いまや女性の社会参加はポリティカルコレクトネスの観点からいえば、絶対的な正義である。

元来ひねくれ者であるオレなどは、「社会」なんぞに出ていくと狡猾な資本家にいいように搾取されてボロぞうきんのように酷使されるのがオチであるのにおかわいそうに、みたいな気持ちがないではないが、大多数の女性のみなさんは「いやそんなことはない、社会参加は自己実現の道なので何があろうと我が道をゆくッ」と仰っているようなので、ま、それはそれでいいのだろう。

閑話休題。本日の天声人語は、この「女性の社会参加」をドンドンすすめよう、という話を書いている。先に「ポリティカルコレクトネスの観点」と書いたが、こういう一般大衆に読んで貰う大新聞というのはポリティカルコレクトネスに絶対さからえない。だから、本日の天声人語もいろいろ小細工を弄してはいるんだが、結局落としどころがミエミエである。「新しいモノの見方」とか「斬新な発見」みたいなものがない。だからつまらないのだ。

もうひとつ。ツッコミを予想してか、天声人語を執筆しているオヤジ(たち?)は、よく予防線を張る。今回も最後にこんなことを書いている。

かく言う当欄へも時々、男目線へのお叱りが届く。「子育てに奮戦するお母さんたち」と書いたら、育児は女性と決めるなかれと一喝された。「まず隗より始めよ」で女性筆者を。そんな便りを頂戴したこともある。糧としつつの日々の執筆である。

自分でも書いているように、このオヤジは根本的に「女性が考えていること」がわかっていないのだ。わかってないから、ついポロリと本心を垣間見せて、女性の皆さんに怒られるのだ。批判を糧としつつ、なんて書いてるが、この人ももういいトシであろうから、「雀百まで」というヤツで、いまさらその人間観の根幹まで変えられるわけはなく、ならば「後任には女性を起用していただきたいッ!」といって自ら後進に道を譲れば良いのである。そういうことをしないで、何かこういう一見反省してるかの如きポーズをみせて事の本質をウヤムヤにする。こういう小ずるいところが嫌われるのである――オレに(笑)。