同時に『プロジェクト・ベータ』は、我々が知る限り、これまで誰も手に入れたことのなかった重要なデータを私たちに示してくれた。それは2000年に写真スタジオで撮影された白黒の写真で、そこには驚くほど普通に見えるドーティの姿があった。写っている男は40代後半。ジャケットにネクタイ、ストライプのシャツという服装で、ひし形をした顔は穏やかに傾いた肩の上に乗り、髪は警察官風に短く刈り込まれていた。笑顔はぎこちなかった。口の左側がわずかに上がった表情は奇妙な感じを与え、その上にはかすかに上がった眉毛があった。顔一面の汗は、どこか不安気な様子をうかがわせる。しかし、私はこの「獲物」の写真にあまりに多くのことを読み込みすぎていたのかもしれない。その日のニューメキシコは暑かったのかもしれないし、ぶっちゃけて言えば、写真を撮られるのが好きな人なんていない。

『プロジェクト・ベータ』出版後の2005年初頭、グレッグ・ビショップはアメリカで非常に人気のある深夜のトークラジオ番組「コースト・トゥ・コースト」にゲスト出演した。「コースト・トゥ・コースト」は、アメリカ人の抱くイメージの中で――とりわけ深夜にラジオを聞いているアメリカ人のイメージということになるが――どのような怪異が流行っているのかを取り上げ、かつその世界に影響を与えている番組だ。UFOはこの番組が週に何時間も費やして何度も採り上げるお気に入りのネタで、このほかにはおなじみの幽霊やビッグフット、超能力、ヒーリング、地獄への門や黙示録、燃料不足、エイリアンの支配、マヤの神々の帰還、惑星Xとの衝突などが続く。奇怪なもの、疑惑を呼ぶものの形作るパノラマがいつ絶えるともなく続くのである。

その番組でグレッグは、自らの本と、UFO分野においてニセ情報が果たしてきた役割について語った。続いて彼は、特別ゲストとしてニューメキシコから生中継で参加するリチャード・C・ドーティを紹介した。我々はこれで写真に加えるにその声を知ることもできたわけだが、それは予想外に高い声でオタクっぽく、いきなりクスクス笑いでも始めそうな感じだった。ドーティは自分は民間人だと自己紹介し、UFO分野での活動は1980年代にやめたと語った。彼はポール・ベネウィッツには友情と尊敬を覚えていたとし、彼の身に起きたことへの悲しみ、そして彼の精神の問題を食いとめられなかったことへの思いを語った。そして、爆弾発言をした。奇妙な信念を人に植えつけるエージェントとしてこれまで見聞きしてきたありとあらゆるものに照らしてみた結果、「私自身も地球上には地球外生命体が存在すると信じている」というのだった。

エイリアンやUFOに関していえばこの人物の名前はほとんど「欺瞞」とイコールなのだが、そんな彼が「すべては真実だ」と私たちに伝えようとしていた。そればかりではない。彼はそれを信じてもらおうとしていた。ドーティは「コースト・トゥ・コースト」のリスナーを舐めきり、それぐらいの変わり身をみせれば無罪放免で逃げられるとでも思ったのだろうか? 彼は世界に向けて自分をネタにして内輪受けするジョークを放ったのだろうか? それとも彼は米空軍特別捜査局(AFOSI)時代の誓約に縛られていたのだろうか? あるいは彼はまだ現役の諜報員で、ラジオ出演はその仕事の一環だったのだろうか? 最も大胆な仮説はこういうものだ――「彼は本当にそう信じていた」。その場合、彼は本当に何かを知っているのか、さもなくば自らの考えを変える何かを見たのかもしれない。あるいは長い年月を経るうちに、UFOにまつわる話が彼の心に影響を与えるようになったのかもしれない。ウソつきはしばしば自分のウソを信じ始めてしまい、、自らウソと一体化してしまうことがある。彼は最初からそうだった可能性もあって、だからこそ米空軍諜報部は彼を雇ったのではないか――彼の中に、その役割に没頭するあまりメソッド・アクターのように自己を滅却してしまえる才能を見いだして。ともあれ、我々は僥倖に恵まれた。我々はリチャード・ドーティの写真と声を手に入れた――いや、少なくとも自らリチャード・ドーティと名乗る男のそれを手に入れたのだ。

ドーティがラジオ出演した後、私はUFOが忘れ去られた状態から復活する兆しがないか、注目していた。だが、そんなことは起きていなかった。インターネット上にはUFOのウェブサイトが溢れていたが、誰もがみんなおなじ古い話を繰り返し、何年も前にインチキ判定されたおんなじピンボケ写真を持ち出していた。このテーマには電気ショックのようなもの、つまりUFOを表舞台に押し出してくるような予期せぬ展開が必要だった。私が恐れたのは、こんな冬眠状態があまりにも長く続いたため、アマチュア無線家や鉄道ファン同様、UFO愛好家たちは時代遅れの存在と見られるようになってしまったのではないか、ということだった。そこに奇跡が起こった。始まりはインターネットの片隅の目立たない場所で、さざ波として始まった。だが、それは間もなくホンモノの波になった。UFOの世界で何かが動き始めていた。

■リクエスト・アノニマス

「まずは自己紹介をさせて下さい。私の名前はリクエスト・アノニマスです。私は米国政府の元職員です。過去について詳しくは語りませんが、特別なプログラムに関与していました...」

このように始まるメールをヴィクター・マルティネスが受け取ったのは2005年11月のことだった。彼はアメリカ西海岸の代用教員であったが、インターネット上で最も注目すべきメールグループの一つを運営していた。約200人に及ぶそのメンバーは掛け値なしに重要な人物たちで構成されており、その面々は過去30年の間にUFO現象に興味を抱いた、あるいは直接関係をもったことのある科学者、軍人、諜報関係者たちであった。さらにいえば、その中にはCIA、国防情報局(DIA)、国家安全保障局(NSA)の現職・元職、米国政府のリモートビューアー、フリーエネルギー研究者、理論物理学者、ベンチャーキャピタリスト、さらに神秘主義者、魔女、エイリアンコンタクティー、アブダクションの被害者という触れ込みの多くの人々なども含まれていた。

そこに登場したのがリクエスト・アノニマス、通称アノニマスだった。マルティネスによれば、アノニマスは約6か月間リストをチェックしたのちに自ら名乗りを上げ、「特別なプログラム」を明かした。彼は一体何者なのか? 間髪入れず疑心暗鬼がとびかうこととなったが、アノニマスはその正体を隠し通した。マルティネスも彼の正体を暴こうとはしなかった。「もし私がその正体を暴こうとしていることを知ったら、彼はただ荷物をまとめて別のUFOリストの管理者を見つけ、そっちで彼の驚くべき話を発表しただろうね」

アノニマスの膨大な記録は「驚くべき」という言葉がふさわしいもので、分量にして毎月数千語ずつ増えていった。メールが送られなくなるまでの3年間で、「リリース」は31回あり、その総量は数万語に及んだ。そして、アノニマスによれば、これらはすべて1970年代後半にDIAが編纂した3000ページにわたる極秘報告書の抜粋にすぎなかった。この分厚い文書がどこにあり、アノニマスがそれをどうやって手に入れたのかは謎であったが、一つ言えるのはそれは彼の地元の図書館にはなかったということだ。

以下は、そのリリースが伝えようとした内容を大幅に簡略化したものである。


1947年、ニューメキシコ州にETの宇宙船2機が墜落した。ちなみにこれは、1970年代後半以降「ロズウェル事件」として知られるようになった出来事である。墜落で6体のETが死亡したが、1体は生存していた。彼らの宇宙船の残骸はオハイオ州デイトンのライト・パターソン空軍基地に運ばれ、生存したETはEBE1(イーバ1)というニックネームでニューメキシコ州のロスアラモス研究所に収容され、1952年までそこで生活した。この間、EBE1は母星との連絡を試みた。残念ながらその呼びかけに応答があったのは彼の死後であったが、それはアメリカにとっては歴史的な瞬間であった。この時点から、アメリカ政府はEvens(イーヴンズ)と呼ばれる地球外種族と定期的に連絡を取るようになった。唯一の問題は、その事実を世界に伝えることができなかったことであった。

1962年末、ケネディ大統領は暗殺された。一部の人々によれば、彼はUFOの真実をアメリカ国民に明かそうとして、それを果たす前に暗殺されたのだが、それ以前に彼は宇宙規模の外交交流にゴーサインを出していた。特別に訓練された人間12人のチームはそれぞれその身元が抹消され(諜報業界で言う「sheep-dipped」である)「プロジェクト・クリスタル・ナイト」と呼ばれるプログラムで、イーヴンと共に彼らの惑星に向かうことになっていた。イーヴンと人間の双方の大使の顔合わせの準備が行われ、1964年4月24日に2機のイーヴン宇宙船が地球の大気圏に入った。そのうちの1機はニューメキシコ州のホロマン空軍基地近くに着陸。宇宙船に乗り込んだアメリカ政府の高官チームは、「イエローブック」と呼ばれるホログラフィック装置を贈られたが、その装置には地球という惑星の全歴史が収録されていた。人員の交換はその翌年に行うことで合意が得られ、1965年7月、人間の訪問チームはイーヴンの宇宙船に乗り込んだ。1体のET(通称EBE 2)は地球に残った。

訪れた人間たちが「セルポ」と呼んだETの惑星は、地球から38光年離れたゼータ・レティキュリ星系にある。アノニマスによれば、セルポは地球より少し小さく、太陽は2つある。土地は平坦で気象は暑く乾燥しており、環境としては厳しいが居住は可能で、特に北部は涼しいことから人間はそこに居住した。訪問チームはセルポで13年間を過ごし、何度か災難に見舞われたものの、イーヴンズには歓迎され、自由に動き回ることができた。セルポには約65万人のイーヴンズが住んでおり、惑星全体に約100の小さな自律的なコミュニティが点在していた。中央政府はなく、イーヴンの産業と資源のハブとして機能する大きな中央コミュニティが一つあっただけであった。すべての人が働き、その見返りとして質素だが幸福な生活を送るために必要なものを供給された。この準社会主義的ユートピアに犯罪は存在しなかったが、戦争はそうはいかなかった。3000年前、イーヴンズは他の惑星の文明と100年にわたる大規模な星間戦争を戦い、その結果、敵を撃滅させたもののその代償として自らの母星を居住不能にしてしまった。それ以来、イーヴンズは銀河間の漂流者となり、現在の母星に定住するまで、地球をも含む他の種族や文明を訪問していた。

1978年に人間のチームが地球に戻る時までに、2名は死亡していた。またセルポに残ることを選んだのは2名で、彼らは1988年まで地球と連絡を取り続けた。帰還したメンバーはセルポの双子の太陽による高い放射線にさらされており、これが最終的には彼らを死に至らしめた。最後の一人は2002年にフロリダで亡くなった。

奇妙なことにアノニマスは、イーヴンズの文化や生活習慣、消化器系に至るまで詳細を明かしているにもかかわらず、エイリアンが実際にどんな外見をしているのかについては何も述べていない。アノニマスの話を擁護する者は、これは報告書が本来送られる先の人々は――すなわちアメリカにおけるUFO問題のインサイダーたちのことだ――すでにETの外見を知っていたからだと説明した。ロスアラモスには捕獲されたイーヴンがいたのだから、というのである。報告書の完全版には写真も含まれており、アノニマスはこれも世界と共有しようと約束したが、その中にはイーヴンズがサッカーのようなゲームをしている写真もあったという。こうした画像が公開されることはなかったが、数か月後になって双子の太陽がみえる砂漠の風景写真はいくつか流出した。だが、それらはすぐに「フォトショップで作成された、しかもかなり質の悪いもの」だとして退けられた。

アノニマスの最初のメッセージは大爆笑で迎えられたとお考えかもしれないが、実際にはそんなことはなかった。この件はヴィクター・マルティネスのメールリストのメンバーであるポール・マクガヴァンとジーン・レイクス(時にはロスコウスキーとも呼ばれる)によって検証され、二人はアノニマスの主張を裏付ける背景資料を提示した。マクガヴァンはエリア51に駐留していた元DIAのセキュリティ主任だったことが明らかにされ、レイクスもまたDIAにいた人物と見られた。しかし問題があった。マクガヴァンとレイクスの経歴は目を引くものだったが、その身元はマルティネスのメールリスト以外の場所では確認できなかったのである。ただ、もし彼らが本当に軍事諜報の闇の世界でキャリアを積んできたのなら、これはそれほど驚くべきことではなかった。しかし、さらに大きな問題は、「セルポの話もポール・マクガヴァンとジーン・レイクスの身元も、両方間違いはない」というもう一人の人物の存在であった。リチャード・C・ドーティである。

数週間が経過して、セルポはインターネット上で話題になり始めた。ロンドンの通勤者向け新聞でも言及された。セルポ文書はその簡潔にして軍事色を漂わせた一人称の口調で、トム・クランシーのスリラーの緊迫感と、エドガー・ライス・バローズのスペースオペラのようなパルプマガジン的魅力を兼ね備えていた。それは、完全に事実でもなく完全にフィクションでもないという、奇妙な領域を占めていた――それは、聖ブレンダンやマルコ・ポーロのような地上の探検家の物語や、天を行く多くの聖者の旅物語と同様、他界にかかわる物語がいずれも分かちもつ領域であった。新しいリリースが出るたびに、それは古いRKOシリーズのエピソード「キング・オブ・ザ・サーペンメン」 [訳注:不詳] の公開さながらに、新たな希望やワクワクドキドキをもたらした。写真が公開されるかも。交換クルーの名前が明かされるかも。生存者から話を聞けるかも。そういった期待があった。しかし、もちろんそんなことは一度も実現しなかった。

セルポ事件が他の目的を果たせなかったとしても、それが何年間もの停滞期に落ち込んでいたUFOコミュニティの注意を引きつけ、沈みかけていた熱意の炎を再び燃え上がらせたのは確かだ。有名なエイリアンアブダクションの被害者にしてホラー作家のホイットリー・ストリーバーは「コースト・トゥ・コースト」で、1990年代にUFOコンベンションで出会った老兵士との会話を回想した。その男はストリーバーに「別の惑星に行ったことがあるか」と聞いてから――ストリーバーの記憶によればであるが――「セルピコ」という言葉をつぶやいた(ちなみに「セルピコ」とは1973年のアル・パチーノ主演の警察スリラーの名前である)。さて、それから10年ほどが経って、ストリーバーには全てが理解できた。そして、ストリーバーの支持に加え、ラジオやインターネット上で情報が流通しチャットが続けられていく中で、「セルポ」は実際に起こったことのように感じられるようになってきた。さらに驚くべきことに、UFOは数年ぶりに再度ホットな話題になったのである。

セルポの興奮が広がる中、イギリス系カナダ人の自己啓発トレーナー、ビル・ライアンは、アノニマス情報の受け渡し場所としてウェブサイトを設立しようと考えた。ビルがセルポ資料に出くわしたのは偶然だった。彼は或る日、ガールフレンドが反ジョージ・X・ブッシュのメーリングリストから転送してきたメールを受け取ったのだが、そのメーリングリストの運営者がヴィクター・マルチネスだった。彼はもともと政治関係のリストとUFO関係のリストは別々に運営していたのだが、セルボ資料があまりにも重大なので、「これは世界全体に広めねばならない」と考え、それを政治関係のリストにも載せた。それが結果的にビルを引き込むことにつながった。

ビルはフリンジ方面に詳しいわけではなかったし、その手のものは最初は認めていなかった。ただ、かつて熱心なサイエントロジーの信者だったことがあった。実際あまりに熱心だったため、創始者のロン・ハバードのオリジナルの教説が新世代のサイエントロジストたちに無視されているとみなすレトロ・サイエンスフィクションの教派に加わり、オルグに参加していたほどである。またビルは、「間違いなくエイリアンだ」と思っていた女性とデートしたことも認めていた。こういう来歴もあったし、そもそもL・ロン・ハバードの宗教というのは地球外に起源をもつものだ。だが、ビルはUFOの世界では新参者だった。ビルはすぐさまアノニマスの物語の熱心な支持者となり、そのウェブサイトを維持運営するのにすべての時間とエネルギーを費やした。かくてそのサイトは、ほどなく多くの人々を引きつけるようになった。意図したかどうかはともかく、ビル・ライアンはセルポの新たな顔役となった。ジョンと私は、彼と話をする必要があった。

ビルと会う算段を付けるのは簡単だった。伝道者の精神に満ちた彼は、セルポにまつわる話を広めることに喜びを感じており、2005年12月、ジョンと私に会うためにロンドンにやって来た。彼の到着を待っている間、私はビルに何を期待しているのか分からなくなっていた。だが、何を期待しようが、その通りのものが得られるわけではなかった。ビルはあなたが普通考えるような経営コンサルタントではなかった。彼は感情表現豊かな40代後半の男性で、日焼けしたフレンドリーな風貌、肩にかかった赤い薄毛の持ち主だった。その靴の底からボロボロになったフェルトのアウトバックハットのてっぺんまで、彼の衣服はすりきれて穴だらけだった。

ヒューレット・パッカードやプライス・ウォーターハウス・クーパースのような企業で働いたと主張する人間にしては、ビルは確かにカジュアルな印象であった。私はいつも他人の身なりについてアラ探しをするようなことはしないが(そもそも私自身の日々の服装もアラだらけなのだ)、ただビルは数日間車で生活していたように見えたし、たぶん本当にそうだったのだろう。セルポのストーリーに入れ込みすぎたことでビルとガールフレンドの関係は深刻なことになっていたし、彼はその当時、自分の家がどこにあるのかも分からなくなっていたのだ(UFOは日々の暮らしを大いに損なう可能性があることを読者諸兄には改めてご注意申し上げたい)。

ビルのセルポに対する確信には揺るぎないものがあった。彼はその物語に完全に取り込まれていた。インタビュー中も、彼は常にアップルのラップトップ(当然バッテリーはボロボロ)でメールをチェックしていた。新しいアノニマスのリリースが近日中にあるという噂があり、ビルは次なるエピソードを熱狂的に待ち望みつつ、やむことなく押し寄せてくるセルポ関連の質問に一生懸命に答えていた。

ビルのやる気は本物だったかもしれないが、彼はUFOビジネスには素人同然で、それは予想していたほど順調には進んでいなかった。天文学者たちは報告書にでてくる軌道データ(それは有名な天文学者カール・セーガンが提供したものとされていた)について疑問を呈していたが、私を悩ませる、より基本的な問題というものもあった。私がとりわけ注目していたのは、メインイベントとしてのETと人間の相互訪問ではなく、セルポの話には「既存のUFO伝説には出てこなかったもの」が何もないということだった。映画ファンなら誰でも、スティーブン・スピルバーグのUFO大作『未知との遭遇』との明白な類似点を指摘できるだろう。この映画は、ワイオミング州のデビルズ・タワー近くの秘密の場所に巨大なディスコボール型UFOが着陸する場面でクライマックスを迎える。そこでリチャード・ドレイファス演じるキャラクターは、12人の軍人と共にETの宇宙船に乗り込み、おそらく友好的なエイリアンの惑星に連れて行かれる。それこそがセルポだった、ということなのだろうか? UFOコミュニティの多くの人々は、『未知との遭遇』やスピルバーグの『E.T.』は「エイリアンは地球に来ている」という真実に我々を慣れさせるために作られたと信じており、その試みは1951年の映画『地球が静止する日』から始まったとされる。仮にそれが本当だったら、スピルバーグは [敵対的な宇宙人が現れる] 黙示録的な映画『宇宙戦争』で一体何を伝えようとしていたのか、我々は疑問に思わざるを得ないところである。だがセルポ・ウォッチャーズにとっては、『未知との遭遇』の公開された1977年が、セルポの搭乗者が帰還するちょうど1年前であったことは偶然ではなかったのだ・・・

ビルはセルポの怪しげな部分をあげつらうようなことはしない。彼は、その首尾一貫しない部分というのは、実際にはそれがインチキ話の同類である可能性を減らしていると感じた――そのように込み入った話を時間をかけて捏造するような人間は、天文学的に正しい事実をストレートに入れ込もうとするはずだ、というのである。私にはそうは思えなかった。そもそも彼らが天文学的な事実に無知だったらどうなるのだろう?

「これを信じなさいと強いるつもりはありません」とビルは説明した。「可能性があるのではないかと考えて欲しいのです、ただ私は、これが単純な捏造やイタズラである可能性はないと思います。それにしてはあまりに複雑すぎるし、多くの状況証拠が符合しています。誤情報というものは、すべて一つのカテゴリーに放り込むことができる。そこに入ったものはすべてが偽りだということになる。ただ、この話がニセ情報である可能性はある。ニセ情報というのは、半ば真実であり、半ばはフィクションであるということです。そして、フィクションの部分が全体の5%もあれば、ストーリー全体がおかしな話ということにされてしまう」

ニセ情報。ノイズ。セルポというのはそんな類のものだったのだろうか? それはUFOコミュニティに情報を植え付けるためインターネットを利用した試みだったのだろうか――米空軍特別捜査局(AFOSI)が、ベネウィッツ事件で偽の文書を用いたとの同じように? 私たちは正体を見定めがたい、新たな集中砲火が情報戦争に用いられているのを目にしているのだろうか? セルポとマルティネスのリストは情報の実験場なのだろうか? セルポは社会学的または心理学的な研究プロジェクトで、一つないしは複数の情報機関・大学によって(しかもおそらくはおそらくはマルティネスのリストのメンバーによって)行われているものではないか? 我々はそれを「ミームの追跡」実験と考えることができるかもしれない。ウェブ上を情報が流れていくルートを追うことは、我々の生きているデータ飽和の時代においては有益な試みということになるだろう。クジラに発信機を取り付ける。病院の患者の消化器系でバリウム入りの食事が移動していくのを追跡する。そうした試みは、「追跡されているもの」と「それが通過する場所」の両方について多くのことを教えてくれる。情報機関では、これを「印のついたカード」という隠語で呼んでいる。

セルポが情報機関の世界にその起源を持っているとすれば――実際のところ多くの観察者はそのように見ていたようだが――それはUFOとは無関係だったのかもしれない。そのリリースには機密情報が暗号として埋め込まれていたのかもしれない。あるいは、それは情報機関が「偽旗作戦」と呼んでいるものだったのかもしれない――つまり、UFO関係者の仕業に見せかけ、外国人や産業スパイをその罠に引き込むことを意図していたのかもしれない。マルティネスのUFOリストに多くの情報機関と軍の関係者がいたのは偶然だろうか? セルポは隠れていた何者かを引き出すための試みだったのだろうか?

