ここんとこ朝日新聞の天声人語もあまり本腰入れて読んでおらず、問題点を剔抉して差し上げる機会もトンとなくなってしまったのであるが、けさの朝日新聞に「まなあさ まなぶ@朝日新聞」なるパブ記事広告が出ていたので、せっかくだからアリバイ的にまたツッコミを入れておくことにしよう。

これは例によって、「天声人語の書き写しを実践をするととても良いことがアル」ということを自画自賛で宣伝しているページなのだが、つらつら読んでみるに、「こういうのに教育的効果はあるんだろーか」とついつい思ってしまうのである。

たとえばココに、平塚農業高校初声分校(神奈川県三浦市)なる学校の実践報告がある。ここのセンセイは、ご苦労なことに書き写す生徒の姿をビデオに映し、「読む」→「ノートに向かう」という一つのサイクルで生徒さんは平均何文字を記憶するのか、とゆーデータを取ったんだそうだ。で、センセイ、1年実践を続けたら一度で記憶できる文字数は1.7倍に増えた、とかいって喜んでおる。

で、これが「勉強しやすくなる基盤となるのは間違いない」と断定しているんだが、はて、そういうものか。

筆写をするのに慣れて、効率が上がる。これは単にそういう事実が示されたのに過ぎないのではないだろーか。別に「論理的思考が鍛えられた」とかそーゆー話ではサラサラなく、オレには「事務作業を効率的に行う能力が磨かれただけ」のように見える。

いや、もちろん、かつてミシェル・フーコーが言っていたように、学校だとか監獄だとかいうのは、自分を律する規範を内面化して黙々と動く自動機械のような人間を養成する場である、という見方にたつのであれば、こーゆー単純作業特化マシーンみたいな人間を育てるのに「天声人語の筆写」っつーのは有効かもしらん。

だが、時代はそういう「近代」から脱しつつあるので、単に単純作業特化マシーンみたいな人間では、これからのポストモダンの時代はなかなか生き抜いていけないのではないかと思うのだが、どうか。

いや、少なくとも、かつて深代惇郎が書いていた当時の天声人語であれば、そんな単純作業の中にも日本語のリズムだとか息づかいだとかが身体的に刻み込まれて、何か日本人としての心棒みたいなものが形成されることもあり得たかもしらん。だが、悲しいかな、今の天声人語の筆者にはそんな能力はない。

であるならば、天声人語みたいなものを筆写するんじゃなくて、「般若心経」でも「論語」でも「老子」でもいいから古典を書けばいーんじゃねーか、というのがいつもながらのオレの結論である。いくら商売で儲けたいからって、こういうインチキなPRを打ってはいけない。って何度言わせんだよ朝日新聞さんよ(笑)。