■第11章 狂気の縁

    錯乱の極みというのは、かくあれかしという願望によって何かを信じてしまうことだ ――ルイ・パスツール

リック・ドーティは、ジョンと私を気に入ってくれた。私たちの側もそうだった。ラフリンでの一週間の間、彼はほとんど常に私たちと一緒にいた。そんな状況は時に私たちを不安にさせた。知り合って間もない頃、私たち三人は、ラップトップをワイヤレスでインターネットにつなぐことのできる小さなショッピングモールに行くことになった。ホテルの外の賑やかな大通りを渡っている時――それは実際にはほとんど高速道路だったのだが――私は突然、めまいがするような妄想に襲われた。その時点までにリックは、コンピュータをハッキングする自らのスキルを我々に話していたし、DIA(国防情報局)の仲間と会ったことだとか、その連中がUFO会議の参加者のうち何人かに関心をもっており、それはとりわけリックの言い方でいうところの「外国人」であることなどを明かしていた。

突然、ピンときた。コンピューターを手元に置いたリックの近くでPCをオンラインにつなぐということは、我々のことや我々の映画についての情報が詰まったマシンに、諜報機関の侵入を許すことにならないだろうか? 目の前には小さな黒い星が踊りだしたが、もう後戻りはできないことに気づいた。この波に乗って、事態を最後まで見届けるしかないのだ。

白いタイルが敷かれ、エアコンの効いた、ムサカ料理の匂いが香るモールで、私たちは同じテーブルについた。ジョンと私は片側、リックは反対側に座り、ラップトップの画面が背中合わせになるような配置だった。ワイヤレスの送信機にはパスコードが設定されていて、そのサービスを提供しているカフェは閉まっていた。我々は、リックがシステムをハックして繋げてくれるのではないかと冗談を言ったが、彼は別に異議を唱えることもなかった。しかし1分ほどしてもそういうことにはならないことが分かったので、私は振り向いて別のテーブルに座っていたラップトップのユーザーからパスワードを教えてもらった。我々はこれをエリント(電子諜報 ELINT)に対するヒューミント(人的諜報 HUMINT)の勝利だといって記録にとどめることにした。どういうわけか、それ以降リックといて不安になることはなくなった。

だからといって、彼が奇矯な行動を取らなかったわけではない。ある日の午後、私がロビーで自分のラップトップを操作していたところへ、自分のラップトップを持ったリックが近づいてきた。

「やあ、マーク!」。リックの声には秘密めかした調子があり、私は瞬時に警戒態勢に入った。「見せたいものがあるんだ」

彼はラップトップをテーブルに置いて画面を開いた。そこには異星人の写真や絵がずらりと並んでいたが、いずれも「グレイ」タイプだ。灰色の肌、無毛で膨らんだ頭、大きくて黒いアーモンド型の目、口の位置にある裂け目、鼻のところにある穴、そして鉛筆のように細い首。

「これを見てどう思うかい?」と彼は聞いた。

私はほとんど全部の写真を見たことがあったので、そうリックに伝えた。同時に、それらはすべて偽物だと思うとも伝えた。いくつかは模型で、いくつかは映画の特殊効果による創作物だ。二、三、非常によくできたものもあった。

「どうしてこれを見せているんです?」と、私は疑念を隠すことなく尋ねた。
「この中の一つは本物だ。どれだと思う?」
「全部偽物だと言ったでしょう」
「私は生きたEben エベン を見たことがあるんだ。そしてこの中の一つがその写真だ」

彼は、生物の一つを指さした。それは横を向いたグレイで、通常よりも顔は長く、気品があって意志を感じさせる表情だった――エイリアンの顔から感情を読み取れるとしたら、の話だが。腕は体の横に下ろしていて、画像は肘の上からしか写っていなかった。私は疑わしいと言った。

「これは本物だよ」とリックは主張した。「我々はこれをEBE2と呼んでいたんだが、1964年から1984年までアメリカ政府のゲストとして生きていた。私はロスアラモスでこいつがインタビューされているのを見たよ」。リックは著書『情報解除免除 Exempt from Disclosure』の中でもこの件について触れている。1983年3月5日、彼は名前が明かされていない、とある人物に連れられて、ロスアラモス国立研究所の地下深くにある部屋に入った。そこには「テーブルが二つと椅子が数脚、録音機器が置かれていて、私はドアの近くに座った」。空軍の大佐が入室し、インタビュー中は黙っているようリックに指示した。リックが「インタビューされるのは何者か」と尋ねると、「別の惑星からのゲストだ!」と言われた。5分ほど後に、身長4フィート9インチの人間とは異なるように見える生物が現れた。それはクリーム色をしたタイトなスーツを着ていて髪の毛はなく、リックは「これはEBE2だ」と教えられた。

質問者は大佐と正体不明の民間人2人で、彼らはEBE2に主として故郷の惑星やその大気について質問した。「このインタビューで興味深かったのは、EBE 2の向かいに座っていた3人が発する質問が、私には一切聞こえなかったことなんだ」。リックが聞いたのは、ETの返答だけだった。それは「完璧な英語だったが、機械的な声のように聞こえた」。EBE2は、ニューメキシコの気候は故郷を思い出させるので気に入っていると述べた。

リックと一緒にEBE 2の写真を見ていると、そこにジョンが現れた。私はEBE2を指し示し、リックが話していた話を繰り返した。「それは胸像だ」とジョンは即座に言い切った。「知り合いのUFO研究家がそれを家の暖炉の上に置いているよ」

リックの声にはかすかな苛立ちが入りこんでいた。「もしそれが胸像だとしたら、写真を元にして作られたんだ。だって私はこれが本物だと知っているからな!」

「それは胸像だ」とジョンは言い張り、そのまま立ち去った。

我々と一緒にいない時のリックは、ビル・ライアンと連れ立っていた。リックは我々に対してはセルポの話をしたがらなかったが、ビルがいるところでは必ずその話題が出た。もっとも、私たちは会議中あまりビルと話す機会がなかった。彼はこの会議では注目の的だったからだ。彼はいつ見てもジャーナリストにインタビューされたり、UFO研究家に質問されたりしていた。

木曜日の午後、ジョンと私はラウンジでリックと一緒に座り、ビルを待っていた。そこに黒い服を着た男がやって来て、同席してもいいかと尋ねてきた。我々は皆うなずいて承諾した。彼は体格こそ良かったが、どこか女性的な感じで、黒いタートルネックはいささかピチピチ過ぎるのではないかという気がした。座るや否や、その男性は自らのUFO体験を30分間にわたってしゃべり続けた。彼はまるで催眠術にかかっているか夢を見ているかのように、奇妙で声で歌うように話した。それによれば、自分はシングルファーザーで、数年前にアリゾナ州フェニックスの野外で空飛ぶ円盤を見たことがあるという。その出来事のすぐ後、彼は奇妙な男2人に会ったのだが、一人の目は赤く、もう一人の目は金色に輝いていた。一人目の男との出会いはおおむね良い感じで、電話番号も聞いた。だが、二人目との出会いはトラウマが残った。「いいですかと聞きもしないでずかずかと入り込まれたような感じ」がしたのだという。

そのおしゃべり男は二か月間、その体験を忘れていたが、ふと最初の男の電話番号を聞いていたことに気づき、電話をかけてみた。出たのはその男の妻だった。「主人は外出中です」と彼女は言い、「すみません、オーブンにエンチラーダ [メキシコ料理の一種] を入れてるところなんです」と続けた。そして彼女が電話を切った瞬間、記憶が一気に蘇ってきた。彼が覚えていたのは、ただ一つ、男たちの目のことだった。それは「花火のように回転し、閃光を放っていた」。男の話も終わりかけたところへ、ビルが現れた。彼は動揺した様子で、マニラ封筒を握りしめていた。

「みんな、話したいことがあるんだ」。私たちは黒服の男に失礼を告げ、別のテーブルに移動した。

「この封筒をロビーで渡されたんだ。誰かが僕のために置いていったらしい」。封筒には、太い緑のマーカーで「B. Ryan」と書かれていた。「ちょっと見せてくれ」とリックが言った。「封を開けるのは得意なんだ」。しかし、ビルは自分で封筒を開けた。

中には、ワープロで印刷された紙が三枚入っていた。印刷はかすれていて、プリンターのインクが切れかかっていたらしい。それは、セルポの宇宙飛行士の日誌の知られていない部分で、彼らが連れて行かれた異星人Ebenの惑星では彼らと意思疎通を取るのに苦労したことが記されていた。加えてそこには小さな紙片も入っていた。そこには手書きでのたうつ文字のようなものが書いてあり、合計16本の線が歪んだ格子を形作っていた。これはエイリアンの文字なのだろうか? 我々は何度か紙を回転させて、そのグニャグニャがどっちからどっちに向かっていくのかを確かめようとした。繰り返し出てくる文字がないかと探してもみた。しかし、何も分からなかった。ビルは中に入っていたものを封筒に戻した。

「失礼するよ、皆さん。もう行かないと。会議の主催者たちとUFOのビデオを一緒に見る約束をしているんだ」

我々は、夕食後にホテルのロビーでビルと会うことにした。翌日は彼が発表をする大切な日だった。彼が上映会に向かって走り去る姿を見ながら、私は考え込まざるを得なかった――エイリアンの真実という霧深い海を航行する船長として、ビルは自らの船を自ら操船しているといえるのだろうか。ラフリンに到着してからのこの数日、彼はアメリカのUFOコミュニティに熱烈に迎えられてきた。しかし私は、彼が誰かに操作され調教されている可能性を捨てきることができなかった――その「誰か」の正体は分からないにしても。私の最大の懸念は(それはジョンとグレッグも共有していたのだが)彼が「もう一人のポール・ベネウィッツ」になってしまうのではないか、ということだった。

■プロジェクト・ベータ

1981年の後半、UFOコミュニティに出回った「プロジェクト・ベータ:現状の要約と報告(推奨ガイドライン付き)」という文書がある。それは驚くべき文書であり、かつ今から考えればポール・ベネウィッツの壮大な妄想に満ちた悲劇的な文書でもある。その詳細な内容というのはベネウィッツのような優れたエンジニアなくしては得られなかったもので、この文書は、彼が収集し、迷宮めいたファンタジーを作り上げるのに用いたデータをまとめ上げたものなのだ。そしてこれが悲劇だというのは、精神疾患についての記録に出てくる他の有名な事案などとは異なり、この妄想がAFOSI(空軍特別調査局)からベネウィッツに与えられたニセ情報によるものであり、もっぱら彼自身の空想に基づくものだったわけではないという点にあるのだ。さらに言えばこの文書は、AFOSIがベネウィッツにニセ情報を提供するため、どれほど徹底的な操作を行ったかも明らかにしている。

25ページにわたるこの報告書は、まず「調査員 物理学者 ポール・F・ベネウィッツ」によって収集された情報の概要から始まっている。

    エイリアンの通信およびビデオチャンネルの探知と解読(いずれも地域・地球・近宇宙レベルでのもの)。エイリアンの船や地下基地のビュースクリーンからの映像を常時受信(受像内容としては典型的なエイリアン、ヒューマノイド型。時としてホモ・サピエンスと思われる存在)。

    エイリアンとの直接通信を常時確立(コンピュータと16進法コードの一種を使用。出力はグラフィックとプリントアウトによる)。エイリアンの通信ループを通じて地下基地の真の位置がエイリアンから明かされ、正確に特定された。引き続いて空中および地上からの写真撮影により、着陸用パイロン・地上の船・入り口・ビーム兵器・打ち上げポートが確認された。このほか地上には静電現象を利用した乗り物に搭乗したエイリアンも確認された。ビーム兵器の充電もやはり静電気によるものと見られる。

ベネウィッツは、異星人の心理について学んだことをまとめている。「異星人は狡猾であり、欺瞞を用い、平和構築プロセスへの意図は一切もっておらず、いかなる事前の合意にも従うつもりはない」

ここで彼は、自らがアルチュレタ・メサにいると信じている地球外生命体について語っているわけであるが、それは同時に彼の「友人たち」、つまりカートランド空軍基地の人々に向けた言葉であったのかもしれない。時折、彼は与えられた情報の矛盾点に注意を向けていたようでもある。「確かに彼らにはウソをつく傾向がある。が、ウソをついたという記憶は長持ちしないので、コンピュータから出力したものと直接比較してみれば事実は明らかになる。いわば『ひび割れから抜け落ちる』というヤツで、そこから真実は現れるのだ」。さらに彼は、異星人についてこう述べている。

    彼らは信用できない。もしエイリアンが「友人」ということになっていたとしても、差し迫った物理的脅威の時にその「友人」を呼び出した場合、その「友人」はすぐに敵側につくであろう……彼らは如何なる状況でも絶対に信用できない……彼らは完全に欺瞞的であり、死をためらうこともなく、人間や人間の命に対する道徳的な尊重は全くない……両者が署名したどのような合意も、エイリアンによって尊重されたり遵守されたりすることはない。彼らは「そんなことはない」と我々を信じさせようとするかもしれないが。

こうした発言から、無意識下ではあれ、彼には自らの状況について一瞬明晰さを発揮した瞬間があったのだ、ということを読み取らずに済ますのは難しい。ただ彼に対する工作が功を奏したおかげで、その鋭い洞察は影を投げかけている者にではなく、壁に映った影たちに向けられたのではあるが。

ベネウィッツは、エイリアンは人類を支配するために無慈悲な野望を抱いていると警告し、彼らが人間を奴隷にするためのマインドコントロール用のインプラント技術、彼らの兵器や宇宙船、そしてダルシェ(ダルシー)基地について詳述している。報告書は、この脅威を無化する唯一の方法は武力であると結論付け、ダルシェ基地への水供給を断つという精巧な計画を論じている。ベネウィッツは、ETとその乗り物に対抗するため開発した特殊なビーム兵器についても記述しており、これには軍の担当者も大いに関心を寄せたに違いない。

そして、冷ややかな最終声明で彼はこう宣言する。
    全面的に成功を収めるための鍵は「彼らは武力をのみ尊重する」ということである……アメリカ人として言うならば、今回のケースにおいては、答えを出すために我々がこれまで受け継いできた道徳的原則に頼ることはできない。そのことを認識しなければならない。交渉は不可能だ。この特定の集団は、狂犬に対するのと同じように対処する以外に方法はない。そのことを彼らは理解している……従って、この脅威に対処するにあたり、我々が「侵略者」と呼ばれる筋合いは全くない。我々は文字通り侵略されているのだから。

ベネウィッツにはかくも明確に精神的な不安定の兆候が出ていた。ところがカートランド基地の関係者は、既に手に負えなくなった事態を終わらせるのではなく、さらに別レベルの工作をするよう決定したのである。その心中は察するほかない。そしてAFOSIのベネウィッツに対するキャンペーンは少なくとも1984年まで続き、彼の精神状態はさらに悪化していった。

リック・ドーティがポール・ベネウィッツについて語る時、彼はベネウィッツを「友人」であり「素晴らしい人間」という風に語った。ドーティは我々に「ベネウィッツに起こったことをひどく後悔している」と話した。私はそれを信じた。ドーティのベネウィッツの事案への関与は1984年に終わった。彼は2年間、ドイツに配属されたのである。ビル・ムーアのAFOSI(空軍特別調査局)関係の仕事もその翌年に終わった。彼らがAFOSIの作戦が終了した後もベネウィッツと連絡を取り続けていたことは、彼らが築いた関係が真っ当なものであったことの証である。しかし、その時点では、もはやベネウィッツを救うことはできなかった。

ドーティが1986年にカートランドに戻ったとき、ベネウィッツの精神状態は著しく悪化していた。ドーティは、ベネウィッツにUFO研究をやめるよう説得しようとした。それは家族や事業、そして健康のためでもあった。それら全てが損なわれていたのである。彼はベネウィッツに「あなたがこれまで渡されてきたUFO情報はAFOSIが作ったものだ」とすら語った。しかしベネウィッツは、それを受け入れなかった。彼自身がニューメキシコ州が異星人に侵略されていると信じ込んでいるのに加えて、今では他のUFO研究者たちもその話に耳を傾けていた。彼にはオーディエンスがいたのだ。彼らは異星人の侵略から世界を救うことはできたのかもしれない。だが、ベネウィッツを彼自身から救い出すことはできなかった。

1987年、ビル・ムーアが最後にベネウィッツを訪ねたとき、彼はほとんど眠らず、食事も摂っていなかった。彼はチェーンスモーキング状態で(ムーアがグレッグ・ビショップに語ったところでは、ある時数えたら彼は45分間で28本のタバコを吸っていたという)、言葉をつなげるのに苦労していた。彼は強烈な被害妄想を抱き、ドアや窓に追加の鍵を取り付け、家じゅうに銃やナイフを隠していた。ベネウィッツはムーアやドーティに、異星人が夜中に彼の寝室に入り込み、彼に薬を注射して奇妙な行動をさせていると語った。彼は時折、砂漠の真ん中で、自分の車の運転席に座った状態で目を覚ますことがあった。グレッグ・ビショップによれば、ドーティとムーアの二人は、それぞれ別個に「ベネウィッツの右腕に針跡のようなものがある」という話をしていたという。彼は、政府機関の何者がベネウィッツに薬を注射し、それから砂漠に連れ出して異星人の恐ろしさだなどといった不条理な話を彼に植え付けているのではないかと疑った。ドーティは、ベネウィッツが自分で薬を注射しているのではないかと考えていた。しかし彼は、ベネウィッツの家の1階の窓の外に梯子の跡があるのを見たとも主張している。それはまさにベネウィッツが異星人が家に侵入している場所だと言っていたところだった。

事態がついに頂点に達したのは、1988年8月であった。61歳になったベネウィッツは、半分おかしくなっていた。彼の会社サンダー・サイエンティフィックは、成人した二人の息子によって経営されていた。家の中では、彼は妻のシンディが異星人に支配されていると非難していた。最終的には、彼が自室に砂袋を積んで立てこもるという事態に至った。

このままではいけないと家族は判断し、ポールはアルバカーキにあるプレスビテリアン・アンナ・カセマン病院の精神科施設に隔離された。そこで彼は1ヶ月間監視下に置かれた。ドーティがこの古い友人を訪ねたとき、ベネウィッツは彼のことが分からなくなっていた。

では、なぜこのような事態になったのか?

ドーティの説明はこうだ――AFOSIの作戦というのはカートランド空軍基地のセキュリティにのみ関わるものであって、1980年代半ばには終了した。一方で国家安全保障局(NSA)は、自分たちがカートランド基地から発している通信がベネウィッツに傍受されるのを防ぐため、向かいの家からニセ信号をビーム状に浴びせかけていたが、これは陸軍の作戦終了後も数年間続けられた。その理由は不明である。

NSAの関与は本当にあったのだろうか?AFOSIが作りだし、ムーアとベネウィッツに提供した政府のニセUFOメモは、政府によるUFO隠蔽の多くはNASAが元凶だと名指ししていた。ドーティは現在、このNASAというのは実際にはNSAをほのめかしていたのだと述べているが、当時のアメリカ空軍がNASAをおとしめようとした理由は十分に理解できる。NASAとアメリカ空軍は1950年代末にNASAが設立されて以来、宇宙に関する苦い対立を繰り返してきた。アメリカ空軍は常に宇宙に対して強い関心を抱いていたため、多くの航空宇宙予算が民間組織であるNASAに割り当てられることは癪の種だった。さらに、空軍はUFOという厄介ごとを押しつけられたのが気に入らなかったのかもしれない――宇宙の問題はNASAの領分じゃなかったのかよ、というワケだ。

UFOに関する空軍の広報活動は、1947年からプロジェクト・ブルーブックが閉鎖された1969年まで続いたが、それは空軍にとってずっと悪夢とでも言うべきものだった。ブルーブックの閉鎖後、空軍はUFOに関する問い合わせに対して「調査は終了しました」という定型文で回答していた。もちろんこれはウソだった。空軍がUFO事件の調査investigating(扇動 instigating かもしれないが)をやめたとしても、ファルコンやドーティ、AFOSIの活動が示すように、それについて考えることやUFO団体を監視することは明らかに継続していた(ちなみに大空を自分の縄張りだと考える空軍が調査をやめたというのはありそうもないことではある)。

UFOはその後も飛来し続けた。1975年にモンタナ州でICBM基地の目撃が報告されたのに続いて、1977年11月16日にはスティーヴン・スピルバーグの映画『未知との遭遇』が公開され、世界中でUFOに対する関心が再燃した。その流れの中にはは、国連にUFO調査機関を立ち上げようとしたグレナダの大統領、エリック・ゲイリーの試みもあった(結局は実らなかったが)。UFO目撃情報は世界中で急増し、新世代のUFO愛好家たちが生まれ、彼らは空に飛び交っているものについての真実を知りたいと願った。こうした大衆の要求にこたえて、当時のジミー・カーター大統領は、選挙活動に自らUFOを目撃した経験を公然と語りつつ、新たなUFO調査はNASAが主導すべきだと提案した。

しかし、NASAは乗り気ではなかった。「私たちはUFOの調査をやりたいとは思っていません。なぜなら、私たちに何ができるのかハッキリしないからです」。NASAの広報担当者はAP通信にそう語っている。「金属片や生物組織、布の一部といった、測定可能なUFOの証拠は全くありません。ラジオ信号すらないのです。写真は測定できるものではないですし……理論や記憶なんてものじゃらちがあかない。緑色の小人が一人でもいれば、何百万ドルもの予算がつくでしょうけどね」

いずれにしても、アメリカ空軍は困難な立場に立たされる可能性があった。もしNASAが調査を開始すれば、UFOのナゾに空軍が過去どのように取り組んできたかを蒸し返そうとするだろう。それは時間も予算もかかるだろうが、空軍にとっては少なからずバツが悪いことになりかねなかった。逆にNASAが手を出さなければ、次にUFO問題に取り組むべきは空軍だという期待が生まれるだろうが、10年前にようやくUFO問題から手を引いた空軍にしてみれば、再びその泥沼に戻るようなことも避けたかったであろう。

最終的にNASAも空軍も新たなUFO調査を強いられることは回避したが、それは際どいところであり、両組織の間に新たな遺恨を引き起こしたことは疑いようがない。従って、1981年に出回った偽造文書「アクエリアス文書」において、AFOSI が政府の秘密UFOプロジェクトの首魁としてNASAを名指しした時、空軍は注目を自分たちからそらしただけでなく、ライバルに一矢報いることにも成功したのだった。結果としてNASAは、狂気じみて胃の痛くなるようなUFO広報の悪夢をちょっぴりとではあったが体験することになった――UFOについて山のように寄せられる問い合わせに象徴されるような、そして空軍が20年以上苦しんできた広報の悪夢というものを。

AFOSIはまた、NASAというおとりを持ち出せば、ビル・ムーアがいとも簡単に引っかかってしまうことも知っていた。ムーアとバーリッツの共著『ロズウェル事件』には、NASAが隠蔽したとされる宇宙飛行士絡みのUFO事件がいくつか挙げられている。最も注目すべきは、歴史的なアポロ11号の着陸地点が他の「宇宙船」で「あふれかえっていた」ために、最終段階で変更されたという主張である。ちなみにこの本には、パイロットのバズ・オルドリンとミッションコントロールの間で交わされたとされる身も凍るようなやりとりが出てきており、その記述に対してオルドリンはムーアとベルリッツを相手取った訴訟を起こしている。

しかし、ベネウィッツ事件の真の黒幕は、ドーティがいう通り、この宇宙機関から「A」が一文字が取れただけのNSAであったかもしれない。1990年代初頭、NASAの電話交換手が好奇心旺盛なUFO研究家たちからの問い合わせに疲弊していた頃、ビル・ムーアはこんなことを言っている。――オリジナルのアクエリアス文書にはNSA(国家安全保障局)という名前が書かれていたのではないか。そして含み笑いをしながらそれをNASAに書き換えたのはAFOSIの関係者たちだったのではないか、と。

NSAはベネウィッツに関心を持っていたのだろうか? 彼が傍受していた信号が空軍のものではなくNSAのものであったとしたら、そういうこともありえただろう。加えてNSAは、「ベネウィッツは情報源として使えるかもしれない」という内容のソ連サイドの通信を傍受していた――ベネウィッツ自身がそのことを知る由はなかったのであるが。となると、AFOSIやNSAが最も恐れていたであろうシナリオというのはこういうものになる。すなわち、ベネウィッツがUFO情報を誰彼かまわずばらまくことで、その情報がカートランドで行われている何らかの秘密の研究開発プログラムにソ連の注意を引きつけてしまう――。

しかし真の疑問は、米空軍なのかNSAか、あるいは他の組織かもわからないが、何者かがポール・ベネウィッツを廃人に追い込もうとした理由である。

グレッグ・ビショップは、ベネウィッツはカートランドで行われていた極秘の航空機や衛星技術のテストに偶然出くわしてしまったのだと考えている。ベネウィッツは異星人の本物の宇宙船が極秘に飛行しているのを見てしまったのだと考えている人もいる。しかし、いずれの説も、この才能豊かではあるが脆弱な心に対して、空軍が執拗な心理的攻撃を行った理由を十分に説明するものではない。さらにこれらの説は、空軍が――あるいは別の組織かもしれないが――新しいオモチャ、それもとりわけ一番大事なエイリアンのオモチャをテストする時、それをするのに適した数マイル四方の地所を人里離れた砂漠地帯に所有しているのに、わざわざ人目のある住宅地で行った理由も説明できない。

「秘密技術」説にとって最も致命的な反論としては、もしベネウィッツが見てはならないものを見たのなら、空軍は彼に黙っているよう頼むだけでよかったはずだ、というものがある。愛国者であり、軍と契約関係にもあった彼なら、ほぼ確実にその要請に従ったことだろう。仮に彼が拒否したとしても、軍は法的に圧力をかけることができたはずだ。ブラッド・スパークスやバリー・グリーンウッドが指摘するように、政府や軍の秘密の通信を傍受したら、1934年の通信法や1917年のスパイ法に違反することになっただろう。もしベネウィッツがNSAの機微にわたる通信を傍受していたなら、彼は逮捕され、機材は押収され、事業は閉鎖されたであろう。しかし、そうはならなかった。代わりに彼は妄想を煽られた。なぜだろうか?

この事件についてのグリーンウッドとスパークスの見立てによれば、AFOSIには(そしてベネウィッツになされた工作には)より悪意に満ちた、計画的な意図があったとされる。カートランド基地のAFOSIが初めてベネウィッツを認識したのは、おそらく1979年4月にアルバカーキで開催されたハリソン・シュミットのキャトル・ミューティレーション会議だった。その翌月、リック・ドーティはエルスワースからカートランドに転任したのだが、カートランド基地ではその前年、UFOをテーマとしたニセ情報作戦を『ナショナル・エンクワイアラー』に仕掛けることに成功していた。さらに4か月後の1979年7月、ベネウィッツは自宅の近くのマンザノ山脈で光を撮影し(それはおあつらえ向きなことに彼の家から見える場所だった)、無線通信の記録も始めた。それを彼はUFOと関係したものであるに違いないと考えた。

1980年1月27日、ベネウィッツは初めてエイリアンからの通信を受信した。彼は1981年に空軍の情報参謀補佐長宛てに送った手紙の中で、こう主張した。すなわち、最初の電子通信セッションに際しては、カートランドの警備部隊の指揮官にして、ベネウィッツが最初にUFOの目撃を報告したアーネスト・エドワーズ少佐その人が立ち会い、「非公式ながら得がたい後方支援」をプロジェクト・ベータに提供してくれた、と。空軍は、最初から積極的にベネウィッツに関わり、彼の妄想を助長していたのである。1980年7月、AFOSIはカートランドでのUFO事件に関するクレイグ・ウェイツェル名の手紙をAPROに送り、APROはビル・ムーアに調査を依頼した。9月になるとムーアはファルコンとリチャード・ドーティから連絡を受け、ベネウィッツ作戦は第二段階に入った。

このように見てくると、事件は全く新しい様相を呈してくる。ベネウィッツはカートランド上空のUFOを偶然目撃したのではなかった。それらは彼のために飛ばされていた、明るく輝く撒き餌であった。一方、ウェイツェルの手紙はUFO研究者を引き寄せるために意図されたものであった。ムーアとベネウィッツは共に餌に引っかかり、捕まった。AFOSIは最初から彼らをUFO情報操作の媒体として利用しようと計画していたのである。彼らの本当の標的はベネウィッツではなく、UFOコミュニティ全体であった。

■ユーフォロジーでの戦争

AFOSIの公的な任務は、「空軍、国防総省、米国政府に対する犯罪、テロリスト、情報活動の脅威を特定し、把握し、無力化すること」である。AFOSIの活動の多くは「情報作戦」に含まれ、空軍政策指針10-7(2006年)では、これが三つの主要カテゴリー、すなわち「電子戦作戦(EW Ops)、ネットワーク戦作戦(NW Ops)、影響作戦(IFO)」に分類されている。

ここで我々の注目を引くのは「影響作戦」である。これには「軍事欺瞞(MILDEC)、作戦保安(OPSEC)、心理作戦(PSYOP)、防諜(Cl)、広報作戦(PA)、および反プロパガンダ」が含まれる。この文書によれば、こうした作戦は「我々自身を防御しつつ、敵対する人間や自動化された意志決定システムに影響を与え、妨害し、あるいは拘束するため」に展開されるもので、空軍はこれらの能力を「物理攻撃兵器によるのと同様の効果を達成するため使用する可能性がある」としている。

仮にあなたが空軍だと想像してほしい。あなたが目標とするのは空域での絶対的な優位であり、それを維持するためには、多くの秘密を守る必要がある。それはたくさんある。作戦上の秘密。戦術上の秘密。航空機・衛星・兵器に関する技術上の秘密。こうした秘密――とりわけテクノロジーの秘密――を守ることは死活問題である。UFO研究者たちはあなたの秘密計画を覗き見しようとしており、情報公開法に基づく要求を次々と送りつけ、あなたがDNAを盗むエイリアンと共謀してUFOの真実を隠蔽していると非難している。けれども、あなたはそんなものは絵空事だと知っている。UFO研究者たちの目的は、あなたが守るために何百万ドルも費やしているすべての秘密を暴露することだ。あなたが彼らを脅威と見なし、無力化しようとするのは当然のことである。

あなたのすぐ近所の住人で、UFO陰謀論を大声で唱えているポール・ベネウィッツ。UFOコミュニティで最も尊敬されているビル・ムーア。彼らをコントロールできれば、あなたはこの厄介な人々への攻撃を始めるための完璧な拠点を持つことになる。

ドーティが繰り返し我々に話したように、一度ベネウィッツに対する作戦が始まってしまえば、それは難しいことではなかった。ベネウィッツが自らの信念を保っていくためには、外からあれこれ応援してやらなくても、時折ちょっとした後押しをすれば十分だった。そしてベネウィッツはとてもよくその役割を果たした。ユーフォロジーの主流派の注目を集め、「善対悪」「我々対彼ら」「人類対異星人」という、センセーショナルだが単純な物語を広めたのである。

サイラス・ニュートンやジョージ・アダムスキーらの初期の作り話と同様に、ベネウィッツの「プロジェクト・ベータ」は、UFOコミュニティを集中させ、分裂させ、UFOに関する真剣な研究を困難にする騒音の壁を作り上げた。このテーマに真剣に取り組もうとする多くの人々は、その取り組みを断念せざるを得なかった。これは情報戦の見事な手本であったが、その代償は非常に大きかった。

ポール・ベネウィッツ問題の最終局面において、断崖の縁でよろめいていた彼は自ら身を投げたのか? それとも後ろから押されたのだろうか?

■ビルの大事な日

我々はその晩、ビル・ライアンが異星人へのインタビュー映像なるものを見た後に、彼と会うことになっていた。明日は彼の大事な日だった。いよいよ彼による「セルポ」の発表があるのだ。1時間経った。ジョン、リック、そして私はロビーで待った。しかしビルは姿を見せなかった。彼のホテルの部屋に電話をかけたが応答はなかった。ジョンが部屋を訪れノックしたが、電気は消えており、誰もいない。ビルはどこにもいなかった…。

翌朝、我々はロビーにいるビルを見つけた。彼は明らかに動揺していた。ビルによると、「セルポ文書」の情報源であるナゾの人物、アノニマスが、ラフリン・コンベンションの理事会の一員であるベテランUFO研究家、ドン・ウェアに連絡を取ってきて、ビルの講演を評価し報告するよう指示したという。ビルは、何かうまくいかないことがあって、セルポの代弁者としての役割を失うのではないかと恐れていた。しかし、これは驚くべきことではなかった。人類史上最も重要な発表の代弁者として、常に試されているというのは当然のことだった。アノニマスは見守っていたのである。

緊張していたものの、ビルは発表の前にカメラを回してのインタビューを受けることに同意した。だが、準備をしているとリックが現れた。

「みんな、ちょっと問題が起きた。誰かカメラの操作はできる? ちょっと面白いことになりそうなんだ。私のDIAの相手方が、これまで公開されたことのない映像を見せたいと言っているんだ」

「それには何が映っているんです?」とジョンが尋ねた。
「ETのインタビューだ。」
「またですか?いったい何回目なんだ?昨日見せてくれた写真とは関係があるんですか?」

「いや、違う。」リックの声には少し苛立ちがにじんでいた。「これは別物だ。この映像は誰も見たことがないし、向こうさんは君たちがドキュメンタリー用にカメラを持ち込むことを許すかもしれないぞ」

ビルはインタビューを受ける態勢に入っていて、我々に話したいことがあるような様子だった。一方でリックはUFO史上の「聖杯」を提供しようとしていた。そう、本物の「生きたエイリアン」だ。しかし、なぜDIAは我々にそれを見せようと思ったのだろう? 4日間にわたる駆け引きを経て、我々の忍耐は限界に近づいていた。「リック、今はビルの件で忙しいんです」と私は言った。「私たちがビルをインタビューしてる間は、女性カメラマンが小型のカメラで撮影できるかもしれない」

リックは、歴史的な提案を拒否されたことに少し驚いた様子だったが、自分の相手方の意思を確認すると言って立ち去った。その間に我々はビルに注意を向けた。ビルはラジオマイクを装着し、そわそわしていた。何かが彼を苛んでいることは明らかで、彼は言葉に詰まっていた。ビルは緊張するとどもる癖があるのだ。

「昨日届いた新しい文書…今日の話の中心に据えたかったんだ…あのエイリアンの文字を人々に見せて、その解読を始めたかった。でも、それができないんだ…知らせを受けたんだ…まだ話すことができないんだ」

「誰から言われたの?」と私は尋ねた。
「それは言えない。でも彼の意向には従わなければ」

「新しいものを見せられないのは残念だが、他にもたくさん話すことがあるじゃないか」
「そうだね。そうだと思う」

トイレに行ってきたビルは、インタビューのために腰を下ろした。我々はラジオマイクがまだオンになっていることを彼に伝えるのを忘れていた。

その後のビルへのインタビューはドラマチックなものとなった。この会議は彼にとって心理的な地雷原のようなものであり、彼は深刻なストレスを受けているように見えた。ビルはユーフォロジーの新たな英雄、忖度ナシで話す男として讃えられ、毎日多くの支持者やインタビュアーに囲まれていた。彼はユーフォロジーの中心部で歓迎を受け、会議の要人たちと肩を並べてはUFOやエイリアンの映像を見ていた。彼らはビルを抱擁していた。それは確かだ。しかしその目的はなんだったのだろう?

「すべての行動が監視され、分析されているような気がするんだ」と彼は言った。「すべての会話が盗聴されている」。我々は、彼がラジオマイクをつけたままトイレに行ったことは口に出さなかった。

「もう誰を信じていいのか分からない。正直なところ、これ以上耐えられるか分からない」

リックについてはどうか? ビルは彼を信頼しているのか?

「リックは本当に大きな助けになってくれた。彼はまさに導きの光だよ。UFO分野での彼の経験は私にとってとても貴重だった。この間ずっと、彼はガイドをしてくれた。彼がいなければここまでやってこれなかっただろう」

リックは具体的にはどのようにビルを助けてきたのか、またビルがセルポの話に関わるようになった当初から彼は支援していたのかどうか。そう尋ねようとしたが、ちょうどその時、リックがロビーに現れた。まるで獲物を手にした猫のように満足そうだった。

トラブルの兆しを感じたジョンは、リックをビルから遠ざけるように誘導し、私は素早くインタビューを締めくくった。リックがビルの肩越しに監視している状況では、これ以上の情報を引き出すのは難しいだろう。

我々は一緒にテーブルを囲んで座った。リックの目はキラキラと輝いていた。

「エイリアンの映像を見たよ。本当に素晴らしいやつだ。でも、撮影するのはダメだそうだ。特別な上映が行われたんだ。参加者は会議の主催者であるボブとテリー・ブラウン、DIAのエージェントが2人ほど、あと見知らぬ2人だった。ホテルの一室で、上映の準備が整えられていた。使用していた機材はパナソニックだ。政府はいつもパナソニックを使うんだ」

我々はリックのいる方に身を乗り出した。彼は映画の内容を話してくれるのだろうか? それとも政府のエージェントが映画を見る時は、どのブランドのポップコーンを食べるのかを教えてくれるのか?

「うん、映像は古いものだ―1940年代後半から1950年代初期のものだろう。車が施設の外に停まるんだ。ロスアラモスの施設に見えたな。あそこには何度も行ったことがあるんだ。外には民間と軍の車両が停まっていて、いかにもあの年代のクルマという感じだった。1人の男が建物に入り、カメラが彼を廊下の奥まで追っていく。僕の見るところ、あれはロバート・オッペンハイマーだったね」

ジョンはカメラの動きを尋ねた。それはトラックに乗っているのか、それとも三脚に据えられているのか?

「三脚に据えられて移動していったように思うね。オッペンハイマーがセキュリティドアを二つ通っていく時、少し揺れていたからな。ドアは、彼の付き添いがインターホンに話しかけた後に開いた。廊下の最後にもう一つのドアがあり、その前にMP(軍警察)が立っていた。彼の記章には“ダグラス”という名前があった。彼の制服と武器は1940年代か1950年代のものだったな。ドアが開くと…そこにいたんだ、Ebenエベンが。ノドの周りに発声器みたいなものがあって、そのせいか喋る時には機械音声のような声がしたな」

「彼らは何を話していたんです?」とビルが興奮して尋ねた。「彼らの母星についてですか?」

「いろいろなことを話していたよ。そう、Ebenエベンは自分たちの星についても話していた。それは40光年先で、二つの太陽があって、乾燥した砂漠のような風景なんだそうだ」

「まるでセルポみたいだ」。ビルは微笑んでいた。数分前の不安はすっかり消えていた。

「そうだな、そうかもしれない」。リックは答えた。

ビルは講演の準備のために立ち去った。彼の講演まであと20分だった。彼の足取りは軽く、新しい自信がみなぎっていた。リックの激励トークが功を奏したようだった。

ビルのプレゼンテーションには満員の観客が集まった。音声が何度か途切れ、少し話が長引いたかもしれないが、彼は聴衆が聞きたかった話をちゃんと話していた。米政府とETとの接触の証拠とされる資料。内部情報源の裏付け。そしてさらなる情報が控えていることのほのめかし。彼は最後まで聴衆の注目を引き続けた。

ただし、一つのテーブルだけは様子が違った。今週の初めから目にしていた男たち、つまり鋭い目をしたフライトジャケットの男と、二人の屈強な付き添いがいつものように無表情で同じテーブルに座っていたのだ。ビルがポール・マクガヴァンの名前を出した時――ちなみにマクガヴァンというのはドーティの話によればDIAの情報源で、最初にEメールでセルポのストーリーの多くの部分を補強した人物とされる――オールド・スティーリーのような目をした男は突然落ち着きを失い、テーブルを立って部屋を出て行った。ひょっとしたら彼はポール・マクガヴァンだったのだろうか? [訳注:Ol' Steely-eyes という言葉はよくわからない]

ビルの講演が終わった後、人々が質問のために列を作ったが、私はロビーに出て、残りの観客が退場する様子を見ていた。その雑踏の中から現れたリックは、私のそばに来て、ビルのプレゼンテーションについてどう思うか尋ねてきた。

「私ならもうちょっと整理して話したかもしれませんね」。私は如才なく答えた。

リックは同意した。「採点したらC+といったところだ。彼はスライドを使うべきだろうな。講演にはスライドを使わないとな、パイロットにとってのコンパスのようなものだから。アレは発表をリードしてくれる」

ビルが講演ホールから出てきた。ファンに取り囲まれ、ほとんど運ばれるようにしてテーブル席に腰を下ろした。質問に答えるビルは、とりわけ40代前半の魅力的な女性に注意を払っていた。その女性は背が低く、顔も髪も黒っぽい感じだった。ビルとその女性はしばし話し込んでいた。リックと私は「ああなるほどね」といった感じでお互いにほほえみあった。

群衆が散った後、ジョンと私はビルと話をするチャンスを得た。ビルはすべてが終わって、反応も良かったことに満足しているようだった。彼は始まる前は不安感で体が痺れるほどだったと言った。というのも、ステージに上がるちょっと前には主催者から「もし照明が消えたらすぐに地面に伏せて下さい」と言われていたのだった。主催者側もビルの発表が行われている間に何かトラブルが起きるかもしれないと忠告されており、舞台脇には万一に備えて屈強な警備員数人が舞台袖で待機していたのだという。

私は「オールド・スティーリーの目をした男」が突然出ていったことに触れ、彼がロビーをこっそり通り抜けていったことをビルに教えてやった。私は、彼がポール・マクガヴァーンなのではないかと彼に聞いてみたのだが、ビルはそれを否定し、その男からは以前話しかけられたことがあったと言った。彼はテリーという名前で、アリゾナ州出身のUFOコンタクティだった。ビルに語ったところでは、彼はあらゆるUFO会議に出席しているということだった。私は、なぜコンタクティがあんなに陰険な顔をしているのか、そしてなぜいつも両脇に大男たちをはべらせているのか、疑問に思った。彼ら全員がコンタクティだとでもいうのだろうか? あの3人はあらゆるUFO会議に揃って参加しているのだろうか?