オンラインで提起された興味深い考えが一つある(もっともそれはすぐに反論されたのではあるが)。これは「アノニマスは実際に本物の政府文書に出くわした。ただ、それはもともと誰かを――例えばロシアだ――欺すために作られたものだった」というものだ。イーブンたちの幸福ではあるものの剛健なコミューンの存在は、1960-70年代のロシア統治機構に、自らが作っている世界の宇宙&ユートピアバージョンとして眩しく映ったのではないか。そんなことを考えることもできるだろう。

もう一つの可能性は、セルポの資料はアリス・ブラッドリー・シェルドン(1915-87)によって作られたというものだ。シェルドンは1940年代に米空軍情報部で働き、1950年代にCIAの工作員として活動した後、ジェームズ・ティプトリー・ジュニアの偽名でニューウェーブののSF作家として名を馳せた(正体を明かしたのは1977年だった)。SFを書く才能とCIAとの関係を持つシェルドンは、1960年代もしくは1970年代にセルポ文書を書くために雇われたのではないのか? それは別のプロジェクト――たとえば1963年に米空軍が始めた高機密の軌道偵察プログラム、「有人軌道実験室」(MOL)からロシアの目をそらすために仕掛けられた、複雑なニセ情報ゲームの一部だったのではないだろうか?

当時としては非常に高度なこのプロジェクトとセルポの物語には確かに類似点がある。17人のアメリカ空軍の隊員たちは、続けて一か月間、宇宙船の狭い空間で生活する準備訓練を受けたが、彼らとその上司以外に訓練の目的を知る者はいなかった。この計画は試験飛行が一度行われた後に中止された。必要なコストは天文学的であり、乗組員にとっての潜在的な危険性は受け入れがたいほどに高かった。それがこの当時、人間の乗組員が行っていたことの多くが無人衛星で実行できるようになったのである。シェルドンは文書を執筆した上に、MOLのスケジュールすら書いた可能性がある。MOLのスケジュールは1963年に開始され、1970年代半ばまで続くとされていたが、それはジェームズ・ティプトリー・ジュニアの短い生涯、セルポとの間で行われたとされる相互訪問のいずれとも符合する。

だが、残念ながらここまで書いてきたことは事実ではない。シェルドン/ティプトリーが一枚噛んだという話は、セルポ伝説の初期に匿名の人物のメールで明かされたものだし、MOLについて色々述べたことは私自身が書いたものだ。シェルドンの逸話の背後にいる人物は後に、「セルポ伝説の一切合切は自分たちが大学の社会学コースの一環として作り出したものだ」と明かし、その後デジタルの闇に永遠に消え去った。

その起源が何であるかはともかく、セルポはUFOカルチャーに待望久しい一撃を撃ち込み、かつて栄光の日々を過ごしていたキープレーヤーたちがゾロゾロと這い出してくる手助けをした。それはまた、UFOと陰謀論分野では非常に人気のある2つのオンライン掲示板に隆盛をもたらした。すなわち、「オープン・マインズ Open Minds」と「アバブ・トップシークレットAbove Top Secret」である。

こうした掲示板はUFO情報を受信したり発信する場として機能し、マルティネスのリストと同様、互いに共通点のないUFOハンターや疑似政治学の愛好家たちを一か所に呼びよせた。ここで人々は、あらゆることについてそれぞれの見解を披露しあった。それは「911攻撃の起源」や「月にある秘密の米政府基地」から最新の軍事技術の進展に至るまで、多岐に渡った。そのため、ここは米国をはじめとする国際的な情報機関の工作員にとっても有用な場所となり、彼らはそこに入りびたっては、多種多様なオタクや過激派を監視した。そして、おそらくではあるが自らも当事者となった。

2008年後半に報じられた或るニュースは、情報機関が掲示板やフォーラムを使ってどのように作戦を行っているかを明らかにした。2006年頃、マスター・スプリンター(Master Splynter)というハンドル名のハッカーが、クレジットカードのハッカーやデータ窃盗犯の主要な情報交換所である「ダークマーケット」というウェブフォーラムに参加した。ここでは、データやデータを収集するための技術、偽のクレジットカードを作成するための技術が売買されていた。数ヶ月を経て、マスター・スプリンターは徐々に運営役を引き継ぐようになっていった。そして2008年10月にはダークマーケットの閉鎖を宣言した。

    このフォーラムが、世界各地の多くの公的機関(FBI、SS、インターポールのエージェント)から並外れた注目を集めているのは明白だ。これは時間の問題であったと思う。実に残念である。なぜなら、我々はダークマーケットを英語圏でビジネスを行うための主要フォーラムとして確立していたからだ。これが人生というものだ。トップにいる者を人々は引きずり下ろそうとするものなのだ。

マスター・スプリンターがどうしてこうしたことを知っていたのかいえば、彼の正体がFBIサイバー犯罪エージェントのJ・キース・ムルスキーだったからだ。彼は大規模な国際的なクレジットカード詐欺組織を閉鎖するために、サイトに潜入していたのである。「オープン・マインズ」や「アバブ・トップシークレット」、さらには他の無数のUFO・陰謀論サイトが同様の作戦の場として存在しているのかどうかは分からないが、先進的な軍事ハードウェアやUFOが議論されているところでは、情報機関は常に耳を傾けているのである。

ウェブサイトの立ち上げ以外のことで言えば、セルポはビル・ライアンを瞬時にしてUFO学のセレブリティにした。サイトを立ち上げて数週間のうちに、ビルは2006年の「ラフリン国際UFOコンベンション」の基調講演者として招待された。このコンベンションは、世界最大とは言わずとも、米国では最も大きな集まりの一つである。ラフリンのコンベンションは3月開催の予定で、ビルの存在を告げ知らせるかのように、アメリカの「UFOマガジン」誌2006年2月号がセルポに関する特集号を発行した(同誌は英語圏で唯一ニューススタンドで売っているUFO関連の出版物である)。ビルの記事を補完する形で掲載された記事は、以下のように始まる。 [訳注:UFOマガジンは2012年終刊]

    私の名前はリチャード・ドーティ。元空軍特別調査局(AFOSI)の特別捜査官で、現在はニューメキシコ州に住む一般市民である。過去数年間、私はUFOマガジンの熱心な読者である(中略)
    1979年初め、若手の特別捜査官としてカートランド空軍基地に着任した後、私はAFOSI第17区の対諜報部門に配属された。私は特別な区分プログラムに関する説明を受けた。このプログラムは、米国政府と地球外生物との関係を扱っていた。初めてのブリーフィングの際、私は政府のEBEへの関与に関する完全な背景情報を与えられた。この背景説明にはロズウェル事件に関する情報も含まれていた……総じていえば、その内容はアノニマスが公開した情報と全く同じであった。

元情報機関のエージェントにして、10年以上も姿を消していたドーティは、大衆の目にさらされることにも無頓着になっていた。彼はヴィクター・マルティネスのメールリストでも定期的にコミュニケーションを取り、セルポに関するアノニマスの主張を裏付ける情報を提供していた。ジョンと私は連絡を取るべき時が来たと決意した。ドーティへのメールで、私たちはUFOに関する情報機関の関与についての映画を作っており、彼の経験について話を聞きたいと説明した。我々はラフリンUFOコンベンションでビル・ライアンを撮影する予定であることにも触れた。さて、我々はニューメキシコでドーティと会えるのだろうか?

返事はすぐに来た。ドーティは、インタビューのことは考えておくが、アルバカーキでやったらどうだろうと書いていた。が、もっと良いことがあった。彼はラフリンに行く予定で、「そこであなた方と会えるのを楽しみにしている」という。

やるべきことはただ一つ。ネバダに行こう。 (04←05→06


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久しぶりに佐野ラーメンを食いにいく。今回は「大和」。しばらくご無沙汰してるうちに移転していて、今度の店舗は前がけっこう広い駐車場になっていた。裏側にも第二駐車場が確保されている。

ここではまず受付マシーンで順番を確保し、それから自販機で食券を買うシステムになったようだ。行列店ならではの合理的システムといえよう。

今回もホロホロのチャーシューが旨い。ごちそうさまでした。

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 これが新店舗。小洒落た感じになった




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■墜落

モーリー島事件が明らかにしているのは、諜報機関がUFO問題については当初から高い関心を払っていたということだ。現在ではほとんど忘れられているが、アーノルドの最初の目撃の数日後に起こったもう一つの事件が、UFO神話の礎石をなすことになる。1947年7月初旬、ニューメキシコ州ロズウェルで起こったとされる空飛ぶ円盤の墜落――それによってアメリカのUFO伝説は生まれ、アメリカ政府は状況を初めて理解し、そして宇宙の中で我々がどんな位置にいるのかということも明らかになったのである。その神話によれば、異星人の乗り物とその搭乗者を捕獲したことはあまりにも深刻な結果を招き、それがためにとても深いレベルの隠蔽体制が確立され、それは60年を経た今も続いているというのである。

実際には、我々が聞き知っているようなロズウェルの物語は1970年代後半になってようやく形を成し始めたもので、それが確固たるものとなったのはウィリアム・ムーアとチャールズ・バーリッツによる『ロズウェル事件』が出版された1980年のことだった。それまでの間、その事件というのは、数日で価値がなくなってしまうニュースの見出しの上にしか存在していなかった。ちなみにそのニュースは1947年7月7日にロズウェル陸軍航空基地が発したプレスリリースに拠るもので、オリジナルの発表文は今では失われてしまったが、その冒頭は以下のようだったと考えられている。

    空飛ぶ円盤に関して飛び交っていた数多くのウワサは現実のものとなった。昨日、ロズウェル陸軍航空基地の第509爆撃群の情報部は、地元の牧場主とチャベス郡保安官事務所の協力を得て円盤を手に入れる幸運に恵まれたのである。その飛行物体は先週のうちにロズウェル近くの牧場に着陸した。

この話は瞬く間に世界中に広まったが、7月8日の夕方には(それは多くの新聞がこの記事を掲載した日だった)テキサス州フォートワース陸軍航空基地の将校たちが、その残骸は「気象観測気球」とそのレーダー反射用の板だったと認定。すかさず残骸を基地の情報部長ジェシー・マーセル少佐が手にしている写真が撮影された。かくてこの「空飛ぶ円盤」の話は撤回された。世界のメディアからすればこれは本当にあったことだろうと疑う理由もなかったから、そこで話は終わった――少なくとも30年間は。

「空飛ぶ円盤」のプレスリリースをいったん発表してから撤回した陸軍航空隊の行動というのは、今から考えれば奇妙に見えるかもしれない。が、その行動によってこの話が30年間うまいこと封印されたということは念頭に置いていただきたい。とりわけ落ちてきたものが通常の気象観測気球ではなく――陸軍航空隊はリリースの撤回によって我々をそのように説得しようとしたわけだが――それが軍事関連の機微に触れるモノだったとすれば、全ては計算尽くでなされたことだったのかもしれない。

ロズウェルで起きた出来事が宇宙人とは関係ないということを証明する最も有力な証拠は、皮肉なことではあるが、かつては機密扱いされていた二つの内部文書である。そのひとつはFBI、もうひとつは新設された米空軍のものである。このうちFBIのメモは1947年7月8日付で、残骸がフォートワースからライト・フィールド(現在のライト・パターソン空軍基地)に移送されたことを記している。重要な部分は以下の通り。

    円盤は六角形の形状で、直径約20フィートの気球にケーブルで吊るされていた。カーティン少佐は、この物体がレーダー反射板を取り付けられた高高度気象観測気球に似ているが、彼らのオフィスとライト・フィールド間の電話でのやりとりではその裏付けは得られなかったと報告した。

次の文書は、1947年9月23日に航空資材司令部のネイザン・トワイニング将軍から送られた空軍の内部メモである。トワイニング将軍は空軍の兵器・技術に責任を持つ立場の人物だった。このメモは、UFO目撃に関する空軍の調査が本格化する前に書かれたもので、この問題について空軍が初めて公式に発したものであったが、アメリカの空域の統制にあたる最高レベルの者たちの間でも何が起きているのかを把握している者は全くいなかったことを示している。メモは「現象は実在するものであり、空想や架空のものではない」と述べたのち、三つの考慮すべきポイントを示している。

1.これらの物体が国内起源である可能性—本司令部が関知していない機密性高いプロジェクトの産物である可能性
2.これらの物体の存在を確実に証明する墜落回収物といった形での物理的証拠の欠如
3.我が国の知識を超えた、おそらくは核を利用した推進システムを他国が有している可能性 

空軍司令部の最高レベルで書かれ、長年秘密にされてきたこの内部報告書には、ロズウェルで異星人の宇宙船が回収されたといったことは書かれていない。では、それが宇宙船でなかったとすれば何だったのか?

米空軍の公式見解は、『ロズウェル報告:ニューメキシコ砂漠の事実vs虚構』(1995年)に示されているが、それによるとロズウェルに墜落した物体というのは、「プロジェクト・モーガル」の一環としてレーダー装置を搭載した気球群だったとされる(プロジェクト・モーガルというのは、ソ連の原爆実験が発する音響データを収集するための極秘ミッションであった)。これを荒唐無稽などということはできまい。当該のモーガル気球は6月4日に近隣のアラモゴードから打ち上げられたが、数日後に行方不明となった。残骸について牧場主マック・ブレイゼルが語った言葉、つまり「ゴム片、アルミ箔、かなり頑丈な紙、棒などでできており、広い範囲にばらまかれた残骸」というのは、モーガル気球の残骸と考えても矛盾がない。

1995年の報告書を執筆したのはリチャード・ウィーバー大佐で、彼は最近空軍を退役した人物である。皮肉なことではあるがこのウィーバーは、米空軍でセキュリティ・調査プログラムの担当をしていた。それが意味しているのは彼はニセ情報の専門家だったということで、彼は1980年代初頭には特別調査局でリチャード・ドーティの上官の一人でもあったのだ。その時期というのはまさにドーティと米空軍特別捜査局(AFOSI)が、ポール・ベネウィッツに「エイリアンの宇宙船はロズウェルに墜落した」と信じ込ませようとしていた頃である。そしていま、政府は「UFO業界の連中はなぜ自分たちのことを信じてくれないか」と不思議がっているというわけだ!

1995年の報告書を監督した会計検査院は、「事件に関連する多くの書類がなくなっていたため調査は困難であった」と認めた。この事実は、「ロズウェルにはETの乗り物が墜落したのだ」と信じる者たちをますます勢いづける結果となった。だが、そうした書類は、エイリアンとは関係のない「不都合な真実」を隠すために破棄された可能性はないだろうか。ロズウェルがホワイトサンズのロケット試験場に近接していたことを考えれば――それは当然陸海空の3軍も分かっていたことだ――それが何であれ飛行物体は試験場のほうからやってきた可能性が高い。それがエイリアンの宇宙船でもモーガル気球でもなかったとして、それでも他に候補として考えられるものはたくさんある。アメリカ政府が過去に恐ろしい行為をおかしたことを認め、のち謝罪に追い込まれた事件は幾つもある――例えば1950年代まで続けられた致死量相当の放射線を人間に浴びせる実験、1972年まで科学の名の下に行われてきた黒人男性が梅毒で死亡するのを看過した事例、1962年に自国民に対して爆弾を仕掛け、その罪をキューバになすりつけようとした「ノースウッズ事件」等々である。我々としては、それがあまりにも恐ろしい企てであったために未だ語られていない出来事がロズウェルで起きた可能性についても考えざるを得ないのだ。

もしそれが従来型とは違う気球やロケットの墜落であったとしたら、なぜロズウェル陸軍航空基地は数々のUFO伝説を生むようなプレスリリースを発表したのだろう? 円盤の墜落譚は機密実験をうまいこと隠蔽する無害なめくらましと見なされたのだろうか? そのプレスリリースが特定の意図を持って発信されたことは確かだろう。ロズウェルに駐留していた第509爆撃群は、世界一といっていいかはともかく、全米一のエリート飛行部隊であった――この部隊は、第二次世界大戦を終結させた二発の原子爆弾を投下したのだから。それが世界唯一の原子爆弾部隊であった以上、基地周辺のセキュリティは極めて厳重であったろうし、ミスが起こるのも非常にまれで、かつ仮にミスがあっても厳重な対処がなされていたに違いない。

そのようなエリート部隊、厳しい機密保持が日常になっていた部隊が、空飛ぶ円盤だとか秘密の気象観測気球プロジェクトといった潜在的に非常に機密性の高い事柄に関して、なぜプレスリリースを出してしまったのか? 農場主のマック・ブレイゼルに感謝をした上で、「これは国家安全保障上にかかわるから」といって口を閉ざすよう依頼すればよかったのに、なぜ彼らはこの件を表に出してしまったのか? もしそれが事故だったとしたら、そこで起きた出来事を管理すべき立場にあった基地司令官、ウィリアム・H・ブランチャード大佐は、なぜそののち非常に輝かしいキャリアを全うすることができたのか?

当時の政治的な状況や、アーノルドの目撃事件直後ということで「空飛ぶ円盤」に対してメディアが沸き立っていた時代を考慮すると、このストーリーが意図的に仕掛けられた可能性は考えられないだろうか? 米軍の内部には、空飛ぶ円盤はソビエトの先進技術に拠るものではないのかという深刻な懸念があった。「空飛ぶ円盤が捕獲された」と発表することでソビエト側に波紋を投げかければ、その反響を然るべき情報機関が追跡することもできただろう。あるいは、その発表によって、何が起きているのかを確かめようとするソビエトのスパイをロズウェルやライトフィールドに誘い込む意図があったのかもしれない。潜在的なリスクはあるが、一定の意味のある戦略だろう。

これとはまた別のミステリー――そしてそこにはまた別の魅惑的な可能性があるのだが――がある。それは、1948年刊行のイギリスの薄ボンヤリとしたスパイ・スリラーの行間に隠されている。

■空飛ぶ円盤

1930年頃から1968年に亡くなるまでの間、イギリスの作家バーナード・ニューマンは、フィクションとノンフィクションとを問わず100冊以上の本を執筆したが、そのほとんどはスパイ活動や戦争をテーマにしたものだった。第一次世界大戦中、ニューマンは諜報活動に従事し、戦間期にはヨーロッパ中を旅して講演を行ったが、彼は英国政府のエージェント、もしくは少なくともインフォーマント(情報提供者)ではないかと疑う向きもあった。ニューマンのスパイ小説の多くは駄作だったが、彼は諜報の世界で尊敬を集め、一部の本はスパイの活動に関する洞察に優れたものだとして高く評価された。

1948年に出版された『空飛ぶ円盤』はそうした高い評価を受けた本ではなかったが、世界初のUFO本という特別な栄誉に浴している。そのあらすじは、国籍の壁を越えた科学者たちが「敵対的な宇宙人が侵略を謀っている」という偽りのストーリーをデッチ上げることで、世界の人々の同胞意識を生み出し、世界の一体化をもたらそうとする――といったものである。この本は、1947年3月の国連会議でイギリスの外務大臣アンソニー・イーデンが行った実際の演説に触れるところから始まる。イーデンは、人類が直面するかもしれない人為的な破局の可能性に触れ、「私はこんな風に考えることがある――この混乱した惑星の人々は、火星にいる何者かに対して怒りを感じる時が来ない限り、真に団結することはできないのかもしれない」と述べたのだった。

ニューマンの小説の中の科学者たちは、世界各地の重要な場所に「宇宙からのミサイル」が落ちてきたという事件をデッチ上げる。二つ目のミサイルはニューメキシコに落下するのだが、そこには謎めいた象形文字が記されている。ちなみにこのモチーフは、1970年代後半に至ってロズウェルの残骸に関連付けられるようになる。そのメッセージが解読された結果、火星文明の脅威が明らかになり、次いで人気のない森にミサイルが打ち込まれる。その後に打ち込まれたロケットからは異星人の遺体が発見され(それは実は動物の体の部位をつなぎ合わせたものだったのだが)、小説はクライマックスへと向かう。ここに至って生きている「エイリアン」たちは世界各地に着陸する。かくて侵略の脅威を前にしたアメリカとソ連は敵対するのをやめ、最も小さい国にいたるまで核兵器が広まることによって世界には平和が訪れる。

この『空飛ぶ円盤』は、意図的にフィクションと事実とを融合させているようだ。この作品にはニューマン自身が主人公として登場しているのだが、それはこれが単なる物語以上のものであることを示唆しているようでもあるし、同作には「デッチ上げられた墜落」という中心的なアイデア以外にも多くの興味深い記述が登場してくる。ニューマンは、最初に火星のロケットがやってきた後の話として、空飛ぶ円盤が目撃された地域の広がりを現実に合わせて正確に記述しているのだが、そこでは目撃者が報告する円盤の形状、大きさ、色、発する音があまりに多様で一貫性がないことを指摘しており、この事実は後にアメリカ空軍の分析官を実際に悩ませることになる。また、ニューマンは多段式ロケットを描いているのだが、これはアメリカ空軍と海軍がともに極秘裏に検討していたものである。さらに、試作段階の兵器の爆発に人間の囚人がさらされる様子も描かれているが、これはアメリカの原爆実験中に実際に起こったと噂されていたことである。エイリアンの兵器に触れた部分では、同書に登場する主要な科学者であるドラモンド博士が、航空機や車のエンジンを停止させることができる携帯型の電磁波装置を開発している。

