今回は「中休み」ということで、「UFO超地球人説」とは直接関係ない話をひとくさり。

ジョン・キールについては日本語の翻訳本がかなり出ているせいか、日本語のウィキペディアにもちゃん項目が立っている。それはそれでイイのだが、その元になったとおぼしき英語版のウィキペディアのページと比較してみると、ちょっとおかしなところがあった。


具体的にいいますと、キールの著作『プロフェシー The Mothman Prophecies』(旧訳題名は『モスマンの黙示』)に触れたパートで、ジョン・C・シャーウッドが『Skeptical Inquirer』2002年5- 6月号に書いた「Gray Barker's Book of Bunk」なる論考にまつわる話が出てくるのだが、この論考はシャーウッドとグレイ・バーカーが共同執筆したものであるかのように書いてある。

だが、グレイ・バーカーは1984年に死んでいる(笑)。どうやら「バーカーとかつて一緒に仕事をしたことがあるシャーウッドが執筆した」というくだりを誤訳したらしいのだが、オレはウィキペディアの編集の仕方がよくわからない。そのへん分かってる方はゼヒ当該ページにいって手直ししてきてくださいお願いします m(_ _)m


なお、ついでといってはナンだが、シャーウッドが書いたこの「Gray Barker's Book of Bunk」というのが気になったので、ちょっと調べてみた。どうやらこのシャーウッドというのは元新聞記者で、UFOモノなんかもけっこう書いてたことからキールたちとは結構親しかった人物のようである。

で、検索したら『Skeptical Inquirer』のサイトにオリジナルの記事があった。くだけた表現が多く、学校英語しか知らんオレには荷が重かったが、辞書を引き引きザッと読んでみた。以下はその話(細部間違ってたらゴメン)。


さて、記事のタイトル「Gray Barker's Book of Bunk」というのは直訳すれば「グレイ・バーカーのクソ本」ぐらいの意味であろう。そこからも容易に想像されるように、この論考は基本的にグレイ・バーカーをディスったものである。

要するに「バーカーという人はUFO話を適当にでっち上げてカネ儲けに利用した悪いヤツだ」ということを、かつてバーカーと組んででっち上げに荷担したこともあるシャーウッドが懺悔半分でつづったものらしい。こういう話なので、日本語版ウィキペディアで「シャーウッドとバーカーが共同執筆した」みたいな記述があるのは大間違いなのである(誰か早く行って直してきてw)

話をもとに戻す。シャーウッドによればバーカーのインチキぶりはいろんな人が書いてて、「彼はUFOなんてものは信じちゃいなかった、ただカネ儲けのために本を書いていた」みたいな証言もたんとあるようだ。彼がやはりUFO研究家のジェームズ・モズレーと組んで、米国務省のストレイスなる人物の名前で「あんたの言ってることは本当だ」みたいなニセ手紙をジョージ・アダムスキ-に出したりした一件なんかもシャーウッドはここで改めて持ち出している。


で、シャーウッドはそこからキールとバーカーの関係を論じていくのだが、結論的には「キールってバーカーのインチキ見逃しちゃってるじゃん! ダメじゃん!」ということを言いたいらしい。「アンタもインチキ本出したゆうて自白してますやん、他人のこと言えますのん?」とツッコミを入れたくなるが、まぁそれはいいや。

ともかくこのシャーウッドの論考でポイントとなるのは、キールの『プロフェシー』に出てくる一つのエピソードである。これはヴィレッジブックス版『プロフェシー』でいうと341頁以下に出てくる話だが、いちおうその概略を説明しておこう。



1967年7月14日の夜、キールのところに「グレイ・バーカー」を名乗る男から電話がかかってくる。二人は同じ研究者仲間ということで、もちろん知り合いである。ところが、その口調は確かにバーカーのものなのだが、「キールさん」などと妙に他人行儀な話し方で何だかおかしい。

で、その当時、ニューヨーク地区で「グレイ・バーカー夫人」と名乗る女性が迷惑電話をかけまくるという出来事が頻発していたので(この件の詳細については書いてないのでよくわからない)、キールがその話を振ってみたところ、バーカー(を名乗る男)は「いやぁ、誰にも電話なんかしてませんよ」と答えたというのだが、実はバーカーは独身であった。

要するにバーカーはニセモノだったわけである。ちなみに翌日、キールが念のためバーカーに電話をしたところ、「いいやそんな電話かけてないよ」という。アラ不思議、これもUFOにまつわる怪異ではあるまいか――だいたいがそんな話である。



ところが、このシャーウッドがその後、キールとバーカーの間に交わされた書簡類を調べてみたところ


キール「あのさぁ、あの電話やっぱオマエがかけたんじゃね? オマエあの時どこにいたの?」

バーカー「うーん、どうだったっけ? ただ、通信記録はあったんだよなー。意識なくすほど酒は飲んでなかったし、ホント不思議だよなー」


というようなやりとりが1967年中になされていたらしい。要するに『プロフェシー』の話とはだいぶん様子が違う。ほとんどバーカーが「私がやりました」とゲロってるに等しい。さらにいえば、バーカーとつるんでたモズレーもシャーウッドに対して「そりゃバーカー飲んでたんじゃネ?」みたいな事を口走っていたようである。「なんだ全然怪異なんかじゃないジャン」という話になる。


ちなみにキールがこの本を出版するのは1975年であるから、その時点ではキールには「バーカーにかつがれた」という認識があったハズなのだが、この本ではミステリー風にこのエピソードを取り上げている。であるから、シャーウッドは「あの、あなたがバーカーと交わした手紙と、あの本とでは齟齬がありますよね? どういうことなんです?」とキールに問い合わせたのだが、結果ナシのつぶてだったそうだ。

我々はキールを読んでて「この人、やっぱどっかでちょっと話を盛ってるんじゃネ?」などとしばしば思うのだが、そういう意味では「やっぱりネ・・・」と思わんでもないエピソードである。だが、オレは許す(笑)。


*なお、日本語版ウィキペディアではこの件について以下のような記述がある。この箇所については別に間違いはなくて、まぁそういうことなのだろう。




シャーウッドによるレポートによると、モスマンについて、キールが調査をしていた時点で書いた文書と、彼の最初の本との間には重大な相違点がある、との報告がなされ、本の内容の精度について疑問を投げかけた。また、キールがその食い違いの原因を明らかにすることはなかった、とも報告された。






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■第八章 その謎を作図する


「既知のモノに擬態してみせるUFO」というこれまでの話の延長線上ということなのだろう、この章でのキールは「流星に似てるんだが流星ではない物体」について書いている。


最初に紹介しているのは1966年4月25日にカナダ方面から米国北東部に向かって飛来してきた「流星」の話である。これが目撃されたのは午後8時15分頃のことだったが、その経路には複数の目撃者がいたようで、キールはそんな人々の奇妙な証言を複数紹介している。


たとえばペンシルベニア州トワンダ近くのハイウェイでは、走行中のクルマのエンジンがとまり、ヘッドライトが消えた(これはいうまでもなくUFOにつきものの電磁効果というヤツである)。

また同州アプランド近くでは上空から何かが落下。それを発見した少年によれば、物体の高さと幅はそれぞれ1フィート、長さは2フィートで、ゴムが焼けるような臭いをさせて燃えていた。ちなみに、翌日現場に行った人たちはそこに小さな石炭のようなものを見つけたという(なおこの少年は目撃後に一時的に目が見えなくなり、両目が腫れてしまった。何らかの輻射を浴びたもののようだが、こういう話もUFOにはつきものである)。


このペンシルベニアの「流星」にまつわるミステリーはまだ続く。

キールが語るところによれば、ソヴィエトのタシケントではペンシルベニアでの事件とほぼ同じ時刻に――つまり現地時間の4月26日早朝となる――突然閃光がひらめく現象が起き、さらにはまもなくその一帯で大地震が発生した。Wikipediaにも
「タシュケント地震」という項目あるので、そういう地震があったこと自体は確かなようだ。米国とタシケントの出来事になんか関係があったとしてどういう関係なのかよく分からないので困ってしまうのだが、こういう話で読者を煙に巻くあたりがいかにもキールである。

ついでにいうと、
キールはここでしばし寄り道するようなかたちで、「流星」ないしは空飛ぶ円盤の出現と時を同じくして地震が起きた事例を幾つか紹介している。この点についてはそれほど深掘りしていない。ちょっと残念であった。


とまれ、ここで彼が報告している物体は、「尾を引きながら空を飛んでいく光体」ではあってもやたらノロノロ飛んでいったりするので、やはり流星ではない。ここまで読んできた読者としては「なんでそんな紛らわしいんだ! あ、やっぱりこれも流星を装ってみせるヤツらの手口なのかもしれないね」と何となく考えたくなってしまうのだった。


さて、本章の後半になると、キールはやや切り口を変える。1966年7-8月、ネブラスカ州とその近隣州ではこうした流星様の物体が目撃されるフラップが発生したのだが、ここで彼は、一連の証言に基づいて物体が飛行したルートを再現することを試みている。


例えば、1966年6月13日午後10時過ぎに目撃された物体は「緑色」ないしは「周りに赤いバンドのついた青緑色」という点で証言が一致していたが、これはネブラスカ州→ミズーリ州・アイオワ州→イリノイ州といった順番で、円弧を描きつつ移動していたことが判明した。このようにして彼は、複数の事件について地図上に飛行ルートをプロットしていった。その結果、どうやらこうした物体はカナダをも含む「大きな円」に沿うようにして出没しているのではないか――という結論に達する。


もっともオレはアメリカの各州の位置関係なんてものは全然わからない。そこで、いちおう彼の主張に沿って白地図にそのコースをプロットしてみたので、ここにはその画像を貼っておこう。ここに記したコースはその円の一部になるのだと思うが、彼がイメージしていたのはたぶんこんなものだと思う。

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さらにキールは、「この大きな円にリンクする形でUFOの多く出没する区域=窓というものが多数存在しており、そこは地磁気異常がある場所であることが多い」「フラップはこの大きな円に沿って移動することが多いので、次なる発生場所はある程度予測できるのだ」みたいな怪しいことまで言っている。


そればかりではない。本章の最後になると、チャールズ・フォートの「ファフロツキーズ」概念を援用して、「そもそもこういう流星みたいにして落ちてくるものは外宇宙から来るンでなくて、何ものかが中空に<物質化>させたものなんじゃねーの?」といったことまで口走る。暴走は止まらない。いいぞキール。(つづく