その日の午後、我々はリックの撮影をする予定だったのでロビーで彼を待っていた。いつもそんなことはないのだが、彼は1時間ほど遅れてやってきた。その間、私は物理学者でありながらオカルトを実践しているという人物や、インターネットラジオの司会者、さらには『ハスラー』誌に会議についての記事を書くというジャーナリストと話をすることができた。リックがようやくやってきた時、彼は我々との約束を忘れていたようだったが、それでも撮影には快く応じてくれた。

私たちはホテルのエレベーターに向かったが、角を曲がると「オールド・スティーリーの目をした男」と突然出くわした。彼とリックはまるで磁石がはじきあうようにお互いに飛びのき、鉢合わせしたことに一瞬驚いた表情を浮かべ、大げさに貧乏揺すりをしたり地面に目をやったりしていた。エレベーターの扉が開くと我々は乗り込み、緊張した空気の中、2つ上のフロアに向かったが、リックと「オールド・スティーリーの目をした男」は、怒った雄猫同士のように殊更にお互いを無視しあっていた。

目的の階に到着したリックと私はホッとしてエレベーターを降り、中二階へと進んでいった。

「じゃあ、あれがポール・マクガヴァーンだったわけですか?」。私は笑いを抑えながら尋ねた。

「どうしてそれがわかったんだ?」。リックは驚いたような、それでいて嬉しそうな顔をした。

私は笑いながら、彼とその仲間を一週間ずっと観察していたこと、リックと彼の間で目配せが交わされるのを見たこと、そして彼がビルの話の中でマクガヴァーンの名前が出た途端に退席していったことを説明した。

「よくやったな。MI6で働けるんじゃないか? しかしだ。君がジョンと一緒にパンダエクスプレスで麺を食べているのを、我々がホテルのバーから見ているのは気づかなかっただろ!」。リックは破顔一笑し、満足げに私を見た。彼にとってはこういったこと全てがゲームなのだろう。そんなことを強く思った。そのゲームが何なのか、私には全くわからなかったのだけれど。

撮影はうまく進んだ。リックはカメラの前では自然体であった。彼はポール・ベネウィッツについて、そしてこういった会議を情報機関が監視する必要性について、ちょっとだけ話した。また彼は、自分はセルポに関する件には全く関わっていないのだと主張した。彼はただの民間人として興味を持っただけだというのだった。

その夜、メインホールではミステリーサークルに関する映画が上映された。ジョンと私はそれを見に行くことにした。我々は、ミステリーサークルの作り手たち(自分たちもそうだったわけだが)の仕事と、リックが関与していた情報操作の仕事の類似点ということについて考えていた。どちらのグループも秘密裏に活動し、UFOに関する新たな物語を作り出し、そしてその物語は独り歩きしていった――書籍やUFO会議、ハリウッド映画、強力な信仰の体系といったものとして。どちらのグループも、自分たちの活動を取り巻く神話がますます大きく、複雑になっていく様子をリングサイド席から見守ってきた。どちらのグループも当初は沈黙を強いられた。やがて彼らは、ビル・ムーアや一部のミステリーサークルの作り手がそうしたように沈黙を破った。だが、その時点で彼らは、神話を信じる者たちによって「自分たちが作り手であったこと」を否定されてしまった。実際のところ、ミステリーサークルの作り手と情報操作のアーティストたちの違いは、彼らはその仕事で報酬を得ているが、私たちは得ていないという点ぐらいだ。もしもUFO神話の発展に関与した組織が、自分たちの役割を明らかにしたとしても、すぐに同じように滑稽な状況に陥ってしまうだろう。信者たちは真実を知りたがっているのではない。ただ自分たちの既存の信念が確認され、詳しい話が積み重ねられていくことを望んでいるだけなのだ。

ジョンと私は暗くなったホールに入り、小麦が押しつぶされたウィルトシャーの畑の見慣れた光景を目にした。そこには、リックが一人で座っているテーブルがあった。私たちは横に座った。ミステリーサークルの専門家が異常な放射線値や遺伝子操作された作物について発言するたびに、ジョンと私は笑いをこらえるのに苦労した。私たちのチームがデザインしたいくつかのサークルも、荘厳にスクリーン上を滑っていった。私は思った。AFOSIのエージェントがUFO雑誌をめくるたびに感じているのも、こういうことなのだろうな、と。

私たちの喜んでいる姿はリックの注意を引いた。ジョンは彼に身を寄せて、「こういうサークルの中には僕が作ったものもあるんだ」と言うと、リックはびっくりしたようだった。「どうやって!?」と彼は小声で叫んだ。これには我々もリック以上に驚いた。彼は、ミステリーサークルが人間の手で作られていることを知っているはずではないか? そして彼は、我々と会う前にジョンの「サークルメーカーズ」のウェブサイトを調べていたはずではないか?

スクリーンでは、2つの光の玉が巨大なミステリーサークルを作り出す像が流れていた。この業界では「オリバーズ・キャッスル映像」として知られているものだ。「あれを作ったのは僕です」とジョンが言った。実際そうなのだった。彼は1996年、他の2人の仲間とデジタル特殊効果の技術者と一緒にこれを制作したのだ。リックは明らかに感銘を受けたようすで、観客から漏れたかすかな驚きの声にも、彼がそんな反応をしても当然だろうと思わせるものがあった。

映画が終わった後、リックはそれほど驚いてはいないのだという風を装った。「まあ、全部知ってたさ」と彼は言いながら、シャツの隅でメガネを拭いていた。「ミステリーサークルが人の手で作られていることは知っていたよ。君たちに夢を壊されたわけじゃない! でも……どうやって作ったんだ?」

外に出た我々は、クロップサークルの作り方やUFOをデッチ上げる方法、デジタルを用いたトリックなどについて話した。そして、最近ではUFOのビデオが偽物かどうかを判断するのはほぼ不可能であり、奇妙な乗り物がクッキリ映っているほど本物である可能性は低いという、とても残念な状況が生まれているといったことも。

「それでですが」とジョンが尋ねた。「あなたが今朝見たエイリアンへのインタビュー映像、それは特殊効果の産物ではなかったと明言できますか?」

「うん、あれは本物だよ。」リックの顔に狡猾そうな表情が一瞬浮かんだ。そして彼は微笑んだ。「さあ、君たちもあの映像を見に行ったらどうだい。部屋は11012号室だ。ノックすれば入れてくれるかもしれないよ」

ジョンと私は顔を見合わせ、リックとは後でホテルのバーでまた会うことにしてから、笑顔を交わしてエレベーターへと向かった。エレベーターの中に入ると、急に緊張感が高まった。計画を立てるような時間はほとんどなかった。

「じゃあ、ドアをノックして『こんにちは。エイリアンの映像を見せてくれるのはここですか?』って言えばいいんだな。ロビーにいたら誰かが近づいてきてここで特別上映があるって教えてくれた、と言えばいい。最悪、追い払われるだけだ」

「ずっと僕たちのことを監視していたかもしれないよ」。そうジョンが言った。「リックと一緒にいたことは彼らも見ていたはずだ。リックに教えられたってことは分かってるだろう」

「でもどうすればいいっていうんだ?」。私は不安を隠そうとしつつ応えた。「ノックするしかないだろう……」

廊下には誰もいなかった。そして長かった。廊下は奥に行くにつれて、閉所恐怖症になるんじゃないかと思わせるほどすぼまって見えた。気がつけば、カーペットの上にはタイルが並ぶ柄が催眠術のように何度も繰り返され、頭上では蛍光灯が点滅していた。手のひらが汗ばんできた。

前方には「起こさないでください」という札がかかったドアが見えた。この廊下にはこのドアしかない。11012号室。何の変哲もない。私たちはドアの前に立ち、耳を澄ませた。静寂。私は深呼吸をしてノックした。反応なし。いつ「オールド・スティールの眼」をした男と彼の仲間たちが廊下を突進してくるか、気が気ではなかった。「もう一度ノックして」とジョンがささやいた。

私は再びノックした。返事はなかった。私は鍵穴から中を覗いた。電気は消えていた。誰もいなかった。ドアの下にメモを差し込むことも考えたが、代わりに「起こさないでください」の札を裏返していくことにした。名刺代わりということで。

我々は急いでエレベーターに向かい、これは一体何だったのだろうと考えた。また別のゲームなのだろうか? あの部屋は誰のものなのか? DIAの上映室だったのだろうか? それともリックの部屋だったのか?

ホテルのバーに戻り、瓶ビールを飲んだ。少なくとも私たちが挑戦してみたのは確かなことだ。

私たちの会議での一週間は終わろうとしていたが、頃合いはもうギリギリということのようだ。この間、我々はほとんどの時間をUFOやETについて話をすることに費やしていた。我々を現実につなぎ止めているロープは端の方でほつれ始めていた。あと一週間この状態が続いたら、我々はいとも簡単に大海に漂流することになっただろう。あまりにも長くUFOの魅惑的な輝きを見つめていると、そうなってしまうということなのだろうか? ビル・ライアンの身に起きつつあるのもそういうことではないのか? ポール・ベネウィッツの身に起きたのもそういうことではなかったのか? (12←13→14)

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久しぶりに天声人語ネタ。

今朝の天声人語は酷かった。批評に必要な範囲の引用は著作権法でも許されているので今回もその冒頭部を貼っておく。

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要するにイタリアに比べると日本はまだまだちゃんとした防災対策が出来ていないという話で、司令塔をちゃんと作って行政の縦割りもやめなさいという説教をしている。ああそうですかという話であるが問題はソコではない。

冒頭部を読んでいて、オレはこの箇所に引っかかった。

 私はその7年後、震災復興策の一環でできた高校で学ぶ機会を得た。

オレの知る限り「震災復興」という言葉が日本で一般化したのは阪神大震災以降のことである。阪神大震災があったのは1995年。しかしこの文章を読むと1976年の7年後というから1983年に「震災復興策の一環でできた高校」が存在していたことになる。

ん? どして? ここで5秒ほど考えた末にやっと疑問が解けた。そうかこの筆者は当時日本にいたわけではなくて、イタリアにいたのである。日本の新聞で日本語の文章を書いている記者なので基本的にはこの国で生まれ育った人間なのだろうというアタマでいたのだが、実はそうではなかった。たぶん筆者は帰国子女というヤツで、当時はイタリアの高校に通っていたのである。しかしこの人はその辺のことをハッキリ書かない。なのでオレも勘違いしてしまったのだ。

要するに、文章のイロハとしては、だからここで「自分はイタリアにおりました」という話をひと言しておけばよかった。そうすれば誤解される恐れはない。なのにそれをしなかったというのは「文章がヘタ」という風に言ってしまえばそれまでなのだが、要するにこの筆者は日本にフツーに住んでフツーに暮らしている人々への想像力が悲しいほどに欠落しているのだろう。

「イタリアで高校生活を送った人」というのは我々からするとちょっと変わった体験をしてきた人物と映るのだが、たぶんこの筆者のアタマの中では「まぁ天声人語書いてるような人間はそもそも国際派のエリートなんよ。別に私はイタリアの高校出ましたとかダサいこと書かんでもそれぐらい察しろよ」ということになっているのだろう。そしていわゆる「出羽守論法」を披瀝してしまうのである。

この辺がオレが常々言っている「朝日新聞のエリート趣味」の表れであって、若い頃から世界的な視野を養ってきたオレ様が何も知らんアホどもに説教してあげましょうとゆー傲岸不遜な態度が透けてみえる。

ついでに「出羽守論法」についてひと言いっとくと、そもそもイタリアと日本はその社会の成り立ちや現況なども違うワケで何でもかんでもイタリアみたいにできるハズがない。たまさかおまえさんがイタリアで高校生活を送ったからといってそんな説教をする権利を自動的に得たと思ったら大間違いなのである。(おわり)


【注記】なお、朝日新聞批判だというのでたまたま迷い込んできたが別にアカ批判もしとらんので拍子抜けしたという人がいるかもしらんので念のため書いておくが、オレは基本リベラルであって別に特別高等警察のように朝日の思想傾向を断罪しようとしているワケではない。オレが問題にしているのは朝日の紙面から漂う「わしらインテリが無知蒙昧な連中に啓蒙を施してあげよう」的な貴族趣味である。今はもうそういう時代ではないのである
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■第10章 牛・盗聴器・地下のエイリアン

    第3条: 両締約国は、ミサイル警戒システムによって未確認の物体が探知された場合、またはこれらのシステムや関連する通信設備に干渉の兆候が現れ、そうした出来事が両国間の核戦争勃発のリスクを引き起こす可能性がある場合には、直ちに互いに通知をする義務を負う。
     ――米ソ偶発核戦争防止協定(1971年9月30日)

翌朝。もう会議の準備が始まろうとしている中、軽い二日酔いを引きずりながら、ジョンと私はフラミンゴの「アヴィアリー・ラウンジ」で落ちあい、常に用意されているコーヒーを喉に流し込んだ。それはユーフォロジストたちにとっての必需品だった。9時きっかりに始まる講演は午後5時まで続き、昼食の時間以外に休憩時間はなかった。本日の議題は次のようなものだった。2012年12月に何が起こるかを予測するイギリス人の話。それとはまた別のイギリス人による「英国軍がミステリーサークルの研究の隠蔽を図っている」という陰謀についての話。邪悪なネイティブアメリカンの霊がいるというユタ州の牧場についての発表。次元を超えたワームホールの話。そしてもちろんUFOである。

リック・ドーティが現れたのは午前10時半頃だった。我々に会えた彼は嬉しそうで、明るい表情だったが、実は朝の5時45分、会議に参加していた国防情報局(DIA)の知り合いに起こされてしまったということだった。DIAの職員が話をしたいというので、彼らはホテルの駐車場で会い、レンタカーに乗って町の外れまで移動し、そこで話をしたのだという。ただし、その内容は口外無用とのことだった。リックには、その日の午後にも同様な面談の予定があった。しかし彼は「こうした面談は公のものではないのだ」と言って、自分が「一般市民」として会議に参加していることを強調した。

その日のプレゼンテーションについて雑談をした。「スキンウォーカー牧場」という名で知られる、ユタ州のあの牧場はどうなんだという話になった。1990年代初頭、牧場の所有者は何頭かの牛がミューティレーションの餌食になっているのを発見した。血は抜かれ、生殖器は綺麗に切り取られ、耳(そして時には舌)は取り除かれ、直腸はくり抜かれていた。しかし、牛たちが抵抗した形跡は全くなかった。この異常なパターンには、1970年代に牧場主たちを悩ませた同様のミューティレーションを思わせるものがあった。さらに死んだ動物の近くにビッグフットのような生物が現れたり、空に奇妙な光が見えたりしたこともあった。

「スキンウォーカー? あれはデッチ上げじゃないのか?」とリックは一蹴した。「正直に言うと、こういった話の90パーセントはデタラメだ。真実はこういうことだ。宇宙人は存在している。そしてしばらく地球にいた。我々は2体を捕まえて、彼らのテクノロジーを手に入れた。そして彼らは1965年にセルポ・チームを連れて地球を去っていった。実際にあったのはそういうことだ。残りの話は全部たわごとだよ。特に例のアブダクションなんていうのはね」

「本当に?全部が全部?」

「まあ、一つだけ謎のアブダクション事件があった。(アリゾナ州)フォー・コーナーズの辺りで女性が誘拐されたんだ。ニューメキシコ、コロラド、ユタ、アリゾナの州境が接する辺りだ。あそこは岩とヘビしかない土地でね。彼女はある夜、車に赤ん坊を置き去りにしたまま連れ去られた。彼女の夫は空軍に所属していたので、AFOSIに調査を依頼したわけだ」。リックは笑ったが、突然真剣な顔つきになり、何か未知のものに直面したかのように一瞬黙り込んだ。「あれは何だったのか、結局わからなかったよ。私は家に素晴らしい望遠鏡を持っていて、それをコンピューターに繋いでいるんだ。深宇宙の天体を観察するのが好きで、そこには何があるのだろうと考えてしまう。向こうには何かがある。そう思っているよ。全体の35パーセントぐらいは分かってるると思うが、残りはね……まあ、何が起こっているのか知っているヤツはいる。それは確かなことさ」

我々が話していると、見覚えのある人物がテーブルに近づいてきた。講演の最中、2人の屈強な付き人と一緒にいた、あの風雨にさらされたような顔つきの男だ。彼は我々のテーブルを通り過ぎつつリックに目配せをし、意味ありげに「分かっているよ」といった風に頷いてみせた。我々はそれを見なかったかのように振る舞ったが、私は内心恐怖に震えていた。彼はリックと関係のあるDIAの一人なのだろうか?

スキンウォーカー牧場でのキャトル・ミューティレーションについて話しているうちに、話題はポール・ベネウィッツ伝説の中でも最も奇妙な側面へと移っていった(それはリックが直接関わっていたものでもあった)。それは新たなUFO神話の中でも特に強烈で妄想めいた部分の、その土台を作り上げたストーリーでもあった。ニューメキシコ州の小さな町・ダルシェ(ダルシー)は、アルバカーキの北方約200マイルにあって、コロラド州との境に位置するジカリラ・アパッチ族の居留地であるが、この町を見下ろすメサ(台地)の地下にはエイリアンの基地が隠されているというのだ。


会議が終わって一週間後、ジョン、グレッグ・ビショップと私はダルシェを訪れた。町に入ってまず気づくのは、その小ささと貧しさである。次に目を引くのは、周囲の景色の美しさである。緑豊かな谷は雪を頂いた壮大な岩山の間に広がっており、さらに周囲を圧するようにして、巨大な氷河を思わせるアルチュレタ・メサの壁がそびえ立っている。メサはもっともっと小じんまりした台地で、異星人の地下基地がある場所としてはあまりにお粗末なところだろうと考えていたのだ。しかしそれは実際には陸地に浮かぶ島のようで、長さは約25マイル、幅は10マイル、高さは場所によっては300フィートもある。ここならエイリアンの基地だって幾つも収まりそうだ。

ダルシェでもう一つ目を引くのは、周囲から浮いた感じの「ベスト・ウェスタン・ジカリラ・イン・アンド・カジノ」である。これは町の中心と思しき場所にあり、ハイウェイ沿いに建っている近代的で相当豪華なホテルである。入口の前には2頭の巨大なブロンズの馬が立ち上がっている。客を歓迎するのにはどうかと思うが、ホテルのスタッフは私たちを喜んで迎えてくれた。ギフトショップではUFOのTシャツまで売っていた。そこには「友だちは宇宙人の検査を受けたのに私はこのショボいTシャツだけ」と書かれていた。この目立たない場所がどうして不吉な場所としてここまでの評判を得たのか? その答えは、ポール・ベネウィッツの心の中と、AFOSIが生み出した壮大な幻影の中に隠されているのだ。

■臓器泥棒たち

1979年4月20日はリチャード・ドーティがニューメキシコ州カートランドでAFOSIの任務に就くちょうど一か月前であったが、上院議員で月面を歩いた元宇宙飛行士でもあるハリソン・シュミットはその日、アルバカーキでちょっと前例のないような会議を主催した。会議には、ニューメキシコ州、コロラド州、モンタナ州、アーカンソー州、ネブラスカ州から集まった牧場主や法執行官たちが出席し、彼らは一つの問いに対する答えを求めていた。「誰が、あるいは何が、彼らの家畜を殺し、切り刻んでいるのか?」。この会議にはポール・ベネウィッツも出席していた。そして、おそらくカートランド基地からはAFOSIの代表者も目立たないようにして参加していたのだろう。

多くの牧場主や地元の警察は、こうした殺害の下手人は人間だと確信しており、おそらくは魔女や悪魔を崇拝するカルトが関与しているのだろうと考えていた。しかし、カンザス州立大学で行われた検死が明らかにしたのは、牛は人間ではなく動物に襲われたのだということだった。それでも牧場主たちはこの説明を受け入れなかった。1974年の終わりには武装パトロールを組織し、血塗られた殺害者たちを捕らえる態勢を整えた。が、何も見つけることはできなかった。その間も家畜の死は続いてアメリカ中の牧場地帯に広がり、ついには全国ニュースにまでなった。

オクラホマ州とコロラド州で行われた公式調査はいずれも人間の関与を否定し、こうしたミューティレーションは自然死や捕食者によるものと改めて結論づけた。だが、それでもミューティレーションと見える現象はやまなかったし、ウワサも消えなかった。恐怖の波が広がっていくにつれ、ストーリーはさらに奇怪なものになっていき、ミューティレーションの現場付近で奇妙な光やヘリコプターが目撃されたという報告も増えていった。あるコロラド州の新聞は1974年、或る保安官がミューティレーションの現場で手術用の手袋やメス、そして牛の陰茎が入った軍用バッグを発見したと報じた。が、ミューティレーションにおける最も不可解な点は、犯人が音もなく現場に出入りし、痕跡を残さずに去ることだった。そのため、誰かがこの事件とUFOとの関連を考えるのは時間の問題であった。

1975年、モンタナ州は奇妙な現象の津波に見舞われた。キャトル・ミューティレーション、卵型の航空機や標識のないヘリコプターの目撃、空軍ICBMサイロ上空でのUFOの目撃。そして最も謎めいていたのは、銃撃を受けても平然としているビッグフットのような生物の出現であった。これは単なるカルトの仕業ではない。そんな疑念が強まっていった。調査のほとんどは地元の保安官が行っていた。地域の軍や空軍は何が起きているのかを知っている様子もなく、気にもかけなかった。そして連邦政府は関わり合いになるのを拒んだ。事態は収拾がつかなくなってしまい、牧場主たちは武装した民兵隊を結成して家畜を守ることになった。恐怖は地域社会に広がり、いつパニックが爆発してもおかしくはなかった。モンタナ州の高校では、学生たちが切断犯の最初の人間の標的になるというウワサが広がり、保安官が呼ばれて生徒たちを落ち着かせる事態にまでなった。それはまさに、CIAのロバートソン・パネルが1953年に警告していた非合理的なヒステリーの典型であった。

1970年代後半、ニューメキシコ州はミューティレーションの波に襲われていた。牧場主や地元の保安官は、上空を飛ぶ航空機に向けて銃をメクラ撃ちするようになり、今にも大きな事件が勃発しそうな状態になっていた。1979年のアルバカーキ会議は、シュミット上院議員が、家畜のみならず人間が傷害を負うようなことが起きる前に事態を収拾しようとした試みであった。この会議でポール・ベネウィッツは、ダルシェを拠点とするハイウェイパトロール隊員、ゲイブ・バルデスと初めて出会った。ダルシェは1975年以来、キャトル・ミューティレーションとUFO目撃に悩まされており、バルデスは地元の牧場主たちのために自ら調査を始めていたのである。

参加した会議が終わった翌週、私とジョンは、アルバカーキ郊外にある居心地の良さそうなバルデスの自宅を訪問した。現在は退職しているが、真面目で人当たりの良いメキシコ系アメリカ人である彼は、ミューティレーションの謎に今も強い関心を持っていた。1997年には、ラスベガスのホテル経営者ケビン・ビゲローが率いる超常現象研究組織「ナショナル・インスティテュート・オブ・ディスカバリー・サイエンス」のために、この問題に関する詳細な報告書を執筆していた。ちなみにビゲローは、私たちがラフリンで聞いたユタ州のスキンウォーカー牧場の調査にも資金を提供した人物である。

1970年代にまでさかのぼるバルデスの調査は、特に被害が大きかったマヌエル・ゴメスの牧場にスポットを当てていた。死んだり切断された動物のそばには、キャタピラの跡や紙片、計測器、注射器、針、ガスマスクなどが見つかった。また、ある現場では、レーダーを反射するチャフが一帯を覆っており、それは死んだ牛の口に詰め込まれていた。さらに、一部の動物は骨折していたが、手足にはロープの痕跡があり、宙吊りにされてから地面に落とされたことが示唆されていた。こんなことをした者の正体はともかく、これは人間によるもので、しかも組織的に行われたものだった。

モンタナ州と同様、ミューティレーションはUFOの目撃ラッシュと同期していた。バルデスや同僚たちは奇妙な飛行物体に何度か遭遇していた。ある時、バルデスのチームは野原でオレンジ色の光に肉薄したが、近づくとその光は消えた。それから、目には何も見えなかったのだが、彼らの頭上を芝刈り機のエンジンのようなくぐもった音が通り過ぎていった。これはまた別の時であるが、バルデスと2人の同僚は、円盤型でローターのない、まばゆいほど明るく光る物体を上空に目撃し、その真下にかがみ込むという体験もした。その物体が上空を飛び去った時に聞こえた音は「プップップッ」とか「カチカチカチ」といったもので、先進的な異星人の技術とはおよそ似つかわしくないものだったという。

ダルシェ周辺でのミューティレーションの凄まじさは、元サンディア研究所の科学者、ハワード・バージェスの関心も引きつけた。1975年7月のある晩、バージェス、バルデス、そして牧場主ゴメスの3人は、ミューティレーションの背後に人間がいるかどうかを確かめるため、直感に頼って或る行動に出た。3人は、まず100頭の牛の背中に紫外線ランプを当ててみた。すると、いくつかの牛には紫外線でしか見えない物質が付着していることが分かった。その印が付けられていたのは、すべて1歳から3歳の特定の品種であり、しかもゴメスの牧場で見つかった死んだ牛と同じ品種であった。ゴメスはすぐにこのプロファイルに合致する動物をすべて売り払った。

この発見を基に、3人は犯行の手口を再構成してみた。選ばれた牛にはカリウムとマグネシウムを含む水溶性のUVペイントで印が付けられており、これは犯行が行われる直前にマーキングがされたことを示していた。夜の闇に紛れて、犯行グループが手配した航空機がその地域に現れる。それから、周りからは見えないブラックライトのビームを使って、印の付けられた牛が特定される。選ばれた牛は、おそらくは空からライフルで鎮静剤を打ちこまれ、それからミューティレーションが行われる。それは現場の地上で行われる場合もあれば、運ばれていった他の場所でなされることもある(だから牛の中にはロープ痕が残ったものがある)。バルデスはそう考えた。バルデスは、切断犯たちはアルチュレタ・メサの頂上にある数多くの廃鉱の一つを手術室兼実験室として利用していたのだろうと言った。凄惨な作業を終えると、彼らは切断され血を抜かれた動物を牧場に戻し、それを不幸な牧場主が発見することになる――。

この問題に対するバルデスの情熱に疑いはなかったが、彼は同時に不安も感じている様子だった。ある時、彼はメサの頂上で軍事施設への入り口を発見したとほのめかしたが、さらなる情報を求められると即座に話すことを渋りだした。バルデスは何度かこうやって口を閉ざしたが、どうも彼は「言ってはならないことを言ってしまった」と感じているかのようだった。後に我々は、彼のためらいには相応な理由があったことを知った。1970年代に調査を進めていた際、彼は自分が監視されていると確信し、その疑念は電話機の受話器に仕込まれた盗聴器の発見によって裏付けられたのである。

とまれ、バルデスが私たちに語った内容は驚くべきものだった。コロラドスプリングス近郊のフォートカーソン基地はここから約300マイル北方にあるが、彼の考えによれば、軍はここからダルシェ地域までヘリコプターを飛ばしており、アルチュレタ・メサをキャトル・ミューティレーションの言質拠点として利用していた。さらに彼は、家畜切断犯の航空機に加えて「本物の」UFO、つまり空飛ぶ円盤が、おそらくは別の政府機関によって飛ばされていたのではないかとも示唆した。これは事態をさらに混乱させるため、さもなくば少なくとも地元の住民を混乱させるためだった、と彼は言った――この発言には私たちも困惑したのであるが。

では、バルデスをはじめとする人々がダルシェ上空に出現するのを目撃した、「カチカチ」という音を発する謎の航空機とは何だったのか。それは、陰謀論でよく語られる伝説の「黒くて音を立てないヘリコプター」だったのだろうか。テクノロジー時代における神話として「音を立てないヘリコプター」というのはUFOと同様強力であり、これまでずっと妄想狂が抱くもう一つの幻影と見なされていた。もっとも、もし音を立てないヘリコプターが実在するならば、なぜそれが戦場だとか一番役立つはずの都市作戦で使用されないのかという疑問が生じる。その答えは「それは実際は使用されていた」というものである。我々はそのことを最近まで知らなかっただけなのだ。音を立てないヘリコプターはただ実在するというだけでなく、1972年にはすでに飛行していたことが明らかになっている。それはヒューズ社の500P(Pは侵入者の意)と呼ばれるヘリで、操縦した者たちはこれを「ザ・クワイエット・ワン(静かなヤツ)」と呼んでいた。

国防総省の高等研究計画局(ARPA、現在のDARPA)は、1968年からサイレントヘリコプターを開発しようと試み、そのベースとしてヒューズ500という軽量観測ヘリコプターを使用していた。その成果を現場で活用したのはCIAであり、特殊作戦局航空部門用に2機を購入、南東アジアで秘密任務を行う悪名高きい「スパイ」会社、エア・アメリカに提供した。

このヘリコプターの存在に対して常々どのような議論がなされていたかを考えると皮肉なことではあるのだが、クワイエット・ワンは、ロサンゼルス警察がその活動に際してあまり騒々しくない都市用ヘリを求めていたところから生まれた。ヒューズ社は最初、500型のテールローターのブレードを2枚から4枚に増やし、それらをハサミのように配置することで、騒音を半減させた。ARPAはこのロサンゼルス警察のヘリコプターの話を聞いて静かなヘリコプターは自分たちにも非常に役立つことに気づき、さらなる研究に資金を提供した。

ヘリコプターの「ワップワップ」という音は「ブレード渦相互作用」によって生じる――言い換えれば、ブレードの先端が高速回転によって生じる小さな竜巻を叩くことで発生する。ヒューズ社は、メインローターにブレードを1枚追加し、かつブレード先端の形状を変更することで、この効果をほぼ完全に排除できることを発見した。さらに500型の排気口にはマフラーが取り付けられ、空気取り入れ口には防音板が設置され、機体全体が鉛とビニールパッドで覆われた。その結果、完全に無音ではないものの、その音はヘリコプターのそれとは思われないものに変わった。クワイエット・ワンはほぼ無音というだけではなく、ほぼ不可視でもあった。赤外線カメラを搭載し、灯火を使わずに飛行・着陸することが可能だったからだ。だが、この機能は当時の軍事技術の最先端であったものの、改良初期につきものの多くの問題に悩まされた。

クワイエット・ワンのテスト飛行はエリア51とカリフォルニアで行われたが、その飛行中にいくつかのUFO報告を引き起こした可能性がある。そして1972年、クワイエット・ワンは実戦配備された。CIAの2機の500Pがラオスのジャングル奥深くにある秘密の飛行場に運ばれたのである。クワイエット・ワンの存在は誰にも知らされていなかった。写真撮影は禁止され、このヘリ用に偵察機や衛星の目を逃れるために特別な格納庫が用意された。クワイエット・ワンは非常に静かだった。基地に駐留していた兵士たちは、このヘリが上空を通過する際、その音は遠くを飛ぶ飛行機のそれのように聞こえたと言っている。そんなシロモノを目前にした者はさぞや仰天したことだろう。しかし、そのほとんど魔法のような能力にもかかわらず、クワイエット・ワンは現場ではそれほどうまくいかなかった。1972年12月、一機は敵地背後に盗聴器を設置する任務に成功したが、もう一機は訓練中に壊れてしまった。生き残ったヘリコプターはカリフォルニア州のエドワーズ空軍基地に戻され、解体されたとされる。

クワイエット・ワンの記録はワシントンDCにあるCIAのフロント企業「パシフィック・コーポレーション」に行き着いたが、その先どうなったかは不明で、ヒューズ 500Pや他の「静かな」ヘリコプターについてそれ以降の記録は存在しない。しかしそれは、こうしたヘリが以後製造されなかったということを意味するわけではない。その予算は政府の拡大し続けるブラック・バジェットの中に隠されていた可能性がある――もちろんそんな証拠があるわけでもないが。クワイエット・ワンの話が示しているのは、このような航空機の技術が1972年末にはすでに完全に実現していたということで、「その後継機が1975年までにはモンタナ州やニューメキシコ州上空を飛ぶようになっていたかもしれない」と考えても、そこにさほどの飛躍はないということである。この地域で目撃された謎のヘリコプターとミューティレーションの因果関係を証明することはできないけれども、ゲイブ・バルデスと彼の仲間たちは、ダルシェのあの夜、頭上を急襲された。そしてミューティレーションされた家畜のそばには誰かがガスマスクや軍の備品を残していった。なお疑問は残る。誰がやったのか。そしてなぜ?

■狂った牛と平和的な爆弾

ハリソン・シュミットの会議の後、すなわち1980年に出たFBI報告書が結論づけたように、いわゆるキャトル・ミューティレーションのいくつかは動物の自然死や捕食者の襲撃によるものであって、それが不安を感じた牧場主によって何やら邪悪なものへと変えられてしまった可能性が高い。しかし、捕食動物が牛にUVペイントをつけたり、ヘリコプターを飛ばしたり、残骸を残したりしていたという考えに納得できないなら、そして人間ではない宇宙人や悪魔といったものを持ち出さないのであれば、犯人として残るのは人間である。

パニックが起きた初期、牧場主や報道機関は、犯人をカルトの信者、つまり悪魔崇拝者やウィッカ信者、あるいは変質者と考える傾向があった。未確認の目撃証言の中には、ローブを着た人々が畑や道路沿いを歩いていたというのもあるが、こうした不気味な輩に話しかけたり、その行き先を確認したりした者はおらず、この線の調査はすぐに行き詰まってしまった。ミューティレーションの現場の多くがアクセスしにくい場所にあること、動物の不審死には奇妙な光やヘリコプターの目撃がつきものであることから、調査官たちは別の方向に答えを求めることになった。

1975年にモンタナ州でミューティレーションが相次いでいた間、地元住民はその時期にICBM(大陸間弾道ミサイル)サイロの上空で目撃されていた謎の光と動物の死とを結びつけた。少なくとも幾つかの事例において、その光体は、ダルシェ周辺で「プップップッ」という音を立てながら飛んでいるのが目撃された飛行機と同じものだったのではないか?モンタナ州の核ミサイルサイロ上空を飛んでいたのは特異な照明装置を備えた静かなヘリコプターで、その目的なサイトの警備体制をテストし、担当者が謎の航空機にどう反応するかをチェックするためだったのではないか? 兵士たちは、その航空機に発砲したりスポットライトを当てたりしないよう命じられていたと言われている。もしそれらが本当にどこから来たのかわからないものであったのなら、これは奇妙な命令である。あるいは、その侵入行為は、その少し前にノースダコタ州ネコマに建設された弾道ミサイル防衛システム、「セーフガード」の目標追尾能力をテストするためだったのかもしれない。この複合システムは全国的な防衛ネットワークの一部として唯一完成したものだったが、1976年に解体された。おそらくそれは「友好的な幻の航空機」を発見するのにあまり役立たなかったのではないか? いずれにせよ、そのどちらの説でも――あるいはまた別のものでもいいのだが――地元の法執行機関が軍によってツンボ桟敷に置かれていたことの説明はつく。彼らは単に知る必要がなかったのだ。

こうしたモンタナ州での事件は地元の新聞ではしばしば報じられていたが、全国紙で取り上げられたのは4年後で、1977年に『ナショナル・エンクワイアラー』へのリークがあった後のことだった。その直後、つまり1978年にはエンクワイアラー誌にニセのエルスワース文書が送られたワケだが、そこには事件をETやUFOに結びつけようという狙いがあったようだ。それはおそらく、全国紙がさらなる調査を行うことを防ぐための策略であった。大手新聞の記者たちにとってICBM事件に関心を持つことは、すわなち変人やUFO陰謀論者、そしてより悪いことには『ナショナル・エンクワイアラー』と同列に見られてしまうことを意味していたからだ。

我々はミューティレーションが如何に行われたかについて幾つかの手がかりを得たが、なおそんなことが行われたのかという動機を問わねばならない。「ETによる遺伝子実験」説を除けば、この現象は疫学に関係していると考えるのが一番もっともらしい説明ということになる。多くの研究者は、このミューティレーションが秘密の研究や実験の一環であった可能性を提起している。切断者が取り去るのは、ふつう唇、舌、肛門、乳房、そして性器であるわけだが、これらは汚染や感染の影響を最も受けやすい部位である。つまりは動物が食物を摂取したり排泄したりする柔らかな部分であり、バクテリア、ウイルス、化学物質が最も出入りしやすい部分、そして人間からすればそうしたものを一番見つけやすい場所である。さて、それではその正体不明の人間は一体何を探していたのか?

一つの可能性は放射線である。その意味では、ダルシェ周辺というのはアメリカの核の歴史においてとりわけ特異な位置を占めている。ダルシェの南西約25マイルに位置するカーソン国立森林公園には、周囲が開けた場所に小さなプレートが設置されている。そこには次のように書かれている。

    低生産性ガス貯蔵層に刺激を与えるためアメリカで最初に行われた地下核実験の場所。29キロトンの核爆弾がこの場所の地下4227フィートで爆発した。(1967年12月10日)

この爆発は、核の平和利用を目的とした「プラウシェア計画」の一環で、天然ガスで満たされた直径80フィート、高さ335フィートの空洞を作り出し、一定の成果を収めた。残念ながらガスは爆発によって危険なレベルの放射能を帯びてしまったため、商業的価値は失われ、この場所は永遠に封鎖された。ミューティレーションを行った者たちは、このガスバギー実験による放射線が周辺地域に漏れ出し、環境に与えた影響を調べていたのではないだろうか?

より最近では、分子生物学者のコルム・ケレハーが、キャトル・ミューティレーションとプリオン関連疾患、すなわち狂牛病(BSE)と呼ばれるウシ海綿状脳症の広がりとの関係を指摘している。ケレハーが示唆するところでは、ミューティレーションは野生の鹿やエルクに見られる慢性消耗病(CWD)の発生と結びついており、CWDやBSEを引き起こすプリオンは野生の鹿から家畜の牛へと種の壁を越えて移り、最終的には人間の食物供給に入り込んだのではないかという。彼は、このプリオン感染の起源はメリーランド州のベセスダやフォート・デトリックにある米政府の研究所にまでさかのぼることができるとしており、そこには致命的な神経疾患であるクールー病に感染した人間の脳が1950年代後半からずっと保管されているのだという。

この二つの疫学的説明のいずれもが、ミューティレーション現象に関してしばしば提起される疑問の一つに答えている。もし政府や他の機関が家畜の不審死の黒幕ならば、実験用に自ら牛を購入して繁殖させればよいではないか、という問いだ。その答えは「彼らが必要とするサンプルは、最終的に私たちのハンバーガーになる牛そのものだからだ」ということになる。しかし、なぜ彼らは遺体を置き去りにするのだろうか。これは答えるのがより難しい問題である。遺体を処分するのが難しかったのかもしれないし、「牧場主が高価な家畜の保険を請求できるようにしてやろう」という意図があったのかもしれない。あるいは、「牧場主たちは恐怖のあまりさらなる調査など行わないだろう」と考えたのかもしれない。また、悪魔崇拝や血に飢えた宇宙人のウワサが広まったことで、切断者たちはその奇妙な行為によって生まれた混乱が自分たちに有利に働くと感じたのかもしれない。

本当のところは、我々にはまだ分かっていない。しかし、ミューティレーションは北米や南米で今なお続いている。牛の群れがいる場所であれば、そう遠くないところに切断者たちもいるのだろう。それはUFOの目撃報告も同じことである。

■エイリアン基地の建設方法

1979年にアルバカーキで開かれたミューティレーション会議で、ゲイブ・バルデスがポール・ベネウィッツに出会った頃までには、牛の死亡事件とUFOとを関係づける考えはしっかり確立されていた。そして、1980年5月25日、コロラドで発生したミューティレーションをテーマに、リンダ・モールトン・ハウが脚本・制作を手がけたドキュメンタリー『奇妙な収穫 A Strange Harvest』が、ET犯人説による説明を国中に広めた。このドキュメンタリーには、エイリアンに誘拐された人物に対してコロラド大学の心理学者でUFO研究者のレオ・スプリンクルが行った逆行催眠の模様も描かれていた。こうなってみれば、スプリンクルとベネウィッツがルナ・ハンセンを催眠にかけた際(彼女は同年5月初めに「アブダクションされた」といってベネウィッツに助けを求めてきたのだ)、彼女が「連れ去られた地下基地で、子牛と人間が切断されるのを目撃した」と述べたのも決して不思議なことではあるまい。

アルバカーキでの会議の後、ベネウィッツとバルデスは文通を続け、最終的にはダルシェ地域でミューティレーションの謎を解明するための共同調査を行うようになった。ダルシェは、ベネウィッツのET神話において徐々に重要性を増していき、1981年半ばまでには、彼は「エイリアンたちはアルチュレタ・メサの奥深くにある基地からアブダクションとミューティレーションのミッションを実行している」と信じるようになった。もちろん、彼はこのことをリチャード・ドーティやビル・ムーアに伝えた。この時までAFOSI(空軍特別捜査局)が行ってきた工作は、ムーアを経由して渡すニセ文書や、コンピュータを通じて送られてくる「ETのメッセージ」でベネウィッツの妄想をさらに煽ることであった。ドーティの役割は、友人としてベネウィッツに接近し、UFOやETについての彼の研究が「正しい方向に進んでいる」と穏やかに励まし、後押ししていくことだった。そこで事態はさらに劇的な展開を見せ始める。

ベネウィッツの関心をカートランドから逸らすべきタイミングだと考えたAFOSIは、彼が地下基地だと信じているアルチュレタ・メサを、よりそれらしく見せかける準備を始めた。夜の間に古びた軍事装備が曲がりくねった山道を越えてメサの頂上まで運ばれ、小屋や壊れた車両、通気孔といったものが計算づくで配置された。そこが活動の行われている場所であるかのように装ったのである。さらに低木を取り除いて、そこがヘリコプターの着陸パッドに――そしておそらくはUFOの着陸地に――見えるようにした。ドーティはさらに、雲の上に光を投影するシステムを設置したとも言っている。UFOの目撃報告を増加させて、ベネウィッツやバルデス、その他の人々を引き続きその場所に引きつけようとした、というのである。

地下基地にはスタッフもいるよう見せる必要があったため、カートランドの特殊部隊ユニットがその地域に派遣され、忙しく活動しているように見せかけた。AFOSIは、メサの反対のコロラド側にあるフォート・カーソン陸軍基地にも連絡し、その場所を訓練演習に使用するよう提案した。ドーティによれば、AFOSIはこうした陸軍演習に補助金を提供し、「こうした動きは反ソビエトの諜報活動の一環なのだ」と説明した。これはある意味で本当にそうだった。ある時、ゲイブ・バルデスとテレビクルーは、ベネウィッツと共に地元のUFO目撃についてのニュースを撮影していた。すると、ブラックホーク・ヘリコプターが彼らのヘリを追尾してきた。慌てたニュースクルーは着陸し、ブラックホークもそれに続いた。バルデスは乗っていた黒ずくめの兵士たちに対し、自分はハイウェイ・パトロールマンとしての管轄権を有していることを主張して怒りをぶつけたのだが、追い払われる前に一人の兵士のパッチをよく見た。それはフォートカーソンのエリート部隊であるデルタフォースのものだった。

ベネウィッツ自身も熟練したパイロットだったから、彼はエイリアン基地の入口を探してメサ上空を定期的に飛行していた。また、リック・ドーティとカートランドの警備主任であるエドワーズ大佐に案内され、少なくとも3回、通気孔やその他の設備が設置されている場所を見せられた(もちろんそれらの設備はAFOSIが取りつけたものである)。AFOSIの勧めもあって、ベネウィッツは基地に関する報告を定期的にUFOコミュニティに配布したが、そこには自分で撮影したボンヤリした「UFO」だとか、不明瞭なメサの地表の写真も添付した。こうした報告は、ダルシェのエイリアン基地にまつわる精巧な神話を生み出したが、そうした神話の中には基地内部の詳細な図だとか、米軍と基地内のET居住者の間の壮絶な対決を描いたストーリーなどといったものも含まれていった。

もっとも、ベネウィッツは1985年の後半、実際に何かしら普通でないものに出くわしていた可能性がある。ベネウィッツがいつものようにカメラを携えてメサ上空を飛行していると、メサの最もアクセス困難な場所の一つで、彼が言うところの「墜落したデルタ翼の航空機」を発見した。ベネウィッツはすぐに、この目撃情報をゲイブ・バルデスやビル・ムーア、ニューメキシコ州のピート・ドメニチ上院議員などを含む幅広い連絡先に報告した。彼はその墜落機の写真を数多く撮影し、いくつかを米空軍に提供したが、その他の写真は盗まれた可能性が高い。彼の当時の手紙によると、これはよくあることであった。現在残っているのは、彼の描いた墜落機の図と、片付けられた後の現場写真だけである。ベネウィッツは手紙の中でこう言っている――その残骸は米空軍が秘密裏に飛ばしていた核動力のテスト機なのだが、一帯をコントロールしているのは誰かを政府に思い知らせるべくエイリアンによって撃墜されたのだ。現場には墜落機の燃料電池から漏れ出た放射線が染みこんでおり、ベネウィッツはこのことを非常に案じていたという。

同年11月初め、ゲイブ・バルデス、ベネウィッツ、ジカリラ族の一人、そしてドメニチ上院議員から派遣された政府科学者は、ガイガーカウンター持参で苦労して現場に到達した。放射線は検出されなかったが、墜落の痕跡は見つかった。倒れた木や地面に残った溝、そしてバルデスによると、政府支給のボールペンが一本あったという。

ベネウィッツが目撃したのは墜落したステルス機だったのだろうか? それは十分にあり得ることだ。F-117A ステルス戦闘機は少なくとも1981年から飛行していたが、1988年まで極秘にされていた。ベネウィッツの描いた図により類似しているのはB-2 ステルス爆撃機であるが、その開発は1981年に始まり、1985年までには試作機が飛行していた可能性がある。もしその飛行機の一機がメサで本当に墜落したのなら、空軍が放射線の話をでっち上げて、掃除が行われる間、ベネウィッツや他の好奇心旺盛な者たちを遠ざけようとした可能性がある。この時点でドーティはすでにこの事案から外れていたが、AFOSIは依然としてベネウィッツを監視していた。「道に迷った物理学者がエイリアンを探していた場所で偶然空軍機の残骸を見つけてしまった」ということであれば、その皮肉にAFOSI本部では目を丸くした者がいたに違いない。

■ダルシェへの道

これらすべては20年以上前の話であるが、ダルシェ周辺では今でも時折UFOが報告されており、この場所には未だ揺るぎない神秘のオーラが漂っている。奇妙な過去の痕跡が、これから現代の好奇心旺盛な探求者たちによって発見されるようなことはあるのだろうか?