    ドラモンドの装置は新しいアイデアに拠ったものではなく、古いアイデアを発展させたものであった。もう長い間、科学者たちは電荷や光線の放出によってエンジンの電気プロセスに邪魔をし、エンジンを停止させるすべを知っていた。問題は、そのためには巨大で複雑な装置が必要で、かつその射程が短いことであった。そういう意味では、実際にエンジンを停止させるために用いられていたのはもっと簡単な方法であった――例えば「弾丸を撃ち込む」といったような。

車を停止させる光線だとか破壊的な「殺人光線」といったものは、第二次世界大戦当時に語られた技術的な都市伝説の一つであった。殺人光線は、1948年1月7日、UFOを追跡中に死亡したケンタッキー州兵パイロット、トーマス・マンテルの死因とされることもあった――実際にはそれは海軍が秘密裏に開発したアルミニウム製気球「スカイフック」であったのだが。車のエンジンの故障やラジオの受信障害も1950年代半ばのUFO報告における重要な要素となったのだが、これはドラモンドの描いた光線兵器と関連があったのだろうか。

ニューマンは、ロズウェル事件について何かを知っていたのか、あるいは知っていると考えていたのだろうか? 彼は諜報の世界の関係者からその内情を聞き出したのだろうか? それは誰にもわからない。しかし、ニューマンがフォークロアが如何に流布するかを理解していたことは確かである。本書の中では或るパイロットがUFOの墜落について話をデッチ上げ、そのあと新たな報告の波が引き起こされるのだが、それは彼が公の場でその真相を告白してからも変わらない。かくてニューマンはこう記すのである。「一度始まってしまった話が完全に消えさるということはない」 (03←04→05

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■第三章 UFO 101

    「人々は悲しみ、絶望の中で空に向かって手を伸ばした。プルーデントおじさんとその仲間は空飛ぶ機械に連れ去られ、誰も彼らを救出することができなかった」 ――ジュール・ヴェルヌ 『征服者ロビュール』(1886年)

かくて私は、再びUFOを追うことになった。あれから十年経って、少しは賢くなっていれば良いのだが、と私は思った。だがジョンと私はどこから調査を始めれば良かったのだろう?空飛ぶ円盤、三角形ないしは菱形のUFOなんてものには誰も興味を持ってはいないように思われた。実際、自分自身がまだ興味を持っているかどうかすらわからなかった。それに、世界はもっと緊急の問題に直面していた。戦争が続いていたのだ。

2004年。前年夏にジョージ・ブッシュが「任務完了だ」と大見得を切ったのとは裏腹に、イラクでの戦争はまだ終わったどころではなかった。中東状況の混迷が続く中で、あらゆる視線はそこに向けられていた。だがそうやって注視をしていたのは果たして人間だけだったのだろうか? 4月になると、イランでは劇的なUFO目撃のウエーブが起こった。しょっぱなはテヘランの上空で目撃された明るく輝く円盤であり、北部のビレスアヴァールに出没した2本の「腕」を持つ球体であった。これらはいずれも撮影され、映像は国営テレビで放送された。UFOはイランの原子力施設の上空でも目撃されたが、そこは次第にイランに対して攻撃的になってきた米国側の言説の中にあって「標的」とされたものでもあった。噂が急速に広まって、UFOのウエーブは瞬く間に勢いを増した。これらの光は観察にやってきたETによるものなのか、それともイランが開発中の原子力施設をスパイしているアメリカまたはイスラエルの偵察機によるものなのか?

12月になると、アメリカでの反イラン的な言説がエスカレートするのに伴って、UFOの目撃報告も増加した。イラン空軍の報道官は、いずれも核施設を擁する地域であるブーシェフル州とイスファハン州での目撃情報を詳細に語り、一方ではウラン濃縮施設があるナタンズの上空では明るく輝く物体が浮かんでいるのが目撃された――とした。彼は「イランの領空に侵入した飛行物体に対して、全ての対空部隊と戦闘機に撃墜命令が出されている」との警告を発した。一連の目撃情報を受けて、UFO問題を研究するためにの軍事・科学委員会が招集されたとの報道もあった。だが、その後の続報はなかった。

テヘランが懸念するのも無理はなかったのだ。こういったUFO騒動があったのは初めてではなかった。1976年9月、正体不明の光体が市内上空でイラン空軍のF-4戦闘機2機に追跡される出来事があった。戦闘機がUFOに接近すると無線通信は妨害され、通りがかった民間旅客機の通信も同様に切断された。この事件は視認された上にレーダーにも記録されており、最も謎めいたケースの一つとして残っている。ただし、その光が地球外起源であったことを示唆するものはいまだに何もない。

そして、同様に現代のイランをETが偵察しているという証拠もない。この状況には、むしろ1986年にリビアでほぼ実行されかけたシナリオを思い起こさせるものがあった。当時、CIA、アメリカ国務省、国家安全保障会議は、コードネーム「VECTOR」と呼ばれた戦略を企てた。それは、アメリカが支援する大規模なクーデターが差し迫っているとカダフィ大佐に信じ込ませることで、いまいましいその体制を転覆させようというものだった。この計画のカギとなる部分は、ニセのレーダー反応と無線通信を用いて「幽霊飛行機」をリビア上空に飛ばすことだった。リビア空軍が迎撃機を飛ばしてもそこに何もみつからないとなれば、高位の者たちは幻惑され不安を覚えるであろう。そんな効果が期待された。その狙いは、こうした「UFO」を他の不安定化戦略とともに用ることで、カダフィとその政権の妄想をかきたて、政権弱体化と体制変革につながる環境を作ろうというものだった。VECTORはアメリカの報道機関に漏れてしまったことで中止されたが、これはアメリカの情報機関が敵国に仕掛ける典型的な作戦ということがいえる。

VECTORは実行されなかったが、イラン上空に謎の航空機を飛ばすというアイデアは、同様の不安定化作戦の一環として計画されたもののようにも思われる。イランの原子炉を観察していたのが誰であれ――つまりエイリアンであれ、アメリカであれ、イスラエルであれ、ということだが――その者は衛星や偵察機を用いるなどして、イランの注意を引くことなくそれを遂行する技術を持っていたはずである。ところが、イラン上空を飛んでいたものが何であれ、それは目撃されることを意図しており、UFOの話を広めることを目的としていた。小さな非合理のさざなみが大きな波を作ることがある。これは、アメリカが1940年代後半にあった最初のUFO目撃ブームの際に学んだ事実である。これらの目撃は、奇妙なことではあるが、アメリカの新たな原子力計画の中心地、例えばニューメキシコ州のロスアラモスやロズウェル、テネシー州のオークリッジの周辺で顕著に発生したのである。

■アルバトロスからツェッペリンまで

常に大空の下に身をさらしてきた我々人間は、常に空に関する物語を語り続けてきた。人類が空を飛ぶようになった時、そこには既にドラゴン、大蛇、船、そして軍隊といったものが満ち満ちていた。これらの空の存在についての物語は私たちの歴史と同じくらい古くからあり、空の幻影は中世からこの方、人間にまつわる地上の出来事の予兆、投影、そして反映として絵画やパンフレットに描かれてきた。

現代においてUFOフィーバーが最初に認められたのは、19世紀末のカナダ、アメリカ、そしてヨーロッパにおいて不思議な飛行船が相次いで目撃された時のことであった。これら大型で葉巻型の飛行船は、多くが目をくらませるようなヘッドライトを装備しており、ジュール・ヴェルヌの1886年のSF小説『征服者ロビュール』から飛び出してきたもののようであった。この作品の中では、異端の発明家がプロペラで飛行する飛行船「アルバトロス」に乗って世界を旅している。

これは20世紀を通じて言えることなのだが、こうした神秘的な乗り物は、その時代からみると未来を感じさせ、虚構めいてみえる美学をまとい、常にその当時の航空技術のほんの少し先を行っていた。一部のニュース記事は「飛行船ブームを利用して読者をだましてやろう」という、悪戯好きなジャーナリストによるものだっただろう。エドガー・アラン・ポーは1844年に『ニューヨーク・サン』紙のために大西洋を横断する気球のホラ話を作り上げたことがある。他の目撃は、おそらくは自然現象の誤認であり、空を見上げて人々が興奮していた風潮と相俟ってより壮大なものに変貌してしまったものであった。しかし、一部の報告は、間違いなく真実の響きを持っているように思われる。

初期に類する1891年7月12日の報告は、その目撃ウエーブの典型例である。オンタリオ州オタワのセオドア通りの住民たちは、「片端に回転するプロペラがあり、先に伸びたもう一方に明るい光がはっきりと見える巨大な葉巻」を目撃して仰天した。これよりのち、1897年4月11日のイリノイ州の『クインシー・モーニング・ホイッグ』紙の描写は、ナビゲーションライトが正しい位置についている現代の航空機を描いたようだ。

    それを見た男たちはそれをこう描写した――葉巻型の長く細い胴体で、何か明るい金属、恐らくアルミニウムでできている・・・船体の両側には、外側に上に向けて突き出した翼のようなものがあり、船体の上にはぼんやりとした上部構造の輪郭が見えた。物体の前端にはヘッドライトがあり、船体の中ほどには小さなライト、右舷側には緑のライトがあり、左舷側には赤のライトがあった。

同様の報告はアメリカ全土から数百件と寄せられ、中には飛行船の操縦者と出会ったという話もあった。通常その操縦者というのは発明家や軍人のように描写された。このミステリーにまつわる興味深い逸品が見つかったのは、1969年、ヒューストンの古物店でのことだった。それはドイツ移民のチャールズ・デルシャウによるノートで、彼は19世紀半ばにアメリカに移住し、1923年にヒューストンで亡くなった人物だった。13冊のノートは、精緻ながら子供のそれを思わせる筆致で空想的な飛行船がいっぱい描かれており、それは富裕な発明家や飛行家のグループである「ソノラ・アエロ・クラブ」に捧げられたものであった。デルシャウのカラフルで風変わりな図の中には、初期の航空実験に関する新聞記事の切り抜きも混ざっていた。これらのノートはアウトサイダーアートの初期の例としてアートコレクターに買い取られたが、そこには「それ以上のもの」があったのではないだろうか? 初期の空飛ぶ円盤目撃ストーリーに先立つ逸話として、「ソノラの飛行家たちは19世紀、アメリカ軍のためにジュール・ヴェルヌ風の飛行船を秘密裏に建造していたのだ」という者もいる。しかし、デルシャウのチャーミングでモンティ・パイソンを思わせる絵を見ていると、そこに空想の世界を飛び回るイメージ以上のものを見てとるのは難しい。

飛行船の背後にいた者は、プレスや大衆から応答を求められていたにもかかわらず、不気味な沈黙を守った。しかし、時代はすくに彼らに追いついた。1900年7月、フェルディナンド・フォン・ツェッペリン伯爵はヨーロッパ上空で最初の飛行船の試験飛行を行った。次の二十年間で、空を飛ぶことはもはや神々やドラゴン、ナゾの飛行士だけの特権ではなくなり、少しずつその神秘性を失い始めた。第一次世界大戦では、気球や飛行機が偵察や空中戦で使用されたが、我々のいうUFOとして認識されるような報告は一切なかった。しかし、第二次世界大戦では事情はおおいに違っていた。マイケル・ベンティンのフー・ファイターズだけが空に現れた謎の航空機ではなかった。

■幽霊ロケット

1942年2月25日の早朝のこと。それは日本の真珠湾襲撃がアメリカに壊滅的な被害をもたらし、引き続いてアメリカが第二次大戦に参戦してから3ヶ月もたっていない時期だったが、ロサンゼルスの沿岸では、何者かに対する大規模な対空攻撃が行われるという事態が起きた。前日にはサンタバーバラで日本の潜水艦による攻撃があったばかりで、緊張状態にあった第37海岸砲兵旅団は1400発に及ぶ砲弾を空に向けて放った。が、落ちてくるのは自軍の砲弾ばかりで(それは6人の死者を出した)何も墜落してくるものはなかった。同夜、その地域では正体不明の飛行機が何機か目撃されたのだが、日本はその日にロサンゼルスを攻撃した事実はないと主張している。ではその砲撃を引き起こしたのは何だったのか? 迷子になった気球か。エイリアンの乗り物か。それとも単に戦争がもたらした神経衰弱が引き金をひかせてしまっただけなのか。

同年11月28日には、また別の不可解な事件が起きた。今度はイタリアのトリノだった。英空軍省の公式記録によると、ランカスター爆撃機に乗った乗員7人全員が、彼らの下方を時速500マイルで飛行する長さ300フィートの物体を目撃した。それは全部で4対の赤いライトを灯しており、排気ガスを出しているようには見えなかった。同機の機長は、3か月前にもアムステルダム上空で同様の乗り物を見たと主張した。これらのケースや複数のフーファイターの報告事例は今も真正のUFOミステリーであり続けている。ただ、我々がより関心を持つのはこの「ロサンゼルスの戦い」のほうだ。というのも、それは、UFO熱に取り憑かれた国であれば起きても不思議ではない大混乱が、実際に起こってしまった完璧な実例であるからだ(そしてその10年後、冷戦下のアメリカの守護者たちはそんな混乱が起きるのを実際に恐れていた)。実際に、UFO現象というのは第二次大戦の終結の翌年に始まった。1946年7月12日の「デイリーテレグラフ」は、次のように報じている。

    この数週間、スウェーデン東部のさまざまな地域から、南東から北西に向かって飛ぶ多数の「幽霊ロケット」が報告されている。目撃者によれば、それらは発光するボールのように見え、多少なりともたなびく煙を伴っているという。こうした多数の報告を単なる妄想で済ませてしまうことはできない。そのような現象は隕石のせいだとする確実な証拠もないことから、それは新しい種類の無線コントロール式Vロケット兵器で、その実験が行われているのではないかという疑惑が高まっている。

数日後、「デイリーメール」がアルプス上空における同様の目撃を報じた。同紙は、これはソビエト連邦によるロケット実験によるもので、それはドイツ北東の海岸部にあり、今はロシアが掌握しているヴェルナー・フォン・ブラウンのペーネミュンデV-2工場から得られた技術に基づくものではないかと示唆した。7月下旬、英国は選りすぐりのロケット技術者2人を密かにスウェーデンに派遣した。彼らは、その物体についての目撃者たちの描写がほとんど一致していないことに気づいた。火の玉のようだという者もいれば、ミサイルのようだったという者もいる。音がしたという証言もあれば、無音だったという者もいる。中には地面に墜落したり湖に飛び込んだものもあった。中にはたった3フィートの深さしかない海に飛び込んで「消滅した」ものもあった。

懸念は世界各地に広まっていった。8月下旬には、アメリカのロケット専門家2人がスウェーデンに「休暇」と称して向かった。が、そのナゾは秋になっても深まるばかりだった。スウェーデンとイギリスの当局者は、そのナゾの物体が機械なのか隕石であるのか決することができなかった。しかし、報道機関にそのような迷いはなかった。1946年9月3日、「デイリー・メール」きっての戦争特派員、アレクサンダー・クリフォードはこう断じた。「ロシア人は一切を語らぬものの公然と一種の機械の実験をしている。それはいかなる痕跡も後に残していないし、それは一見したところ幾つかの科学法則に反するようにも見える」

報道機関は古典的な「軍事絡みのミステリー」というストーリーを手に入れたが、イギリスの調査員たちは、なまじっかいかほどかの証拠を手にしてしまったが故に、このゴーストロケットにうんざりさせられていた。スウェーデン上空で炎に包まれながら落下してくる物体の写真は隕石に酷似していたけれども、分析に付されたロケットの断片と思しきものは、ありきたりなコークスの塊であることが判明した。9月6日付けの外務省からの極秘電報は、苛立ちを露わにしていた。

    我々はスカンジナビアの領土上空をミサイルが飛行したと確信するには至っていない…すべての目撃のうち多くの部分は、7月9日と8月11日にスウェーデンで目撃された2つの隕石によって説明される(一つは日中、もう一つは夜間)。その他の目撃は、時間・場所・国ともバラバラで、花火、白鳥、航空機、稲妻といったもの、さらには想像力に起因すると考えても不合理ではない。我々の経験からして、このような集団的幻覚は、大衆が興奮している状況においては決して珍しいものではない。

官僚たちがゴーストロケットのもたらす恐怖を「公衆の興奮」に起因するものと見なしていたとしても、この [ソ連秘密兵器説という] シナリオによって大西洋の両岸に巻き起こった不安を過小評価したら誤りだろう。ソビエトのスーパーウェポンに対する恐怖は、その後数年間でさらに高まった。それは軍関係者や一般大衆の間では「空飛ぶ円盤」の正体に関する説明の第一候補となり、アメリカを悩ませることになるのだった。こうしたロケットが実在したかどうかにかかわらず、それは来るべき事態の前兆となったのであって、迫りくる冷戦の序曲となった。

アメリカが空飛ぶ円盤に執着しはじめたのは1947年6月24日のことだった。この日、アイダホ州ボイシの消火機器セールスマン兼パイロットであるケネス・アーノルドが、ワシントン州のレーニア山付近で高速で飛ぶ9つの物体を目撃したのである。アーノルドの画期的な目撃があったのは、チャーチルの「鉄のカーテン」演説から1年後のことであり、その時点では新たなる [東西間の] 戦線が明確に引かれていた。わずか2年の平和の後、再び全体戦争の脅威が世界を覆い、広島と長崎の惨劇を経て、権力者たちは次の世界大戦が人類最後の戦争になる可能性があることを理解していた。

後知恵ではあるが、今からみると、アーノルドの遭遇とそれが引き起こしたメディアの嵐の中からは、あまりに変化が激しいため、歴史家や未来学者ですらどうにかこうにか追いつくのがやっとという当時の社会の反映を見てとることができよう。1947年という年は、チャック・イェーガーが音速を超えて飛行した年であった。それはまた、世界初のデジタルコンピュータENIACが稼働した年であり、トランジスタ、電子レンジ、立体カメラ、AK-47の年でもあった。同時にそれは、アメリカ空軍が独立した軍事部門として設立され、戦略諜報局(OSS)が中央情報局(CIA)に改編され、トルーマン・ドクトリンとラジオ放送「ボイス・オブ・アメリカ」が冷戦下において初の存在論的攻勢を始した年でもあった。それはアメリカが自国の未来を初めて真に垣間見た年であったわけだが、その未来は円盤の形をしていたのだった。

アーノルドが実際に何を見たのかは、今もなおUFOコミュニティ内で激しい議論の対象となっている。パイロット自身はそれぞれ異なる時期に、その物体を円盤型、クツのかかと型、半月型などとどっちつかずの表現で言い表したのであったが、後になって三日月型の絵を描いて見せた。しかし、その見た目だとか「その正体は何だったのか」といったことは、この目撃がアメリカの想像力に与えた影響の前では全然重要なものではなくなってしまった。それは異星人の宇宙船の編隊だったのか、蜃気楼だったのか、ペリカンの群れだったのか、誘導ミサイルだったのか、アメリカかソ連の秘密兵器だったのか、あるいは第二次大戦中のドイツの技術の産物だったのか――そんなことはどうでもよくなった。オレゴンの新聞記者ビル・ベケットの巧妙な言い回しのおかげで、それらは「飛ぶ円盤」となり、国民は制御不能なUFOブームに巻き込まれ、インテリアデザインから軍用機に至るまで、あらゆるものに影響を与えることになった。

5年もすると、空飛ぶ円盤というものは、雑誌をめくったり新聞を読んだり映画を見たりしたことのある全てのアメリカ人の心に刻み込まれてしまった。円盤は空を支配し、最初のフリスビー(つまり1948年に発売されたPipco Flyin' Saucerだ)のヒントとなり、無数の歌手、コメディアン、アーティストに素材を提供し、遂にはジェームズ・ディーン、エルヴィス・プレスリー、マリリン・モンローとともに全世界に向けた「アメリカ的なるもの」の先鋒としての地位を確立したのである。

■空を見上げよ!