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■第七章 未確認飛行機


さて、UFOというと円盤型というのが通り相場のように思われているが、この章でキールはまず「飛行機に似てるけれどもどう考えても飛行機ではありえない飛行物体」の目撃事例を俎上にあげる。


考えてみるとキールはここまで、19世紀末の幽霊飛行船騒動なんかを題材に「ヤツらはその当時の技術レベルからしてそんな違和感のないモノを擬態してやってくる」といった議論をしてきた。その流れでいえば、飛行機が一般化してくるとともに「謎の飛行機」が出現しはじめたという話になるのはごく自然なことであろう。かくて彼は、本章冒頭で「はっきり見分けられる翼や尾翼を持つ通常のプロペラ機は、UFOミステリーの不可欠の一部である」(117頁)と宣言する。


ここで問題にされるのは、認識票や規定に定められたライトを備えていない飛行機だったり、航空力学的にはちょっと飛行不能と思われる小さな三角翼をつけた飛行機だったりする。あと、フライング・ボックスカーと称された貨物輸送機C-119にソックリの飛行機が常識では信じられない超低空飛行をした事例、あるいは彼がウェストバージニア州ポイントプレザントで自ら体験した「エンジンを停止して頭上を滑空していった双発機」の話なども紹介している。

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C-119の写真

というのが本章の導入部。
キールはここまでおおむね時代に沿ってUFO事例を論じてきたわけであるが、その流れを踏まえて、ここからは1932-38年にスカンジナビアで起きた正体不明の「大型飛行機」による目撃フラップを詳しく紹介している。それらは吹雪の最中であっても難なく飛行し、低空を旋回して地上にサーチライトを浴びせることもたびたびであったという。ちなみにキールによれば、「ニューヨーク・タイムズ」は――何年の記事かは知らんが――「犯人は日本だ」とする記事を載せたというから、満州事変後の日本が世界からどうみられていたか、ちょっと考えてしまいますな。


ここからキールは、場所が同じスカンジナビアということもあってか、1946年以降の「幽霊ロケット」騒動へと筆を進める。要するにノルウェー、スウェーデンあたりの上空でロケット状の物体が盛んに目撃されたという話なのだが、キールによればスウェーデン当局は2000件以上の報告を集めたとされる。東京大空襲を指揮した米軍のジェイムズ・ドーリットルが調査協力のためストックホルムに飛んだという、UFO本でよくみかけるような話もここには書いてある。


で、ここまでのところで「幽霊飛行船」「幽霊飛行機」「幽霊ロケット」というものが相次ぎ登場したわけであるが、さらに「幽霊ヘリコプター」というものもあるとキールは言いだす。何だか謎の光体が目撃された後、それを追うように登場するのが定番であるらしい。ここでは、輝く物体が去ってからヘリ7機とジェット機10-12機が現れたニュージャージー州ワナクの事例(1966年10月11日)、卵形物体を取り巻くかたちで7機のヘリが目撃されたメリーランド州ローズクロフト・レーストラックの事例(1968年8月19日)などが紹介されている。


さてさて、ここまでのところを改めて振り返ってみると、前にも言ったようにキールは「飛行船だとか飛行機を擬態しているようにみえる飛行物体」にえらくこだわってきた。それは何故かと考えると、彼は「UFOというのは宇宙人が乗ってきた宇宙船だとかアンタら言うけど、そんなのウソだから」と言いたいのである。だから「UFOといえば未来っぽい円盤形」みたいなイメージをぶち壊しにかかる。「歴史をさかのぼってみるとおんなじような出来事あったけど、全然円盤とかじゃなかったじゃん」と言いたいのである(たぶん)。


であるから、彼は本章の最後でいよいよ「宇宙人来訪説」をツブシにかかる。どういう論法かというと、世界中で目撃されてきたUFOというのは(おそらく1947年のアーノルド事件以降を念頭に置いてのことだと思うが)その形状についてみると、ほとんど同じものがない。タイプ分けをしようにも「タイプなどというものは何もないのかもしれない」(137頁)。宇宙人来訪説を前提とすると、そこから導かれる結論は二つ。全部がウソであるか、あるいは「あるおどろくべき正体不明の文明が、全力をあげて無数の異なったタイプのUFOを製造し、そのすべてをわが地球に送っている」ケースである(137-38頁)。


キールはそんなこたぁないだろうといって、もう一つのアイデアを示す。UFOはハードな物体のかたちを取ることができるが、大きさや形を自在に変えることもできる。「宇宙人の乗り物」なんかとは違う何かよくわからんものだというのである。


彼によれば、ある目撃者はこんなことも語っていたという。「わたしが目撃したものが機械的なものだとはとても思えないんです。たしかに、あれは生き物だったにちがいありません」。キールはUFO=生き物説を主張しているワケではないが、もう宇宙船説なんてほっといていいやん、とここで言い出したのである。(つづく


*なお、「同じ形状のUFOは存在しない」という主張はとりもなおさず「アダムスキー型円盤」といったものの存在を否定していることになるわけで、いきなりこう断言するキールは好きである


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■第六章 変幻自在な空の幽霊


キールは、引き続き本章でも謎の飛行物体の歴史をたどっていく。1905年8月2日にカリフォルニアで目撃された物体は「翼を巨大な鳥のように羽ばたかせていた」・・・そんな怪しい話を一発カマして我々を驚かせた後、彼は1909年に世界各地で起きた一連の出来事にスポットを当てる。


この年の7月、ニュージーランドでは葉巻型物体が目撃され、ひきつづき夏から冬にかけてはスウェーデンに「翼のついたマシン」や「明かりをつけた気球」が現れた。さらに12月末にいたると米国東部のニューヨークやマサチューセッツ州あたりでは新たなフラップが起きたのであるが、この事件に絡めてまたまた怪しげな人物を登場させてくるのがキールの真骨頂である。


その人物こそ誰あろう、マサチューセッツ州ウスタの実業家にして、発明家でもあるウォーレス・E・ティリングハストであった(知らんがなw)。

彼は地元でもけっこうな名士であったようなのだが、この年の
12月12日、突然記者会見を開く。そこで彼が語ったのは「自分は巨大な単葉機を発明した。試験飛行にも既に成功している」みたいな突拍子もない話であった。翼長は72フィートというから約20メートル。乗員も3人ぐらい乗れるというから当時の技術水準からすると凄いシロモノである。で、ここからが奇妙なんだが、この会見からさほど間を置かず、12月21日頃からマサチューセッツ一帯では強い光を放つ飛行体が盛んに目撃されるようになった。


そうなると、当然ティリングハウスは「あんたの仕業なのか?」とみんなから追い回されるのだが、何故か彼はハッキリしたことを言わずに逃げ回る。ようやく12月30日になって、スポークスマンを通じて「飛行機、来年2月にボストン航空ショーで一般公開しますから」と発表したのはイイのだが、なんとも皮肉なことに飛行物体の目撃はそれきり止まってしまう。

なんだかワケのわからない話である。だが我らがキールは、ここで彼一流の推理を披露してみせるのだった。これをオレ流にかみ砕いていえば、以下のような話になる。




――1896年の飛行船騒動の時には、西海岸に現れて地元の法律家たちに「世間を騒がせている飛行船は自分が発明したものだ」と触れてまわった怪しい人物がいたワケだが(前回記事
を参照のこと)今回の一件はその一種のバリエーションである。


つまり、謎の飛行機を飛ばしている「例のヤツら」は、今回は表に出ず、地元の名士であるティリングハウスを代理人として使ったのだ。

まずティリングハウスに接触した「ヤツら」は、「この飛行機は自分たちが発明したヤツだ」といって謎の飛行物体に実際に彼を乗せてやる。次いで、「一連の試験が終わったら飛行機ビジネスの利権をアンタにあげるから、マスコミ発表とか代わりにやってくれ」といった話を持ちかける。

ティリングハウスはこの話をすっかり真に受けてしまう。それで記者会見を開いたのはいいのだが、突然ヤツらはハシゴを外して姿を消してしまった・・・


「いや、ホントのところはティリングハウスをつかまえて洗いざらい話してもらえばいいンじゃねえの?」と思うところだが、ひょっとしたら失踪でもしちまったのか、その後の彼がどうなったか書いてないので仕方がない。我々としてはとりあえずキールの推理におつきあいするしかないのである。この辺りが彼のうまいところで、とにかく何でそんな手の込んだ悪戯をするのか皆目意味は分からんけれども、とにかくUFO現象というのは一から十まで「ヤツら」の仕掛けた「ぺてん」なのだということを、キールはここでも重ねて言っているのだった。


この章ではさらに、1910年8月30、31日の両日、ニューヨークのマンハッタン島の上を「長くて黒い複葉機」が低空飛行した話なども紹介している。日本でいえば新宿の真上を謎の物体が飛び回ったような話であるから「ホンマかいな」と思うが、まぁニューヨークの「トリビューン」にそう書いてあったと彼は言っている。もはや完全にキールのペースである。(つづく


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■第三章 幻想の世界


この章でキールは、UFOが突然姿を見せたり消したりする現象を説明しようということなのだろう、人間の知覚というものについて論じている。どうやらそのキモは「人間の知覚域には限界がある」ということらしく、電磁気のスペクトルというのは波長の短い宇宙線から長い方は電波に至るまでとても広大な領域にわたっているのだが、そのうち人間が視覚で知覚できるのはごく限られた可視光線だけだ――と強調している。


アマチュア無線技士電話級(笑)の資格こそもっているが基本的に文系脳のオレとしてはこういう話になるといまひとつちゃんと理解できていないのではないかと不安になってくるのだが、まあいいや、ともかくオレが理解するところでは、キールは「この宇宙の中で人間が見たり聞いたりできる現象世界というのは限られており、その外側には人間の知覚を超えた不可解なものがうごめいている」ということを言いたいようなのだった。


ただ何というか、ここでキールはうまいこと議論を混線させていて、「だから人間の知覚を超えた現象をもたらす、何らかの主体というものもあるんですよ」という方向に話をずらしているような気がする。


たとえば彼はこういう言い方をしている。




われわれの世界もまた、何かもっと大きい、われわれの感覚や理解力を超えた何ものかの一部かもしれない。(中略)これらのエネルギーは、われわれと共存し、われわれに将来とも気づかれずに同じ空間を占めることすらできるにちがいない。