ゲイブ・バルデスは、ジョンと私に「かつてミューティレーションの実験室があったかもしれないメサの古い鉱山へと続くアクセス用のトンネルを知っている」と話してくれ、嬉しいことには私たちとグレッグ・ビショップをそこへ案内してくれると約束してくれた。しかし、私たちに出かける準備ができた頃には、ジカリラ族が一帯でのテレビクルーの撮影を禁止することを発表していた。一つの理由としては、ゲイブが日本の撮影クルーを許可なくメサに案内したことがあったという。秘密の実験室には行けないことに失望したが、私たちはそれでもダルシェを訪れることにした。

ジョンが山の中で撮影をしている間、グレッグと私はメサに近づき、万が一質問された場合に備えてウソの話を作り上げた。グレッグは熱心なパラグライダー乗りだったが、アルチュレタ・メサというのは小さなモーターとパラシュートを背に大空に飛び込むのには最適な場所だった。グレッグのパラシュートをトランクに積み込んだ我々は、メサの麓へと続く小さな曲がりくねった道を進み、上へ登っていく。メサの底まで約3マイルの道のりで、私たちは牛たちや雷で焼かれた木々を通り過ぎた(牛は無事だった)。グレッグと私はメサの引力、未知のものが放つ緊張感を感じ取った。それはまるでラジオ信号のように頂上から発信されているかのようだった。ここは我々にとっては巡礼の地であった。頂上に近づくにつれ、道端に明るい赤い看板が現れ始め、ここはジカリラ族の私有地であると警告していた。許可なく入ると逮捕され、多額の罰金が科せられることにもなりかねない。ダルシェの留置所で一夜を過ごすつもりはない。私たちは引き返して、町の別の場所を探索することにした。

ベストウエスタンホテルの近くにある、寒々しいコンクリートで覆われた集会所で、私たちは二人の酔っ払ったインディアン、ハンフリーとシャーマンに出会った。いずれも年齢はおそらく40代。アルコール依存症はインディアン居留地における重大な問題である。失業率は高く、インディアンの住民はダルシェで生活するためにかなりの補助金を受け取っているが、それでも多くの人が酒に溺れてしまう。

二人のうち、より酔っていたのは、狂気じみた目をした長髪のハンフリーであった。シャーマンはかなり整った外見で、悲しそうな表情をしていた。彼らは異父兄弟だと私たちに話してくれた。多くのインディアンと同じように、シャーマンは幼い頃に複数の居留地を転々としていたが、現在はダルシェが自分のふるさとだと感じていた。ハリウッドの西部劇で育った私たちは、インディアンを砂漠の住人と考えがちだが、シャーマンは、彼の部族であるアパッチ族は19世紀には緑豊かなカナダに起源を持ち、そこから南の砂漠に追いやられたんだと教えてくれた。そしてカナダに来る前は……彼らは地球の中心から来たのだという。

シャーマンは自分がアルコール依存症であることを認めたが、かつては部族の警察官をしており、ゲイブ・バルデスを知っていると言った。彼はゲイブが良い人間だと言った。彼は私たちがダルシェで何をしているのか尋ねたので、私たちはグレッグのパラグライダーのことを話し、メサから飛んでみたいのだがどうだろうと聞いてみた。するとシャーマンの顔は真剣な表情に変わった。

「いや、あそこには行けない。あそこは危険地帯だ。危ない」

私たちは耳をそばだてた。彼はUFOだとかミューティレーションに気をつけろというのだろうか?

「あそこはとても危険だ。気流がメサの壁に向かって吹き返してくるから、ひょっとしたら死ぬかもしれない」

そういうことか。私たちは話題を変えてみた。あそこにはよく行くのかとシャーマンに尋ねた。

「ああ、よく行くよ。ダートバイクで行くのが好きだ」

「じゃあ、何か変わったものを見たことはあるかい? なんでこんなものが、ってヤツ」

「ああ、もちろんだよ。たまに動物の角を見つけることがあるんだ、牛の角だ。売り物になるんだ!」

その時、ハンフリーがふらふらと私たちの方へやってきた。目がぐるぐる回り、腕を振り回している。

「俺もあそこに行くよ……牛を追っていくんだ……そうさ……でもあのメサには行かないほうがいい、ああ絶対にだ。あそこでは悪いことが起こるんだ……あそこに行くやつらは、飲みすぎて……そして転落するんだ…」

ハンフリーは言った。「おい、秘密のインディアンの魔法を見たいかい?」

「もちろん」

東に数マイル離れた山々の上に集まり始めた暗い嵐の雲に向かって、ハンフリーは腕を振った。彼は詠唱し、何かポーズを取り、最初に空を、次に地面を指でさしてみせた。ささやくような、あるいは何やらつぶやくような言葉は私には理解できなかったし、おそらくアパッチ語を話せる人にも理解できなかったのではないか。それから彼は一瞬しらふに戻ったような顔で私を見た。

「自然というものをお前に見せてやろう!」

狂ったように笑いながら、ハンフリーは最後に腕を上げた。私が笑いを返そうとしたその瞬間、2つの雷が近くの丘の頂上に轟音を立てて落ちた。

私は感銘を受けた。そう伝えると、彼はもったいぶった様子で私の耳元に近寄り、ささやいた。「見たことは誰にも話すな」。それから私の手を握って笑ってみせた。良いショーを見せられたことに満足したように。

その夜、安全なベストウエスタンホテルの部屋に戻った私は、奇妙な夢を見た。ジョン、グレッグと私は、ダルシェの風景の中を歩いていた。広大な平原は険しい岩山に囲まれていた。19世紀の幌馬車隊がゆっくりと、きしみながら私たちの方に向かってきていたが、やがてその姿は遠くに消えていった。隊の先頭には、風雨に晒されたような感じの白髪交じりの男がいて、老いを感じさせない日焼けした顔はステットソン帽の乾いた革と一体化しているようであった。その男は帽子のつばに手をかけてうなずき、微笑んだ。私は笑みを返し、それから振り返ってみた。ジョンとグレッグに「時代錯誤のようだけれど心地よいものじゃないか」と言ううために。

だが再び前を向くと、その男も、幌馬車隊も姿を消していた。(11←12→13)

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■第9章 リック

    リックのような人物とふらっと会って話をする。彼は「一般人として」心を打ち明け、全てをあらいざらい話す。そんなことがあり得ると考えている人間には口あんぐりだ。そんなことはありえない。
     ――ポール・ベネウィッツ(クリスタ・ティルトン宛の手紙より)

ラフリンUFOコンベンションは今や佳境に入っていた。空気で膨らませたマンガ風の巨大なエイリアン人形を前に、ジョンと私はロビーに座り、行き交う人々を眺めては「この中にリック・ドーティがいるのだろうか」と考えていた。仮にいたとしても、我々は彼を見分けられるだろうか? グレッグ・ビショップが警告してくれたところでは、彼が本を書くためにインタビューした際、ドーティの写真は撮ったのだけれど、これまでにリック・ドーティと確認された人物は少なくとも2人いたのだという。[訳注:ここの意味はよくわからない]  しかし、そんなことを言われても我々の捜索に役立つわけではない。大会は一週間続くが、この日は平日ということもあって、辺りには年配の退職者が多かった。通り過ぎる群衆をチェックしていると、こちらを見返してくる人もいた。彼らは潜入捜査官なのか、それともこちらのたたずまいが彼らの妄想をかきたてているのか?

ビル・ライアンは何度か私たちの前を通り過ぎていった。彼も監視されていると感じているようだった。「惑星セルポからの使者」としてコンベンションに参加しているビルは皆の注目を集めていたが、それが彼を少し悩ませ始めていた。「ここでは信じられないほどの政治的かけひきだとか妄想がうごめいている」。彼は通りすがりにそう話してくれた。「誰もが、信頼できるヤツ・できないヤツを私に教えようとする。誰もが今起きていることについて一家言もっているんだ」

グレッグ・ビショップは、このコンベンションでポール・ベネウィッツについて話す予定だったが、ビルに対して言っておきたいことがあった。というのも、リック・ドーティがUFO問題についてのビルの指南役を務めていたことが分かったからだ。「ビル、注意したほうがいい。リックが一枚噛んでいるなら、あまり深入りしないほうがいい。ベネウィッツに何が起こったかは知ってるだろ。セルポは政府のニセ情報か、さもなくば詐欺だ。いずれにせよ、ポールのように火だるまにならないよう心しなければいけないぜ」

しかし、ビルは毅然としていた。「たとえ真実が10%しかなくて残りがニセ情報だとしてもだよ、これは人類史上最大の物語なんだ。見過ごすわけにはいかないよ」。インタビューの依頼が山積みになっていたビルは、スポットライトを浴びる瞬間を楽しんでいるようだった。結局のところ、人が世界を変えるような僥倖に恵まれることはほとんどない――そういうことなのだろう。

私たちは催しを見ながら、その人を待った。プエルトリコ沖の海底にあるエイリアン基地についてのプレゼンテーションには大勢の聴衆が集まっていたが、グレッグの講演はそれほど多くの観客を集めなかった。ビル・ムーアの暴露から17年経っても、人々はまだ自分の身のまわりで起きていることに興味を示そうとはしなかった。

しかし、グレッグに注目していた一団もいた。それは以前から私の目を引いていた興味深いグループだった。彼らはどの発表の時も、出口に一番近いテーブルに座っていた。しかもそれをこの数日間、ずっと続けていた。そのうち2人は大柄でがっちりした30代と思しき男たちで、きちんとした身なりをしていた(1人はあごひげを蓄え、大きなカーボーイハットの下に整えられたポニーテールをたらしていた)。この2人に挟まれて座っていたのは、60代ほどで長年風雪に晒されてきたような風体の痩せた男だった。髪は灰色で眼光は鋭く、茶色の革製フライトジャケットを着た男は、仲間たちと同様に体調万全といった風であった――それは大会の多くの参加者たちとはおそろしいまでに対照的であった。彼らは軍から監視にきた人間か、さもなくば諜報機関のエージェントではないか。私はそう考え始めた。これまで学んできたことを考えると、ここにスパイがいないほうがむしろ驚きであった。その一方で、私たちは半ば公然の秘密であるエージェント、すなわちリック・ドーティを探していた。

彼は現れるのだろうか?グレッグもビルも彼は来ると思っていたが、私たちは半信半疑だった。UFOの歴史の中で最も悪名高く、信頼されず、さらには嫌われている人物の一人が、UFO研究者でいっぱいのホテルにフラリと現れるとは思えなかった。少なくとも変装しているだろう。そんな推測に基づいて、私たちはリック・ドーティの「候補者」たちに3段階評価をつけ始めた。ハワイアンシャツにショートパンツの男? うーん、2点。もしかしたらリックはヒゲを生やしているかも? 1点。彼は背が高いのか低いのか? もしかしたら写真ではカツラをかぶっていた? 0点。

3日目の午後も半ばを過ぎて、リック・ドーティが現れる気配はなく、我々は絶望し始めていた。この無謀なミッションを始めた時だって、実際に会えるどころか、彼と連絡を取ることすら難しいだろうと思っていたのだ。彼は結局謎のままであり続けるのかもしれない。

そのとき、私の目の前を灰色のフランネルのズボンが通り過ぎた。ポケットには会議のバッジがクリップで留められている。「リック・ドーティ」。私は椅子から飛び上がり、叫んだ。「リック!」

「やあ!君たちがイギリスから来た映画のクルーかい?」

リックは、私たちが見た写真通りの姿であった。50代半ば、短く整えられて灰色がかった茶髪、ワイヤーフレームの眼鏡、白とグレーのストライプの半袖シャツで、その胸ポケットにはペン。何の特徴もない彼は、諜報員というよりは普通の公務員のように見え、まったく目立たない。ワイルド・ビル・ドノバンというよりはむしろビル・ゲイツのような印象だ。完璧だった。

「変装して来ると思っていたのに。こんなUFO会議に出席するなんて危険じゃないんですか?」

「いや」と彼は甲高い笑い声をあげた。「ここにいるほとんどの人は私のことを知らない。UFO会議に来たのは久しぶりだよ」

リックは腰を下ろして話し始めた。彼は現在、国土安全保障省でコンピュータ関係の仕事をしており、さらに弁護士としての訓練も受けていると言った。彼は、UFOに強い関心を持つ「民間人」としてここに来ているのだと繰り返し説明した。それからの数日、「民間人」という言葉はリックの口から何度も繰り返されることになる――鼻にかかった、緩やかに上下する声で。「ホテルに到着して、部屋の鍵を受け取ろうと列に並んでいた時、数人後ろに国防情報局(DIA)の知り合いが並んでいるのを見かけたよ。彼は私を見て驚き、『ここで何しているんだ?』と聞いてきた。私は『ただの民間人だよ、他の人と同じようにUFO会議を楽しんでいるんだ』と答えたよ」

「国防情報局がこの会議に来ているんですか?」

「もちろん、UFO会議には必ず情報機関の人間がいる。ここにも数人いて、何が話題になっているのか、どんな目撃談があるのか、何を見たと考えているのかを探っている。今年は中国のUFO研究者の代表団も来ている。DIAの連中は彼らが何を目的にやってきたのか非常に興味を持っているだろう。でも私は、ただの民間人としてここに来たんだ」

突然リックが顔を上げた。ビル・ライアンが私たちのテーブルに現れたのだ。

「リック!会えて嬉しいよ。また後で話そう!やあみんな!」

「やあビル、何してるんだ?一緒にどうだい?」

「いや、招待されたビデオのプライベート上映会に行くところなんだ。生きているエイリアンへのインタビューさ。君たちも連れて行きたいけど、招待されたのは6人だけなんだ。また後で!」

ビルはロビーを歩き去った。その姿は水を得た魚のようで、彼はこのコミュニティの奥の院に既に居場所を見つけてしまったようだった。

「そのビデオは見たよ」とリックは軽蔑のこもった声で言った。「デタラメだよ」

彼はしばらくの間、私たち2人を真剣な目で見つめた。「君たちはビルと一緒じゃないよね?」

「一緒? いや、一緒にやってきたわけじゃありません、そういう意味だとしたら。ここでは彼を撮影するだけで、彼のことはあまり知らないんです」

リックはほっとした様子だった。彼はこれから行かなければいけない用事があると言ったが、夕食に一緒に行かないかと尋ねてきた。私たちは喜びを隠しながら同意した。

リックが姿を消した後、我々は思わずハイタッチをせずにはいられなかった。喜びいっぱいのニセ情報オタク2人組だ。なんてこった、UFO界の謎の男、リック・ドーティが夕食に誘ってくれたのだ。次は何があるのだろう? ひょっとしてリクルート?

その日の午後、グレッグ・ビショップにリックと会い、夕食に行くことになったと話した。

「おっと、それは楽しい時間になるだろうね」。彼はそういったが、少し困惑したようでもあった。「彼は面白い話をいくつかしてくれるだろう。間違いない。でも、よく注意して聞くことだね。彼の話は、聞くたびに少しずつ内容が違ってくるから」

■影の中での生活

「コロラド・ベル」は昔の外輪船をレストランに改装した店だ。あるいはレストランを外輪船に改装したと言うべきかもしれないが、どちらが良いのか言うのは難しい。ここで、リブとフライのクラシックなアメリカ料理を食べながら(ベジタリアンのジョンはサラダだったが)リックは諜報活動の話や武勇談で私たちを楽しませてくれた。彼は1960年代後半、エリア51で働いていたことがあると言った(エリア51はしばしばUFOとの関連が語られるネバダ砂漠の只中の極秘の空軍基地である)。1980年代には、モスクワの街角でスパイを追跡するためにロシアのおばあさんに変装したこともあったという。また、ブルガリアの国防大臣が従者と不正な行動をしているのを捉えるため絵画にカメラを仕掛けたこと、ロシア軍のソフトボールチームのアルミバットにマイクロフォンと送信機を隠した話などもしてくれた。さらに彼一流のハック技術も自慢してみせた――例えば、嘘発見器のテストから逃れる方法(「尻の筋肉を締めろ」)、曲がり角の向こう側を見ることができるレーザー(ただし「もう機密情報じゃないと思うけどね」だそうだ)、紫外線の痕跡を残すスパイ・ダストといったものの話で、それらは我々をおおいに驚かせた。

これらがリック自身の経験なのか、あるいは新しい接触相手に強い印象を残そうとする時のため、彼らのコミュニティで皆が共有できるよう代々伝承されてきたスパイの物語なのかは分からなかった。リックの軍歴にはモスクワやエリア51に関する記録はないが、もしこれらが機密任務だったなら、そうした記録はおそらく残されなかっただろう。実際のところ、リック・ドーティについて多くのことを知ろうとしてもそれは実に難しい。彼が語っていないことはまだまだたくさんあるのだ。

リチャード・チャールズ・ドーティはおそらく1950年にニューヨーク州バートンで生まれた。オンライン上の情報には、彼をニューメキシコ州ロズウェル生まれとするものがある。本当ならばステキだが、それはほぼ確実に間違いだろう。ただ、ドーティ家はニューメキシコ州と強い繋がりを持っており、UFOは実際ドーティ家の血筋の中に存在している。

1951年、リックの叔父で気象学を学んだ経歴のあるエドワード・ドーティ少佐は、米空軍のプロジェクト・トゥインクルの指揮を執ることになった。このプロジェクトは、1949年後半からニューメキシコ州のいくつかの重要な軍事施設の近くで目撃された奇妙な光を監視するものだった。これらの光は多くの場合緑色の火の玉で、音もなく長距離を飛行してから垂直に落下し、地面に落ちる前に燃え尽きた。それらはロスアラモス複合施設や、近くのカートランドおよびホロマン空軍基地の上空に繰り返し出現したが、これらの施設では当時、地球上で最も機密性の高い軍事研究が行われていた。火の玉の目撃者の多くは、軍人や情報機関の関係者、科学者たちであり、彼らの豊富な知識と経験を動員してもその正体を解明することはできなかった。多くの人は、こうした光は火炎弾やロケット、隕石のいずれでもないと考えていた。隕石専門家のリンカーン・ラパズ博士は、緑色の火球を含む2つのUFO目撃を報告していたが、これらの火の玉は人工的なもので、アメリカまたはロシアの機密技術であると確信していた。これは、やはり当時ロスアラモスにいたレオン・デビッドソンとも同様の考えだった。しかし、1950年にニューメキシコへの観測ステーション設置の試みが半ばで挫折したころには緑色の火の玉は徐々に姿を消していき、1951年、ドーティ少佐がその残務管理をしている間に、プロジェクト・トゥインクルはついに閉鎖された。

エドおじさんのUFO史における役割はさておき、リックは子供の頃、空飛ぶ円盤にほとんど興味がなかった。ただ、彼の兄はそれに夢中だった(年下のリックにとってそれは笑いの種であった)。1968年9月、リックはアメリカ空軍に入隊し、テキサス州のラックランド空軍基地で基礎訓練を受け、その後同じ州のシェパード空軍基地に配属された。ここまでは確実な情報であるが、ここから先、彼をめぐる話は急激に曖昧になっていく。

ドーティの軍歴によれば、彼はシェパード基地に警備隊員として勤務した後、ベトナムのファンラン空軍基地に派遣されたのだが、その間には何か驚くべきことが起こった……という話がある。グレッグ・ビショップは著書『プロジェクト・ベータ』の中でこの出来事を描写しており、ドーティ自身も自費出版の書籍『情報解除免除 Exempt from Disclosure: The Black World of UFOs』の中で再びこの話を取り上げている。その共著者は元空軍の物理学者だったロバート・コリンズであったが、彼もまたリック同様、ビル・ムーアの言う「鳥の群れ」、すなわちUFOに興味を持つ軍内部のインサイダーの一人であった。

この書籍の中でリックは、1969年7月、ネバダ州のインディアン・スプリングス空軍基地近くの極秘施設で、彼が任務に就いていた時のことを語っている。彼は3,500フィート×4,000フィート、高さ100フィートという巨大な格納庫の外で警備をしていたのだが、その中には「実験機」が格納されていると言われていた。ある日、その格納庫の扉が開き、牽引車によって大きな空飛ぶ円盤が引き出された。それは滑走路に1時間ほど置かれ、白衣を着た男性たちがああでもないこうでもないと何やらやっていたが、それが飛び立つことはなかった。リックがそこにいた45日間、現場では何度か同じようなルーチンが繰り返された。ある午後、民間人の「ミスター・ブレイク」と呼ばれる人物がリックに、空飛ぶ円盤について何か知っているか尋ね、さらに「今日見た物体が別の惑星から来た本物の円盤だと言ったらどうする?」と問いかけた。困惑する若い警備兵にブレイク氏は、いつの日にか、君が目にした乗り物の真実を知る日がくるだろうと言った。

この話はリックの「起源神話」とでも呼べると思うのだけれど、『プロジェクト・ベータ』の中では少し異なる形で語られている。こちらのバージョンでは、事件は明らかにエリア51で起こったことになっている。巨大で黒い円盤状の物体が滑走路に引き出され、それは静かに起動すると、青い電気のコロナに包まれて地上から200フィートほど浮かび上がる。ドーティはそのようなテストを何回か目撃したが、ある時、技術者が「これは大気圏外まで行けるかもしれない」と言うのを聞いたという。さらにまた別の時であるが、指揮官が(念のため言うとこれはミスター・ブレイクではない)ドーティにこう言ったのだという。「これは一般的にUFOと呼ばれるものであるが、我々のものではない。借りているのだ」。ここでも他のバージョンと同様、ドーティは「やがてこの乗り物についてもっと知ることになるだろう」と告げられている。

ドーティの証言は、UFO関連の文献によく登場する軍絡みの大ボラの典型だ。が、ここで我々は一つの行き止まりにぶつかる。これらの話は虚構なのか? アメリカ政府は本当に異星人の宇宙船を所有しているのか? それとも、彼らはこのような事件をデッチ上げ、被験者が予期せぬ事態に直面した時に冷静さを保てるかどうか、あるいは秘密を守れるかどうかをテストしているのではないか? 仮にそうなら、もし被験者が空飛ぶ円盤について口を滑らせても大きな実害はないし、被験者はたくさんいるUFO狂の一人として見られるだけだ。しかし、リックはその手の単なるUFO狂には見えなかった。

ベトナム後、ドーティはワシントン州のマッコード空軍基地に2年間配属され、その後、西ドイツのヴィースバーデンで3年間、門兵として勤務した。1976年、26歳になった彼は、サウスダコタ州のエルスワース空軍基地に異動となった。ここで彼は初めてUFOの真の力を垣間見ることになった(エリア51での飛行試験のことは措くとして)。この頃、エルスワースには戦略爆撃機とミニットマン大陸間弾道ミサイル(ICBM)が配備されており、冷戦期のアメリカの重要な軍事拠点となっていた。1975年11月、隣接する州ではミサイルサイロがUFOの目撃に悩まされ、奇妙なキャトルミューティレーションが相次いで発生していた。これらの事件はすべて米空軍の文書に記録されており、基地内でのウワサとなり憶測の対象となっていた。

これはありそうにないことに思われるだろうが、その当時、[タブロイド紙の] 「ナショナル・エンクワイアラー」誌はUFO情報に関しておそらくは最も大胆で、かつ信頼できる情報源となっていた。空軍が公式UFO調査機関の「プロジェクト・ブルーブック」を閉鎖してから5年がたった1974年の末、エンクワイアラー誌は民間UFO研究団体APROや全米空中現象調査委員会(NICAP)、そしてアレン・ハイネックを含む科学者たちと共同で、UFOに関する「ブルーリボン」パネルを設置した。これらのUFO団体は最も興味深い事例をエンクワイアラー誌に提供し、パネルが必要と認めた場合には同誌がさらなる調査資金を提供することになっていた。同時にエンクワイアラー誌は、UFOが実際に宇宙から来たことを証明できる者には100万ドルの報酬を、またその年のベストとされた事例の目撃者には5,000ドルから10,000ドルを提供していた。

1978年2月、スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』が爆発的なヒットを記録してからわずか3か月後、サウスダコタ州ラピッドシティの消印が押された匿名の手紙がでナショナル・エンクワイアラーのフロリダ支局に届いた。その手紙は、第44ミサイル警備中隊の司令官からのものとされており、前年11月にエルスワース近くのミニットマン・ミサイルサイロで起きたセキュリティ違反事案について記していた。またこの手紙には空軍の報告書も添えられており、そこにも事件の詳細は記されていた。

その手紙と文書によれば事の顛末は次のようなものだった。違反行為を調査するためサイロに派遣された2人組のセキュリティ警戒チームは、そこで緑色に光る金属製のスーツとヘルメットを装着したヒューマノイド一体と出くわした。その「存在」は武器を発射し、警戒チームの一人が所持していたライフルを溶かし(まるで『地球が静止する日』のように)、その男は両手にひどいヤケドを負った。もう1人の兵士は、このほかに2体の人影があるのを目撃した。彼はそのうちの1人の腕を撃ち、さらにもう1人のヘルメットを撃った。だが彼らは傷を負った様子もなく、丘を越えて姿を消し、30フィートの空飛ぶ円盤に乗り込んで高速で飛び去った。手紙には、サイロ内のミサイルからは核部品がなくなっていることが後に判明したと記されていた。

エンクワイアラーの記者3人――その中には後に独り立ちして著名なUFO研究家となったボブ・プラットもいた――はエルスワースに向かい、調査を開始した。しかし、調査が進むにつれ、物語はボロボロと崩壊しはじめた。事件に関わったとされる全員に話を聞いた結果、すべてはデッチ上げだったことが分かった。空軍の報告書は巧妙に作られたニセモノだったのだ。手紙に名前の挙がった人々は確かに基地で勤務していたが、その役職は手紙に記されていたものとは異なっていた。また、ファーストネームが実際と違っていた者もいたし、場所も混同されていた。チームは合計で20の誤りを発見し、エンクワイアラーは結局その話を記事化しなかった。しかし、エルスワース文書は、アメリカの防衛能力に対してETが関心を払っている証拠なのだという売り文句でUFOコミュニティにリークされ、後にポール・ベネウィッツの興味を引くこととなった。ボブ・プラットがこれは偽造だとする文章を公にしたのは1984年のことであった。

このエルスワースの手紙の黒幕は誰だったのか? リック・ドーティは当時エルスワースで勤務していたが、彼は「自分がAFOSIに採用されたのは1978年の春だった」として、この事件への関与を否定している。しかしこれは、AFOSIが後にビル・ムーアやポール・ベネウィッツに対してしでかした事に似ている。デッチ上げが公に暴かれたにもかかわらず、エルスワース文書というのはニセ情報を研究する上でのテキストといえるものである。彼らは、狙ったグループ(この場合は「ナショナル・エンクワイアラー」とUFOコミュニティだった)に対し、少なくとも最初だけはもっともらしく聞こえるような形でバカバカしい話を伝える。一見するとその文書は本物で、そのストーリーは裏が取れているように見えた。だからエンクワイアラー誌は数千ドルと延べ数百時間を無駄にしてこの事件を調査したのである。

では、なぜAFOSIはエンクワイアラーにニセ情報を流そうとしたのか? 出版社のUFOへの熱狂に水を差そうとしたのだろうか? ボブ・プラットは後にこう語っている――UFOのストーリーはセレブの物語ほど売れなかった。にも関わらず、エンクワイアラーの出版人であるジェネローソ・ポープ・ジュニアは、何万ドルもの資金を出して自分を世界各地に派遣し、UFOの話を取材させていた、と。プラットは、ポープが本物のUFO信者であったと考えていたが、「ポープには諜報機関とのつながりがあったのでは」と疑う者たちもいた。ポープは1951年、CIAによる心理作戦の訓練を1年間受け、その翌年にエンクワイアラー誌を買い取った。彼はまた、ニクソン政権で国防長官を務めたメルビン・レアードの親友でもあった。

エルスワースのデッチ上げには、「近隣のICBMサイロで1975年に侵入事件があった」というウワサから一時的に関心をそらす役割があったのかもしれない。あるいは、『未知との遭遇』に登場するような、平和を愛する異星人をおだてるための「引き立て役」を舞台に上げようとしたのかもしれない(この映画のラストはデビルズ・タワーを舞台としていたが、これはたまたま――といって良いのかどうかは不明だが――エルスワースからほんの数マイルしか離れていない)。ちなみにこの映画はUFOへの関心を大きく再燃させ、新たな調査の再開を求める人々の声は高まっていったが、それこそは空軍が避けたかったことだった。してみるとこれは、単にAFOSIが新たに採用した人間向けにニセ情報の訓練をしただけのことだったのかもしれない。

リック・ドーティが直接関与していなかったとしても、彼がその話を耳にしていたことは確実である。1978年3月までに、彼は下士官学校で6週間の訓練を受け、1979年5月にはAFOSIの一員としてカートランド空軍基地に配属されていた。ポール・ベネウィッツに対する工作は、彼が来てから数か月後に始まることになる。

■アクエリアス計画

リックと過ごしていると、彼がどうやってポール・ベネウィッツやビル・ムーアの信頼を得たのかがよく分かった。確かに、彼の話の中には真実味の感じられないものがいくらかはあった。彼の口からこぼれ出るそうした話には、どこかで伝え聞いたものといった感じがつきまとった。しかし、それは問題ではなかった。我々が話している相手はリック・ドーティなのだし、新しい友だちとの間で少しばかりホラ話が出たって何だっていうんだ?

ホルモン剤たっぷりの牛肉で満腹になった我々3人は――もっともジョンはレタスばっかりだったが――グレッグ・ビショップを探しに行くことにした。リックに、グレッグの著書『プロジェクト・ベータ』であなたは重要な役割を果たしていたが、自分ではあの本をどう思っているか、と尋ねた。リックは「あれは良い本だ」としつつ、「よく出来たニセ情報というのはみんなそうなんだが、あの本には正確な情報と不正確な情報が混在している」と言った。少し意外だったのは、彼があの本がそれほど売れなかったことに失望していると述べたことだ。リックは明らかに商才に富んだ人物であった。

総じていえば、リックは本というものについてあまり話したがらない傾向があった。彼は『情報解除免除 Exempt from Disclosure』にはほとんど関わっていなかったと言い、自分の名前を表紙に載せたくはなかったと述べた。ただし、改訂版の第2版にも彼の名前は記載されている。そして、我々との会話ではあまり触れたがらなかったが、リックは1980年代初頭、「出るかもしれない」とウワサされていた別の書籍プロジェクトに関与していたことがあった。その本は結局日の目を見なかったが、それが出ていればムーアやベネウィッツと関わっていた頃のリックのパーソナリティを覗き見ることができたのかもしれない。

1981年末までに、リック・ドーティとビル・ムーアの関係は次第に強固なものとなっていた。情報のやり取りは双方向で行われており、ドーティはプロジェクトのコードネームやUFO隠蔽工作に関与する人物のヒントなどをムーアに提供し、一方でムーアはUFOコミュニティ内部の最新情報をドーティに渡していた。ムーアは、ナショナル・エンクワイアラーの記事でUFOコミュニティからの信頼と尊敬を得るに至ったボブ・プラットとも密接な関係にあった。誰がこのプロジェクトを発案したのかは明確ではないが(ムーアとドーティは沈黙しており、プラットはすでに亡くなっている)、まずはドーティとムーアが、彼らが共有していた情報をまとめた本を出版する構想について話し合った可能性が高い。この本はムーアが成功を収めた『ロズウェル事件』の続編として計画されたもので、ドーティは「ロナルド・L・デイヴィス」という名義の内部情報提供者として登場し、ムーアとプラットは執筆を担当する予定だった。その本の素材は、ドーティがムーアを通じてポール・ベネウィッツに渡していたニセの政府文書と本質的には同じもので、ロズウェル事件後に始められ、なお継続している秘密のUFO調査の詳細が含まれることになっていた。

ボブ・プラットはムーアとの間の電話を全部録音していたので、そのテープから、ムーアは当初、書籍をノンフィクションとして発表することに固執していたことが明らかになっている。しかしプラットは、ムーアがドーティを通じて提供する素材には十分な証拠がないことに不安を感じていた。渋々ながらムーアはフィクション形式での出版に同意した。書名は最初『Majik 12』と名付けられたが、やがて『アクエリアス計画』と改題された。これはドーティがムーアに渡した偽造文書の名前から取った。プラットとムーアが構想したこの本は、愛国的なアメリカ兵士「D」の物語となる予定だった。主人公のDは、ベトナムでの過酷な任務から戻り、今は自国に裏切られたと感じている人物である。

Dは諜報活動部門にリクルートされ、ニセのUFO情報をバーコウィッツ博士なる人物(ほぼポール・ベネウィッツそのものだ)に提供する任務を受ける。Dはその後、サウスダコタ州のサイロにある核ミサイルに未知の物体が干渉しようとした事件を調査するよう命じられる(エルスワースでのデッチ上げ事件を題材としたもの)。Dは次第にアメリカ政府の奥深くに隠された超機密のUFOプログラムに気づいていく。これこそが「アクエリアス計画」であり、このプログラムを監督している組織が「マジェスティック」、または「MJ-12」である。

UFOをめぐる陰謀の深みに引き込まれていく中で、Dはイエス・キリスト、ムハンマド、アドルフ・ヒトラーといった歴史上の人物はすべて異星人に操られていたことを知る。ドーティからムーアに提供された情報を反映するように、Dは地球と関わっている異星人には3種類があることを知る。まずは北欧風の美しい容姿を持つヒューマノイドで(ジョージ・アダムスキーのオーソンに似た存在)、彼らは最初に地球に人類を根付かせ、密かに我々の発展を導いている。次は悪意あるグレイで、遺伝的収穫プログラムの一環として人類を誘拐したり家畜を切り刻んだりしている。そして3つ目の種族は、地球の天然資源を略奪しようとしている。アメリカ政府はこれらの異星人すべてを知っており、MJ-12を通じてそれらを監視し、時には高度な技術と引き換えに彼らと交渉していた。しかし、究極的にはMJ-12にこれらの異星人を阻止する力はなく、それ故に隠蔽工作が必要となっていた。国内に大混乱を引き起こすことなく、政府が市民に「我々の遺伝子や地球の資源は異星人の手のうちにある」と告げる――一体そんなことがどうすれば可能なのだろう? 真実に近づきすぎた我らがヒーローDは、人民には何が実際に起きているのか知る権利があると決断する。彼はビル・ムーアやボブ・プラットのような研究者たちに本物のUFO資料を漏洩し始めるが、最終的にDはMJ-12によって暗殺される。これは『未知との遭遇』の壮大な結末を悲惨な方向にひとひねりしたものになるわけだが、彼の遺体は異星人の一種族に引き渡され、彼らの惑星へと運ばれていく。

これはすべてフィクションなのか、それともリック・ドーティは本当に自らをUFOの真実を求める殉教者だと思っていたのか? 一番ありそうなことを言えば、ドーティはムーアに対して自らをそのように思わせたかったのだろう。彼とファルコンは当初、自分たちを政府のUFO政策に反対する内部告発者だと位置づけ、ムーアに本当のUFOの秘密を提供することを約束していた。作中で殉教者となるヒーローDは、いくつかの点でドーティとムーアの両方を合わせたような存在であって、真実を追求するために自らの尊厳、魂、さらには命までも危険にさらす人物だった。そうした役割というのは、ムーア自身も、1989年のMUFON講演に立った自らに投影したものだった。彼は、AFOSIと結託したのは正しいことだと本気で感じていたようであり、彼が受け取っていた情報の一部は真実であるとも信じていたようなのだ。

しかし、ドーティはどうだったのか?1989年、彼のUFOに関するニセ情報工作が公になった直後に書かれた手紙の中で、ドーティはこう述べている。

    地球が過去に他の惑星からの訪問を受けていたかどうか、私は個人的な決断を下すのに十分な情報を持っていません。もし政府での任務中にアクセスできた情報に基づいて決定を下すならば、こう言わねばならないでしょう。はい、地球は訪問を受けていました、と。しかし、私がアクセスできた情報が完全に正確であったかといえば、100%確信しているわけではありません。

これを彼が2006年に「UFOマガジン」に書いた記事と比較してみよう。「1979年初頭……私は特別区画プログラムに参加するよう指示された。このプログラムは、米国政府の地球外生物(EBE)に対する関与についてのものだった。最初のブリーフィングで、私は政府のEBEへの関与についてその背景を洗いざらい説明された」。我々はどちらのリチャード・ドーティを信じるべきか? そして、これはより重要なことだが、彼自身は何を信じているのだろう?

■イエローブック

ジョン、リック、私の3人は、グレッグ・ビショップと彼の婚約者のシグリッドと、「マディ・ラダー」というバーで会った――そこは薄暗い照明、鮮やかなネオン広告、スポーツ放送を流すテレビがあるアメリカ風の怪しげなバーで、ラフリンでは一般的なリバーボートの趣向が取り入れられていた。グレッグとリックの間にはギスギスした関係があったのかもしれないが、とりあえずは友好的な感じだった。グレッグは、あなたの言うことはあまり信じていないとリックにハッキリ言っていた(もっとも彼は誰も信じていないのかもしれないが)。一方のリックは、グレッグに対して時折トゲのある言葉を交えながらもジョークで返していた。ビールを飲んだ。というか、かなりの量を飲んだ。リックも飲んでいたが、彼が飲んでいるのを見たのはその時だけだった。

最初、UFOのことは話題に上らなかったが、酒が進むにつれて抑制が解け、最後にはなぜ我々がここに集まっているのかについて話さねばならなくなった。我々がETの訪問について懐疑的なスタンスを保っていたのに対して、ひとりリックは一歩も譲らなかった。彼はこう断言した。「ヤツらはここに来ていたんだ。アメリカ政府はヤツらのことを知っているし、証拠となる技術も持っている」

私は大声で、おそらくは大きすぎる声で、信じられないと言った。リックは最初、私の疑問の声に衝撃を受けたようで、その姿勢は自陣の防衛に回らねばならなくなった男のそれであった。より饒舌になった私は、さらに問い詰めた。するとリックは思いがけなく防御的な姿勢を取った。「そういうテクノロジーが本当にあるのは知っている。自分で扱ったからな」。彼はこう言った。

「何を扱ったんですか?」

「エイリアンの技術だ。クリスタル……ホログラフィック装置のようなものだ。それは『イエローブック』と呼ばれている。持ったこともある。長方形のクリスタルの板で、ハードカバーの本みたいだった。前面には左右にくぼみがあり、そこに親指とか指を置くと、何かが見える」

「何が見えるんです?」

「私に見えたのは言葉だ。他の人は映像を見た……言っておくけどあれは本物だった」

「パーム・パイロット [訳注:かつてあった小型電子手帳] を発展させた軍のテクノロジーかもしれないでしょう?」

「これはエイリアンの技術だ。単純なことさ。もしそこにいたなら、君もそう思うだろう。君が私を信じようが信じまいがどうでもいい。私はそこにいたんだからな」

そしてその会話は終わった。

いまこの時点で、「私は人を見抜くのが得意だから、リックが真実を語っていたことは分かる」とでも言いたいところだ。が、それはできない。私は酔っていたし、リックも酔っていたと思うし、他のみんなも酔っていた。ただ言えるのは、リックがその時に見せた防御的な態度、声に現れた高音の弱々しい感じ、肩をすくめる仕草、そうしたものすべてが小細工なしの生の姿に見えたということだ。その瞬間、私は彼を信じたのだ。

それ以降、私はこう感じている。リックは「地球は訪問を受けた」と本当に信じているのだ。彼がなぜそう信じているのか、どのようにしてそう信じるようになったのかはまた別の問題だし、我々には知る術がない。

もしかすると、リックはあまりにも長い間同じ嘘をつき続けたので、それを自分でも信じるようになったのかもしれない。しかし、私にはこう思われてならない。ブリーフィング、空飛ぶ円盤のテスト飛行、イエローブック等々、間欠泉の蒸気のように彼から湧き出してくるストーリーが作る迷路のどこかで、彼に確信を与えるような何かが起きたのではないか。

リックは何かを見せられた、あるいは少なくとも彼が信頼していた人々――友人や軍の上司――から何かを聞かされた。彼の語るスパイの話が別人の戦争体験の焼き直しと感じられるのと同じように、UFOの話のいくつかも彼自身のものではないのかもしれない。しかし、そうだったからといって必ずしもUFO問題が現実から遊離していってしまうとは言えない。アメリカ軍内部にはUFOやET(地球外生命体)への強い信仰の文化があり、ユーフォロジーにおけるアラジンの洞窟を垣間見ることを期待して軍に入ってきた者もいる。もしかしたら、本当に地球外の何かがそこに隠されているのかもしれないし、あるいはこうした遺物はすべて、単なる情報撹乱のための小道具にすぎないのかもしれない。そして、おそらくリックはそうしたものを見たのだ。

しかし、リック・ドーティを信じるかどうかにかかわらず、我々としては彼が人を欺く訓練を受けていたことも忘れてはならない。彼はカートランド空軍基地でAFOSIに所属していた時期に欺瞞工作をし、その25年後になってもなお、非常に奇妙な行動に関与していた。そして、それらはさらに多くのウワサを巻き込んでいくことになる。(10←11→12)



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■第8章 ユーフォロジストたちの中で

    気がつくと、円形のドーム型の部屋にいた……それはまるで真珠のような神秘的な物質でできており、繊細な色彩が光を放ちながら虹のように輝いていた。そこへ音楽が聞こえてきた。聞き覚えのあるメロディー、それは私の大好きな曲「フールズ・ラッシュ・イン」だった……私は、彼らと一緒にいることでどれほど安心できるかを悟った。彼らは私のすべての考え、夢、そして大切にしている希望を知っている存在だった。
     ――オルフェオ・アンジェルッチ『円盤の秘密』 (1955)


ラフリンのフラミンゴ・ホテルの部屋から、輝きまたたくネオンライトの列が砂漠の夜空の星々をかき消す様子を眺めていた。1995年の晴れた日に私や友人たちが目撃したものが何だったのか、私は全く真相に近づけていなかったのかもしれない。だが、私やジョン、そして何百万もの人々が魅了されてきた物語がどのようにして形をなしてきたのかは、よりハッキリと理解できるようになっていた。

空飛ぶ円盤の現象の背後に軍や情報機関がいるという信仰は、私にはUFO伝説にまつわる他の荒唐無稽な話と同じくらい見当違いで、妄想狂的であるように思われた。しかし、アメリカ空軍、海軍、CIA、NSAなど、この手の謎めいた略語集団に括られる機関が、UFOについて意図的に国民を欺き、時にはお互いに騙しあってきたことは明らかだった。それぞれが自分たちの目的のためにこの現象を利用し、それによってUFO神話の展開に影響を与えていたのだ。UFOが本当に空を飛び回り、地面に墜落し、我々に呼びかけたり、誘拐したりしていたかどうかはともかく、そうした話の背後にはすべて人間の痕跡があった。

しかし、私はもどかしさを感じていた。今にいたるまでこうした奇妙な物語は、古い書籍や記事、その時々の政府文書、逸話や風説の断片、そして多くは推測混じりの直感によって組み立てられていた。確固たる証拠はほとんどなかったが、私は何を得られるのだろう? 秘密は情報機関にとっていつも吸っている空気のようなものであり、仮にUFOの作戦が今なお秘密裏に続けられているなら、その歴史が簡単に明らかになるはずもない。情報機関の界隈に昔から伝わる格言にこういうものがある。「推測というのは、何も知らず、そして知ることが不可能な時に行うものである」