UFO時代の最初の10年間はとりわけ注目に値するものである。今日のUFO伝説に見られるすべてのテーマは、この最初の重要な10年間に導入された。信じられないほどの速度で飛び、ありえない動きを見せるナゾの飛行物体の目撃。墜落した円盤と死んだ異星人の回収。空飛ぶ円盤の搭乗者との接触。恐ろしい誘拐。奇妙な実験。そしてこれは何よりも重要なのだが、真実を国民に知られることを恐れて、これらのことすべてに対して政府が行っている隠蔽――。だが、世界のほとんどの人々にとって空飛ぶ円盤というのは――それがUFOと呼ばれるようになったのは1952年のことだった――ビックリするネタ、そしておそらくは娯楽のネタだったのかもしれないが、新たに創設されたアメリカ空軍と情報機関にとってみれば、これは一つの大きな頭痛の種であった。

1947年6月にケネス・アーノルドが目撃したニュースは瞬く間に世界中に広がった。アーノルドは空飛ぶ円盤の大使としての役割を楽しみ、自らの遭遇について定期的に語り、物体が秘密の航空機であると信じていること、それはできればアメリカのものであって欲しいが、ソビエトのものかもしれないということ、それは原子力で動いている可能性があること――等々を語った。彼の発言は、軍部と、そしてレイ・パーマーという名のSF雑誌編集者の注意を引きつけた。この両者のおかげで、アーノルドは世界初の空飛ぶ円盤の目撃者というに留まらず、世界初の調査者、すなわち最初のユーフォロジストとなった。

レイ・パーマーは1938年に『アメージング・ストーリーズ』の編集者となって以来、地底世界や宇宙からやってくる訪問者のストーリーを世に送り出していた。アーノルドの目撃があった時点で、パーマーの雑誌は前例のない成功を収めていた。これは主に1945年に出版された「アイ・リメンバー・レムリア」や、地底に住んで高度な技術を持つ異界の者たち、すなわち「デロ」の脅威をテーマとした、同様にセンセーショナルで100%実話という触れ込みのストーリーのおかげだった。デロの物語は驚異的な人気を博し、『アメージング・ストーリーズ』の発行部数を月間25万部に押し上げ、筆者のリチャード・シェイヴァーを予想外のスターにした。それまでフォード・モーター・カンパニーで働いていた彼は、ウィスコンシン出身で妄想癖のある分裂症気味の溶接工兼画家であった。

パーマーはまた、空飛ぶ円盤の誕生にも一役買っていた。『アメージング・ストーリーズ』は1946年9月、科学ライターのW.C.ヘファーリンによる4つの短い記事を掲載したが、そのうちの1つ『サークル・ウィングド・プレーン』は、1927年にサンフランシスコ上空を飛行していた信じられないほどに進歩した航空機について記していた。この空飛ぶ円盤のプロトタイプとでもいうべきものは、謎めいたGhyt(ガス水力タービン)モーターで動き、時速1000マイルで飛行できた(公式の航空史では、チャック・イェーガーが音速を突破したのは1947年10月のことで、時速約887マイルに達したとされている)。操縦席は円形翼の中央のドーム部分にあって、この「パイロットの夢」は高度6万フィートに達することができ(公式にはU-2がこの高度に到達したのは1950年代半ばである)、「カモシカのように自由自在に動く能力をもつ」とされていた。『アメージング・ストーリーズ』の同じ号には、リチャード・シェイヴァーによる異星人による誘拐譚という恐ろしい物語も掲載されていた。1946年9月に『アメージング・ストーリーズ』を読んだ者の中に、この「サークル・ウィングド・プレーン」が1年以内に空飛ぶ円盤として現実のものになること、そして異星人による誘拐というシェイヴァーの悪夢のようなビジョンが、10年後に現実になることを予測できたものはいなかっただろう。

最初のUFO調査は、ケネス・アーノルドの目撃のわずか1か月後、彼自身の手によってなされたのだが、それはレイ・パーマーの雑誌を舞台に行われたものだった。それはアーノルドの運命的なフライトの数日後のことだったが、パーマーは手紙とともに岩のような物質の入った小包を受け取った。差出人はハロルド・ダールという人物で、そこにはアーノルドの目撃の3日前、つまり6月21日に、ワシントン州タコマ近くのピュージェット湾にあるモーリー島付近で発生した事件のことが記されていた。それによれば、謎めいた「空飛ぶドーナツ」が複数、ダールの頭上を通過していき、そのうちは1つはスラグや溶岩を思わせるような黒い物質を大量に放出したのだという。パーマーが手にしてものはまさにコレ――つまり空飛ぶ円盤のホンモノの破片であったのだ!

港湾警備員であるダールは、沖合3マイルにある無人のモーリー島付近でボートを操縦していたのだが、その時、乗船していた息子や他の乗組員と共に5つの空飛ぶドーナツが音もなく旋回しているのを目撃した。さらに、その旋回の真ん中には何やらトラブルを起こしたと思しき6番目のドーナツが1機あった。ダールの描写によれば、その乗り物は「気球」のようで、形状は丸かったが上の部分は幾分か押しつぶされたようになっていた。直径は約100フィートだったが中央部には25フィートの穴があり、それ故にドーナツのような形に見えたのである。その乗り物の外側には周囲を取り巻くように舷側があって、それは「ビュイックのダッシュボードのように」輝いていた。彼らが見守る中、問題を起こしたと思しき中央の1機は地上500フィートあたりまで降下し、「鈍い音」を発しつつ大量の紙のような金属材と、溶けた黒い岩のようなものを吐き出した。その岩の一部は彼らが連れていた犬を直撃し、犬は死んでしまった。さらに一部はダールの息子の腕にヤケドを負わせた。ほうほうの体で岸に戻ったダールは、すぐにフレッド・クリスマンにその話をし――この手紙の中でダールは、クリスマンのことを「上役」と記していた――それから体を休めるべく自宅に戻った。

その翌朝。ダールの家を、黒い服を着た男が一人、1947年製のビュイックに乗って現れた。その男は「近くのダイナーで朝食をとろう」とダールを誘った。この奇妙な男は、1950~60年代のUFO伝説の定番ネタとなる「メン・イン・ブラック」の原型となるのだが、それはともかく彼はダールの体験の一部始終を再現するかのように語り、「このことは誰にも話さないように」と警告した。こうした成り行きに混乱したダールではあったが、彼はその忠告を無視してレイ・パーマーに手紙を出し、ドーナツが発したスラグの一部(それはダールの体験の翌日、フレッド・クリスマンが集めたものだった)を同封した。最初は「逃げ去っていったモノ」にかかわるダールの話に懐疑的だったパーマーであるが、やがて彼は考えを改めた。7月半ば、彼はアーノルドに対し、あなたは空飛ぶ円盤の発見者なのだから、この事件を調べるのにはベストの人物なのだと説いた。さらにパーマーは、決心を促すべくアーノルドに200ドル(現在の価値で約2000ドル)を渡した。

1947年7月25日、ボイシの自宅にいたアーノルドは、アメリカ陸軍航空部の諜報部員、フランク・ブラウンとウィリアム・デイヴィッドソンの訪問を受けた。彼らは空飛ぶ円盤の話の背後に何があるのかを突き止める任務を受けていたのである。これは友好的な会談となった。航空部の男たちはアーノルドの目撃談について質問し、パーマーの提案にも興味を示した――もっともアーノルドはこの時点でまだその提案を受け入れていなかったのだが。諜報部員たちはアーノルドの友人や航空関係者とも話をし、彼の「原子力航空機」説についても興味を示した。そうして接触した人物の中には「アイダホ・ステーツマン」誌の航空編集者であるデイヴィッド・ジョンソンもいた。ジョンソン自身も空飛ぶ円盤を目撃していた人物で、「調査にあたってはウチの新聞も経費を負担するから」といって、ダールの提案に乗って調査するようアーノルドを説得したのはこの人物だった。

7月29日、アーノルドはタコマへ飛んだが、その途中で再びUFOを目撃した。今回は真鍮色をしたアヒルのような物体が約2ダースほども、ものすごい速度で彼の方に向かって飛んできた。タコマ空港に着陸すると、アーノルドはすでに高級ホテルのウィンスロップ・ホテルに部屋が予約されているのを見つけた。奇妙なことだった。というのも、彼がその日にそこにいくことを知っていたのはジョンソンだけであったから。アーノルドは部屋を取り、それからダールと会った。ダールは、円盤が発した黒いスラグを保管していた秘書の家にアーノルドを連れて行った。その一部は灰皿として使われていた。UFOの破片はアーノルドには普通の溶岩のように見えたが、ダールは「それは自分のボートに当たったのと同じ素材だ」と主張した。少ししてからフレッド・クリスマンが現れた。アーノルドの目に映るクリスマンは押し出しがよく、自信に満ちた感じの人物であった。その印象はダールとは好対照だった。ダールはどこか臆病で鈍重な感じのする人物で、クリスマンがいるところでは会話にあまり加わろうとしなかった。

これはちょっと自分の手に余るかもしれないと考えたアーノルドは、この調査を手伝ってもらおうとE・J・スミスを助っ人に呼ぶことにした。このスミスも、空飛ぶ円盤を目撃したことのある人物だったのだ。その翌日、スミスとサシで話している時、クリスマンは「ダールが目撃したドーナツ型の乗り物は、アーノルドがレーニア山で見たのとは全く別物だった」と語った。さらに彼は、ナチスが戦争末期に空飛ぶ円盤を作っていたというウワサ話を持ち出して、アーノルドのそれもダールのそれも米軍が飛ばしたものとは考えられないとも言った。あるいはクリスマンは、スミスを介して「自分が見た乗り物はアメリカのものではない」とアーノルドに信じ込ませようとしていたのだろうか?

アーノルドとスミスにとって、事態はいささか奇妙な方向に転がり出した。ユナイテッド・プレス・インターナショナル(UPI)の記者から一本の電話が入ったのだが、記者はその電話で、ホテルの部屋で二人が話していた内容に触れていた。二人は部屋が盗聴されていると確信して部屋を調べた。しかし、怪しいものは何も見つからなかった。何か仕組まれているのではないかと案じたアーノルドは、7月31日、以前アイダホにアーノルドを訪ねてきた空軍情報部のエージェント、つまりデヴィッドソンとブラウンに電話をかけた。どういうわけかブラウンは基地の電話で話をすることを拒み、公衆電話から折り返しの電話をかけてきたのだが、そこでこの日の午後にはカリフォルニア州ハミルトンからデヴィッドソンとともに空路そちらに向かうと言ってくれた。その数分後、アーノルドのもとにまたUPIの記者から電話がかかってきた。今度の電話は公衆電話からだったが、そこで彼はマル秘の情報を明かした――「航空部は調査に入るようですね?」と。となると、これはブラウンがネタ元ということなのだろうか? この電話を切るや否や、また別の記者がホテルのロビーから電話をかけてきた。彼もまた、いま何がおきつつあるかを知っていて、それをすっぱ抜こうとしていた。この調査の件で彼らに情報を流していたのは一体誰だったのだろう?

夜になってやってきたブラウンとデヴィッドソンは、クリスマンからケロッグのコーンフレークの箱一杯に入った破片を手渡された。ただ、アーノルドの目には、それは以前見せられた破片と明らかに異なってみえた。そこでアーノルドはホテルの部屋が盗聴されていることをエージェントたちに伝えようとした。しかし、彼らは関心を示すこともなかった。そしてアーノルドに「すべては港湾警備員のデッチ上げだ」とほのめかし、真剣に受け止めないほうが良いと言った。

明けて1947年8月1日、2人のエージェントは「ドーナツ」の破片入りの箱を持ち、カリフォルニアへ戻るべくB-25機に搭乗した。が、離陸直後の午前1時30分、左エンジンで火災が発生し、飛行機はワシントン州ケルソ・ロングビュー近くに墜落した。ブラウンとデヴィッドソンは共に死亡し、他の2名の搭乗員は生き残った。生存者の一人の証言によれば、デヴィッドソンは荷物を守るために機内に残ることを選び、ブラウンは壊れた翼によって脱出を阻まれたということだった。8月1日はアメリカ空軍の日であり、この日をもってアメリカ空軍は陸軍から独立した。ウィリアム・デヴィッドソンとフランク・ブラウンは、その最初の殉職者となった。

これはアーノルドとスミスにとって辛い体験となった。エージェントの死に打ちのめされ、調査の解決が見えないことに苛立った彼らは、帰宅することを決めた。しかし二人はその前に空軍少佐のジョージ・サンダーと会い、残りのドーナツの残骸すべてを渡すよう頼んだ。彼らは渋々それに応じた。サンダーは彼らをモーリー島近くの半島に連れて行った。その先端にはタコマ製錬会社という大規模な工業施設があり、一体は黒いスラグの山で覆われていた。サンダーは「これがクリスマンが彼らに渡したUFOの破片なんだ」と言って、この一件すべてが手の込んだ詐欺であったことを再びほのめかした。

アーノルドは納得しなかった。しかし、彼とスミスは調査が行き詰まったこと認めざるを得なかった。最初は「大冒険」だったものが、最後は死と欺瞞、失望だけで終わってしまった。帰るべき時が来た。空港へ向かう途中、彼らは初日に訪れたダールの家に立ち寄ることにした。アーノルドは確かに正しい場所まで車を運転していった。ところがその家には「全く人気がなく、家具一つなかった。ただいたるところに埃と汚れ、クモの巣があるだけだった」。動揺し混乱した気持ちで飛行機に乗り込んだアーノルドは、途中給油のためオレゴンに立ち寄った。だが、離陸時にエンジンが突然停止し、緊急着陸を余儀なくされたため、衝撃で車輪が曲がってしまった。アーノルドがエンジンを調べると、燃料バルブが切断されているのを発見した。それは、苦しみとフラストレーションに満ちた旅の最後の災難であった。

このエピソードが如何なる問題にかかわるものであったのかはともかく、それは単に「空飛ぶ円盤」にとどまるものではなかった。アメリカ当局が当時、ソ連の脅威を如何に真剣に受け止めていたかを過小評価することはできない。1943年、米陸軍とFBIはソ連の諜報通信を解読するために「ヴェノナ計画」を開始した。その存在は極秘にされたため、ルーズベルト大統領やトルーマン大統領ですら知らなかったほどであった。ヴェノナは1946年12月に最初の劇的な突破口を開いたが、その結果は壊滅的なものであった。ヴェロナ計画により、ソ連のスパイは、原子爆弾を作ったマンハッタン計画や、戦略サービス局(1947年にCIAとなった)、陸軍航空隊、戦時生産委員会、財務省、国務省、さらにはトルーマン大統領の信頼を得たホワイトハウスの職員の中にまで入り込んでいたことが確認された。米国は猜疑心に駆られた――それには十分な理由があったにせよ。「アカ」はベッドの下に――しかもホワイトハウスの中のベッドの下にまでいたのだ。その結果、1947年3月21日、ハリー・トルーマン大統領は忠誠令として知られる大統領令9835号に署名し、FBIに現在および将来にわたって連邦職員全員を調査する広範な権限を与えた。この赤狩りは上院議員ジョセフ・マッカーシーの台頭と、全米各地における非米活動委員会による狂騒を引き起こした。

これがUFOが現れたときのアメリカの状況だった。その最初のスポークスマンとも言うべきケネス・アーノルドが、全国紙でアメリカの秘密の航空機やそのエネルギーとしての原子力について語り始めた時、彼は陸軍航空隊情報部(リチャード・ドティのAFOSIの前身である)やFBIなどによる大がかりな防諜調査活動とおぼしきものに巻き込まれたとしても驚くには当たるまい(ちなみにFBIはモーリー島事件について長大な報告書を作成している)。となると、モーリー島の一連の事件はアーノルドを試すために仕組まれたものだったのだろうか? ダールはその芝居のアクターだったのか、それとも心ならずも参加した引き立て役だったのか? 「空飛ぶドーナツ」の目撃というのはアーノルドのために仕組まれたものだったのだろうか? ダールは何度かその飛行物体を「気球」と表現していたから、もしかしたら彼が見たのは本当に気球だったのかもしれない。アーノルドによれば、雄弁なクリスマンと比べた時、ダールというのはいかにもお人好しの人物に見えたという。ちなみにダールはクリスマンを「上役」と呼んでいたが、その港湾警備艇はダールの名前で登録されていた。

フレッド・リー・クリスマンは、このナゾの中心にいる人物だ。第二次世界大戦中、クリスマンは陸軍航空隊の一員として東南アジアや太平洋地域に飛んでおり、米国の諜報機関である戦略サービス局(OSS)で働いていたという噂もあった。戦後、彼は退役軍人リハビリテーション協会の調査員を務め、モーリー島の騒動を経た1947年8月下旬には、名高き原子力委員会に職を求めた――それは言うまでもなく核兵器をも含むアメリカの核機密を守る組織である。さらにいえば、モーリー島というのは、世界初のプルトニウム処理施設としてマンハッタン計画に材料を提供したハンフォード核物質処理施設からそう遠くない場所にある。最初の「事件」というのは、本当はプュージェット湾での核廃棄物の不法投棄を隠すためのものであったという説もある。あるいは、アーノルドはハンフォードに連れて行かれ、もし彼がソ連のエージェントと関係をもっていれば、ソ連側も同様に興味を示したであろう施設に関心を示すかどうかを試されたのではなかったか?

それとも、我々はただこのミステリーに入れ込みすぎているだけなのだろうか?クリスマンについてのFBIファイルによれば、ダールとクリスマンは、単にレイ・パーマーから「空飛ぶ円盤の残骸」のネタで金を騙し取ろうとしただけだったのだが、調査のためアーノルドが登場し、さらにはFBIや陸軍情報部も巻き込んだことで、自分たちの手に負えない事態が生じてしまった――ということになる。その可能性もあるだろう。しかし、クリスマンの関与は、ここでもっと複雑なことが起きていた可能性を示唆している。

クリスマンは短くも華々しく波乱に満ちた生涯を送った。彼の名前は、議論を呼んだ地方検事ジム・ギャリソンによるジョン・F・ケネディ暗殺事件についての調査書にも登場する。ギャリソンは、クリスマンが武器売買の世界に潜入するエージェントとして働いていたことがあり、ケネディ暗殺の現場にいた可能性すらあると主張した。後に彼はワシントン州とオレゴン州の政界にも関わり、トラブルメーカーとしての悪名を轟かす一方、諜報機関との関係も絶えず噂されることとなった。クリスマンはCIAに雇われていたのではないかという疑惑を受けるにふさわしい人物であった。彼は1960年代後半、UFOへの国民的関心が高まった時期に再びUFOの世界に戻り、モーリー島事件は本当にあったUFO事件なのだと言い立てた。1975年、56歳で亡くなった彼は、没後にまで伝説的なミステリーを残していった人物だった。(02←03→04

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■第2章 円盤の出現

    「いま真実というものが失われているのなら、明日現れるのは神話だろう」 ――ユーリ・ハリトン

■2004年9月、カフェ・ブリス(ロンドン・ダルストン)

容赦ないほどに脂っこい朝食が消化器系に与えるインパクトにちなんで名づけられたブリス(至福)という店――そのお気に入りの店で、ジョン・ランドバーグと私は顔を合わせていた。ジョンと私が初めて会ったのは1998年だった。その時、私はミステリーサークルを作る彼のグループに加わった。そう、ミステリーサークルというのは例外なく人工的な産物なのだ。それも1970年代半ばからずっと。

ジョンと彼の仲間たちは1990年代初頭から毎夏ミステリーサークル作りに精を出してきた。それは今も変わらない。私は「フォーティアン・タイムズ」誌のジャーナリストとして彼らと出会ったのだが、しまいには彼らのチームに加わることになった。私は何年もの間この仕事に取り組んだが、それほど上手な作り手だったとはいえない。しかし(雨が降っている時を除けば)夜空の下の畑で働くことに飽きることはなかったし、ナゾのミステリーサークルを信じ込んでいるビリーバーたちがこねくり回す理屈というものに常に魅せられていた―その理屈というのは、この現象にスピリチュアルな意味でも情緒的な意味でもおカネの面でも入れ込んでいない人間にしてみればおそろしいほど明白にようにみえることに対し、真正面から向き合うのを避けて彼らが作り上げたものであったわけだが。

しかし、その日、私たちが話していたのは、ミステリーサークルのことではなかった。ジョンは映画製作に忙しく、政府とトラブルになったミステリーサークルの研究者にかんする短編ドキュメンタリーをまとめたところだった。私の向かいのシートにすべり込んだ彼は、いつものiPodのイヤホン、軍用の緑のパファージャケット、エイフェックス・ツインのスウェットシャツを身につけていた。バイキング系の名前が示唆するように背が高くて頑健で、髪を刈り込んだ彼はいつも笑顔だったが、そうでなければ威圧的に見える人物なのかもしれない。彼がベジタリアンの朝食を注文するや否や、我々は仕事の仕事を始めた。

「CIAのさる人物と話をしているんだ」。彼はひそひそ声で言った。「これまで彼が私に話したことは、結局全部がウソだった。でも彼は友好的な人物で、何かしらのことは知っているとボクはにらんでいるんだ。話の最後に彼は言ったよ。もしUFOに興味があるのなら、リチャード・ドーティーという人物についての映画を作ったらいいよ、って。君はこの人物を知ってるかい?」

私はベイクド・ビーンズを飲み込み、お茶を一口含み、深呼吸をしてから話し始めた。リチャード・C・ドーティーはUFO文書の地下世界に出没するメフィストフェレスとでも言うべきキャラクターだった。一部の人々にとってのドーティーは「暗黒の騎士」――かつて自らが活動していた諜報の世界と、彼自身が「エイリアンは地上にいる」という信じがたい情報を渡したUFO研究家たちが形作る世界の間にあって、捕らわれた暗黒の騎士であった。他の人々にとってのドーティーは「はぐれ者」――政府の陰謀のための道具にしてニセ情報を撒き散らす者、UFOの秘密を打ち破ろうという大義への裏切り者であった。言ってみれば、ドーティーは我々にとって近しいタイプの人間なのだった。UFOやミステリーサークルのような真偽の境界線上にある現象に引き寄せられてくる人間――それはジョンや私にとっては永遠の魅力の対象である。こうした事象は真空の中では生じない。その現象を育み、奇っ怪なその姿を現出させるためには、ドーティーのような人物が――そして我々のような人間もであるが――存在する必要がある。日常の世界における事実と、精巧なフィクションとの間のどこかに横たわる者が。換言するならば、もしUFOが森の中に着陸し、それを誰も目撃していなかったのなら、UFOは本当に存在したといえるのだろうか?