われわれが本書で概観してきた証拠はこの知覚されない共存を明確に示しているし、いまやわれわれは"それ"あるいは"それら"あるいは天界の偉大な何者かと妥協しなければならないときである。(49頁)


まぁ確かに人間が知覚不能な世界やエネルギーといったものはあるんだが、そこから「人間の了解不能な世界があり、その世界におけるアクターというものも当然存在する」みたいな方向に何だかうまいこと誘導されてる感が否めないのである。


ともあれ、キールはここで「UFO現象をもたらす主体」という概念を議論の中にうまいこと密輸入することに成功した(笑)。そして、彼らの知覚域は人間のそれを超えていることを示唆する。それゆえに彼らがフツーに行動していても我々にはそれが「見えたり消えたり」する。


というか――ここがスゴイんだが――キールはさらに一歩進んで「彼らは意図的に<見せたい自分>を<人間の知覚域>に向けてチューンして見せているンではないか」といった仮説まで持ち出すのである。



われわれの輝く物体(注:UFOのこと)は色、サイズ、形が変わるが、このことはそれらが一時的に地球上の物体に見せかけるような操作が可能なエネルギーから成っていることを示す。(58頁)



孤独な目撃者たちが、地上に降りてパイロットたちによって修理されているハードな物体に出くわしたといった報告がたくさんあった。(中略)ほんとうはわざとやってるんじゃないかとしか思えないようなこうした事故があまりにも多い。それらは、その物体は実在のもので機械的なものだという信仰を強めようとしているのかもしれない。(60頁)

こういう風に「暴走」していくのがまさにキールの魅力である。


■第四章 時間外からのマシン


この章からキールは、歴史を振り返りながら、そこに今日でいうUFO現象に類したものを探っていく(むろん、それは「宇宙人は昔から地球を訪れていた!」という意味ではない。ここまでお読みの方ならお分かりだとは思うけれども)。


そこでまず取り上げられるのは、空中に「火の柱」が現れたといった記述のある旧約聖書である。あるいはキリスト教における天使というのも、見ようによっちゃUFOの搭乗員みたいなもんじゃネ?ということも言っている。もひとつ、奇妙な生きものの訪問を受けて、のちにモルモン教を興すことになるジョセフ・スミスを取り上げているのも興味深い(余談ながら、ジャック・ヴァレもUFO現象とのかかわりでジョセフ・スミスに論及している)。


18、19世紀になっても奇妙な物体、奇妙な人の報告は続いたが、1896~97年になると巨大な葉巻型の物体が人々の前に姿を現すというエポックメイキングな事例が起きるようになる。いわゆる幽霊飛行船騒動である。これが次章のテーマとなる。



■第五章 壮大なぺてん


さて、19世紀末の幽霊飛行船騒動というのは、米国の中西部諸州を中心に各地で謎の飛行船が出没し、時に着陸した搭乗員たちと目撃者が会話を交わしたとも言われている一連の事件である。本章でキールは、その主立った事件を紹介しながら、最終的にはこれを「ぺてん Deception」という言葉で総括している。


それでは何が「ぺてん」なのかという話になるわけだが、ここに本書の第三章末尾でキールが言っていた話がつながってくる。つまり、UFOの搭乗員たちは、なぜだか知らんが地球の人間たちに「偽りのストーリー」を植えつけようといろいろ画策してるんじゃネ?という話をキールはしていたのだった。連中はこの19世紀末の時点でも、そういう怪しい動きを繰り広げていたとキールはいうのである。


キールは「これは試験飛行中の飛行船だ」といった説明を目撃者が聞かされた話を紹介しているほか、「世間を騒がせている飛行船は自分が発明した」という謎の人物が1896年11月、西海岸に出現した話なども伝えている。彼によれば、この人物はカルフォルニア、さらにはサンフランシスコで、高名な法律家2人を相次いで訪問したという新聞記事が残っているそうだ。その男は黒い肌、黒い目であったが、ちなみにキールはこれをUFO目撃者のもとに現れて恫喝などをしていくとされる「メン・イン・ブラック」に類したものと考えているらしい。加えて目撃地域では、その飛行船から投下されたものと思われる航行記録の記されたカードみたいなものも再三見つかっているという。


むろんそんな飛行船は当時実在しえなかったワケで、要するにこういう情報は全部欺瞞であり、物証もインチキである。なんでそんな偽装をするのかという話になるわけだが、ここでキールは一つの推論を提示している。いささか長いが引用してみよう。




容貌、言語などがわれわれと全くちがうものもいる正体不明のよく組織された人間の集団が、一九八七年に、空から合衆国中西部の大規模な"調査"を行うのが得策だと判断したと仮定してみよう。

(中略)

彼らは自分が存在していることをわれわれに知られたくもなかったし、もしわれわれが彼らの航空機に気づくようになれば、われわれは自動的に彼らのことに気がつくようになるだろう。だから彼らは、この"侵入"をなるべく気づかれないでやれるような、あるいは少なくとも無害に見えるプランを考案しなければならなかった。(97頁)


こっそりと、衝突が生じないようなかたちで人類の社会を観察している者たちがこの地球にはいるのだ――そんな極めてラディカルな方向に向かって、キールの思考はさらに驀進していく。(つづく



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UFO問題に関心のある方であればご承知かとは思うが、2009年に亡くなったアメリカのUFO研究者、ジョン・キールというのは、「UFOというのはエイリアンが飛ばしている宇宙船なんかじゃない。あれはこの地球上に人類とともに存在してきた何らかの超常的存在が顕現したものなのだ」という、いわゆる「超地球人説 the Ultraterrestrial Hypothesis」で有名な人物である。

こういう考え方はオレの好きなジャック・ヴァレの議論ともかなりの程度重なっていることもあり、彼にはかねてから好感をもっていた。幸い彼の本はそこそこ日本語にも訳されているので、その多くはこれまで買い求めていたのだが、ただ一冊、古本でもけっこう値が高くなってしまってこれまで入手できなかったのがあった。

それが「Operation Trojan Horse」(1970)の邦訳書「UFO超地球人説」(1976、早川書房)であったワケだが、これを先日ネット経由でようやく入手することができた。

あぁ良かった良かったというところであるが、と同時に考えた。オレも最近だんだん頭がボケてきたのか、読んだ本の中身を片っ端から忘れてしまう。せっかく何年越しかで探してきてようやく入手できたこの本なのであるから、忘れる前にその内容をブログにメモしておけばよいのではないか。

もひとついうと、先に書いたようにこの本はなかなか出回っていない。入手していないUFOファンの方に、ここではだいたいどんなことが書いてあるのかお伝えしておくのも意味があることだろう。

というワケで、これからヒマな時に各章の内容などをここに記していこうと思うのだった。今回はその第一回め。

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■第一章 秘密の戦争

1966年3月、キールはUFOの調査研究を始めたのだが、第一章ではその当時のことを書いている。まずは新聞などのニュース・クリッピングサービスでUFO情報を収集したのだが、こうやって年間に集めた情報は1万件。そんなデータからおぼろげに見えてきたものがあったのだという。

UFOは水曜日に出現することが多い。かつ目撃が特定の「州内」に限定される傾向がある。ということはUFOというのは人間が作った「曜日」だとか「行政管区」といったものを理解しているのか? いかにもキールらしい問題提起がさりげなくなされている。

さらに1967年3月8日の前後、カンザス、イリノイ両州を中心に起きたフラップから22事例を一気に紹介し、読者を驚かせたところで次章へと怒濤の展開。



■第二章 答えなんかどうでもいい! 問題は何か?

UFOとは「疑似物質的 paraphysical」なものではないのか――それが本章におけるキールの主張のキモである。キール自身も「疑似物質仮説とは正確には何か?それが本書の中心テーマである」とこの章で言っている。

では「
疑似物質」とは何ですかという話になるわけですが、キールによれば、それは「すなわち固形物で構成されたのではないもの not composed of solid matter」である。

と言われてもイマイチよくわからんと思うのだが、要するに一番平たくいってしまえば「UFOというのは宇宙人が飛ばしている宇宙船なんかじゃない」ということである。つまりアレは何らかのマシン、乗り物、機械のたぐいじゃないと言っているのである。そうじゃなくて、一見モノのように見えてもそうじゃない、実はなんかよくわからん超常的存在、時によっては霊的なものとして考えたほうが良かろうとキールは言うのである。

まぁその辺の話はおいおい出てくるのだと思うが、とりあえずこの章では、彼の言う「
疑似物質仮説」に近い立場の人々(大きな括りでいえば「あれはボルト&ナット製の宇宙船なんかじゃない」と考えている人々)を紹介している。こんな面々だ。

――ジェラルド・ハート、アーサー・C・クラーク、英国のダウディング卿 ハロルド・T・ウィルキンス、ウィルバート・B・スミス、ブライアント・リーヴ、アイヴァン・T・サンダーソン、ジャック・ヴァリー(注:ヴァレのことである)・・・

彼によれば1955年には「疑似物質情報の爆発」があったそうで、つまりこのころ、客観的にみれば宇宙船説に都合が悪い情報やたら出てたじゃん、ということを言いたいのであろう。にも関わらず、ET仮説や政府の検閲(いわゆる陰謀論だろう)みたいな話ばっかはやっていたので、キールは何だかご立腹である。

本章の最後には、英国空軍で元帥をしてたヴィクター・ゴダード卿という人物を引いており、いまいち意味はよくわかんなかったけれども、ゴダード卿はここでUFO現象は霊的・オカルト類似現象だと言っているらしい。それって何よ、という話は以下で詳しく論じられていくのだろう。たぶん。




◆蛇足1
本書では「接触者」という言葉が再三登場しているが、確認してみると、これはやはり「contactee」の訳語であるようだ。いまなら「コンタクティー=宇宙人と友好的に会見したと称する人々」ということでそのままで通じると思うが、当時はそうでもなかったのかもしれない

◆蛇足2
自ら「スゲー資料調べした」とか言ってるだけあって、なかなか渋い情報も散見される。邦訳書30頁にはUFO関連で「円盤 saucer」なる表現が初めて用いられた例というのが出てきている。それは1878年1月24日(木)、米テキサス州の農夫ジョン・マーティンが頭上を通過する円形の物体を目撃した事例で、その際に「デイリー・ニューズ」が「ソーサー」と報じた、とある。我々はつい「ソーサーと言われたのはアーノルド事件が最初」とか言ってしまうが、そこに一石を投じています(どうでもいいけどw)


◆蛇足3
原著(のPDF)と照らし合わせると、翻訳ではところどころ割愛してる箇所がみつかる。訳書をお持ちの方のために気づいた範囲でやや具体的に言っておくと、例えば36頁「パーマーは・・・生涯をその問題に捧げることになる。」の段落のあとだが、原著にはこうある。「Captain Ruppelt even accused him of “inventing” flying saucers. He almost certainly did. ルッペルト大尉は、彼は空飛ぶ円盤を「でっち上げている」と言って非難までした。実際、彼はほとんどそれに類したことをしていた」。なんで略したのだろう?