UFO伝説の最初の波を形作った戦略家やエージェントたち、つまりオリジナルの「蜃気楼の男たち Mirage Men」は、すでに皆いなくなっていた。ジョンと私が彼らと話をすることはもうできない。しかし、ビル・ライアンを追ってセルポの物語を追跡し、盛況を極めるラフリン・コンベンションへと至った我々は、彼らの後継者に出会えることを期待していた。

■完全な公開

CIAのロバートソン・パネルは1953年、民間UFO団体を厳重に監視すべきだと提言した(「監視」とはおそらく「潜入」と読みかえるべきだろう)。そこで実名を挙げて名指しされたのは、空中現象研究機構(APRO)とシビリアン・ソーサー・インスティゲーション(CSI)だった。UFOコミュニティの中の賢明な者たちが、自分たちは政府によって監視され時には干渉されていることに気づいていたとしても、彼らは「それは地球外生命体が訪問しているという真実に自分たちが近づきすぎたからだ」と信じる傾向にあった。その30年後、政府の関与について見えてきた構図はそれと全く違うものだったわけだが、それは多くのUFO研究者たちが(おそらくは薄々本当のところは知りながら)あえて目をそむけてきたものだった。こうした出来事すべての中心にいたのは、ユーフォロジーの世界における最初の内部告発者で、英雄的な研究者から裏切り者・はぐれ者へと立場を転じたウィリアム・ムーアだった。

ビル・ムーアはこの分野で最も尊敬されていた人物の一人だった。彼には40年間も埋もれていたロズウェル事件を掘り起こした大きな功績があり、彼のベストセラー本『ロズウェル事件』は、このジャンルに対する大衆のイメージをますます改善させた。しかし、1989年にラスベガスのアラジン・カジノ・ホテルで開催されたMUFON(相互UFOネットワーク)の会議において、彼が発表に立った時点ではUFOコミュニティは完全な混乱状態になっていた。この会議は、事実上、内戦の様相を呈していたのだ。比較的穏健なMUFON公認のイベントがアラジンで開催される一方で、近くの別の場所では、分派による会議が開かれた。こちらの講演者はより過激なUFO現象の「暗黒面」を説き、エイリアンによる地球の植民地化は着々と進んでおり、政府はこれを隠蔽する陰謀を謀っているなどとして警鐘を鳴らしていた。ちなみにこの主張では、政府は進んだ軍事技術を入手する見返りに、ETが恐ろしいアブダクションで人間の遺伝子を得ることを認めているということになっていた。

ムーアが「公認」イベントのステージに立ったとき、彼はこれが自分が公の場に出る最後の機会になるかもしれないことを知っていた。なぜなら彼は、ユーフォロジーの世界に生じたカオスの少なからぬ部分は自分に責任があることを知っていたのだ。彼はまさにその話を全世界に告白しようとしていたのだった。

ムーアのスピーチの記録として残っているのは、粗い画質のビデオテープが唯一のものである。音声は別途録音されているが、時折、同期がずれたり、完全に途切れたりすることがある。ムーアは、灰色か茶色のスーツを着た熊のような男で、厚いヒゲ、黒い眼鏡、そしておかっぱ頭によって顔はほとんど隠れている。演壇に上った彼は神経質な様子で、1000人に及ぶ立ち見席の聴衆を前に体を左右に揺らしていた。彼は咳払いをしてから話し始めた。「皆さん、私の友人も私に反対している方も、協力者の方も同僚の方々も、つまりはUFO研究者の皆さんということなのですが、まず自己紹介をさせてください。皆さんは私の名前を知っていると思いますが、同時にビル・ムーアとは何者で、何を企んでいるのかと疑問に思っている方も多いでしょう……自分自身は私がずっと何をしてきたかを知っているわけですが、問題は他の誰も私がしてきたことを知らなかったことなのです……これはあなた方にとって聞きたくない話かもしれませんが、それでも本当の話なのです」

それからの2時間、ムーアは落ち着いた調子ながらも力強く自らの物語を語った。その話は、UFOコミュニティに新たな視点をもたらす風穴を開けるようなものとなった。彼は、チャールズ・バーリッツ(彼自身も元陸軍情報将校だった)との共著になる2冊の書籍、『フィラデルフィア・エクスペリメント』(1979年)と『ロズウェル事件』(1980年)で成功を収めたが、その後、労使関係の専門家としての職を辞し、アリゾナ州に移り住んで執筆活動に専念することになった。また彼は、ツーソンに拠点を置くAPRO(空中現象研究機構)の特別調査部長にも就任した。

1980年9月の始め、ラジオ番組で『ロズウェル事件』の宣伝をした直後のムーアは、放送局で電話を受けた。「我々が見るところ、彼が何を言っているのか分かっているのはあなただけだと思います」。東ヨーロッパ訛りのある匿名の男性はそう言い、そのまま電話を切った。数日後、ムーアがニューメキシコ州アルバカーキの別のラジオ局にいたとき、その男は再び電話をかけてきて、同じメッセージを伝えた。ムーアはこの時、この人物と地元のレストランで会う約束をした。男は赤いネクタイをしていくということだった。ムーアは、ロバート・リンゼイの著書『ファルコンとスノーマン 友情と陰謀の真実の物語と』にちなんで、この人物に「ファルコン」という名前を付けた。ムーアはファルコンの地位や正体を明かしておらず、ただ彼は「情報機関において重要な位置にいた人物だ」とだけ語っている。

ディナーの席で、ファルコンはムーアに取引を持ちかけた。それは、ムーアが上手く立ち回れば、ファルコンはUFOコミュニティが最も求めているもの、すなわち政府によるUFO隠蔽の決定的な証拠を提供できる――というものであった。その代わり、ムーアは情報機関が何より求めているもの、つまり情報を提供することが求められた。「私は勧誘されていることに気づいた」とムーアは1989年に語っている。「でも、なぜそんなことをするのかは分からなかった」。ムーアが提案に同意すると、一通のマニラ封筒を渡された。中には空軍の文書があった。それは「プロジェクト・シルバースカイ」に触れたもので、民間人による空中「物体」の目撃情報と、「スパイク型飛行体」の回収について書かれていた。

ムーアとファルコンは9月30日に再び会った。ファルコンに同行していたのは、空軍特別捜査局(AFOSI)の若き捜査官、リチャード・ドーティであり、彼がムーアとファルコンの連絡役を務めることとなった。ムーアはすぐさま、シルバースカイの文書について二人を問い詰めた。彼は目撃者の名前を調べてみたが、該当する人物はいなかったのだ。その文書は偽造されたものだった。ファルコンは「最初のテストは合格だ」と祝福した。かくて彼は次の段階に進む準備ができた。

ファルコンは、自分が国防情報局(DIA)に所属しており、情報機関内にあってUFOに関する真実を大衆に伝えたいと考えているグループの代表なのだと明かした。ムーアは、彼らがその試みに取り組む上で信用できる人物と見込まれたのである。その見返りとしてムーアは、UFOコミュニティの中では誰が何をやっているかという情報を彼らに渡すこと、そして逆にUFOシーンに誤情報を流すことも求められた。ムーアは、偽情報ゲームに巻き込まれつつあったのだ。

実際、このゲームはすでに始まっていた。その年の初めに、ムーアはAPROの幹部から奇妙な手紙を渡された。それは、ニューメキシコ州アルバカーキのカートランド空軍基地駐在の若き空軍士官候補生、クレイグ・ウェイツェルが書いたもので、訓練中に10人の士官候補生が目撃した着陸したUFOと銀色のスーツを着た乗員について記述されていた。ウェイツェルは、その乗り物と乗員の写真を撮影していた。カートランドに戻ると、ウェイツェルは、黒いスーツとサングラス姿で黒っぽい髪の謎めいた男に接触された。ハックと名乗ったその男は、基地内のサンディア研究所の者だと言い、UFOの写真を要求してきた。動転したウェイツェルは、それらを渡してしまった。ウェイツェルは、この出来事をカートランドの警備担当者、ドーディに報告したと手紙の中で書き、手紙の最後には、墜落したUFOが基地内のマンザノ山の下に保管されていると述べていた。

常に用心深い調査者であるムーアは、ウェイツェルを追跡して彼に会った。ウェイツェルは、確かに銀色のUFOを見たと言い、それは突然加速して飛び去り、「今まで見たことのないような加速をした」と述べた。しかし、それは手紙に記載されていた場所で起きたわけではなく、搭乗者は見なかったし写真も撮っていなかった。当然ながらハック氏という不気味な男に会ったこともなかった。そして、もちろん「ドーディ氏」はリチャード・ドーティで、ウェイツェルの手紙はムーアを誘い出すための餌であった。AFOSIは狙っていた獲物を釣り上げたのだ。


ポール・ベネウィッツに会いにいったらどうかと最初にムーアに提案したのがAPRO(空中現象研究機構)だったのか、あるいはAFOSIだったのかはハッキリしない。どちらにとってもそう言って然るべき理由があった。ベネウィッツは1979年7月、マンザノの山々の上空を飛び回っている奇妙な光を撮影し始めた。さらに彼は自作の受信機で奇妙な信号を拾い始め、それはUFOから発せられているものに違いないと確信した。1980年5月、ベネウィッツがミルナ・ハンセンという若い母親と知り合ったことで、事態はさらに奇怪な方向に向かった。ハンセンと8歳の息子は、アルバカーキの北西約65マイルにあるイーグルズ・ネスト付近で、車の上に奇妙な青く輝く明るい光を目撃していた。彼女がこの出来事をAPROに報告したところ、APROはその地域の代表者をしていたベネウィッツを訪ねるよう彼女に勧めたのである。ベネウィッツの元で催眠術を施されたハンセンは、UFOに引き上げられ、そこで恐ろしいもの――すなわち、切り刻まれた牛や人体のパーツがタンクに入れられているのを見たと述べた。自分の身に起きたことへの恐怖と、答えを知っていそうなベネウィッツに対する信頼感から、ハンセンはベネウィッツ家に足繁く通うようになし、二人は不穏極まりない「感応精神病」へと陥っていった。

ハンセンは、科学者にしてUFOの専門家であるということでベネウィッツを信頼していたが、彼がAPROに送る手紙は次第に奇怪なものになっていった。例えば彼は、ハンセンを掠った宇宙人は彼女の体内に追跡装置を埋め込んでおり、その装置で彼女の一挙手一投足を追跡しているほか、その思考もコントロールしているのだと断定していた。ハンセンの身の安全とベネウィッツの精神状態を懸念したAPROは、ビル・ムーアに彼の元を訪ねて調査をするよう依頼した。一方ではアメリカ空軍もまた、ベネウィッツの元を訪ねることをムーアに求めていた。空軍が彼に吹き込んだニセ情報がどれほど成果を上げているか確認したかったのである。

アメリカの情報公開法を通じて公開されたカートランド空軍基地の内部文書には、ベネウィッツに対する工作がどれほど迅速に進行したかが記されている。ベネウィッツ博士が、カートランド基地の警備責任者であるエドワーズ少佐に最初の目撃情報を報告したのは1980年10月24日だったが、エドワーズはこの件をAFOSIのドーティに引き継いだ。彼らの報告書にはその後の経緯がこう記されている。

    1980年10月26日、[特別捜査官の] ドーティは、空軍試験・評価センターの科学顧問であるジェリー・ミラーの協力を得て……ベネウィッツ博士と彼の自宅で面談した。その場所はアルバカーキ市フォー・ヒルズ地区で、この地区はマンザノ基地の北側境界に接している。ベネウィッツ博士は……電子記録テープを何本か示してみせたが、彼によればそれはマンザノ/コヨーテ・キャニオン地区から発せられている磁気が高まっている時期の記録だった。彼はまた、アルバカーキ地域上空で撮影された飛行物体の写真もいくつか提示した。彼は、いくつかの電子監視装置をマンザノに向け、高周波の電磁パルスを記録しようとしている。ベネウィッツ博士は、これらの空中物体がこれらのパルスを発しているのだと主張している……ミラー氏は、ベネウィッツ博士が収集したデータを分析した結果、何らかの未確認飛行物体が撮影されているのは確かだとした。しかし、これらの物体がマンザノ/コヨーテ・キャニオン地域に対して脅威を与えているかどうかについては結論が得られなかった。ミラー氏は、電子記録テープは決定的なものではなく、ありきたりな [磁気の] 発信源から得られたものではないかという印象を抱いた。この地域では他に目撃情報は報告されていない。

11月10日、ベネウィッツはカートランド空軍基地に招かれ、基地内の各部署の責任者たちに自身の調査結果を明かした。彼のプレゼンテーションが終わる時まで残っていたのはAFOSI(空軍特別捜査局)とNSA(国家安全保障局)の代表者だけであったが、彼らは、どういうワケかはわからないがベネウィッツは自分たちが実験的に行っている通信を傍受していることに気づいた――その通信というのは、彼らが知る限り、フィルムに映った光とは何の関係もないものだったのだが。NSAは彼が信号を傍受するのを放置しておくことにした。それによって、どのように彼が傍受をしているのかを把握し、自分たちにとって彼が何か役立つのかどうかを見届けようとしたのである。

11月17日、AFOSIの新たな協力者であるビル・ムーアは初めて彼らのオフィスに召喚され、UFO研究の現状についてに報告するよう求められた。リチャード・ドーティは会議後、AFOSI内部の機密通信のためのテレタイプ・ディスプレイをムーアに見せた。そこには新しい文書が表示されていた。そこには「秘密」というラベルが付けされており、ベネウィッツが撮影した3枚の写真と8mmフィルム2巻についての分析が記載されていた。文書の最後には「プロジェクト・アクエリアス」に関する言及があった。

1981年2月、ファルコンとドーティは、とある文書をベネウィッツに渡すようムーアに求めた。ひと目見た時、その文書は11月にテレタイプで見たものと同じように思えたが、よく見ると微妙に改編されていることに気づいた。その文書には次のように書かれていた。

    (S/WINTEL) 米空軍は公にはUFO研究に従事していないが、空軍は依然として米空軍の施設や試験場でのUFO目撃に関心を持っている。NASAを筆頭とするいくつかの他の政府機関は、偽装を施した上で真正の目撃情報を調査している。(S/WINTEL/FSA)
    そのような偽装の一例が、メリーランド州ロックビルにある米国沿岸測地調査所のUFO報告センターである。NASAは目撃情報の結果を然るべき軍事部門にフィルタリングして渡すが、公式な情報機関のチャンネル外に情報は配信されておらず、ただ「MJ12」に対してのみ制限付きのアクセスが許される。ベネウィッツに関するケースはNASAとINSによって監視されており、両者からは今後の証拠はすべてAFOSIを通じて送付するように要求されている。

1983年、空軍情報部はこの文書について「機密情報の不正な公開の可能性」というタイトルのもとで調査を行った。彼らはその文書にいくつかの問題があることを指摘しており、特にその情報源とされていたグレイス大尉という人物は実在しないこと、また文書の形式も機密文書にふさわしくないものであることを挙げた。さらに報告書は「この文書は文法的な誤りやタイプミスが多く、全体的に見て意味をなさない」と苛立ちを込めて指摘していた。つまり、この文書は偽造されたもので、専門家にとってはあまり説得力のあるものではなかった。問題はテクニカルなものだけではなかった。文書にはより根本的な問題があった。NASAがベネウィッツを監視しているという話は馬鹿げていた。NASAはカートランドに施設を持っておらず、監視業務も行っていなかった。また、米国沿岸測地調査所は1970年には業務を停止していた。この文書には「MJ 12」という当時誰も聞いたことのなかった組織への言及があったが、その名前はそれからの30年間、UFOコミュニティを悩ませることになる。

ファルコンとドーティは、ムーアに「プロジェクト・アクエリアス」の文書をベネウィッツに渡すよう執拗に求めた。彼らがムーアに他人を欺くよう求めたのはこれが最初で、ムーアはその一線を越えることをいったんは拒んだ。ムーアとベネウィッツはすでに定期的に連絡を取りあい、友人関係を築きつつあったからである。しかし彼の「調教師」たちは、もしムーアが協力しないのであれば、彼らの関係はその瞬間に終わると明言した。

ムーアはその夏、「サンダー・サイエンティフィック」社の研究所でベネウィッツにその文書を手渡した。これはベネウィッツが待ち望んでいた証拠であった。つまりそれは空軍が彼の研究を真剣に受け止めていることを裏付けるものだったし、ベネウィッツが正しい方向に進んでいることを示すものでもあった。「サンダー・サイエンティフィック」社が盗聴されていることを知っていたムーアは、ラジオの音量を上げて会話を聞こえないようにしつつ、誰にもこの文書を見せないようベネウィッツに懇願した。しかし、それは無駄だった。カートランドで得た通信や目撃体験や、そしてミルナ・ハンセンから引き出された情報が相俟って、ベネウィッツはいま・ここでエイリアンの侵略が進行していることを確信していた。彼はすでにアメリカ空軍に警告していたが、今やその警告は世界に発信されねばならなかった。

ベネウィッツはAPRO、地元の政治家(ニューメキシコ州の上院議員を含む)、元宇宙飛行士のハリソン・シュミット、さらには大統領ロナルド・レーガンにまで手紙を書いた。レーガンへの手紙には空軍長官室からの返信があり、空軍は1969年のプロジェクト・ブルーブックの終了と共にUFOの調査を停止したという標準的な回答が返ってきた。しかし、ベネウィッツはこれが真実でないことを知っていた。彼は、その時点においてカートランドでUFOを調査している空軍関係者を名指しで挙げることができたからである。

侵略者に対する活動を強化すべく、ベネウィッツはコンピュータシステムを改造して「エイリアン」の通信を解読し、繰り返される信号を、例えば「UFO」「宇宙船」「アブダクション」といった具体的な言葉に翻訳してみた。エイリアンの計画を理解できれば、空軍が彼らの侵略を防ぐのに役立つと考えたベネウィッツは、解読されたメッセージをAFOSIの友人たちに送り始めた。彼らはベネウィッツの行動に引き続き大きな関心を払っていた。

1981年の半ば、ベネウィッツは高名な天文学者にしてUFO研究者であるJ・アレン・ハイネック教授の訪問を受けたが、ハイネックは新しいコンピュータを持参していた。UFO界の権威の訪問に、ベネウィッツは自分が重要なことに関わっているのだという確信をさらに強めたことであろう。ハイネックは、1948年にアメリカ空軍のプロジェクト・サインへの協力を依頼されて以来、UFOに深く関わっていた。当初はUFO現象に懐疑的だったハイネックだが、後にこの現象が何か実在する未知のものを示していると確信するようになり、1960年代後半には空軍に反旗を翻した。ハイネックは1972年の著書『The UFO Experience』でプロジェクト・ブルーブックを偽装と断じ、UFOとの遭遇を分類する独自のシステムを紹介した。その中には、UFOに乗船している存在との遭遇を指す「第三種接近遭遇」というカテゴリも含まれていた。この用語はスティーヴン・スピルバーグによる1977年の映画のタイトルとして使われ、映画の壮麗なるクライマックス場面には、トレードマークのパイプをくわえたハイネックがカメオ出演している。

ベネウィッツを訪問した当時、ハイネックはUFO研究センターを運営しつつ、エバンストン大学で教授職を務めていた。また、空軍から年間5千ドルの報酬を受け取っていたとも言われている。ハイネックは空軍のベネウィッツに対する工作を知っていながら、それに加わっていたのだろうか? もしそうなら、カーネル・サンダースさながらに親しまれた「科学的ユーフォロジーのゴッドファーザー」というイメージは明らかに確実に大ダメージを受けることになっただろう。しかし、ビル・ムーアの主張によれば、ハイネック自身は彼にこう語っていたという――「誰から渡されたかは彼に話さず、特別なソフトウェアが入っているコンピューターをベネウィッツに届けるように空軍に言われたんだ」

ベネウィッツは新しいコンピュータをセットアップし、それが伝えてくれる精度のより高いメッセージの解読に没頭するようになった。その新しいメッセージの一部を見るだけでも、彼がどれほどエイリアンの幻想に取り憑かれていたかは明らかだ。「勝利。我々の基地は母船から補給を受ける。時間が引き裂かれた。メッセージは星を打ち抜く。若返り方法で問題を引き起こした。6つの空。あなたに話すこと全てが助けになる」。このようなテキストが何ページにもわたって続く。ムーアは、新しいコンピュータは「すべての単語、文章の断片、時には文章全体」を、ベネウィッツの家に向けて発せられる「互いに異なった様々なエネルギー・パルス」の一つ一つに割り振っているのではないかと考えた。誰かがポール・ベネウィッツの幻想に油を注いでいた。しかし、それは誰だったのか?

ベネウィッツが送ってくる「研究プロジェクト」の手紙がカートランドの注目を集めるにつれて、監視も強化された。彼は自宅や車が侵入されていると確信し、向かいの家はエージェントが占拠していると信じるようになった。ムーアはある日、白いバンが二人のそばに――それは中から二人の写真を撮るのに格好の位置だった――停まったことを覚えている。ナンバープレートの所有者をたどると、それはコロラド州の北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)に登録されていた。アルバカーキのフォー・ヒルズ地区は、国家の情報機関の遊び場になっているかのようだった。

こうした出来事がベネウィッツの精神状態に良い影響を与えるわけはなかった。1982年、ベネウィッツはムーアに対して「基地の向こう側にあるメサ地域に光が見える」と言い出し、これはUFOが人間を遺伝子実験のために拉致している証拠だと語った。しかしムーアが調査すると、この時は軍用ヘリコプターが一帯でサーチライトを灯して捜索救助訓練を行っていたことが判明し、その事実はカートランドも認めた。しかし、すべてが幻想ではなかった。ある日、ムーアがベネウィッツの自宅を訪れたところ、家の研究室の天井近くに直径約12センチメートルの黄色い光球が浮かんでいるのを目撃した。その光はわずかに揺れ、淡くて青い輝きに包まれていた。ムーアが驚いた顔をすると、ベネウィッツは「このオーブはよく現れるんだが、正体が何なのかはわからない」と言った。

20年後にグレッグ・ビショップのインタビューを受けたリチャード・ドーティは、彼と国家安全保障局(NSA)のエージェント2人がベネウィッツの家の周辺を嗅ぎ回っていたある夜、彼らもこうした光球の一つを目撃したと主張している。「それはオレンジ色で、内側がキラキラしていた」とドーティは回想している。彼らはその時、道路の上に立っていたのだが、ドーティはNSAのエージェントたちに「あれはあんたらのものか?」と訊ねた。だが、彼らは「違う」と答えた。3人はその光がどこかから灯影されているのではないかと探してみたが、光源のようなものを見つけることはできなかった。

カートランド基地の治安部と接触を持ってから1年もたたないうちに、ベネウィッツはパラノイアのフィードバックループに陥ってしまった。そのループは彼の疑念を強化する一方、彼が自らの内心を空軍情報部にさらけ出してしまう事態をも生み出した。深刻な緊張状態に陥ることなくこのような状況が続くことはおよそありえないのだが、ベネウィッツの苦難は数年間に及び、終末が訪れるまでさらに奇妙な事態へと発展していった。ムーアが後に語ったところによれば、パラノイアに取り憑かれているにも関わらずベネウィッツは「優れた話術」を持ち、聞いてくれる人には誰にでも話し続けたという。「ベネウィッツの話を聞いた多くのUFO研究者たちは、さらなる調査をすることもなく、彼の話を鵜呑みにしていた」。その結果、ベネウィッツのパラノイア的な幻想はUFOの地下世界へと浸透していった。AFOSIは人々のUFOについての考えを直接操作し、ビル・ムーアを通じてフィードバックを得ていたのである。教科書通りの心理作戦のシナリオであった。

ビル・ムーアが新しい「雇い主」のために行っていたのは、ポール・ベネウィッツと彼を介して流した情報を監視するだけではなかった。彼のロシア語の流暢さを活かした古典的なスパイ活動もあった。ソ連国内にいるアメリカのスパイは、アメリカのUFO研究者に向け、しばしば情報を求めるようなふりをして絵はがきを送っていた。「ほとんどのはがきは無害なものだった……しかし、私が受け取ったはがきの中には(ロシアの)施設、兵器システム、そして防衛に関して暗号化された情報が含まれていたものがあった」。ムーアはこのようなはがきを受け取ると、探知不能な政府の番号に電話し、その内容を読み上げた。その時点で相手は「ありがとう」と言い、電話は切れるのだった。これは、それぞれのはがきには意図されたメッセージの一部しか含まれておらず、それらが集められて全体像が完成するという仕組みであった。連絡が取れた後、ムーアははがきをワシントンD.C.の郵便私書箱に送り、その内容が何であったのかを知ることはなかった。

ムーアや、後に彼が信頼して引き込んだ仲間たちは、ニセモノかどうかを知らされずに文書を手渡されることが時折あった。1982年初頭、ファルコンはムーアに電話をかけてきて「識別信号」――つまりはパスワードを伝えてきた。それは何かが近々彼の手元に届けられるということを示していた。次いで2月1日、或る男がムーアのところに近づいてきて、そのパスワードを言ってからマニラ封筒を手渡した。封筒には、1980年8月と9月にマンザノ周辺で目撃されたUFOに関するカートランド基地内部のセキュリティ文書が含まれていた。その文書は、ベネウィッツの話を裏付けるために捏造されたニセモノだった可能性が非常に高いが、当時のムーアには自分がアクセスを許された文書がどんなものなのかは分からなかった。

1983年、ムーアはまもなく重要な情報を受け取ることになると告げられた。そこから奇妙な「無駄足だらけ」の追跡が始まった。彼は全国の空港を飛び回り、最後にニューヨーク州のホテルに到着した。そこで、運び屋が彼の部屋にやって来て、例のマニラ封筒を手渡した。ムーアは19分間、その内容を調べることが許された。その間に彼は文書の写真を撮り、その内容をテープレコーダーに吹き込んだ。

その文書は、ジミー・カーター大統領のためのUFOについてのブリーフィング資料だとされていた。カーターはかつて、アメリカ政府がこの問題について知っているすべての情報を公にすると約束していた人物である。文書には、1981年のニセのAFOSI文書で言及されていた「プロジェクト・アクエリアス」とマジェスティック12(MJ-12)グループについて、さらなる言及がなされていた。この新たな文書が示していたメッセージは、MJ-12という秘密の政府組織が、UFOやその搭乗員の問題に対処するため、そしてETが実在していることを秘匿するために、少なくとも1950年代初頭には立ち上げられていたというものであった。これらの文書は後にムーアとAFOSIの二つのルートから他のUFO研究者たちの知るところとなったが、それがしつらえた土俵の上では、やがてUFOコミュニティが歴史上最も壊滅的な打撃を受けることになる。AFOSIによって植え付けられたエイリアンの種は、手がつけられないほどに成長し始めていた。

1989年のMUFON大会で、ムーアはプレゼンテーションの最後にUFOに関する自らの「状況評価」を発表した。彼のいくつかの発言は、現在の私たちから見ても理にかなったものであったが、その他の発言は当時のUFOコミュニティにはびこっていたパラノイア状況を反映したものだった――その影響はムーアのような地に足の着いた研究者にも及んでいたのである。ムーアは聴衆に語っている。
    ▼高度に進化した地球外文明が地球を訪れており、彼らはいま・ここに来ていることについて私たちの認識を積極的にコントロールしている
    ▼少なくとも2つの政府機関の一部はこのことを把握しており、極秘の研究プロジェクトに取り組んでいる。そのうちの1つのプロジェクトは、一部のUFOが人間以外の何者かによる高度な技術の産物であることを証明するデータを有している
    ▼アメリカ政府のカウンターインテリジェンス部門は、少なくとも40年間にわたってUFO現象に関するニセ情報を流してきた。少なくとも2つの機関の高レベルの工作員がこれに関与しており、両者はある程度協力しあっている。彼らはニセの文書を作成しつつ、UFOコミュニティの研究者や体験者について内部通報者を使って情報を収集している
    彼らはなぜこうしたことを行っているのか? ニセ情報というのは、非常に高いレベルで存在し、ごく一部のエリートだけが知らされている「本物のUFOプロジェクト」を安全保障上秘匿するために用いられているのである。
    ▼それはアメリカ政府の研究開発プロジェクトから注意をそらすために役立つ
    ▼それは、三極委員会のようなグループ――つまり宇宙からの未知の脅威を持ち出して世界統一を実現するためにUFO現象を利用しているグループにとって助けになる
    ▼それは、カウンターインテリジェンスに携わる工作員が欺瞞・ニセ情報工作の訓練をする上で格好の手段となる
    ▼それは、人間社会に自分たちの存在をゆっくり認識させていこうとしてエイリアン自身が操作しているものである

三極委員会に関するコメントは無視するとして(これは当時拡大していた「新世界秩序」の陰謀論に関して数多くあった符号の一つだった)ここになお残る事実がある。つまり、ムーアはインテリジェンス・サービスによって張り巡らされた欺瞞の網に深く関与していたにもかかわらず、依然として「地球外生命体は地球に来ている」という揺るがぬ信仰を語っていた――という事実である。

AFOSIとの関係に絡み取られてほぼ10年経った後もなお、ムーアは「UFOシナリオなんてものは丸ごとインテリジェンスの策略なのだ」といって一蹴することがなかった。これは驚くべきことだ。しかし、彼は依然として信じていたし、さらに驚くべきことに彼の「調教師」だったリック・ドーティもまた信じていた。そして今。彼が暗闇から押し出されて17年たった後、ジョンと私は彼に会う準備をしていた。(09←10→11

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■第7章 宇宙のパイオニアたち

    友よ、残念だが地球は錯乱した狂人の手のうちにあるのだ。彼らはあまりに常軌を逸しているが故に、真実を語る我々をウソつきといって糾弾するのだ。 ――ディノ・クラスペドン「我が空飛ぶ円盤との接触」(1957)


ラフリンのコンベンション会場を見回すと、そこにはエイリアンの像、フィギュア、ステッカー、本、風船人形が果てしなく並んでいる。これを見たら未来の考古学者たちが「21世紀の人間たちは無表情な小人を神として崇拝していたのだろう」と考えても不思議ではないだろう。が、実際のところグレイ(とエイリアンたちは呼ばれるわけだが)と「自分はエイリアンたちとコンタクトしている」と信じる人たちの関係というのは、よく言っても曖昧模糊としたものだ。エイリアンによるアブダクションに対するパニックが最高潮に達した1980-90年代、我らが隣人たるエイリアンとの関わりで最も普通だったのは、「最後に外科用メスを持ち出されてしまう」というものだった。多くの人たちがこうした外科手術に至るような接近遭遇をトラウマ的なものと感じた一方で、モルモットにされた人間のうち僅かな人たちは、そうした体験をポジティブなものと捕らえ直すことに成功した――つまり、「自分たちを捕まえた者からは愛や平和のメッセージ、差し迫った環境災害について知らされたのだ」といって。ラフリンではエイリアンたちが自らについて語ることを聞くことはほとんど無かったけれど、それは常にそうだったわけではない。1950年代にさかのぼると、映画『地球が静止する時』に出てくる説教好きなヒューマノイド「クラートゥ」がそうだったように、知恵を授けるETたちの小さな宣教団は地球に下りてきて、人類に如何に行動すべきか・何をしてはならないかを教えたようなのである。

ケネス・アーノルドによる目撃やモーリー島、ロズウェル、アズテックにおける事件はUFO時代の夜明けを告げたが、それらはその後も続くUFO神話の基本要素を二つ確立した。UFOは構造体をもつ乗り物であり、それは私たちの飛行機と同様に墜落する可能性があるということだ。ライフ誌や男性誌トゥルーの特集が出るまで、多くの人々はこれらの乗り物がアメリカ製またはロシア製だと考えていた。しかし、今やそれらは外宇宙――おそらくは金星や火星、あるいは土星の月のどこかから来ていることが明らかになった。次なる問いは「では誰がそれを操縦しているのか」ということだった。

1952年、世界はその答えを知ることになる――サンディエゴとロサンゼルスの間にあるパロマー山のふもとで「パロマー・ガーデンズ・カフェ」を経営していた61歳のポーランド系アメリカ人、ジョージ・アダムスキーの登場によって。パロマー山の頂上には当時世界最大だった200インチのヘール望遠鏡が設置されていたが、アダムスキーは自分で所有する15インチや6インチの望遠鏡を通りすがりの人々に貸し出し、天体を観察させていた。アダムスキーはまた神智学的な傾向のある神秘主義団体「ロイヤルオーダー・オブ・チベット」を運営しており、カフェでは彼を「教授」と呼ぶ小規模な支持者たちを集めては定期的に異教的なトピックについて講義を行っていた。

1949年、アダムスキー教授は、SF小説『宇宙のパイオニアたち:月、火星、金星への旅』を自分の名前で出版した。もっともそれは本当は秘書のルーシー・マクギニスが執筆したものであったわけだが。それからまもなく、彼は講義に空飛ぶ円盤の話を取り入れるようになり、宇宙船を見たり写真を撮ったことがあると主張するようになった。地元では彼の円盤の目撃者としての評判が高まり、1950年にはレイ・パーマーの雑誌『Fate』に取り上げられるまでになった。アダムスキーは瞬く間にカリフォルニアにおける「空飛ぶ円盤産業」の一人者となり、カフェのビジネスも波に乗った。

空飛ぶ円盤がニュースで大きく取り上げられるようになり、アダムスキーの神秘的な円盤グループは新たなメンバーを引きつけ始めるようになった。その中には、ウィリアム・ダドリー・ペリーの親しい友人だったジョージ・ハント・ウィリアムソンもいた。ちなみにこのウィリアム・ダドリー・ペリーはインディアナ州ノーブルズビル出身で、神秘主義的団体「シルバー軍団 Silver Legion」を運営していた人物である。もともとはシナリオライターとしてハリウッドで脚本16本を手がけていた。彼は乱暴な物言いで知られた過激派で、あらゆるものを憎悪し――例えば黒人、ユダヤ人、共産主義者、ルーズベルト大統領といったものだ――唯一彼が英雄と仰いだのはアドルフ・ヒトラーであった。「シルバー軍団」の支部はほとんど全州に置かれ、「シルバー・シャツ」と呼ばれたそのメンバーに銀色のナチス風の制服を着るよう奨励していた。「シルバー軍団」は多くの雑誌も刊行しており、1940年の始めまでにはFBIの注意を引くまでになっていた。真珠湾攻撃についての公式見解に公然と疑問を呈するようになったことで、彼は叛逆煽動罪に問われ、15年の刑を宣告されたが、1950年になって早期仮釈放された。

ウィリアムソン夫妻はそれまでウィジャ盤を使って空飛ぶ円盤の乗員との接触を試みていたのだが、この当時、アダムスキー教授がスペース・ブラザーズとコミュニケーションを取っている録音テープを聴いた。これにいたく感銘を受けた二人はグループに参加することになった。さらに彼らは1952年11月20日、アダムスキー、ルーシー・マクギニス、そして円盤愛好者であるアルフレッドとベティのベイリー夫妻とともにカリフォルニア砂漠をドライブ中、車の上を飛ぶ巨大な葉巻型物体を目撃するに至った。彼らはこれを機にグループの中心的なメンバーとなる。アダムスキーは同乗者たちに「これはスペース・ブラザーズの飛行船の一つだ」と言い、「自分をここに下ろしていってくれ」と頼んだ。

一時間後、教授は驚くべき体験を携えて戻ってきた。望遠鏡とカメラを手にして砂漠の中に一人いたアダムスキーは、先ほどのより小さく、美しい乗り物が半マイルほど離れたところに着陸するのを見た。その乗り物から出てきたのは「この世界の者とは思われぬ人間」で、身長は約5フィート6インチほど。見たところ20代後半で、長い金髪、高い頬骨。額は広かった。彼は上下がつながった茶色の服と赤い靴を身につけ、非の打ち所のない笑顔を浮かべていた。かわされた言葉はわずかだったが、そのほとんどはテレパシーとボディランゲージによるものであった。

北欧系の外見をした宇宙人はオーソンという名だった。彼は、母星である金星からカリフォルニアにやってきたのだが、それは彼の種族が人類に対して抱いている関心のため――とりわけ原子爆弾の使用に対する憂慮を伝えるためだった。オーソンは、アダムスキーに彼らのメッセージを広める手助けをしてくれるよう頼み、会合が終わると、オーソンは乗り物に乗って飛び去った。残されたのは一つの靴の跡だけだったが、アダムスキーとその仲間たちはその足跡を石膏で保存することができた。その石膏には奇妙な印が見て取れたが、その中には星や鉤十字などもあった。


アダムスキーは約束を守り、間髪入れずその驚くべき出会いについて語り始めた。1953年、彼の話は(このたびもクララ・L・ジョンによる代筆ではあったのだが)『空飛ぶ円盤は着陸した』(訳注:邦訳題『空飛ぶ円盤実見記』)というベストセラー本に収録された。そこには、アイルランド貴族のデズモンド・レスリーの手になる古代の空飛ぶ円盤に関するエッセイも含まれていた。アダムスキーは世界中を旅してスペース・ブラザーズとの出会いについて語ったが、最初の接触の後も彼らとのコンタクトは続いた。教授との面談を希望した人の中にはオランダのユリアナ女王や、伝えられるところによればローマ教皇ヨハネ23世もいたという。その間も、スペース・ブラザーズたちは時折カフェに立ち寄り、彼らの新しい地球の友人と情報を交換し、彼を宇宙空間への旅に連れて行ったが、これについては、彼は1955年に出した『宇宙船の中で』(訳注:邦訳題『空飛ぶ円盤同乗記』)という別の本の中で記述している。

のちに行われた調査は、このポーランド人教授に対して好意的なものではなかった。彼の象徴ともなったUFO写真は、鶏の餌箱や1952年初めに出回った技術論文に描かれていた空飛ぶ円盤のデザインに不思議なほど似ていた。その日砂漠で実際に何が起こったのか、アダムスキー以外に知る者はいない(おそらくオーソンを除いては)。しかし、彼の遭遇があったタイミングはこれ以上ないほど絶妙なものであった。それはワシントンDCでの目撃フラップからわずか数ヶ月後、CIAと米空軍が円盤の問題を沈静化させる方法を議論している最中であったのだ。

アダムスキーの物語は、空飛ぶ円盤の問題に対して人々が渇望していた答えを差し出した。その乗員は悪意のあるロシア人ではなく、平和を愛する金星人だったのだ。急成長していた科学志向のUFOコミュニティ(その代表格がレオン・デビッドソンだ)は彼の話を嘲笑したが、よりスピリチュアルな志向を持つ者や一般大衆はそれを受け入れた。アダムスキーの名声が広がるにつれて、別の「コンタクティー」たちが数多く現れた。彼らはこもごもに慈悲深いスペース・ブラザーズだとか外宇宙への楽しい旅行といった似たような物語を語った。

こうしたコンタクティーたちは、UFO愛好者を集めて最初の大規模集会を開催したが、その規模はこのラフリン・コンベンションを恥じ入らせるほどのものであった。この種のコンベンションの一例としては、コンタクティーにして航空機会社のダグラスでエンジニアをしていたジョージ・ヴァン・タッセルが組織し、モハヴェ砂漠のジャイアント・ロックで長年開催されたものがあるが、そうしたところには、数千人ものUFO信者が、お気に入りの話題に関する最新のニュースや理論をわかちあうため集まってきた。コンタクティーたちのビッグウエーブは、UFO現象に対して大衆や政府が示す態度に変化を生み出した。それはレオン・デビッドソンやキーホーの真剣なアプローチとは全く対照的なUFO愛好者のイメージを作り出したのである。テクノロジーの問題として謎を解明しようとする真剣な科学者の姿は消え去り、その場所は変人、霊媒師、狂人たちが占めることになった。

アダムスキーや他のコンタクティーたちは(政府の)情報ゲームに巻き込まれていたのではないかという憶測は1950年代からあった。レオン・デビッドソンはアダムスキーが彼の遭遇を公にした直後に彼と連絡を取り、数年間にわたって彼と何度か手紙を交わした。デビッドソンがオーソンや他のスペース・ブラザーズについて何か奇妙な点があるかどうか尋ねたところ、アダムスキーはこう答えた。「彼は間違いなく人間です……髪を切ってビジネススーツを着ていれば、どこでも誰とでも怪しまれることなく一緒にいることができるでしょう」

当然デビッドソンは、アダムスキーの遭遇の背後にアレン・ダレスの仕掛けがあることを感じ取った。彼の外宇宙への「旅」の模様は著書『宇宙船の中で Inside the Spaceships』(邦訳題『空飛ぶ円盤同乗記』に記されているが、それは常にスペース・ブラザーズが彼を黒いポンティアックで拾い、砂漠へと連れていくところから始まった。そこでアダムスキーは、着陸した「偵察船」に乗り込んで椅子に座り、対になったスクリーンに星が流れていくのを見た(乗り物の窓は常に閉まっていた)。だが彼は、飛行中には「全く動きを感じなかった」と言っている。こうした旅の最中、スクリーンには「金星のニュース映画」が映し出され、スペース・ブラザーズは様々なトピックについて講義を行ったが、その間、アダムスキーには奇妙な色の飲み物が与えられた。疑い深いデビッドソンはこう指摘している――1955年、ディズニーランドに「ロケット・トゥ・ザ・ムーン」という乗り物が作られたが、それはバックプロジェクションを使用して宇宙を飛行している感覚を再現していた。アダムスキーの宇宙旅行は、同様のハリウッドの特殊効果を使って捏造されたものなのか? そして、スペース・ブラザーズが提供した機内飲料には何が入っていたのだろう?

アダムスキーの冒険の背後に誰がいたにせよ、「シルバー・シャツ」のジョージ・ハント・ウィリアムソンが彼のサークルに関与していたことは、「ロイヤル・オーダー・オブ・チベット」は禁酒法時代に密造酒を製造するための隠れ蓑だったという根強いウワサも相俟って、FBIの注意を引きつけるには十分であった。そして、アダムスキー自身もその活動の初期からFBIの注目を集めていた。1950年9月のFBI報告書には、鮮明な描写がある。教授はFBIのエージェントにこう語っている。「お聞きになりたいのなら話しますが、彼らの政府はおそらく共産主義者のそれです……それはより進歩した未来の政体なのですよ」。彼はこうも予言した。「ロシアは世界を支配し、それから1000年間に及ぶ平和の時代が訪れるでしょう」。彼はまた、ロシアはすでに原子爆弾を持っていることを指摘し、次のように述べた。

    今後12ヶ月以内にサンディエゴは爆撃されるでしょう……今日のアメリカ合衆国は、崩壊前のローマ帝国と同じ状態にあり、ローマ帝国が倒れたように崩壊するでしょう。この国の政府は腐敗した政府であって、資本家は貧者を奴隷化しているのですよ。

すべてのコンタクティーが共産主義者であったわけではない。例えば、カール・ユングのお気に入りで、ジョージ・ヴァン・タッセルと同様に航空宇宙産業で働いていたオルフェオ・アンジェルッチは、明らかにアメリカの側に立っていた。「共産主義は、目下のところ地球にとって根本的な敵であり、その旗の下に悪の統一勢力の穂先を隠している……[それは]必要悪であり、毒のある生物、飢饉、疫病、天変地異のように地球上に存在している。これらすべては人間の内にある善のネガティブな力なのであって、そうしたものを発動せしめる」

FBIがコンタクティーたちを監視していたことは明白であるが、彼らの中に、アメリカ政府や、事によればソビエト政府の働きかけを受けたり操られたりした者がいたかどうかは不明である。レオン・デビッドソンは、CIAはアダムスキーや彼の仲間に「関わっていた」と確信しており、大きく言えば平和主義的で反原爆に立つ彼らのメッセージは、国際的な平和運動が成長する上での重要な要素であったと見なしていた。この平和運動は、1958年にアメリカ、イギリス、ソビエト連邦の間で短期間の核実験禁止が合意されることで頂点に達した。これらはすべてアレン・ダレスのマスタープランの一部だったのだろうか?