1970年代後半から1980年代初頭にかけて、ドーティーは米空軍特別捜査局(AFOSI)に勤務していた。この組織は、空軍内部におけるFBIのような役割を果たしている。通常、AFOSI(一般にはOSIと呼ばれているが)は、国内外の米空軍基地で発生した犯罪、例えば窃盗、薬物取引、殺人などを調査している。また、AFOSIは空軍とその作戦に対する脅威を発見・抑止する任務や、対敵情報活動、対敵諜報活動などの役割を担っており、それらは敵に対して技術的優位を維持するために極めて重要なものとなっている。米空軍は何十年にもわたって、新しい航空技術の開発において世界のリーダーであり続けてきたが、AFOSIはこの点において重要な役割を果たしてきたのである。

ニューメキシコ州のカートランド空軍基地に駐在するAFOSIの特別捜査官として、ドーティーは戦後期において最も奇っ怪な諜報活動のひとつに関わりをもつことになった。この話はもともと公にされるはずがないものだったが、実際には表沙汰になってしまった。その露見がドーティーの責任であるのか、それとも彼が大規模な作戦のスケープゴートに過ぎなかったのかは定かでないが、この事件は空軍の最も機密性の高い策謀を公衆の目に晒し、多くの人々が常に疑っていたこと、つまり米政府がUFOについてウソをついていたことを初めて明らかにしたのだった――ただしそれは、UFOコミュニティが望んでいたような形でなされたものではなかったのだが。

それは1979年、優れたエンジニアで物理学者でもある人物として50歳代前半に頭角を現したポール・ベネウィッツに関わるストーリーとして始まった。彼の経営する「サンダー・サイエンティフィック」社は、カートランド基地との境にある工場で、空軍やNASA向けに温度計やコンパスといった機器類を開発していた。ベネウィッツ自身は、カートランドの北側にある高級住宅街フォーヒルズに家族と共に住んでおり、そこからは基地やマンザノ山脈を見渡すことができたが、この山脈には当時、米国最大規模を誇る核兵器の貯蔵施設の一つがあった。

その年の7月、ベネウィッツは自宅の屋上デッキから、マンザノ地域周辺に飛び交う奇妙な光を撮影するとともに、それらに関連していると思しき無線通信を記録し始めた。彼は市民としての責任感をもつ人間だったし、空軍と契約を結んでいることもあったため、1980年になってからカートランド基地のセキュリティにいま起きていることを報告することにした。非常に優れた科学者ではあるものの、多くの優れた人々にはままあるように若干風変わりな面もあったベネウィッツは、その光体というのは高度に進歩した地球外生命体による乗り物であるに違いないと結論づけた。また彼は、彼らの意図は決して友好的なものではないと推測し、その旨を空軍に伝えた。

ここまでのところでも既に相当奇妙なストーリーではあるのだが、話はさらに奇妙で非常に不吉なものになっていく。2003年に75歳で亡くなったベネウィッツは、善良な人物で真の愛国者であった。空軍はこういってぞんざいに彼を追い払うこともできただろう。「ご協力ありがとうございます。これらは我が軍が機密にしている航空機なので、これは見なかったことにして誰にも話さないでください」。しかし、代わりに彼ら、つまりAFOSIは、ベネウィッツの無害な妄想を後押しするにとどまらず、それを増幅して最終的には彼を狂気の淵に追いやってしまうことを決めたのである。AFOSIはその後の数年間、彼に政府のUFO文書と称するニセ文書を渡し、悪意のある地球外生命体からの通信を受信しているように見えるコンピューターを供与し、はるか離れたニューメキシコの地にニセモノのUFO基地を作り上げた。これら全ては一人の風変わりな科学者をだますために行われたのである。

リチャード・ドーティーの役割は、ポール・ベネウィッツと親しくなって、彼を「宇宙戦争」の空想にさらに引き込むことであった。同時にドーティーは、少なくとももう一人、名高いUFO研究者であるウィリアム・ムーアとも秘密裏に連絡を取り合っていた。ムーアはUFO研究の世界で進められている最新の調査・研究の詳細をAFOSIに提供していたのである。ムーアの情報はニセの政府文書を作成するために利用され、それは「政府のトップレベルでUFOの隠蔽が行われている」というUFOコミュニティの疑念を補強し、ムーアの仲間の研究者たちを「人間とエイリアンの間には長年関わりがあった」とする偽史(それは2000年間にも及ぶということになっていた)に引き込んでいった。これについてムーア自身は、自分はホンモノの政府文書を提供してもらえるという約束で協力させられたのだと言い張った――ちなみにその文書では、地球外生命体は本当に地球を訪れており、米政府は人類史上最大のこのストーリーを隠蔽していることが証明されるはずだった。

このねじくれた作戦1980年代後半まで続き、最終的にはアメリカのUFOコミュニティ、そしてポール・ベネウィッツの精神の双方を破壊した。ドーティーの行動は最終的には暴露された。西ドイツでAFOSIの任務についた後、彼は空軍から退役し、ニューメキシコ州の州警察官となった。それが、私であれ他の誰であれ、リチャード・ドーティーについて当時知っていたことの全てであった。

私にとって本当に興味深かったのは、ドーティーとベネウィッツというのは、1980年代初頭以来出現した多くのUFO神話にかんして、そのソースではなかったとしても流出ルートにはなってきたということだった。墜落したUFO。悪いETと米政府が結んだ協定。エイリアンによる家畜の収奪や人間のDNAの操作。そうした話は、無数の書籍、記事、映画、テレビドキュメンタリーを通じて何度も語り継がれることで信憑性を増していった。ここは20世紀後半におけるフォークロアの生成の場であり、冷戦期のアメリカの夢想の中心、ミステリーサークル作りを通じて私とジョンがすでにその一部を成していた世界であった。

ドーティーが勝手に動く一匹狼だったのか、あるいは同じ任務に従事する多くのエージェントのうちの一人だったのかはわからない。ただ、確かなのは、アメリカの諜報機関は常にUFOのストーリーにクビを突っ込んでいたということだ。UFOコミュニティでは、CIAや国家安全保障局(NSA)といった組織は真実を隠蔽するための道具であるとされてきた。だが、ベネウィッツをめぐる出来事は、その話は逆なのかもしれないということを示唆していた。つまり、実際には、UFOをめぐる神話の多くはそうした機関が発していたのかもしれないということだ。

冷戦初期、アメリカはラジオ送信機を使ってソビエト深奥部に向けてプロパガンダを流していた。ロシアの大都市では「干渉活動」が行われており、何百人もの「ジャマー」が電子音やテープ録音、ガラガラ音や音声を使ってこれらの敵対的なアメリカからのシグナルを妨害していた。ノイズを作りだし、情報に何か付け加えたりニセ文書を作ることは――業界では「データ・チャフ」と言われるものだが――諜報活動や防諜活動では常套手段となっている。ベネウィッツ事件の真相というのはそういうものではなかったのか? 仮にそうなら、彼らが隠そうとしていたシグナルとは何だったのか?

私は、実際にUFOと諜報活動とが絡み合った話を読んだことがある。1950年代初期、CIAはハンガリーの王冠の宝石を「UFOの部品だ」と偽って国外に持ち出した。1991年にはMI6が、国連事務総長候補のブトロス・ブトロス=ガーリを地球外生命体に関する途方もない話と結びつけて中傷しようとした。こうした逸話は、諜報の世界の人々が地球外生命体の現実を覆い隠すために必死になっていたことを示唆するものとは思われず、むしろUFOというのは必要に応じて持ち出されるオモチャの一つに過ぎないことを示している。

では、なぜCIAのネタ元は、リチャード・ドーティーについての映画を作るようジョンに頼んだのか?確かに興味深いアイデアではあった。だが、それはトントン拍子で進むとは思えないシロモノだ。ドーティーはUFOの現場から離れて久しく、彼にインタビューできるるチャンスがあるとは思えなかった。さらに、UFOシーンがほぼ10年間停滞していたことも我々の足を引っ張った。インターネットの中ですら、異星人への関心は薄れているように見えた。関心のピークは1997年で、それは「Xファイル」が絶頂期を迎えた時であったし、その年の3月には非常に巨大な物体がアリゾナ州フェニックス上空を静かに移動していくのが目撃された。しかし、それ以来、このテーマに対する熱はすっかり醒めており、「フォーティアンタイムズ」誌に送られてくるUFOニュースの切り抜きが少なくなってきたことがそれを如実に示していた。当時の話として私が覚えているのは、英国のUFO組織の閉鎖と「ユーフォロジーの死」に関するものだけだ。ダメだ。UFOを追いかけるべき時期ではなかった。いや、UFOに関する話を追いかける時期ですらなかった。しかし、だからといって私たちは立ち止まっていいのだろうか?

私たちはリチャード・ドーティーについて、そして諜報の世界とUFOコミュニティの関わりについての映画を作ることに決めた。ひょっとしたら映画が完成する頃にはUFOが再び流行しているかもしれない。思いがけないことはこれまでにもたくさん起きてきたのだから。

新しいプロジェクトに興奮したジョンと私は別れた。しかし、家に帰って、自分が何にアタマを突っ込んだのかを考え始めると、最初の熱意は次第に消えていった。私は最後に世界がUFO熱で盛り上がった当時のことを思い出した。当時の私は、他の多くの人々と同様、UFO信仰の最前線にどっぷりと浸かっていた。果たして私は本当にあれと同じことを繰り返したいのだろうか?

■UFO:ノーフォークの日常

1995年のヨセミテでの目撃後まもなく、私はUFOに対するこだわりを反映しているかのような夢を見た。それは奇妙で強烈な夢であり、何年も無意識の中に染みつくようなものであった。その夢の中で、私はパディントン・ベアのようにしてエリザベス2世にお茶に招待された。私は輝く銀色の馬車で女王に会いに行った。宮殿の外観は覚えていないし、それが建物であったかどうかも定かではないが、内部は観光パンフレットに載っているような豪華な装飾で、赤いビロードと白貂の毛皮が掛けられ、宝石と金箔で飾られていた。女王は礼儀正しかったし、もちろん私もそうだった。私たちはボーンチャイナのティーカップでお茶を飲み、何かを話したが、その内容は覚えていない。そして、辞去する時が来た。

女王は私を宮殿の入口まで案内した。入口の敷居は輝く黄色い光で満たされていた。女王が私の手を取り、別れを告げるために前かがみになって頬にキスをしようとした瞬間、恐怖に包まれた。私の視点からは、化粧が剥げた部分が見え、その下には冷たく灰色で革のような異星人の肌があった。

フロイト派の解釈者であれば、これを幼児性の権力に対するファンタジーと解釈し、併せて女性から疎外されていることの表れだと指摘するのではないか。ユング派の解釈者は、これを内なるアニマ、つまり内なる女神との出会いと読みとるかもしれない。デイビッド・アイクは――私がこの夢を見た数年後に、彼はこのような出来事について一生懸命書いていたけれども――自在に姿を変え、人の血をすする爬虫類型異星人の支配者の恐ろしい現実を垣間見たものだとみなすだろう。UFOコミュニティの面々の多くは、これをホンモノの異星人に誘拐された体験を隠す「スクリーンメモリー」と考えるかもしれない。おそらくそれら全てが正しいのかもしれない。が、よくよく考えればそれは私がUFOに関する本をあまりに読みすぎていたことのあかしでもあった。

その秋、イギリスに戻った私は(当時はノリッジに住む学生だったのだが)ノーフォークUFO協会(NUFOS)に参加した。数か月後、グループの若い創設者がマリファナによる神経衰弱を起こしたため、私はリーダーを務めることとなった。

NUFOSの会合は、2週間に一度、ノリッジのウェンサム川沿いにある「フェリーボート・イン」で行われた。時には100人もの人々が集まることもあったが、中心メンバーは約20人で、退職した警察官や英空軍(RAF)の要員も含まれていた。多くのメンバーは自身の奇妙な経験に対する答えを求めていた。もっとも、その当時はUFOに関するストーリーがメディアで盛り上がっていて(そのほとんどは米政府によってエイリアンが解剖されたというインチキフィルムに関するものだったが)好奇心を募らせた人々もたくさんやってきていたのではあったが。


協会の会長として、ふだんは私がプレゼンテーションを行った。話したことといえば、「リモートビューイング」を試みるアメリカのサイキック・スパイプログラム、火星の人面岩、ネバダ砂漠のエリア51で本当に行われていること(私はアメリカでの旅で基地の周辺まで行ってきたのだった)、世界が2012年12月に終わるのか――といったもので、要するに今では使い古されたUFOの話題であった。当時はインターネットが普及する前だったので、これらの話題はそれほど知られていなかったのだ。そう、少なくともノリッジでは。

NUFOSは調査活動も行っており、地元の新聞に取り上げられることもあった。ある晩、私は空に奇妙な形の明るい光を撮影した男に会いに行った。が、それは再三UFOと間違われる金星であって、彼のビデオカメラの内部シャッターメカニズムによって異常に角張って映ったものであった。また別の時には、地元紙が空に漂うオレンジ色の光を映したビデオの静止画を掲載した。それは典型的なUFO映像で、形の定かならぬ光の塊が暗い夜空を背景にして浮かび上がっていた。それは何とでも言えそうなものだった。そのフィルムに関するニュース記事には私の家の電話番号が掲載されたので、その結果、奇妙な光を見たのだが何なのかという電話が数件かかってきた。私の標準的な対応はこういうものだった。目撃者に「寒くて耐えられなくなるか、飽きるまでその光を見続けてください。翌晩同じ時間に外に出て、また光があれば、こちらにもう一回電話してくる必要はないですね」。それでもう電話はかかってこなかった。

これは単純にして明快な解法であった。メディアでUFOの目撃が報じられると、好奇心旺盛な人々は空を見上げるわけだが、ほとんどの人はふだんそんなことをしていない。すると彼らはそれまで見たことのないものを目にして「UFOではないか」と思う。それは私自身何度も経験したことであった。最も一般的な犯人は明るい星や惑星(特にシリウスと金星)、衛星、流れ星、そして降下する飛行機であり、その前部のライトが空中で静止しているように見えることであった。これらの目撃がほとんどすべてのUFO報告を占める。そしてこれからもそうであろう。しかし、そうではないUFO報告もあり、私たちもそうしたものはいくつか受け取っていた。

中でも刮目すべきものは「空飛ぶ三角形」であり、そのバリエーションは今でも世界中で見られる。有名なものとしては、1989年のノーフォーク海岸沖の油田での事例があって、三角形をした黒い乗り物が(それはノース・シー・デルタと呼ばれることになる)2機のF-111戦闘機に護衛される中で米国のKG-135給油機により燃料補給されているのが目撃された。これは凧やカモメの誤認ではなかった。目撃者のクリス・ギブソンは王立防空監視軍団の元隊員であり、航空機には詳しかった。

これらの「空飛ぶ三角形」というのはほぼ確実に最新式の軍用機などと思われるわけだが、UFOの物語においては繰り返し登場するキャラクターである。それらはオーロラ、ブラック・マンタ、TR-3Bといった名前で知られている。大きさはアメリカンフットボール場3つ分から普通の軍用機のサイズまでさまざまであり、速度もホバリングから瞬きする間に消えるほどの高速にいたるまで、こちらも様々に報告されている。彼らはしばしば無音飛行、透明化、重力を無視する能力といった特殊な力を持っているとされる。

NUFOSは、ノーフォークの湖沼に浮かぶ運河船の上でホバリングする「黒い三角形」や、一家が高速道路で追跡されたという驚くべき報告を受け取っていた。その家族は、もし箒が車の中にあれば箒の箒の柄で突けるほど近くを飛んでいたと述べていた。これらの報告は興味深く、通常の空に見える光よりもはるかにエキサイティングであったが、私たちはそれにどう対処すればよいのだろうか?地元の英空軍に相談すれば、国防省に正式な報告をするように言われるだろうが、防衛省が極秘で飛ばしている飛行機をスパイしてくれたからといって記念のバッジをくれるはずもなかった。

「どう対処すべきか?」は私たちの会議における定番の問いであった。私は、ランカシャーUFO協会のリーダーが同様の「空飛ぶ三角形」の報告に直面したときに行ったようなことはしたくなかった。彼は、そのナゾの飛行機が駐機しているとされた英空軍のウォートン基地に侵入することを提唱したのだった。面白いアイデアではあった。だが、NUFOSのメンバーの多くは自分たちの地域の軍事施設の階段を登るのすら苦労するだろうし、ましてやフェンスをよじ登るのはなおさらだろうと思った。

私たちの仲間の中には、UFO現象と非常に複雑で個人的な関係をもっている者もいた。ある女性は、自宅の上空に赤い光の球が現れることを、彼女が患っている慢性疲労症候群(CFS)と関連づけていた。別の年配の女性は、どの医師も診断できないほどの奇病のため車椅子から離れることができなかったが、それは異星人と関係していると確信していた。初めて話をしたとき、彼女は積み上げた木の上で丸太に「擬態」した異星人を見たと話してくれた。彼女もまた、CFSの女性と同じく、自宅の上空に赤い光を見たことがあった。時間が経つにつれ、私は彼女が毎回のNUFOS会合の間に、私たちが前回の集まりで話し合ったことを体験することに気づいた。彼女は、公には「空想性傾向のある人格」と呼ばれる心理学的なモデルケースにあたるのではないか。私はひそかにそう疑っていた。

そして、サイキックもいた。UFO現象は常にそうした者たちを引き寄せてくるのだった。1945年、つまり世界が初めて空飛ぶ円盤の話を耳にする2年前のことであるが、アメリカの超能力者ミード・レインは、ボーダーランド科学研究財団を設立し、エーテリアンと呼ばれる異星人とのチャネリングを始めた。1950年代半ばまでに、「ナッツ・アンド・ボルト」派のUFO研究者とチャネラーやコンタクティーの間には明確な線が引かれた。前者は科学志向の研究に傾倒し、しばしばプロフェッショナルな科学的背景を持っていたのに対し、後者はよりスピリチュアルな指向性を持っていた。NUFOSにはその両方がいたのである。

メンバーの一人、ショーンは、身なりに構わないやせ細った男で、目の下には黒いクマがあり、常に千年先を凝視をしているようだった。彼が言うには、自分は英国政府のためサイキック関連の仕事をしており、保守党の黒魔術作戦に対抗する秘密組織の一員だということであった。ある時、ショーンはギネスビールを飲みながら、ノーマン・テビットというのは保守党の悪魔崇拝集団のリーダーであって、それは「彼の目を見ればわかる」と言った。私の在任期間が終わった後、数年経ってから、ショーンは資金と資産を盗んだとしてNUFOSに訴えられた。

ジョージと彼の妻ジャネットは、遅れてグループに参加した。二人は仲の良い夫婦で、とても真剣な雰囲気を漂わせていたが、このジョージとジャネットは宇宙人からのメッセージをチャネリングで受け取り、テレビ画面で未来のビジョンを見せられたと言っていた。そのビジョンの中には、2000年になると地球に多くの宇宙人が着陸し、黙示録さながらの光景が展開されるというものもあった(それはミレニアムバグ――2000年問題が話題になるずっと前のことであった)。

NUFOSにおいては風変わりであることはアリだが、あいまいであることは許されなかった。1996年の初夏のある日、会議が招集されて、私たちはフェリーボート・インの奥の部屋に集まった。そこで私は、「あなたはこのグループのリーダーにふさわしくないとの決定がなされた」と告げられた。私は皆に友好的で、若く、そこそこ頭もきれた。だが、私は「答え」を持っていなかった。実際、私のプレゼンテーションというのはいつも新たな疑問を生みだすもので、それはUFOの謎を解明する助けには全くならなかった。NUFOSが求めていたリーダーというのは、グループに規律を植え付け、方向性を示し、そして・・・そう、答えを与えてくれる者だったのだ。

かくて彼らは、ジョージを新しい会長に選出した。テレビを通じてエイリアンのメッセージを受け取ってきたあのジョージである。裏切られたように思った、といえば言い過ぎだろう。私は学業を終えて、数ヶ月以内にロンドンに向けて発つ出発をしていたのである。ただ、私はグループとその将来に危惧を覚えた。ノーフォークの寒い夜、彼らは水路を越えて集まってきて、ポータブルテレビの明かりに照らされる中、「空飛ぶ三角形」に乗せてもらうのを待っている――私はそんな光景を想像していた。

振り返ってみると、私はNUFOSの運営者として最適の人物ではなかった。私が理想と考えていたのは懐疑的な中立地帯にあること――つまり、事実が旗幟鮮明な立場を取るよう求めてくるまでは或る理論を肯定も否定もせず、さらに特定の立場を取った後もなお疑問を持ち続けるということであったわけだが、こうした集団の中でそれを維持することは不可能だった。そもそも、私はそこで何をしていたのだろう? 本当にUFO団体を運営していたのか、それとも、ドロ沼にはまりこんでしまった、不器用で不誠実な参与観察者だったのだろうか? それはいまでもわからない。私はそのあとロンドンに移った。その際、一枚のマンガを持っていったのだが、それはグループにいた元警官のハリーが描いたもので、フェリーボート・インの駐車場にビーム光線とともに下ろされるエイリアンの姿が描かれたものだった。

その後、私をとりまく状況は変わり、UFO現象との関わり方も変わってしまった。ロンドンの空は、街灯や高層ビルに覆われ、日々行き交う航空機でいっぱいだった。ノーフォークの何もない空間が大きく広がっている空と比べると、得られるものはほとんどなかった。次第に空を見上げることをやめ、UFOに対する関心も薄れていった――私以外の世界もまたそうであったように。それでもUFOの話を読むのは好きで(特にそれが奇妙であればあるほど良かった)、何か新しい展開がないかUFO関係の噂話に耳を傾けていたのである。だが、私に――そしておそらくUFOシーンにとっても強い印象を残すようなものは現れなかった。

UFOコミュニティからやむことなく聞こえてくる「真実はそこにある」といった金切り声にはウンザリしてきた。要するに、人類史上最大の出来事、つまり異星人とのやりとりがアメリカのどこかの軍事基地の格納庫でひそかに行われているというのである。そんな出来事があったのなら、どこにその兆候があるのか? 歴史の流れの中のどの時点で、そんな突然の逸脱が起きたのか? ETのテクノロジーはどこにあるのか? それを秘密にし続けていることで利益を得ているのは誰か? マドンナやスティーブン・スピルバーグ、アラブの首長やオリガルヒの連中よりも多くのカネと権力を持つ者がいるということなのか? 陰謀論者が信じているように、もし秘密の組織のようなものが真実を手にしているのなら、彼らはそれをどう利用しようとするのか?