あと、
38頁の「一九五五年から一九六六年までは、UFO問題の実際的研究はほとんどおこなわれなかった。」のあと、一段落が割愛されている。ルッペルトの本の影響で1956年6月、ワシントンDCでCIAやロケット技術者たちが参加したシンポジウムが開かれ、それがきっかけで、タウンゼント・ブラウンを代表とする民間調査期間NICAPが結成された――ということが書いてある。 

◆蛇足4
「UFOってオカルト的な現象じゃネ?」的なことを言っている(らしい)ヴィクター・ゴダード卿、ググってみると超常現象にとても関心をもっていたようだ(→Wikipedia)。で、このWikipediaの記事にも書いてあるが、戦後まもなく上海から東京に飛行機で飛ぶことになった時、知り合いから「あんた飛行機事故で死ぬ夢みたよ」とか言われた。で、気にしながらも実際にフライトしたんだが、その飛行機は佐渡に緊急着陸したのだった(死ななかったけど)。なんか「そっち系の人」だったようである。(ちなみにこの話はイギリスで映画「The Night My Number Came Up」になったそうな。日本でも佐渡の人々の側からこの不時着事故を描いた映画「飛べ! ダコタ」というのがあるという。全然知らんかった)


(次回につづく――とはいったが今回これだけ書くのに疲労困憊したのでw次回以降はたぶんスゲー簡単なものになるかもしれません

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*しかし、ついつい何十年来の習慣で「大盛り」頼んじまうンだが、最近は食後に「食い過ぎたな~」感に見舞われることしばしば。年取ったもんだなー


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今日はヒマなので自分が前に書いたブログを読み返していたのだが、そうしたら2013年3月の記事で「森で屁をこく」というサイトを激賞していたのを見つけた。

このサイト、別に特段の主張があるわけではないけれども日常生活の中のひっかかりだとか感情の起伏だとかをふざけた文体で書いていて、要するにオレのスキなタイプのサイトである。

ちなみにこの「森で屁をこく」、1997年から2003年まで続いていたサイトであったようなのだが、それが突然何の前触れもなく途絶したようだ。いわば「突然死」である。今回改めて訪問してみたがその状況に変わりはなく、サイトはそのまんま放置されていた。

いやしかし、と思う。このサイトが生きてたのはもう20年近く前のことになってしまったわけだが、当時、出版社の中の人か何かが「面白いからちょっと週刊誌にコラムでも書かせよう!」か何かゆうて話をもっていったら、この書き手はどうなっていたか。最後の記事に「32歳」だというようなことが書いてあるので、生きていれば(笑)いま51歳ぐらい。けっこう堀井憲一郎みたいな中堅コラムニストになってたかもしんないぞ。

何十年前から変わらないまま無造作に放り投げられたテキストが、逆に「ありえた未来」みたいなものを想像させる。それなりに年を経てきたネット文化の一断面である。




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 蒙古タンメン(大盛り)。久しぶりに行ってみた


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映画「Fukushima 50」(2020)を観た。以下感想。

この映画、東日本大震災後の福島第1原発危機をノンフィクション風に描いた作品ということで、公開当時はけっこう話題にもなった。主演は渡辺謙、佐藤浩市。

で、オレも年をとったせいか、すでに福島第1原発危機の展開なんてものはだいぶ忘れてしまっていた。なので「あぁそういやこんな感じだったんだよなぁ。当時はオレらもすげえ不安だったよ」みたいな感慨はあった。そして、「いつもタイヘンな時は現場にしわよせがきて、安全地帯でふんぞりかえってるエライさんは気楽でいいよなあ」という映画の主張自体はよくわかった。わかったんだが、しかし何かどうも釈然としない気分が残る映画であった。

それはどういうことか。

この映画の主人公である吉田昌郎所長(渡辺謙)は「アホな東電本社やトンチンカンな官邸に抗して、ひとり現場で陣頭指揮をして事故を収束に導いたエライ人」という風に描かれている。そりゃまぁこの凄まじい現場で彼がすげー獅子奮迅の働きをしたことは確かなんだが、じっさいにはこの映画で描かれていない重大な事実というものがある。

というのは(これは以前このブログでも書いたことがあるんだが)吉田氏は事故の3年前の2008年、東電の原子力設備部長というのをやっていた。これは原発関連の設備整備を担当する部署なんだそうだが、その頃、社内の調査チームから「福島第1原発には高さ10数メートルの津波がやって来る危険性がある」という報告が上がってきた。当時の吉田部長がどうしたかというと、まぁいろいろと上と相談した結果ではあるのだろうが、最終的にこれに備える津波対策というものを取らなかった。

この「ミス」は全部が全部、吉田所長の責任だったといえるのかどうかはしらん。それこそ「熱心に危険性を訴えたのだが上に潰された」みたいな可能性もある。が、最終的にその時に津波対策をしておけばあの事故は防げた可能性がある。いったん重大事故が起きれば、それこそ日本という国が破滅してしまう危険性を秘めているのが原発である。針の穴ほどの危険であってもそこは十分な手を打たねばならなかった。なのに、それを怠ってしまった。

そういう事実をココに重ねてみると、事故当時の吉田所長を「アホな上司に苦しみながらも仕事を成し遂げた偉人」みたいに単純に持ち上げていいのかという気がする。当時の彼の心中には、そうした過去の「失敗」への贖罪の念があったのではないか。いや、実際に彼がどう考えていたかは分からんが、少なくとも事実に基づくフィクションというのだから、その辺の苦い事実にまで視野を広げてこそ、この映画は単なる勧善懲悪の構図を超えた作品になりえたのではないか(ちなみに作中では吉田所長の「予想もしなかった津波がきた」みたいなモノローグが流れていたが、こういう経緯からするとこれは違うんでないかとオレは思う)。

勧善懲悪といえば、この映画に出てくる首相(佐野史郎)はえらくヒステリックで、いつもやたらと金切り声を上げて怒っている。善玉・悪玉という区分でいうと完全な悪玉である。ちなみに当時は民主党が政権を取っていたから首相は菅直人である。彼も相当に「瞬間湯沸かし器」タイプの人間だったと言われるし、現場がすげー修羅場になっておった3月12日の朝にヘリで飛んできて作業の邪魔をした(これは映画でも描かれていた)というのも事実である。

従って、こういう菅直人批判みたいな演出をするのは別におかしいことではない。ただオレなんかからすると、「政治家批判をここでもってくるなら、菅直人なんかよりもっと悪いヤツいたんじゃねーの?」という気がしないでもない。

あの時点で「まかり間違えば関東含む本州の東日本に人が住めなくなる」みたいな、そういう危険があったのは事実である。で、そりゃ吉田所長率いる現場は死を賭して仕事をしていたにせよ、官邸がコンタクトをとっておる東電本社はなんとも頼りない。そういう場面で首相が激高するのは分からんでもないし、現場にいきなり乗り込んでいくというようなミスも(とてもマズかったのだが)心情的には理解できんことはない。

そこでよくよく考えてみると、そもそも「日本の原発はメルトダウンなんか絶対起こさない」とかゆーてガンガン建設を進めてきたのは民主党が政権をとる前の自民党政権である。そんな負の遺産が時限爆弾よろしくイキナリ爆発したからって、菅直人ばっかり責めるのは酷というものであろう。

ということであれば、もっと責任を負うべき政治家というのは他にいるわけで、たとえば安倍晋三である。

これは事故以前の2006年のことであるが、このとき安倍は首相をやっていた。それで当時の安倍は、原発に詳しい共産党の吉井英勝とゆー議員から「日本の原発いうのは巨大地震で全電源喪失になって冷却できなくなる危険があるからなんとかしろ」という追及を受けていた。

ところが安倍は「原発には非常用ディーゼル発電機が置いてあるから大丈夫っしょ」とハナにもかけない。吉井議員が「しかしディーゼル発電機のバックアップとか複数系用意しとかないと危ないだろ。全然用意たりてないでしょ」とさらに追及しても「いやいやいや全電源喪失は起きないから。そんなん要らんて」ゆーて無視してしまったのだった。

それでどうなったかというと、福島第1ではその非常用ディーゼルが津波をくらってダメになってしまった。そしてあの原発事故というのは、ちゃんとした電源さえ生きていれば起きなかった。吉井議員のいうように、別のもっと安全な場所にリザーブの電力供給源を置いとけばあんな事故にはならんかったのである。

こういう事故回避のチャンスを潰してしまった安倍こそが希代の大戦犯だとオレは思うのだが、たまたま自分トコが政権失ってた時代に事故が起きたので、安倍は鼻クソほじりながら平気の平左で高見の見物をしていたのである。マトモな神経であればその時点で責任を感じて切腹するところである。

もちろん劇中で「あ、そういや数年前、国会で共産党の議員が全電源喪失の危険性訴えてたよな。まさに今回の事態じゃんかよ」みたいなセリフを言わせるのも不自然なのでそれはしょうがないのであるが、なんか「激高する菅直人を演出して事足れり」というのはいかにも浅く思われてくるのである。

というわけでいろいろ不満の残る映画というのがオレの結論である。アメリカで作ったテレビシリーズ「チェルノブイリ」なんかに比べると残念ながら格段劣っている感は否めず、いささか残念であった。














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久々に天声人語をくさす。

今朝の朝日の天声人語
は、新型コロナの厄除けということで昨年から「アマビエ」が注目されているがその手の信心というのは「蘇民将来」みたいに古くからあったのだ、人間はいつもそういうものにすがりたくなるものであるなぁというゆーような話を書いておった。もちろん、ここにはいろいろと問題がある。

肥後国海中の怪(アマビエ/アマビヱ)


とりあえず今はやっているアマビエについていうと、アレは突如出現したアマビエが「これから疫病が流行するから、そんときは私の姿を描き写した絵をみんなに見せなさい」と言っていたという話であって、別に「そうしたら疫病よけになる」とゆーようなことは一切言っていない。よって、あのアマビエは信心すれば厄除けになるというような解釈を勝手に下すのは、ありていにいって「誤報」である。訂正していただきたい(笑)。