彼らがCIAの操り人形であったかどうかにかかわらず、アダムスキーと他のコンタクティーたちは、ロバートソン・パネル報告書のいくつかの重要な勧告を実行に移した。彼らの行動により、UFOの問題が再び真剣に受け取られるまでには長い時間が流れることとなった。また、彼らの大会はUFO信者たちを一箇所に集めることになり、情報機関が彼らを監視することを非常に容易にした。この伝統は今日まで続いている。

■ブラジル版モーリー島事件

アダムスキーと彼の仲間のコンタクティーにとって、宇宙人との遭遇は非常に深い経験であり、彼らの乗り物に乗ることは他に類を見ないスリルであった。スペース・ブラザーズは、その高度な知性と技術にふさわしい慈愛と知恵を放ち、その知恵は人間の乗客に「これを他の人と分け合おう」というインスピレーションを与えた。しかし、もし出会うのが宇宙から来た説教師ではなく、人を誘拐し、薬を盛り、レイプし、興奮した犬のようにうなり声や吠え声をあげるエイリアンの悪魔であったらどうであろうか?これはまさに1957年に若いブラジル人農夫、アントニオ・ビラス・ボアスの身に起こったことである。

ビラス・ボアスの物語には、興味深い前触れがある。それはその年の9月にリオデジャネイロで起こった。リオの「オ・グローボ」紙の人気コラムニストであるイブラヒム・スエッドは、読者の一人から飛行円盤の破片が送られてきたと記事に記した。普段はセレブのゴシップを扱うことが多いこのコラムで、スエッドはこれまでUFOに興味を示したことはなかったのだが、彼はそこで読者からの手紙の一部を再掲した。

    あなたのコラムの愛読者、そしてあなたを尊敬する者として、新聞記者であれば一番関心があるであろうもの――そう、空飛ぶ円盤にかかわるものをお送りしたいと思います……数日前のこと……私はサンパウロのウバトゥバの町に近い場所で、友人たちと一緒に釣りをしていたのですが、そのとき空飛ぶ円盤を目撃しました。その円盤は信じられない速度でビーチに接近し、海面に衝突しそうになったのです。最後の瞬間、ほとんど水面に衝突しようというところで、それは上方に向かって鋭いターンをし、驚くべき勢いで急上昇しました。私たちはその光景に驚いて目を奪われましたが、その時、円盤が炎に包まれて爆発するのを見たのです。円盤はバラバラになって数千の燃える破片になり、輝く光を放ちながら落下しましたが、辺りはすごく明るくなりました……これらの破片のほとんどは海に落ちましたが、一部の小さな破片がビーチの近くに落ち、私たちはこの軽い紙のような素材を大量に拾い集めました。その一部を同封します。

このコラムはオラヴォ・フォンテス博士の目にとまった。彼は若くして尊敬を集めていた医師で、ブラジル消化器栄養学会の副会長を務めたのち、1968年にガンで亡くなった。まだ30代であった。フォンテスは、1954年末にブラジルで起きたドラマティックなUFO報告に魅了され、自ら個々の事件の調査を始めたのち、1957年初めにアメリカのUFO組織APROに加入した(ちなみにこれはロバートソン・パネルが観察することを推奨していた団体である)。

ウバトゥバでの墜落事件についての報告を読んだ後、フォンテスは直ちにスエッドに連絡し、その軽量の金属素材をブラジル農業省の国立鉱物生産局で分析する手配をした。また、そのサンプルは米国大使館を経由してアメリカ空軍にも送られた。その試料はマグネシウムと判明したが、その中には普通はありえないほど純度の高いものもあった。このほか奇妙な成分が含まれているものもあったが、これらは事後的に添加することも容易だったと考えられる。

この調査結果は全国ニュースとなり、フォンテスをブラジルを代表するUFO研究家として押し上げたのだが、それは彼自身が奇妙な近接遭遇をする上での布石ともなった。1958年2月、フォンテスは「ウバトゥバの素材について話をしたい」というブラジル海軍省の情報将校2人の訪問を受けた。彼らは、フォンテスに「関係のないことに首を突っ込むな」と警告した後、UFOの秘密について知っていることをすべて話した。彼らが言うには、世界の諸政府は地球に来ている地球外生命体の存在を認識しており、それを隠すためにあらゆる努力をしているという。これまでに直径30フィートから100フィートの空飛ぶ円盤6機が墜落しており、そのうち3つはアメリカ(2つは良好な状態で)、1つはイギリス、1つはサハラ砂漠、1つはスカンジナビアで墜落した。そのすべてに小柄なヒューマノイド型の乗員が搭乗しており、いずれも生存者はいなかった。科学者たちは現在、これらの円盤のリバースエンジニアリングを試みているが成功していない。が、その動力は、回転する強力な電磁場と原子の構成要素によって生じるものと思われる。UFOの乗員の側は人類との接触に興味を示しておらず、追跡する飛行機を何機か破壊していることもあって、極めて敵対的であると考えられている。このUFOの問題は最高機密とされており、ブラジル大統領でさえもその詳細を知らされていない。事が重大であるだけに一部の目撃者や研究者は情報漏洩を防ぐために暗殺された――彼らはそう警告した。

フォンテスはこの訪問に戸惑いながらもひるむことはなかった。彼はここで、我々であっても当然問うであろう質問をしたかもしれない。もしUFOの問題が大統領にさえも知らされないほどの秘密であったなら、なぜ海軍将校の暴露譚がこれほど多く一般の書籍や雑誌に掲載されてきたのか? そして、なぜ彼らはフォンテスにそんな話をしたのか?――実際のところフォンテスは、その情報を直ちにAPROのディレクターであるコーラルとジム・ロレンゼンに伝えたのだったし、二人はそこで似たようなウワサは他の情報源からも来ていたことを確認しているのだから。これは誰かがフォンテスとAPROにこうした話を信じてもらい、広めて欲しかったということなのだろうか?――あたかもサイラス・ニュートンが、1950年に墜落円盤の話を広めるよう何者かに促されたように。

■誘拐の元祖

オラヴォ・フォンテス博士が謎の「黒服の男たち」(os hometis de preto)の訪問を受けたタイミングは、「不吉」というのとは違うにしても不思議なタイミングであった。というのも、その数日前、博士は若い農夫から「宇宙から来た誘拐者たち」に関する奇妙で恐ろしい話を聞いたばかりだったからである。

彼らがアントニオ・ビラス・ボアスを連れ去ったのは、1957年10月16日。スプートニクが地球を周回する最初の人工物となってからわずか2週間も経たない時期であった。場所は、ブラジル南東部ミナス・ジェライス州のリオ・グランデ川沿いにあるサンフランシスコ・デ・サレス近く。23歳のビラス・ボアスは一家の農地を耕していた。彼は太陽の日射しを避けるために一人で夜中に働いていたのだが、それだけに彼は不安だった。

その2日前、ビラス・ボアスと彼の兄ジョアンは同じ畑を耕していたが、輝く赤い光に驚かされた。その光は目を刺すようで、時折「夕日のように」眩しい光を放っていた。彼らがその光に近づこうとすると、光は素早く逃げて行き、突如として消え去った。

10月16日午前1時、その赤い光がまたやってきて、「トラクターと周囲の地面を昼間のように照らした」。その直後、物体はリオ・グランデ川の土手から約150フィートの距離に着陸した。その瞬間、トラクターのガソリンエンジンが止まり、ライトが消えた。

「それは奇妙な機械だった」とビラス・ボアスはフォンテスに語った。「形はやや丸く、周囲には小さな紫色のライトが点灯しており、前部には巨大な赤いヘッドライトがあった…それは大きな、細長い卵のような形をしていた…機械の上部には高速で回転しているものがあり、蛍光を思わせる強力な赤い光を放っていた」。翌日、ビラス・ボアスは機体の残した三脚の跡を測定し、その長さを約35フィート、最も幅の広い部分を約23フィートと推定した。

飛行物体が着陸した時、ビラス・ボアスは逃げようとしたが、「奇妙な服装」をした、背の低くて力の強い人物に荒々しく捕まえられた。続いて3人の背の高い存在が現れ、彼を金属製のハシゴに押し上げ、跳ね上げ式ドアになっているハッチを通して中に押し込んだ。ビラス・ボアスはこうした存在の服装について詳細な説明をしてみせた。彼らは黒いストライプの飾りがついた灰色のオーバーオールを着ており、頭には布製と思しきヘルメットがあった。ヘルメットは薄い金属片で補強されていたが、鼻の部分には三角形の金属片があり、2つのレンズが付いた目の穴の中間に配置されていた。ヘルメットの頂部は通常の人間の頭の高さのほぼ2倍にまで延びており、額は広いように見えた(この詳細はアダムスキーのオーソンと共通している)。ヘルメットからは細い銀色のチューブが出てオーバーオールの背中に接続されていた。誘拐者たちはそれぞれ、硬い感じがする五つ指の手袋、厚底のゴム製のブーツ、そして胸にはパイナップルの輪切りほどの大きさで、丸くて赤い反射板を一つ装備していた。

まるでバック・ロジャースの連続ドラマや『地球が静止する日』にも似た安っぽい話のようでもある。乗り物の内部も1950年代に想像された未来像を反映したもののように思える。部屋は丸くて、白く、明るく、特徴がない。家具といえばあるのは金属製のテーブルと回転するスツールだけで、すべて床に固定されていた。天井には四角い蛍光灯があり、リングのように全体をひとまわりしていた。

うなり声や鳴き声でコミュニケーションを取りながら、ヒューマノイドたちは捕らえたビラス・ボアスの服を脱がせ、湿ったスポンジで体を拭き、大きくて柔らかなベッドのある部屋に連れて行ったが、ベッドは灰色のシーツで覆われていた。血を集める「吸い玉」のような装置を顎の下に当てられた後、彼は放置された。部屋は壁の穴から入り込んできた灰色の煙で満たされ、それは吐き気を催させた。それから、背は低いが非常に美しくて全裸の女性がドアの戸口に現れた。彼女は人間だったが、顔立ちをみると随所が奇妙なほど尖っていた。髪はほとんど真っ白で、中央で分けられていたが、陰毛は鮮やかな赤色だった。彼女の目は大きくて青かった。その目は丸いというよりは細長く、切れ長のつり目だった。それは、少女たちがアラビアの王女風のファンタジックな化粧をした時の目を思わせた。

その女性はビラス・ボアスに体を擦りつけてきたので、彼は自制できないほど興奮してしまった。次から次へと事は運んだ。「それは通常の行為でした」とビラス・ボアスは語った。「彼女はどんな女性でもするようなことをした」。彼は、その興奮を誘拐者たちが彼の体に塗りたくった液体のせいにしたが、そんな状況下で催淫薬が必要であったかどうかは疑わしいだろう。行為が終わると、その女性は笑顔を見せ、自分の腹部と空とを指差した。それを見たビラス・ボアスは、彼女は自分たちのハイブリッドとなる子供を生むつもりなのだろうと思った。

ビラス・ボアスが服を着た後、彼は乗り物の外部を案内され、それから「別れる時間だ」と告げられた。事態に困惑し動揺していた彼は、その乗り物が大きなうなり声を上げつつ離陸するのを見守った。そのライトは様々な色に点滅していたが、最後には明るい赤色になった。回転している上部は、機体が地上からゆっくりと浮き上がっていくにつれて、ますます速く回り始めた。その三本の脚は機体の腹部に引っ込んでいった。それは100フィートほど上昇し、大きなブンブン音を立てた後、突然の衝撃とともに弾丸のように上空に飛び出した。若い農夫は強い衝撃を受けた。「彼らはやるべきことが十分に分かっていました」と彼はフォンテス博士に語り、同時に「彼らは人間だった。ただ別の惑星から来た人間でした」とも語った。

時間は午前5時30分になっていた。この出来事は約4時間にわたって続いていた。ビラス・ボアスはトラクターを動かそうとしたが、エンジンはまだかからなかった。エンジンのバッテリーの配線が外されていたのだ。ローテクではあるが、逃走防止としては効果的な手段だった。彼はよろめきながら家に戻ったが、彼の姉妹は、そのとき彼が黄色い液体を吐いたこと、アゴに黒っぽいあざがあったことを覚えている。続く数週間、彼は体の痛みや目の刺激、さまざまな体の不調に苦しんだ。

この事件の直後、彼は人気のある「オ・クルゼイロ」誌の編集者ジョアン・マルティンスに手紙を書いた。するとビラス・ボアスはリオデジャネイロに空路招かれることとなり、そこでインタビューを受けるとともに、フォンテス博士に検査されることになった。マルティンス自身はビラス・ボアスの話を雑誌に載せなかった。だが、その話は1962年にマイナーなブラジルのUFO雑誌に掲載され、1960年代半ばには英語圏のUFO雑誌に初めて紹介された。フォンテスはこの若い農夫の誠実さに感銘を受け、奇妙な話ではあるけれども、彼の証言を信じた。ちなみにビラス・ボアスは、マルティンスが「儲けることができるよ」と示唆したのにもかかわらず、新聞に話を売ることはなかった。

さて、実際には何が起こったのだろうか?アントニオ・ビラス・ボアスは本当に性的に飢えたエイリアンに誘拐されたのだろうか? あるいはすべては夢だったのか、あるいは幻覚だったのか――その夢や幻覚は、おそらく意識を失ったあとにアゴのアザを説明しようとして生み出されたものではないのか? そうであれば人間の正常な心理の範囲内におさまる可能性が高い。彼と兄はその月の初めに空に赤い光を見たことがあり、新聞にはUFO目撃の報告が載っていた。それらが彼を刺激してエイリアンのファンタジーを見せたのかもしれない。しかし、さらに別の可能性もある。それは「実際にエイリアンの誘拐があった」という考えと同じほど馬鹿げているのかもしれないが。

■洗脳マシン

ボスコ・ネデレコビッチは1999年にバージニア州フェアファックスで亡くなるまで、ラテンアメリカ諸国の未来の指導者を教育するインターアメリカン・ディフェンス・カレッジの通訳兼翻訳者であった。ユーゴスラビア出身のネデレコビッチは1978年、アメリカのUFO研究者リッチ・レイノルズにこんな告白をした――1950年代から1960年代にかけ、CIAはプロジェクト「オペレーション・ミラージュ」として世界各地でUFO事件を意図的に作り出していた、と。さらにネデレコビッチ自身も、1956年から1963年の間、米国際開発庁(AID)の名のもと、ラテンアメリカでCIAのために働いており、こうしたでっちあげ事件のいくつかに参加していた。そして、その一つがビラス・ボアスの誘拐事件だった――と。

ネデレコビッチの主張によれば、彼は1957年10月中旬、ヘリコプター・チームの一員として、ブラジルのミナス・ジェライス州で心理戦と幻覚剤のテストを行っていた。そのチームは、彼、他のCIA職員2人、医師、2人の海軍士官(1人はアメリカ人、1人はブラジル人)、さらに3人のクルーから構成されていた。ヘリコプターには様々な電子機器と、長さ約5フィート、幅約3フィートで金属製の「キュービクル」というものが搭載されていた。ネデレコビッチはそれが何のために使用されたのかは知らされなかったが、軍事の心理戦作戦に使用されるものだと聞かされていた。

最初にチームは、作戦基地のウベラバ(サンフランシスコ・デ・サレスの東約150マイル)周辺を飛行し、電子機器のテストを行った。数日後、彼らはリオ・グランデ沿いを飛行し、夜間掃討を行った。熱感知カメラを使用したところ、彼らは地上に一人の人影を確認した。ヘリコプターは約200フィートの高さまで降下し、エアロゾル状の鎮静剤を放出した。ヘリコプターが着陸すると、その男は逃げ出したが、3人のCIA工作員が彼を追いかけ、ヘリコプターに引きずり込んだ。その際、彼の顎がデッキにぶつかった。ネデレコビッチは、彼らが機内でその男性に何をしたかについては言及していないが、数時間後にまだ意識を失ったままの彼をトラクターの横に残して立ち去ったのだという。

では、この男性はアントニオ・ビラス・ボアスだったのだろうか?ネデレコビッチの証言の個々の要素は、ビラス・ボアスの話と一致している。例えば、その時間、場所、気象条件、そして被害者のアゴのアザといったものだ。同様に、ビラス・ボアスの話の多くの要素(例えば誘拐者の服装だ)を見ても、相手はエイリアンではなく人間だったように思える。彼らの飛行機も、彼自身の想像力だとか狡猾なSF風の意匠によって修正されてはいたが、実際にはヘリコプターだった可能性もある。機体の外部に取りつけられた白色を含む様々な色のライトはUFOっぽい雰囲気を醸し出していたかもしれないし、上部の「回転する」ドームはローターブレードだった可能性がある。ただしこれには反論もできるだろう。大型のヘリコプターは大きな騒音を発するものだし、「静音」ヘリコプターが実際に運用されるのはまだ数年先のことだった。人里離れた土地の夜間のこととはいえ、当時のブラジルの農村では珍しいヘリの音が聞こえれば誰かしら聞いていただろう。

このストーリーの他の部分にも、真実味はある。事件があった当時、CIAと米軍はブラジルやラテンアメリカ全域にしっかりと拠点を築き、地域の政治的動向を注視していた。ブラジルは特にセンシティブな国と見なされていた。その広大な面積、豊富な天然資源、そしてアメリカに近い位置といったものは、ソビエト拡張主義の対象として魅力的であった。事態は1964年にヤマ場を迎えた。CIAは、ジョアン・グラール大統領を追放し、次なる2年間権力を握る残虐な軍事政権を成立させるクーデターに参加したのである。

1957年になるとCIAはMK-ウルトラ計画にも深く関与するようになった。薬物、外科手術、テクノロジーを用いた精神および行動改変技術の研究である。彼らは多くの精神活性物質(幻覚剤、鎮静剤、興奮剤、精神異常発現薬といったものだ)の実験を行ったが、それはしばしば事情を全く知らされていない対象に対して行われた。CIAが自国の管轄地域外でテストを行った可能性はあるのか? 問うまでもない。この時期のCIAにとっては世界全体がその管轄内にあった。

ビラス・ボアスは、その体験中ならびに体験後に繰り返し吐き気を感じ、加えて不快な生理的影響も受けていたが、フォンテスはこれを放射線被曝に関連したものと考えた。ネデレコビッチが語った「キュービクル」は、放射線被曝の影響をひそかにテストするために使用されたのではないか? ヘリコプターのフライトの際にどんな服装をしていたのかについてネデレコビッチは語っていないが、ビラス・ボアスが証言した誘拐者たちの服装・ヘルメットは、放射線防護具だったとも考えられる。

こうした考究をさらに一歩進めると、催眠や幻覚剤の影響下で、人に実際には体験していないことを「体験した」と信じさせることは可能なのかという問いが浮かび上がる。その答えは明らかに「イエス」である。そのことを言うのに多言は要しない。2001年、ワシントン大学の心理学者たちは、子供のころにディズニーランドに行ったことのある人々に、園内にバグズバニーのいるニセの広告を見せた。その際、被験者のいる部屋に段ボールから切り抜かれた巨大なバグズが置かれたケースもあった。後に質問されたとき、広告を見たグループの3分の1はディズニーランドでバグズ・バニーに会ったことを覚えていた。また、切り抜きが置かれた部屋で広告を見たグループの40%も同様だった。被験者たちは催眠術にかけられたわけでも薬物を摂取したわけでもなかったのに、である。そもそもディズニーランドでデカい声で話すウサギに会うことはありえなかった――ワーナー・ブラザースとウォルト・ディズニーの弁護士がそれを許すことは決してありえないのだから。

偽の記憶を作り出すのは比較的簡単であるが、UFOの遭遇に関していえば、これは「諸刃の剣」となる。UFO事件やエイリアンによる誘拐について単に文章を読んだりしただけでも、それが睡眠麻痺や解離状態といった、珍しいとは言えないけれども普通とも言えない経験と結びついたら、「自分は何かしら現実の遭遇体験をしたのではないか」と疑う人がいるかもしれない。ヴィラス・ボアスに起こったのはこういうことだったのかもしれない。彼の体験は、現実には根拠のない鮮やかな幻想だった可能性がある。しかし、エリザベス・ロフタスの研究とネデルコビッチの証言を組み合わせると、また別の絵図が浮かび上がってくる。

ハンガリーの作家ラヨシュ・ラフは1959年、『洗脳マシン』という著書の中で、1953年に共産党に誘拐され、収容所の「マジック・ルーム」に連れて行かれた経験を描いた。そこには、薬物を投与された被験者を心理的に不安定にするため、ありとあらゆる仕掛けが施されていた。壁は丸く、家具は床に固定されていた。奇妙でサイケデリックな照明が用いられており、回転する色つきのジェルやレーザー光線のようなものもあった。さらにスクリーンには性的・暴力的な写真や映像が映し出された。ある時、ラフは性交している女性の映像を見せられたが、相手の男性の顔にはぼかしが入っていた。そのあと目が覚めると隣にはその女性が横たわっていて、フィルムの中の映像が実際に起こったことであるかのように話した、それから彼女はラフと性交した。「マジック・ルーム」では現実と幻想が曖昧にされた。その目的は犠牲者を心理的に「破壊」することだった。

ラフはアメリカに逃れ、議会で「洗脳」の実態について証言した。しかし、話はそれほど単純ではない。ラフは確かにハンガリーで拘束されている間、恐ろしい心理的拷問を受けたが、アメリカに政治亡命者として逃れてきた彼は、議会や大衆のためにその体験を誇張するよう促されていた可能性がある。彼の恐怖に満ちてセンセーショナルな著書『洗脳マシン』はその一環であったろうし、CIAの工作員によって書かれたものである可能性がある。それは冷戦期にはよくあるプロパガンダの手法であった。

しかし、ラフの「マジック・ルーム」が虚構であったとしても、MKウルトラは虚構ではなかった。CIAがアメリカのパルプSFや1947年以来発展してきたUFO神話に触発されて、心理操作を行った可能性はあるのか? 我々としてはこう言わざるを得まい。「おそらくはイエスだ」と。08←09→10






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さて、これまで割り箸を活用してハトよけテグスを張る作業を続けてきたところであるが、やはり割り箸を支柱にするのは耐久性からいってちょっとツラいのではないか。じゃあ支柱には細長い金属板を使ってみましょうかということで、前回までに一部試験導入をしたところであるが、今回改めて割り箸を全廃、金属板に全とっかえをすることにした。短い割り箸文明の時代は終焉し、ここに金属器文明が到来したのである!

今回使ったのは「KONTEC キレイ曲る板 500」という商品で、要するに長さ50センチほどの細長いステンレス板である。これは折り曲げが可能なので、クニャクニャした手すりに極力フィットするよう人力で押し曲げ、これをScotch強力両面テープ、それから今回購入したゴリラ強力補修テープ、さらには結束バンドなどを適宜用いて手すりにムリヤリ結びつけることにしたのである。






ちなみにこのステンレス板には穴がたくさん開いているので、テグスはこの穴に結びつければヨロシイ。釣り糸を結ぶのに用いられるというクリンチノットとかいう方法を試してみたが、なんかよく締まってるのかわからんので結び目にはエポキシ系接着剤をチョンチョンとつけておいた。
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最終的にテグスを張り回してピンと張ったあとの終端部も、釣り人にならってキッチリ結ぶのが良いのだろうが、最後めんどうくさくなってしまい、ゴリラの補修テープでその辺に貼りつけてオワリにした箇所もある。手抜きである。


さて、今回の作戦には若干の懸念もある。

写真でもお分かりだろうが、このステンレス板にはテグスによってかなりのテンションがかかっているので、若干たわんでいる。たわんでいって変形するとテグスが緩んでしまう。そういうことになると定期的に手入れをしなければならないのだ。しかし、ワレワレ市井の人間はありあわせの手段や道具でなんとかその場をしのいでいくしかないのである。レヴィ=ストロース言うところのブリコラージュ。頑張れオレ。

まぁそんなことはともかく、今回のテグス・プラスアルファの作戦として、こないだダイソーに行って「びっくりスネーク」というヘビのおもちゃも買ってきた(しかも4つw。適宜ローテさせればバカなハトも騙されるのではないかというアイデア)。これも適宜その辺に転がしたりしているので相乗効果が期待できよう。

*蛇足ついでに言っておくが、ググってみるとこの「びっくりスネーク」というのはハト害対策にずいぶんと活用されているらしい。ひょっとしたら誰かをビックリさすとゆー本来の役割よりもコッチのほうがメインになっているのではあるまいか。ともかく、病原菌をばらまく害鳥を敢えて保護し、ハトを殺傷したら人間に刑罰を課すという日本のキチガイ行政のせいで皆さんずいぶんお困りなのであろう。ご健闘を祈ります!


ということで今回のテグス作戦はコレでとりあえずオシマイ。また何か問題がでてきたら後日談でも書いてみよう。

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 ベランダ正面の手すり部分は、布団干しに使われることも想定してバネをつけて取り外せるようにした。ちなみにこのバネは、「ミツギロン」という会社が出しているハトよけテグスセットに入っていたヤツ(メルカリで安く出てたのでダメモトで「テグスコーナーバー」というのを買ったのである。手すりにはうまくつかなくてガッカリしたがバネは活用させていただいた

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壁面にはテグス折り返し用に割り箸片を貼っていたのだが、これも今回はずし、ダイソーで売ってた木片を切り出して代わりに壁に貼りつけてみた


【後日談】

このあとどうなったかというと、基本的にハトの侵襲は減ったのだが、それでもベランダ内にフンが落ちていることが数回あった。どうやって侵入しているのかはよくわからないのだが、いろいろ考えた結果、オレも業を煮やして最終手段を取ることにした。

実は、家にはだいぶ前に買ったハトよけネット(商品名でいうと「日本マタイ ベランダネット 30mm目 2.5m×5m HC00321」というヤツ)があったのだが、ベランダからの視界が悪くなるのではないかという懸念からここまでは使用を控えていたのだった。しかし、敵はあまりにしぶとい。最終的には完全封鎖をするより手段はないという考えに至り、試験的にコレを使ってみることにしたのである。
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本来はベランダの天井部分にフックのようなものを取り付けて吊すらしいのだが、めんどくさいので物干しをかける金具にヒモでしばりつけ、ベランダフェンスの向こう側に垂らすことにした。ちなみに手すり上に上下二段に張り渡したテグスであるが、下のほうのはネットを垂らすときに干渉してしまうので外したが、上の段のは水平にピンと張って生きている状態である。ベランダの端っこのほうはネットの横幅が足りずに物理的には侵入可能なのだが、そこはこのテグスがカバーする形となっている。

で、結果的にどうなったかというと、買ったネットは糸が透明だったということもあるのだろうが、しばらくすると窓から外を眺めてもあんまり気にならなくなった。もちろんハトの侵入はなくなった(ただしベランダのヘリにちょこっとフンが落ちていることはあった。これはたぶん上階のベランダにとまったハトがフンを落とした結果なのかもしらない。まぁこればかりはどうしようもない)。

ということでハトとの戦いもとりあえずここまで、である。ハトよけネット+侵入防止テグスの併用でとりあえず平和は訪れた。あと、ベランダのヘリには定期的に唐辛子スプレーの散布もしている(これは実際効果があるのかどうかよくわからない)。以上、このエントリーがハトとの戦いに悩んでいる方の参考になれば幸いである。(おわり)






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■CIA + ECM = UFOs

戦間期に生まれたレオン・デビッドソンは少年時代、科学分野でちょっとした天才の名をほしいままにしていた。彼は13歳の頃には早くも「僕は化学技術者なのだ」と宣言し、数年後にはコロンビア大学工学部の博士課程に進んでマンハッタン計画に携わることになった。彼は最終的にロスアラモス研究所の監督技師となり、核産業のためのコンピュータシステムに長年取り組んだ。その後の彼は、プッシュホンの技術にも早い時期から関心を示していた。

アイゼンハワーならば「軍産複合体」と呼ぶであろう世界で働く多くの科学者と同様、デビッドソンもUFO問題に魅了されるようになった。1949年にロスアラモスで働き始めて間もなく、彼は研究所内の空飛ぶ円盤グループ「天体物理協会」に参加したが、そのグループはニューメキシコ周辺で起きていた奇妙な緑色の火の玉の目撃ウエーブを調査していた。デビッドソンは、こうした火の玉は大気上層で秘密裏に行われているロケット研究に伴うものだと確信していた。この件について当局が説明することはなかったが、彼はほとんどのUFO事件の背後には軍事的な秘密実験があると徐々に信じるようになっていった。首都上空へのUFOによる領空侵犯を報じたワシントンポスト紙の一面記事で、デビッドソンは「空飛ぶ円盤に特別な関心を持つ科学者」として紹介されている。

    空飛ぶ円盤に関してきわめて詳細かつ科学的な研究をしているデビッドソン氏は、こう語った。「UFOというのは、おそらくは『円形の飛行翼』をもつアメリカの『航空製品』であって、それは急加速と比較的低速度での飛行を両立させる新型ジェットエンジンを用いている」。彼の考えによれば、UFOは「新型の戦闘機」か、さもなくば誘導ミサイルないしは有人誘導ミサイルであるという。彼は、革新的な「コウモリ型の翼」をもつ海軍の新型機F-4Dなど最近のジェット戦闘機に触れ、UFOのみかけはこうしたものに似ているのかもしれない、とした。 

こうして最初は疑念から始まったものが、1959年までには確信に変わっていった。この時の彼は、ワシントンに出没したUFOは巧妙に仕組まれた高度な電子対抗手段(ECM)技術のテストに起因するものだったことを示唆している。彼はUFO研究家向けのニュースレター「Saucer News」(1959年2-3月号)に「ECM + CIA = UFO」というイカしたタイトルのエッセイを発表し、1950年までにアメリカ空軍が利用できるようになっていた基本的なECM技術について説明している。

    我々の爆撃機に搭載された「ブラックボックス」は、敵のレーダー信号を受信し、それを増幅し修正して送り返す。要するに爆撃機からの通常のレーダー反射をかき消すようにして戻すのである。その際には時間をずらしたり位相が変えられることもあるし、レーダースクリーン上の「ブリップ」が示す距離、速度、方向が誤ったものになってしまうこともある。 

最も原始的なECMは「ウィンドウ」またはチャフなどと呼ばれていたが、実際には全く電子的なものではなかった。それは1943年7月、ハンブルクに対する破壊的な空襲のさなか、イギリス軍によって初めて用いられたが、実際には乗組員がアルミニウム片を束ねたものを飛行機から投げ落とすというものだった。ドイツが用いていたヴュルツブルク・レーダーの波長は53~54センチだったが、その半分の長さにカットされた金属片の雲は、偽のエコーを発生させることで敵のレーダーを使いものにならなくした。戦争が進むにつれて、軍用機には特定の波長・周波数のレーダー波やラジオをジャミングする、より複雑な電子システムが装備されるようになった。

これらはすべて混乱を引き起こすためのものであったが、デビッドソンが語っていたのはもう少し洗練されたもの――そう、「欺瞞」であった。彼は、こうした新たな手法が用いられた最初の事例は、南太平洋の南西諸島で戦時中に起きた出来事であったとしている。それは1945年4月。第二次大戦の最終局面で、沖縄侵攻の準備をしていた連合国軍が神経をすり減らしていた時期であった。この地域のすべての船舶は日本の特攻隊の標的にされることを恐れていたから、レーダー画面にブリップが現れると、それがどんなものであれ全乗員はデッキに飛び出して応戦する態勢に入った。しかし、時として、レーダーブリップは現れたけれども、それに該当すべき航空機が見当たらないという事態が起きた。この幽霊のようなレーダー反射、いわゆる「駆けていくゴースト」は、南西諸島に集結した艦船のレーダースクリーンに繰り返し現れた。これらのゴーストの少なくとも一部は、鳥の群れによって引き起こされたものだった。ペリカンが――ちなみにペリカンは後にケネス・アーノルドの円盤目撃事件の下手人ともされた――単独の航空機と誤認されることもあった。海軍の科学者は、多くの強力な海軍レーダーが近接して運用されていることがゴーストを引き起こした可能性があると推察し、そこから「意図的にレーダーファントムを作り出せればそれは敵を欺くための非常に有用なツールになる」ということに気づいた。


1957年3月の「アヴィエーション・リサーチ・アンド・ディヴェラップメント」誌の記事は、このゴースト技術が如何にして改良され、民生部門に導入されてきたかを論じている。

    標準的なレーダー表示装置上に最大6つのターゲットを生成できる新たなレーダー移動ターゲットシミュレーターシステムが開発された……その目的はレーダーオペレーターの訓練や、飛行中の空中早期警戒担当者のテストのためで……ターゲットの位置、経路、速度は……リアルな飛行経路をシミュレートできる……最大10,000ノット(約11,500マイル/時)の速度を示すものが容易に生成される……ターゲットは左または右に回転させることができる……各ターゲットについて……それぞれスコープ上にリアルな姿を現出させる調整機能がある。 

デビッドソンは、このように描写されたものが1952年7月にワシントンでレーダー上に現れたものと非常に似通っていることに気づいた。そして彼は、誰がそれを操作していたのかを「知っていた」。

    1951年以来、CIAは自らの目的のために空飛ぶ円盤の目撃を引き起こしたり後押ししたりしてきた。巧妙な心理的操作によって、一連の「ありきたり」な出来事が、地球外からUFOが来ていることの非常に説得力ある証拠として提供されてきた……(そうした企みの中には)当事者となったレーダー担当者が知らされぬまま内密にEMCが軍事利用されたケースもある。 

デビッドソンは正しかったのだろうか? それがCIAであったかどうかはわからないが、誰かがこうした技術を使ってパイロットやレーダーオペレーターをテストしていた可能性はあるように思われる。1957年に英国で発生した事件は、レーダーを用いた欺瞞の典型的なケースと思われる(その出来事によって一人のアメリカ人パイロットは恐怖に突き落とされた)。彼、すなわち25歳のミルトン・トーレス中尉は当時、ヨーロッパのアメリカ戦略航空軍団の前哨基地でもあったケント州のマンストン基地に駐留していた。5月20日、彼は約15マイルほど先にレーダーで捉えられたB-52爆撃機ほどのサイズの大型機を追跡するため(ちなみに同機の長さは約160フィート・幅は180フィートである)、F-86Dセイバージェットでスクランブル発進するよう命じられた。トーレスは、攻撃準備をして射撃する命令を受けたが、戦時中でもなければケント州の片田舎でパイロットがそんな命令を受けるなどというのはおよそ考えられないことであった。そこへ――これは彼が恐れていたことであったが――「その飛行機は敵であっておそらくロシアのものだ」という連絡が入った。

トーレスと、もう一機のセイバー機に乗った僚友は3万2000フィートまで常勝し、マッハ0.92(時速約700マイル)で巨大な物体に向かって突進した。トーレスによれば、その物体は空母ほどのサイズでありながら、彼のレーダースクリーン上では昆虫のように動き回っていた。彼は侵入者に向けて24発のロケット全弾を発射する準備をしていたが、彼ももう一人のパイロットもターゲットを目視することはできなかった。それは目に見えない飛行機だったのだろうか? 突然レーダー信号が消え、セイバーは基地に呼び戻された。

翌日、トーレスはトレンチコートを着たアメリカ人の訪問を受けた。彼はアメリカ国家安全保障局(NSA)から来たと言った。謎の男は、もし再び飛行機に乗りたいのなら口を閉ざしておくようにと警告した。そしてトーレスは30年間沈黙を守った。トーレスの話は、デビッドソンが記述したレーダー欺瞞の典型的な事例のように思われる(UFOの歴史の中には同様の話が数多くある)。謎のアメリカ人が本当にNSAから来たのかどうかはわからないが、NSAもCIAもこの技術に関心を持つに足る十分な理由はあった。そして両者とも、第三者に接触する際に他の機関のメンバーだと身分を偽ることを常套手段にしていた。

CIAとNSAは共同作業に取り組んでもいた。1960年代初頭までに、彼らは「パラディウム」と呼ばれるプロジェクトを開始していた。それは、ソビエトの航空機、船舶、潜水艦、地上レーダー、ミサイル基地をターゲットとして、電気(ELINT)・通信(COMINT)・信号(SIGINT)のかたちで情報をアメリカに取り込もうというものだった。冷戦の初期には、こうした情報は「カラス」と呼ばれるパイロットによる危険な「フェレット」ミッションを通じて収集された。「カラス」たちはソ連の領空の外縁を探り、防空システムを起動させることでできるだけ多くのデータを地上レーダーや通信システムから収集しようとした。

パラディウムは、より安全にデータを収集できる画期的な技術を生み出した。この技術によってCIAは幽霊飛行機をソビエトのレーダーに浮かび上がらせることが可能になり、NSAはその間、こうした幻影がどのように探知され、追跡され、報告されるかを監視した。こうした幽霊飛行機はどんな形やサイズのものでも作り出すことができたし、どんな速度や高度でも飛行させることができた。

電気シグナルの専門家で元CIAのユージーン・ポティートは、キューバ危機の際に敢行された手の込んだ作戦について語っているが、そこではパラディウムのシステムと、潜水艦からパラシュートをつけた金属球を発射し、キューバのレーダーを混乱させる作戦が平行して用いられた。ポティートのCIAチームは、レーダー上の幻影をキューバの空域に「飛行」させ、その「侵入者」に向けて戦闘機を緊急発進させるよう仕向けた。CIAはパラディウムシステムを用いて幽霊航空機をキューバの戦闘機の前方に出現させ、ちょうど良いタイミングが来るのを待ち受けた。キューバのパイロットがゴースト機を撃墜しようとしているのを探知した瞬間、NSAのチームは「全員が同じ考えを抱いた。エンジニアはスイッチに指を伸ばした。私が『よろしい』とうなづくのを見て、彼はパラディウムシステムをオフにした」 

エドワード・ランズデールのアスワン(先述した「フィリピンの神話に登場する吸血鬼」のことだ)は、今や航空機となった。軍が関わり、UFOがレーダーで捕捉された初期の事件の中には意図的に偽装されたものがある。その目的は、レーダーオペレーターやパイロットがこうした異常にどのように反応するかをテストし、心理戦のシナリオにおいてこうした技術がどれだけ使えるかを試すことだった――そんな風に考えるのは理にかなっているように思われる。しかし、レオン・デビッドソンはさらに一歩進んで考えた。彼は、パラディウムというのは政府が究極の目的を達成するための一つの道具に過ぎないと考えた。すなわち、未確認飛行物体を地球外から来た宇宙船へと変貌させ、エイリアンの侵略をでっちあげるという目的のために――ちょうどバーナード・ニューマンが『空飛ぶ円盤』で描いたストーリーのように。

■神話をつくる

1952年7月のワシントン上空での空飛ぶ円盤事件は、UFOの歴史における決定的な転換点になった。この事件は、CIAがかつて心理戦略委員会(PSB)に警告したような混乱を引き起こし、同時にCIAがUFO問題に介入する格好の理由を与えた。一方、この事件は世界中で報道されたが、それはちょうどこの問題への関心が英国でピークを迎えた時期でもあった。

しかし、その時点でアメリカは「エイリアンの侵略ありうべし」という雰囲気になっていたのだろうか? 1952年4月、アメリカで最も人気のある雑誌『ライフ』は、「我々は宇宙からの訪問者を迎えているのか?」という記事を掲載した。ちなみにこの号の表紙には、どんなアメリカ人男性もあらがうことができなかったであろう、若くて魅力的なマリリン・モンローがフィーチャーされていた。さて、この記事は、次のように始まっている。「空軍は今、あまたの円盤や火の玉の目撃について説明がつかないことを認めざるを得ない状況にある。そこでライフ誌は、惑星を超えてやってきている円盤が実在するという科学的な証拠を提示してみせよう」。記事はそのクライマックスで、太字を使って以下のような主張を展開している――円盤は自然現象ではなく、アメリカやロシアの秘密航空機でもなく、風船でも心理的なものでもない。従ってそれは宇宙から来たものであるに違いない、と。

著者であるH.B.ダラク・ジュニアとロバート・ジンナは、この記事に関して、空飛ぶ円盤の話題を抑え込んでいたはずのアメリカ空軍と1年間にわたって協議を重ねていた。それだけに、この断固としたET仮説支持のトーンは驚きであった。デビッドソンは疑問に思った。空軍が望んでいないのに、アメリカで最も評価の高い雑誌がそのような記事を掲載することなどできるのだろうか? ルッペルトによれば、ジンナは空軍の高位の人々と話をしており、その意見は記事に反映されていた。しかし、それは空軍の戦略だったのか? それともタイムライフのオーナーで、CIAやPSBと親密な関係にあるヘンリー・ルースの指示によるものだったのか? ジンナとダラクは誰のゲームプランに従っていたのだろう?