複数のパズルが互いにはまりあうことはなく、証拠もなかった。前々から言われてきた「真実は明らかになる」という話も実現しなかった。明らかなことは、本当にUFOが実在していたとしても、それについてよく分かっている者はいないということだった――世界政府(そんなものが密かに作られているのかどうかはともかく)でもそんなことは理解していないし、ましてやUFO研究家などは論外である。UFO問題に関する或るコメンテーターの言葉を借りれば、UFO研究家たちはUFOについて何でも知っているのだが、例外はある――それは「UFOとは何か」「UFOが来るのは何故か」「それがどこから来るのか」「UFOを操っているのは誰か」といったことだ。私はかつて「非人間存在はやってきていて、UFO現象の背後には異星人がいる」といった感覚をもっていたのだが、そうしたものはほとんど消え去ってしまった。人々がUFOを目撃し続けていることに疑いはない(これまでずっとそうだったし、これからもそうだろう)。しかし私は、ほとんどのUFO目撃事例において最も重要な部分というのは、目撃者の内面で起きたもので、決して外部ではないと感じるようになった。

結局、私はNUFOSと連絡を取らなくなったが、このグループは今も存在している。NUFOSやそれに似た多くのグループは、世界中のUFOコミュニティの完璧な縮図であり、もっといえばミステリーに関心を有するあらゆるコミュニティの縮図でもある。実際のところそうしたグループは、真実と意味とを求める永遠の探究を掲げながらも、実際には日々生じてくる小さな抗争であるとか、皆を支配する圧倒的な官僚主義が想像力をジワジワ締め付けていくことによって常に苦しめられている。そうしたグループは、おそらく人生そのもののメタファーとしてあるのだろう。他の惑星での文明生活も、実はこれとそれほど異なっていないのではなかろうか? (01←02→03

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マーク・ピルキントン『ミラージュ・メン』(2010)

■第1章 境界部へ

「船はそこにあるのさ。見上げた人々の目には見えるんだ」 ――グレイ・バーカーの『アダムスキの書』(ソーサリアンブックス、1965


 「あのクソったれは何だ!」とティムが叫んだ。彼の声は恐怖というよりも驚きをにじませていた――それは初めてUFOを見た人間にとってはさもありなんというものだった。

 1995年の7月中旬、明るく晴れた午後のこと。友人のティム、当時のガールフレンドのリズ、そして私は、パンクしたタイヤを取り外す作業をしていた。場所はヨセミテ国立公園の東の境界から27マイル離れたティオガパス・ロード沿いのテナヤ湖。私は22歳だったが、私が前輪を取り替えようとしていたクルマも同い年だった。それは1973年製のオンボロで青空のような色をしたフォード・ギャラクシー500。バックシートにはマットレスを敷いていた。私たちは80日以上かけてアメリカを一周する旅に出ていて、ほとんど2ヶ月ほどが過ぎていた。しかし、そのクルマは限界に達していた。直近でクルマを点検した整備士たちは、あえぐように走る2トンのケダモノで私たちが旅を続けるのをやめさせようとした。そこから私たちは200マイルほど進んできたわけだが、私がスパナを握りしめてそのクルマの下に入り込んでいたのにはそんな事情があったわけだ――そこでティムが叫び声を上げた。

 ティムは私の前に棒立ちになり、信じられないという風に言った。「あれは何だ?」。私は「わからない。でも30分ほど前に同じものを見たぜ。ここから数マイル下のほうで」と応じた。

 私はタイヤのナットを回し続けたが、心もまるでコマのようにグルグルと回転し続けた。私たちが見たものが何であれ、それは20分ほど前に道路上で目撃したものと全く同じものだった。

 ヨセミテからここに向かう途中で、クルマのタイヤはパンクしてしまった。新しいタイヤを持ってこようと、リズと私は最寄りの町、リー・ヴァイニングへヒッチハイクをして向かった。それはモノ湖のわきにあって、石灰に覆われたような殺風景な光景の広がっている、かつては採鉱業の最前線にあった小さな町だった。仕事が済んだ私たちは、通りかかった2人乗りのコンバーチブルスポーツカーに乗り込んだ。リズは前に座り、髪をきれいになでつけたドライバーとぎこちない会話をしていた。一方の私は、ドライバーシートの後ろの空間に足を突っ込んで、修理されたホイールを抱えながら座っていた。

 風の強い二車線の舗装道路を走りながらヨセミテへと戻ってくると、涼しい山の空気が吹き付けてきた。樹木が密集した北側の森のところをカーブした時、木々の間に光るものが目に入った。防火帯になっている直線道路の90フィートほど先、高いモミの木の間に全く予想もつかないものがあったのだ。それは地表3フィートのあたりに滞空しているようで、静止していた。

 それは光を反射する銀色の完全な球体で、直径はおそらく8フィート。磨き上げられた巨大なクリスマスツリー用のオーナメントのようだった。それは私にルネ・マグリットの謎めいた作品『La Voix des Airs 天の声』に描かれた、緑豊かな風景の中に吊されたベルを連想させた。それは美しく、穏やかで、不気味で、そして違和感に満ちていた。

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  La Voix des Airs 

 私が自分が見ているものがどんなものかを認識した途端、それは木々の後ろに消えてしまった――私たちが曲がりくねった道路を走っていく間に。数秒後、私たちはまた別の防火帯用の道路を通過していったのだが、さきほどと同じ場所に目をこらした。それはまだ同じ場所にいた。水銀のように輝き、不動で、奇妙なほど完璧だった。一瞬の閃光を放ってからそれは木々の間に消えたのだが、それからまた別の曲がり角、別の道路を経て、再びあのいまいましい球体が出現した。私は、頭の中で説明を探したけれど、それを口に出すことはなかった。リズやドライバーは特に異常なものを見たような様子もなかったし、仮に私が何を言うべきかわかったとしても、爆音するエンジンと風の音の中でそれを伝えることは不可能だった。

 球体と森を後にした私たちは、自分たちのクルマに戻ってきた。それはきらめく湖と険しい岩山の間に挟まれた場所にあった。クルマをジャッキアップしてその下に潜り、ホイールを取り付ける作業をしている間、私は自らが見たものについて口にすることはなかった。ティムが叫び声を上げたのは、その時だった。私の視界にあったのは彼の足首と足だけだったが、彼とリズは興奮して大きな声を上げた。

 「早く!これを見ろ!いったい何なんだ!?」

 立ち上がった時、私はそこで何を見ることになるかは分かっていた。

 午後の日差しを受けて、それは湖の上を意志を持っているかのように滑り、私たちに向かって進んできた。穏やかに浮かんでいるさまは、まるでどこかの粘性のある流れに運ばれているかのようだった。それは先に見た球体とまったく同じように見えたが、同じものではなかった。というのは、それは約1/3マイル離れた湖の反対側からやってきたからだ。それは私たちの頭上約50フィートほどのところを飛んでいたが、全く音をたてず、急いでいる感じもなく、それでもどこか決然としたものを感じさせるような動きだった。そして、丘の穏やかな輪郭に沿うようにしてそれは視界から消えていった。この間の時間は1分足らずだった。

 「あれ、何だったの?」。リズが私たち全員の思いを代弁するように言った。虚無が一帯を満たした。頭は答えを探そうとしたが、何も出てくることはなかった。

 クルマの下に戻った私は、さらに少しナットを外して、不安が忍び寄ってくる感覚を抑えようとした。が、無理だった

 「まったくもって信じられない!もう一つ来るぞ!」とティムが叫んだ。

 急いで体を出すと、ちょうど間に合ってもう一つの球体を見ることができた。前のものとまったく同じで、湖の上をゆっくりと私たちに向かって進んできた。そのルートは先ほどのものとまったく同じだった。そして、それは丘を越えるように上昇し、まるでそこを毎日通っているのだという風に穏やかに進んでいった。

 私はカメラを取りにクルマに飛び込んだが、間に合わなかった。球体は消え去っていた。それが最後だった。

 おそろしく奇妙で、本当の話である。これは他の何千ものUFOの物語とも似ている。この話には、その当時私がUFOに多少興味を持っていたという事実によって、いささか奇妙さの度が増しているところもある。正直に言うと、その当時私はUFOに取り憑かれていた。私はこれまでずっと超常現象と異常なものに興味を抱き続けてきた――ほとんどの子供がエニド・ブライトンを読んでいる間に、私はH.G.ウェルズやブラム・ストーカーを読んでいたのだ。 しかし、どういうわけか1980年代後半になると、徐々にUFOが私の主要な関心事になっていったのである。

 1989年、16歳の時、私はスペイン南部で最初の目撃をした。友達と私は、9つの光るオレンジ色の球が地平線沿いに振幅の大きい正弦波を描くようにして転がっていくのを見た。私はそれらが次々と過ぎていったのを覚えているが、それはまるで粘っこい液体の中を見えない糸で結ばれて動いているかのようだった。私も友人もその光景にそれほど仰天したわけではなかったし、それが「エイリアンの宇宙船」だという可能性も頭には浮かばなかった。しかし、私はその出来事を何度も思い返しては、こう思ったものだ――私たちが見たものはいったい何だったのだろう、と。

 1990年代の初め、UFOは私にとってのすべてになっていた。後から考えると、私は無意識のうちに千年紀前夜の時代精神に捕らえられていたのかもしれない――星々の魅力に魅せられてしまった他の何千人もの人々と同様に。一方には冷静にしてハイテク技術をめぐるワクワク感に満ちたティモシー・グッドのUFO本(そこでは明らかにありえない航空体と軍とのコンタクトが論じられていたのだ)があり、他方にはホイットリー・ストリーバーの魂を揺さぶるエイリアン誘拐の回想録があった。そのはざまにあって、エイリアンとのコンタクトの可能性、そして我々の世界のそれとは違う生命体がいる可能性、島のようなこの地球を離脱できる可能性、そうしたものは大いにありそうなことと思われるようになっていたのだ。

 そして今や私は再び目撃を果たすことになった。

 ヨセミテでの出来事の奇妙さをさらに倍可させたのは、旅の途中で読んでいた本だった。それはカーラ・ターナーの『Into the Fringe』。心理学者にしてUFO研究者でもあった彼女は、私たちが目撃をした1年後に脳腫瘍で亡くなった。自分の家族のUFO体験について彼女が記した記録は、もともと奇怪なこの分野にあって、さらに折り紙つきの奇妙なものの一つであった。そこにはいくつかの浮遊する銀色の球体が登場しているのだが、ターナーはその球体を「貯蔵庫」になぞらえて、「そこでは人間の魂が何らかのかたちでリサイクルされるのだ」としている。その球体の中にあって、人間の魂は或る意味では他者 [訳注:原文はエイリアン] でもあるわけだが、それは母親の胎内に植えつけられる。それは外科手術のようでありながらもスピリチュアルなプロセスであり、UFO伝説の核心にある神秘的次元を医療のコトバで映したものなのだった。

 しかし、私たちがその日ヨセミテで見たものに、そんな魔術めいた要素は一切なかった。その遭遇に続く何年間か、「私たちの頭上を飛んでいたものについてありふれた説明はできないだろうか」という風に私は自問自答していた。

 あれはアルミ箔で覆われた風船だったのではないか?その可能性は否定できなかった。ただ、あれは風船というにはあまりに固いもののように見えた。もし私たちが岩を投げたら、カツンという音をしっかり立てただろう(投げなくて良かったが)。あれが飛んでいく時、水の上のコルクのように上下に揺れ動き、そして私たちの後ろの丘の輪郭に従ってスムーズに飛んでいった様子もまた、風船の動きとは全く異なっていた。風船であれば、ガレ場の斜面に無様にぶつかってから稜線を超えて飛んでいったことだろう。それだけではない。私の記憶では、気味が悪いことに、その物体を運んでいくに足るような風は少なくとも私たちが立っていた場所では吹いていなかった。

 もしかしたら、あれは球電やセントエルモの火のような珍しい大気現象だったのではないか? こうした電気的性格をもつ気体が泡だったものは、より超常的なUFO目撃のいくつかについては良い候補になろうし、昼間は銀色に見える可能性があるとされている。アメリカ空軍は何十年もの間、兵器化する可能性を探ってプラズマをの生成・コントロールするすべを探ってきた。しかし、再び言わせてもらえば、私たちが見た球体は明らかに固体で、「気体」ではなかった。

 あれは何らかのドローン機だったのか?私たちがいたのはチャイナレイク海軍航空兵器基地からそう遠くない場所だったが、その基地は海軍が新しいオモチャを試す試験場の一つであるから、その可能性はある。しかしかりにそうだったら、あれを空中に飛ばしていたテクノロジーはいかなるものだったのだろう。球状の物体がレーダーの訓練とその補正のために軍用機から投下されることがあるが、あれは垂直に落下していたわけでもパラシュートで降下していたわけでもなく、水平に飛んでいたのだ。

 こうしたプラグマティックな試みがうまくいかない場合、神秘的な説明だったらどうなるだろう? あの物体は、カーラー・ターナーの本に触発された私自身の無意識から湧き上がったもので、それから皆が共有できる現実にしみ出してきたものだったのではないか――そう、チベットの神秘主義における精霊トゥルパのように。違うだろうか? ふむ、一つの考えではある。そして告白せねばなるまいがそれは当時私が考えていたものだった。

 もしそれらが物理的な物体であったとすれば(私はそうだと信じているのだが)、アメリカ政府が秘密を保管している「ブラック・ボールト」や最新の軍事装備が収容されている倉庫にアクセスできない限り、「私たちがあの日見たものは何か」という問題に満足のいく答えを見つけることはできまい。そして、とらえどころのないこの現象ならではということになるが、少なくとも第二次大戦以降のUFO文献には同様な物体の報告が散見される。例えば1944年12月14日のニューヨークタイムズの記事にはこうある。「ドイツの新兵器が西部戦線に現れたことが本日明らかになった。アメリカ空軍のパイロットの報告によれば、彼らはドイツ領空上空で銀色の球体に遭遇している」

 謎の発光オーブは最初1942年にヨーロッパ上空で航空兵によって目撃された。これらの光の球は、黄色、オレンジ、銀色、緑、または青とその描写は一定しなかったのだが、航空機を追尾したとされ、激しい回避操作をしても攻撃したり、損傷を与えてきたりすることはなかった。イギリスのパイロットはこれらの光を「例のヤツ the thing」と呼び、アメリカ人は「フーファイターズ foo fighters」と呼んだ。これは人気のある漫画の消防士で、「フーのいるところ火事あり!Where there's foo, there's fire!」という決まり文句を持つスモーキー・ストーバーにちなんで命名されたものだった。元英空軍の情報将校(そして「グーン・ショー」のコメディアン)だったマイケル・ベンティンは、バルト海上空を飛行する際にパイロットを悩ませた怪光について、航空兵たちから報告を受けていたという。射撃手たちはその光に向けて発砲したが、それが応戦してくることはなかった。「その光は何をするでもなく、ただ脈動しながらあたりを飛び回っただけでした。我々は、それは疲労のせいだということで片付けましたが、のちに私がアメリカの情報機関G2に報告を出したところ、将官からは米軍の爆撃機でも空中に光をみていたと言われました――彼らはそれをフーファイターズと呼んでいたそうです」*

 フーファイターズの報告は、空軍省によって真剣に受け取られたが、他のパイロットからは笑い話とされることが多かった。それは球電のような珍しい自然現象だったのだろうか?それとも、多くの人が推測したように、秘密兵器、あるいは敵のパイロットに恐怖を与えるために意図された新しい種類の対空砲やデコイだったのだろうか?これらは無線で制御されていたのだろうか?他の航空機を追尾する仕組みを有していたのだろうか? ベンティンは、1943年のペーネミュンデ空襲に際して銀青色の球体に追跡されたというポーランドのパイロットから事情を聴取したことがある(ペーネミュンデはV2ロケットの生産地であった)。ここでまた別の進歩したテクノロジーが開発されていたことと、この件には関係があったのだろうか? それは定かでないし、今に残る戦時の記録に答えはない。ベンティンの個人的な結論は、もしそれがポーランド機を攻撃しなかったのだとすれば「それは大した兵器ではなかった」というものだったが、それはいささか鷹揚に過ぎるように思われるし、デコイや電子対抗手段(EMC)が戦争のスタンダードを占めている今日にあってはウブな考えでさえあるだろう。しかし、それは彼の上官の態度を反映したものであったわけで、我々の知る限り、上層部の人間はその問題に深入りしなかった。結局のところ、その時点で戦争は続いていたのだから。

 では、私がヨセミテで見た球体はどうだったのか?アメリカの諜報活動に関わったバックグラウンドを持ち、UFOに興味を持っている或る人物は、それはアメリカ軍の偵察用ドローンだったのだと私に語った。これはチャイナレイクの理論を支持するものかもしれない。また、アメリカ政府のために「遠隔視」(RV)を行ったと主張する超能力者は、球体は地球外に起源があり、そのことは一部の政府グループにはよく知られていると私に語った。また、あるアメリカ陸軍大佐は、球体はカンザス州のどこかに大量に集合していて、その一帯に幾何学的な模様を形作っていると彼女に [訳注:誰?] 語っていた。

 あり得る話だと読者諸兄も考えているかもしれない。ひょっとしたら、そういったものが広大なカンザス州の大草原にもミステリー・サークルを作っているのではないか? しかし、それから数年後、かつてサイエンスライターのパトリック・ハイグが著した『スワンプ・ガス・タイムズ』を読んでいた時のことが頭に浮かんできた。彼女は1980年代にカンザスの草原に住む人の話を記していたのだが、その農夫は、晴れた夜に最新式のコンバインで農作業をしているときの喜びについて語っていた。そういう場所が大好きだったと彼は言った。

    「ヤツらが来るまではね」
    「...ヤツらとは誰ですか?」
    「光が降りてきたんだ」と彼は言った。「ふと見るとヤツらはそこにはいない。次の瞬間、側面の窓から外を見ると、そこにいる。こっちと同じ早さで動き続けている。それから、まばたきしている間に、彼らは周りを回って反対側に姿をみせる」
    「UFOですか?」
    ...その男はそれが何であるかは言わなかった。ただ、「こういうものではない」というものの名を挙げた。「ヘリコプター、航空機、ヘッドライト、反射...」
    「で、これからどうしますか?」
    「やらなければならないことをするだけだよ。私はただ仕事をするだけだ」。そう彼は答えた。
    「最後にヤツらは空に飛び去って消えるんだ。本当に神経を逆なでするがな」

 ・・・おそらくカンザスの球体は1995年7月のあの日、ヨセミテで休暇を楽しんでいたのかもしれない。ちょうど私たちがそうしていたように。(01→02




 

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■オズ・ファクター

 ジェニー・ランドルズは著書『UFOリアリティ』(1983年)において、「現実世界から切り離され、異なる環境のフレームワークに運び去られてしまう感覚」について言及している。彼女は、この感覚がUFOの目撃者によって時折報告されることを踏まえて、こう述べている。「それは我々がUFOを理解する上でもとても重要なものの一つである。それはおそらく、目撃者は一時的に我々の世界から別の世界に――その世界の現実はこちらとは微妙に異なっている――運び去られていることを示唆している・・・『オズの魔法使い』の国にちなんで、私はそれを『オズ・ファクター』と呼んでいる」。サイキック現象を論じた『シックス・センス』(1987年)では、彼女はこのオズ・ファクターを心理学者や超心理学者が「変性意識状態」と呼ぶものと同一視している。

以下はUFOにかかわるストーリーの中でオズ・ファクターが報告された一事例である。それは1978721日、まだ暑さの残る夏の夜、午後1015分頃にイギリス・マンチェスターのデイヴィフルムで起こったもので、ランドルズが「W夫妻」と呼んでいるカップルが薄明の空に黒っぽい円盤が浮かんでいるのを目撃した。この円盤はオーラに包まれており、そこからは3040本の美しい紫色の光線が車輪のスポークのように様々な角度に発射されていた。その長さは真ん中にある円盤の直径の12倍ほどまで伸びていた。ランドルズの記すところでは、一分半ほどすると「光線は順番に内側にたたみ込まれていき、物体はゆっくりと消えていった。その大きさは向かいの家の屋根と比較しても相当に巨大なものであった」。W夫妻が当惑しつつ語ったことによれば、その目撃の間、いつもは賑やかな通りは不思議なほど静かで、クルマや歩行者は全くみえなかった。W婦人はのちに、二人でその物体を見ている間、自分は「特別な存在」になっていて、かつ「孤独」な感じだったと語った。

 もう一つの類似した事件は、ドーセット州プールのジーン・フィンドレーによって報告された。1980126日の朝91分、バスを待っていた彼女は「上を見なければ」という衝動を感じたが、それは「まるで頭の中で誰かの声が命令してきたような感じでした」。彼女は近くの木の上にホバリングしているドーム付きの円盤型UFOを見た。彼女は「魔法にかけられた」ような感じで、「平和、静けさ、温かさ」といった感情がわき上がる中、彼女はその物体が光線を放ち、一回転し、それから超高速で飛び去るのを見た。時計を見ると「時は飛ぶように過ぎていた」――ちょっとの間の出来事のように感じたが、実際には4分が経過していた。この目撃は繁華な都市のラッシュアワーにあったものにもかかわらず、彼女によれば、その間あたりは「静まりかえって」おり、周囲から人影は絶えていた(ランドルズ、1983年)。

 オズ・ファクターが関わっているかもしれない目撃事例は、1989415日のカリフォルニア州ノヴァトからも報告されている。この日の午後530分、自宅の前庭にいた父親と息子は、仰角75度のあたりで「軸のようなものでつながった二つの球体」――つまりはダンベルのような形をした物体がゆっくりと下降していくのを見た。二つの球体は金色で、その周りには白い光輪があった。

 5週間後に目撃者にインタビューした心理学者でUFO研究者のリチャード・F・ヘインズによると、「ダンベルの見かけの角度の大きさは、父親が腕を伸ばした先の親指の幅よりはやや小さく、だいたい1.5度であった」。さらにこれは双眼鏡越しだけでなく裸眼でも見えたのだが、その物体の近くでは四つの小さな金色の円盤が動き回っていた。ヘインズはこう記している。「父親は、物体を観察しているあいだ、通常はこの時間だと多くいるはずの子供や犬がいなかったのは奇妙だと語った」。さらに目撃者は「不思議なんだが、アレを見た人間は他には全然いなかった」とも述べた(ヘインズ、1989年)。ちなみにこの事件は新聞では報じられなかった。