それからついでにいうと、このコラムの書き手は「蘇民将来」の話を聞いたので――とかいって蘇民将来の最古の護符が発見されたとゆー京都の長岡京市を訪ねて取材をしているのであるが、この蘇民将来の話はそこいらじゅうに広まっているものであって、たとえばオレの故郷の氏社は八坂神社なのであるが、スサノヲをまつるこの神社には(たぶん全国津々浦々)もれなく蘇民将来のおはなしが伝わっていて、実際オレなども帰省した際にはもれなく蘇民将来の由来の記されたお札を頂いて帰ってくるのである(今年は残念ながら行けなんだが)。

そういう意味でいうと、天声人語子は別にコロナ禍のなかムリに長岡京までいく必要はさらさらなく、近場の神社を探してそこに取材をかければそれで済んだのだが、何故かそういうことをしない。なんというか、こういうところに「権威のありそうなところについフラフラと寄っていってしまう」という朝日の良くない部分がにじみでている。

さらにもうひとつ言っとくと、まぁこの手の護符なんてものに新型コロナを防ぐ効用は一切ないので、いよいよ緊急事態が訪れつつあるいまの日本にあって、そんなものに頼ってしまう人間の哀しさに詠嘆してもしょうがねえだろうそんなこと言っとる場合かコノヤロウ、という感想をオレは抱いた。






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借り物の写真を掲げつつ謹賀新年。
ことしもコロナが心配であるが、まぁどうにかこうにか。



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朝日新聞でオレが楽しみにしている数少ない企画のひとつ、「アロハ記者」シリーズが本日の朝刊でまた始まっていた。今回のタイトルは「こりずにアロハで猟師してみました」というのである。

エセ紳士がバッコする朝日新聞の社内にあって、この手のお行儀の悪い連載は「いかがなものか」的なマナザシを浴びていることが予想されるのであるが、こうやってたびたび紙面にサバイバってくるあたりは流石である。

そういえば、作曲家の團伊玖磨には「パイプのけむり」と称する大長編エッセイシリーズがあった。で、「続パイプのけむり」「続々パイプのけむり」あたりまではまだ分かるのだが、「なおかつパイプのけむり」「どっこいパイプのけむり」などと奇妙なタイトルをつけてはしつこく刊行を続け、このシリーズは結局27冊に及んだ。今回のアロハ記者シリーズが第何弾になるのかは知らんが、どうせならこれぐらい続けて頂きたいものである。

閑話休題。で、再開第一回目はどういう話であるかというと、アロハ記者のもとには社の内外から弟子が集まってきていて(むろん百姓の仕事を教えてほしいという弟子ではなく、ジャーナリストとしての弟子である)そこには一種の「私塾」みたいなものが生成しているのだが、筆者は別に謝礼をもらうでもなく飲み会のカネなんかも自腹を切って出している。であるならば「その分は働いて返してもらうぞ」というワケで、弟子たちをフル活用して長崎の田んぼは現在耕地面積拡大中――といったストーリーである。


いやはや、こりゃすごいことになってきたなあと思う。

というのも、もともとこの企画というのは、社外でライター活動もしている朝日新聞の記者が「上の人間に睨まれて朝日をクビになっても最低限メシは食えるように自分で田んぼを作ってみよう」という初期設定のもとに始まったものである。その辺がいつのまにかどっかいっちまって、今では「都市文明や新自由主義に抗するための砦を田舎に築くのだ」みたいな話になってないか。

もちろん長編マンガとかが延々続いているうちに「最初のあの話どったの?」みたいになってしまうことはよくあるし、テレビの「鉄腕ダッシュ」なんかも最初は「地図上にダッシュ村という地名を載せたい」とかいって始まったものがいつの間にか完全に違うものになってしまった。なので、当初の意図から離れておかしな方向に逸脱していくのもアリだろう。

で、オレはこれ読んでて思ったのだが、アロハ記者は長崎だか大分だかに作りつつあるのはひとつのコミューンなのではないか。加えて注目すべきは、辛酸なめ子さんも挿絵のイラストの中で「ハーレム状態」という言葉を使って触れているが、このグループには若い女性記者・ライターが陸続と詰めかけているらしく、その限りでなるほどハーレムみたいに見えるということである。

コミューンに集まる若い女性――というと、ジジイ世代であればすぐ思い出すものがあろう、そう、キリスト者の千石イエスが作った宗教的コミュニティが世間から「洗脳してハーレム作ってるンじゃね?」とかいって糾弾された「イエスの方舟事件」である。

まぁアレなんかは実際な真面目な聖書研究サークルみたいなもので全然ハーレムとかじゃなく、いわば濡れ衣だったのであるが、とまれ我々の耳目を引いた出来事であった。確か「転移21」の山崎哲が劇にしたのを若き日のオレも観に行った記憶がある。

いや、話がやや遠回りしたけれども、今回の新シリーズは「若い女性がいっぱいいるコミューンは現代に成立するのか」という方向に暴走していったらどうか。いやどうかとかいってももう構想は固まってるだろうからムダなのだが。まぁ不定期連載だというので、その行く末を見守りたい。

追記

なお、オレはこの企画について「田舎は基本的に閉鎖的な社会で、そんな牧歌的なイイ話ばっかじゃないだろうよ」というような嫌みを再三書いてきたのだが、今回の記事で筆者は「オレは7年間もまじめに米を作り続けてきたんだよ、地域社会に根付くためにはそれぐらいのことしねえとダメなんだよ、話はそっからよ」的なタンカを切っていて(いや正確にはそこまで言ってないのだがw)オレ的にはなんかとても面白かった。




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内野恒隆著『にっぽん宇宙人白書』(1978年、ユニバース出版社)というUFO本を手に入れた。これは、その方面ではかつて一世を風靡した「UFOと宇宙」という雑誌の編集者が、いわゆるエイリアンとの遭遇譚を日本各地に取材したというテイの本で、おそらくは「UFOと宇宙」に載った記事をリライトしてまとめたものなのだろう。

で、「自分のクビを取り替えてくれ」という宇宙人に会った話など――といってもほとんどの人には意味不明であると思うが――ともかく奇妙な話が満載されていて、UFOファンの間ではなかなかに評判の良い本なのだった。

なのでオレも前から探していたのだが、これまでなかなか見つからなかった(これはたぶん、UFO好きで名高い大槻ケンヂがこの本を各所で激賞しているので品薄になっているせいではないかとオレは睨んでいる)。そんなワケで、福島市の「UFOふれあい館」に行った時、UFO本ライブラリーにコレがあるのをみつけてすかさず借り、二階の大広間に寝っ転がってザッと目を通してきたのも良い思い出である。

さて、そんな本を今回ようやく入手したのであるが、改めてペラペラめくってみると実にまぁ怪しい話ばっかりで、「これぞUFO本の醍醐味だっ!」と叫びたくなるほどであった。ちょっと感動したので今回は最初のほうをチラッと読んでの感想文を書いてみたい。

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ボロボロだったので「ニチバン製本用カバーフィルム」で包んで解体を阻止した『にっぽん宇宙人白書』



しょっぱなに出てくる話は関東大震災の時にエンバンに先導されて逃げたら助かったという老女の体験談である。ケネス・アーノルド事件の四半世紀前であるから、なんか時代感覚がムチャクチャなスチームパンクSFみたいな味わいがあってよろしい。

で、二番目に出てくるのも素晴らしい。これはオレが超常同人誌「UFO手帖」の関係で知り合った在野のUFO研究家、ものぐさ太郎αさんが「note」に「 大原で何が起こったか」と題してコラムを書いているぐらいで、つまり関係方面ではとても名高い事案である。

なので今回の感想文はこの案件について語ろうと思うのだが、ひと言でいうとコレ、京都・大原で旅館「紫雲」を経営していた河上むつさんの体験談である。で、この人、何やらヘンな体験を山ほどしている。だいたい1974~76年頃の話が中心なのだが、最初に書いてあるのは、夜中に「白い光のかたまり」のように見える身長30-40センチほどの小人が現れて、そいつに光を浴びせられた――という話である。ちなみにたぶんこの怪光線のせいなのだろう、河上さん、ずっと苦しんでいた交通事故の後遺症がこのあと急に直ってしまったのだという。

で、また別の話であるが、彼女がある日の夜、調理したカボチャを冷やそうと鍋ごと外にもって出ていったら、そこで泡状の飛行物体(これはちょっと意味不明である)に遭遇し、そのあと気がついたら鍋の中のカボチャが灰になっていた――という出来事も報告されている。ちなみにこの件については、その後、アメリカの「博士」をなのる男がやってきて「これは貴重なものなので」とかいって鍋を持ち去ってしまったという後日談がある。この博士は日本語をしゃべれたのか、あるいは英語をしゃべったのだが河上さんは難なくこれを聞き取ったのか少し興味があるけれども、そんなことはともかく、これなんかは「カボチャを煮た鍋」というリアリズムと奇現象との取り合わせが意表をついており、かつ Men in Black テイストをまぶしているという点でオリジナリティの感じられる素晴らしいストーリーである。

こうした「怪しい人物」にまつわる話はまだあって、ある日、性別不詳ながら身長165センチぐらいの眉目秀麗な人物が彼女の旅館の玄関先に現れたことがあるのだという(ちなみにぴっちりした服装で、アダムスキの妄想に出てくるオルソンに似ていたようである。ただし外国人風だったとかそういう事は一切書いていない)。

この人物とは特に言葉をかわしたりすることはなかったようだが、こういう事が都合三度あって、3回目には河上さん、また例の白い光線を浴びせられて卒倒してしまった。その後、玄関先にはそのエセ・オルソンのそれと思しき謎の足跡も見つかった。

そのほか、家の前の道路を通りがかったクルマの前輪が何故か空中に1メートルほど浮き上がってしまい、その場で立ち往生してしまったという話、近くの高圧線上に飛行物体が出現し、その際には一帯でクルマのエンジンやライトが止まってしまった話など、ともかく旅館「紫雲」の周囲ではスゲー怪現象が目白押しなのだった。