『ライフ』の記事が空飛ぶ円盤の研究に「真っ当なもの」というイメージを与える一方、ET仮説を後押しし、さらにこの現象について洪水の如き報道がなされることに寄与したことは疑いない。ルッペルトによれば、1952年の最初の6か月間で、148のアメリカの新聞が6000以上のUFOに関する記事を掲載していた。

これは誰かが故意に円盤ヒステリーを煽り、7月に起きる壮大なるワシントン上空の領空侵犯に向けて前奏曲を奏でたのだろうか? デビッドソンは、ワシントンでの目撃ウエーブは大がかりなレーダー偽装事例の一つでありデモンストレーションであったと確信していた。この考えを第三者的に眺めてみるならば、なおパラノイア的ではあるけれども、それほど狂っているとも言えないだろう。1952年までにCIAがUFO現象に強い関心を持つようになっていたことは間違いないし、彼らがそうするのは完全に理にかなっている。1945年にまでさかのぼるレーダー偽装の技術を踏まえれば、1957年の時点で、レーダー上に幽霊飛行機を作り出して制御する技術というのは、相応の対価を払ったものには誰でも利用可能だった。ワシントン事件の直後にサムフォード将軍がニューヨーク・タイムズに述べた声明は、故意にレーダーが操作された可能性を示唆するものとも解釈できる。「我々はレーダーについてますます多くのことを学んでいる最中だ……レーダーは、最初に設計された目的とは異なるトリックを行うこともできるのだ」。デビッドソンは、首都防衛の任務を負った空軍の迎撃機は通常ワシントンDCから4マイル離れたアンドリュース空軍基地に配備されているが、この領空侵犯があった月には、90マイル離れたデラウェア州ニューキャッスルに移されていたと指摘している。これはアンドリュース基地の滑走路が修理されていたためとされるが、ともあれこれによって迎撃機の現場への到着はかなり遅れてしまった。

しかし、ワシントンの目撃が偶然ではなかったことを示す最も明確なヒントは、プロジェクト・ブルーブックのエドワード・ルッペルトに与えられていた。それはワシントンDC上空での出来事が始まる数日前のことだった。航空会社の乗務員が奇妙な光を目撃する出来事が相次いでいたことから、ルッペルトは「名前を明かせない機関」のある科学者(デビッドソンはこれがCIAだと推測していた)とUFOについて2時間議論をした。その終わりに、科学者は一つの「予言」をした。「数日のうちに……連中は大爆発を起こす。それで人々はUFO目撃の決定版みたいなものを目にするだろうね……場所はワシントンかニューヨークだが、たぶんワシントンだ」 

数日後、それは実際に起こった――その科学者が言った通りに。ルッペルトが彼の著書で言っているように、空軍情報部はワシントン事件についてツンボ桟敷にあった。そして、前述のように彼自身は事件の2日後に新聞で初めて事件を知った。その後、ルッペルトが事件を直接調査するためワシントンに行こうとしたが、スタッフカーを借りることはできなかった。「出発しようとするたびに、何かもっと緊急なことが起こった」と彼は書いている。  かくて空軍のUFO調査主任は、空飛ぶ円盤の歴史の中で最も劇的な事件に現場で立ち会うことができなかった。ルッペルトが後に回顧したところでは、ワシントンの領空侵犯についての報告をまとめるのには1年がかかったが、タイムリーにワシントンに到着していればそれは1日で済んだ。まるで誰かが彼の仕事を妨害しようとしているかのようであった。「空軍が何をしているのか、私は全く分からない」。彼は後にライフ誌のジャーナリスト、ロバート・ジンナに語った。

■ストークが知っていたこと

もしワシントンの騒動が仕組まれたものであったなら、その責任を負うのは誰で、その目的は何だったのか? 議論を呼ぶであろう仮説は、1953年1月9日、ハワード・クリントン・クロス博士からマイルズ・ゴル大佐を経由してエドワード・ルッペルトに送られたメモの行間に見いだせるかもしれない。 クロスはバテル記念研究所で働く冶金学者で、この研究所は材料科学に特化した民間の研究機関であったが、その当時はプロジェクト・ストークというコードネームでアメリカ空軍のUFOデータを処理する仕事を請け負っていた。一方のマイルズ・ゴルは、米空軍の技術移転部門の分析主任であった。冶金学者のクロス。ハードウェアの専門家であるゴル。UFOの専門家であるルッペルト。この三者が関わっていたということは、空軍がUFOについてどう考えていたかはともかく、軍はその技術的側面に関心を寄せていたことを明確に示している。

そのメモは「機密」指定されたものだったが、ここにはCIAのロバートソンパネルが1週間以内に開かれる予定であり、プロジェクト・ストークとアメリカ空軍の航空技術情報センター(ATIC)は「その会合で議論できること、議論されるべきでないこと」を事前に話し合うべきだと指摘している。この記述は、空軍がCIAに対してUFOに関する情報を隠す用意をしていたことを示唆している。しかし、どの情報を隠そうとしたのか? 隠そうとしたのは、プロジェクト・ストークがいまだUFO問題に対して満足のいく答えを持っていないということだったのかもしれない。アメリカ空軍内部で作られた他の報告書が見いだしたことをなぞるようにして、クロスはこう記している。「我々が今日まで未確認飛行物体の研究を重ねてきた経験から言えることは、信頼するに足るような使えるデータは明らかに不足しているということである」(訳注:ここでクロスのメモと言われているのが即ちジャック・ヴァレのいう「ペンタクル・メモ」である)

クロスはCIAに対し、空軍は事態を把握していないと伝えるのを恥じたのだろうか? おそらくそうなのだろう。しかし、彼の次なる提案は、全く別の陰謀的なトーンを見せている。ここでクロスは、プロジェクト・ストークの一環として「信頼すべき物理データを得るために、コントロールされた実験を実施すること」を推奨している。その計画というのは、UFOの目撃が多い地域に観測拠点を設置し、そこから天候のパターン、レーダー反射、UFOと誤認される可能性のある特異な視覚現象(風船、航空機、ロケット実験など)を詳細に記録しようというものだった。クロスは書いている。「そのエリアでは、様々な種類の空中を舞台にした活動が極秘のうちに、かつ意図をもって計画されるべきである……そうすれば、軍人など公職に就く者からの報告のみならず、これを目撃をした普通の市民からの報告も山のように寄せられることだろう」。要するにクロスは、UFO事件をでっち上げ、その結果どういうことが起きるかを見てみようと提案しているのだ。彼は、その「空中での活動」は他の軍関係者に事の次第を知らせずに行う手もある、とまで言っている。「このようにして仕込まれたデッチ上げはまず間違いなく偽りであることが暴露されるだろうが、それが確実に知れ渡るのは軍内部に限られ、公に表に出るようなことはないだろう」

かくてクロスは、そうした実験は米空軍が空飛ぶ円盤という「問題」についてハッキリした結論を得る上で役に立つだろうし、さらなるパニックが起きた際、UFOの報告――とりわけ一般大衆から寄せられた報告をどれだけ真剣に受けとめるかを決める上でも助けになるだろう、と結論づける。そして最後の下りは、空軍はUFO問題を取り扱う際に何を優先させようとしているのかを明らかにしている。「空軍は将来のしかるべき時点で、大衆を安心させるため、すべてはコントロール下にあるという意味の、ポジティブな声明を発することができるよう心せねばならない」

当時のUFO報告の中には、ストークが仕込んだものとおぼしき多くの事件が含まれている。そのような事件が、北ヨーロッパ沿岸での大規模なNATO合同演習「メインブレイス演習」の間に起きた。ルッペルトは回顧録で、1952年9月に演習が始まる前、ペンタゴンは「半ば真剣な調子で」海軍情報部にUFOに注意するよう指示したと述べている。実際、メインブレイス演習では、2件の刮目すべきUFO目撃が報告されており(うち1件では写真も撮影された)、それらはいずれも大きな銀色の風船のように見えた。しかし、調査の結果、どの部署からも「それは当方の責任です」との返答はなかった。これはストークが速達でも出したということなのだろうか?(訳注:ストークがニセUFOを飛ばす指令を発した、といった意味か?)

クロスのメモは、アメリカ空軍が空飛ぶ円盤の謎の核心を理解するのにまだ苦しんでいたことを示している。これとは別の内部メモも示していることであるが、ロズウェルだろうがアズテックだろうが他の場所であろうが、彼らがどこかに墜落した空飛ぶ円盤を保持していたことなどありえないのは明らかなのだ。では、なぜ空軍はUFOに関する情報をCIAと共有するのを制限しようとしたのだろうか? それは、空軍がいまだ確たる結論を得ていないのに、CIAが何らかの結論に至るということを望んでいなかったからかもしれない。それは空軍と海軍の間にもあるような、組織間のライバル意識を反映していたのかもしれない。さもなくばバテルと空軍は、UFO問題をCIAに押し付けてしまうためには、CIAに知らせることなく自分たちだけでUFO事件をデッチ上げるのが良いと考えたのかもしれない。確かに首都空域への領空侵犯事件をデッチ上げるなどというのは、今日では無責任に過ぎると思われるし、実際そうなのだが、ともかくこの事件は政府の中心部に強力なメッセージを送ることができた。それは同時に「UFOについては空軍が『すべてをコントロール下に』置いている」ということも示したのだった。

ワシントンでの事件は、最終的にCIAがUFOを真剣に受け止めるきっかけとなった。ロバートソン・パネルの側にはとりわけ懸念していたことがあった。前年7月のようなことがあって、ソビエトが偽りの標的を用いてアメリカのレーダーと通信のシステムをオーバーフローさせてしまうのではないか――しかも最悪のシナリオでは、それは核攻撃のプレリュードともなりうるのだ。しかしそうなると、パネルの参加者から「そのようなニセの標的を作る技術は既にあって、それがワシントンでの騒動を引き起こした可能性がある」といった指摘がなかったのは奇妙に思われる。これはクロスがCIAから隠したかったことの一つだったのだろうか? 仮にそうだとしたら、やがて起きる騒動についてルッペルトに警告した所属不明の科学者というのは、レオン・デビッドソンが疑ったようにCIAから来たわけではなく、バテル研究所の人間だったのではないか?

少なくともアメリカ空軍の一部は何が起きているのかを知っていたのではないか。ワシントンでの事件後の記者会見を主導した空軍情報部長のジョン・サムフォード将軍が、1956年に国家安全保障局(NSA)の2代目局長に就任したという事実はひょっとしたらそれを示唆しているのかもしれない。NSAは国際間の通信を監視していたし、先に述べたように、CIAと連携して日常的にパラディウム・システムを使用していたのである。

レオン・デビッドソンは、ロバートソン・パネルで何が議論されたのかハッキリ知らなかったし、クロスのメモについても知ることはなかった。しかし、1952年7月の出来事がレーダー欺騙技術によるものだと確信していたし、それが正しいか間違っているかは別として、UFO現象の背後に誰がいるのかについては自分なりの考えを持っていた。彼は、プロジェクトを指揮していた人物としてCIAのアレン・ウェルシュ・ダレスを挙げている。合衆国国務長官ジョン・フォスター・ダレスの弟でもあった彼は、1953年から1961年まで、まるで私領のようにCIAを支配していた。文民として初めて長官に就いたアレン・ダレスは戦時中の諜報活動に深く関わっており、V-2ロケットの開発者ヴェルナー・フォン・ブラウンを含むドイツの科学者を「プロジェクト・ペーパークリップ」の下でアメリカに秘密裏に移入するのも監督していた。

ダレスは、冷戦の初期のアメリカの舵取りに貢献した。ワシントンの領空侵犯事件の数日後、心理戦や秘密作戦を担当する「汚いトリック」部局としてCIAに作戦本部(Directorate of Operations)が置かれたが、これもダレス指揮下でのことだった。この作戦本部は、国際社会の現状維持に務めるアメリカの役割を保持・発展させていくため、重要にして悪名高い存在となっていった。また、デビッドソンの指摘するところでは、ダレスは哲学者カール・ユングの親友にして、崇拝者でもあった。ちなみにユングは1959年、先見の明を発揮して神の如き存在としての空飛ぶ円盤についての本を執筆している。この二人が1950年代初期に皆が関心を寄せていたテーマ、つまり空飛ぶ円盤について議論をしていたことは疑いない。デビッドソンは、UFOをめぐるストーリーが展開して新たな段階に入っていく時、その背後にはいつもCIAがいて、その黒幕はダレスであったと確信していた。彼はこう記している。「ダレスは『善良なエイリアンは過去数千年にわたって地球を訪れてきた』という神話を信奉していた」。そして「奇術師の手品、トリック、ショーマンシップ」を用いて、よくある誤認や軍用機の目撃をエイリアンの目撃、着陸、コンタクトに変えてしまったのだ、と。

では、なぜダレスとCIAは「宇宙からの訪問者」説を推進しようとしたのだろうか? UFOというのは、CIAが秘密裏に進めている心理的・政治的作戦、さらには高度な軍事テクノロジーを隠すのに丁度良いものだったのだ。UFOの神話を広めれば、ロシア人たちは空飛ぶ円盤の物語を調査し――もっといえばアメリカが自らの手で高度な円盤型航空機を飛ばしている可能性を調べるために時間やリソースを消費してくれる可能性があった。

三つ目の理由はユングの考えに由来するもので、それはバーナード・ニューマンの小説『空飛ぶ円盤』のプロットからもきている。

第二次世界大戦が現前させた黙示録的な恐怖は、多くの人々をして「神は人間を見捨て、我々を悪しき発明の下に投げ出した」と感じさせるに至った。我々は、新たな宗教としてのテクノロジーが倫理に取ってかわった新たな時代に突入し、もはや原子爆弾よりも高次のパワーというものはありえない。そう感じるようになってしまった。しかしそこでユングは、欠けるところがなく円形をした空飛ぶ円盤の形状に、神の如き完全性を示す現代的な象徴を見てとった。我々を超越する高次の権威が存在し、それが空飛ぶ円盤を飛ばしている――そのような信仰は 人類に定められた自滅を押し止めてくれるのではないか?

ダレスは、このような信仰を煽るために洗練されたトリックを使っていたのだろうか? しかし、その「高次の権威」というのはいったい誰――というか何だったのだろうか? 彼らは我々に何を伝えようとしていたのだろうか? 
07←08→09


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■第6章 ワシントンvs.空飛ぶ円盤
    「象徴というものは、相手が納得してしまう流れを示してみせれば良いのである。象徴は、騙す相手の内面に確固としてあり、彼があらかじめ受け容れている観念を伝えねばならないのだ……それはあたかもスポーツフィッシングの釣り人が、ルアーをたやすくゲットできるエサにみせかけるために、匂いや動き、色彩をそれらしく見せるのと同じようなものである」 ――『欺瞞分析入門:心理作戦の標的となる聴衆の分析』(リエカ・ストロー中佐、ジェイソン・ウェンデル少佐。 『イオスフィア』 2007年秋号より)

1952年の初め、CIAのウォルター・B・スミス長官は心理戦略委員会のレイモンド・アレン長官に次のような書簡を送った。
    私は本日、「未確認飛行物体に関連する諸問題というのは、諜報活動や諜報作戦のみならず、心理戦においても重要な意味を持つ」と結論づけた提案文書を国家安全保障会議に送付しました。私は早期に会議を開催し、心理戦のためにこうした現象を攻撃・防御の両面で利用できるかどうか、その可能性を議論したいと考えています。 

スミスは、1951年の後半、空飛ぶ円盤に対する大衆の関心が劇的に増していく状況に対峙していたのだが、それは急激な目撃報告の増加へとつながっていき、その報告の多くは軍隊の内部から寄せられるという事態を呈していた。それと同時期、米空軍のプロジェクト・グラッジのチームは円盤の問題を軽視する方向でうまいこと仕事を進めつつあったが、それが故に彼らはどう考えても首を捻らざるを得ないような事件をも無視しようとした。そうした事件の一つ、つまり同年9月にニュージャージー州フォート・モンマス陸軍基地で起きたパイロットとレーダーオペレーターによる目撃事件は、空軍の高官たちを動かすきっかけとなり、1952年3月、グラッジはプロジェクト・ブルーブックへと改編された。この改編は空飛ぶ円盤の「当たり年」にかろうじて間に合った形となり、目撃報告は同年6月から10月の間に886件に及び、夏のピーク時には一日に50件が寄せられるほどであった。ブルーブックの責任者であるエドワード・ルッペルト大尉は(ちなみに彼は「未確認飛行物体」という言葉を作った人物だ)は、この数字は1947年以降に空軍が受理した総件数より149件多いものだったとしている。

ルッペルト自身はフォート・モンマスでの目撃事件はバルーンによるものと考えていたが、この事件に続いて、空軍はJANAP 146(B)を発した。これはすべての軍隊に向けた指令の拡張版とでもいうべきもので、未知の飛行機を目撃した際は国防長官、防空司令部、最寄りの米軍基地に報告するよう指示していた(ちなみに国防長官は次いでCIAに報告を転送することになっていた)。さらにUFO事件に関する情報を許可なく公開することは犯罪とされ、最高で懲役10年と1万ドルの罰金が科されることになった。ソビエトがアメリカの一挙手一投足を監視している状況にあって、UFOは――ここでいうUFOには極秘のバルーンやミサイルの発射、開発中の航空機の飛行も含んでいたが――諜報や安全保障上の問題になりつつあり、コントロール下に置かれるべきものともなっていた。

ウォルター・スミスの懸念はやがて薄気味悪いほど的中することになった。UFOをめぐる状況は1952年7月の2夜、当惑を強いるような、そして潜在的には破滅的となってもおかしくないクライマックスを迎えた。数多くの非確認物体がワシントンDC・ナショナル空港のレーダー画面上に現れたのである。その最初の夜、すなわち7月19日から20日にかけての真夜中、首都から15マイルの位置で7つの物体が捕捉された。それらは時速約100マイルでホワイトハウスに向けて徐々に近づいていた。近くのアンドルーズ空軍基地からも明るく光るオレンジ色の球体一つが目撃された。その場にいた空軍兵によれば、それは「円を描くような」動きを見せ、それから「信じられない速度で」飛び上がって消え去った。このほか近くを飛行中だった旅客ジェット機のパイロットからも、白く輝く高速の光が6つ目撃されていた。

未確認物体の目撃とレーダー上での捕捉は午前3時まで続いていた。ここで、物体を子細に観察すべく迎撃機2機が飛び立ったところ、その時点で残っていたUFOは空から消え、レーダーからも消えた。ところがジェット機が燃料不足で帰投するや、物体は再度出現した。そのため、民間航空局の上級航空管制官のハリー・バーンズは、その正体はどうあれ、このUFOは無線交信を受信し、それを踏まえて行動しているのではないかと思った。バーンズはこの出来事について空軍の上級幹部の注意を促そうとしたが、それは無視されたように思われたため、彼の苛立ちは倍加した。空軍内の誰かはいま何が起きているのかを知っているのではないか――そんな疑惑を膨らませるようなこともあった。ブルーブックのエドワード・ルッペルトは、二日後に新聞の一面を読むまで、この出来事について全く知らされていなかったのだ。

未知の航空機が米国の空域に侵入するなどということは今日の我々にはありえないことと思われるかもしれないが、その出来事がいかなる騒動を巻き起こしたかは想像に難くない。それは「パールハーバー」から11年後のことで、アメリカ軍の記憶の中でその傷はまだ真新しかった。さらに言えば、1952年の時点で、そうした侵入がもたらす危機の大きさは1941年の頃よりはるかに大きなものになっていた。ソビエトはその時点で原子爆弾を3発爆発させていた。その夜、ワシントン上空に現れた7つのUFOのうちには、彼らが作った「ファットマン」や「リトルボーイ」を搭載したロシアの爆撃機がいたかもしれないのだ。そして、7月26日にUFOは戻ってきた。この時はレーダー上に12機が映し出され、それ自体はさほど驚くべき速度ではなかったが、時速100マイルで飛行していた。前回同様、光は航空機上からも地上からも目撃された。さらにこれも同様に、ジェット機2機が迎撃に飛び立った。あるパイロットは、4つの白く「輝くもの」を追跡したが、それらは突然「こちらに飛んできて飛行機の回りを取り囲んだ」。だが結局のところUFOの正体はこの時も明らかにはならなかった。

メディアはまたも大騒ぎを始め、ペンタゴンでは空軍の記者会見が開かれた。その規模は第二次大戦以降で最大のものとなった。ルッペルトは1956年に刊行した回顧録『未確認飛行物体についての報告 The Report on Unidentified Flying Objects』で、大混乱に陥ったその場の状況を描いている。空軍情報部のジョン・サムフォード将軍はその目撃について何か言質を取られることを避けつつ、このUFOは「誘導ミサイルだとか秘密裏に開発されたアメリカの飛行機だとかではない」と言って人々の恐怖を和らげることに全力を挙げた。直截に「その物体はアメリカの秘密兵器か」と問われた時、サムフォードは遠回しで謎めいた返答をした。「質量をもたず、無限のパワーを出すようなシロモノは持っておりません」。次いで現れたのはライト・パターソンの空軍技術情報センター(ATIC)から来たレーダーの専門家、ロイ・ジェームズ大尉だった。彼は、少なくともレーダー反射の幾つかは気温逆転によるものだとした――つまり地表近くの冷たい空気の上に、温かく水蒸気の多い空気層が出来る現象で、こういう時にはレーダーが地上レベルにある蒸気船のような巨大な物体の反射を拾ってしまうことがあるのだ、とした。ルッペルトたちはこの説明に納得しなかった。が、報道陣はこれを受け容れた。

この二度にわたる領空侵犯は、その前年に大当たりした映画『地球が静止するた日 The Day the Earth Stood Still』に描かれた出来事と気味が悪いほど似ていた。この映画では、善意のヒューマノイド型エイリアン、クラトゥの操る空飛ぶ円盤がその姿を見せ、次いでワシントンDCに着陸することでパニックを巻き起こした。一方、現実のワシントンでの目撃事件は全国の新聞で一面の記事になり、凄まじい目撃報告の波を生み出し、ルッペルトとブルーブックの仕事を激増させた。全米からの目撃報告は空軍に殺到し、その数は7月だけで536件にも達した。その結果、空軍内部の通信には支障が出るほどだったし、扇情的な記事でメディアは埋め尽くされた。大西洋の向こうでは、この大波が英国の首相ウィンストン・チャーチルの興味を引きつけていた。彼は顧問に渡したメモでこんなことを訊ねていた。「いったいこの空飛ぶ円盤というのは何なのだ? 何を意味しているのか? 真実は何なのか?」 

こうした動きはCIAをいらつかせた。何か手を打たねばならない。CIAがUFO問題に首をつっこまねばならない時がやってきたのである。CIAのUFO調査に引き入れられたのは応急情報室(Office of Current Intelligence)、科学情報局、そして武器装備部門だった。1952年8月、CIAの代表者たちは、そのカウンターパートに当たるライトパターソンの空軍技術情報センターの面々と何度も極秘の会談を行った。最も重要だったのは、日増しに疑念を膨らませている大衆からCIAがUFO問題に関わっているのを隠すことだった。「サイレント・グループ」が「陰謀」や「隠蔽」をくわだてているといった話は既に広まりつつあった。その立役者はドナルド・キーホー。彼が1949年に「トゥルー」誌に書いた記事は『空飛ぶ円盤は実在する Flying Saucers are Real』という本になってバカ売れしていたのである。CIAがUFOに関わっていることが知れたら、こうした疑念が裏付けを得てさらに広まってしまうことは明らかだった。

CIAが調査にあたって作ったブリーフィングペーパーは、この組織が――さらにいえば国を司っている人々が――UFO問題や他の世界をどう見ていたのかを明らかにしている。同時にそれは、半世紀以上前にこの件で提起された問題は、今もほとんど変わらず残っていることをも示している。そのペーパーはまずUFOについて主要な作業仮説4つを検討している。「その物体は米国の機密の航空機である」「それらはロシアの航空機である」「UFOは地球外起源のものである」。そして最後に「それは既知の航空機や自然現象の誤認である」。ペーパーに記されているところでは、CIAの職員たちは最初の仮説、つまりは秘密の航空機説を追ってとても高いレベルにある人々にまで当たったのだが、目撃報告を現在進行中のプロジェクトのせいにすることはできないというところに結論は落ち着いた(彼らがこの時点で気づいて然るべきだったこともある。CIAはそれから3年のうちに、当時最高機密だった偵察機U-2を飛ばすことになり、それはUFOの目撃報告の相当数を占めることになる)。彼らはこんな指摘もしている。仮に空軍がウソをついているとしたらどうか。しかし得られている証拠はこの仮定にそぐわない。米空軍がきわめて貴重な新しいオモチャをもっているのなら、なぜそれに対して自軍のジェット機でスクランブルをかけるようなリスクを負うのか。そして、そんな航空機を首都上空で公然と飛ばすという信じられないリスクを冒したのは何故なのか。

ソビエト機による領空侵犯説にも同様な疑問が生じた。CIAは、アメリカ同様、ロシアの技術者たちも楕円形や三角翼の飛行機の設計が可能かどうか研究していたことを知っていたが、そのような飛行機を飛ばす技術的な進歩がみられた兆候はなかった。むろん、ロシアがそうした飛行機を敵国の首都上空で飛ばすと考えた時点でこれは気違い沙汰なのであるが。さらに言えば、偵察プロジェクトとしての領空侵犯が行われたというような形跡もまた全く認められなかった。

「全く支持されなかった」もう一つの説として、ロシアはバルーンを米国上空に飛ばし、報道を通じてその航路を記録しているのではないかというものもあった。実のところ、同様に「およそありえない」と考えられていたけれども、実際には現実のものとなってしまった前例はあった。領空侵犯した日本の風船爆弾「フグ」は、1945年に米国の市民を死亡させていたのである。「火星から来た男」説についてCIAは、「知的生命体はどこかに存在しているかもしれない」が、そうしたものが地球を訪れているという説を支持する天文学上の証拠はないとし、さらにその目撃パターンも軍事的観点からみると全く意味をなさないとした。この結論は、その4年前にランド・コーポレーションのジェームズ・リップが到達したのと同様なものであった。

かくて第4のオプション、すなわち「UFOは一連の誤認によるものだ」とする選択肢が、最もありそうな答えとして残った。これはまた、プロジェクト・グラッジの閉鎖以来、空軍の公式見解となっていたものでもあった。このような点を踏まえて、ブリーフィング・ペーパーは、報告をしてくる人々というのは多くの場合、思い込みに捕らわれすぎたのだとした。誤認された物体はほぼ常に空を背景として目撃されたが、その大きさ、速度、距離、動きなどを見積もるために参照できるものがなかった。一連の心理学的要因もまた多くの目撃を意味づけるために持ち出された。つまり、メディアの報道(CIAはこれをオーウェル流の言い回しで「心理的条件付け」と呼んだ)、事実を脚色したり捏造することで注目を浴びたいという潜在的な欲求、見慣れないものに出くわした時に生じる情緒的反応といったものである。

1952年9月24日、CIAの科学情報局担当次官補であるH・マーシャル・チャドウェルは、ATICの会議内容をまとめた報告書をウォルター・スミス局長に送付し、会合から導き出された結論を概説した。その内容は、ここでほぼ全文を引用するに値するものだ。

    空飛ぶ円盤をめぐる状況は危機的な二つの要素をはらんでおり、それらは緊張状態にあっては国家安全保障にかかわる意味を有するものとなる。すなわち――
    a)心理的要素:空飛ぶ円盤が世界中で目撃がされている中にあって、調査が行われた時点に於いてソビエトではこれについての如何なる報道、コメントも見られず、風刺めいた話題すらなかった……国家にコントロールされた報道にあっては、その内容はもっぱら公的な政治決定に従うものとなる可能性がある。従って、この種の目撃について以下のような疑問が生じる。
    1)目撃はコントロールできるか
    2)目撃は予測可能か
    3)目撃を心理戦の観点から攻撃ないし防御のために利用することは可能か
    この現象に関する大衆の関心は米国のメディアに影響を与え、空軍への問い合わせの殺到といった事態を巻き起こしているが、これが示しているのは、国民の相当な部分は信じがたいものを受け入れようという心理的条件づけを受け入れているということである。この事実が明らかにしているのは、ここには集団ヒステリーやパニックを引き起こす潜在的な可能性があるということだ。
    b)空の脆弱性:合衆国の空中警戒システムが、今後レーダーと目視観測の組み合わせに依存していくであろうことは間違いない。ソビエトは現時点で合衆国を空爆する能力を有している……攻撃があった場合のことを考えると、我々が現時点で幻影と実体あるものを即座に区別できないのは明らかである。そして緊張が高まっていくにつれて、我々が誤警報に見舞われるリスクは増えていくだろうし、実際の攻撃を誤って幻影とみなしてしまう危険性はさらに大きくなっていく。

チャドウェルは、ソビエトが空飛ぶ円盤について何を知っているかを調査するよう指示しつつ、次のように結論づけた。すなわち「研究は以下の事項を念頭に置いて進められるべきである。アメリカの心理戦のプランナーたちはこうした現象をどうやって利用すればいいのか。こうしたものを活用しようとするソビエトに備えて、どのような防衛策を計画すればいいのか」。かくて彼が最終的に提唱したのは、「パニックのリスクを最小化するために」その現象を大衆が如何に受けとめるかを自分たちが管理すべきだということであった。

ウォルター・スミスはこの時点で腹を決めた。CIAは1953年1月、核物理学者、レーダーとロケットの専門家、他の空軍関係者、および天文学者から成る秘密のパネルを招集した。ペンタゴンの兵器システム評価グループの責任者であるハワード・パーシー・ロバートソン博士が率いるこのグループは、非常に長い昼食休憩を取りながら、UFO報告を聴取し、未確認物体のフィルムを観察し、この現象を解明し得る説明を求めて四日間を過ごした。彼らの結論は、1966年まで一般に完全には明らかにされなかったが、チャドウェルの先の報告が懸念していた点に的確に応じたものとなっていた。

ロバートソン・パネル報告書は軍に対し、その要員を訓練して、通常見かけることのない光る人工物や自然現象(流星、火球、蜃気楼、雲など)といったものを肉眼でもレーダー上でも識別できるようすべきだと提言した。報告書にはこう記された。「このような訓練により、誤認やそれに伴う混乱に起因する報告は著しく減少するはずだ」。一般の人々に関しては、彼らの関心を弱め、ソビエトの「巧妙な敵対的プロパガンダの影響力」を減らすために、"debunking"(誤りの暴露)プログラムが設定されるべきだとされた。「手品のトリックの場合のように、『タネ』が知られている場合の刺激ははるかに少ない」と報告書は述べている。こうした教育の実施方法についても興味深い提案があった。彼らはディズニーのアニメーションや第二次世界大戦中に訓練フィルムを制作したジャム・ハンディ・カンパニー、および海軍の特殊デバイスセンター(現在の海軍研究所)を利用して、航空機の識別訓練を行うことを提唱していた。

地区住民の心理的モニタリングもまた考慮すべき重要なポイントとされた。パネルのメンバーは、1949年2月12日にエクアドルのキトで発生した突拍子もないUFO神経症騒動のことを知っていたのに違いない。この時、ラジオ番組「宇宙戦争War of the Worlds」がきっかけとなって生じたパニックは暴動を引き起こし、戦車が街に出動してからようやく鎮圧されたのだが、最終的には20人の死者が出た。報告には「強く求めたいこと」として、その種のプログラムには心理学者や「おそらくは広告の専門家となろうがマスコミュニケーションの技能に長けた人物」のアドバイスを仰ぐべきだともあった――ちなみにこのくだりではハドリー・キャントリルの名前がでてくるが、彼はオーソン・ウェルズの1938年版「宇宙戦争」のラジオ劇に関して米国で起きたパニックについて書いている人物である。 

ロバートソン報告書は、民間のUFOグループを監視することも推奨していた。「なぜなら、広範な地域にわたる目撃があった場合、そうした団体は大衆の思考に大きな影響を与える可能性があるからだ。彼らの無責任さ、そしてそのようなグループが破壊活動に利用される可能性というものは、常に念頭に置かれるべきである」。かくてそれからの20年間、そうした団体の一つで、アリゾナ州ツーソンにあった空中現象調査機構(APRO)という名のグループは諜報機関によって厳しく監視されることとなった。

結論として報告書は、UFO自体は「国家安全保障に対する直接的・物理的脅威」とはなっていないようだとしたが、それらの報告が寄せられると「関係のない報告が通信チャンネルを塞ぎ」、多数の誤報を作り出して真の敵対行動が無視される危険性が生じ、いわば「オオカミ少年状況」を生む可能性があると指摘していた。さらに報告書は、このテーマに対する一般の関心が高まると、「巧妙な敵対的プロパガンダにつけこまれ、人々がヒステリックな行動を取ったり合法的な権威に対して不信を抱くというような病的な国家観念」が植えつけられる可能性があるとしていた。

空飛ぶ円盤は、反乱者、さらにもっと悪いことには共産主義者さえ作り出すかもしれない。従って国家安全保障にあたる機関は、「未確認飛行物体に与えられた特別な地位と、それが不幸にも獲得してしまった神秘のオーラを直ちに剥ぎ取る措置を講じるべきだ」とされた。カーティス・ピーブルズが指摘するように、「ロバートソン報告書は空飛ぶ円盤についてのものではなく、真珠湾に関するものであった……米国は、ソビエトによる奇襲核攻撃の幽霊に悩まされていたのだ」 

CIAと米空軍がどの程度までこの勧告を実行に移したかは、あまりハッキリしない。だが、ハッキリした物言いをする科学者のレオン・デビッドソンは――彼は熱心なUFOファン以外からはすっかり忘れられた存在なのだが――自分はその答えを知っていると考えていた。(06←07→08






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さて、ベランダの手すりにハトよけテグスを張る作業の第二弾である。
まずはベランダの両端を片づけてしまおうということで前回は右端の作業をしたのであるが、今回は反対の左側にチャレンジである。

今回のベランダ左側には壁がないので、まずはテグスを張るための木製器具を自作し、隣家との間をへだてるパネルにテープで貼り付けてみた。今回も主な素材は割り箸で、基本的には木工用ボンドでペタペタ組み立てた。もっとも割り箸だけでは強度が不安だったので、100均で買ってきた木材をノコギリで三角形に切り出し、取りつけてみた。
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ということでコチラが完成したところである。
どれぐらいもつかは不明です(笑)。
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あとはベランダ正面の左右約5メートルほどの手すり部分を何とかしなければならんのだが、布団を干す時に外したりできるよう、バネを仕込んで随時外せるような仕掛けにしたいと考えている。それらの部材が揃うまでは放置……と考えていたのだが、実はちょうど今朝、衝撃的な事件があった。

ベランダ中央部に大量のハトのクソが落ちていたのである。

単なる偶然ではあろうが、こんな大量のフンを見かけたのは久方ぶりであった。しかもこっちがちょうど対策を練っている時期であるだけに「やってみなよフフフ」と挑発されたようで怒髪天である。なんだこのクソハト野郎ふざけやがってゼッテー許さんからなということで、とりあえずの応急措置として手元にある部材だけでとりあえずこの部分にもテグスを張ってみた。前回にもちょっと論及した細長い金属板が届いていたのでコレを手すりに貼り付けて、テグスを張るベースにしたのである。

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「これでどうだッ!」というところであるが、実際には作業に疲れてしまい、手すりがカギ状にカクカクと曲がっている幅20センチほどの部分はテグスを張っていない。手抜きである(苦笑)。その辺から侵入される可能性もあるがどうか。とまれ、ハトよけ作戦はなお続く。(つづく



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オレはマンション住まいなのだが、ときおりベランダにハトのハネだとかフンだとかが落ちているのを見かけることがある。要するに各地で頻発しているハト害というヤツなのだが、ともかく勝手に侵入してきてひとさまの家を汚していくヤカラは不愉快である。無職でヒマなせいか(笑)最近コレがちょっと気になってきた。

ホントなら火器を用いて侵入次第射殺してしまいたいところだが、残念ながらヤツらは鳥獣保護法だか何だかに手厚く守られていて殺傷するとコッチがタイホされるらしい(泣)。フンと一緒に病害菌をまきちらしとるハトが保護対象というのはどうにも解せないが、まぁ日本というのは大昔から人間を差し置いて「生類憐れみの令」を出したりするおかしな国なので仕方が無い。殺傷せぬまでも連中に恐ろしいトラウマを与えるような攻撃方法はないかと思案しているのだが、そもそもヤツらはトリアタマなので「トラウマ」という概念はないのかもしらん。やむを得んので、とりあえずは連中を近寄らせないための対策を考えることにした。

さて、ハトの行動を監視していると、マンション一帯に飛来したヤツらはその習性としてまず第一にベランダの手すりにとまり、周囲を観察する。そして「どうやら安全そうだナ」となれば中に侵入するなりフンをするなりして(勝手に)縄張り宣言をする。ここでつけ上がるせると中にはベランダに巣を作り出す図々しいヤツもいるらしい。やはり水際作戦が重要ということのようだ。

さて、そこで一番有効な対策というのはネットでベランダ全体を囲ってしまうことらしい。しかしそんなことをするのはあまりに辛気くさいしウザい。そこでソコソコ効果があるらしい「テグスの張り回し」作戦というのを試みることにした。手すりの上にテグス線を張り、ハトをとまれなくする。そうやってお帰りいただく。これならそんなに目立たないしスマートではないか。

そこでいろいろ調べたところ、テグス張り回し用の商品は市販もされていた(→たとえばこんなの)。しかしよくよく考えてみると、オレのウチのベランダの手すりはオシャレのつもりなのか何かしらんが妙なアールがついていて、平らになっていない。それ故にこのテの器具はうまく装着できそうにないのだった。

しょうがないのでさらにググると、自作ツールでテグス張りをしている人もいた(→こことか)。マネしてみようかと思ったが、この方の細工もやっぱり手すりがある程度平坦でないとうまくいかない。万策尽きかけたのだが、たまたま大阪府のサイトで「テグス張る土台に割り箸とか使ってもエエよ~」みたいなことが書いてあったので、その線でちょっと挑戦してみることにした。

ちなみにウチのベランダの柵は凸状に出っ張った形になってンので、とりあえずその右端の部分だけ試験的にハトよけをつけた。手順は以下の通りだが、材料は基本的に家にあったものを使っている。

①支柱代わりの割り箸の真ん中あたりにテグスを結びつける。次いで、この支柱を「3Mスコッチダクトシールテープ」でムリヤリ手すりに貼り付ける。これだけだとちょっと頼りないので30cmぐらいの結束バンドでさらに手すりにしばりつけた

②テグスを張り渡す壁側には「3Mスコッチ強力両面テープ外壁面用」で割り箸を2本貼り付け、その背後にテグスを回して割り箸の支柱に戻す(なおこの壁面部の割り箸もスコッチダクトテープで補強)

③割り箸の支柱まで引いてきたテグスを割り箸上部にぐるっとまきつけ、ピンとさせてからスコッチダクトテープで固定(スコッチダクトテープに頼りっきりの男w)
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ということで、ご覧の通り「やっつけ仕事」である。とりわけデコボコした壁面部にテープでムリヤリ貼り付けた割り箸には常時「引っ張り力」がかかっているので、剥がれたり浮いたりしてくることが考えられる。支柱にした割り箸だって曲がったり折れたりするかもしらん。それでもしばらくはこんな運用でハトの出方をみる所存。

【追記】
なお、先に記したように家のベランダは凸状に出っ張った形になっているのだが、近々左端の部分にも同様に割り箸細工でテグスを張ろうと考えている。構造的には今回の右端部と若干違っているので若干アタマをヒネらないといけない。が、まぁ何とかなるだろう。

問題は中央部である。ここは横幅が5、6メートルほどもあるので脆弱な割り箸ではテグスを支えきれないだろう。そこでいろいろ考えているのだが、とりあえずこちらのサイトの方の作戦が参考になりそうだ。

要するにこの方も市販の器具は手すりに装着できないというので自作をしているのだが、その際に「クロームフリープレート」というのを使っておられる。要するに軽量で細長い金属板なのだが、コレは薄っぺらいため、ある程度曲げることができる。これを手すり部分にうまいこと貼り付けてテグスを張る支柱にした――というのである。

ウチの場合、グニャッと曲げて手すりの柵にそわせつつ、結束バンドで取りつければうまくいくのではないか。(つづく








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岸田文雄が政権を投げ出すようだ。記者会見でイロイロ言ってたけれども、詰まるところ9月の自民党総裁選に出ても惨敗必至なのでカッコつけて自らやめるテイを装ったというだけのことだろう。とんだサル芝居である。

今思えば岸田の政治というのは一から十までクソだった。なによりもまず国民の暮らしがガンガン劣化しているのに対して有効な手を打てなかった。ここにきて「給料がアップしはじめた」みたいな話がないこともないが、そういう景気の良い話は国民の大多数を占める貧乏人にはまったく関係がないし、そもそも民間企業の給料が上がったからといって岸田の功績にするのは全くの筋違いであって、岸田は「給料上げてネ」とか口先で言ってただけである。

一部メディアからは「外交に成果があった」みたいな評価もされている。「軍事費倍増で中国に対抗姿勢を示したのは偉かった」みたいな話であるが、百歩譲ってそうした軍備拡張路線が正しかったとしても実際には「どうやってそんな軍事費を捻出するのか」のメドはいまだたっていない。要するにカネもないのにそんな大見得を切った岸田はバカ中のバカである。いくら栄養失調でもカネがないのに「今半」のすき焼きを食いにいくワケにはいかんのだ。これからミサイルを買うための大増税が始まるのは目にみえており、「外交に成果があった」もクソもあるまい。

もちろん自民党の統一教会ズブズブ問題だとか裏金脱税フリーパス問題なんかも真相解明する気はゼロで、真っ当な対策もとらなかった。「反省してま~す(チッうっせーな」ぐらいな感じで、アホな国民が全部忘れるのを待っているのがミエミエだった。例の少子高齢化にたいしても何等有効な対策はとっていないし、要するに岸田の政治はすべてがその場しのぎのゴマカシに過ぎなかったのである。

、まぁここでそんな床屋政談をしていても仕方ないのであるが(笑)それはそれとしてオレがいま注目しているのは自民党が次期総裁に誰を選ぶのか、である。

自民党のクソジジイたちが談合してリーダーを決めるいつものパターンでいけば、最有力好捕は茂木敏充(68)である。政財官のトライアングルで悪巧みを進めるという旧来の自民党政治の世界ではとても評価が高いようなのだが人間性には問題があり、とにかく威張る男・傲慢な男であるらしい。いわゆる小人物なのだろう。だから自民党支持層でもあんまり人気がない。人相も悪くて冷酷そうな相が丸見えであるからもちろん一般国民の人気もない。まぁしかし、アホな国民をだまくらかして従来の腐敗政治を温存していこうと考えたのであれば第一候補で危なげがない(笑)。
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 茂木俊充


しかし、さすがにこういう悪相の人間を自民党のトップに据えたら、ただでさえ愛想を尽かされつつある自民党なので、今後の選挙に響くのではないかという懸念もある。そうすると、まだ汚いアカがついていない感じの若手中堅をかつぎだそうという動きも当然出てくる(実際はたいして若くない人もいるがw)。そういう文脈で名前が挙がっているのが河野太郎(61)、小泉進次郎(43)、上川陽子(71)、小林鷹之(49)あたりということになる。

だがオレのみるところ、ホントにこういう連中が清廉でクリーンなのかといえば疑問である。たとえば河野太郎というのは、奇矯な人格&それと表裏一体の「突破力」で知られる変人であって、なんか政治をムチャクチャにするパワーだけはあるんではないかと思われていたンだが、出世するにつれてこれまでずっと言ってきた「反原発」を引っ込め、最近では「原発アリ」といった発言もしているらしい。要するにクソジジイが支配する自民党内で出世するために、節を曲げて転んだ男なのだろう。そんなのが首相になってもクソジジイのリモコンで動くだけの操り人形を脱することはできまい。
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 河野太郎

そういう意味では「初の女性首相!」みたいな期待も一部にあるらしい上川陽子なんてのもダメだろう。三菱総研を経てコンサルか何かやってたところを自民党にスカウトされて政治家になった人物で、相当にデキるという話はある。しかしこないだ麻生太郎が講演で上川について「あの人はルックスは悪いが仕事はできる」(意訳)みたいな話をしてネタにされた際、なんだか薄笑いを浮かべてスルーするような、いかにも「男社会に迎合して生き残る女」的なレスポンスをしていた。アレをみていてオレは「ココは抗議するところだろう。こりゃダメだ」と思った。経歴は立派かもしらんがエライ人間に迎合して出世するようなタイプに国政は任せられんし、仮に首相になっても河野太郎同様にリモコン操作されるだけのことだろう。
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 上川陽子

もうだいぶん長くなってしまったので、あとは簡単に済ますが小泉進次郎というのはみなさんも「小泉構文」で知る通り単なるアホである。みかけがちょっといいのでそこら辺のババアを引きつけるのには良いが首相にしたら日本は滅びるだろう。

小林鷹之というのは国民的な知名度はほぼゼロだが、東大から高級官僚になったような典型的エリートでアタマがよく政策通だという評判である。加えて49歳と若くて見映えもなかなかヨロシイ。岸田内閣では大臣の格としては相当ショボいけれどもいちおう内閣府特命担当大臣というのもやった。「じゃあ自民党の強欲イメージごまかすのにコイツ担ぎ出してみる?」みたいな機運が一部で盛り上がっているらしい。ただし国家存亡の危機にあって一番大事なのは志だとか熱意である。自民党の裏金問題について「これはさすがにアカンだろ」ぐらいのことは言うべき自民党の若手たちがダンマリしていたのは記憶に新しいが、そんな情けない連中のひとりであった小林がノコノコ出てきて「じゃあ自民党改革しま~す」などと言い出したら悪い冗談だろう。しょせんこれも予備の操り人形といったところか(注:なおその後Wikipediaみてて知ったのだがこの小林というのは壺議員であった。つまりは国賊。論外であったw)。
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 小泉進次郎と小林鷹之


このほか石破茂だとか高市早苗だとかいうのもいるが、いずれも自民党内での人望がないのでなかなか浮かぶ瀬はなかろう(個人的には石破茂に一度やらせてみたいと思っているが絶望的に党内人気がないらしい。まぁ狂人のサークルで比較的マトモな人間が浮いてしまうのは仕方がないことではある)。

ということで、結果的に誰が出てきても次期自民党総裁にはほとんど期待ができないのは確かである。そもそも安倍晋三という男が自分の地位を脅かす人間をテッテ的に締め上げてきたからこそこういう人材不足に陥ったしまったワケで(たとえば石破茂はそうやってツブされた)それはそれで自業自得ではあるのだが、自民党の皆さんが「カレー味のウンコ」と「ウンコ味のカレー」のどちらを選ぶのか――みたいな観点からみればコレはなかなか面白い見ものではある。来月にはそうやって自民党の新しい顔が決まる。



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今回のパリ五輪に関しては「フランスの連中っていまだにアジア人差別してるんじゃネ?」疑惑が改めて持ち上がった。この問題、例の誤審問題もあったし(審判自身がフランス人でなくても観衆の圧力で差別に加担することは十分ありうる)、数日前には現地にいってた柔道家の高藤直寿が「レストランでずっと腕上げて店員呼んでも全然来てくれんかった」みたいなことをXに書き込んだことでも注目された。