以下に示す物理的効果を伴った刮目すべきオズ・ファクターのエピソードは―― これを専門用語でいえば第二種接近遭遇となるわけだが――195912月の或る日の朝、545分頃にカリフォルニア州プロベルタの南方半マイル地点で発生したとされている。ラリー・ジェンセンはその日、米ハイウェイ99号線を仕事にいくため走っていたのだが、ラジオが「パチパチ」という音を立て始め、ライトは暗くなった。そこで道路脇に車を止め、ヘッドライトを点検するために車から降りたところ、彼はヘッドライトが使い古しの電池で動く懐中電灯のように弱々しく光っているのを見て愕然とした。

 すると彼の視界の端に、巨大で明るい青緑色の三日月型の物体が、高さ60フィートのあたり、位置的には彼の後方四分の一マイルの場所でホバリングしているのが見えた。その物体は幅80から90フィート、厚さは15から20フィートほどあるように見えた。すると突然、不可解なことに、彼は自分の服がずぶ濡れになっていることに気付き、押しつぶされるような不安な感覚を覚えた。そればかりか、調査員に語ったところによれば、彼は「磁石に引き寄せられるように、宇宙へ吸い上げられる感じがした」。

 彼は車のドアに飛びつき、常に持ち歩いていたライフルを掴もうとしたが、代わりにサイドミラーにぶつかって後ろ側によろめいた。二度目の試みでやっと車内に入った彼は、バックミラーを覗いたが、物体は見えなかった。しかし、右側の窓から外を見ると、UFOが数マイル先で北東方向に向かい、シエラ丘陵を浅い角度で登っていくのが見えた。10秒も経たないうちにその姿は消えた。

 ジェンセンの車のライトは再び点灯した。ホッとした彼は再び出発したが、200ヤード進んだところで再び車を止めた。焦げたゴムの匂いがしたからである。ボンネットを開けると、バッテリーのキャップが吹き飛んでいた。バッテリー自体も「膨らんで変形し、びしょ濡れ」になっており、発電機は動かず、電機子とフィールドワイヤーが溶けて一体化していた。が、調査報告によれば、この体験にはさらに奇妙な要素があった。

     加えて彼の記憶に強く残ったのは、この出来事の直前からプロベルタの北半マイルに至るまで、ハイウェイ上で一台の車にも遭遇しなかったということである。これは彼の人生で空前絶後の経験であった。U.S.99Wはサンフランシスコからポートランドおよびシアトルへの主要幹線道路である。交通量は非常に多い(サーニー、タイス、スタバー、1968年)。


ランドルズの見解は以下の通りである。「オズ・ファクターの存在が、UFOとの遭遇の核心には目撃者の意識というものがあることを指し示しているのは明らかだ…客観的現実を上書きする主観的データは、内側から(つまりは我々の深層から)発しているものかもしれないし、外部から(例えば他の知性から)来ているものかもしれない。あるいはその双方から、ということもあるのかもしれないが」

 ――  ジェローム・クラーク編「UFOエンサイクロペディア第3版」より



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  ジェニー・ランドルズ(UFOlogy Tarotより)

       

       

       





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■ジャック・ヴァレ(1939年~)
 フランス・ポントワーズ生まれの世界的なUFO研究者で、スティーブン・スピルバーグ監督の「未知との遭遇」でフランソワ・トリュフォーが演じたフランス人科学者のモデル。天文学者、ベンチャー・キャピタリスト、小説『亜空間Le Sub-Espace』でフランスのジュール・ヴェルヌ賞を受賞したSF作家としても知られる。

1954年にヨーロッパで起きたUFOの目撃ウェーブを機に、UFOに関心を抱く。パリ天文台に一時勤務した後、1962年に渡米。ノースウェスタン大でコンピュータ科学の博士号を取得するなどの活動を続ける一方、J・アレン・ハイネックとの交友を深める中で本格的にUFO研究を始める。妻ジャニーヌとの共著『科学への挑戦 Challenge to Science』(1966年)でUFOにかかわるデータの統計分析に取り組むなど、当時は科学的な方法論に依拠したアプローチで知られていた。

ET仮説については当初肯定的な姿勢を取っていたが、1969年に刊行した『マゴニアへのパスポート Passport to Magonia』で、ヴァレはそのスタンスを一変させる。同書では、民俗学・宗教学的な知見を援用して、西洋における妖精や精霊の伝承とUFO現象の類似点を指摘。UFOは歴史を超えて人類が体験してきた奇現象に類したものだとして、一転してUFO=宇宙船説を否定する議論を展開した。

有力研究者であるヴァレの「転向」は、ET仮説が主流の米国では一大スキャンダルとなり、多方面から批判を浴びたものの、ヨーロッパのUFOシーンにおいては総じて好意的な評価を受け、UFO研究における「ニュー・ウェーブ」という流れを作り出す上で大きな役割を果たした。

次いで1975年に刊行した『見えない大学 The Invisible College』では、UFOとサイキック現象との関連性を指摘するとともに、「コントロール・システム」というユニークな概念を提唱する。室温を制御するエアコンのサーモスタットのように、「UFOは人間の信仰や意識をある方向に誘導する働きをしている」という主張である。そのコントロールを意図している主体が何者かは明示しておらず、いささか思弁的な議論として批判も多いが、単純なET仮説に甘んじることのないヴァレの真骨頂を示すものである。

このほか、『欺瞞の使者 Messengers of Deception』(1979年)、『レベレーションズ Revelations』(1991年)などの著書では、UFO現象をよこしまな活動の隠れみのとして利用しようとする組織の存在について考察を加えた。こうした一種の陰謀論もヴァレにとっては重要な一つのテーマであるが、その主張には論拠が乏しいとの批判もある。

その後はUFO研究から距離を置いた時期もあったが、2010年には古代から1947年までのUFO類似現象をカタログ化したクリス・オーベックとの共著『ワンダーズ・イン・ザ・スカイ Wonders in the Sky』を刊行。2021年にはイタリアのジャーナリスト、パオラ・ハリスとの共著『トリニティ Trinity』を出版した。同書は1945年8月、米ニューメキシコ州未知の飛行体が墜落し、搭乗者ともども米軍によって回収されたという触れ込みの「サンアントニオ事件」を検証したもので、ヴァレはこの事件は現実にあった可能性が高いと主張。墜落物体を異星人の宇宙船とみなす立場からはなお距離を置きつつも、いわゆるUFOの墜落回収事件には懐疑的だったヴァレがそのスタンスを変えたことで大きな話題となった。ただし、同事件をめぐる関係者の証言には疑問点も多く指摘されており、軽挙妄動しない冷静なスタンスで知られたヴァレの「変節」を危ぶむ声も多い。現在は米サンフランシスコ在住。

邦訳書に『人はなぜエイリアン神話を求めるのか』 (竹内慧訳、徳間書店、1996年:原著は「Revelations」)、アレン・ハイネックとの共著『UFOとは何か』 (久保智洋訳、角川文庫、1981年:原著は「The Edge of Reality」)、『核とUFOと異星人』(礒部剛喜訳、ヒカルランド、2023年:原著は「Trinity」)。小説としては『異星人情報局』 (礒部剛喜訳、創元SF文庫、2003)がある。
注:
なお『人はなぜエイリアン神話を求めるのか』UFOとは何か』の著者名表記はジャック・ヴァレー

 ■主な参考資料

Jacques ValléeForbidden Science: Journals 1957-1969 2nd Edition』(North Atlantic Books,  1992)
Jerome ClarkThe UFO Encyclopedia2nd editionOmnigraphics Books, 1998


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ジェフリー・クリパルによるジャック・ヴァレ論の冒頭部。続きは気が向いたら。


不可能なるものの書き手たち ジェフリー・クリパル
第三章 フォークロアの未来テクノロジー ~ジャック・ヴァレとUFO現象

    もし圧倒的な質感をもった3次元のホログラムを作り、それを時を超えて投影するような事ができるものと仮定すれば、私としては「それこそがまさにこの農夫が見たものではなかったのか」と言ってみたい気がするのだ・・・我々は、そこには確かに人間が住んではいるのだが、いま・ここに帰還することを断念して初めて赴くことのできるような平行宇宙の問題を取り扱っているのではないか?・・・そして、そのようなミステリアスな世界から、意のままに物質化して出現し、あるいは「非物質化」して姿を消すことのできるようなモノが投影されているのではないか? となると、UFOとは「物質」というよりは「窓」というべきではないだろうか?
     ――ジャック・ヴァレ『マゴニアへのパスポート』

    十分に発達したテクノロジーは魔術と区別がつかない。
     ――アーサー・C・クラーク


初めてジャック・ヴァレを読んだとき、私はすぐさま思ったものだ。西洋の秘教の歴史、伝統的なフォークロアの真実、現代のSFの神秘的なまでの魅力、超常現象のリアリティといった事どもについて――ヴァレの言い方によるならば「人間の意識のうちに明らかに存在する魔術的性質」[1] にかかわってある「イメージの世界のリアリティ」や「呪われた事実」の一切合切に関して、ということになるわけだが――我々に教えるに足る「何か」を手にした書き手を私は発見したぞ、と。言い方を変えるならば、私はそこで、自分はいま、もう一人の「不可能なるものの書き手」に出会っている、ということに気づいたのだった。

 それは単にヴァレの書いている内容のゆえ、というわけではなかった――もちろん、それだけで「不可能なるものの書き手」たりうることができないのは当然だ。その要諦は彼のものの書きよう、彼が「不可能なものを可能にする」際のやり方にこそあった。そこで彼は、自らの疑問を整理していく際の如才なさであるとか、いわばピースがバラバラになってしまったパズルを組み立てるため、彼の知る歴史的データというパーツを比較考量しながら嵌め込んでいくような手の込んだ手法といったものを用いていた。

私はまた、彼が古代・中世から我々の生きている超近代的な世界にいたるまで、様々な素材を関連づけていく方法にも魅せられてしまった。これは明確に言えることだが、彼は特定の「時代」というものを絶対視していないし、ある地域の文化を他との比較におけるモノサシとして絶対視するようなこともしない。彼にとっての歴史研究というのは、「われわれ」と「かれら」を区別するものではなく、自分たちの時代や言語、その文化に基づくものを「我尊し」とばかりに特別視するものでもない。それは汎地球的な「わたしたち」を対象とするものであって、その領域は時間的にいえば何千年もの期間に渡り、広大なるサイキック・システムがそれぞれのかたちをとった無数のものどもを含み込んだものなのである。

同様に重要なことなのだが、ヴァレの比較対象を旨とするイマジネーションは、知識というものが或る一つの秩序の中に閉じこめられてしまうことを断固として拒否する。結局、ここにいる人物は、先駆的なコンピュータ科学者にしてベンチャーキャピタリストでありながらも、同時にパラケルススの稀少本を購入し、神秘的なものへの志向をもつ人文学者でもあるのだ。彼は若いころ、文化系か技術系かということで進路を選ばなければならない教育の仕組みの不備をあざ笑い、SFをバカにする科学者たちに対しても嫌悪以外の感情をもつことができなかったという。少なくとも彼にとって、ファンタジーというのは真面目な思索のひとつのかたちであった。[2]

 彼は明らかに、こうした若き日の理想を大切に守りながら生きてきた。ヴァレは、SF小説のネタにふさわしいような多元宇宙論や、神話的なコントロール・システムといったものについての思索を深めてきた(実際に彼自身もSF小説を5作ものしている)。だが同時に彼は、火星の地図を作る仕事に携わったり、パルサーの基本周波数であるとか、さらにはビジネス戦略とか情報テクノロジーに関する本も出したりしてきた。彼のビジネスマンとしてのキャリアと文化にかかわる活動というのは、こうした二つの顔を反映したものなのだ。ヴァレは、シリコンバレーのコンピュータ産業や発展期のインターネットにかかわる初期の起業家だった。そして彼は同時に、スティーブン・スピルバーグによるSF映画の古典「未知との遭遇」でフランソワ・トリュフォーが演じたフランス人科学者、クロード・ラコームのモデルとなった人物でもあったのだ。

 私がいま取り組んでいる考察の視点からすれば、ジャック・ヴァレは、まさに現代において霊知を知る者が住まうべき場所、すなわち、現代的なかたちをとった霊知もしくは「禁じられた知識」(それは「条理」を超越し、さらには「信仰」をも完全に超越したものだ)の真っ只中で生きている。もちろん、そう言っているのはこの私であって、これは彼自身の言葉ではない。だが、驚くべきことに、彼の言葉にはそのような表現がまことににふさわしいような響きがある。

結局のところ、彼もまた、自らの取り扱う問題を言い表す際には「条理を超えた」という表現を用いているわけだし、自らの人生は「禁じられた科学」への探究に情熱を注いだものだと言っている――ちなみに「禁じられた科学」というのは、可能性の極限を追求すべく、条理を重んじる主張をラディカルに否定してみせた日記を彼が出版した際につけたタイトルでもある。[3] 彼はそのような物言いで、「新たにフランス流の思考の元締となった、融通のきかない合理主義者たち」に軽蔑のまなざしを投げかけているわけなのだ(『禁じられた科学』1192頁)。

同じようにして彼は、啓蒙・合理主義にたつ哲学者たちに対しても、退屈きわまりない「官僚的なオリの中に200年間にわたって」(同197頁)われわれを閉じこめている、とのあざけりを浴びせている。彼は、UFO問題の実在を否定する「古い科学者たち」に対してもほとほとウンザリしている、という。1961年、自らの日記に次のように記した時点で、彼はすでに合理的で世の受けは良いけれども馬鹿げた彼らの言い分に対して飽き飽きしていたのだ――「我々のリサーチは、彼らの創造性の欠如や、何でもかんでもひとしなみに画一的なものの中に落とし込んでしまおうという欲求(それを彼らは誤って「合理主義」と名づけているわけだが)によって骨抜きにされてしまうだろう」(152)

が、ヴァレが自らのうちに秘めたその深遠なる霊知主義に照らせば、教義を有する宗教ならばドグマに満ちた合理主義よりはマシ、といった話になるわけでもない。彼は既成の宗教には徹頭徹尾懐疑的で、概していえばそれを社会的なコントロールシステムの如きものであって、永遠の真実を託すに足るものなどとは全く考えていない。かくて彼は、自らは「一般的なイメージでいうところの神への信仰などはない」と告白する。それは、彼がスピリチュアルな感受性をもっていない、という意味ではない。のちに見ていくように、実際には彼の霊的な感受性には実に奥深いものがあるのだけれど、彼はそれを宗教的なものというよりは、神秘主義の領分にかかわるものだとしている。

ヴァレにとって、神秘主義というのは宗教やその教義の体系とは全く関係のないもので、「通常の時空から離れたところに意識を方向づけるものであり、思考を差し向けるもの」である。[4] そして、これもあとで見ていくことになるが、彼は文字通りの意味でそのような主張をしているのだ――科学界からは「禁じられている」けれども、彼にしてみれば至極科学的な方法を用いることによって。

かくてヴァレは「条理」と「信仰」のいずれをも超越した場所で、秘された知識(すなわち霊知である)の保持者――いや、それに取り憑かれた者というべきかもしれないが――としての立場から文章をつづっている。そのような、「知」における第三の道というのは、彼の言う「より高次元にある精神」と密接に結びついている。それは伝統的にはイマジネーションやファンタジーの世界を介して、さらに近年でいえばSFを通じて表現されてきたものである。そんな彼にとっての「知の世界におけるヒーロー」というのは、次のような人々だった。

ニコラ・テスラ――彼は現代に生きたアメリカの天才で、電気やレーダー、ラジオ技術といったものをあまりにも奇抜な方法でオカルトと融合させたという意味において天才と称すべき人物のひとりであった。アイザック・ニュートン――彼は正統的な科学に取り組む一方で自ら錬金術と占星術とを実践した人物だった。そしてヘルメス主義の哲学者にして物理学者でもあったパラケルスス――そのテキストについて、ヴァレは十分な注意を払いつつ研究を進めてきたのだった (196)。実際、パラケルススのような人物やそのヘルメス主義的な科学に敬意を払っていたヴァレには、「こうした古き時代のヘルメス主義者たちは、他にどんなことをしていようとも、現代思想の真の創設者として称賛されるべきだ」という強い思いがある (同書176)

ヴァレにとって、西洋の思想――それは表面を覆う合理主義と宗教を突き抜けたところにある「真の思慮」に満ちた思想のことである――というのは根本的に秘教的な営みなのであって、その全体像や、その意味といったものに対して、我々は最近になってようやく注意を払い始めるようになったに過ぎない。それはなお我々の手には負いかねる。だからこそ我々は、それを自分たちの目に届かないところに置いているのだけれど。

だが、ジャック・ヴァレが「禁じられた知識」という時、その「禁じられた」という側面がもっぱら彼の神秘主義にのみ由来するものでないことは強調しておくべきだろう。それはまた、米国政府の活動が生み出したものでもあるのだ。いや、より正確にいえば、ここは「米空軍の活動」というべきだろう。実際のところ、ヴァレは非公式な立場で4年間、政府のプロジェクト(すなわち「プロジェクト・ブルーブック」である)がまとめたファイルについて独立した立場から研究にかかわった人物なのだが、その相方はといえば軍所属のプロフェッショナルや科学者たちで、彼らは他の人間たちが知らない、そして知るべきでもなく、実際に知り得ることもできなかった事について「知っていた」者たちだった。

しかしヴァレは、そのような人々が、とても重要な或る事柄に限っては本当は「何も知らない」ことを悟ったのである。どういうことか? 彼らは、何とも愚かなことに「ここより外側にある」何ものかを追いながら、馬鹿げた、そして実ることのない行動を「この場所」で展開していたのである。彼らは、いわば「キッチリと組織された昆虫のコロニーが、予期せぬ出来事によって突然の災難に見舞われたときのような」反応をみせた(同書155)。彼らがその「リサーチ」で何をしようとしたかといえば、それはロケット科学者を集めて作戦遂行計画を作り、撃墜しようという意図をもってUFOをジェット戦闘機で追跡することに過ぎなかった。彼らにとってUFOとは、「この世界や我々の存在とはいったい何であるのか」といった問題について、我々の認識を大きく転換させる可能性を秘めた深遠なる謎などではなかったのだ。それらは単なる「ターゲット」に過ぎなかった。

彼がのちに著した英語の小説『ファースト・ウォーカー』(訳注:邦訳『異星人情報局』)で、彼は自らの考えを仮託するかたちで、作中の困惑したパイロットに語らせている。その登場人物はこう自問する。「オレたちは、自分たちの理解できないものはすべて撃ち落とさねばならない、といった具合で、空にある物体は何でもあっても自動的にターゲットになるんだと思ってきたんだが、いったいどこがまずかったんだろうか?」[5] こうした軍部ならではの思考は、愚かとはいわぬまでも、いかにも単純で思慮を欠いたものとしてヴァレに衝撃を与えた。それは明らかに無駄なことだった。

言い換えてみれば、ジャック・ヴァレが知るに至ったのは、厳密な意味で「これは主観的なものである」とか「客観的なものである」といった断定的な説明をするのは無効だ、ということなのだ。そうした説明は「ともに真である」ともいえるし、「ともに間違っている」ともいえる。ヴァレが超常現象のことを書く時――そしてこれこそが、私を彼の「不可能なるものを書く」営みに引きつけた理由なのだが――彼は純粋に心的なもの、ないしは主観的に存在するもの(それはそれで非常に興味深く、深遠なるものではあるが)についてのみ考えているわけではない。彼が考えをめぐらせている対象は、次のようなものなのだ――繰り返しレーダースクリーン上に出現する根源的に不可解な現象。過去何十年にもわたって各国の政府やその軍隊との間に深い関わりあいをもってきた、もしかしたら「潜在的な敵」であるかもしれない勢力。我々の最強のジェット戦闘機からも容易に逃げおおせてしまう、進歩した未来のテクノロジー。そして、我々のフォークロアや宗教、文化を何千年にもわたって裏面から規定してきた、不可解というしかない「神話的なもの」の存在・・・。つまり彼は、神話的でありながら同時に物理的にも存在し、スピリチュアルなものでありながら同時に物体でもある、そのような「何ものか」について考えているのだ。

読者諸兄がいま戸惑っておられるとしたら、それはむしろ結構なことだ。合理主義に基づく「確からしさ」や宗教的な信仰は、ここでは「敵」である――混乱は幸福を運ぶ天使である。不条理と疑念は、我々をはばたかせる翼である。だからこそ、いまこの状況に在る根源的な不可思議さというものは、改めて論ずるに足るものなのだ。

だからこそ注目し、強調したい点がある。

結局のところ我々は、西洋の文化史上、特異的な地点へと近づきつつあるわけだ。それは人間の意識のうちにある妖しくも神秘的な特性をターゲットとして政府が極秘の調査プログラムを開始した時代であって、いわば超自然現象が国家の安全保障の上で留意せねばならぬものになってしまったがために、各国の政府がレーダー上に出現したオカルト的なものを超音速ジェットで追いまわしているという世界である。[6]

一方では、我々は、フォークロア的な要素をもつ未来のテクノロジーについてイメージを得ることのできる地点にも接近しつつある。そのプロセスを通じて我々は、「平行宇宙」が存在する可能性や、我々の文化のソフトウエア的な部分を書き換えるべく、我々の意思とはかかわりのないところで、ホログラムの幻像が時間を超えてこちら側に投影されている可能性――といったものに思いをはせるようになるのかもしれない。そんな世界を想像してみる。そこでもなおUFOはモノとしての形をとった「物体」であり続けているかもしれない。が、それと同時に、UFOが或る種の象徴、ないしは他の次元に対して開かれた形而上学的な「窓」として、さらにいえば我々が「他の惑星から来たエイリアン」などではなく「別の時代から来た進化した人間」と遭遇するであろう時空への入り口として観念され、その役割を果たしていくということも考えられるのである。(つづく…?)


