で、このたびのセクハラヤジ問題である。

都議会で少子化問題について質問に立った「美人都議」に対して、議場で「お前が結婚しろ」とヤジを飛ばした自民党議員がようやく「自首」、いまフクロになっている、というのが現状である。

まぁポリティカルコレクトネスっつー点からいえば、セクハラヤジにはまったく弁護の余地がないのである。話をごく単純化していうなら「産む産まないは女の自由!勝手にさせろや」というのは、いまや一点非の打ち所のない完璧な正義なので、これに対して揶揄するようなことを言うのは野蛮人。それでオワリ。

まぁしかし、こういう状況に感慨を抱いてしまうようなところもあって、つまり「種の保存」(自己の遺伝子の保存、が正しいという説もあるが)なんて本能的なものは捨ててしまい、オレたちは「とにかく個々人の自由な生き方・尊厳を守るのが何より大事」とゆー文明を築き上げてしまったのだなぁ、というハナシだ。

どういうことかというと、もちろん政府が「ウン十年後の経済が回らなくなるので子供産んでネ」などと猫なで声で擦り寄ってくるというのは実に気持ちが悪く、オレが女だったら「死んでも産んでやるかい!」と反撥するだろうが、それはそれとして、基本的に「子供をもつ」というのは、どうしてもいくばくか自分の自由というものを犠牲にしないと立ちいかないところがある。もちろん、保育所を充実させればあんまり自由とか侵害しないで済むから、その線で手を打とうや、というのが今のポリティカルコレクトネスになってんだが、やはり原理的にいえば子供は個人の自由を奪う。「種の保存」なんてしらネーよ、子供なんて無理してまで産まねーよ、というのが今の文明のデフォになっている。

だから「環境さえ整えば、産みたくても産めない人が産んでくれるから子供は増える。だから保育所を整えましょうネ」みたいな、今んとこ「正しい」とされてる議論をオレは疑う。そりゃ短期的にはそういうコトになるかもしらんが、それにしてもいまの合計特殊出生率1.4が2ぐらいまで跳ね上がるなんてことはもう絶対ありえんわけだし、人間はキホン「個人を束縛するものはイヤ」という方向に文明の舵を切ってしまっているので、最終的には「いや、やっぱ子供いらんワ」という方向にズルズルと流れていくしかないのである。

だから、今回のセクハラ都議はマジ少子化問題を憂えてあんなことを言ってしまった、という(まぁほとんどありえない)仮定をしてみても、あんな風に嫌がらせめいたことをいうのは意味のないことであった。ほっとけばいいのである。保育所とか作ってほんの少し効果が出れば「良かった良かった」とかいってそれで満足してればいいのである。そういう道をワレワレは選んだのだから。以て瞑すべし、とゆーやつである。