さて、この河上さんにまつわる一連の事件報告の素晴らしいところは、「京都・大原にある旅館紫雲」という固有名が示されていること、つまり一連の事件の現場が特定されてる点である。となると、こんな旅館ホントに実在するのかイロイロと調べたくなってくる。そういうことで実際に先に触れたものぐさ太郎αさんも、この旅館に泊まろうと一度は試みたらしい。もっとも前述の「大原で何が起こったか」には「電話が繋がらず、実現できていない」と書いておられるので、最終的にはコンタクトはうまくいかなかったのだろう。返す返すも残念である。

しょうがないので、ネットで情報収集する。

ちなみにこの旅館、本の中には京都大原の阿弥陀寺から国道367号線を隔てた向かい側にあるとか書いてあるので、Googleマップのストリートビューで辺りをうろついてみる。するとどうやら国道367号線は新道に切り替わったようで、本の中で言っている367号線というのはおそらく旧道なのだろう。確かにその旧367号線とおぼしき道路からは阿弥陀寺に上がっていく道がついており、近くには『にっぽん宇宙人白書』で言うところの紫雲のそれとおぼしき黒塀のある家屋が認められる。だが、少なくともこの家屋が旅館をやっているような形跡はなく、いつの間にか廃業してしまったようである。遅かりし、である。

もっとも、Google先生のおかげでなかなかに興味深い情報も見つかった。

無断でリンクを貼らせてもらうが、行き着いたのは

「B級グルメを愛してる! 味な人生、味な生活。~米川伸生のB級グルメ食べ歩記」

というブログで、ここに「ありえないくらいの大量の松茸と湯ばーばの怪 ~京都「紫雲」の至福と驚異と~」というエントリーがある。

どうやら、これはその幻の旅館「紫雲」にメシを食いに行った人のレポートであるらしい。それは「大原三千院の近くにある『紫雲』」についての話で、「店は旅館のような佇まいをしている」などとあるから、どうも旅館「紫雲」は後に食べ物屋に業態を変えたということであるらしい。そして、この記事の日付は2005年10月8日とあるから、少なくともその時点で(ないしは直前まで)紫雲は営業していたという事がわかる。

さらに、このブログの主の米川さんは「アンビリバブーな松茸を食わせる店」「1年のうち、この時期だけオープンする松茸を食わせるだけにためにある店」などと書いている。要するに、この時点での紫雲は、とにかく食い切れないほどの松茸を出してくれる季節営業の店として知る人ぞ知る名店(?)であったようなのだ。

だが、このエントリーでオレが一番注目したのはそういうことではなく、この店の女将(一貫して「おばば」と表記されておるw)が相当な変人として描かれていることだった。筆者はこのおばばに対して、「金をごまかす」「ありえない丼勘定をする」などと、なかなかに辛辣なことを言っている。

その辺はリンク先のブログを見て頂くと一番早いのだが、万一リンクが切れてしまったりした時に備えて簡単に説明しておくと、どうやらおばばは料金を全部時価扱いにしているらしく、その流れで客にずいぶんと無茶な要求をふっかけてくるようなのだった。具体的にいうと――

おばばは二級の日本酒を出しているにもかかわらず「お銚子は一本一万円」と主張してきたが、抗議されると「じゃ一本千円で」とかいってあっさり折れた

おばばは「お釣り」という概念を否定しているらしく、たとえば1万4千円で万札2枚を出したりすると「お釣りがない」と言われ6千円余計に徴収されてしまう(なので事情を知った人は1000円札を大量に用意していくらしい)

おばばはバイトの青年たちをダシに「若い者たちに心付けをあげてくれないかのぉ」などとチップを要求した


というわけで、もちろん「食い切れないほど松茸を出す」のだから、結果的にそんなにボッてるワケではない可能性もあるンだが、だったらなんでこういう怪しい言動を取るんでしょうかという疑問が兆さないでもない。おばばはどうも「ちょっと変わった人」であったようなのだ。

となると、仮にこの「松茸をだす紫雲のおばば」が、くだんの河上むつさんであったとしたらどうなるか。河上さんが「変人」であった可能性が俄にクローズアップされてくるのであった。

もちろん、ブログの中には残念ながらおばばの実名とかは出てこないので、この人こそが30年後の河上むつさんであったと断定することはできない。だが、ここには「最近腰痛がひどくてね」「もう体にガタがきているから来年はどうなることやら…」といったセリフが引用されているので、このおばばが相当の年配だったことは間違いない。

一方、『にっぽん宇宙人白書』のほうを見ると、当時の河上さんが何歳だったのかは書いてないけれど、「パンタロンをはいた大柄な河上さん」とある。1970年代というとパンタロンは若者の間で流行っていたような気もするが、旅館を経営しているというぐらいだから20歳代というのはまずないだろう。となると若くて30代、フツーに考えれば40代ぐらいか。

で、仮にその想定が正しいとすると、ブログの話はそれから約30年後なので、このとき河上さんは60代から70代。おばばも丁度それぐらいと思われるので、両者が同一人物だとしても何となく平仄はあう(ちなみに、ググってたら1974年の時点で河上さんの年齢を「49歳」と書いてるサイトがあった。いろんなメディアで報道されたらしいンで、どっかに年齢が書いてあったのかもしれない)

とまれ、「河上さん=松茸おばば」である可能性は高い。すると、不思議な話を語った河上さんの証言を文字通りに受け取ってよいのかという気がしてくる。「いや、変人の証言だから体験談も怪しいっていうのかい? そりゃフェアじゃないよ」という声もあるかもしらんが、まぁ基本的に変人の言うことはその分、ちゃんと検証していかないと危ないというのがオレのスタンスである(というかオトナの世界はそういう理屈で動いているのである)。

そういう目で改めて『にっぽん宇宙人白書』をみてみると、ちょっと気になるところもある。

そもそも著者は「テープレコーダーで証言を録らせてほしい」と頼むのだが、「気違い扱いされるので」とかいって河上さんは最初渋ったらしく、ここには何かちょっと引っかかるものを感じる。彼女は「言った/言わない」の証拠になるような証言記録が残るのがイヤだったのではないか。

あと、河上さんの証言の信憑性を判断するためには第三者の証言が欲しいところだが、この本の中ではそうした人々に積極的に取材をかけた形跡が(あんまり)ない。具体的にいえば、自宅近くの田んぼに赤いハート型の光体が現れた時、これを「隣り町のAさん」と一緒に目撃したという記述があるのだが、Aさんがどう言ってるかはよくわからない。クルマの前輪が浮き上がって走れなくなってしまった事案については、あるテレビ局が「ここらでは不思議なことが起こる」というトラック運転手の証言を取ったとされる。だが、そんな証言はホントにあったのか。京都新聞が取材に来たことがあるらしいが、どんな記事が出たのか。「話をききつけてやってきた立命館大の学生と一緒にUFOを目撃した」という話はホントに確認されているのか。

唯一、オルソン似の宇宙人が残した足跡なるものを見たと報じられた日本UFO研究会の平田留三代表に対しては取材をして、平田さんから「オレ確かにその足跡みせてもらったよ」という証言を得たようなンだが、そもそもその足跡というのはコンクリート上にあったものを半紙に写したものらしく、そんなものどうやったら紙に写せるのかよく分からんし、河上さんはその「足跡の現物」をこの本の著者には絶対に見せようとしなかったというから、これとて初手からいかにもスジ悪の話なのである。

さらに身も蓋もないことを言ってしまえば、大体これが「UFOと宇宙」という円盤ファン向けの雑誌用に取材した話だったとしたら、ちゃんと検証した結果、「HOAXっぽい」みたいな情報が出てきてしまうとかえってマズいのである。「少なくともこう言ってる人がいる」という事実を押さえ、そこから先に行かない・寸止めするというのは、商売としては合理的な判断である。

だから、決してそういうことが事実としてあったと思う必要は全くない。ただ、そのようなことを「確かなこととしてあった」と語る人間が面白い。オレはそのような視点でこの本を読んでいる。そして、この本はそういう読み方にも十分に応えてくれる深度を備えているように思えるのだ。(以下つづく・・・かはどうかは知らんw)


【おまけ】
どっかで拾ってきた映像から切り出した河上ムツさん(たぶん矢追純一UFOスペシャルで取材を受けた時のものだと思われる)
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超常・オカルト方面のネタ番付というものがあるとして、かつて「UFO」は東の正横綱クラスに堂々君臨する王道ネタであった。

時移って、残念ながらそんなUFOネタも今では小結辺りでウロウロしている感があるのは否めない。が、そんな風潮に抗って孤軍奮闘している同人誌が

「UFO手帖」

である。UFO好きの有志が様々な切り口でUFOを論ずる雑誌として、これがギョーカイで独自の存在感を放っていることは、こんなサイトをわざわざ訪ねてきたアナタであるならば重々ご承知であろう(願わくは、たぶん)。

で、待望久しかったその最新版「UFO手帖5.0」が、このほど1年間のインタバルを経て遂に刊行された。通販等にさきがけて現物を入手することができたので、今回は簡単にその内容をご紹介しよう。


■特集

今回の特集は、映画『UFO―オヘアの未確認飛行物体』である。2018年製作のこの作品、日本はもちろん本国アメリカでも劇場では公開されなかったというぐらい地味なUFO映画なのだが、その実、篤実なUFOファンにとっては噛めば噛むほど味の出るスルメのような佳作である。では一体どこが凄いのかという話になるワケで、異常な嗅覚をもってどっかから本作を見いだしてきた秋月朗芳編集長ほか有志の方々が、その魅力を深掘りしたのが今回の特集である。

簡単に説明すると、この映画は2006年にアメリカ・シカゴのオヘア国際空港で実際にあったUFO事件を下敷きにしている。

空港の上にエンバン状の物体が出現する。衆人環視の中、しばし滞空したエンバンはやがて上空の雲を突き破って飛び去る。その雲には「まん丸な穴」が開いていた――実際にあった事件はそのような奇妙なものであったワケだが、本作もまたこれと同様な事件が起きたという設定で始まる。

もちろん、映画にはこれにプラス・アルファの要素が加わっている。エンバンは空港上空に出現した際、管制塔の交信記録の中に謎めいた音声信号を残していった。で、数学好きの地元の或る大学生が、ひょんなことからその事実に気づいてしまい、それが人類に向けたメッセージであることを見抜く。右往左往した結果、彼はその解読に成功するのだが……といったのが大体のストーリーだ。

いや、大したスペクタクルがあるわけではない。映画としては実に渋い。渋いのだが、しかし、このストーリーには、実は我々UFOファンの琴線に触れる部分がある。そこが本作のキモなのである。