[1]
ジャック・ヴァレ「マゴニア・コレクション」(リファレンス・アンド・リサーチライブラリー)注釈付きカタログ第1巻「超常現象研究」(私家版、20027月)3

[2] ジャック・ヴァレ『禁じられた科学:1957-1969年の日記』(ニューヨーク:マーロウ&カンパニー、1996年)44頁。『禁じられた科学2巻:1970-1979年の日記』(ベルモント・イヤーズ社)は自費出版(著作権は2007年、ドクマティカ・リサーチ社)。以下では書名に続いて巻数と頁を記す

[3] 「条理を超えた」というフレーズは、ジャック・ヴァレ『マゴニアへのパスポート:フォークロアから空飛ぶ円盤へ』(シカゴ:ヘンリー・レグナリー社、1969年)110頁と、『ディメンションズ:エイリアンコンタクトのケースブック』(ロンドン:スーベニアプレス、1988年)136頁の2か所で章題として用いられている

[4] 『禁じられた科学』1147-148頁。この点に関する重要な記述は『禁じられた科学』 24261頁にもある

[5] ジャック・ヴァレ『ファースト・ウォーカー』(トレーシー・トームとの共著になる小説。バークレー:フロッグ社、1996年)22

[6] 1970年代半ばにいたる当時の状況については、デビッド・マイケル・ジェイコブス『アメリカのUFO論争』(ブルーミントン:インディアナ大学出版、1975年)参照のこと。ジェイコブスはプロの歴史家で、こののち、1980-90年代のアブダクションを巡る論争では、その目的はエイリアンと人間の交配種を育てることであると唱え、論争における重要な人物となった。この問題を論じた第二の著作が『シークレットライフ~一次史料により記録されたUFOアブダクションの報告』(ニューヨーク:ファイアサイド、1992年)である


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奇妙なスパムメールが届いたので晒しておこう。岸田のアホウが「増税」はしないけど社会保険料はガッパリ取らせてもらうかんなという方針を打ち出しているご時世なので、こういうスパムも或る意味時宜にかなっているとは言えよう。

もっとも、これ読んで「よし払おう!」と思ったアホがいるとして、どこに連絡をすればいいのかわからない。あまりにもズサンである(笑)。それから、これだけAIが進歩したというのにいまだに全然日本語がお上手になってこないのは不思議である。(以下引用)


【厚生労働省】重要なお知らせ、必ずお読みください

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催告書

国民健康保険料が未納です
まだおさめられていない国民健康保険料がありますので、催告書を お送りしました。
保険料は医療費を賄う大切な財源です。納付されないと国民健康 保険事業の運営に重大な支障が生じてしまいます。
また、このまま納付されない場合には、信用情報機関のブラックリストに登録され、クレジットカードが作れない、ローンが出来ない、本人と家族の国民健康保険が解除される措置があります。
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スバルの株主を対象にした工場視察会というのに応募したところうまいこと当選してしまい、「春分の日」に太田市の矢島工場まで行ってきた。
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実はこの株主見学会というのは2017年にも行ったことがあって二度目になるのだが(いぜんこのブログにも書いた)、目下のところオレはインプレッサスポーツに乗っていることなどもあってスバルへの関心はいぜんひとかたならぬものがあり、かつ無職でなんとなくヒマしてるのでついフラフラと応募をしてしまったという次第である。

今回は到着早々「登利平」の鳥めし弁当をいただき(旨かった)、それから製造ラインや検査棟、ビジターセンターの見学などをさせてもらった。2017年に行った時はXVをまるまる一台カベだかに激突・破壊させる実験なども見せてもらって度肝を抜かれたのだが、年々ギョーカイも世知辛くなっているということなのか、今回は流石にそういう太っ腹&カゲキな出し物はなかった(笑)。

しかし、前回も見たけれどもロボットによる溶接・接合作業とかには、ついつい見惚れてしまうものがある。ロボットがクルマのドアとかをクイッとつかみ、指定の場所にクイクイっと差し込む様子などみていると関節部がグルグルまわって何だか生きものが踊っているようだ。工場内は撮影禁止なので写真など見せられないのが残念であるがコレは一見の価値がある。

最後に会社のエライ人との質疑応答があったのも前回同様。「スバルはEV対応大丈夫?」とかなかなかシビアが質問も飛びだしていた。こういう将来の課題についてエライ人はトヨタさんとの関係をうまいこと生かして何とかしますわ的な返答を何度かしておりました。まぁそこは命綱やろうなぁという感じではある(笑)。

それからスバルは2017年に完成検査の不正問題というのを起こして大規模なリコールに追い込まれたのであるが、株主さんからは「その後に新設した検査棟を今回みせていただいたワケだが、これは不正を二度と起こさないというアピールでっか?」(意訳)みたいなツッコミもあってなかなか楽しかった。

まぁ流石に三度目の工場見学に行くことはないとは思う。が、ともあれ今後もスバルは応援していきたい。
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「読めもしないのについつい買ってしまったUFO洋書シリーズ」の最新刊が届く。今回のはニック・ポープ『Encounter in Rendlesham Forest』(2015)。いうまでもなく1980年のレンデルシャム事件を取り上げたものである。

この事件に関しては例の「ホルト文書」という公文書にも記載があり、実際に何かしら奇妙な出来事があったのは確かなのであるが、オレはというとこれについてあんまり系統だった知識は有しておらず断片的な情報を聞き知るばかりであった。そんなところにたまたまAmazonでこの本を見かけ、かつレビューの採点もなかなかヨロシかったので「じゃあこの本買ってちょっとお勉強してみようか」と思ってついついポチってしまったのである。

で、この事件というのは、要するに英国に駐留している米国の軍人たちが基地から哨戒に出たところでUFOとの遭遇体験をしたという話であるワケだが、本書はその最初の目撃者にして当事者であるところのジム・ペニストンとジョン・バロウズの両名が共著者という体裁になっている。要するに両人の協力を得てできた書籍と思われ、それだけでもなかなかに価値のある一冊になっているのではないかと思うのである。

ちなみにジム・ペニストンというと、彼はUFOとの接触にさいして或る種のメッセージと思われる「バイナリー・コード」を誰かさんから脳内に送り込まれた――みたいな非常に胡散臭くてかつ素晴らしい証言をしており、そのあたりの話をこの本がどう料理しているのかも楽しみだ。

もひとつ言っておくと、この事件についてUFOの目撃証言を最初に語り出した人物としてラリー・ウォーレンという男がいるのだが、コイツはペニストンとバロウズの話には出てこない人物で、つまりどういう流れでコイツが現場にいたテイで証言をしてるのかオレには長年疑問であった。それでさっきウォーレンの出てくるページを索引で調べてペラペラめくってみたのだが、そこにはこのウォーレンは伝聞だか何だか知らんが適当なことをしゃべってるヤカラではないのかみたいなことがチラチラ書いてあった。要するにレンデルシャム事件におけるウォーレンの話は適当に聞いてればヨロシイということなのだろう。ひとつ利口になった。

閑話休題。それはそれとしていつも思うことだが、「何でこの本を買ったか」みたいな話ばっかりして肝心の本を全然読んでいないというのは内心忸怩たるモノがある。が、そこは許せ。いつか読める日が来るのかどうか。それは神のみぞ知る。GOD KNOWS.

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PCのフォルダを整理していたらこんな一枚が出てきた。

2020年4月下旬の夕刻。水曜日。場所は東京駅地下街。要するにコロナ禍で全然人がいない。こんな時間帯なのに。ちょっと衝撃を覚えてスマホで撮った。

あのパンデミックというのはことほど左様に前代未聞のことだった。



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「読めもしないのについつい買ってしまったUFO洋書シリーズ」(笑)がまた一冊届く。

今回のは『Saucers, Spooks and Kooks: UFO Disinformation in the Age of Aquarius』(2021)。直訳すると「円盤とスパイと変人と―水瓶座の時代におけるニセUFO情報」といったところか(ちなみにSpookという言葉には「諜報員」のほかに「怖い話」という意味もあるようなので本当はそっちかもしらん)。

著者のアダム・ゴライトリーという人はUFOのようなフリンジ・カルチャーに詳しい物書きのようであるが、本当のところはよくわかりません。ただ、本日時点でAmazonレビューをみてみると評点は4.4ということでなかなか評判は宜しいようだ。

そのレビューなどをザッとみる限りではこの本、例のポール・ベネウィッツの悲劇なども含めて米当局はどうやらUFOにまつわる怪情報を意図的にギョーカイに流して事態を混乱させてるんではないか――みたいな疑惑を追及しているものであるらしい。

これはX(旧Twitter)のほうにもちょっと書いたことであるが、要するにジャック・ヴァレ『Messengers of Deception』(1979)だとか、リチャード・ドーティ周りの怪しい動きを追ったマーク・ピルキントン『Mirage Men』(2010)とかの系譜に連なる本ということになるのだろう。実際にはその『Mirage Men』も全然読まンで放置している実態というものもあり、こっちに行き着くのはいつになるか――というか生きてるウチに読めるのかもわからんのだが(笑)まぁソコはなんとかしたい。

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アメリカの科学ジャーナリスト、Sarah Scolesの『They Are Already Here: UFO Culture and Why We See Saucers』(2021)が届く。

ジャーナリストのUFO本というと例のロス・コーサートなんかもそうだが「ミイラ取りがミイラになる」問題がしばしば起きるので、ここらでイッパツ解毒剤の服用でもせんといかんのではないか――といった感じで買うてみた。

取りあえず最初の方をちょっとめくってみたが、彼女、例の2017年12月の「アメリカ政府はUFO調査やっとるやん」というニューヨーク・タイムズのスクープが一つの契機になって「コリャちょいとマジメにUFO問題考えないとダメやろ」ということでこの仕事を始めたらしい。

こないだ読んだコーサート『UFO vs. 調査報道ジャーナリスト: 彼らは何を隠しているのか』が「墜落UFOだとか必ずしもガセとは言えんぞぉぃ」のベクトルが濃厚なポジとすればコレはネガサイドからの探究ということになるのでないか。まぁ、例によって途中で放り出してしまってなかなか読めないという展開は容易に予想されるのではあるが(笑)。

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在野のUFO民俗研究家として知られる小山田浩史先生がこのほどX(旧Twitter)のスペースにて『マゴニアへのパスポート』を読むと題した連続講義を始められた。

昨日26日夜にはその一回目の講義が行われ、第一章の途中までの話が紹介されたのであるが、「UFOといえば宇宙人」という幼稚っぽい通念を否定し続けてきたが故に日本のユーフォロジーでは異端者扱いされてきたヴァレの初期の仕事を振り返ろうという点において実に意義ある試みである。いちおう小生の出した私家版翻訳をベースに議論を進めていただいているようでもあり、これまた実に喜ばしい。

ちなみに昨晩は、「同書冒頭にヴァレが紹介しているパレンケの石棺だとか遮光器土偶の話はよくよく考えると『UFOに類する現象を人間は太古から目撃し続けてきた』というヴァレの主張とはいまひとつ噛み合っていないのではないか。このくだりは要らんかったもしらんネ。面白い議論が始まるのはむしろ第二章以降なんよ」と的確な指摘をされておられた。

まぁヴァレというのは小説も書いているぐらいなので「ツカミで何か読者の興味引きそうな話をかまさんとアカンやろ」的な発想でパレンケや土偶の話を仕込んだのだろう。じっさい原著にはパレンケの石棺の写真なんかも図版として載せており、まぁコレはオレの私家版翻訳本では著作権的にマズいかもしらんので割愛をしたのだが(ちなみにこの私家版では著作権的に問題があるかもしれない図版は全て掲載を見送った。残念だが仕方がない)ともかくヘンなところはヘン、オカシイものはオカシイという小山田先生の姿勢には見習うべきものがある。

初回の講義は約30分程度でレコーディングもされているので聴くことができる。さらに今後も不定期ながら講義は続けていかれるようであるから、ヴァレに関心のある諸兄は小山田先生のアカウントに要注目である。

【追記 2024/05/18】
なお小山田浩史先生が昨晩スペースで話しておられたが、ここんとこ別のお仕事がたんと入ったとかいうことで、当面この企画はお休みだそうである。些か残念であるがボランタリーにやっておられるモノであるから無理難題は言えん。再開の日を待つのみ。

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下町の行列店。店名は「きっそう」と読む。前々から評判は聞いていたが昼営業のみ(かつ「食べログ」によれば水金日は休みらしい)なのでなかなか行く機会がなく、今回が初の訪問である。雨の平日ということもあって「ひょっとして一番乗り?」などと考えつつ開店50分前に着いたのであるが、そこには入店待ち用のイスが並んでおり、傘をさした男性がすでに3人座っていた。さすが超有名店。侮れん。

最初に券売機でチケットを買い、しばらくしてから表に出てきた店の人に渡す。さらに待っていると、雨の中の客をおもんぱかってか、店の人が本来の開店時間を若干早めて店内に案内してくれた。コレは嬉しい心配りだ。

さて、肝心のラーメンである。麺を口に運んだ瞬間どことなく甘みを感じさせるようなウマ味が一気に広がって「ん? これは未体験ゾーンや!」と感歎。フツーのラーメンに加えてつけ麺も供していることからも分かるように、この店のスープは魚粉のインパクトを前面に押し出したトロッとした感じのそれなのだが、その種のスープがともすれば陥りがちな野卑な感じが全くない。品がよくて深みがある。ツルツルシコシコの麺との相性はベストマッチ。チャーシューも口中でホロホロと崩れる絶妙の仕上がり。煮玉子もフワッと柔らかく仕上げており文句ナシ。

うまいうまいと舌鼓をうちながらスープ完飲。「ごちそうさま」といって立ち上がると、ご夫婦なのか何なのか知らんが店を取り仕切っているお二人が気持ちよく声がけをして送り出してくれるあたりも素晴らしい。行列必至の店なのでこれからもあんまり出向く機会はないとは思うけれども、死ぬ前にもう一度は行って食っておきたいと思わせる一杯であった。


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1945年8月に米ニューメキシコ州サンアントニオではUFOの墜落回収事件が起きていた――とするジャック・ヴァレの著書『Trinity』については、これまで当ブログでも再三論じてきたところである。

要するにこれはHOAXであって、老境に入ったヴァレが焦りのあまりガセネタに飛びついてしまった事例ではなかったかとオレなどは考えているワケだが、この『Trinity』批判の急先鋒である米国のダグラス・ディーン・ジョンソンのサイトから「新しい記事書いたよ」というメールが来たので久々にそのサイトを覗きに行ってみた。

ここで記されているのは最近の『Trinity』をめぐる動きである。

たとえばであるが、今回の記事によればヴァレは散発的にジョンソンの批判に対する弁明をサイト上などに発表しているのだが、部分的に「あぁ確かにそこは目撃者の勘違いだったかもしれないネ」といったことも言い始めているという。要するに若干譲歩する構えはある。しかし、それでもヴァレは「事件そのものは確かにあった」という一線は死守するつもりらしい。おいおい、もう諦めなさいよと言わんばかりにジョンソンはこの記事でも改めて疑惑のポイントを蒸し返している(その詳細は過去のエントリーで触れているのでココでは繰り返さない)。

ちなみに共著者のパオラ・ハリスは第3版にあたる『Trinity』の改訂版を近々出すと言っているようで、そこではジョンソンの批判に対するリアクションも盛り込まれるものと思われる。それからついでに言っておくと、パオラ・ハリスはこの事件の映画化プロジェクトがウォルト・ディズニーとの間で進んでいるなどと実にアヤシイことも口走っている。この『Trinity』問題、これからどうなっていくのか。ヴァレはどうするつもりなのか。今後も生温かい目で推移を見守っていきたい。

なお、最後にこの記事に掲載されていた図表を以下に添付しておこう。目撃者のレミー・バカ(故人)という人物は、事件が新聞記事とかで公になる前に「実はオレ、UFO墜落事件の目撃者なんスよね」とかいってUFO研究者に話を売り込みにいったことがあるのだが、その内容というのはのちのち語り出した事件のストーリーとは相当違っていた。この一事だけでも証言の信憑性が怪しまれるワケであるが、この図表はその相違点を並べてみたものである。心証としては「コリャ全然駄目だろ」という感じデアル。

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世界的ユーフォロジスト、ジャック・ヴァレの著作『マゴニアへのパスポート』の私家版翻訳本は不肖ワタクシ花田英次郞が2016年以来定期的に販売をしてきたところですが、このたび新装版を増刷しましたので通販を再開したいと思います。
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ちなみにこれはどういう本かといいますと、前半分はヴァレによるUFO論、後ろ半分は1868年から1968年にいたる世界各地のUFO事案923件を簡単に紹介した事例集という構成になっておりまして彼のUFO論パートは実はそんなに長くはないのですが、そこで展開されている議論がどういうものであったかについてはこの私家版の末尾につけた「訳者あとがき」を以下に貼り付けておきますので参考にして頂ければ幸いです。


訳者あとがき

 

 本書はJaque ValleePassport to Magonia」(初版1969年刊)の翻訳である。なお、本文中の地名・人名表記は必ずしも現地語に即した正確なものではないことに留意されたい(とりわけフランス語人名・地名は要注意)。訳者の能力を超える理解困難な個所についても論旨をつなぐべく強引な訳出を試みているため、誤訳が多々あると思われるが、この点もご寛恕願いたい。

 さて本書『マゴニアへのパスポート』だが、UFOに関心のある者であれば、一度は耳にしたことのある書物といえるのではないか。1947624日、米国で起きたケネス・アーノルド事件以降、UFO研究の本場はまずもって米国であり、そこでは、多くの研究者の関心は「UFO=地球外生命体(ET)による宇宙船」説が正しいか否か、いわゆる「ボルト・アンド・ナット」セオリーの是非にあった。だが、この説には幾多の難点があった。「彼ら」はなぜ地球を訪れているのか。なぜ然るべき組織・人々とコンタクトを取らないのか。なぜ彼らは訪問のあかしとなる物的な証拠を残していかないのか――そんな根本的な疑念にこたえるべく、UFOシーンに新たな視座を導入したのがヴァレによる本書であった。

 そもそも「空に現れる不思議な物体」の目撃は、20世紀になって初めて起こり始めた出来事ではない。さらにいえば、未知の飛行体と不思議な生き物が同時に出現するような事件も、古くからしばしば報告されてきた。よく考えてみれば、ケルトをはじめとする各地の妖精譚なども、UFO(ならびにその搭乗者)の出現事例と同一のパターンに沿ったストーリーのようにみえる。その出現のメカニズムはなお明らかではないにせよ、UFO現象は、その時々の人々のありように応じて記述されてきた一連の出来事と同根のものだ――本書におけるヴァレの問題意識は、おおむねそのように要約できるだろう。

 もとより「物理的現象」としてUFO現象は解明できると考える「ボルト・アンド・ナット」派にとってみれば不愉快な議論であったに違いない。とかく怪しげなものと見下されがちなUFO研究を「科学・物理現象」の土俵に上げ、何とか市民権を獲得したい――そう考えた人々の立場もわかるし、彼らにしてみればUFOをある意味、心霊現象とも相通じるものとして考察するような主張は、自らの足を引っ張るものとしか感じられなかっただろう。実際、当時の研究者たちの間には相当な反発があったことは、ヴァレ自身も再三記している。

 だが、本書で紹介される悪夢のような数々の事例を見れば、この現象の背後には、単なるET仮説には収まらない奇っ怪な世界がポッカリ穴を開けていることに気づかざるを得ない。一種の怪異譚の系譜にUFOを位置づける、こうした「ニュー・ウェーブ」的アプローチが今日どれほどの影響力を保っているのか、残念ながら小生に語る資格はないが、他にも同様のまなざしを宿した魅惑的な著作――たとえばそれは近年物故したジョン・キールの作品であり、本邦における稲生平太郎『何かが空を飛んでいる』――があることを我々は知っている。

 個々の記述をみていけば首をかしげざるを得ない点もある。たとえば本書には日本に関係する記述が何か所かあるが、その多くは詳細な地名・固有名などを欠き、報告の信憑性に疑念を抱かせる。その中で相対的に具体的な記述があるのは1956126日に静岡県島田市で起きたという搭乗者の目撃事例(事例458)であるが、これとても実際には気球が誤認されたもので、情報が錯綜するなかで「搭乗者が目撃された」という虚偽情報が混入したものと思われる。さらに付言すれば、紹介された事例の中にはでっち上げとの評価が定まったものも相当数あるらしい。

 だが、古今東西の様々な神話的伝承から今日のUFO目撃談まで、すべてを同一のパースペクティブのもとに見通そうとした著者の試みは、「ボルト・アンド・ナット」説が確たる成果を挙げ得ぬまま今日に至っている現実を思えば、現に有力なもう一つの道=オータナティブであるといえるのではないか。しかもそれは、「人間とは何か」という普遍的な問いに通じるものを秘めていた。

 残念ながらUFOが人々を引きつけた時代は去りつつあるように見える。だが本書は「我々はどこから来てどこへ行くのか」という問いを、20世紀という時代に即してきわめてクリアに描き出している。では、21世紀に生きる我々はこれから空に何を見いだしていくのか――本書で展開された議論の射程は、おそらくそんなところにまで及んでいる。 

                              花田 英次郎


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1冊1800円(送料込み。銀行振込の前払いのみ)。A5判・392ページ。カバーなしの簡単な作りです。誤訳等あったらごめんなさい(と予め謝る)。

こちらに申し込みページへのリンクを貼っておきますので通販ご希望のかたはリンク先のメールフォームにご記入のうえ、お申し込みください。




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本年もよろしくお願いいたします。

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