おフランスなんか行ったことはないのだが、こういうニュースに触れると、日本にいても陰が薄いせいかメシ屋で店員にずっと無視されることが再々あるオレのような人間であれば、おそらくフランスあたりではアジア人差別要素が加算された結果客席の片隅に追いやられて放置プレイ3時間みたいな処刑を受けるのはほぼ確実なような気がしてきて、フランス人への疑念がフツフツと沸きあがってくるのだった。

というのも、むかし読んだ会田雄次の名著『アーロン収容所』には、捕虜になった会田雄次がイギリス軍の女性兵士の部屋に掃除かなんかで入っていったら彼女は全裸だったけれども「あぁ日本人か」みたいな感じで、つまり動物にハダカ見られたぐらいの感じで全く平然としていたという有名なエピソードがあったのだが、そのときオレの胸中には「あぁやっぱヨーロッパの連中は心の奥底まで差別意識まみれなんだろうなあ」という認識が深く刻まれたのである。会田が屈辱的な体験をしてから80年ぐらいたったけれども流石にそこまで強固なアジア人差別が刷り込まれていたのであれば雀百まで踊り忘れずというヤツで、やっぱり連中は全然反省しとらんのではないか(コレは余談ではあるがだいたい日本人だって中国朝鮮の人たちにたいして何かスキあらば見下すようなことを言い出すではないか)。

さらに言っておくと、イギリス人というのは植民地経営では分断統治などを活用し、けっこう地元民をうまいこと懐柔する狡猾なところがあったが、そんな連中ですら会田雄次にいわせればこんなテイタラクだったワケで、しかるにフランス人というのはイギリス人よりも相当に高慢・傲慢である(という印象がある)。してみるとフランス人というのは相当に露骨な差別意識を有している可能性が高い(気がする)。

まぁ昔から日本人は「花の都パリ」とかいって高慢なフランスにあえて膝を屈するような卑屈なところがあった。たまたま最近読んだ読売新聞ではパリ五輪開催に合わせたのだろう、文化面で「パリに行きたい」とかいう連載をやってて、パリにあこがれてきた代々の文化・芸術関係者を紹介していたけれども、そういうのは何かちょっと違うのではないかという気もしていた。こういう機会に「ヤツらは本当のところは相当に下品・野蛮・下劣な生物なのではないか?」という問いを立ててみるのも悪いことではあるまい。こういう考察を誘うのも数少ない五輪の効用のひとつと言えよう。

【追記】

なお、フランス人にかんしては「柔道やらマンガやらで日本文化をリスペクトしている親日派はけっこう多い」みたいな俗説もあるが、ソレはホントなのだろうか(大多数は差別主義者だが一部にオリエンタリズム的逆張りで日本を贔屓する層がいるだけかもしらんし)。

あるいは今回のパリ五輪でフランスの柔道チームは黒人ばっかりだったが、会場を埋めたフランス人たちが代表選手に熱狂的な応援を送っていたことを考えるとイロイロと疑問がわいてくる。フランスには「アジア人差別はイイけれども、黒人を差別の対象にしてはならない」みたいな暗黙の「お約束」でもあるのだろうか? それとも柔道のような特殊技能をもった黒人は単に「名誉白人」扱いされているだけなのだろうか? なんだかナゾは深まるばかりである。



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パリ五輪も終わったが、今大会で特筆すべきは陸上女子やり投げでの北口榛花の優勝である。

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オレも再々言っているように、およそスポーツというのは細かいレギュレーションとか採点要素とかが入ってくればくるほど納得感が薄れる。もっというとプリミティブな訴求力が削がれる。

なんとなれば、あるいみ細かいルールが定められているほど特定の人たちに有利な状況が生まれたりするワケだし、審判の主観で勝ち負けが決まる要素が強いと(たとえば今回パリ大会の柔道である)ハッキリいって「シラケる」。

これは余談になるが、オレの好きな野球というスポーツはまさにこういう「シバリ」が多い競技であって、野球がなかなか世界に普及していかないのもそういう理由があるからだと思われる。たとえば「野球では三回空振りするとアウトになるけれども何で三回なのか?」みたいな素朴な疑問を出されても答えられないのである。(ここで慌てて付け加えておくが、そういう細かいルールでがんじがらめになった競技には、逆に「ルールの抜け道を探ってウラをかくのが面白い」みたいな倒錯した楽しみ方が生まれる。いったんそういう「沼」にはまるとそれなりの中毒性が生まれるのだが、まぁその辺は一見さんにはなかなか難しい)。

閑話休題。そういう風に考えていくと、その手のよくわからんルールがほとんどないのが陸上競技である。100メートルを一番早く駆け抜けるのは誰か。そういう単純明快な原理ですべてが運営されていく。プリミティブであるが故にこれは門外漢にも凄さがよく分かる。ごまかしが効かない。そういう意味でヤッパ陸上競技はスポーツの華であり王者であると言わざるを得ないのだ。

そうしてみると、今回の北口の金メダルというのは如何にスゴイことであったかが分かる。体格や筋力といった面でいえばモンゴロイドはどうしたってコーカソイドやネグロイドに対して不利である(大雑把にいって。たぶん)。陸上競技では過去にマラソンで金メダルを取った女子選手はいたワケだけれども、これは或る種の持久力みたいなものである程度挽回することができる種目だったからこその快挙であって、フィールド競技となるともうこれは絶望的である。そこは超絶トレーニングであったり卓越したテクニックやらでどうにかこうにか対抗していかざるを得ないのだが、それを今回彼女はやりきったのである。

言ってみればこれは100年に一度の快挙。今大会は柔道の誤審問題とかいろいろあったけれども、日本勢にとって大会掉尾を飾るにふさわしいグッドニュースがここにきて飛び込んできたのは慶事であった。


◆追記

なお今回の北口金に関連して、往年のやり投げ選手・溝口和洋(1962-)が各種メディアでコメントなどしていたのも嬉しかった。

その半生については上原善広『一投に賭ける 溝口和洋、最後の無頼派アスリート』という名著があるのでゼヒ読んで頂きたいのだが、彼は師弟関係の重視みたいな陸上競技の決まり事を片っ端から無視する「一匹狼」みたいな存在として1980年代に活躍した選手である。しかも溝口は単なる無頼派だったワケではなく、実力もハンパなかった。彼は常軌を逸した特訓だとか独自に編み出した独特の練習法などによってほぼ独力で世界レベルにまで到達した人物で、その怪物ぶりは1989年に出した87m60というレコードがいまだに日本記録として破られていないことでも明らかだろう。

それだけの実績があるにも関わらず引退後は陸上界と縁を切り、パチプロ(!)やったりした末に現在は農業をやっているのだという。なんという潔さであろう(ちなみに、表向き陸上から足を洗ったといいながらやはり五輪でメダルを取った室伏広治が教えを乞いにきた時にはこれに応じて私的にコーチしてやったみたいな話もあったりする。この辺りもまた素晴らしい)。

彼はほぼオレと同年代だし、そもそもこういう偏屈な人間が大好物のオレとしてはひそかにシンパシーを抱いてきたのであるが、そういう不世出の人物が北口の金というタイミングで再度スポットを浴びたようなかたちとなったのはしみじみと嬉しかった。これはちょっと前の記事であるようだが、この孤高の先駆者、溝口和洋さん「やり投げを好きと感じたことはない」 パリ五輪へ北口榛花は世界記録も目指せる「才能」なんてのはとてもよく書けているので、どうせそのうちネットからは消えてしまうのだろうが時間のある方は読んでやっていただきたい。


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いわゆる「新そば」というのはフツー秋に収穫されたそばを供するものであるが、たまたま立ち寄ったこの信州のそば屋では今夏に収穫されたばかりのものを「新夏そば」と称して出しておった。淡白な味わいではあるが美味。

ここでオレは考えてしまったのであるが、たとえば東京あたりでそこそこ名の知れたそば屋というのは例外なくペダンティックで気取っており、かつバカ高いのが常である。しかし、この店は市井の人々の生活に徹底して寄り添った感じで、たとえば信州B級グルメの「山賊揚げ」なんてものも平気で出しているし、平日ランチタイムには珈琲サービスなどもしている。にもかかわらずこのそばのクオリティというのは一体どういうことか。

かくてオレは「食文化の本当の豊かさとはいったい何だろう?」といったことをシミジミと考えてしまうのであった。


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愛車インプレッサスポーツも今年の冬には2回目の車検を迎えるということで、まもなく購入丸5年。走行距離はまだ3万キロにも届かないのではあるがタイヤはほっといても経年劣化する。5年ぐらいが一つの区切りだというし、このあたりで思い切ってタイヤを履き替えることにした。

そこで今回買ったのが、ミシュランのオールシーズンタイヤ「CROSSCLIMATE 2」(205/50 R17 93W XL)である。

実のところをいえば、オレは都会暮らしなので雪道に遭遇する可能性はあんまりない。しかし、我が郷里は信州である。もちろんスタッドレスなんかもっていないので、ゴムチェーンこそ用意しているが突然冬の長野に行く用事ができて雪でも降り出したとなればなかなか難儀。となると、ちょっとした降雪にも対応できるタイヤを履いていたほうが何となく安心感がある。夏タイヤとしても、まぁクルマにうるさい人ならアレコレ言いたいこともあるのだろうが、別にそんな暴走行為でもせぬ限り問題はなかろう。そういう判断である。

さて、こういうご時世なのでタイヤもできるだけ安く買いたいのは人情である。そこでいろいろ調べたところ、やはり通販をかませるのが安いようだ。某タイヤフッドあたりの通販も半年だかのパンク保証も無料で付けているようで良さげだったのだが安さでいうとやはりAmazonだ。ちなみに今回は出入り業者でなくAmazon本体から買ったのだが4本で8万円ちょい。近場のガソリンスタンドに送ってもらって取り付け工賃は1万1440円。ゴムバルブと廃タイヤ処分料はオレの行ったところだと計3600円。このほか「タイヤハブが錆びてっから防錆施工どうです?」とか言われたのでこれは別料金で払ったが、これは好き好きである(4400円というのが安いのか高いのかはわからんかった。なんか微妙に高いような気もするがまぁヨシとする)。

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ということで作業完了。

ちなみに、若干心配だったこともある。Amazonのバアイ、安いのはイイが製造年月の保証なんかはナイので仮に古いのを送ってこられてもコッチとしては文句が言えないようなのである。

そこで今回、ガススタンドの店頭でタイヤをみたところ「0924」の刻印を確認した。つまり2024年の第9週の製造、言い換えると今年2月25日から始まる週の製造なので約5ヶ月前のモノである。ネット世論をみると、どうやらタイヤというのは製造から1年以内のブツならヨロシイでしょうというのが定説らしいので、これもまあ別に案ずるほどのことはなかった。

(注)もっともミシュランのタイヤはこの刻印を何故かタイヤの片側にしか入れていないようで、クルマに取り付けられたタイヤをみても2本は「0924」を確認できたが、もう2本は刻印面が内側に入っていて見ることができない。タイヤ業界では、4本買っても製造年月の違うのを一部混ぜてくるケースがあるというので、ひょっとしたら未確認のタイヤだけ古かったりする可能性も絶無ではない。スタンドで最初から4本全部目視しとけば良かったが、まぁ積んであったタイヤはみんな同じに見えたので大丈夫だろう……たぶん(苦笑)。

さて、ネットとかをみるとタイヤには慣らし走行というのが必要であるらしい。速度80キロ以下で100kmも走れば良いようなので、しばらくはタラタラ走らないといかん。ちなみに取り付けしたガススタンドでは1ヶ月もしたらナットの増し締めに来いと言っていた。「この機会にお得意さんに!」という狙いアリアリだった(笑)。


【追記】
といっていたらちょうど今日(2024/07/23)の朝日朝刊に、住友ゴムが氷上走行もフツーにこなすオールシーズンタイヤ「シンクロウェザー」を売り出すというニュースが載っていた(ちなみにCMには大谷翔平を起用するらしい。気合い入っとるw)。ご承知のように、今回買ったミシュランのも含めて今のオールシーズンタイヤは「雪はなんとかこなします。でも凍結路面ではほとんど通用しません」ということになっている。そういう意味ではこの新製品、どうせバカ高いのだろうがこういうのがフツーに売られるようになったらスゴイ革命である。今後の推移を生温かく見守りたい。


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久しぶりに蒙古タンメン中本に行ってきた。夏はやっぱりこれだな。

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2年前にも金継ぎをやっていて漆にかぶれたことがあるが、またやってしまった。ちょっとグロいかもしらんが自分用に写真入りでその経過を記録しておく。

■初日 6/24
この二日前に金継ぎ関係の作業をしていて漆が若干手に付着したものと思われるのだが、明け方に左右の手指関節のあたりが痒くなってきたため「あ、やってもうた~」という感じで起床。2年前に処方してもらったステロイドの塗り薬クロベタゾールの残りをペタペタ塗る。それでも痒みがおさまらないので冷凍庫に入っていた冷却剤を押しつけるなどして様子をみる。

■2日目 6/25
就寝中も痒み止めのため氷枕などで手指を冷やす(この後も連日継続)。しかし夜中から明け方にかけて痒みが酷くなり、あまり寝られず。手指のポツポツに加えて、顔にも赤い発疹が。しょうがないので近所の皮膚科に行く。塗り薬として顔用に「リドメックス」、手指用に「アンテベート」を出してもらう(いずれもステロイド剤)。そのほか痒み対策で「フェキソフェナジン」、腫れ対策で「トラネキサム酸」の飲み薬も朝晩二回。

■3日目 6/26
手指のポツポツに加えて、へその左右にポツポツが大量に出てくる(左右それぞれハガキ大のスペース)。顔のほうも部分的に赤らんで腫れたようになり、酷い日焼けをした人のようだ。しょうがないので飲み薬&塗り薬で様子をみるが、手も腹もなんだか患部がどんどん広がっていくような。

■4日目 6/27
手指のポツポツが赤みを増し、ところどころ水疱状に。まだまだ悪化しているような感じ。腹のほうも改善せず。

■5日目 6/28
皮膚科に通院。顔の赤みと腫れは徐々におさまってきたが、腹の広大な患部域をみて、お医者さんが「うーん、これはかなり来ているのでステロイドの飲み薬を出しましょう」と言う(この「ブレドニゾロン」というステロイドの飲み薬はかなり強力なため、取り扱い注意のクスリらしい)。従来の薬に加えて朝一回20mgを飲むことになる。この5、6日目あたりが症状のピークという感じだったかもしらん。あまりの惨状に左手の写真を定点観測的に毎日スマホで撮ることにする。
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■6日目 6/29
ポツポツと痒みはいぜん引かない。指が腫れているためニギニギしても関節が十分に曲がりきらないというか、グローブでもはめてるみたいな感じ。
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■7日目 6/30
変わらず痒い。それでも水疱状になっていた患部が「かさぶた」風に茶色くなってきたりして、何となく収まってきたような気がしないでもない。
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■8日目 7/01
再び皮膚科へ。これまで何もなかった手首の内側とか手の外側あたりに新たにポツポツが出てきたような感じもあり、なかなかしぶとい。それでも腹のポツポツの赤みは薄くなってきたようで、お医者さんも「少しよくなってきたのでは」と。ただし、ステロイドの飲み薬は順々に減らしていかないと体に悪影響があるということで、「あと1ヶ月は通ってもらうことになる」とのこと。ヤレヤレ……
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■9日目 7/02
手指の腫れはかなり引いてきた。就寝中の冷却剤作戦はなお続けているが、この日の朝は割とよく寝られた。
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■10日目 7/03
前夜は冷却剤を寝床にもちこむのを止めてみたが、痒みで起きてしまうようなことはなかった。時間差的に後になってでてきたポツポツは痒みを伴うものの、それほど酷くはない。手指の腫れもほとんど収まってきたようだ。
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 とりあえずコレでおしまい。


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■第5章 鳥たちの会議
    「ヤツらが恐ろしいほどのスピードで空を飛ぶのを可能にしている力は何か? 乗っているのは誰……というか何なのか? どこから来たのか? なぜここにいるのか? コントロールしているものたちにはどんな意図があるのか?... 暗い空のどこかに、それを知る者がいるかもしれない」――「宇宙からの訪問者は来ているのか?」LIFE誌(1952年4月7日)
ここはネバダ州ラフリン。ホテルとカジノが連なる長さ2マイルほどのその街路は、ネバダ州最南部にあって東側のアリゾナ州、西側のカリフォルニア州の間を流れるコロラド川に接している。1964年にミネソタの元毛皮業者ドン・ラフリンによって創設されたこの町は、現在ネバダで3番目に人気のあるギャンブルの街となっており、気遣いを込めた表現でいうならば「低額ギャンブラー」たちを引きつけている。彼らは、ヌードマジックショーやベット・ミドラーのコンサートに大金を使うようなことはしない。というのも彼らは地元民であるか、さもなくばそんなおカネを使う余裕がないのである。ラフリンのカジノはスロットとテーブルゲームが中心であり、他にやるようなことはほとんどないのだが、それでも多くの訪問者を引き寄せている。

1983年以来、毎年4月には「ラフリン・リバー・ラン」というイベントが開催され、7万人ものバイク愛好者たちが詰めかける。残念ながら、このイベントが町の名を歴史に刻んだのは、2002年のリバーラン暴動の現場としてであった。この事件では、ヘルズエンジェルスとモンゴルズというバイカーギャングの間で激しい戦いが繰り広げられ、3人が死亡したほか、多くが重傷を負った。

そして、国際UFOコンベンションもある。それは1991年以来当地で開催され、アメリカで最大規模のUFO大会の一つとなっている。毎年参加する約600人のUFO研究家やUFOファンたちは、リバー・ランの参加者ほどビール、ガソリン、アンフェタミンを消費しないかもしれない。だが彼らは、バイカーのように粗野だったり貧乏臭かったりする代わりに、夢のようなことを口走る熱情をたっぷりと持ち合わせているのだった。

それは2006年2月のことであった。ジョンと、撮影スタッフのジラー・ボウズ、音響技師のエンマ・ミーデン(この二人はいずれもジョンの映画学校を最近出た連中だ)、そして私は、ラスベガスからラフリンへと向かう90マイルの道のりをクルマで走っていた。私たちの目的は、セルポのリーダーたるビル・ライアンの近況を追い、ポール・ベネウィッツ事件について講演する予定のグレッグ・ビショップに話を聞き、そして何よりもリチャード・ドーティを見つけ出してインタビューすることであった。

辺りに何もなく、単調で赤い火星の砂漠を思わせる光景を見ながら進んでいくと、道路脇の標識だけが私たちが今どこにいるかを示すものとなった。コンクリートでできた獰猛そうな恐竜、巨大なサボテン、手描きの隕石広告、インディアン・ジュエリー、木の切り株の化石、そしてサソリのペーパーウェイト――。道端のほこらは、乾ききった永遠の猛暑の中にあって、高速道路で起きた悲劇の瞬間を後世に伝えるものだ。そんなほこらが路肩に点在している。白い十字架、プラスチックの花、風化したぬいぐるみがきちんと並べられ、壊れた金属片だとか破れたゴムといった車両の残骸の脇に置かれていた。

こうした残骸はロズウェルのUFO墜落事件へと改めて私の思いを誘った。それは何十年にもわたって増幅された音のように響き渡り、最終的にその音は原点におけるそれよりもはるかに大きいものとなった。ロズウェルはアメリカ西部の大いなる神話の一つとなり、人間の世界にはおさまりきらない悲劇となった。それは現代アメリカが誕生して時点における無垢の物語であり(それは楽園の物語ですらある)、喪失の物語、希望や真実に対して恐怖や秘密主義が勝利した物語でもある。さらにいえば、私たちや他のUFOコンベンションの参加者をこの荒涼たる地に引き寄せたのも、その物語なのだった。

ゴツゴツした崖の上から下っていったところで、我々の目前にはラフリンへと続く着陸灯の如き灯火が広がった。目的地はフラミンゴホテル。その双子の塔は巨大でかつ光り輝いており、真っ暗な砂漠の夜にあって連星軌道を描く宇宙ステーションのようであった。私たちはクルマを停め、高さ40フィートの女性器のようなピンクのネオンをくぐってホテルに入った。中に入ると、そこはもはや比喩どころではない子宮である。それが逃れられない現実であった。

ここには必要なものがすべて揃っていた。ホテルは自己完結型の冷房環境を提供しており、そこは外の過酷な砂漠からは隔離されていた。仮にそこから出ていこうとしても、女神サイレンの歌声があなたを呼び戻す。入口から数フィートの場所には何百台ものスロットマシンが並んでおり、その一台一台から流れる音楽は、ひとりひとりの心に染み入ってうまずたゆまずハーモニーを作り出す。それは魂に栄養をほどこすかのようであって、あたかも当地を最初に探検した開拓者たちにコロラド川が施したものもかくやと思われた。

それは胎内の音楽であり、幼児用おもちゃ1000個が鳴り響く音のようであった。心地よく、安心感があり、圧倒的に甘い。どこを見ても人々は椅子に座り続け、低レベルのてんかん発作の如き状態にあり、明滅するライトが光ったままの目に反射していた。中には、プラスチック製のクレジットカードをコイル状のゴム製コードで自分のマシンに接続したままの者もおり、一方の手には大量のコインが入った大きなバケツ、もう一方の手にはコーヒー、ビール、炭酸飲料が入ったさらに大きなバケツ。ここには時間がなく、時計もなく、昼夜の感覚もなく、場所の感覚もなかった。いったんズラリと並んだゲーム機の列を越えると、巨大なゲームフロアの出口は、ジグザグに曲がって光に満ちた廊下の先で見えなくなっていた。いったい誰がここを離れたくなるだろうか?

今日は日曜日であることを思い出した。UFOコンベンションは一週間続く予定で、その一週間、この場所が私たちの家となるのだ。会議で聞く予定のトピックのリストを見返した。プエルトリコやカリフォルニア沖の水中エイリアン基地。ノバスコシアやロズウェル、アズテックでのUFO墜落。人類のET起源説。ミステリーサークル。2012年の黙示録到来。目に見えぬエイリアンによるミューティレーションとユタ州の牧場のワームホール。ETと人間のハイブリッドプログラム。UFOの推進装置――要するに、私がこの手の話に夢中になっていた10年前とほとんど変わっていなかった。

私はUFOコンベンションをカジノと繋げているものに気づいた。信仰である。次に賭けるコインが財産を築き、人生を変えてくれるだろうという信仰。ETは私たちの間にいて、自らの存在を明らかにし、我々の生活すべてを変える準備をしているという信仰。あなたがフラミンゴホテルに入ったときに信仰を持っていなかったとしても、UFOコンベンションの一週間が終わるころには、確実に信じるようになっていることだろう。

UFOコンベンションが行われている会場は三つあった。まずは会議が行われる大きな部屋があり、一方には演壇、その前にはフェイクの赤いベルベットや金をあしらった数百のチェアが並んでいた。この部屋が満席になることは稀だったし、観客のかなりの部分は常にうとうとしているように見えた。講演スペースはメインホワイエに開設されていて、そこがいわば本番の場所であった。コーヒーとケーキが散らばったテーブルを囲んでの小会議、ネットワーキング、ひそひそ話。それはこんな具合だ―― 「俺は頭の中でビリヤードをやっていたんだよ」「ビームにはまっていたけど、今はオーブに夢中だ。写真を撮るたびにオーブが出てくる」「昔はナッツ&ボルト派だったけど、今はもう何でもいいよ」

三つ目の部屋は重要なディーラー・ルームで、ここでは信仰が売買され、さらには信仰が強化されるのだった。UFO文献とメディアのプールは非常に広く、ここに展示されている数千冊の書籍、DVD、そしてほとんど絶滅しかけているVHSテープは、巨大な母船サイズの巡回図書館の何たるかをよく示していた。ここには様々な人からの報告が供される。自分の身に何が起きたかを語るUFO体験者。経験者の体験について論じる研究家。UFOとは何であり何故ここにいるのかを説明する科学者。UFOは××ではないと説いて、なぜUFOなどないのかを説く科学者(当然ながらこのタイプは非常に少数)。UFOがどこから来てなぜここにいるのかを説明するチャネラー。地球上のどこにUFOが隠されているのかを明かす陰謀論者。UFOが何であるのか、どこから来てなぜここにいるのかを説明するエイリアン――それらは情報(インフォメーション)というよりは病害の蔓延(インフェステーション)であった。膨大な素材を整理して、UFOについて一貫した物語を作り上げようなどというのはほぼ不可能であった。『未知との遭遇』のフィナーレにおけるエレガントな5音階による解決などというものはありえないのだ。なぜならば、仮にちゃんとしたシグナルがあったとしても、それは耳障りな騒音の中で失われてしまっているからだ。

気分転換のためにホワイエに戻ると、そのヘリに設けられた小さな会議ルームには、それぞれに珍しい鳥の名前がつけられていることに気づいた。そこにはオオハシ、オウム、そして極楽鳥というものがあった。これ以上に完璧なことは望めまい。1970年代半ば、UFOに魅了された科学者、情報専門家、軍関係者たちで作る緩やかなグループが、自分たちの知識と人脈とを利用して、この状況を理解する試みを始めたことがあった(そのほとんど全員は今日にあってはヴィクター・マルティネスのメールリストに名を連ねている)。やがて彼らは調査の成果を精選してまとめたものを作り、これを「コアストーリー」と呼んだ。このコアストーリーの多くは、セルポ文書のベース部分を形作っており、ロズウェルの墜落、ETの生存者たるEBE、ホロマン空軍基地への着陸などといったものが含まれている。リチャード・ドーティや、その米空軍特別捜査局(AFOSI)での同僚によって研究者のビル・ムーアがこのネットワークに引き込まれたとき、ムーアは彼らに「アヴィアリー(鳥の会)」というニックネームを付け、鳥の名前で彼らを識別した。そして今、我々はラフリンのアヴィアリーでリチャード・ドーティに会う準備をしているのだ。

このコンベンションはサイエンス・フェアや情報ブリーフィングの集まりというよりは、むしろ伝道集会のようなものだったが、さて、それでは政府のインサイダーたちが「UFOというのは単なるウワサ以上のものであり、真剣に受け止めるべきものだ」と説得されてしまったのは何故だったのか? ケネス・アーノルドと『未知との遭遇』の間の30年間に何かが起こったに違いない。彼らは何かを見たか聞いたかしたに違いない。しかし、それは何だったのか?

■彼らはどこから来るのか?

1947年にやってきたUFO目撃の最初の波は、米国の軍司令部内に不安感を募らせていった。真珠湾攻撃まで、アメリカは奇襲攻撃に対して案ずることはないと考えられていたが、今や状況は変わっていた。長期的に考えればソビエトによる原子爆弾の脅威というのは考えたくもない悪夢であったが、同時にゴーストロケットの謎や続発する空飛ぶ円盤の目撃は、空からの侵入に対してこの国は脆弱なのではないかという懸念を生み出していた。こうした恐怖は、新設された空軍にとっては悪いことではなかった。自国の空を守ることが彼らの仕事であったのだから。人々が空からの攻撃を恐れ続ける限り、米空軍は予算削減や海軍との予算争いで悩まされることはない。

1947年9月23日のトワイニング将軍による報告書に続いて(ちなみにそれは空軍がUFOについて発した初の公式文書だった)、空軍はいささか控えめな形ではあったが空飛ぶ円盤の問題に関する公式調査を開始することを決定した。それが「プロジェクト・サイン」で、その目的は空飛ぶ円盤とは何なのか、そしてどこから来るのかを解明することであった。プロジェクトはライト・パターソン空軍基地で運営された。そこには米空軍の航空技術情報センター(ATIC)が置かれており、その組織は外国の技術の研究、ならびに可能な限りにおいて行うリバースエンジニアリングに特化した組織であった。彼らは多数の航空機とともに多数のドイツ人技術者を捕獲していたが、それは第二次大戦終末期に密かに行われたもので、そこには彼らととともに押収した大量の技術文書を読解する狙いがあった。

プロジェクト・サインが一番懸念していたのは、円盤がナチスの設計に基づいたソビエト機である可能性だった。しかし、ドイツの設計図を調べ、それを円盤の驚異的な飛行能力と照らし合わせた結果、プロジェクトチームはそれとはまた別の、そしてさらに衝撃的な結論に達した。それは、円盤は「我々」の手になるものではないということ、つまり「人間が作ったものではない」ということだった。

1948年秋までに、プロジェクト・サインのチームは「状況評価」なる極秘文書の作成準備を進めて完成させたが、それはちょうどレイ・パーマーの新しい雑誌「フェイト」の初号が発行された頃であった。ちなみに、その表紙には壮観な空飛ぶ円盤のイラストが描かれていた。この文書が実際に何を「評価」したのかは不明だが、それが空軍参謀総長ホイト・ヴァンデンバーグに届けられるや、彼はその内容に激怒し、すべてのコピーを破棄するよう命じた。その結果、1949年2月に発行されたプロジェクト・サインの最終報告書は、地球外生命仮説(ETH)を軽視する内容となっていた。シンクタンク「ランド・コーポレーション」のジェームズ・リップ博士による補足文書は、ETHの足らざる部分についてまとめているが、その結論は60年前と同じく今日もなお有効である。

    技術的に進んだ種族が飛来し、我々にはナゾとしか思えないような能力を誇示し、それから何もせずに去って行く、などということはおよそ考えられない……さまざまな事例においてハッキリとした目的が見て取れないのもまた不可解である。唯一こういう動機は考えられるかもしれない。すなわち、宇宙人たちは我々が好戦的な態度を示すような事態を回避しつつ、その防衛体制を「手探りで探ろう」としている、というものだ。だが、もしそうであれば彼らは、人類には自分たちを捕まえることはできないことを知って満足しているに違いないのだ。彼らにしてみれば、同じ実験を何度も繰り返すことに意味はないと考えているのではないか……宇宙からの訪問は可能であるかもしれないが、その可能性はほとんどないものと思われる。

リップの最後の言葉は次のような事実を踏まえると興味深い。というのは、1946年5月、リップ博士はランド・コーポレーションの報告書ナンバーSM-11827、すなわち「地球周回宇宙船実験の予備設計」を共著者の一人として執筆したのである(これはドイツのV-2を基にした多段式宇宙ロケットについての計画で、海軍のロケット計画に対抗するために考案された)。この報告書は次のような予言で始まっている。

未来を映す水晶球は曇っている。が、二つのことは明らかなように思われる。
1、適切な機材を搭載した衛星は、20世紀において最も有力な科学的ツールの一つとなるだろう
2、アメリカが衛星打ち上げに成功すれば、それは人類の想像力をかき立て、原子爆弾の爆発に匹敵する反響を世界に引き起こすであろう

スプートニクとテルスター衛星の登場はそれから10年後のことであったが、空飛ぶ円盤は、アメリカで夜明けの時を迎えようとしていた宇宙時代の最初の前兆となったのである。

1949年2月、プロジェクト・サインは秘密裏にプロジェクト・グラッジへと衣替えをしたが、その目的は、空飛ぶ円盤の目撃を公的な立場から軽んじてみせ、国民の関心を減退させることだった。これを達成するため、彼らは空軍に理解のあるジャーナリスト、シドニー・シャレットに手を貸し、「空飛ぶ円盤について信じて良いこと」というタイトルの二部構成の記事を「サタデー・イブニング・ポスト」に執筆させた。この記事は4月30日と5月7日に掲載されたが、これは米空軍が情報機関に対して円盤に関する極秘サマリーを提出した数日後のことだった。シャレットの記事は、空飛ぶ円盤というテーマについて米空軍がはじめて詳細な公的声明を発したもので、この問題についてのプロジェクト・グラッジの不満をよく表しているという点ではよくできていた。空軍の戦略はうまくいったかに見えた。その年の終わりまでに、彼らはついに空飛ぶ円盤から手を洗うことに成功したかに見えた。

しかし、彼らの平穏は長く続かなかった。人気男性誌「トゥルー」の1949年12月号に、元海軍軍人でパルプフィクション作家のドナルド・キーホー少佐によるセンセーショナルな記事が掲載された。そのタイトルがすべてを物語っていた──「空飛ぶ円盤は実在する」。そして、その冒頭の一文は、グラッジチームの「早々に手を引けるのではないか」という思惑を完膚なきまでに吹っ飛ばした。――曰く、「この地球は過去175年間にわたり、他の惑星からやってきた観察者たちによって至近距離から組織的な調査をされている」

この記事は「トゥルー」を完売させたが、ここからこの現象に関する論客としてのキーホーのキャリアが始まった。「トゥルー」の編集者たちは、この号の成功をうまく活用すべく迅速に動き、1950年3月、いまひとりの海軍関係者、すなわちニューメキシコ州アラモゴードのホワイトサンズミサイル試験場で海軍部に所属していたロバート・B・マクラフリン司令官の手になる記事を掲載した。「科学者たちは如何に空飛ぶ円盤を追跡したか」と題したその記事は、気球の打ち上げを経緯儀で監視していた海軍科学者たちによる劇的な目撃体験を描いていた。マクラフリンは「それは空飛ぶ円盤であり、他の惑星からきた宇宙船であること、そして知的生命体によって操縦されていること」を確信した。さらに彼はこう言ってプロジェクト・グラッジを完膚なきまでに打ち負かした。「幻覚なのか? 光学的錯覚なのか? いやいや、錯覚が5人の訓練された気象観測者全員の身に同時に生じるとは考えにくい」。そこからさらに彼は自らの円盤目撃談を語った。

こうした二つの記事は、軍事機関にあって尊敬されるべき地位を占めていた者によるものだったから、空飛ぶ円盤の話を打ち消そうとした空軍のあらゆる努力を一瞬で無にした。さらに悪いことにそうした記事は、それまで神秘主義者やレイ・パーマーのSFを愛好していたファンの領域にあったものを、研究に値するもの、教育があってマジメな何百万人ものアメリカ人が話題にすべきものにしてしまったのだった。

しかし、すべてが一見した通りのスッキリした話だったわけではない。キーホーとマクラフリンはともに海軍の人物であった。地球外生命体がアメリカの空域に侵入しているという彼らの大胆な主張は、「空飛ぶ円盤の問題は空軍に任せておけば大丈夫」ということにしたい空軍の試みを無にし、さらに重要なことには空の守護者としての空軍の役割をも危うくしてしまった。こうした記事がこの時期に出たというのは、空軍にとって困った問題を引き起こしてやろうという狙いがあったのではないだろうか? 海軍はこの時もそうした戦術を用いて、空軍を困らせ、空軍の活動や指導力に対する疑念を煽りたてていたのではないか?

第二次世界大戦後、米空軍と海軍の間から友情は失われてしまったが、その友情が再び復活することがなかったのは周知の事実であった。双方の憎悪は1949年初頭には全面戦争に発展し、その春には下院軍事委員会の公聴会が開かれた。ここを舞台にした争いは、軍事戦略に関する深い相互対立を反映していた。空軍は、将来の戦争は核兵器による戦略爆撃によってのみ勝利すると主張していた。空軍は、この戦略に従えば海軍というのは時代遅れの存在になっていくと論じ、多くの国防総省関係者もこれに同意した。1949年4月、海軍出身の国防長官ジェームズ・フォレスタルが辞任し、その後任に空軍を支持するルイス・A・ジョンソンが就任すると、彼は海軍の「スーパーキャリアー」建造をキャンセルし、空軍の巨大なB-36爆撃機の製造を優先させた。これに対して海軍は、空軍の将軍がB-36の契約業者と不正取引をしたという告発文書をリークして報復した。両者の緊張関係があまりに高まったため、フォレスタルはうつ病で入院し、1949年5月22日に自殺した。下院軍事委員会は、各軍の間には「鉄の壁」──チャーチルの語った「鉄のカーテン」をもじったものである──が存在すると述べた。

キーホーとマクラフリンが書いた「トゥルー」の記事の背後にはこうした軍の間のライバル意識があったのか。それとも彼らの記事は別にそうした意図があったわけではないストレートなもので、それを利用して誰かがより大きな戦いを戦っていたのか。そこのところはよく分からない。当時は事態が込み入って混沌とした時代であり、空軍、海軍、情報機関が、程度の差こそあれ、それぞれの目的のために空飛ぶ円盤の話を利用していた可能性が高い。そしてこのストーリーは、ここで奇妙な展開を迎えることになる。

■フライング・ソーサーの背後にいる男たち

墜落した空飛ぶ円盤の話は、長い間UFOコミュニティ内で流布していたが、1970年代末まで真剣には受け取られていなかった。だがここに至って、匿名の空軍関係者からのリークにより、UFO研究者たちに多くの情報がもたらされるようになったのである。チャールズ・バーリッツとウィリアム・ムーアによる1980年の『ロズウェル事件』刊行はそうした流れの集大成であり、それ以降、数え切れないほどの書籍、雑誌、映画、そして関連グッズが生み出されていった。ラフリン・コンファレンスで販売業者の部屋を埋め尽くしていたものも、そんな物品の全体からいえばごく一部にしか過ぎない。

しかし、ロズウェルの物語の起源はロズウェルそのものにではなく、北西に約350マイル離れたニューメキシコ州の小さな町アズテックにある。辛口で人気のある「ヴァラエティ」誌のコラムニスト、フランク・スカリーは1950年、ノンフィクション『空飛ぶ円盤の背後に』を出版した。同書がスポットを当てたのは、1950年3月8日にコロラド州のデンバー大学で行われた奇妙な講演であった。それは学術的な講演というよりは市場調査の実験のようなもので、理系の学生90年が匿名の講師による空飛ぶ円盤についてのプレゼンテーションに呼び集められた。その話はキャンパス中に広がり、講演当日、ホールは満員になった。その50分間のプレゼンテーションで、謎めいた専門家は、空飛ぶ円盤は現に存在するのみならず、そのうち4機が地球に着陸し、さらに4機中3機はアメリカ空軍によって捕獲された――と言い放ったのである。

そのうち最も大きいものは幅100フィートで、ニューメキシコ州アズテックの近くに着陸。円盤とその内部にいて死亡した乗員は、調査のためライト・パターソン空軍基地に運ばれたのだという。が、この話自体は新しいものではなく、航空歴史家カーティス・ピーブルズによれば、1948年に「アズテック・インディペンデント・レビュー」が発行したいたずら記事にまで遡る(その記事には、円盤の墜落と小さな金星人の話が書かれていた)。ともあれ、フランク・スカリーによれば、捕獲された3機の機体には34体の異星人の遺体があった。これらの生物は人間に非常によく似ていたが、背丈が低く、肌が白く、髭はなかった。ただ、数人は「桃の産毛に似た細かい毛」を生やしていたという。

匿名の講師は円盤について詳細に述べていた。その内容は――。

    それは我々が設計してきたようなものとは全く異なっている。どの機体にもリベット、ボルト、ネジは一切使用されていない... 外殻はアルミニウムに似た軽量金属で構成されているが、非常に硬く、どんな熱処理を施しても破壊することはできない。その円盤は回転する金属の輪を持ち、その中心に操縦室があった。... 最初の円盤は任意の方向に操作可能であり...どこにでも着陸できるように設計されていた。最も小さいものには三輪の金属球を備えた着陸装置があり、その球は任意の方向に回転できるようになっていた。

デンバーでの講演の後、参加者たちは講師の話を信じるかどうかを尋ねられ、60%の参加者が信じると答えた。しかし、その数時間後、彼らの多くは空軍情報部の将校から質問を受けることになった。スカリーによれば、学生たちに対して行われたこの追跡調査では、「信じる」と答えた者の割合は60%から50%に減少していた。それでもこれは「空飛ぶ円盤は宇宙から来ている」という人の全国平均(スカリーによると約20%だそうだ)よりもはるかに高かった。この講演から得られるメッセージは明確だ。「説得力のある情報源に触れれば、聡明な大学生でさえもあり得ないことを信じるようになってしまう」ということである。

1950年3月17日、「デンバー・ポスト」紙によって、謎の講師の正体はデンバーを拠点とするニュートン・オイル・カンパニーの経営者、サイラス・メイソン・ニュートンであることが明らかにされた。一方、自著の中でスカリーは、ニュートンの円盤情報の源は「ジー博士」だとし、同時に、その名前は国家安全保障の理由で身元を保護する必要がある8人の科学者を合成した仮名なのだとした。しかし、ニュートンとジー博士の真相は、その触れ込み同様に興味深くはあっても、それほどまでには劇的ではなかったことが判明する。

ジー博士の正体はレオ・アーノルド・ジュリアス・ゲバウアーで、彼は幾つもの偽名を持ち、FBIによってその行動を記録した分厚いファイルが作られるほどの人物であった。ゲバウアーはかつて、アリゾナ州フェニックスのエア・リサーチ・カンパニーの研究所で働いていたが、1940年代初頭、アドルフ・ヒトラーを「素晴らしい人」と評し、「ルーズベルト大統領は射殺されてヒトラー総統のような人物に取ってかわられるべきだ」などと公言していたことからFBIの注意を引いていたのである。ゲバウアーは、「自分は墜落した空飛ぶ円盤の技術を解析する政府機関で働いており、そうした墜落円盤の中にはアズテックのものも含まれている」とニュートンに語っていた。ニュートンが実際にこれを信じたのかどうかは不明だが、ともあれ彼は、デンバーの学生たちにゲバウアーの話を広めることに躊躇することはなかった。

ニュートンの日記には、「デンバー・ポスト」紙によって自分の正体が暴かれた後、彼のもとに「米政府機関の秘密メンバー」2人が接触してきたことが記されている。彼らは、「あなたの語ったUFOの墜落話がデマであることを我々は知っている。でも、その話はこれからもずっとしゃべり続けてくれないか」と言ったという。その通りにすれば、「彼らはその雇い主ともども私とレオ(ゲバウアーのこと)の面倒を見てやると約束した」というのである。この謎の人物というのは、ニュートンの悪賢い想像の産物なのか、それとも空軍情報部のエージェントだったのか? あるいはFBIやCIAの職員、さもなくば米空軍にさらに厄介ごとを抱え込まそうとした海軍の関係者だったのだろうか? それはわからない。ただ、彼らが望んでいたことは実際に実現した。スカリーの本は間髪入れず1950年に出版された。この本は約6万部が売れ、当時のベストセラーとなった。これにより、空飛ぶ円盤神話の詳細はアメリカ人の想像力にさらに深く刻み込まれたのである。ニュートンは自らの仕事を見事に果たした。そして、おそらくニュートンを訪ねてきた謎の政府関係者たちも、約束を守ったのであろう。ニュートンとゲバウアーは1952年、「これはリバースエンジニアリングで解明した異星人の技術に基づいた先進的なものだ」と称して採掘装置を販売しようとし、詐欺罪で有罪判決を受けたのだが、そのとき二人はいずれも執行猶予付きの判決を受けたのである。

『空飛ぶ円盤の背後に』が成功を収めたにもかかわらず、アズテックの円盤墜落事件は、数年もするとほぼ完全に忘れ去られた。それが再び脚光を浴びるのは約30年後のことである。その重要な要素、すなわち「機体」「死亡した操縦者」「空軍の回収作戦」、そして「ライト・パターソン空軍基地におけるリバースエンジニアリング・プログラム」といったものは、ロズウェルの物語の基盤を形成することになった。1980年代初頭には、アズテック事件そのものが、UFOコミュニティに対する空軍特殊調査局(AFOSI)の情報操作キャンペーンの一環として利用されるようになった。この事件に関して「墜落は実際にあった」と喧伝する、さらなる一冊が出版されるに至ったのである。

かくしてこの半世紀の間に、新聞の悪ふざけから始まった物語は現実となったのち、いったんはデマとして否定されたのだが、それが1980年代になると再び米空軍とUFO研究者によって復活し、世に広く知られるようになった。これは、最終的には21世紀初頭に「真実ではない話」として葬られることになるのだろう(おそらく、ではあるが)。ともあれここから分かることは、空飛ぶ円盤というのは何度もリサイクルされて甦ってくるものだ、ということである。

