自慢じゃないが、オレはずっと自分のことをサヨクだと思ってきた。

だからして、もちろん天皇制は打倒すべきものである。

皇族がナンボのもんじゃ。白虹日を貫けり、あぁそうイイネ、ってなもんだ。

ではあるんだが、何かジジイになるにつれてその辺が怪しくなってきた。


たとえば今日の朝日新聞夕刊に載っている池澤夏樹のコラム「終わりと始まり」を読んでみる。

こんなことを書いている。


 

 八十歳の今上と七十九歳の皇后が頻繁に、熱心に、日本国中を走り回っておられる。訪れる先の選択にはいかなる原理があるか?


 みな弱者なのだ。


 責任なきままに不幸な人生を強いられた者たち。何もわからないうちに船に乗せられて見知らぬ内地に運ばれる途中の海で溺れて死んだ八百名近い子供たち、日々の糧として魚を食べていて辛い病気になった漁民、津波に襲われて家族と住居を失ったまま支援も薄い被災者。


 今の日本では強者の声ばかりが耳に響く。それにすり寄って利を得ようという連中のふるまいも見苦しい。経済原理だけの視野狭窄に陥った人たちがどんどんことを決めているから、強者はいよいよ強くなり弱者はひたすら惨めになる。


 強者は必ず弱者を生む。いや、ことは相対的であって、弱者がいなければ強者は存在し得ない。水俣ではチッソと国家が強すぎた分だけ漁民は弱すぎた。ぼくも含めて国民はたぶん無自覚なままにチッソの側にいたのだろう。


 今上と皇后は、自分たちは日本国憲法が決める範囲内で、徹底して弱者の傍らに身を置く、と行動を通じて表明しておられる。お二人に実権はない。いかなる行政的な指示も出されない。もちろん病気が治るわけでもない。


 しかしこれほど自覚的で明快な思想の表現者である天皇をこの国の民が戴いたことはなかった。



これは天皇夫妻がここんとこ東奔西走、戦時中に米潜水艦に撃沈された疎開船「対馬丸」の記念館だとか水俣病の患者だとか東日本大震災の被災者だとかを一生懸命訪ねてまわっていることを言っているわけだが、なんかこのくだりを読んでて泣きそうになってしまったぞ。


天皇が何かしたからって、何が変わるわけじゃない。でも彼らは悲しみにうちひしがれてる人たちのところに行く。バカじゃなかろかと言われても行って、悲しみのそばに寄り添う。いわば「祈っている」。なんかもう、正義とか道理とかが信じられないこの世の中にあって、でも愚直に(というとまるで不敬罪だがw)「祈っている」。


そういう生き方はワレワレにはできない。そういうことをできる人がいるとすれば、それは天皇ぐらいしかいねーんじゃねーかと思ったりする。で、そういう人が奇跡のようにして存在しているということが、どこかで慰めになったりする。


というわけで、別に今回は朝日新聞批判ではなく、褒めているのである。ま、オレも焼きが回ったのかナと思わんでもない。が、老いるというのは結局そういうことなのかもしれぬ。ちょっと哀しいけどな。