「誰も気づいていないUFOの秘密にオレは肉迫しているッ!」というのは、UFOファンであれば一度は妄想してしまうシチュエーションである。ここで描かれるのは、まさにその陶酔感、恍惚感。そこいらあたりの描写が我々としては身につまされる。何だか浸みる。いや、かつて矢追純一UFOスペシャルを食い入るように見て、一瞬でも「ひょっとしてマヂ?」と思ってしまったアナタであれば、その感覚に覚えがないとは言わせないッ(笑)。

というわけで、本特集ではこうした本作の魅力が紹介されるほか、モデルとなったオヘア事件や、空港が舞台になったUFO事例、多くの人々が目撃した1980年代以降の事件などが幅広く紹介されている。もう一つ言っておくと、この映画の中では主人公が数学の才能を生かして暗号のデコードに励んでいくンだが、特集ではそのあたりについての解説もある。典型的文系脳のオレは映画を観ててもその辺の理屈がほとんどわかんなかったのだが、その「微細構造定数の彼方に」という論考を3、4回読むことで、その理屈をなんとか七割ぐらいまでは(笑)理解することができた。

表紙を含め、随所に掲載された窪田まみ画伯のイラストもそそる。UFOファン必読の企画である。


■連載など

連載も好調である。ポップカルチャーにUFOが刻印を残した事例を取り上げた「邦楽とUFO」「洋楽とUFO」「UFOと漫画/アニメ」。ラインホルト・O・シュミットというオールド・ファッションド・コンタクティーを紹介する「アダムスキーみたいな人たち」。

「古書探訪」は岡山のコンタクティ、安井清隆・畑野房子夫妻にまつわる不思議な話を取り上げたローカル本を発掘している(ついでにいうと、この記事の書き手は我が子にUFO英才教育を施すという戦慄すべき実践に取り組んでおり、その成果の一端は今号掲載のミニコラムに記されている…)。「シリーズ 超常読本へのいざない」は、比喩的にいうならば「追いかけると逃げてしまう」超常現象特有のアポリアを森達也氏などの著作を通じて追究した意欲作。

「乗り物とUFO」は、UFO現象に付随して、何故だかしらんがしばしば登場するヘリコプターにズームイン。「ブルーブックもつらいよ」は、しょうもない事例なんかにも付き合わあわざるを得なかった米国の調査機関、プロジェクト・ブルーブックの悲哀(?)を今回もしみじみと描いている。

あと、連載関係ということでひとつ触れておくと、以前の「UFO手帖」には筆者がそれぞれにイチオシのUFO事件を紹介する「この円盤がすごい!」という奇っ怪な企画があったのだが、これは今回休載。ちょっと残念である。次号ではどなたか書いてほしい。


■その他

このほか、エッセイ「飛鉢の法」は「信貴山縁起絵巻」などに出てくる「空飛ぶ鉢」にスポットを当ててて読むと何だかスゲー自分がインテリになった気分になれるし、UFOに触れた1947-79年の雑誌記事を網羅しようという「新編・日本初期UFO雑誌総目録稿」(今回のはその第一回という位置づけだが)はたぶん30年後にスゲー価値が出てくる資料である。もちろん、毎号人気の四コママンガ「フラモンさん」もいつもながらジワる。



■最後に

で、なんかここまでは評論家みたいなことを偉そうに書いてきたけれども、実はオレもここ何年かこの同人誌に原稿を載せてもらっている関係者のひとりで、今号にも1本書いている。アメリカのボブ・プラットという研究家が「ブラジルのUFOは如何に乱暴か」ということを書いた『UFO Danger Zone』という本の感想文である。買った人はヒマな時にこれも読んでください(笑)。


ということで、本号は11月22日に開かれる「第三十一回文学フリマ東京」で頒布されると聞いている(コロナで中止にならなければ)。もちろん早晩通販も開始されるハズである。文学フリマ終了後にココをご覧になった方は、版元の「Spファイル友の会」のサイトを定期巡回されたい。


追記

なお、何年も後にコレを読んだ人が疑問に思うといけないので老婆心ながら書いておくが、表紙にあるコピー「ぼくたちは、UFOをまさわなければならない」というのは、ちょうどこの本が出た時期には新型コロナウイルスが流行しており、結果経済活動が停滞しがちであったことから「いや、経済はまわさないといけないよネ」という言説が広まったのをもじっているのであって、海老一染之助・染太郎とは全く関係ない。というかこの時点でこの2人は物故しておられる



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米映画「スキンウォーカー・プロジェクト」(原題はSkinwalker Ranch)のDVDをレンタル落ちで売ってたので買った。以下感想文。



オレがなんでこのDVDを買ったのかというと、これが一種のUFO映画であると聞いたからだ。

とりあえず、その背景をWikipediaに従って説明しよう。

アメリカはユタ州の田舎に「スキンウォーカー・ランチ」という、その筋ではとても有名な牧場がある。なんでここが有名になったのかというと、1990年代の後半に「この牧場の一帯では奇妙な現象が多発している」という話が広まったからだという。

要するにUFOが出たり、いわゆるキャトルミューティレーションがあったり、目を赤く光らせたナゾの巨大動物(しかも撃っても死なない!)が出現したり、ともかくいろんな不思議なことが起こる、というのである。

ちなみにこの「スキンウォーカー」というのは動物とかに変身できる魔人のことで、もともとナバホ族の伝説に出てくる存在であるらしい。その辺にちなんだ名前もなんか「とても効いてる」感じがする。スキンウォーカー牧場にまつわるアレコレは、「Hunt for the Skinwalker」(2005年刊)という本に書いてあるようなので、興味のある方は読まれるが宜しかろう。

さてこのスキンウォーカー牧場、1996年になって、アメリカの大金持ちであるロバート・ビゲローが設立した「National Institute for Discovery Science」――「全米発見科学研究所」とでもいうのだろうか――という組織によって買い取られる。このビゲローはUFOとか超常現象とかが大好きな愉快なじいさんで、この研究所もその手の研究をするという道楽のために作ったものらしい(もっともこの研究所、2004年には解散してしまったようだ。なかなか道楽というのも大変である)。要するに、このオバケ屋敷ならぬオバケ牧場を我が物にして、存分に調査してやろうという事であったらしい。

その後、2016年になると、ピゲローは実業家のブランドン・フューガル(Brandon Fugal)なる人物にこの牧場を売っぱらってしまうのだが、それまでの間、実際にいろいろと科学的な観測機材など持ち込んで調査をしていたという話である。

その内容というのは公開されてないためいろいろと憶測を呼び、研究調査に参画したという触れ込みの人物が「いろいろ出ましたゼ」的な怪しげな話をふりまいたりもしているらしく、そんなこんなでスキンウォーカー牧場、いまや米国オカルト界における、ちょっとしたアイコンになっているようなのだった。

実際、UFOをテーマにしたアメリカのドラマシリーズ「プロジェクト・ブルーブック」シーズン2ではこの話がネタに使われているらしい(残念ながら未見だが)。あるいはCSのヒストリーチャンネルでもこの話をネタにしたシリーズが作られたらしく、その辺を絡めてUFO研究家の並木伸一郎氏が「ムー」のサイトでコラムを書いておられたりする。

と、まぁ長い長い前振りになってしまったが、たまたま最近になって、この実在の牧場にインスパイアされての映画というのも実はあったのだ、ということを知った。じゃあ念のため観ておくかと思ったのである。

Amazonレビューなんかではけっこう高得点つけてる人がいるんでアレなんだが、結論を先に言ってしまうと、まぁオレ的にはそんな面白い映画ではない。なので、今回はこの作品にいろいろと文句をつけてみようと思うわけだが(笑)とりあえず以下、ネタバレありで簡単にあらすじを説明する。知りたくないという人はここでお帰りください。



 ……



 ……



 ……





映画は、基本的に手持ちカメラの映像によるドキュメンタリーを模したかたちで進んでいく。舞台はユタ州の「スキンウォーカー牧場」。2010年のある日、その家族の8歳の息子が家の前で遊んでいたところ、空に光がきらめいたと思ったその瞬間、父親の目の前でパッと姿を消す。翌年の夏、少年失踪のナゾを解くべく「Modern Defense Enterprises」(略称MDE)なる組織の研究チームが牧場にやってくる。牧場の内外に監視カメラを配置し、どんなことが起きるのか、長期間泊まり込んで確認しようというのである。

怪異は、さっそくチームのメンバーを襲う。

キーンという怪音が家中に響き渡る。
屋根の上を誰かが歩き回る音がする。
外に出てみると何故か無数のコウモリが屋根の上で死んでいる。
牧場内で血を抜き取られた家畜が発見される。
家の中では、失踪した息子の幻影が毎日夜の決まった時間になると現れ、走り抜けていくようになる。
ネイティブインディアンの祈祷師みたいなのを呼んでみたら、祈祷をはじめる間もなく「おれには手が負えない」とかいって逃げ出していく。
巨大なオオカミのような動物が牧場を襲い、トラックすら破壊する。

やがて、牧場の納屋の中を捜索することになったチームは、そこで「MDE」という文字の入った機材を発見する。どうやらMDEは1960年代にも同じ牧場の調査に来ていたらしい。併せて、そこで前回の調査チームが撮ったらしいビデオテープも見つかる。これを再生してみると、当時の牧場では小さな娘ひとりを残して家族全員どっかいっちまった風で、調査メンバーらしき連中は感染症の拡大を疑ってるのか防護服きた状態で娘を保護するンだが、なんだかメンバーがいきなり発狂したり、娘がエクソシストのリンダ・ブレアよろしく取り憑かれたみたいな表情になっちまったりで、なんだか凄いカオス状態だったことが判明する。

あれやこれやあり、チームのメンバーは「オレらも危ないんじゃネ?」ということで命の危険を感じはじめるが、クルマが壊れていて脱出もままならない。翌朝に救援隊が来るという状況下、みなで一夜を過ごすことになるが、最後、何やらエイリアンのような姿の怪物が家の中にまで乱入してくる。おかしくなって自殺するメンバーも出てくる。ハッキリとは描かれないが、おそらくは全員が死亡したのであろうことを示唆して映画は終わる…。