民俗学者は、民間伝承が現実に浸出していくプロセスを「直示 ostension」と呼んでいる。しかし、これらの物語が本当に諜報機関によって生み出されたのだとしたら、これは単に「欺瞞」と呼んだほうが良いだろう。UFOの最初の10年を振り返ると、軍民を問わず諜報に携わる者たちがUFO神話の誕生において助産婦の役割を果たしていたことは明らかである。モーリー・アイランド事件においては諜報機関が「汚い詐術」を弄した痕跡が見られるし、サイラス・ニュートンの日記を信じるなら、少なくとも一つの諜報機関がアズテックにおける墜落UFOとその乗員に関するストーリーを広めるべく暗躍していたことになる。このパターンは、その後数十年にわたって繰り返されることとなる。UFOというのは、諜報機関のトリックスターどもが汚い仕事を遂行する上での一つの道具に過ぎなかったのである。

■スパイ、幽霊、吸血鬼、そして異星人

1947年7月26日、ハリー・トルーマン大統領は署名ひとつで米空軍を陸軍から分離し、戦時中の戦略情報局(OSS)を中央情報局(CIA)に変えた。当初は3つの軍事情報グループを組織するための機関として設立されたCIAであったが、数年ののちにそれは諜報カルトの大寺院となった。それは時として、世界を支配するだけでなく、世界中の全ての人々の心と頭を支配しようとするカルトのようでもあった。30年間にわたって、CIAを制御できる者は誰もいないように見えた。

ジョン・マークスとヴィクター・マルケッティは、『CIAと諜報のカルト』という本の中で、機関としてのCIAは長年にわたって制御不能であったばかりでなく、制御を超越した存在であったことを明らかにしている。

    CIAは…必要とあらば民間機関に浸透し、操作し、自らのための内部組織(『プロプライエタリー』と呼ばれる)を作り出す。エージェントやカネで動く人間を雇い、外国の公務員を買収したり脅迫したりして、道義に反することをさせる。目的を達成するために必要なことは何でも行い、その行為に伴って生じる倫理・道徳的な問題は全く考慮しない……その行動は、一般人にはうかがい知れぬ古めかしい規律の背後に隠され、それはこのナゾ多き機関が一体何を・なぜ行っているかについて一般市民はもちろん議会が知ることすら阻んでいる。

CIAの秘密保持に対する姿勢をこれ以上ないほど明確に示す実例は、「MKウルトラ」が露見した際にCIA長官リチャード・ヘルムズが示した対応だろう。MKウルトラとはこの機関が長年にわたって続けたプログラムで、薬物や催眠を用いて「洗脳」とマインドコントロール実験とを行うものであった。1970年代半ば、調査にあたった議会がMKウルトラにかかわる全文書の閲覧を要求した際、ヘルムズは文書類の破棄を命じた。そのもくろみはほとんど成功しかけたのだが、わずかな資料は残った。そしてその資料だけでも、CIAの実務に対して大幅な見直しを強いるには十分であった。

秘密の戦争――すなわちスパイ活動と対スパイ活動、諜報と対諜報、心理作戦、ニセ情報の操作、そして秘密工作といったものだが――においては真実などというものは存在せず、誰にも気づかれない限り、どんなことをしても許された。時には、小規模な軍隊を動かす必要もあるし、難解なテクノロジーを駆使する必要が生じることもある。だが、優れた手品のトリックと同様、ちょっとした暗示だけで大きな影響を与えることができた事例もあった。

空軍大佐エドワード・ランスデールは、心理戦というアートの世界において早い時期に登場した達人であった。アメリカで最も恐れられ、尊敬された「冷戦戦士」の一人であったランスデールは、広告業者から諜報の専門家に転じた人物である。彼はその存命中に伝説となり、グレアム・グリーンの『おとなしいアメリカ人』の登場人物、オールデン・パイルの人物造形にヒントを与えたとされている。広告業界でのランスデールの経験は、諜報の世界で大いに役立った。彼は、知覚とプレゼンテーションの力を理解していたが、その知見を「アメリカが幸福であるためには第三世界を支配せなばならない」という確信と結びつけていた。要するにその目標は、現地の人々の「心」を勝ち取り、経済的にアメリカに依存する状態を作り出すことであった。

第二次世界大戦中、フィリピンで戦った経験を持つランスデールは、1950年代初頭にCIAにリクルートされ、現地の共産ゲリラ反乱軍、フク団(Huks)と戦っていたフィリピンの国防大臣を支援することになった。ランスデールはこの作戦の一環としてフィリピン民生部を設立し、心理戦作戦(PSYOPS)の拠点とした。ランスデールのチームは広告代理店の市場調査員のように現地の人々の心の中に入り込み、彼らがどのように生活し、何を最も望み、そして――当然のことであるが――何を最も恐れているのかを探ったのである。

あるPSYOPSプロジェクトでは、その姿が見えないよう分厚い雲間に小型の飛行機を飛ばし、フク団の領土上空に侵入させた。その飛行機はメガホンを使って「神の声」を流し、反乱軍に避難場所や食料を提供する村人たちには呪いが降りかかると警告した。また、別の作戦では、フィリピンの神話に登場する吸血鬼「アスワング」にまつわる田舎の迷信をうまいこと利用した。ランスデールのチームは、フクが占拠している地域にはアスワングが住んでいるという噂を流したのである。この血を吸う怪物の話はゲリラとその支持者たちの間に広まっていき、遂にある日、彼らの恐れは現実とものとなった。ゲリラの一人が、喉に刺し傷を負って血が抜かれた状態で発見されたのである。しかし、この不幸なフク団員はアスワングの犠牲者などではなかった。彼はランスデールのチームによって待ち伏せされ、殺害されて木に吊るされ、血が抜かれた後、仲間に発見されるように放置されたのだった。他のフク団の人々にしてみれば、これはアスワングの話を裏付けるものであったから、彼らは恐怖にかられてその地域を逃げ出した。1953年までに、共産主義者の反乱は成功裏に鎮圧された。ランスデールはその後、最初にベトナムに入った工作員の一人となり、アメリカがベトナムに介入する道を切り開いたが、その後も「マングース作戦」――これはフィデル・カストロの暗殺計画だったが計8回の試みはいずれも失敗した――で重要な役割を果たした。

ベトナム戦争でも現地の迷信は利用された。陸軍第6心理戦作戦大隊は、「泣き叫ぶ魂」と呼ばれた音声テープを兵士が背負ったりヘリコプターに取り付けたりしたスピーカーで定期的に流した。これは成仏していない死者にまつわるベトナムの言い伝えを悪用したもので、テープには、アメリカ軍と戦って死んだ父親のさまよえる魂とその幼い娘とのやりとりが録音されていた。この録音は、不気味なリバーブ効果と伝統的なベトナムの葬送音楽を用いたもので、夜間にジャングルをパトロールするアメリカ兵にも恐怖を与えたほどであった。

ランスデールのアスワング作戦や「さまよえる魂」作戦は、冷戦の激しい時期に行われた無数の心理的欺瞞作戦のほんの一例に過ぎない。トム・ブラーデンは、CIA国家秘密工作本部(the National Clandestine Service)*の前身にあたるCIAの計画本部(the Directorate of Plans)で国際組織部門の責任者を務めた人物だが――ちなみにこの計画本部はCIAの心理戦作戦、秘密工作、プロパガンダのほとんどを監督した――彼は1973年にこう記している。「冷戦最盛期にはあまりにも多くのプロジェクトがあったため、一人でそれらのバランスを取っていくのはほとんど不可能だった」
    *訳注:「国家秘密工作本部」は2015年に「作戦総局」(the Directorate of Operations)とさらに改称されている

共産主義との戦いにおいて、人々の心をガッチリと、しかもソフトにつかみ続けることは――よくいう「外柔内剛」というヤツだ――国外のみならず国内でも重要なことであった。国家安全保障法はCIAがアメリカ国内で活動することを明確に禁止していたが、それを可能にする抜け道はいくらでもあった。幾つものニセの会社を作って、それらで構成される「帝国」を立ち上げる(ちなみにそうした会社は登録地にちなんで「デラウェア」と呼ばれた)。味方をしてくれる企業団体を「物言わぬチャンネル」として抱き込み、そこから仲間を新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、実業界、草の根団体の要職へと送り込む。こうやってCIAが地道な活動をしている一方では、より大きな枠組みがCIA以上に秘密に守られた組織によって作られていた。が、その組織が解体される約50年後まで、そのことはほとんど知られることがなかった。

1951年、ハリー・トルーマン大統領によって設立された心理戦略委員会(PSB)は、国内外の心理作戦を調整し、さらにはアメリカとアメリカ人が外から見て「正しい存在」と映るよう仕向ける任務を負った。これではまるでジョージ・オーウェルの世界のようだが、実際それはその通りだった。最初に作られたその戦略文書の内容はいぜん機密扱いのままであるが、その断片は他の文書に引用されたものから見てとることができる。その一つによれば、心理戦略委員会の役割は「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を推し進め、「アメリカの掲げる目標に敵対的なドクトリン」に対抗する「組織」を発展させていくことだった。これを達成するためには、「人類学や芸術的創作といったものから社会学、科学的方法論に至るまで、知的な関心領域のすべて」を取り組んでいく必要があるとされた。

1952年5月、心理戦略委員会はCIAの心理戦プログラム「パケット」を引き継いだが、その目的は外国の指導者たちに「アメリカのやり方は他の何よりも――とりわけロシアよりも優れている」と説得することだった。アメリカのカリスマを国外で維持するためには、学術的な「セミナー、シンポジウム、特別な書籍、学術誌や図書館」から教会の礼拝、コミックブック、「民謡、民間伝承、民話、世界をめぐるストーリーテラー」にいたるまで、ありとあらゆるものをコントロールし、調達し、作り出す必要があった。

心理戦略委員会のメッセージは、テレビやラジオ、船舶や航空機を通じて世界に広められた。さらには「三次元の動く画像」の使用も、リアリズムを高めるために検討された(当時、アメリカの映画館では3Dブームが起きていた)。チャールズ・ダグラス・「CD」・ジャクソンは、アイゼンハワー大統領が選出された後の顧問であったが、心理戦略委員会における重要な戦略家であった。エドワード・ランスデールと同様、ジャクソンももともと広告業界の大物で、「タイム・ライフ」や「フォーチュン」など雑誌の出版から諜報の専門家に転じた人物であった。ジャクソンはアメリカの価値観の擁護者であり、戦後のアメリカのイメージを形作った見えない政府の中で最も影響力のあるメンバーと見なされていた。彼には、タイム・ライフ帝国を運営するヘンリー・ルースやハリウッドの大物ダリル・ザナックなど、芸術界における強力な友人がいた。ジャクソンと心理戦略委員会は、強い影響力を持っていないところにはそれを新たに創り出し、出版社、新聞、テレビやラジオの放送局、芸術家や芸術団体、オーケストラ、「エンカウンター」や「パルティザン・レビュー」といった小規模ながら影響力のある雑誌に影響力を持つようになった。心理戦略委員会が影響力を発揮するためには、たいてい然るべき相手に親しげな言葉をかけるだけで済んだ。しかし、時には金銭が必要となり、ターゲットとなる相手を完全に牛耳る必要が出てくることもあった。ある意見が必要になってくれば、心理戦略委員会はそれを作った。

心理戦略委員会は時に大胆で直接的な手段を取った。ジャクソンは1952年、原子力委員会委員長ゴードン・ディーンが「ライフ」誌に書いた記事について「首尾良くいっている」と記した。その記事は、「原爆を使ったことについてのアメリカ人の罪悪感を取り除いてくれるだろう」というのである。しかし、いつもはもう少し気を遣う必要があった。1954年にアイゼンハワーが「平和のための原子力」計画を開陳した際、ベルリンに原子力発電所を建設するという大統領の計画についてジャクソンは、いかなるプロパガンダが可能かというメモを記している。そこでジャクソンは、実際に発電所を建設する必要はないのだと指摘した。瓦礫の区域を囲い込み、警備員を配置し、謎めいた看板を立てることで、実際に発電所を建設したかのような強力なウワサを作り出すことができるというのだった。

1953年、心理戦略委員会は、より曖昧な名前の「作戦調整委員会(OCB)」に改編されたが、ジャクソンとそのチームによって始められた動きは1960年代を通じて継続した。それがようやく掣肘を受けたのは、フランク・チャーチ上院議員がCIAの活動に関する調査に立ち上がった1973年のことだった。この好ましからざる暴露の後、CIAはメディア内で働く400人の職員とエージェントを解雇せざるを得なかったが、この数は「低く見積もられ過ぎている」というのが一般的な見方だ。

では、こうしたものはUFOと何の関係があるのか?おそらくすべての面で関係はある。1950年代初頭に心理戦略委員会、CIA、そしてアメリカの政治と諜報のエリートがどのように働き、考えたかを理解することは、CIAが空飛ぶ円盤の問題に取り組む際に何が起こったのかを理解するための鍵となるのである。(05←06→07

 

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■第四章 発射

    「私の任務というのは、他の惑星についての様々な考えを受け入れるよう、大衆に心構えをしてもらうことであった。この目的のため、私は世界中の名の知れた新聞に記事を書いては関心をかきたてようとした。火星の運河だとか、いまだ説明がついていない月面の白い筋といった、むかし議論を呼んだ話を復活させたのである」 ――バーナード・ニューマン『空飛ぶ円盤』(1948年)

ジョンと私が映画制作を考え始めてから数ヶ月後、私はグレッグ・ビショップによる『プロジェクト・ベータ』という本のゲラ刷りを入手した。彼はロサンゼルスの作家にしてUFOの研究家でもあった。グレッグと私は何回か会ったが、ユーフォロジーと神秘主義、ポップカルチャーのオーバーラップする部分に強い関心をもっているという点で、私たちはすぐに意気投合した。その本は米空軍がポール・ベネウィッツに対して行った働きかけをテーマにしたものだったが、グレッグはその取材の過程で、何時間かドーティーと面談していた――その場所はニューメキシコ州の片田舎のデニーズレストランだったそうだ。その会話を録音したりノートを取ったりすることは禁じられたが、それでもこれは大きな突破口ではあった。空軍サイドからこのストーリーが語られたのはそれが最初だったのだ。

同時に『プロジェクト・ベータ』は、我々が知る限り、これまで誰も手に入れたことのなかった重要なデータを私たちに示してくれた。それは2000年に写真スタジオで撮影された白黒の写真で、そこには驚くほど普通に見えるドーティの姿があった。写っている男は40代後半。ジャケットにネクタイ、ストライプのシャツという服装で、ひし形をした顔は穏やかに傾いた肩の上に乗り、髪は警察官風に短く刈り込まれていた。笑顔はぎこちなかった。口の左側がわずかに上がった表情は奇妙な感じを与え、その上にはかすかに上がった眉毛があった。顔一面の汗は、どこか不安気な様子をうかがわせる。しかし、私はこの「獲物」の写真にあまりに多くのことを読み込みすぎていたのかもしれない。その日のニューメキシコは暑かったのかもしれないし、ぶっちゃけて言えば、写真を撮られるのが好きな人なんていない。

『プロジェクト・ベータ』出版後の2005年初頭、グレッグ・ビショップはアメリカで非常に人気のある深夜のトークラジオ番組「コースト・トゥ・コースト」にゲスト出演した。「コースト・トゥ・コースト」は、アメリカ人の抱くイメージの中で――とりわけ深夜にラジオを聞いているアメリカ人のイメージということになるが――どのような怪異が流行っているのかを取り上げ、かつその世界に影響を与えている番組だ。UFOはこの番組が週に何時間も費やして何度も採り上げるお気に入りのネタで、このほかにはおなじみの幽霊やビッグフット、超能力、ヒーリング、地獄への門や黙示録、燃料不足、エイリアンの支配、マヤの神々の帰還、惑星Xとの衝突などが続く。奇怪なもの、疑惑を呼ぶものの形作るパノラマがいつ絶えるともなく続くのである。

その番組でグレッグは、自らの本と、UFO分野においてニセ情報が果たしてきた役割について語った。続いて彼は、特別ゲストとしてニューメキシコから生中継で参加するリチャード・C・ドーティを紹介した。我々はこれで写真に加えるにその声を知ることもできたわけだが、それは予想外に高い声でオタクっぽく、いきなりクスクス笑いでも始めそうな感じだった。ドーティは自分は民間人だと自己紹介し、UFO分野での活動は1980年代にやめたと語った。彼はポール・ベネウィッツには友情と尊敬を覚えていたとし、彼の身に起きたことへの悲しみ、そして彼の精神の問題を食いとめられなかったことへの思いを語った。そして、爆弾発言をした。奇妙な信念を人に植えつけるエージェントとしてこれまで見聞きしてきたありとあらゆるものに照らしてみた結果、「私自身も地球上には地球外生命体が存在すると信じている」というのだった。

エイリアンやUFOに関していえばこの人物の名前はほとんど「欺瞞」とイコールなのだが、そんな彼が「すべては真実だ」と私たちに伝えようとしていた。そればかりではない。彼はそれを信じてもらおうとしていた。ドーティは「コースト・トゥ・コースト」のリスナーを舐めきり、それぐらいの変わり身をみせれば無罪放免で逃げられるとでも思ったのだろうか? 彼は世界に向けて自分をネタにして内輪受けするジョークを放ったのだろうか? それとも彼は米空軍特別捜査局(AFOSI)時代の誓約に縛られていたのだろうか? あるいは彼はまだ現役の諜報員で、ラジオ出演はその仕事の一環だったのだろうか? 最も大胆な仮説はこういうものだ――「彼は本当にそう信じていた」。その場合、彼は本当に何かを知っているのか、さもなくば自らの考えを変える何かを見たのかもしれない。あるいは長い年月を経るうちに、UFOにまつわる話が彼の心に影響を与えるようになったのかもしれない。ウソつきはしばしば自分のウソを信じ始めてしまい、、自らウソと一体化してしまうことがある。彼は最初からそうだった可能性もあって、だからこそ米空軍諜報部は彼を雇ったのではないか――彼の中に、その役割に没頭するあまりメソッド・アクターのように自己を滅却してしまえる才能を見いだして。ともあれ、我々は僥倖に恵まれた。我々はリチャード・ドーティの写真と声を手に入れた――いや、少なくとも自らリチャード・ドーティと名乗る男のそれを手に入れたのだ。

ドーティがラジオ出演した後、私はUFOが忘れ去られた状態から復活する兆しがないか、注目していた。だが、そんなことは起きていなかった。インターネット上にはUFOのウェブサイトが溢れていたが、誰もがみんなおなじ古い話を繰り返し、何年も前にインチキ判定されたおんなじピンボケ写真を持ち出していた。このテーマには電気ショックのようなもの、つまりUFOを表舞台に押し出してくるような予期せぬ展開が必要だった。私が恐れたのは、こんな冬眠状態があまりにも長く続いたため、アマチュア無線家や鉄道ファン同様、UFO愛好家たちは時代遅れの存在と見られるようになってしまったのではないか、ということだった。そこに奇跡が起こった。始まりはインターネットの片隅の目立たない場所で、さざ波として始まった。だが、それは間もなくホンモノの波になった。UFOの世界で何かが動き始めていた。

■リクエスト・アノニマス

「まずは自己紹介をさせて下さい。私の名前はリクエスト・アノニマスです。私は米国政府の元職員です。過去について詳しくは語りませんが、特別なプログラムに関与していました...」

このように始まるメールをヴィクター・マルティネスが受け取ったのは2005年11月のことだった。彼はアメリカ西海岸の代用教員であったが、インターネット上で最も注目すべきメールグループの一つを運営していた。約200人に及ぶそのメンバーは掛け値なしに重要な人物たちで構成されており、その面々は過去30年の間にUFO現象に興味を抱いた、あるいは直接関係をもったことのある科学者、軍人、諜報関係者たちであった。さらにいえば、その中にはCIA、国防情報局(DIA)、国家安全保障局(NSA)の現職・元職、米国政府のリモートビューアー、フリーエネルギー研究者、理論物理学者、ベンチャーキャピタリスト、さらに神秘主義者、魔女、エイリアンコンタクティー、アブダクションの被害者という触れ込みの多くの人々なども含まれていた。

そこに登場したのがリクエスト・アノニマス、通称アノニマスだった。マルティネスによれば、アノニマスは約6か月間リストをチェックしたのちに自ら名乗りを上げ、「特別なプログラム」を明かした。彼は一体何者なのか? 間髪入れず疑心暗鬼がとびかうこととなったが、アノニマスはその正体を隠し通した。マルティネスも彼の正体を暴こうとはしなかった。「もし私がその正体を暴こうとしていることを知ったら、彼はただ荷物をまとめて別のUFOリストの管理者を見つけ、そっちで彼の驚くべき話を発表しただろうね」

アノニマスの膨大な記録は「驚くべき」という言葉がふさわしいもので、分量にして毎月数千語ずつ増えていった。メールが送られなくなるまでの3年間で、「リリース」は31回あり、その総量は数万語に及んだ。そして、アノニマスによれば、これらはすべて1970年代後半にDIAが編纂した3000ページにわたる極秘報告書の抜粋にすぎなかった。この分厚い文書がどこにあり、アノニマスがそれをどうやって手に入れたのかは謎であったが、一つ言えるのはそれは彼の地元の図書館にはなかったということだ。

以下は、そのリリースが伝えようとした内容を大幅に簡略化したものである。


1947年、ニューメキシコ州にETの宇宙船2機が墜落した。ちなみにこれは、1970年代後半以降「ロズウェル事件」として知られるようになった出来事である。墜落で6体のETが死亡したが、1体は生存していた。彼らの宇宙船の残骸はオハイオ州デイトンのライト・パターソン空軍基地に運ばれ、生存したETはEBE1(イーバ1)というニックネームでニューメキシコ州のロスアラモス研究所に収容され、1952年までそこで生活した。この間、EBE1は母星との連絡を試みた。残念ながらその呼びかけに応答があったのは彼の死後であったが、それはアメリカにとっては歴史的な瞬間であった。この時点から、アメリカ政府はEvens(イーヴンズ)と呼ばれる地球外種族と定期的に連絡を取るようになった。唯一の問題は、その事実を世界に伝えることができなかったことであった。

1962年末、ケネディ大統領は暗殺された。一部の人々によれば、彼はUFOの真実をアメリカ国民に明かそうとして、それを果たす前に暗殺されたのだが、それ以前に彼は宇宙規模の外交交流にゴーサインを出していた。特別に訓練された人間12人のチームはそれぞれその身元が抹消され(諜報業界で言う「sheep-dipped」である)「プロジェクト・クリスタル・ナイト」と呼ばれるプログラムで、イーヴンと共に彼らの惑星に向かうことになっていた。イーヴンと人間の双方の大使の顔合わせの準備が行われ、1964年4月24日に2機のイーヴン宇宙船が地球の大気圏に入った。そのうちの1機はニューメキシコ州のホロマン空軍基地近くに着陸。宇宙船に乗り込んだアメリカ政府の高官チームは、「イエローブック」と呼ばれるホログラフィック装置を贈られたが、その装置には地球という惑星の全歴史が収録されていた。人員の交換はその翌年に行うことで合意が得られ、1965年7月、人間の訪問チームはイーヴンの宇宙船に乗り込んだ。1体のET(通称EBE 2)は地球に残った。

訪れた人間たちが「セルポ」と呼んだETの惑星は、地球から38光年離れたゼータ・レティキュリ星系にある。アノニマスによれば、セルポは地球より少し小さく、太陽は2つある。土地は平坦で気象は暑く乾燥しており、環境としては厳しいが居住は可能で、特に北部は涼しいことから人間はそこに居住した。訪問チームはセルポで13年間を過ごし、何度か災難に見舞われたものの、イーヴンズには歓迎され、自由に動き回ることができた。セルポには約65万人のイーヴンズが住んでおり、惑星全体に約100の小さな自律的なコミュニティが点在していた。中央政府はなく、イーヴンの産業と資源のハブとして機能する大きな中央コミュニティが一つあっただけであった。すべての人が働き、その見返りとして質素だが幸福な生活を送るために必要なものを供給された。この準社会主義的ユートピアに犯罪は存在しなかったが、戦争はそうはいかなかった。3000年前、イーヴンズは他の惑星の文明と100年にわたる大規模な星間戦争を戦い、その結果、敵を撃滅させたもののその代償として自らの母星を居住不能にしてしまった。それ以来、イーヴンズは銀河間の漂流者となり、現在の母星に定住するまで、地球をも含む他の種族や文明を訪問していた。

1978年に人間のチームが地球に戻る時までに、2名は死亡していた。またセルポに残ることを選んだのは2名で、彼らは1988年まで地球と連絡を取り続けた。帰還したメンバーはセルポの双子の太陽による高い放射線にさらされており、これが最終的には彼らを死に至らしめた。最後の一人は2002年にフロリダで亡くなった。

奇妙なことにアノニマスは、イーヴンズの文化や生活習慣、消化器系に至るまで詳細を明かしているにもかかわらず、エイリアンが実際にどんな外見をしているのかについては何も述べていない。アノニマスの話を擁護する者は、これは報告書が本来送られる先の人々は――すなわちアメリカにおけるUFO問題のインサイダーたちのことだ――すでにETの外見を知っていたからだと説明した。ロスアラモスには捕獲されたイーヴンがいたのだから、というのである。報告書の完全版には写真も含まれており、アノニマスはこれも世界と共有しようと約束したが、その中にはイーヴンズがサッカーのようなゲームをしている写真もあったという。こうした画像が公開されることはなかったが、数か月後になって双子の太陽がみえる砂漠の風景写真はいくつか流出した。だが、それらはすぐに「フォトショップで作成された、しかもかなり質の悪いもの」だとして退けられた。

アノニマスの最初のメッセージは大爆笑で迎えられたとお考えかもしれないが、実際にはそんなことはなかった。この件はヴィクター・マルティネスのメールリストのメンバーであるポール・マクガヴァンとジーン・レイクス(時にはロスコウスキーとも呼ばれる)によって検証され、二人はアノニマスの主張を裏付ける背景資料を提示した。マクガヴァンはエリア51に駐留していた元DIAのセキュリティ主任だったことが明らかにされ、レイクスもまたDIAにいた人物と見られた。しかし問題があった。マクガヴァンとレイクスの経歴は目を引くものだったが、その身元はマルティネスのメールリスト以外の場所では確認できなかったのである。ただ、もし彼らが本当に軍事諜報の闇の世界でキャリアを積んできたのなら、これはそれほど驚くべきことではなかった。しかし、さらに大きな問題は、「セルポの話もポール・マクガヴァンとジーン・レイクスの身元も、両方間違いはない」というもう一人の人物の存在であった。リチャード・C・ドーティである。

数週間が経過して、セルポはインターネット上で話題になり始めた。ロンドンの通勤者向け新聞でも言及された。セルポ文書はその簡潔にして軍事色を漂わせた一人称の口調で、トム・クランシーのスリラーの緊迫感と、エドガー・ライス・バローズのスペースオペラのようなパルプマガジン的魅力を兼ね備えていた。それは、完全に事実でもなく完全にフィクションでもないという、奇妙な領域を占めていた――それは、聖ブレンダンやマルコ・ポーロのような地上の探検家の物語や、天を行く多くの聖者の旅物語と同様、他界にかかわる物語がいずれも分かちもつ領域であった。新しいリリースが出るたびに、それは古いRKOシリーズのエピソード「キング・オブ・ザ・サーペンメン」 [訳注:不詳] の公開さながらに、新たな希望やワクワクドキドキをもたらした。写真が公開されるかも。交換クルーの名前が明かされるかも。生存者から話を聞けるかも。そういった期待があった。しかし、もちろんそんなことは一度も実現しなかった。

セルポ事件が他の目的を果たせなかったとしても、それが何年間もの停滞期に落ち込んでいたUFOコミュニティの注意を引きつけ、沈みかけていた熱意の炎を再び燃え上がらせたのは確かだ。有名なエイリアンアブダクションの被害者にしてホラー作家のホイットリー・ストリーバーは「コースト・トゥ・コースト」で、1990年代にUFOコンベンションで出会った老兵士との会話を回想した。その男はストリーバーに「別の惑星に行ったことがあるか」と聞いてから――ストリーバーの記憶によればであるが――「セルピコ」という言葉をつぶやいた(ちなみに「セルピコ」とは1973年のアル・パチーノ主演の警察スリラーの名前である)。さて、それから10年ほどが経って、ストリーバーには全てが理解できた。そして、ストリーバーの支持に加え、ラジオやインターネット上で情報が流通しチャットが続けられていく中で、「セルポ」は実際に起こったことのように感じられるようになってきた。さらに驚くべきことに、UFOは数年ぶりに再度ホットな話題になったのである。

セルポの興奮が広がる中、イギリス系カナダ人の自己啓発トレーナー、ビル・ライアンは、アノニマス情報の受け渡し場所としてウェブサイトを設立しようと考えた。ビルがセルポ資料に出くわしたのは偶然だった。彼は或る日、ガールフレンドが反ジョージ・X・ブッシュのメーリングリストから転送してきたメールを受け取ったのだが、そのメーリングリストの運営者がヴィクター・マルチネスだった。彼はもともと政治関係のリストとUFO関係のリストは別々に運営していたのだが、セルボ資料があまりにも重大なので、「これは世界全体に広めねばならない」と考え、それを政治関係のリストにも載せた。それが結果的にビルを引き込むことにつながった。

ビルはフリンジ方面に詳しいわけではなかったし、その手のものは最初は認めていなかった。ただ、かつて熱心なサイエントロジーの信者だったことがあった。実際あまりに熱心だったため、創始者のロン・ハバードのオリジナルの教説が新世代のサイエントロジストたちに無視されているとみなすレトロ・サイエンスフィクションの教派に加わり、オルグに参加していたほどである。またビルは、「間違いなくエイリアンだ」と思っていた女性とデートしたことも認めていた。こういう来歴もあったし、そもそもL・ロン・ハバードの宗教というのは地球外に起源をもつものだ。だが、ビルはUFOの世界では新参者だった。ビルはすぐさまアノニマスの物語の熱心な支持者となり、そのウェブサイトを維持運営するのにすべての時間とエネルギーを費やした。かくてそのサイトは、ほどなく多くの人々を引きつけるようになった。意図したかどうかはともかく、ビル・ライアンはセルポの新たな顔役となった。ジョンと私は、彼と話をする必要があった。

ビルと会う算段を付けるのは簡単だった。伝道者の精神に満ちた彼は、セルポにまつわる話を広めることに喜びを感じており、2005年12月、ジョンと私に会うためにロンドンにやって来た。彼の到着を待っている間、私はビルに何を期待しているのか分からなくなっていた。だが、何を期待しようが、その通りのものが得られるわけではなかった。ビルはあなたが普通考えるような経営コンサルタントではなかった。彼は感情表現豊かな40代後半の男性で、日焼けしたフレンドリーな風貌、肩にかかった赤い薄毛の持ち主だった。その靴の底からボロボロになったフェルトのアウトバックハットのてっぺんまで、彼の衣服はすりきれて穴だらけだった。

ヒューレット・パッカードやプライス・ウォーターハウス・クーパースのような企業で働いたと主張する人間にしては、ビルは確かにカジュアルな印象であった。私はいつも他人の身なりについてアラ探しをするようなことはしないが(そもそも私自身の日々の服装もアラだらけなのだ)、ただビルは数日間車で生活していたように見えたし、たぶん本当にそうだったのだろう。セルポのストーリーに入れ込みすぎたことでビルとガールフレンドの関係は深刻なことになっていたし、彼はその当時、自分の家がどこにあるのかも分からなくなっていたのだ(UFOは日々の暮らしを大いに損なう可能性があることを読者諸兄には改めてご注意申し上げたい)。

ビルのセルポに対する確信には揺るぎないものがあった。彼はその物語に完全に取り込まれていた。インタビュー中も、彼は常にアップルのラップトップ(当然バッテリーはボロボロ)でメールをチェックしていた。新しいアノニマスのリリースが近日中にあるという噂があり、ビルは次なるエピソードを熱狂的に待ち望みつつ、やむことなく押し寄せてくるセルポ関連の質問に一生懸命に答えていた。

ビルのやる気は本物だったかもしれないが、彼はUFOビジネスには素人同然で、それは予想していたほど順調には進んでいなかった。天文学者たちは報告書にでてくる軌道データ(それは有名な天文学者カール・セーガンが提供したものとされていた)について疑問を呈していたが、私を悩ませる、より基本的な問題というものもあった。私がとりわけ注目していたのは、メインイベントとしてのETと人間の相互訪問ではなく、セルポの話には「既存のUFO伝説には出てこなかったもの」が何もないということだった。映画ファンなら誰でも、スティーブン・スピルバーグのUFO大作『未知との遭遇』との明白な類似点を指摘できるだろう。この映画は、ワイオミング州のデビルズ・タワー近くの秘密の場所に巨大なディスコボール型UFOが着陸する場面でクライマックスを迎える。そこでリチャード・ドレイファス演じるキャラクターは、12人の軍人と共にETの宇宙船に乗り込み、おそらく友好的なエイリアンの惑星に連れて行かれる。それこそがセルポだった、ということなのだろうか? UFOコミュニティの多くの人々は、『未知との遭遇』やスピルバーグの『E.T.』は「エイリアンは地球に来ている」という真実に我々を慣れさせるために作られたと信じており、その試みは1951年の映画『地球が静止する日』から始まったとされる。仮にそれが本当だったら、スピルバーグは [敵対的な宇宙人が現れる] 黙示録的な映画『宇宙戦争』で一体何を伝えようとしていたのか、我々は疑問に思わざるを得ないところである。だがセルポ・ウォッチャーズにとっては、『未知との遭遇』の公開された1977年が、セルポの搭乗者が帰還するちょうど1年前であったことは偶然ではなかったのだ・・・

ビルはセルポの怪しげな部分をあげつらうようなことはしない。彼は、その首尾一貫しない部分というのは、実際にはそれがインチキ話の同類である可能性を減らしていると感じた――そのように込み入った話を時間をかけて捏造するような人間は、天文学的に正しい事実をストレートに入れ込もうとするはずだ、というのである。私にはそうは思えなかった。そもそも彼らが天文学的な事実に無知だったらどうなるのだろう?

「これを信じなさいと強いるつもりはありません」とビルは説明した。「可能性があるのではないかと考えて欲しいのです、ただ私は、これが単純な捏造やイタズラである可能性はないと思います。それにしてはあまりに複雑すぎるし、多くの状況証拠が符合しています。誤情報というものは、すべて一つのカテゴリーに放り込むことができる。そこに入ったものはすべてが偽りだということになる。ただ、この話がニセ情報である可能性はある。ニセ情報というのは、半ば真実であり、半ばはフィクションであるということです。そして、フィクションの部分が全体の5%もあれば、ストーリー全体がおかしな話ということにされてしまう」

ニセ情報。ノイズ。セルポというのはそんな類のものだったのだろうか? それはUFOコミュニティに情報を植え付けるためインターネットを利用した試みだったのだろうか――米空軍特別捜査局(AFOSI)が、ベネウィッツ事件で偽の文書を用いたとの同じように? 私たちは正体を見定めがたい、新たな集中砲火が情報戦争に用いられているのを目にしているのだろうか? セルポとマルティネスのリストは情報の実験場なのだろうか? セルポは社会学的または心理学的な研究プロジェクトで、一つないしは複数の情報機関・大学によって(しかもおそらくはおそらくはマルティネスのリストのメンバーによって)行われているものではないか? 我々はそれを「ミームの追跡」実験と考えることができるかもしれない。ウェブ上を情報が流れていくルートを追うことは、我々の生きているデータ飽和の時代においては有益な試みということになるだろう。クジラに発信機を取り付ける。病院の患者の消化器系でバリウム入りの食事が移動していくのを追跡する。そうした試みは、「追跡されているもの」と「それが通過する場所」の両方について多くのことを教えてくれる。情報機関では、これを「印のついたカード」という隠語で呼んでいる。

セルポが情報機関の世界にその起源を持っているとすれば――実際のところ多くの観察者はそのように見ていたようだが――それはUFOとは無関係だったのかもしれない。そのリリースには機密情報が暗号として埋め込まれていたのかもしれない。あるいは、それは情報機関が「偽旗作戦」と呼んでいるものだったのかもしれない――つまり、UFO関係者の仕業に見せかけ、外国人や産業スパイをその罠に引き込むことを意図していたのかもしれない。マルティネスのUFOリストに多くの情報機関と軍の関係者がいたのは偶然だろうか? セルポは隠れていた何者かを引き出すための試みだったのだろうか?

オンラインで提起された興味深い考えが一つある(もっともそれはすぐに反論されたのではあるが)。これは「アノニマスは実際に本物の政府文書に出くわした。ただ、それはもともと誰かを――例えばロシアだ――欺すために作られたものだった」というものだ。イーブンたちの幸福ではあるものの剛健なコミューンの存在は、1960-70年代のロシア統治機構に、自らが作っている世界の宇宙&ユートピアバージョンとして眩しく映ったのではないか。そんなことを考えることもできるだろう。

もう一つの可能性は、セルポの資料はアリス・ブラッドリー・シェルドン(1915-87)によって作られたというものだ。シェルドンは1940年代に米空軍情報部で働き、1950年代にCIAの工作員として活動した後、ジェームズ・ティプトリー・ジュニアの偽名でニューウェーブののSF作家として名を馳せた(正体を明かしたのは1977年だった)。SFを書く才能とCIAとの関係を持つシェルドンは、1960年代もしくは1970年代にセルポ文書を書くために雇われたのではないのか? それは別のプロジェクト――たとえば1963年に米空軍が始めた高機密の軌道偵察プログラム、「有人軌道実験室」(MOL)からロシアの目をそらすために仕掛けられた、複雑なニセ情報ゲームの一部だったのではないだろうか?

当時としては非常に高度なこのプロジェクトとセルポの物語には確かに類似点がある。17人のアメリカ空軍の隊員たちは、続けて一か月間、宇宙船の狭い空間で生活する準備訓練を受けたが、彼らとその上司以外に訓練の目的を知る者はいなかった。この計画は試験飛行が一度行われた後に中止された。必要なコストは天文学的であり、乗組員にとっての潜在的な危険性は受け入れがたいほどに高かった。それがこの当時、人間の乗組員が行っていたことの多くが無人衛星で実行できるようになったのである。シェルドンは文書を執筆した上に、MOLのスケジュールすら書いた可能性がある。MOLのスケジュールは1963年に開始され、1970年代半ばまで続くとされていたが、それはジェームズ・ティプトリー・ジュニアの短い生涯、セルポとの間で行われたとされる相互訪問のいずれとも符合する。

だが、残念ながらここまで書いてきたことは事実ではない。シェルドン/ティプトリーが一枚噛んだという話は、セルポ伝説の初期に匿名の人物のメールで明かされたものだし、MOLについて色々述べたことは私自身が書いたものだ。シェルドンの逸話の背後にいる人物は後に、「セルポ伝説の一切合切は自分たちが大学の社会学コースの一環として作り出したものだ」と明かし、その後デジタルの闇に永遠に消え去った。

その起源が何であるかはともかく、セルポはUFOカルチャーに待望久しい一撃を撃ち込み、かつて栄光の日々を過ごしていたキープレーヤーたちがゾロゾロと這い出してくる手助けをした。それはまた、UFOと陰謀論分野では非常に人気のある2つのオンライン掲示板に隆盛をもたらした。すなわち、「オープン・マインズ Open Minds」と「アバブ・トップシークレットAbove Top Secret」である。

こうした掲示板はUFO情報を受信したり発信する場として機能し、マルティネスのリストと同様、互いに共通点のないUFOハンターや疑似政治学の愛好家たちを一か所に呼びよせた。ここで人々は、あらゆることについてそれぞれの見解を披露しあった。それは「911攻撃の起源」や「月にある秘密の米政府基地」から最新の軍事技術の進展に至るまで、多岐に渡った。そのため、ここは米国をはじめとする国際的な情報機関の工作員にとっても有用な場所となり、彼らはそこに入りびたっては、多種多様なオタクや過激派を監視した。そして、おそらくではあるが自らも当事者となった。

2008年後半に報じられた或るニュースは、情報機関が掲示板やフォーラムを使ってどのように作戦を行っているかを明らかにした。2006年頃、マスター・スプリンター(Master Splynter)というハンドル名のハッカーが、クレジットカードのハッカーやデータ窃盗犯の主要な情報交換所である「ダークマーケット」というウェブフォーラムに参加した。ここでは、データやデータを収集するための技術、偽のクレジットカードを作成するための技術が売買されていた。数ヶ月を経て、マスター・スプリンターは徐々に運営役を引き継ぐようになっていった。そして2008年10月にはダークマーケットの閉鎖を宣言した。

    このフォーラムが、世界各地の多くの公的機関(FBI、SS、インターポールのエージェント)から並外れた注目を集めているのは明白だ。これは時間の問題であったと思う。実に残念である。なぜなら、我々はダークマーケットを英語圏でビジネスを行うための主要フォーラムとして確立していたからだ。これが人生というものだ。トップにいる者を人々は引きずり下ろそうとするものなのだ。

マスター・スプリンターがどうしてこうしたことを知っていたのかいえば、彼の正体がFBIサイバー犯罪エージェントのJ・キース・ムルスキーだったからだ。彼は大規模な国際的なクレジットカード詐欺組織を閉鎖するために、サイトに潜入していたのである。「オープン・マインズ」や「アバブ・トップシークレット」、さらには他の無数のUFO・陰謀論サイトが同様の作戦の場として存在しているのかどうかは分からないが、先進的な軍事ハードウェアやUFOが議論されているところでは、情報機関は常に耳を傾けているのである。

ウェブサイトの立ち上げ以外のことで言えば、セルポはビル・ライアンを瞬時にしてUFO学のセレブリティにした。サイトを立ち上げて数週間のうちに、ビルは2006年の「ラフリン国際UFOコンベンション」の基調講演者として招待された。このコンベンションは、世界最大とは言わずとも、米国では最も大きな集まりの一つである。ラフリンのコンベンションは3月開催の予定で、ビルの存在を告げ知らせるかのように、アメリカの「UFOマガジン」誌2006年2月号がセルポに関する特集号を発行した(同誌は英語圏で唯一ニューススタンドで売っているUFO関連の出版物である)。ビルの記事を補完する形で掲載された記事は、以下のように始まる。 [訳注:UFOマガジンは2012年終刊]

    私の名前はリチャード・ドーティ。元空軍特別調査局(AFOSI)の特別捜査官で、現在はニューメキシコ州に住む一般市民である。過去数年間、私はUFOマガジンの熱心な読者である(中略)
    1979年初め、若手の特別捜査官としてカートランド空軍基地に着任した後、私はAFOSI第17区の対諜報部門に配属された。私は特別な区分プログラムに関する説明を受けた。このプログラムは、米国政府と地球外生物との関係を扱っていた。初めてのブリーフィングの際、私は政府のEBEへの関与に関する完全な背景情報を与えられた。この背景説明にはロズウェル事件に関する情報も含まれていた……総じていえば、その内容はアノニマスが公開した情報と全く同じであった。

元情報機関のエージェントにして、10年以上も姿を消していたドーティは、大衆の目にさらされることにも無頓着になっていた。彼はヴィクター・マルティネスのメールリストでも定期的にコミュニケーションを取り、セルポに関するアノニマスの主張を裏付ける情報を提供していた。ジョンと私は連絡を取るべき時が来たと決意した。ドーティへのメールで、私たちはUFOに関する情報機関の関与についての映画を作っており、彼の経験について話を聞きたいと説明した。我々はラフリンUFOコンベンションでビル・ライアンを撮影する予定であることにも触れた。さて、我々はニューメキシコでドーティと会えるのだろうか?

返事はすぐに来た。ドーティは、インタビューのことは考えておくが、アルバカーキでやったらどうだろうと書いていた。が、もっと良いことがあった。彼はラフリンに行く予定で、「そこであなた方と会えるのを楽しみにしている」という。

やるべきことはただ一つ。ネバダに行こう。 (04←05→06


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