とまぁ、ここまでの話でおわかりだと思うがコレ、なんだか怪奇要素をムチャクチャ詰め込んでみましたというテイの映画である。いや、実際にUFO現象の周辺ではキャトルミューティレーションはつきものだし、怪しい人物の徘徊(MIBなどというヤツ)やら怪現象(奇妙な電話がかかってきたりポルターガイストが起きたりというアレだ)、怪しい動物の出現(チュパカブラなどというのもある)等々、いわゆる超常現象的なものがしばしば起きるとされている。で、まさにそういう奇っ怪なフィールドをめぐる「実話」があるというので、制作者の皆さんも「それじゃあ」というワケで思いっきりネタを濃縮した作品を作ってみたくなったのであろう。

ただ、見終わってみると、なんだか散漫なのである。いったいここで描かれた一連の現象を我々はどう理解すればいいのか。最後にエイリアンみたいなのが出てくるので、コイツが実は「首魁」としていろいろ仕組んだということなのだろうか? いや、だが何のために? 映画では子供が掠われたテイになっているのだが、彼はどこに誰が連れていったのか? この子供が亡霊みたいにして家の中を走っていたりするのはどういう意味なのか? 事ほどさように、現象を束ねてみせる「意味」とか「意図」みたいなものが一切示唆されないので、観ている者は困ってしまうのである。

加えていえば、劇中に出てくる「Modern Defense Enterprises」なる研究組織は、おそらくはピゲローの「National Institute for Discovery Science」をもじったものなのだろうが、この組織が1960年代にも調査に入っていたという設定がうまく後段につながっていない。仮に前回調査が大惨事に終わったのであれば、その教訓を得て二回目はもうちょっとマトモなやり方を考えるのではないか? しかしその割には連中無防備すぎるのではないか? なんだか理解に苦しむ。

もちろん先に言ったように、確かにUFOと超常現象というのは何故か強いつながりをもっていて、それが一緒くたになってワッと出てくる世界というのはアリといえばアリなのである。だが、ただ「ハイ並べてみました」というだけでは作品にならない。

そこんところを自分なりのロジックにおさめようとして、UFO研究家なんかはこれまでイロイロと屁理屈をこねてきたのである。例えばジョン・キールは「超地球人説」ということを言ったのだし、ジャック・ヴァレは「コントロール・システム」というものを提唱したのである。映画作った人たちも、及ばずながらソコはちゃんと屁理屈を考えないとダメである。

もっとも、「事実とされていることをベースにした作品」という事になると、あんまり好き勝手にやるのも憚られるというところはあるだろう。その手の怪現象を映画化するというのはかくも難しい。志半ばで散ったこの作品、改めてそんなことを我々に伝えてくれているようでもある。


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これ何度みても泣けるんだよなー。
コメントみると言葉の壁をこえて世界の人々にも伝わっているようだ。
オヤジ役の俳優のなんだかしょぼくれた感じが実にイイ。




盛岡中心に本屋や音楽教室を経営しとる東山堂という会社のCMなんだが、制作秘話みたいなのがココで読める。
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バッティングセンターのようなところにビートたけしと将棋の藤井聡太がいる。何故か2人ともキャッチャーのマスクとプロテクターをつけている。さらに、たけしはグラブとボール、藤井聡太はバットを持っている。たけしは「それじゃ、これから投げるから打ってみな」というようなことを藤井に言っている。

(連想)お笑いの世界では萩本欽一が将棋好きとして有名で、確かアマ高段の実力をもっている。たけしと藤井聡太という組み合わせにはその辺が何か関係しているのかもしれない。
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デパートのようなところに来ている。店員とおぼしき人と一緒に歩いていて、「行ったことのある県というのはどれほどありますか?」と聞くので、「ほとんど行ってるんだけど、訪問したことのない県も幾つかある」などと答えている(これは現実でもそう)。

突然、火災が起きた。非常階段のようなところを何故か上にむかって上っていく。人がたくさんいて、ぎゅうぎゅう詰め。手すりをつかむのもままならないほど。何だか押されて階段から転落しそうな感じ。

やがて、なぜか階段は下に向かってくだりはじめる。途中、階段が切れていた。何だかしらんが突然下に向かって転落していく。「アーッ!」という感じ。とても怖かった。だが、なぜか助かったようで、いつのまにかベランダのようなところに立っている。ドアを開けて建物の中に入っていく。
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UFOドキュメンタリー映画とも称すべき「虚空門 GATE」(2019)のブレーレイ・ディスクを買ったので以下感想文。




なお、思いっきりネタバレなので嫌な人はここで帰るように。



引き続き読む人はコチラへ













































はい、ではここから。

この映画をひと言でいうと、或るUFOコンタクティーの佇まいを描いたドキュメンタリーである。冒頭、「NASAが月でみつけた女性宇宙人のミイラ」という触れ込みの映像が紹介されたり、UFO映像を自ら撮影して店先で売っている男鹿半島・入道崎の「みさき会館」のオヤジへのインタビューなどもあったりするが、それは話の本筋とは全く関係がない(ちなみにこの入道崎には以前一度行ったことがあるのだが、このときオヤジを訪ねてちゃんと話を聞いてくれば良かった。店先覗いただけで帰ってしまったのは大失敗だった)

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 これが行った時の写真。UFOラーメンがウリらしい


閑話休題。とりあえず大体のあらすじを紹介しておこう。

この映画の主人公は庄司哲郎なる人物だ。かつてはそこそこ活躍したこともある元役者だというのだが、どうやら小さい時から何度も宇宙人に会っているというコンタクティーで、UFOなんてものは呼べばすぐに飛んでくるというのが口癖だ。ならば、ちゃんとUFOを呼んでもらって、撮影させてもらおうじゃないの――おそらくはそういう狙いで監督は本格的に撮影を開始する。

監督は、この庄司氏を山の上とかに連れてってはUFO呼びをさせる。彼のスマホには何か怪しい影みたいなのが写ったこともある。だが、ちゃんとした映像は撮れない。何度かそんなことを繰り返していたのだが、「きょうロケ行くから」という日に庄司氏は突然姿を消す。当然「なんちゅー無責任なやつや」という話になるワケだが、実は彼、違法薬物で逮捕されていたのだった(ちなみに本人は冤罪を主張)。

そう言われてみると、確かに元俳優ということで目鼻立ちは整ったイイ男ではあるが、何で生計を立ててるのかもよく分からんチャラい中年男といった風情であるし、単なるホラ吹き男じゃねえのかという疑念が胸中に兆す。

「UFOのストーリーだというから買ったのに、なんだクズ人間のドキュメンタリーかよ」と一瞬殺意がわきあがるのだが、気を取り直してさらに観ていくと、庄司氏はやがて執行猶予付きの判決をうけて拘置所から出てくる。地道に警備員の仕事も始めたので、まぁとりあえず真っ当な生き方をする気なのか良かった良かったと思っていたら、やがて再開したUFO呼びロケで大変なことが起きる。つまり彼が、スマホの前にこよりみたいなのチラチラさせたり、或いは針金みたいなのを吊してニセUFO写真を撮っている(としか見えない)光景が撮影クルーのカメラに写ってしまったのだった! 

当然監督は釈明を求めるのだが、彼は「こよりみたい見えるのは、たまたま手にもってた楊枝」「針金みたいなのは宇宙人が送ってくれたマイクロUFO。コッチ方向を撮れば母船撮れるよという合図をしてくれる道具で撮影後に消えた」とかよく分からない説明をするのだった。

その後も決定的な写真・映像などというものは全く写らない。ただ、ラストシーン、主人公たちも参加したUFO呼び会で、夜空を移動していく光体が何度も出現する。「あ、出てくれた」とかいってみんなが喜ぶ声が流れる。アレってひょっとしてUFOなんじゃないのか――そんな余韻を残して映画は終わる。


ということでこの映画、実際のところは「UFO周りの人間のケッタイさ」を通じてUFO現象を描いたものだといえるだろう。そもそもUFOに興味・関心を抱くような人間はどこかヘンなのであるが、とりわけコンタクティという人種はそれに輪をかけておかしい。「宇宙人からこう言われた」「宇宙人とはいつでも連絡できる」等々、常識的には理解不能なことを彼らは口走る。証拠はあるかといえば、ない。あるかと思えば、それは決まってフェイクだ。

にもかかわらず、彼らは「自分はマトモだ」という。当人は自らのストーリーを信じ切っているようにみえる。そして、確かにその主張にミクロレベルながら正当性があるように感じられる瞬間も(人によって、ではあるが)ないではない。あからさまなウソのようでいて、どっか完全に妄想とは断じがたい部分がある。一体なんなんだUFOってヤツは――というのはワレワレUFOファンがしばしば痛感する思いであるわけで、おそらくこの映画もその辺りに突っ込んでいこうとしたのであろう(むろん企画段階からそこまで考えていたわけではなく、出たトコ任せでやってたらそうなったのだろう)。

が、オレなどからするとその意図は必ずしも成功していない。どうしてかというと、この映画のキモは「フェイク野郎!?」と観客から見放された主人公が、いやそれは濡れ衣だよといって反転攻勢をかけることに成功するかどうか、押し戻せるかというところにあるわけだが、そこが弱い。

確かに主人公の庄司氏は、上記のような「マイクロUFO」理論を持ち出して作中で反論をしているが、如何せんこれが説得力を欠く。いや、ここで苦しい釈明をするトコロはコンタクティーの宿命なので或る意味「見せ場」としてあってもいいのだが、だったらその後でバンカイしないといけない。

具体的にいうと、ラストシーンの「UFOらしきもの」が夜空を行き交うシーンで、監督は「UFOってフツーにいるんだ!」方向に観客をグイグイ引っ張っていかねばならないが、オレがみるところ、ここで出てくる光体はいずれも等速直線運動をしており、まぁ天体現象には素人なのでよくわからんが人工衛星か隕石でしょうよという感じが強い。つまり衝撃度弱すぎである。ダメじゃん、全然押し返してないじゃん、という話である。

とまぁ、いろいろケチをつけたのだが、上に記したように「UFO問題に特有の虚実ない交ぜのグレーンゾーン」を描き出そうという意図だけは買える。そんなスゲー面白れーって映画でもないのでこのBlu-rayディスクの値段は高いような気もするが、まぁUFOファンなら知っておいても悪くはない映画だった。

あと、UFO研究家の竹本良氏が「庄司哲郎氏を高く評価する専門家」という立ち位置で再三登場するのだが、上記の「フェイクUFO写真」を真正と断定し、「間違ってたら研究者失格ですよ」的なことをいってたのが面白かった。で、今もUFO研究家の看板は下ろしてないのかな(笑)











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